あ、ちなみに94までは上限解放しました。100までの道が長い……。
大剣の一振りによって無残な有様を晒す部屋で二つの人影が対峙していた。
深緑の外套に身を包む
方や壊れかけた人形のように無機物的な無表情を貫くリィエル。とある人物に教唆され、追いかけてきたグレンを手にかけ、ルミアを
互いに睨み合い、一触即発の空気を醸し出す二人。今にも戦闘が始まりそうな緊張の中、顔無しは怯えるルミアを背に庇いながら問いを投げかける。
「おい、脳筋戦車。オタク、自分が何やってるか分かってんの? 護衛の任務はどうした? その血は誰のもんだ?」
「……邪魔。そこを退いて、顔無し。ルミアを連れて行く」
顔無しの問いなど一切取り合わず、リィエルの硝子のような瞳は真っ直ぐにルミアを見据える。彼女を連れ去ること以外にかまけている暇はないと言わんばかりの態度だ。
ならば、とルミアが精一杯気丈な態度を繕って問いかける。
「ねえ、リィエル……グレン先生は、どうしたの……?」
「……わたしが、殺した」
「う、そ……嘘、だよね……リィエル?」
「…………」
リィエルは何も答えない。ただ、大量の血に塗れたその格好が全てを物語っている。グレンは間違いなく、リィエルの手で殺されるないし相当な深手を負わされたのだ。
今にも泣き出しそうな顔でルミアはリィエルを見つめる。ちっ、と顔無しがフードの下で小さく舌打ちした。
「グレン命だったオタクが一体どういう風の吹き回しだ。なにか? あいつよりイイ男でも現れたワケ?」
「……今まではグレンのために生きてきた。でも、今は違う。兄さんが生きていたから、わたしは兄さんのために生きる。兄さんのために戦う」
「お兄さん?」
リィエルの語る兄という人物にルミアが反応する。確か自己紹介の時、リィエルの兄は既に亡くなっているという話だった。その兄が生きていて、リィエルに自分の誘拐を頼んだというのか。
もしもリィエルの言葉が全て正しいのであれば、ルミアの身柄を狙う兄とやらはまず間違いなく天の智慧研究会の魔術師となる。それはつまり、顔無しにとって狩るべき敵であるということだ。
「はっ、兄貴が生きていたねぇ? で、その兄貴を名乗る輩に唆されてグレンを手に掛け、挙句にお嬢さんを攫うってか。昨日まで仲良くやってた連中をこうもあっさり裏切るとか、見上げた根性してんなぁ、オタク」
容赦ない顔無しの言葉にリィエルの手が微かに震えた。
「顔無しさん! なにもそこまで……」
「そこまでのことしてんだよ、こいつは」
フードに隠された双眸が目の前の少女を睨み据える。
「何もかも台無しにして、裏切ったんだ。お嬢さん達の好意も全部捨ててな」
「それは……」
否定しようにも反論の言葉が出ない。顔無しの発言は全て正鵠を射ているからだ。
「もういい。これ以上、話すだけ無駄。邪魔するなら斬る」
いつも以上の無表情で大剣を構えるリィエル。応じて顔無しも臨戦態勢を取る。
もはや素人であるルミアには止められない。今のリィエルにはどれだけ言葉を重ねても届かないし、顔無しも狙いがルミアである以上、一切引く気はないだろう。
痛いほどの沈黙が続いた。二人の戦意が最高潮まで高まった瞬間、戦いの火蓋は切られようとして──
ガチャッ、と音を立てて部屋の扉の鍵が解錠され、呑気な声と共に何も知らないシスティーナが入ってくる。ただでさえ背後に護衛対象を庇っている状況での足手纏いの追加。戦闘が始まったというのに顔無しは一瞬、そちらに気を奪われてしまった。
その僅かな隙は致命的だった。
猛烈な唸りを上げて大剣が横薙ぎに振るわれる。一瞬でも気を逸らしてしまった顔無しにその一撃を躱す余裕はなく、両の短剣で防御する他ない。だが、ただでさえ馬鹿力な上に魔術によって強化された膂力の斬撃。まともに受け止めて立っていられるはずもない。
その場に踏み止まること能わず、床と平行に吹き飛ぶ顔無し。破壊された窓から出て、バルコニーの手摺に激突したところでやっと勢いは止まる。
「ぐぁ……!?」
「えっ? な、なに? なにが起きてるのよ!?」
軽食の詰まった袋を抱えて部屋に戻ってきたシスティーナが見たのは、室内にも構わず大剣を振り回したリィエルと物凄い勢いで吹っ飛んだ外套の男だった。
「顔無しさん!?」
血相を変えて顔無しへ駆け寄ろうとするルミア。その行く手を阻むように大剣が振り下ろされる。
