次期無貌の王を決める決闘は、格闘術でシャルルを下すというロクスレイを知る人間からすれば目を疑う結果で幕を下ろした。現に決着がついてなお硬直している者もちらほら見られる。
柄にもない手を使った自覚はあるが、そこまで驚くものかとロクスレイはやや不満そうな顔である。
「どうしたんだいロクスレイ。勝者の君がそんな不服そうな顔をするものじゃないだろう?」
「いや、別に不服があるってわけじゃねぇですけど。ここまで驚くもんかね?」
「私は驚かされたよ。まあ良い意味でだけどね。前回みたいに遠距離から手出しもできずに封殺されるよりは納得のいく決闘だった」
決闘の相手たるシャルルはやけに清々しい顔色でそう言う。結果は負けであるものの、決闘の内容に関して言えば満足のいくものだった。故にこの結果に不満はない。
「それよりロクスレイ、いいのかい? 勝利を捧げるべきお嬢さんがお待ちかねだよ」
貴公子にしか見えない気障な笑みを浮かべてシャルルは目線でルミアの許へ行けと促す。言われずとも分かっているとロクスレイは頷き、胸の前で固く手を握り合わせているお姫様の許へと向かった。
「お待たせしました、お嬢さん。ちゃーんと戻ってきましたぜ?」
ここ最近見せていた自嘲げな笑みではない、皮肉っぽいけれど優しさが滲む笑みを携えてロクスレイはルミアの許へ堂々と帰ってきた。宣言通り彼女の隣に立つための権利を手にして。
自分の我儘を通すために戦ってくれた少年の帰還に、ルミアは感極まって目尻に薄らと涙を滲ませた。
「ありがとう、ロクスレイ君。本当に……」
「ったく、何も泣くこたぁないでしょうが……」
呆れたように呟きながらロクスレイは、目尻を拭う少女の頭を優しく撫でる。常ならば周囲の目に気を配るのだろうが、決闘に勝利したこともあって気が抜けていた。この場にはロクスレイとルミア以外にも大勢の人がいることをすっかり忘れていたのだ。
「ちょっと、甘ったるい空気を醸し出すなら他所でやってくれなくて?」
心底うんざりした様子で文句を言ったのはエリザだ。ロクスレイとルミアが醸し出すピンク色な空気に顔を顰めている。
「んなっ!? 別にオレはそんなつもりは……」
否定しようと声を荒げかけて、一族の面々から向けられる生温かい視線に気づいて口の端をヒクつかせる。揃いも揃って孫か息子の成長を見守るような眼差しで、もはやロクスレイに反論の言葉は見当たらなかった。
穴があったら潜りたいほどの羞恥にロクスレイが悶えていると、儀式の進行役たるジェロームが咳払いをした。悶死しそうなロクスレイと幸せ一杯と言わんばかりのルミアを見やり、微かに微笑む。
「さて、次代の
「あぁ、頼みますわ……」
いつまでもこの空気に晒されていては堪らないと、ロクスレイはジェロームの勧めに便乗した。
継承の儀が始まるとなった途端に和やかな空気が一変、儀式場に決闘の時よりも厳かな空気が戻る。一族の人間は言葉を発することもなく所定の位置に立ち、ルミアもシャルルに促されて儀式場の近くに並んだ。
そして継承の儀式の主役たるロクスレイは、祭壇の中央に据えられた石碑の前に跪く。
「それでは、これより継承の儀式を執り行う」
ジェロームの厳粛な言葉を発端に、継承の儀式が始まった。
無貌の王を継承するにあたって必要な事柄は大別して三つだ。一つに無貌の王に相応しい実力を有すること、二つに一族の総意を得ること、そして最後の一つは──
「《我は森の狩人・森の精に祝福されし民なり・──》」
石碑に刻まれし文言をロクスレイが読み上げ始める。すると呼応するように祭壇を魔力光が走り始め、ロクスレイを中心に複雑な魔法陣を描き始めた。
無貌の王になるに当たって必要な最後の手順。それは初代ロビンフッドが遺した石碑の前で
「《──・されど我が手は悪を為す・汚泥を纏いて
粛々と呪文の詠唱が続くにつれて魔法陣の光はより鮮烈に輝く。いっそ神聖さすら伴う光景に、しかしルミアは胸を締め付けられるような痛みを抱いていた。
