公園でフォウをひとしきり遊ばせた後、私たちは立香の通っていた高校の前にたどり着く。この高校は家からは少し遠くて、立香は自転車で通学していた。
フェンスを隔てた校庭では体操服を着た学生たちがソフトボールの練習をしていた。昼休みも終わり、体育の時間らしかった。
「ここが、先輩の母校なんですね」感慨深そうにマシュ呟く。
「そう。つい最近までここに通ってた」
中学生よりもさらに大人に近づいた学生たち。それでも友人同士でじゃれあう姿は子供っぽい。精神面での成熟はまだまだこれからだ。
立香も少し前まではここにいたのだけれど、校庭にいる彼らに立香ほどの成熟は見られない。息子はやはり人類史修復の旅とやらで一気に成長を遂げたのだ、と実感する。
たくさんの人と出会い、その生き様を知り、人類を救うために費やした一年。たった一年だけれども、それはきっと立香とマシュにとって得難い経験になったに違いない。失われた命もあっただろうけど、二人はそれさえも成長の糧としたのだ。
そうしてじっと校庭を見つめていると、ペアを組んでキャッチボールをしている女子生徒の一人と目が合った。私はすぐに視線を逸らしたのだけれど、その女子生徒はじっと私を見つめたあと、ペアの女子生徒に何か話しかけて、彼女を連れて歩いてきた。小柄な女の子と、普通の体格の娘だ。
特に顔見知りというわけでもない。どうしたのだろう、と思いながらその姿が近づいてくるのを見ていると、女の子たちはフェンスを隔てたすぐ向こう側で脚を止めて、私に話しかけてきた。
「あの、もしかして、藤丸立香先輩のお母さんですか?」
「……そうですけど?」
「ああ、やっぱり」
二人は顔を見合わせて、自分たちの予想が当たったことを喜んだ。
立香の知り合いか。しかしどうして立香の母親であるとわかったのだろう。
「文化祭と卒業式の時に、藤丸先輩と一緒にいるのを見かけたんです。顔も似ているし、もしかしたら、って思って」
「そういうことね」私はそれに納得した。「でも、どうしたの。授業中じゃないの?」
「藤丸先輩がどこに行ったのか、気になってしまって」気恥ずかしそうに小柄な女の子が言う。「先輩たちに訊いても、どこに進学したとか、就職したとか、わからなくって……」
「藤丸先輩に告白し損ねちゃったんだって、彼女」もう一人の娘が補足した。
ぎくり、として私は思わず隣のマシュを見た。彼女も呆気にとられたように固まっていた。これは、立香不在の修羅場だ。
「先輩のお母さんなら、知ってると思ったんです」と小柄な少女。「アタシ、どうしても藤丸先輩のことが忘れられないんです」
女子生徒の眼差しは伏し目がちではあったけれど本当に真剣そのもので、彼への確かな気持ちが感じ取れた。
私はどう言うべきか悩んだのち、その少女のひた向きな気持ちに応えるべく、正直に話してやることにした。
「うちの息子は、海外に就職しちゃったの。結構な僻地だから会うのは難しいと思う」
「か、海外……」
うう、と残念そうに肩を落とす小柄な少女。あちゃー、と額に手をやるもう一人の女の子。
この年頃の一般的な少女にとって海外というのはとても遠いところなのだ。ためらいなく海外へ飛んだ立香の方が変わっていると言えなくもない。
「だから言ったじゃん。告っておけばいいのに、って」
「そんなこと言ったって……」
その言葉で余計に肩を落とす少女。二人は恋の話をする程度には仲が良いのだろう。
愛の告白というのは人によっては大変に緊張するものだ。この娘の場合はその一歩が踏み出せなかったのだろう。
「藤丸先輩、顔は良いし、性格がすごく優しかったから、女子に人気だったんですよ」しょんぼりする女の子の代わりに連れの子が言う。「イケメンみたいにキャーキャー騒がれるようなタイプじゃなかったんですけど、ひそかに狙ってる子が多かったんです」
どうやら息子は、高校時代からすでにモテる下地が完成していたようだ。現在のカルデアでの状況も納得だった。
「あの、そっちの人は?」
連れの女の子がマシュの方を見る。先輩の母親と、見知らぬ外国人の少女を繋ぐ接点など普通は分からない。
「マシュ・キリエライトと申します」ぺこり、とお辞儀をするマシュ。
「あ、どうも」とつられてお辞儀を返す二人の少女。
「あー……」話がややこしくなる前に、私はさっさと真実を言ってやることにした。「この娘はね、立香の恋人なの」
