アルザーノ帝国は北セルフォード大陸北西端に位置する帝政国家である。冬は湿潤し夏は乾燥する海洋性気候の比較的温暖な地域だ。
その帝国にはフェジテと呼ばれる大陸有数の学究都市がある。多額の国費を注ぎ込んで設立されたアルザーノ帝国魔術学院があり、魔術を究めんとする数多の学徒たちが勉学に励んでいた。
彼らは魔術を研鑽することを、魔術師であることに誇りを持っている。必然的に意識が高い彼らの授業や勉学に向ける姿勢は真剣そのもの。遅刻は勿論、無断欠席などありえないというのが彼らの常識だ。
だからこそその日、システィーナ=フィーベルはいつまで経っても教室に現れない講師に怒りを募らせていた。
「遅い! もうとっくに授業開始時刻過ぎてるのに、いつまで経っても来ないじゃない!」
最前列の席を陣取るシスティーナ。聖銀を溶かし込んだかのように美しい銀髪を背に流し、猫のように気難しげな翠玉の瞳が特徴的である。年の頃は十五、六あたりで肌は降り積もった新雪の如く白く、貴族特有の気高さと気品を併せ持っている少女だ。
システィーナは典型的な魔術学院の生徒だ。魔術を崇高で偉大なものと信じて疑わず、魔術にかける熱意は人一倍大きい。その情熱のあまり講師陣から『講師泣かせのシスティーナ』などと呼ばれているが。
そんな彼女にとって、教え導く側の人間が初日から遅刻するなどという所業は到底看過できなかった。
苛立ちも露わに肩を震わすシスティーナを、隣に座る少女がやんわりと宥める。
「落ち着こうよ、システィ。もしかしたら何か問題が起きたのかもしれないし……」
システィーナの一つ隣の席に座る少女──ルミア=ティンジェル。
ふんわりと柔らかな金髪のミディアムヘアと円らな碧玉の瞳。年はシスティーナと同じくらいであり、清楚で穏和な気風を漂わせている。それでいて一本芯が通った力強さを感じさせる少女だ。
ルミアはとある事情で三年前からシスティーナの家に身を寄せている。そのため二人の仲は気の置けない親友であり、家族も同然の間柄だった。
現在進行形で遅刻をしている非常勤講師を擁護するルミアに、くわっとシスティーナは向き直る。
「甘い、甘いわよ! たとえどんな問題が起きても対応し、きちんと授業を行うのが当然でしょ。真に優秀な人物なら不測の事態にも対応できるようにしてるはずだもの」
「そうなのかな……」
システィーナの求める恐ろしく高いハードルにルミアは首を傾げる。確かにそんな完璧超人がいたのなら凄いとは思うが、現実にそんな人間はいない。それくらいはシスティーナだって分かっているはずだ。
それなのに彼女がここまで無茶苦茶なレベルを求めるのは、前講師であるヒューイという男の講義がお気に入りであったことと、これから来るであろう非常勤講師が彼の有名な魔術師セリカ=アルフォネアが太鼓判を押すほどの男だからだ。
加えて早朝に起きたちょっとしたトラブルで気が立っているのもある。
ぷりぷりと怒るシスティーナと微苦笑を浮かべるルミア。そんな少女二人の背後からぬっと黒い影が出現する。
「朝っぱらから随分とご機嫌斜めですね、フィーベル嬢」
「うわっ! 出た!?」
「あ、おはようロクスレイ君」
「おはようティンジェル嬢。今日も今日とて可憐なことで結構結構。フィーベル嬢はオレを幽霊か何かと勘違いしてません? 誇り高きフィーベル家のご令嬢ならもう少し淑女らしく振舞った方がいいんじゃないですかね?」
さらっと気障な台詞を並べ、システィーナに軽く毒を吐いたのはロクスレイ=シャーウッド。三ヶ月ほど前に編入してきた男子生徒だ。
色素の薄い茶髪と常に浮かべている皮肉げな笑みが特徴的で、編入して数日で気付いたら人の輪の傍らに立っているといった位置づけを獲得した少年。本人がハンサムを自称するだけあって顔立ちは整っており、フェジテの町で何人かの娘を口説いては遊んでいるとの噂もある。時折纏う大人びた雰囲気もあってかあまり学生らしくないと評判の少年だ。