どうして、こんなにも間違えてしまったのか。いったい何処で道を違えてしまったのか──
「《──・無貌の王は独り・暗き森にて牙を研ぐ・──》」
物悲しげな誓いが、主人を喪い孤独となった
「《──・故に我が身に酬いはなく・全ては幻と消えるだろう》」
自身の内側へと何かが流れ込むような感覚にロクスレイは微かに顔を顰める。二度目とはいえ慣れるような感覚ではない。自分の中に別人が入り込むようなこの感覚がロクスレイはあまり得意ではなかった。
だがルミアや一族が見守っている手前、無様な姿は見せられないと歪みかけた口元を引き結ぶ。固く瞼を閉じ儀式が終わるのを待つ。
やがて魔法陣が輝きを失い、渦巻いていた風がピタリと止む。儀式が終わりを迎え、耳が痛いほどの静寂が儀式場を支配した。
二度目故に戸惑いはない。ロクスレイは立ち上がると能力を確認するため、
「《森の精よ・我に祝福を・与え給え》」
果たして固有魔術【ノーフェイス・メイキング】は問題なく発動し、魔導器としての力を取り戻した外套を媒体にロクスレイの姿がその場から忽然と消え去る。ロクスレイが資格を得たと同時に外套もまた魔導器としての能力を獲得したことが証明された。
「上手くいったな……」
透明化を解除してロクスレイはほっと安堵に息を吐く。死亡したことにより資格を失い、蘇ってから今一度無貌の王を継承するという過去に例のない試み。何事もなく成功してよかったと、ロクスレイと一族の人間達は心から安堵した。
だがまだ終わりではない。本命は此処からだ。
「ルミア君、準備はいいかね?」
「はい」
ジェロームに名指しされてルミアは頷き、やや強張った表情で祭壇に上がる。ここから先は一族の人間ですら初めての領域。悲願成就が懸かっているとあって継承の儀式より心なしか皆の表情が固い。
ロクスレイとルミアは祭壇の中央、石碑の前で向かい合う。
「ロクスレイ君……」
「ああ、分かってる。そんでジェロームのおっさん。オレとお嬢さんは主従関係を結ぶだけでいいんですかい?」
「うむ。王の資格を持つ者と主従関係を結んだ時、皐月の王への道は拓かれる。文献にはそう記されていた」
「文献ねぇ……まあどの道、主従契約は結ぶつもりだったんで構いませんが」
こと皐月の王関連については懐疑的なロクスレイは、今ひとつ納得いかない表情で契約の儀に取り掛かる。
「む、ところでロクスレイ。彼女は契約の呪文を知っているのかね?」
契約の儀は心の底から信頼し合う者同士が、一族に古くから伝わる
ジェロームの問いに答えたのは花も恥じらう笑顔を浮かべたルミアだ。
「はい、知ってます。ずっと前に、顔無しさんがお呪いだって教えてくれましたから」
「ほう、それはそれは……どうやら私たちが急かすまでもなく、
途端にジェローム含め一族の者たちから向けられる視線が生温かくなる。己の黒歴史をバラされるのにも等しい展開に、ロクスレイはその場でのたうちまわりたい気持ちだった。
「あああ!? もういいですから、さっさと始めちまいしょう!」
いよいよ耐えられなくなったロクスレイが準備を整える。準備といっても主人と定めた相手の前に跪くだけ。後はルミアの唱える呪文に応じて呪文を返すだけだ。
ルミアもロクスレイを揶揄いたいわけでもなかったので、ロクスレイに倣って契約の儀に向けて意識を切り替える。傅くロクスレイを見下ろし、あの時から片時足りとも忘れたことのないお呪いの詠唱を始めた。
▼
「“──告げる”」
ルミアの口から契約の呪文の一節が紡がれる。呼応してルミアとロクスレイを中心に契約の魔法陣が浮かび上がった。
魔法陣に取り込まれても構わずルミアは詠唱を続ける。
「“汝の身は我の下に、我が命運は汝の剣に──”」
詠唱が進むにつれて魔法陣の輝きは増す。無貌の王に纏わる儀式だからか、先の継承の儀式と流れは酷似していた。しかし、浮かび上がる魔法陣の内容はまるで違う。
そもそも、契約の儀とは何なのか?
