青空の花嫁   作:スカイリィ
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第一話 群青の恋

 カルデアに帰還してからしばらくの間、立香とマシュの生活はとても幸せなものだったとマシュは語った。具体的には性生活が。

 ただ、今までの旅で培った全情動を互いの身体へぶつける連日連夜のセックス、というわけにはいかなかった。周囲の人間の目もあるし、世界を守る仕事だってある。ただそれでも隙を見て二人は愛を育んだ。

 ねっとりと絡み合う甘い蕩けるような交わり。
 だらだらと長時間続く惰性的な交わり。
 獣としか思えないような暴力的な交わり。

 それらは二人にとって至福の時間だった。愛し合う若い男女、しかも強い絆で結ばれた二人にそれを禁ずるのは酷というものだ。避妊はしているし、万が一妊娠しても年齢が問題なだけで互いに添い遂げる気持ちはある。躊躇う理由など無かった。

 察しの良い何人かはそんな二人の関係に気づいていたようだったが、空気を読んでくれたのか表立って話題になることはなかった。

 ところがある日を境に状況が一変した。

 とある女性サーヴァントが立香の部屋の換気ダクト内から失神した状態で発見されたのだ。

 彼女は立香に思いを寄せる一人だった。立香とマシュの関係を疑って、換気ダクトを通じて忍び込んだのだ。そして立香とマシュの交わりを見て、気絶した。

「いや、なんでセックス見ただけで気絶するの」そこまでの説明を聞いていた私は思わずそう尋ねていた。
「彼女には、性知識がまるで無かったんです」マシュは私からの質問に対し気まずそうに答える。「年齢と育った環境を考えれば仕方ないのですが、どうも布団の中で恋人同士抱き合って、愛を囁けば子が成せると思っていたようで」

 うわぁ、と私はその少女の受けた衝撃を想像して、少し同情した。つまり図らずも、コウノトリやキャベツ畑を信じているような女の子に完全無修正ポルノを見せつけてしまったのである。しかも自分の思い人が他の女と激しくまぐわっている最中の光景を。

「彼女の証言で、私と先輩の関係が知れ渡ってしまったんです」
「別に、恥ずかしがることはないと思うけど。その女の子の目撃は別として。……立香に言い寄るのが減って、ちょうど良いんじゃない?」

「いいえ」首を横に振って、私の言葉を否定するマシュ。「むしろ競争が激化したんです」

 マシュ・キリエライトが抱かれたのなら、自分も、と。多くの女性が立香に激しいアプローチを仕掛けてきたのだという。しかも立香が童貞を卒業したことまで知られたがゆえに、それまでの遠まわしなものから直接的な誘いとなって現れた。

「まさか、立香、そのうちの誰かと寝たの?」
「いいえ。先輩は、誰とも肉体関係を持ちませんでした」

 その言葉にホッとする私。しかし、マシュの顔は暗いままだった。

「でも、その皆さんも大切な仲間なんです。先輩の立場上、邪険に扱うわけにもいかなくて……。一日だけのデートや、一緒の食事で各々を納得させていました」
「それは」

 私はマシュの感情を理解して、言葉を失う。立香の対応を否定するわけではないが、それはマシュにとってどれだけ辛いことだったろうか。

「先輩と抱き合うたびに、他の女性の匂いがするのは、とても悔しかった」ぎゅう、とマシュは自身のスカートの裾を握りしめた。「極めつけに、ある女性が私の目の前で、先輩に無理やりキスしたんです。それで、私、カッとなって」

『せんぱいのバカ、もう知らない!』
『実家に帰らせていただきます!』

 そう叫んで、マシュはカルデアを飛び出してきた。

 ことの顛末を知った私は、頭を抱えそうになる。つまり、この娘は立香に三行半(みくだりはん)を叩きつけてしまったのだ。

「私にとってカルデアが実家のようなものだったので……」
「うちに来たと」
「ごめんなさい。ここしか、思い付かなかったんです」

 浅慮な行動、と言ってしまえばそれまでだが、彼女の心には相当な負荷がかかっていたに違いない。立香と肉体関係でありながら、好きという言葉を理解しきれず、自身の好意を上手く伝えられない。

 そんな不安定な状況下で立香が他の女性と会っている。しかも彼女たちは己と違って立香への恋愛感情を明確に持っている状態だ。さぞ怖かったのだろう。それをただ耐えろというのは、この娘にとってあまりに辛い仕打ちだ。それが立香の意図したものでなくとも。

「……バカね」
「ごめんなさい」
「違うの」私は小さく震えるマシュの頬に手を添えた。「謝る必要なんてないのに、ってことよ」
「それは、どうして?」

「息子を支えてくれた女の子を拒否するほど、私は愚かじゃない」マシュの、今にも涙が溢れそうな目を見つめながら私は言った。「ましてや一度は私のことを『母』と呼んでくれた女の子だもの、あなたは。迷惑だなんて、これっぽっちも思っちゃいないわよ」