「恋人……!」
「え、じゃあ、親公認の関係!?」
少女二人の顔色が変わる。小柄な方は驚愕の表情のまま固まり、もう一人の方は顔を引きつらせる。
真実を話すことは残酷かもしれないけど、叶わぬ希望を抱き続けるよりは無情な事実を突きつけてやる方がこの子たちには良いだろう、と私は思った。
「まあ、そうなるわね」と私。
「うわー。こんな美人が相手とか、勝てっこないじゃん」
「そんなぁ」
目に見えて落ち込む少女。連れの少女もマシュも、その彼女にかける言葉が見つからず気まずそうにしていた。
失恋、というやつだ。想いを寄せていた憧れの先輩が自分の手の届かないところへ行ってしまって、しかもものすごい美人をフィアンセにしてしまった。当然ながらひどい敗北感だろうとは思った。
「ううう……」
「まあ、しょうがないよ。もっといい男子探そ?」
連れの少女がそう慰めるけど、小柄な女の子はすっかり意気消沈してしまっていた。私は一瞬躊躇しつつも、彼女に人生の先輩としてのアドバイスをしてやることにした。
「誰かを好きになるってのは、とても素晴らしい経験なのよ。あなたの場合は失恋してしまったけれど、それは絶対に無駄にはならないわ」
その言葉にちょっとだけ顔を上げる少女。でもまだ納得しきれてはいない様子だ。私は続ける。
「恋をしなきゃ失うこともなかった。でも、恋をしなきゃ得るものもなかったのよ。またいつか恋をした時に、その経験が役に立つわよ」
「失恋で、得るものって、なんですか」と少女。
「『誰かを好きになること』そのものに価値があるの。好きであること、好きであったこと、その全部があなたの人生の財産になる。あなたは恋をして、それを失ったことで、人生に彩りを増やしたのよ。それは決して悪いことではない。──あなたはまだ若いんだから、これからたくさん出会いがあるはずよ。きっと素敵な男性に巡り合うわ」
連れの少女も傍らのマシュも、私の話を黙って聞いていた。
「そんなに悲しんだら、運命の人が可哀そうよ」
「運命の、人……」
少女はその言葉を受けて少し元気が出たようで、私の目を見てコクリとうなずいた。
「その、ありがとうございます」
「こちらこそ。息子を好きになってくれて、ありがとう」
えへへ、と少女ははにかむように笑った。可愛い子だ。きっとこれから良い人に巡り合うだろう。
「あの、キリエライトさん」少女が立ち直ったことで安心したのか、連れの女の子がマシュに質問した。「藤丸先輩とはどこまでいったんですか?」
「どこまで、とは」キョトンとするマシュ。
「だから、その」照れ恥ずかしそうに頬をかく少女。「手を繋いだとか、キスとか、そういうどこまで関係が深くなったかってことです」
「ちょっと、なに訊いてんの」失礼でしょ、と小柄な少女が肘でつく。
年頃の女の子だ。そういう色恋沙汰に感心があるのは当然と言えた。私はマシュに視線を向けて、答えてやるように促した。
せいぜい『生涯を誓いました』とか、そういう文句を私は期待していたのだけれど、マシュの口から出た結果は全く違っていた。
「えっと、子作りを、少々」
あまりに正直すぎる返答に少女二人と私が吹き出すのは、ほぼ同時だった。
「正直なのは結構だけれど、もう少しオブラートに包む言い方を勉強すべきよー?」
「ふにゃあ、いひゃいいぇすおひゃあさん」
マシュの両頬をぐいぐいと左右に引っ張る私。涙目になりつつ呂律がまわっていないマシュ。
「エッチした、くらいならともかく子作りなんて、あの子たちの顔見た?」頬から一旦手を放しつつ私。「確かに一度は避妊しなかったわけだから間違ってないけど。あなたの年頃で子作りなんてあんまり言うものじゃないんだから。小さい方の子なんか、びっくりして腰ぬかしそうだったじゃない」
「うう、だって……」頬をさすりながらマシュ。
その目を見ると、わずかに怒りのような感情が見てとれた。いや、これは単純な怒りというよりも、もっと別の感情が混ざっている。
私は数瞬間経ってそれを理解する。これは恐らく、嫉妬だ。
マシュは立香に想いを寄せていたあの少女に嫉妬していたのだ。だから、自身と立香の繋がりを殊更に強調したくなってしまい、あのような直接的すぎる発言をしてしまったのだ。
「嫉妬しちゃうのはわかるわよ」私はマシュの頬を包み込むように手を添えた。「好きな人を独占したいってのは、当たり前のことだもの。それだけあなたは、立香を愛してるってことなんだから」