だが疑問が浮かぶ。何故、
契約の儀を経て主従関係を結ぶと
しかし、別に主人が居なくとも無貌の王としての活動、無辜の民を害する外道を狩ることはできる。むしろ主人の存在は無貌の王として活動するにあたって足枷になることもあるはずだ。
ならば何故、ロビンフッドは
「“天の器のよるべに従い、この意、この理に従うのなら──”」
一族の掟だから? 文献に記されていたから? 今までがそうだったから?
──否。その真の目的は別にある。一族の人間が半ば目的と手段を取り違えてしまっているように、契約の儀には隠された真意があった。
だが隠された思惑に気づく者はいない。一族の人間も、ルミアも、ロクスレイでさえも気づくことはなく、契約の儀は粛々と進む。
「“──我に従え。ならばこの命運、汝が剣に預けよう……!”」
ルミアの
「“ロビンフッドの名に懸け誓いを受ける。貴女を我が主として認めよう、◾️◾️◾️◾️──っ!?”」
──真に仕えるべき主人に辿り着き、ロビンフッドは遂に完成に至った。
え、とルミアが驚愕の声を洩らす。口にしたロクスレイも、己の口が紡いだ聞き取ることすら不可能な言語に目を見開く。何かが、おかしい──
異常を自覚した途端、畳み掛けるようにルミアの体から黄金の煌めきが溢れ出す。ルミアの意思に反して異能力が励起しているのだ。
「どうして……!?」
異変はまだ続く。ロクスレイとルミアを中心に浮かび上がっていた魔法陣がひとりでに形を崩し、全く別物の魔法陣を構成する。新たに構築された魔法陣に用いられている魔術式やルーン語は、現代の魔術言語ルーンでは決して解析できない代物だ。
魔法陣がルミアの異能力の後押しを受けて起動しようとする。儀式の核に利用されているルミアは、目の前に跪くロクスレイの変調に気づいて小さな悲鳴を上げた。
「ロクスレイ君、どうしたの!?」
どういうわけか、ロクスレイは全身に汗を浮かべて蒼白な顔をしていた。呼吸は苦しげで、瞳は焦点が合っているかも怪しい。誰が見ても尋常ならざる状態だと分かる。
ロクスレイは必死に耐えていた。謎の言語が己の口から飛び出すや否や、内側から魂を侵食するような悍ましい感覚に襲われ、消し飛びそうな意識を歯を食い縛って保っている。
ルミアの声に返事をする余裕すらない。自我を保つのでロクスレイは精一杯だ。ルミアも、魔法陣の力かロクスレイに駆け寄ることもできず、その場に立ち尽くすことしかできなかった。
ロクスレイもルミアも何も出来ぬまま、完成に至った魔法陣が起動する。次瞬、溢れ出した眩い光に周囲一帯が塗り潰された。
▼
気付けば、ロクスレイは記憶にない光景の中に、一人立っていた。
広大な森の中だ。一族が住まう森とは違う、優しい陽だまりが散見される温かな森林。血腥い俗世とは隔絶した世界──
陽だまりに満ちた世界に、ロクスレイ以外の登場人物が現れる。梢の隙間から降り注ぐ木漏れ日の中に二人。少女と深緑の衣を纏った男だ。
その少女の姿を見た瞬間、ロクスレイは驚愕に呻いた。
──ルミアだった。
いや、違う。顔立ちこそルミアに酷似しているが、違う。
少女には蝶の羽にも似た、それでいて見るものの精神を蝕む悍ましい異形の翼が生えていた。瞳に光はなく、背筋が凍るほどの虚無だけが湛えられている。
ルミアではない。しかし他人の空似にしては限度がある。少女はいったい何者なのか──?