唐突に現れたロクスレイに対してシスティーナはムッと凛々しい顔を顰めた。
「幽霊よりも神出鬼没なヤツに言われたくないわ。貴方こそ、年頃の乙女の背後に忍び寄って驚かせるなんて悪趣味止めなさいよ。そのうちセクハラで詰め所に突き出されても知らないから」
「その心配はないさ。驚かせるのはフィーベル嬢だけだからな」
「何がどう心配ないのかさっぱり分からないんだけど!?」
仔猫のようにきゃんきゃん喚き散らすシスティーナ。ロクスレイがシスティーナを揶揄うのはいつものことであるため、ルミアも強く止めない。ロクスレイがきちんと引き際を弁えてるのもあるだろう。
既に日常と化しつつある漫才染みたやり取りを交わしていると、教室のドアがからりと開く。全身で気怠さを体現した若い男がやる気なさげに教室に入ってきた。
全身ずぶ濡れで皺だらけのシャツ。黒髪黒瞳で長身痩躯であり、目鼻立ちは整っているがそれを台無しにして余りある怠惰な目付き。一目見ただけで真面目とは縁遠いと思わせる空気を纏っている。正直、左手の手袋と抱える教本がなければこの男が講師であるとは誰も分からないだろう。
「あ! 来たわね非常勤講師。初日の授業から遅れるなんて、いったいどういう……神経して……」
勢い勇んで腰を浮かしたシスティーナは、しかし見覚えのある男の顔に言葉を失う。当事者の一人であるルミアも目を真ん丸に開き、口元を手で押さえていた。
「あ、あ、貴方は──!?」
「違います、知りません人違いです」
「そんなわけあるかぁ!?」
他人を装う男にシスティーナが喚き立てる。白々しい男の態度とシスティーナの反応からして彼らは顔見知りなのだろう。ただしあまり良い意味合いではなさそうであるが。
「なんだ、あの男と知り合いだったのか?」
いつの間にか後ろの席に座っていたロクスレイが、激しく突っかかるシスティーナを横目に見ながらルミアに尋ねる。
「うーん、知り合いというか知り合ったというか。実はね──」
今朝方起きたトラブルについてルミアは端的に説明した。
件の男とは早朝に文字通り衝突しかけ、勢い余ってシスティーナが魔法でぶっ飛ばしたことから始まり、最終的にセクハラ一歩手前の所業に再びシスティーナの魔法が炸裂して終わる展開であった。
掻い摘んで事の次第を聞き終えたロクスレイは何故か顔を背けると、カタカタと肩を震わせる。
「あいつ、久方ぶりに見たと思ったら何してるのやら……!」
「どうしたの、ロクスレイ君?」
「いや、何でもない。それよりティンジェル嬢、付かぬ事をお訊きしますが、あの男とは本当に初対面なので?」
「え?」
目尻を拭いながら問われ、ルミアは困惑に首を傾ける。
「いやだって、クラスメイトにも分け隔てなく接する割に身持ちの固いティンジェル嬢が、出し抜けとはいえ触られるがままってのは妙だと思ってさ。もしかして昔からの知り合いだったりして?」
「……そんなことないと思うけど」
僅かな間を置いてルミアは否定した。一瞬だが、可憐な顔に警戒の色が滲んだのは気のせいではないだろう。
そんなルミアの反応を見て、ロクスレイは微かに目を細めるもすぐに笑みを取り繕う。妙な空気を吹き飛ばすように軽薄に笑ってみせた。
「そうか、そいつは不躾なこと訊いたな。忘れてくれ」
あっさりとロクスレイが身を引くと、丁度、非常勤講師らしき男がシスティーナをのらりくらりと往なしながら教壇に立つ。チョークを手に持ち黒板に名前を書き始める。
男の名はグレン=レーダス。やはりというか本日から二組の非常勤講師を務める男であった。