その言葉を受けて嬉しかったのか、マシュは微笑んだ。えへへ、と私の手に自分の手を重ねる。
「だからって、子作りしました、はデリカシーなさすぎだからね」
彼女の顔に添えた手で、その頬をむにむにとこねくりまわす。みゃああ、というヘンテコなマシュの悲鳴。ほれほれ、ここがええのか、このマシュマロほっぺめ。
この娘は意外と嫉妬深い。この娘にとって立香は、己に世界の色を教えてくれた、何よりも素敵な男の子なのだ。お説教はここまでにしておこう、と私は判断した。
「──まあいいわ。じゃあ、そろそろ帰りましょう」頬から手を離して、肩に上ってきていたフォウを抱っこしながら私。「途中の商店街で夕飯の材料買っていくから」
「今日は、何を作りますか?」
「鮭のホイル焼きにしようか」フォウにほおずりしながら私は言う。「鮭と、エノキと、ニンジンがいるわ。あと牛乳がもうないはずだから、ついでに買っていきましょう」
「また作り方、教えていただけますか?」
「もちろん」
そうして私たちは立香の思い出から帰途についた。
夕飯の材料を買って、家が見えるところまで来たころには午後五時を回っていた。途中でカフェやら本屋やら立ち寄っていたらかなり遅くなってしまった。
家のすぐ近くまで来ると、門の前に誰かが立ち止まっているのが見えた。着物を纏った女性だ。しかしその髪は日本人のものとは思えないほど白い。銀髪のようにも見える。着物のデザインは白と緑で統一されていて、どことなく高貴な身分であるように感じられた。
うちに用があるのだろうか。私はそう思いながら隣のマシュに視線を向けると、彼女の顔がみるみる青ざめていくのがわかった。心なしか身体も震えている。
「ど、どうして……」
「なに、知り合い?」
「……ひとまず逃げましょう。後ろを向かず、大声を出さず、ゆっくりと下がってください」
なんだそれは。熊からの逃げ方か。
「あら、マシュさん」こちらに気づいた女性が声をかけてきた。その立ち振る舞いは奥ゆかしさを感じるほど優雅だ。「こんなところにいたのですね。お会いできてなによりです」
あわわ、とマシュの動揺する声。私は目の前にいる女性のどこをそれほど恐れるのか全くわからなかった。確かに、エミヤ氏のような浮世離れした不思議な感じはするのだけれど。
「ええと、うちになんの用ですか?」とりあえず訊いてみる私。「マシュさんの知り合いみたいだけど、カルデアの人?」
「──あなたは?」
彼女の目が私に向けられる。その瞳を見た瞬間、私の背筋を冷たいものが走った。蛇に睨まれた蛙のように足がすくんでしまう。なんだこれは。
さっき、どこが怖いのかわからないと考えたが、それは全くの間違いであることを私は悟った。この女性は、なにか、致命的な何かがおかしい。私と彼女の間には、絶対的な隔絶が存在する。それが、わかってしまう。
「……私は、藤丸立香の母親です」質問を質問で返されたというのに、私は素直にそう答えてしまう。震えそうになる声を何とか抑え込む。
「まあ……!」笑顔を浮かべる女性。「マスターのお母上様だなんて、わたくしとんだご無礼を働いてしまいましたわ。質問を質問で返してしまって、申し訳ありません」
そうしてペコリ、と頭を下げる。普段なら釣られてこちらも頭を下げるのだけれど、この女性の前ではそんなことをする余裕もなかった。私は今、なにかとんでもないものと相対している。それが背中の筋肉を硬直させてしまい、動かすことができない。
「わたくし、藤丸立香様のサーヴァントをしております」手にした扇子を口元に当てて、女性は言った。「クラスはバーサーカー。名を清姫。どうぞよろしくお願いしますね」
安珍清姫伝説、という伝説が現在の和歌山県に存在する。
文献によって内容に差異はあるのだけれど、おおむね、安珍という僧侶に裏切られた少女が激怒のあまり蛇に変化し彼を焼き殺す、というものだ。火を吐く蛇なので竜と解釈する場合もある。
そしてその蛇に変身した少女の名が、清姫だ。
清姫が旅の僧侶安珍に惚れて想いを告げるところから物語は始まる。女だてらに夜這いを仕掛けるのだが「熊野詣の最中だからダメだ」と拒絶されてしまう。巡礼を理由にフラれたのだ。
それでも「参拝の帰りには必ず会いに来る」と約束してもらえたのだけれど、安珍は結局立ち寄ることなく去ってしまった。