混乱するロクスレイを余所に少女と男が言葉を交わす。
『……また、会えるよね?』
ほんの僅かに首を傾げて少女が問う。騎士の如く少女に傅く男が静かに答えた。
『俺は貴女の騎士だ。幾星霜の時の果て、貴女が目覚める時、必ずや貴女の騎士として馳せ参じよう』
忠節を誓う騎士の如く──否、正しく騎士として、男は少女に忠誠を捧げる。少女と別れ、気が遠くなるほどの歳月が過ぎたとしても、この肉体が朽ちたとしても、必ず側に。絶対の誓いを立てた。
少女が陽だまりのような笑みを向ける。そういうところはルミアそっくりで、どうしようもなく目の前の少女と自分が守りたいと願ったルミアと重なってしまう。
『ありがとう、私だけの騎士──
それは遠い記憶。長い旅路の果てに別離の運命へと至った主従のやり取り。何時迄も色褪せることのない、再会を誓った騎士と再会を願った少女の最後の情景だ。
不意に世界が移ろう。温かく優しい陽だまりの世界から一変、目の前に広がったのは陰鬱とした暗き森。先の木漏れ日に溢れる森とは真逆の世界だった。
一歩踏み込めば二度とは出られない。獲物を狩るためだけの暗き森。陽射しも届かない森の奥深くから、先の男が風景から滲み出るように姿を現わす。その深緑の衣は至る所が赤黒い血に染まり、素顔はフードで覆い隠されていた。
男が徐に歩み寄ってくる。言い知れぬ悪寒を覚えてロクスレイは距離を離そうとしたが、どういうわけか身体の自由が利かない。声を上げるどころか指先一つ動かすことすらできなかった。
男との距離が縮まる。緑衣から、これまた血塗れの手がロクスレイへと伸びる。
不味い。具体的に何が不味いか、問題なのかはさっぱり分からない。ただこのまま抵抗せずに男の手を受け入れてしまえば最後、自分が自分でなくなる。そんな恐ろしい予感を抱いた。
「……ッ!?」
──何でもいい、動け。頼むから動いてくれッ!
心の中で只管に祈り、念じ、伸ばされる手を弾こうとする。だがどれほどに想い願っても身体は動かない。無抵抗のまま、血塗れの手が頭を鷲掴まんとした、その時だった。
不意に脳裏を過る金髪の少女。守ると誓った少女の声が聞こえたような気がした。
石像のように硬直していたロクスレイの腕が閃く。間一髪で男の手を払い除け、ロクスレイは大袈裟なほどに飛び退って男と距離を取る。
全力疾走を終えた後のような倦怠感に顔を顰めながら、全神経を尖らせて男を警戒する。既にこの場が現実の空間ではないことは理解していた。故に目の前の男は尋常の外に居る存在。一般的な常識は通用しないだろう。
男は跳ね除けられた手を見下ろして呟く。
『血族ではないがために起きた弊害か。眷族が途絶えた時のためにと術式に余裕を組み込んだ俺の落ち度だな。まあいい、時間は掛かるが何れ──』
手を下ろした男の不穏な呟きにロクスレイは筆舌に尽くし難い恐怖を感じた。この男は微塵も諦めていない。ロクスレイが隙を見せればこれ幸いにまた手を伸ばしてくるだろう。
「何もんだ、オタク……!」
叩き付けるような誰何に男は血塗れの緑衣を揺らした。
『遠くないうちに知ることになるだろう。その時まで、お前が自我を保っていたらだがな』
冷徹に言い放つと男は興味を失ったように背を向け、暗き森へと引き返していく。ロクスレイが止める間も無く、男の姿が風景と同化して消えてしまう。
完全に消失する寸前、男が土産とばかりにロクスレイに言葉を残した。
『一つだけ、お前に言葉を送ろう。よくぞ
上から目線でそう言い残し、男──初代ロビンフッドは暗き森へと還っていった。