青空の花嫁   作:スカイリィ
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第七話 祝福の獣

 無事に二人のプロポーズが終わったのを見届けると、あとは好きにしろと言わんばかりに、オジマンディアス王はさっさと空飛ぶ舟で帰ってしまった。

 そろそろ夫も帰ってくるだろうし、夕飯を作らないと。王様を見送った私も息子たちのプロポーズ現場という非日常的な空間から意識を戻す。

 鮭は四つしか買ってきていない。立香の分を抜くわけにはいかないから、必然的にフォウの夕飯は別のものになってしまう。

 仕方ないから私の鮭を少し分けてあげて、また卵焼きを焼いてあげよう。私はそう決めた。幸い卵は買ってきてある。コレステロールも二日連続くらいなら大丈夫だろう。

 私は抱き合う二人の脳天に軽いチョップを入れ、こちら側に意識を引き戻させた。

「いつまでも外で抱き合ってないで、部屋でいちゃついてきなさい。エッチするのは良いけど、一時間半以内に終わらせること。晩御飯には間に合わせなさい」

 これを言っておかないと、感極まった二人は時間を忘れてまぐわってしまうと私は理解していた。

 しばらくの別離とプロポーズを経た今の二人であれば、下手をすると十時間越えのハードマラソンに突入しかねない。たぶん世界記録である。バカップルめ。

「ああ、うん……」
「ええと、はい……」

 二人はもう嬉しくて恥ずかしくて、どうしたら良いのか分からないといった様子だった。

 あまりにもお互いを意識しすぎて、今までのようにスムーズにイチャイチャできないのだ。付き合ったばかりのカップルかお前らは。

 しばらくの間ドギマギしていた二人だったけれども、そのうちどちらともなく玄関をくぐって、二階へと上がっていった。

 初々しい二人だ。しかしこれから90分間は物凄いことになると私は確信していた。二人とも気絶しなければ良いのだけれど。

 そうして庭に残されたのは私と、その足元でちょこんとお座りしているフォウである。ふわふわとした尻尾が足首を時折くすぐった。

 立香とマシュが何か大事なことをしているというのを感づいたのか、プロポーズの最中も大人しくしていてくれたのだ。

「フォウくん」私は小さな白い身体をそっと持ち上げる。「さっきのはね、立香とマシュが『つがい』になるための、大切な出来事だったの」
「フォーウ?」
「人間のはプロポーズって言うのよ。立香からするはずだったのに、逆にマシュから申し込んじゃった」

 あの子たちらしいわね、と優しく語りかけると、フォウは小さく鳴いた。そうだね、とでも言っているように私には感じられた。

「あの二人は、これから一緒に生きていくの。病気の時も健康な時も、辛い時も楽しい時も、手を取り合って生きていくって、約束しあったの」

 そう語りかけながら私はフォウを抱っこしてやる。フォウはすりすりと身体を寄せてきた。

「それは簡単なことじゃないし、とても大変な人生になるかもしれない。だけど私、二人がその約束をしてくれて、すごく嬉しかったんだ。私の大好きな二人が、そうやって生きていくって考えただけで……泣いちゃうくらい、嬉しかった」

 私はフォウの背中を優しく撫でた。白くてふわふわの毛並みは、本当に柔らかくて心地よかった。

「もし二人に子供ができたら、その子の遊び相手になってあげてね、フォウくん。それだけであの子たちの助けになるし、きっと喜んでくれると思うから」
「フォーウ!」

 まかせて! そう言うかのごとく尻尾が振られる。本当にこの生き物は人間の言葉が分かっているのかもしれない。

「晩ご飯作るから、少し待っててね」
「フォーウ」
「ん、いい子いい子」

 私は親愛の意味を込めて、フォウの鼻先に自分の鼻をくっつけた。
 するとフォウは、私の鼻をペロペロと舐め始めた。嫌ではなかったのだけれど猛烈にむず痒くなった私は盛大なくしゃみを二連発した。ちくしょう、このもふもふめ。





