買い出しの為、島風と夕張を連れて、大きなホームセンターへと足を運んだ。
「いつも思うけど、わざわざ買いに来なくても良くない? ネットで買えばいいじゃん」
「今どきの子だな……。自分で使うものは自分の目で見ておきたいんだ。ネットだと、届いたらちょっと違うとかあるだろ」
「それに、ワクワクするしね。いらないものまで買ったりして」
「それダメじゃん……」
確かに、買うものは決まっていても、それだけじゃ済まない事が多い。
特に、明石は工具類に目を輝かせて、使わなそうなものまで買いそうになるし。
「あー! 見てみて! レーザーで距離測れるんだって! あ、でも……20mまでか……。あ! 70mもあるじゃない!」
夕張も明石と同じ感じか。
「あまりはしゃぐなよ」
「分かってる! あー! あっちにはペットも売ってるって!」
「え!? どこどこ!? 犬いる!?」
俺の忠告も聞かず、夕張と島風はペットショップの方へと走って行った。
「全く……」
しかし、夕張も島風も楽しそうで良かったな。
どっちもモヤモヤしていただろうし、これで少しは気分が晴れるかな……。
「さて、俺は目的の物を買いに――」
その時、島風に見られていた時のような視線を感じた。
「――!」
振り向くと、そこには監視カメラのコーナーがあって、俺が写っていた。
「少し敏感過ぎるか……」
もう俺を監視するような奴はいない筈だしな……。
いや、実は明石が帰って来ていて、俺の様子を見ていたりして……。
「……なんてな」
そういう事だったらいいなという、俺の妄想だ。
明石の奴、今頃どうしているだろう。
やっぱり、夕張に頼んで連絡取った方がいいかな……。
「提督ー! こっちきてー! 犬たくさんいるよー!」
――いや、今はあいつらの気持ちを優先させなければいけないな。
「今日は犬を見に来たんじゃないぞ」
目的の買い物は、後回しにしておくか。
結局、目的の物を買えたのは、本当の本当に最後であった。
しかも、早く帰ろうと急かされながら……。
「楽しかったねー」
「そうね。結局私も、工具買っちゃった」
複合施設だったから、買い物よりも、遊ぶことがメインになってしまったな。
でもまあ、二人が満足しているようで良かった。
「ん……」
急に夕張が足を止めた。
「どうした夕張?」
「また誰かに見られているような……。ちょっと待ってて!」
そう言うと、夕張は走り出し、商品棚へと消えた。
「どうしたんだろう?」
「さあ……」
しばらくすると、夕張は獲物を捕ったマタギのように、青葉を連れて出てきた。
「青葉」
「ど、どうも……お久しぶりです……」
「今日、ずーっと誰かに見られてる気がしてたのよね。青葉さんっぽいなとは思ってたけど、本当に青葉さんだとは……」
「久しぶりだな青葉。こんな所で会うなんて珍しいな。買い物か?」
そう聞かれた青葉は、早口で説明を始めた。
買い物に来た事。
そこで三人を見つけた事。
声をかけようか迷っていた事。
「本当に? なーんか隠してない? 買い物って、何を買いに来たのかしら?」
「えーっと……その……」
「戦時中も似たような事ありましたよね? 提督を尾行して、大変な事になったの忘れませんよ?」
青葉の奴、戦時中になにをしたっていうんだ……。
「それくらいにしておけ夕張」
「でも……」
「買い物に来たんだろ? 目的のものは買えたのか?」
「いえ……まだ……」
「そうか。なら、急いだ方がいいぞ」
「は、はい……では、青葉はこれにて……」
夕張の手を離れ、青葉はそそくさとどこかへ消えていった。
「あいつ、この辺りに住んでいたのか。なら、店に来てくれてもいいのにな」
「青葉なら店に来てたよ」
「そうなのか?」
「うん。私が店番してる時にねー。でも、店には入らなくて、外から覗くようにして見てた」
「なんだそりゃ。恥ずかしがってんのかな」
それを聞いた夕張は、眉を顰めて、何やら考え事をしていた。
「ねぇ……もしかして青葉さん、ずっと私たちを見張っていたんじゃない?」
「え?」
「私、工房に来た日から、なんだかずっと見られている気がしてたのよ。工房から帰る時は特に……」
「見張ってるって……何の為に?」
「分からないけど……。もしかしたら、明石さん絡みとか……」
明石絡み……。
「明石が青葉に依頼して、様子を見に来てるという事か?」
「かもしれないわね……」
なるほど……。
しかし、そうだとしても、何故見張っているんだ?