「大人しく従って。でないと、顔無しも殺す」
「リィエル……こんなこと、止めようよ……?」
届かないと分かっていても説得の言葉をかける。しかしリィエルが耳を傾けることはなく、大剣の切っ先が徐に倒れる顔無しに向く。既にグレンを手に掛けている以上、やると言ったらリィエルは本当にやりかねない。
「待って、お願いだから待って……分かった、ついて行くよ。だからもうこれ以上、誰も傷つけないで」
顔無しとシスティーナを守るため、もうこれ以上、リィエルに誰かを傷つけさせないため。ルミアはどうしようもなく震えそうになる身体を叱咤し、自ら進んで身柄を差し出した。
抵抗の意思を捨てたルミアにリィエルが無言で歩み寄る。彼女さえ兄の元へ連れ去れたなら他はどうでもよかった。
だが、ルミアが連れ去られるのを良しとしない人物が此処にはいた。
「ま、待ちな……さい。る……ルミアから、離れ……なさい……」
顔面蒼白になりながらもシスティーナが左の掌をリィエルに向け、震えを通り越して掠れた声音で制止する。
突然の異常事態、日常が崩壊して非日常の世界に巻き込まれて何一つとして状況を理解していない。それでも、このまま親友であるルミアを目の前で攫われることだけは看過できないと、なけなしの勇気を振り絞って立ち向かう。
「ダメ、システィ! 私はいいから逃げて!」
「いやよ! か、家族を見捨てるなんて、絶対にしないわ!」
悲痛なルミアの叫びにも取り合わず、システィーナは無謀な勝負に挑む。ここ最近、グレンと早朝の訓練をしていようと敵うはずがない。一、二回修羅場を経験したぐらいで本当の殺し合いでまともに立ち回れるはずがないなんてことはとうの昔に理解している。
リィエルの手で鈍く光る大剣の切っ先が向けられるだけで自分は足が竦んで何もできなくなってしまう。そんなことは分かってる。今でも怖くて怖くて、あれこれと理由をつけて幼子のように頭を抱えて震えていたかった。
でも、できない。自分の前にはルミアがいるから。恐怖を感じても気丈に振る舞い、大切な人のためには命すら張れる強い娘がいるから、もう二度と何もできないまま家族を奪われたくなかったから。
だから、システィーナは踏み切る。大切なものを失いたくないという強い想いに衝き動かされ、自分でも気づかぬうちに陽だまりの世界に致命的な一撃を叩き込んでしまう。
システィーナが震える唇で呪文を唱える。恐怖に竦みながら行使されようとする魔術は非殺傷の魔術。そんなもので異様にタフなリィエルを倒すことなどできるはずはないし、リィエルならば呪文が完成する前に術者を潰すことなど容易いだろう。
しかしリィエルは動かない。律儀にシスティーナの呪文が完成するのを待っている。刑を受け入れる受刑者のように静かに目を閉じ、魔術の脅威に身を晒す。まるで最初から止めるつもりなどなかったかのように──
それに気付けたのは剣を突き付けられて側にいたルミアだけ。彼女だけがリィエルの心境を察せた。
「待って! システィ、止めて──!!」
制止の声も遅い。既に魔術は完成され、今日まで築き上げたもの全てを破壊する一撃が魔法陣から解き放たれようとして──
ヒュン! とバルコニーから複数の物体が飛来した。
幾つかは床に散らばっていた扉の残骸であり、魔術を完成させたシスティーナの額を直撃する。意識外からの衝撃にシスティーナは呻き声を上げ、額を押さえて蹲った。放たれようとした魔術は霧散して消えていく。
そして残りの幾つか。それは鈍く光る投擲ナイフであり、容赦なくリィエルを襲う。
システィーナの魔術を受け入れようとしていたリィエルは、即座に意識を切り替えて大剣を一閃。所詮は投擲用の小さなナイフ、直接弾かれなくとも剣圧だけで木の葉の如く吹き飛ぶだろう。だがこのナイフには一つの仕掛けが施されていた。
空中でナイフの軌道が不自然に曲がる。大剣の刃を避け、剣圧に煽られて勢いを削がれながらも対象の元に辿り着く。そして大剣を振るうリィエルの細腕に蛇の如く巻き付いた。
「──ッ!? これは、
投擲されたナイフには細い鋼糸が付けられていた。それを操って軌道を曲げ、見事リィエルの片腕を絡みとったのだ。
バルコニーの手摺に凭れ掛かりながら立ち上がっていた顔無しが、フードの下で不敵に笑む。手にはリィエルの腕に絡み付く鋼糸の片端が握られている。