 夕食の準備ができる前に夫は帰ってきた。額には包帯が巻かれている。三針縫ったのだとか。

 リビングに来るなり夫は「靴があるけど、立香もう来たのか」と訊いてきた。私は無言で頷いて、自分の左手薬指を示した。
 夫はそのジェスチャーの意味を理解できず悩んでいたのだけれど、しばらくして事態を悟ったのか目を見開いた。

「立香のやつ、もう指輪渡したのか」気の早い奴だと夫は笑いながら言った。「じゃあ、今は部屋でヒートアップ中か」
「九十分で終わらせるように言ってある。あと二十分」
「また生々しい時間だ」

 夫は苦笑いして、リビングのソファーに腰掛けるといつものようにテレビを見始める。私はその間に鮭のホイル焼きと漬物とご飯と、それからフォウの分も含めた卵焼きを作り上げていった。

 制限時間五分前で立香とマシュが二階から降りてきた。さすが、普段から数時間の行為をしているだけのことはある。このぐらいは全く平気、といった様子だった。しかしわずかな汗のにおいは隠せていない。

「婚約おめでとう」にやり、とした笑みで夫が言った。でもその笑顔は嫌味など微塵もなく、とても嬉しそうなものだった。「式はいつにするんだ?」
「うーん、どうしようか」立香がマシュに訊く。「マシュが二十歳になったら、とは考えているけどさ」
「できれば、私の二十歳の誕生日が良いです」とマシュ。
「どうして?」
「先輩と初めて会ったのが、私の十六の誕生日だったからです」マシュは立香の腕に自身の腕を絡ませた。「だから結婚記念日もその日にしたいんです。それなら絶対に、死ぬまで忘れないでしょうから」
「良いじゃないか。最高のプレゼントだ」と夫は笑顔になった。

 それは、良い。きっと素晴らしい誕生日になるだろう。私はその会話を背中越しに聞きながら思う。三年後が待ち遠しい。
 そうこうしているうちに夕食ができた。私はそれをテーブルの上に並べて、後の三人に声をかけた。

「ご飯できたから、早く食べなさい」
「はーい」

 三人はぴったりと同じ返事をして、顔を見合わせて笑った。





 その日の夜、寝室の前に白いもふもふ小動物が座っているのを私は見つけた。

「そうか、マシュは今取り込み中だものね」
「フォーウ」

 さすがにあの二人が交わっているただ中にこの子を置いておくのは良くないだろう。私はフォウを抱き上げて一撫でする。

「じゃあ、今日は私と一緒に寝ましょう」
「フォウ、フォウ」

 納得してくれたようにすり寄ってくるもふもふ。私はそのままベッドまで連れていって、枕元にフォウを置き、自分も布団にくるまった。

「お休みなさい、フォウくん」
「フォーウ、キャウ」

 顔に柔らかい毛並みを感じながら、私は眠りについた。今日は色々なことがたくさんあって、なんだか疲れていた。でも、嫌ではなかった。








 不思議な夢を見た。

 何もない虚空に自分が浮かんでいる夢を。
 そこには本当に何もなくて、真っ暗な闇が広がっているだけだ。音もなく、光もなく、匂いもない。でも自分の存在は確かに感じ取れるし、それが夢だとも理解できた。

 変な夢だな。そうしてぼんやりと佇んでいると、前方に何かの気配があることに気が付いた。距離感はわからないし大きさもわからない。でも、その何かに見られていることはわかった。

『やあ、こんばんは。夢の中に失礼させてもらってる』
「ああ、どうも、こんばんは」

 こいつは夢の中に入り込んだ異物だと理解できたけれど、どうにも敵意が感じられないので私は素直に挨拶した。

『疲れているところ申し訳ない。あなたと話がしたくて、お邪魔させてもらったんだ』

 その声は少し子供っぽい口調ではあったけど、とても丁寧だと私は思った。

「私と、話?」
『うん。ぼくはもう消えかかっていてね。これを逃すともう二度と他人と話ができるかわからないんだ』
「そんな大事なチャンスなのに、私で良いの?」
『あなたがいいんだ』照れくさそうに声は言った。『ぼくの最期は、あなたとの話で飾りたい。あなたを見ていたら、そう思えたんだ。他にも話をしたい人はいるけどさ、その人とはもうお別れを済ませてあるんだ。それなのにまた話すなんて、気まずいだろう?』