俺が反省してるかどうかを観察している?
浮気してないかとか?
「もし明石さんに報告しているとしたら、その内容に注意しないといけないわ。あの人、面白い様に改変して報告しようとするから……」
「青葉の事だから、夕張と浮気してるーとか書きそうだよね」
「そうだとしたらマズいわね……」
確かにそうかもしれない。
だが――。
「あくまで推測だ。もしそうだとしても、俺と明石との関係は変わらない」
喧嘩中とはいえ、ここまでやって来れたんだ。
こんな事で関係が崩れてたまるか。
仮に崩れるとしても、それは俺との生活に不満があった時だけ……のはずだ……。
少なくとも、恋愛という関係性において、俺が明石以外に愛した女はいないし、あいつだってそれを知っているはずだ。
「貴方がそう思ってたとしても、明石さんはどう思うか分からないわよ。信頼しているのは結構だけど、それ故に裏切られたと知った時のショックは大きいわ」
忠告するかのようなその目に、何か只ならぬものを感じた。
島風も同じなのか、不安そうに俺を見つめた。
「大丈夫。大井さんにも言われたが、もしそうだとしたら、そこまでの関係だったという事だ。俺も明石も、そうじゃないからここまでやって来れた」
それに甘んじてはいけない事は分かっている。
だが、それはあくまで生活の話で、この件とは別だ。
「……そう。分かった。貴方と明石さんの事、信じるわ」
夕張が微笑むと、島風は安心したのか、俺の腕に引っ付いた。
「じゃあじゃあ! もし明石さんと別れる事があったら、島風と付き合ってね!」
「別れる事があったら、な。絶対ないだろうけど」
「島風ちゃんだけ狡い。私も私もー」
「お前ら、本当に信じてくれてるのか?」
そうさ。
そんな事にはならない。
絶対に防いで見せる。
問題は生活の不満だ。
それをどうするか、あいつが帰ってくるまでに考えておけばいい。
夕張と別れ、俺と島風は家路を外れて、少し遠回りしながら帰る事にした。
「提督、手繋いで」
「ああ」
島風くらいになると、もう父親とか少し嫌がるようになるのだろうな。
こうして手を繋いで歩いてくれたりするのも、あと少しかと思うと、何だか寂しくなるな。
「ねぇ提督。提督はどうして明石さんを好きになったの?」
「どうして、か。何だろうな。気がついたら一緒に居て、気がついたら好きになっていた……って言う感じかな」
「なにそれ? 全然分かんないんだけど……」
「島風はどうして俺を好きでいてくれるんだ?」
「だって、愛し合った仲じゃん」
「そんな覚えはないけどな……」
「提督は優しいし、かっこいいから好き」
「俺より優しい奴も、かっこいい奴もたくさんいるだろ」
「でも、提督がいいんだもん」
「どうして?」
「どうしてって……」
島風は少し考えたが、何も思いつかなかったようだった。
「そう言う事だろ。なんでか分からないけど、好きになった。それが理由だ」
「うーん……ちょっと納得いかない……。少し考えるね……」
真面目な奴だな。
けど、そういうのは大切だよな。
当然のように存在しているそれをちゃんと理解したいって気持ち。
「…………」
当然のように存在している気持ち……。
『貴方がそう思ってたとしても、明石さんはどう思うか分からないわよ』
「提督?」
「ん……?」
「急に怖い顔して、どうしたの?」
「いや、ちょっと考え事しててな……。そういや、今日の夕ご飯、何にするか決めてなかったな。何がいい?」
「ハンバーグがいいなー」
「よし分かった。この前の仕事の報酬もあるし、ちょっと奮発するか。そうと決まれば、久々にスーパーまで競争するか?」
「競争!? やるやる!」
「よっしゃ、それじゃあ……位置について、よーい……ドンと言ったら走――」
「ドーン!」
「あ、おい! まだ言ってないぞ!」
夕食の後、一本の電話が入った。
明石からかと期待したが、島風の母親からであった。
「今の電話、お母さんから?」