生真面目なシスティーナによって授業の開始を促され、取り繕うこともなく気怠げにチョークで堂々と自習の二文字を書き刻むグレンを尻目に、ルミアは露骨にならない程度に視線を後ろに流す。
『眠いから』などという最低な理由で居眠りを始めたグレンへと教科書片手に突貫するシスティーナを、さぞ愉快そうに眺めているロクスレイ。三ヶ月ほど前から教室を同じとする学友に加わった彼のことが、ルミアには今ひとつ分かりかねていた。
アルザーノ帝国魔術学院に通う生徒は程度に差はあれ、魔術に情熱を注いでいる学徒だ。嫌々この学院にいる生徒というのは見かけない。講師に関してはたった今居眠りする講師という例があるので何とも言えないが。
そんな中、ロクスレイが魔術を見る目はどこか冷めているように感じた。
授業にはきちんと出席する。一応黒板の内容を書き取ったり、予習や復習も取り組んではいるようで、成績も上の下といったところ。けれどそこには他の生徒たちにはある熱がない。
魔術学院の生徒にしては不可思議な掴み所のない少年、それが偽りないルミアの評だ。
「……ん? どうかしたか?」
向けられる視線に気づいたロクスレイが首を傾ける。
「うぅん、なんでもないよ」
「そうですかい。てっきりオレに見惚れちゃったのかと……」
「ごめん、それはないかな」
「手厳しいねぇ……」
グサッと矢でも刺さったかのように胸を押さえる。そんな仕草もどこか演技染みて見えるのは考えすぎだろうか。
謎多き少年との距離感を、ルミアは測りあぐねていた。
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「あいつは何かしらやらかさないと生きていけない
学生たちで賑わう食堂の一角、本日より勤務開始の非常勤講師と護衛対象+αのやり取りを眺めながら、ロクスレイは昼食を取っていた。
「まさか初日から女子更衣室を覗くとか、一周回って尊敬するわ」
食堂の端の席を陣取り、地鶏の香草焼きと軽めのサラダを口に運びながら苦笑する。
非常勤講師としてやってきたグレン=レーダスは最初の授業に大遅刻した挙句、授業内容は初っ端から自習という怠慢。次いで錬金術実験のため着替え中の女子生徒達を覗き、集団リンチを受けてボロ雑巾と化す。側から見る分には愉快極まりないやらかし具合である。
何がどうしてこんなダメ人間が非常勤講師をやっているのか、この数時間で生徒達の大半がそんな疑問を抱いたであろう。
「ま、あいつにとっちゃ血腥い裏よりこっちの方が性に合ってそうだが、今のままじゃなぁ……」
ロクスレイ──ロビンフッドはグレン=レーダスを知っている。彼が一年前まで帝国宮廷魔導騎士団、特務分室所属の執行者として活動していた魔術師殺しであることを。
というのも任務の都合上、暗殺現場でバッタリ出会したり即席タッグを組んだことが数回ほどあるのだ。勿論、素顔は晒していないし、肩書きはただの傭兵崩れとしか明かしていない。まさか共に任務を遂行していた相手が世間的には都市伝説扱いされている
短い期間ではあったものの共に仕事をこなした相手であるグレンという男の本質を、ロクスレイはおおよそ把握している。何てことはない、血に濡れた世界では生きられない正義の魔術師だ。
だからこそ魔術の闇に触れ、魔術に絶望し、結果としてあそこまで性格がひん曲がってしまった。捻くれたままのグレンにとって魔術を教えるのは苦痛以外の何ものでもないだろう。
「魔女殿の采配らしいが、荒療治が過ぎるんじゃないですかねぇ。オレとしては戦力が増えるんでむしろ好都合ですけど」
有事の際はちゃっかり頭数に入れる気満々なロクスレイである。
突っかかるシスティーナと雑に流すグレンのやり取りを視界の端に捉えつつ、護衛対象であるルミアを確認しながら今日もロクスレイの昼が過ぎていく。