これに激怒した清姫は追跡を開始。なんとか安珍に追いつく。ところが安珍は「別人です」などと嘘を重ね、さらには神に頼んで清姫を金縛りにさせるなどして逃亡を続けた。
とうとう清姫の怒りは天を衝き、巨大な蛇に化けて安珍を追い詰める。
安珍は道成寺という寺に逃げ込み、そこの鐘を下して中に隠れることで清姫をやり過ごそうとした。
しかし清姫は鐘に巻き付いて猛烈な炎を吐き出し、安珍は鐘の中で焼き殺されてしまう。安珍を殺した後、清姫は失意ののちに入水自殺する。
とまあ、こんな筋書きの話である。平安時代末期に成立した「今昔物語集」にも記載されている割と有名な話だ。浄瑠璃や歌舞伎の題材にされることもある。
私は「源氏物語」を始めとした古典文学が好きだったので安珍清姫伝説のことも知っていた。
しかしそれにしても──その清姫が息子に召喚されていただなんて。
私は彼女をリビングに通し、お茶とお菓子を出すことにした。どれだけ恐ろしい存在であろうと来客は来客だ。立ち話をし続けるのは失礼にあたる。
「ご丁寧にどうも」
ソファーに座りながら清姫が言う。その隣にはガチガチに固まったマシュ。テーブルを挟んだマシュの正面には私。そして私の隣には──
「で、これはどういう状況なんだ」釈然としない表情の夫が座っていた。幸か不幸か、清姫を家に入れたのとほぼ同時に帰宅してきてしまったのだ。「サーヴァントってなんだ。まったく意味がわからないんだが」
「えーと、どこから説明したものか……」
適当に作り話で済まそうか。そう考えてふと清姫の方を見やると、にっこり笑ってこう告げてきた。「母上様とはいえ、嘘は許しませんよ。わたくし嘘が何よりも嫌いなので」
ぞくりと背筋が凍る。目が笑っていない。これから私が話すことの一語一句の誤魔化しすら見逃さないと言わんばかりの真剣さと冷徹さがその眼差しから感じられた。彼女は本気で『嘘』が嫌いなのだと私は理解する。彼女が伝承通りの存在なら、下手をすれば安珍のように焼かれかねない。
確かに安珍にひどい嘘をつかれて傷ついた経緯が彼女にはある。けれどもそこまで蛇蝎のごとく嫌わなくても良いじゃないか。私は心の中で毒づく。
悩んだ末、私は素直に説明してやることにした。それが一番安全だし、手っ取り早い。
息子が魔術師であること、英雄偉人を召喚して使い魔として使役していること。目の前の少女が安珍清姫伝説の清姫であることをかいつまんで夫に説明してやった。それからタイムマシンのことも。清姫の視線を感じながら伝えるのはとても緊張した。
「立香が魔術師、ねぇ……」
説明を終えても、夫は相変わらず微妙な顔つきだった。そりゃそうだ。いきなり自分の息子が魔法使いだなんて言われて、なんの根拠もなしに信じる方がおかしいのだ。
「で、その清姫さんがうちになんの用だい」夫が尋ねる。「マシュさんの同僚ってんなら、連れ戻しに来たのか?」
「いいえ、わたくしはただ、マスターに会いにきただけです」
「どういうことだい?」夫は首をかしげる。
「マシュさんが家出したというのなら、そこにマスターはやってくるはずです」
「まあそりゃそうだが……カルデアにいるんだろうから、そのまま会えばいいのに」
「マスターはどこかの時代に飛んでしまっていて、私単独では会えないのです。どうも独立戦争時の米国にいるようなのですが。……でも、近いうちにここにくるという直感だけはありましたので」
なるほど、今会えないのなら先回りしておけばいいというわけだ。実に戦略的だと私は思った。少女の身でありながら成人男性の安珍に追いつけたのは、こういう頭の良さと勘の鋭さもあってのことだったのだろう。獲物を追い詰める蛇のようだ。
しかしマシュが家出したというのに、二百年以上前のアメリカに立香がいるというのはどういうことだろう。なにか仲直りのプレゼントでも調達しているのだろうか。
「ずいぶんと立香にご執心なんだな」
「はい。わたくしはマスターの妻ですから」
なぬ? 私も夫も怪訝な顔をした。マシュの顔はこわばったままだった。
清姫はそれに構わず続けた。
「マスターから聞いておられないのですか。わたくし、藤丸立香様の妻をしております、清姫です」
ぺこりと頭を下げる清姫。
そこで私は察する。これはまた、とびきりの修羅場がやってきてしまったのだと。