「ああ。こっちで世話になってるのを家政婦から聞いたらしい。明日には帰って来るってよ」
「え? 一週間くらい帰ってこないんじゃ……」
「仕事が早く片付いたんだってよ。良かったな」
「別に……。どうせ、またすぐ仕事に出て行っちゃうし……」
そう言うと、島風はつまらなそうにソファーに腰かけた。
「両親とあまり話す機会がないのか?」
「話すことはあるよ。でも、話すだけなら電話でもいいしね」
島風のこういう性格は、両親の愛情を満足に受けなかった結果なのだろうな。
本当は甘えたいのだろうが、それが叶わないから、俺に依存するのだろう。
「ねーねー、島風、ずっと提督の家に居ちゃダメ?」
「駄目だ。親が帰って来るんだ。ちゃんと帰ってやれ」
「ケチー」
さっきは寂しいなんて思ったけれど、そういう面では俺から離れなきゃいけない時期も必要だ。
「じゃあ、お膝に乗せて。ギュってしてー」
「分かった分かった。ほら、こっちこい」
ソファーに座ると、島風は俺の膝の上に座った。
「えへへー、このままテレビ見よ? 見たい番組があるんだー」
満足な愛情、か……。
明石も同じような事思ってたりするのだろうか。
だとしたら、俺よりも愛情も金も持ってる奴が現れたら、そっちに行ってしまうのだろうか。
島風が親より、俺を選ぶのと同じように……。
翌日。
島風の荷物をまとめ、家に帰してやった。
母親も帰ってきていて、礼にと、聞いたこともない国の土産物を俺にくれた。
「また遊びに来いよ」
「すぐ行くし!」
ちょっと不機嫌な島風が気になったが、これでいいんだ。
母親との時間、大切にしろよな。
島風が居なくなった店は、いつもより静かに感じた。
まあ、客がいないのもあるけど……。
「…………」
明石が居なくなって、今日で六日目か……。
明日には帰って来るんだよな……。
まずは謝る事。
そして、生活の不満を聞くこと。
その解決策を見つける事。
「……やらなきゃいけない事はたくさんあるな」
そんな事を考えていると、店の扉が開いた。
「いらっしゃ……って、なんだ、夕張か」
夕張は、何やら深刻そうな顔をして、店の入り口に立っていた。
「どうした……? そんな怖い顔をして……」
「ちょっと話があるんだけど……時間ある……?」
「あ、あぁ……」
そう言ってやると、夕張はもう一人を連れて、店に入った。
そいつを見て、これから何が起こるのか、すぐに分かった。
店を閉め、二人を二階の部屋へと招いた。
「今、茶でも出すよ」
「いや、いい……。それより、話さなきゃいけない事がある……そうでしょ……青葉さん……」
青葉は夕張に絞られた後なのか、顔を青くして俯いていた。
「あ、あの……その……あ、青葉は……あの……ただ監視をして報告を……」
「その報告が問題だって言ってるんです!」
「落ち着け。なんとなく、明石の件なのは分かる。ゆっくり説明してくれ」
「は……はい……」
青葉は震えながらも、説明を始めた。
大淀に頼まれて、俺を監視していたこと。
それを報告していたこと。
その報告内容に、嘘がある事……。
「本当に監視されていたとは……。しかし、嘘というのは……?」
「これを見て……」
それは、大淀への報告メールだった。
最初こそは合っているが、段々と、島風がハブられていたり、あたかも夕張と疚しいことがあるかのように書かれていた。
「昨日のホームセンターだって、私と二人で行ったって書いてある……。実際は島風ちゃんが居たのに……」
「これを明石は?」
「し……知ってると思います……。大淀さん……明石さんといるみたいですし……」
もしこのまま報告されていたら、明石が勘違いしてしまうかもしれないな……。
「どうしてこんなことを……」
その問いに、青葉は一瞬、口を紡いだ。
「青葉……」
「……最初は……最初は普通に報告してたんです……。でも……頼られてるのが嬉しくて……面白くしようと思って……」
「それで嘘の報告を……?」