「ここにきてクソ度胸発揮するのは賞賛しますがね、フィーベル嬢。その勇気はもっと大切な場面にとっておきな」
穏やかな口調で顔無しが諭す。当の本人は額の痛みに涙目で蹲っているためまるで聞こえてなさそうであるが。
「それとお嬢さん。オタクがオレを庇ってどうすんのよ。本末転倒してるでしょ。そこは構わずスパッと見捨てて逃げるとこだぜ?」
守られる側が護衛役を庇ってしまっては意味がない。むしろルミアは顔無しのことなど放置して誰よりも先に逃げるべきであった。まあそれこそ彼女の性格からしてあり得ない行為であるが。
物凄く何か言いたげなルミアから視線を切り、顔無しはこの場にいる最後の一人に目を向ける。
「そんでもって、待たせたな脳筋戦車」
「くっ……離してッ!」
剣を握る腕に絡み付く鋼糸を剥がそうと足掻くリィエル。そうはさせまいと顔無しは鋼糸を引っ張って妨害する。
「悪いが、オタクには物申したいことが山ほどあるんでな。取り敢えず、奈落の底まで付き合ってもらうぜ──ッ!!」
顔無しが一切の躊躇なくバルコニーの手摺を飛び越え、夜闇の中へと身を踊らせる。鋼糸で繋がっていたリィエルは僅かに踏ん張るものの、落下する人一人分の体重は支え切れず、後を追うようにバルコニーから身を投げ出された。
後に残されたのは止める間もなかったルミアと、物の見事に出鼻を挫かれ蹲るシスティーナの二人だけだった。
あっという間の展開にルミアはしばし呆然としていたが、ハッと我に返ると焦燥の表情で立ち上がる。向かう先は顔無しとリィエルが消えた下の森だ。
どんな事情があれ、顔無しもリィエルもルミアにとっては大切な人だ。そんな二人が殺し合い、果てには命を落とすなんてことは認められない。必ず止めなければならない。
だが部屋を飛び出そうとしたルミアは親友たるシスティーナの手で止められた。
「何処に行くのよ、ルミア?」
脇目も振らずに駆け出したルミアの袖を掴み、不安げに見上げる。何処にも行かないで、とその瞳が如実に語っていた。
「二人を止めないと。このまま殺し合うなんて、間違ってるから」
「む、無理よ。私達にあの二人を止めるなんて……無理に決まってる」
先の立ち向かって見せた勇気はどこへいったのか。一度冷静になったことで改めて殺し合いの恐ろしさを実感してしまったのだろう。今のシスティーナに、今一度立ち上がって戦う気力はなかった。
「そ、それに心配しなくたって大丈夫よ。きっとグレン先生が駆け付けて全部丸く収めてくれるんだから。私達が無茶しなくたって、いいの。だから、ここで一緒に待ちましょ?」
「システィ……」
それはグレンの安否を知らないからこそ言えた希望的観測。けれどグレンが助けに来れないだろうことを知っていたルミアは、暗い面持ちで俯向く。その反応に言い知れぬ不安を駆り立てられてシスティーナは訊いた。
「ねえ、どうしてそんな顔するのよ? グレン先生がどうかしたの? ねえ……?」
今までの怯えとは違う、また別種の恐怖に取り憑かれてシスティーナがルミアの肩を揺する。システィーナとて馬鹿ではない。脳裏には尋常ではない量の血を浴びたリィエルの姿がリフレインしていて、最悪の想像が浮かんでいた。
「……グレン先生は、多分来れない」
曖昧な表現。ルミア自身、グレンの生存を心の底では願っているからこそ明言を避けた。しかしシスティーナにはそれだけで十分伝わったようで、
「う、嘘よ……そんな、先生がなんて……悪い冗談だわ……」
ふらふらと後ずさりして、そのまま力なく膝から崩れ落ちる。眦からは止め処なく涙が零れ落ち、頬を伝って床を濡らす。
唯一の望みを絶たれたシスティーナにもはや立ち上がる気力はない。心が完全に屈してしまった。もう先のような振る舞いはできないだろう。
そんな姉妹同然の親友をルミアは決して責めない。むしろ自分を守るために立ち向かってくれたシスティーナに惜しみない感謝を抱いている。怖くて震えていても彼女はルミアのために戦おうとしてくれたのだ。それが堪らなく嬉しかった。
「ありがとう、システィ。すっごく嬉しかった。すぐ戻ってくるから、待っててね」
「あ……」
力なく座り込むシスティーナを優しく抱き締めてから、ルミアは部屋を駆け足に出て行く。システィーナに背中を止めることはできず、ただただ弱々しく虚空に手を伸ばすだけだった。