「……立香の嫁さんは、そこのマシュさんだって聞いてたんだがな」と夫。「あんたは、勝手に自称しているんじゃないのか?」
「まあ、ご冗談を」にこりと微笑む清姫。しかし目が全く笑っていない。「わたくしたち、相思相愛の仲なのでしてよ?」
「せめて、どうして立香の嫁だって言うのか、理由を訊かせてくれないか」
夫が腕を組んでソファーの背もたれに体重を預ける。この人がこの姿勢になるのは、相手への警戒を強めている時だと私は知っていた。この人は今、清姫を注意深く吟味している。
それを知ってか知らずか、清姫は不敵な笑みを浮かべる。
「マスターがわたくしを召喚したからです。わたくしと惹かれ合う定めにある魂は、この世のあらゆる命の中でも安珍様のものだけ。ならばこそ、わたくしがマスターを伴侶と認識するのは当然のことです」
「……立香が安珍とかいう僧侶の生まれ変わり、って言いたいのか。だから、あんたは立香を愛してるのか」
「ええ。まさにその通りです。理解が早くて助かります、お父上様。……私は、安珍様を愛しています。本当に、心の底から愛していたのです。この心を偽物と呼ぶのなら、世界に真実はありません。だから──燃やしたのです。愛で、悲しみで、ただ燃やしたのです」
手にした扇子をパサリと広げ、口元を隠す清姫。その動作からは貴族の娘であることを感じさせる優雅さが感じられる。しかし彼女からにじみ出る狂気がそれを打ち消してしまう。
清姫はジロリ、と隣に座るマシュを見た。こわばっていたマシュの身体が小さく跳ねる。
「わたくしとマスターが愛し合っているというのに、マシュさんときたら。マスターをたぶらかして、夜な夜な淫らな逢瀬を繰り返すだなんて。あんな、破廉恥な行為を」
うわぁ、この娘だったのか。通気口のダクトから立香とマシュのセックスを目撃してしまったのは。私はその事実に納得しつつ戦慄する。よりにもよって、清姫に目撃されるなんて。
確か文献によれば清姫が安珍に恋したのは数え年で十三歳、現在主流の満年齢では十二歳のはずだ。貴族の娘として蝶よ花よと愛でられ育てられた彼女にまともな性知識が無くてもおかしくはない。
「わたくしの伴侶たるマスターをたぶらかしておきながら、彼を怒鳴りつけて飛び出すなんて、彼の伴侶にも、サーヴァントにもふさわしい行動とは思えません。あまつさえマスターのご実家に、迷惑も顧みず転がり込むなど……」
「……私はマシュさんを迷惑だなんて思っちゃいないわよ」清姫の不遜な言い方にいら立った私は言い返す。「少なくとも私は、マシュさんを立香のお嫁さんとして認めているわ。彼女が立香をどれだけ罵倒したって、その愛情は本物だもの」
私の言葉に視線を向ける清姫。蛇のような眼差しがこちらのものと交わる。表に出してはいないが、怒っている。それはすぐにわかった。私も負けじと睨み返す。
「……清姫さん。もう一度確認したいんだが」にらみ合いを中断したのは夫だった。「あんたが立香を愛しているのは、立香が安珍の生まれ変わりだから、なんだな?」
「ええ。わたくしが愛を捧げるのは、安珍様ただ一人。その魂を持つお方なのですもの。マスターを、心から愛しております」
相変わらずの答えが返ってくる。私はその答えにいら立ちをつのらせつつも、言い返せない。この少女の狂気は並大抵のものではない。彼女の目を見ればすぐにわかる。
バーサーカー(狂戦士)との自称は伊達ではない。この少女は会話こそできるものの、想像を絶する狂気でその心を満たしている。私はそれを理解した。
異形の血を引かぬただの少女が、竜に変化するほどの狂気。まさしく愛に狂っているのだ、この少女は。
どうすればいい。私は悩んで、それから夫の顔を見ようとして──
「ふざけんじゃねぇ」
ぴしゃり、とその場の空気をはねのける声が耳に響いた。私はその声が夫のものであると認識するのに数瞬間ほどかかってしまった。明確な怒りを秘めた、夫の低い声。二十年あまりの付き合いの中で、夫のそのような声は聞いたことがなかったのだ。
私はとっさに夫と、その向かい側に座る清姫、それからマシュの顔を見た。夫の顔は険しくて、それとは対照的に清姫もマシュも驚いたような、それでいてわずかな恐怖を感じたような、そんな表情をしていた。きっと私も二人のような顔をしているのだろう。
呆然とする私たちをよそに、夫は固く結んでいた口をゆっくりと開いた。
「俺のせがれを、バカにするな」