「こんな事になってるなんて思ってなかったんです……。浮気してるかもって……冗談のつもりで書いただけなんです……。本気にするなんて思ってなかったから……」
「本気にするかどうかは置いておいても……最低ですよ……! 前にもこういうことあったのに、どうして貴女は……!」
「夕張」
静寂が続く。
「……事情は分かった。とにかく、誤解を解かないといけない。明石に連絡を取れないか?」
「大淀さんなら……」
「頼む」
青葉は大淀にダイヤルし、事情を説明した上で、俺に電話を代わってくれた。
「もしもし」
『彼氏さん……ごめんなさい……。青葉さんから聞きました……。私……とんでもないことを……』
「いや、それはいい。明石は傍にいるか?」
『それが……イベント会場にはいないみたいなんです……。もしかしたら、――さんと何処かへ行ったのかも……』
「――さん……って、――提督の事か?」
『ご存知でしたか……。実は……』
それから、明石が――提督に言い寄られていることを知った。
青葉からのメールを真に受けて、俺との事を相談していたらしい。
「じゃあ……明石は――提督と……?」
『分かりません……。けど、一緒かもしれません……。どちらも放送で呼びかけてはみたのですが……』
――提督……。
海軍兵学校で何度か顔を合わせたことがあるが、常に女性の影が絶えなかった人だ……。
「…………」
明石、まさかお前……。
『彼氏さん……?』
「……分かった。明石が帰ってきたら、今から言う連絡先に電話してくれないか?」
『分かりました。本当にごめんなさい……』
俺の電話番号を伝え、電話を切った。
「……ほら」
スマホを返してやると、青葉は震えた手でそれを受け取った。
「もう行っていいぞ」
「な……!? 何言ってるのよ!? ただで帰していい訳ないでしょう!?」
「これ以上青葉を責めても何も解決しない」
「そうかもしれないけど!」
「青葉、もう二度とこういうことはするな。分かったな」
「は、はい……ごめんなさい……」
「行け」
青葉は立ち上がると、ぽろぽろと涙を流しながら、階段を降っていった。
「……貴方は優し過ぎる」
「そうじゃない」
俺は立ち上がり、出かける準備を始めた。
「何を……」
「明石の所へ向かう。今からだ。だから青葉を帰したんだ」
それを聞いて、夕張も立ち上がった。
「私も連れて行って!」
「え?」
「貴方だけ行っても、誤解は解けないかもしれないでしょう? 貴方の浮気相手にされたまま家には帰れないわ」
「……分かった。行くぞ」
店を閉め、車をイベント会場までとばした。
道路は渋滞も無く、スルスルと進んでいった。
「しかし、まさか本当に監視されていたとはな……」
「大淀さんは良かれと思ってやってたんだろうけど、それが裏目に出たわね……」
青葉からの報告を聞いて、明石はどう思ったのだろうか。
――提督と一緒に居る事と、何か関係が……?
「……明石さん、私と貴方が浮気してるって思ってるのかな」
「どうだろうな……。俺は明石を信じているが、今となってはお前が昨日言った事も分かる気がする……」
「もし明石さんがそう思ったとして、――提督と一緒にいるのって……やっぱり……」
「…………」
「私、――提督がどんな人か知ってるからこそ、心配なのよ……。ねぇ……考えたくはないだろうけど……そうだとしたら……貴方は……」
「……なら、それまでの関係だったと言うだけだ」
「……それは……強がり……?」
「かもな……」
それを聞いて、夕張はシートに深く腰掛けた。
そして、それ以上何も言わず、ただ流れゆく車窓の景色を眺めるだけだった。
イベント会場に着いたのは夕方頃であった。
大淀に電話をすると、俺達を迎えに来てくれた。
「彼氏さん……!」
「大淀」
「ごめんなさい……本当にごめんなさい……」
「いや、それはいい。明石は……?」
「まだ帰ってきてないです……。放送も何度も入れているんですが……」
「そうか……」
もう日が暮れる。
こんな時間まで、――提督と一緒なのだろうか……?