 男か女か、老人か子供かもわからない声。でもその声が言っていることは本当のことだと私は悟った。

 どうして私を選んだのかは知らないし、どうやって私を知ったのかも知らないけど、その最期を看取って欲しいと願われたのだから、断るのは良くない。

「良いけど、何を話すの?」私は了承しつつ首を傾げる。「世界平和についてでも議論する?」
『そんな大それたことを話すつもりはないよ』小さく笑うように声は言った。『あなたにも関係していることだから、大丈夫』
「あなたのことは、なんて呼べばいい?」
『……そうだね「シャパリュ」とでも呼んでくれるかな』
「シャパリュ?」
『そう。適当でいいよ。僕には名前がたくさんあるからね』

 ふうん、と流す私。これは勘だけれど、この声の主は相当な長生きなのではないかと思った。長生きしたから名前がたくさんあって、名前に拘らなくなったのではないかと。なんとなくそう思った。

『じゃあ早速なんだけどさ』中高生の女子同士が恋バナでもするような口調でシャパリュは言う。『あなたはマシュ・キリエライトのことをどう思ってる?』
「あなた、マシュさんの知り合い?」
『ああ、そこの説明をしていなかったね。……そうだよ。短い付き合いだけど彼女のことは良く知ってる』
「どうって、言われてもね」
『好きか嫌いかと言われたら?』
「大好きよ、そりゃ」
『ぼくも彼女のことは好きだよ』シャパリュの口調はとても明るくて、まるでニコニコと微笑んでいるようだった。『あとね、あなたの息子のことも、ぼくは好きなんだ。二人とも優しくて大好きだ』
「あら、ありがとう」

 私は素直にそう言った。シャパリュというこの声の主は嘘をついているようではなかった。本当にマシュと立香が好きなんだとわかる。そのくらい、声が喜んでいた。

 話は少し変わるんだけどね、とシャパリュは続けた。

『昔、ぼくはとある小島に自分を閉じ込めていたんだ。人間の嫉妬や怒りの感情に晒されるのが嫌で嫌でしょうがなかったんだ』
「どうして、そんなに嫌だったの?」
『自分が怪物になってしまうって、分かっちゃったんだ』

 少し悲しそうにシャパリュは言う。

『見ての通り、ぼくは普通の存在じゃない。人間の負の感情を取り込んで、最終的には恐ろしい化け物になってしまう存在なんだ。そういう性質が自分にあることを知っていたから、ぼくは人から距離を置いた。人がいなければ無害でいられたからね』
「優しいのね、あなた」
『でもぼくの世話していた魔術師は本当にクズ野郎でね。そうして静かに暮らしていたぼくを外の世界へ放り出してしまったんだ』

 クズ? クズって言ったぞこいつ。それまでの優しげな口調から一転して感情の籠りまくった言葉に私は顔をひきつらせる。

『本当にあいつはクズのクソ外道の人でなしのアンポンタンなんだ。マーリンてやつなんだけどね。あなたも会えばわかる。絶対にそう思うよ』

 声だけしか聞こえていないのに鼻息が荒くなっているのがわかる。物凄い感情を込めた罵倒である。そのマーリンとかいう魔術師はよほどクズだったのだろうと私は思った。

『──まあ、それでぼくは放浪の旅に出たんだ。「美しいものに触れてきなさい」なんて言われて送り出されたんだけど、どうしたらいいかわからなかった』

 まあ、そりゃあねぇ。私は曖昧な表情で頷いてやった。自分だってそんなこと言われて放り出されても、戸惑うに違いない。

『ぼくは世界中をさ迷ってね。そこでマシュと、藤丸立香に出会ったんだ』

 ああ、そこに繋がるのかと私は納得する。シャパリュは続けた。

『ぼくは二人と触れあって、とても驚いた。あの二人は善性の塊だったんだ。どこまでも真っ直ぐで優しくて、善良な人間だったんだ。おかげでぼくは怪物にならずに済んだ』
「でしょうね。私もあの二人はとても純粋だと思う」
『……ぼくは二人を、美しいと思った。日だまりのように優しくて、暖かくて、キラキラしてるんだ、あの二人は。魔術師の言う通りになったのは癪だけど。──本当に美しいものをぼくは見たんだ』