「帰ってくるとしたら宿舎です……。お待ちになりますか……?」
考えていると、夕張が俺の袖を引っ張った。
「どうした夕――」
そこには、――提督と一緒にいる明石が居た。
お互いに目が合い、その場で固まった。
「提……督……」
「明石……」
誰よりも先に動いたのは、――提督だった。
「そうか。君が明石さんの彼氏だったのか……」
「――提督……」
――提督は近づくと、俺の目をキッと睨みつけた。
「今頃お迎えか。のんびりしたものだな」
「……!」
「まず最初に言っておく。君に明石さんと付き合う資格は無い」
「ちょっと……! 貴方なんなんですか!?」
「貴女こそなんです? 他人の彼氏の為に、何を熱くなってるんですか? そんなに彼が好きですか?」
「何を言って……!」
「夕張」
夕張はまだ何か言いたそうであったが、そのまま後ろへ下がった。
「資格があるかどうか、それはどう感じようが自由だ。まずは誤解を解きたい」
俺は全てを話した。
時折、大淀や夕張がフォローを入れてくれたお陰で、何とか誤解は解けたように見える。
「そんな……」
「ごめんね明石……私がもっとちゃんと確認していれば……」
明石は動揺しているのか、茫然と地面を見つめていた。
「明石、喧嘩の件は悪かった……。一緒に帰ろう……」
そう伸ばした手を、――提督が強く弾いた。
「な……!」
「どういう理由であれ、君に明石さんを幸せにする資格はない」
「さっきから何なのよ!」
「明石さんは言ってましたよ。君との生活は、不満に溢れていたと」
「え……?」
「一緒に居るだけで幸せだと……。そんなの当たり前だ。言い方を変えれば、それしか幸せが無いって事じゃないか。もっと言おうか。そんな幸せは、不幸を隠すためのものでしかない!」
「そう……なのか……?」
明石はやっと顔をあげた。
だが、震えるような声で「違う……」と小さく言うだけだった。
「違くないでしょう。貴女だって、僕にそう言われて思ったはずだ。そして、彼との関係を考えたはずだ。これでいいのかと……!」
そこまで言うと、――提督は深く目を瞑った。
「……だけど」
「……?」
「だけど……悔しいことに、明石さんは君を選んだ。僕の告白を蹴ったんだ」
再び俺をキッと睨んだ。
「この件に関してはもういい……。僕は明石さんから手を引こう……。だが、これだけは何度も言うよ。君に明石さんは幸せに出来ない。このまま居ても、苦しめるだけだ」
――提督は、そのままイベントの人混みへと消えていった。
沈黙が続く。
「……明石」
呼びかけても、明石は俯いたまま、今にも泣きそうな顔をするだけだった。
「帰ろう、明石……」
手を取り引こうとすると、明石の手はそのまま、俺の手をすり抜けた。
「明石……?」
「…………」
「……どうした? まだ怒ってるのか?」
「違います……」
「じゃあ……」
「違うんです……」
その頬から、ぽろぽろと涙が零れていた。
「提督に資格が無いんじゃない……。私に……資格が無いんです……」
「え……?」
「う……うぅぅ……」
どうして明石が泣いているのか、俺には分からなかった。
「明――」
「帰るわよ……」
そう言ったのは、夕張だった。
「何を……」
「大淀さん、明石さんをお願いします」
「は、はい……。明石……」
大淀に連れられ、明石は宿舎へと消えていった。
「さぁ、帰るわよ……」
「待て。どういう事だ」
俺の問いかけに、夕張は悲しそうな顔をした。
「車内で話すわ……。だから……行きましょう……」
立ち止まる俺の手を、夕張は振り向きもせず、駐車場の方まで引いていった。
イベント参加者の帰宅ラッシュに、道路は渋滞していた。
「……どうして明石を置いていった」
その問いかけに、夕張は一呼吸おいてから、答えた。
「気持ちの整理が必要だと思ったから……。貴方も……明石さんも……」
「気持ちの整理……?」
「さっき、――提督の言ってた事、多分、本当だと思う……。明石さんは……貴方との生活に不満があったんだって……」
「…………」
「普通に生活していたら、そんな事、思ってても口には出さないはず。けど、喧嘩して、青葉さんの嘘もあり、――提督から甘い言葉をかけられた……」
「なるほど。不満があったことが俺にバレて、あいつはそう思ってしまった自分を責め――」
「違うわ」
俺の言葉を遮り、夕張は再び呼吸を整えた。
「そう思っただろうけど……そうじゃない……。少なくとも、――提督にはそのことを話しているし、話したことが事実である以上、罪悪感に苛まれるのはちょっと変だわ……」
俺の想像力は、そこが限界だった。
何も言わず、夕張の言葉を待つことしか出来なかった。
「青葉さんからの報告を嘘だと知った時、明石さんは凄く動揺してたでしょう……? あれは、その嘘を信じていたから……。つまり……明石さんは貴方をそう言う人間だと見ていたという事……」
そう言うと、夕張は悲しそうな顔をした。
その表情は、そういう事だったのか……。
「貴方を疑い、迷った。――提督の言ったように、貴方との生活について考えてしまった。そして……」
夕張は深く目を瞑ると、ひと間置いてから、口を開いた。
「――提督に……心が動きそうになった……。明石さんが「資格がない」って言ったのは……そのことだと思う……」
それには流石の俺も、思わず笑いそうになった。
「憶測もそこまでいくと怖いな。仮にそうだとしても、明石は――提督の告白を断ってるんだぞ」
だが、それに夕張は冷静に答えた。
「――提督は慎重な人よ。絶対に落とせるって思わないと、告白なんてしないわ……。失敗には終わったけど……少なくとも、そう言う瞬間は、明石さんにあったと見るべきだわ……」
「馬鹿な……」
そうは言ってみても、確かに納得の行く説明だった。
嘘だと知った時のあの様子……。
そして、「資格」。
その「資格」が、単に俺を疑ったというだけの為に奪われたのだとしたら、明石はあそこまで涙を流すことがあるだろうか。
少なくとも、嘘をついていた青葉を責めるはずだし、安堵の表情を浮かべても可笑しくはない。
もし……もし本当に――提督に心が動いた事を言ってるのだとしたら……俺はどんな顔をしてあいつに会えばいいのだろうか。
「……それが、私が明石さんを置いていった理由。お互いの気持ちの整理が必要だと思った理由……。納得できない……?」
俺が茫然とハンドルを握っていると、夕張はそこに、そっと手を重ねた。
「どちらにせよ……貴方は明石さんが好きなんでしょう……?」
「……ああ」
「……それでいい。そのままでいいわ……」
そう言うと、夕張は手を離した。
それ以降、俺たちは一言も会話をすることなく、車を走らせた。
俺たちの住む街に着く頃には、もうすっかり深夜だった。
「そろそろ着くぞ」
「ん……あ……ごめん……寝てたわ……」
「悪いな。こんな時間まで……」
「ううん……勝手について来ただけだし……」
夕張は目を擦った後、深くシートに腰かけた。
「お前には助けて貰ってばっかりだな」
「少しは見返りが欲しいものね」
「何がいいんだ?」
「何でもいいの?」
「出来る事ならな」
車は信号待ちで止まっていた。
街は静かで、まるで俺たち以外誰もいないようであった。
「じゃあさ、明石さんじゃなくて、私と一緒に居てよ」
その表情は、車窓側に向けられていて、よく分からなかった。
「フッ……何言ってんだよ」
そう言っても、夕張は黙ったまま、体勢を変えない。
「夕張?」
「…………」
「……本気か?」
沈黙が続く。
信号はいつの間にか青になっていて、俺は慌てて車を走らせた。
街灯の光が、車内に入る度、夕張の横顔を照らす。
「……それは……出来ないな」
やっとの事で答えてやると、それを聞いた夕張は、吹き出すように笑い出した。
「なーんて、冗談よ。時々でいいから、私を工房に呼んで。貴方の仕事を手伝わせて。それなら良いでしょ」
「あ、あぁ……」
「ちょっと、何引いてるのよ。今のは心理学よ。無理な要求の後に、本当に叶えて欲しい要求を言えば、相手は妥協するっていう」
「なるほど、そういうことか……」
「えぇ、そういうこと」
見慣れた風景をヘッドライトが照らす。
夕張の家も見えてきた。
「……ここでいいわ」
車を停め、車内の明かりをつけてやると、夕張は伸びをして、眩しそうに目を擦った。
「今日はありがとうな」
「明石さんと、ちゃんと仲を取り戻してね」
「もちろんだ」
車を降りると、夕張はこちらに手を振った。
「また連絡する」
「うん。またね」
車を走らせる。
サイドミラーに映った夕張の姿が徐々に小さくなってゆき、やがて見えなくなった。
直前まで振っていた手が、離れる度に力を失ってゆくのが、とても印象的であった。
翌日は、朝から最寄りの駅で明石の帰りを待った。