 あのどこまでも純粋な二人を、美しいと思った。そうシャパリュは言った。私にもその感動は理解できた。

 真っ白で清らかな女の子に、この世界の色を教えてくれた男の子。
 優しさに満ち溢れる男の子に、心の底から愛を捧げる女の子。

 あの二人はどこまでも純粋で、美しい。私もそう思っている。

『ぼくは二人を祝福した。出来る限りのことをしてあげた。そのせいで知性を含めた力を全部失ってしまったのだけれど、それでも良いと思えるくらい、ぼくは二人に感謝してるんだ』
「あなた、それで……」

 私はシャパリュというこの声の主が、消えかかっているのだと理解した。正確にはその知性が、もうすぐ無くなってしまうのだと。

『ぼくはやりたいようにやっただけさ。善意とは基本的に押し付けるものだからね』

 開き直るように声は言った。確かにその言葉からは後悔など微塵も感じ取れない。

『でも、ぼくはまた美しいものを見ることができたんだ』
「それは、なに?」
『あなただよ』即座にそう返って来た。『あなたが二人に注ぐ愛情。それが、ものすごく綺麗に見えたんだ』

 そうか、だからこの声の主は、私を指名したのか。最期に綺麗なものと話したいと願ったのだ。
 けれど、私は私がそこまでの存在なのかと少し不思議に思った。そんなに特別なことは、していないんだけどな。

「別に私は、親として当たり前のことをしてあげただけだから」
『その当たり前をできる人が、この世にどれだけいるだろうね』冷静な口調でシャパリュは言う。『あなたは素晴らしい母親だって、ぼくは思ったんだ。夫を愛し、子を愛し、その子の伴侶を愛している。それがぼくには美しいと思えたんだ』
「……夫のこと、そんなに愛してるってわけじゃないわよ」

 なんだって? シャパリュは心底驚いたように声をあげた。

「結婚してもう二十年以上だからね、なんであの人と結婚したのか、忘れちゃった」
『愛しては、いないのかい?』
「これが愛なのか、私にはわからない。子供も立香一人だし、あの人の嫌なところでイライラすることもあるから、全部愛せているわけではないと思う」
『確かに、誰かを全部愛するなんてのはとても難しいことだけれど……旦那さんの、嫌いなところってのは?』
「……清姫さんのことは、知っている?」
『知っているとも。今日起きた出来事もね。──でも、あれは仕方のないことじゃないのかな。誰かが拒絶しなきゃ、彼女はずっとあのままだったとぼくは思うよ』

「私は清姫さんの愛情も、立派な愛だと思ったの」私は肩をすくめつつそう答えてやる。「昔の男性に似ているからって理由で新しい男性に想いを寄せるのは、ありふれたことよ。男としては面白くないかもしれないけれど、それが偽物の愛だなんて、私には思えない」

『だから、清姫の愛情を否定するつもりはない、ってことかい?』
「そうよ。でもあの人は、それを否定しちゃった。昔から、立香のことになるとムキになる人だったから」

 私は小さくため息をつく。あの人は、立香を大切に思っている。それはとても良いことなのだけれど、それと同時に冷静でなくなってしまうところがある。今日の出来事などはその象徴とも言えるだろう。痛し痒しだ。

「子供を何よりも愛するのは素晴らしいことよ。でも、だからといって少女の恋心を否定していいわけじゃない。あの人のそういうところは、嫌いかな」
『息子想いの良い父親だと思うけどな、ぼくは。マシュのことも見ていてくれたし』
「息子想いすぎるのよ、あの人は。……私は、他人の人生を否定するつもりはない。そんな権利は私にもあの人にもない。私はただの母親だし、あの人もただの父親だもの。だから、あの人のそういう勝手な部分は、治してほしいかな」

 結婚してからずっとそう思っているんだけどね、と私は苦笑いする。

 夫は清姫を傷つけてしまった。どっちがどれだけ悪いとか、そういうのはないのだけれど、いつか謝っておかなければならないだろう。それだけは確かだ。でもあの人は身勝手で頑固なところがあるから、果たしてうまくいくかどうかわからない。

 大切な人のためなら、なんでもしてしまう身勝手な人。たぶん、これからもそういうところはずっと変わらないだろう。

「……でもね、感謝はしてるんだ」
『感謝?』
「だって、立香に会わせてくれたんだもの」

 正直照れくさくて仕方ないのだけれど、私は思ったことをそのまま話してやった。

「立香に会わせてくれた。ただそれだけで、あの人の嫌いなところなんて、どうでも良くなった。何千何万と感謝しても足りないくらいに、この人と結婚して、良かったと思えたの。そういう意味で、私はあの人に感謝してる。立香を愛してくれるあの人と結婚して、本当に良かったと思っているわ」

 その立香のおかげでマシュにも会えたしね、と私は付け加えた。あの二人に会えたのは、夫のおかげでもあるのだと。

『……やっぱり、あなたは美しいよ』少し間を置いてからシャパリュは言った。『ぼくに残された欠片ほどしかない知性を振り絞って、あなたと話したいと思ったのは、間違いじゃなかった』
「それは、どうも」

 私は恥ずかしさを隠すように返した。あの人は、家族のためならなんでもしてしまう身勝手な人だ。でもそれが私の、あの人の嫌いなところであると同時に好きなところだったりするだなんて、恥ずかしくって、言えない。

 それからシャパリュは少し黙っていた。私は急かさないでそのまま待った。

『──ごめん、あなたと話したいことは山ほどあるんだけど、もう、行かなきゃ』
「そっか」

 まるで、次の用事があるからもう行くね、というような口調でシャパリュは言う。私はそれに対して良い言葉を返すことができなかった。でも、それで良いとも思った。

『あなたと話せて、嬉しかった。ぼくの好きなものを同じように好きだと言ってくれるあなたが、とても好きだ』
「こちらこそ。私の息子とお嫁さんを好きになってくれて、ありがとう」

 こんなにもさっぱりとした見送りは初めてだ。私は遠ざかる気配に向けて手を振ってやった。あちら側に、行ってしまうのだ。

『ああそうだ。大事なことを言い忘れてた』

 遠ざかりながら、ふと思い出したかのように声が上げられた。
 大事なこと? 私は次に放たれる言葉に耳を傾けた。


『卵焼き、美味しかったよ。ありがとう』

「──あなたは」

 私は思わず固まってしまう。その言葉が意味するものを、私は知っていたからだ。

 そんな。シャパリュ。あなたは。あなたの正体は。

『私は本当に、美しいものを見た』私が固まっていると、声は心底嬉しそうに言った。『あなたも、その夫も、その子供たちも、とても美しいと思うことができた。好きになることが、できた』

 たった今理解したことが信じられなくて、私はその言葉を聞くことしかできなかった。

 それに構わず声は続けた。最期の言葉を紡ぐために。

『好きになること、それ自体が素晴らしいことだとあなたは言った。なら、私の命に価値を与えてくれたのは、あなたたちだ。だからお返しに、私はあなたたちを祝福しよう。──さようなら、元気でね』

 ああ、そんな。私は手を伸ばすのだけれど、あの子には全く届かない。そんな、早すぎる。せっかくお話できたのに。

 待ってよ。私は、もっとあなたと話がしたい。あなたの見てきたものを、あなたが美しいと思ったものを、聞かせてほしい。

 あなたが好きになったものを、私に伝えてほしい。あなたの命を、心を、その色を、私に教えてほしい。

 知りたいことがたくさんあるのに、あなたはそれを抱えて行ってしまうのか。

 お願い。待って。





「フォウくん」


 目を醒ますと、目の前には白いふわふわの獣が寝息を立てていた。

 なにか夢を見ていた気がするのだけれど、思い出せない。誰かと、話をしていたような。

 フォウを起こさないようにゆっくりと身を起こす。時計を見ると、アラームの時間まであと十分程度だった。
 私は目覚ましを解除して、着替えに向かう。朝ご飯を作らないと。私と、夫と、立香と、マシュと、フォウの分。

 さて何を作ろうか。私はほんの少しだけ悩んで、決める。 

 卵焼きにしよう。ただそれだけを、思った。