小さな駅の出口は一つで、人の通りもさほどないところなので、明石が帰ってくればすぐに見つけられるはずであった。
「…………」
昨日の夜はあまり寝付けず、ずっと明石の事を考えていた。
帰ってきたら、何を話そうか。
どう迎えてやろうか。
これからの事。
これまでの事。
色々考えたが、結局行きつく先は、明石の気持ちだった。
あいつが何を考え、何を思い、どうしているのかが気になってしょうがなかった。
居てもたってもいられなかった。
「明石……」
結局、明石が帰って来たのは、昼を過ぎた頃であった。
俺の姿を確認すると、明石はまた泣きだしそうな顔を見せた。
「お帰り」
明石はそれに返事をしなかった。
「……帰ろうか」
街は相変わらず静かで、明石のキャリーバッグを転がす音が五月蠅いほどであった。
「イベント、楽しかったか?」
明石は答えない。
「こっちはさ、大井さんと山城が客に来たんだ。二人とも彼氏がいるようで――。助っ人に夕張に来てもらってたんだ。ほら、俺は大井さんが苦手で――」
明石は応えない。
「島風がずっと泊まってたんだ。あいつの親、仕事が忙しくて――」
明石は……泣いていた。
「……明石」
顔をよく見ると、何度も泣いたのであろう、目の下が赤くなっていた。
「……――提督に、心が動いたか?」
それを聞いて、一瞬、明石は驚いた顔を見せたが、またすぐに俯いてしまった。
「……そうか」
何も言わずとも、夕張の言っていたことが合っていたのだと分かった。
明石は、――提督に心が動いた。
俺という存在がありながら――。
「提督……ごめ――」
「ごめんな……」
言葉を重ねたのは、わざとだった。
「お前にそんな思いをさせてしまうほど、俺はお前を幸せには出来てなかった……」
「ち、違います……! 私が悪――」
「違わない。――提督の言った通りだ……。お前は悪くない。俺の努力が足りなかっただけだ」
――提督にどのように心を動かされたのかはわからない。
生活の事、幸福の事――。
それら全て、――提督の方が上だったのは構わない。
魅力的だったのも仕方がない。
実際にそうだったから。
だが、――提督に心が動いたという事は、男として、恋として、――提督を受け入れる準備があったという事。
決して動くことのないであろうと思っていたそれが、俺の元に戻ってきてくれたとは言え、少しでも動いた事。
それが、悔しかった。
――提督に、夕張に言われないと気がつけなかった。
それが、情けなかった。
「俺はお前を幸せには出来ない……。お前を追いつめてしまうから……」
「違う……違うんです……」
「だからさ……俺たち、もう――」
その先の言葉に何かを察したのか、明石は俺の胸に飛び込み、大声で泣いた。
「お、おい」
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
「だから、お前が悪いんじゃなくて……」
「提督を信じられなかった私が悪いんです……。全部……私が悪いから……全部……直すから……だから……」
「明石……」
「お別れなんて……言わないでください……」
「え? お別れ……?」
「え……?」
涙なのか鼻水なのか、分からないくらいぐしゃぐしゃに濡れた明石の顔に、俺は思わず笑ってしまった。
「何か勘違いしてないか?」
「だ……だって……俺たち、もう……って……。それって……別れようって事じゃ……」
「違うよ。俺たち、もう一度最初からやり直そうって言いたかったんだ」
「最初から……?」
「お前が青葉の報告を聞いて、俺をそういう人間だって見たって事は、それだけ俺の事を知ってなかったって事だ。逆に、それに気が付かなかった俺も、お前をよく知ってなかった。心が他の奴に動くことだって……」
「…………」
「俺とお前が出会った頃、お互いをよく知ろうと、用も無いのに工廠へ会いに行ってみたり、飯の時間を合わせたりしてたよな」
仕事のパートナーとして、というのが始まりだった。
段々と、それが恋という形に変わっていったっけ。
「俺たちは知った気になってたのかもな。お互いの事。まぁ、出会って長いしな……。今回の件で、あの頃みたいに、もう一度、お前の事をよく知りたくなった」
「提督……」
「お前の事をもっともっと知って、お前を幸せに出来るようになりたい。誰からのアプローチがあっても、決して揺れないくらい、俺に恋をして欲しい……」
明石は涙を拭いて、俺の言葉を待った。
「お別れじゃない。もう一度……出会った頃の関係に戻ろう」
それは、恋人という関係の終わりを意味していた。
同時に、これからの関係の始まりを意味していた。
明石もそれを分かっていたのか、少し複雑そうな顔をした後、俺の目をじっと見つめた。
「……分かりました。私も……どんなことがあっても、提督を信じられるようになります……!」
「明石……」
「もう一度……提督に告白されるような女性に……「資格」のある女性になります……。だから……待ってて……くれますか……?」
その声は震えていた。
「ああ……。俺も、誰にも「資格」がないなんて言わせないくらい、頑張るよ……」
そう言ってやると、明石は再び涙を流した。
俺も、同じように。
それが何の涙かは分からない。
だが、新たな出発に必要なものである事だけは、確かであった。
「制約ねぇ……」
夕張は、制約の書かれた紙を見て、怪訝そうな顔を見せた。
「キスは一日一回だけ。デートは週に一回だけ……? 恋人じゃないのにキスもデートするのー?」
島風も訳が分からないと言った様子だ。
あれから数日。
恋人じゃ無くなったとは言え、今までと同じような生活を続けていると、あの日の出来事を忘れてしまうそうだという事で、俺たちはお互いの関係に制約を設けることにした。
「これじゃあ恋人の頃と変わらないじゃない」
「俺は全部いらないと言ったんだ。けど、明石がさ」
「だって、厳し過ぎます……。いくら恋人じゃなくなったと言っても、私たちはお互いを好きであるし……」
「にしても、キスは一日一回って、緩くないですか?」
「だよな」
「そうかもしれないけど……うーん……」
とは言え、制約が無くても、俺たちがあの日の出来事を忘れる事は無いだろう。
それほどに、大きな出来事であったのだ。
「こんな制約、早く無くすためにも、お互いに頑張ろうって意味もあるんだ」
「なるほどね……」
「ただのバカップルじゃん……」
まあ、そうだよな……。
「けど、まあ良かったじゃない。本当にお別れにならなくて」
「恋人では無くなりましたけどね……」
「あ、そう言えばさー。明石と別れたら島風の恋人になってくれるって約束したけど、この場合どうなるのー?」
「そう言えばそうよ。私も約束したわ」
そう言えばそんな事言ったっけか……。
「いや、あれは冗談だし、実際別れたとは言わないだろ……」
「でも、恋人じゃなくなるって、別れたって事じゃん!」
「そうよそうよ」
「お前ら、マジでその辺にしてくれないか……?」
恐る恐る明石の方を見ると、怒るどころか、小さく笑って見せた。
「そんな事ないって思ってたって事ですよね?」
「あ、あぁ……」
「大丈夫。私は提督を信じてますから」
「明石……」
その光景を見て、夕張も島風も呆れたような顔を見せた。
「はいはい、ごちそうさま」
「なんか納得いかないんですけどー……」
「悪いな」
あの日の事で、俺たちは恋人じゃ無くなったけれど、それ以上の関係に、少しづつ近づいている。
いつの日か、そんな事もあったと笑えるくらいになれるように――。
「それで? ここには夜の事は載ってないんだけど、その辺りはどうなの?」
「そう言えば……そうですね……」
明石がこちらをチラッと見た。
「……その件に関しては、また後で決めようか」
「そ、そうですね……」
「って事は、やっぱりシてるんだ」
夕張がニヤニヤ笑うと、明石は顔を真っ赤にさせた。
「ねーねー、夜の事ってなに?」
「ん? あー……島風にはまだ早い話だ……」
「何それ!? 子供扱いしないでよね! ねーねー明石さん、どういう意味!?」
「えーっと……」
「夕張ー」
「そうね……。例えば、ここにナットとボルトがあるでしょ?」
「お、おい夕張!」
「冗談よ。ごめんね島風ちゃん、私もよく分かってないの」
「むぅ……」
「ほら、お店にお客さん来たみたい。一緒に接客しましょう」
「うん……」
空気を呼んだのか、夕張は島風を連れて店の方へと向かっていった。
「……それで、どうするんです?」
「まあ……完全に無くすってのは……関係にも響いてくるだろうしな……」
「……えっち」
「じゃあ無くすか?」
それに明石は答えず、視線を外すだけだった。
「いずれにせよ、そんな事考えなくてもいいように、お互いに頑張ろうぜ」
「……はい」
そう言って、俺たちは今日の分のキスを済ませた。
――続く