「……おかあさま」私の添えた手に自身の手を重ねるマシュ。とうとう我慢できなくなったのか彼女の両目からはぽろぽろと涙がこぼれ始めた。「おかあさま、おかあさま……」

「お母さん、って呼んでほしいんだけどな」

 ため息をついて、もう片方の手で彼女の頭を撫でてやる。
 見ればマシュの顔色は少し青白かった。食事する気力もなかったか、あるいはここまでの道のりでひどく疲れてるのか。どちらにせよ早く休ませないといけないだろう。

「うちに来なさい。疲れてるでしょ?」
「ありがとう、ございます。お母さま」
「だから『お母さん』だってのに」
「……お母さん」
「ん。よくできました」

 微笑みながら褒めてやると、マシュも涙をぬぐいながらはにかむように笑顔を作った。

 寂しい笑顔だな、と私は思った。




 何の連絡もなしに訪れた息子の恋人と、よくわからない白くてもふもふした生き物に、帰宅した夫は目を丸くした。

 弱ったマシュの代わりに私が経緯を説明してやる。魔術とかサーヴァントとかは自分でも上手く解説できそうになかったので適当にぼかした。

「立香が他の女と、ねぇ」
「かなり強引に迫られちゃったみたい」
「優しすぎるんだよな、立香は」

 ため息と同時にスーツのネクタイを緩める夫。ソファーで座っているマシュへ二人して視線を向ける。意気消沈している彼女はこちらの会話に意識を向ける余裕もないようだった。膝の上のフォウを撫でながら、ぼうっとしている。

 そんな彼女を見ながら夫が口を開く。

「マシュさんは、イギリス国籍だよな」
「そうだったはずだけど、なに?」
「九十日だ」上着を脱ぎつつ夫は言う。「イギリス国籍を持つ人間がビザ無しで日本に滞在できる期間だ。それまでには、仲直りしてもらわないと」

 夫の言葉で真顔になってしまう私。いや確かに、この人がマシュを追い出すなど考えていなかったけれど、ここまで肯定的だと逆に驚いてしまう。

「そのうち立香が迎えにくるさ。心配いらない」肩をすくめる夫。「それよりも、なんだ、あのフォウフォウ鳴いてる白い犬みたいなのは」
「マシュさんの友達。名前はフォウ」
「鳴き声そのまんまか。エサはどうするんだ」
「何でも食べるから大丈夫みたい。あとペットシートは用意してある」
「まあ、その辺はまかせる。生き物の飼い方は詳しくないんだ」

 そう言って夫は着替えのためにリビングを出ていく。その背中を見送った後、私はマシュに近づいて声をかけた。

「お腹空いてるでしょ。晩ご飯できてるから、食べなさい」





 夕食も終わって風呂も入って、あとは寝るだけになったころ、私はマシュの寝床を訪れた。以前と同じ、来客用の和室だ。

 中を見ると、彼女はパジャマ姿で布団の上に正座し、膝の上にフォウを乗せてその頭を撫でていた。

「……お母さん?」私に気づいて顔を上げるマシュ。
「体調は、大丈夫?」
「ええ、はい。大丈夫です」
「何か欲しいものはある?」
「いいえ、特には」
「そう」どう見ても大丈夫とは思えない様子の彼女の隣に座る私。「でも服とか下着とかは、明日買いに行きましょう。好きな服、買ってあげるから」

 マシュはほとんど着の身着のままでカルデアを飛び出してきたらしく、以前のように替えの服を用意していなかった。立香がいつ迎えにくるかわからない以上、買いそろえる必要があった。

「そんな、そこまでしてもらうわけには」
「また次来た時こっちに着る服があれば、いちいち持ってこなくてすむでしょう?」
「それは、そうですけど」
「別に気を使われるほど貧乏じゃないから。何十着も買うわけじゃないし、立香が独り立ちして、お金が浮いているくらいなんだから」

 だから安心して。そう言って私はマシュの頭を撫でてやる。反論できなくなったマシュは申し訳なさそうに顔をうつむかせていた。

「……どうして、ここまでしてくださるのですか」撫でていると、ぽつりと呟くように彼女は言った。「私は、約束を破ってしまったのに」
「約束?」

「先輩とずっと一緒にいるって、約束したのに」マシュは自身のパジャマを握りしめる。「あなたと、先輩と、約束したのに。私のわがままで、こんなことになって」

「私はあなたに『立香の奴隷になれ』なんて言ったつもりはない」毅然とした口調で私は言ってやった。「あなたが自分の望んだ生き方をして、そのうえで立香と一緒にいてくれる。そうなってくれたら良いな、って思っただけだから。あなたは自分のわがままを通していいのよ」
「でも」
「大丈夫だから」もう片方の手を、パジャマを握りしめるマシュの手に重ねてやる。「立香が必ず迎えに来るから。こんなに素敵な女の子を手放すほど、あの子は馬鹿じゃない。今ごろはあなたが家出して混乱しているでしょうけど、落ち着いたら絶対に迎えに来る」
「でも、私なんかのために」
「……あなた、自分がどれだけ立香に愛されてるか、わかってないのね」

 聞き分けの無い娘だ、と私は少しだけ叱るような感じで彼女に詰め寄った。彼女は怒られているというのが把握しきれていないのか、呆然としていた。それに構わず私は続けた。

「どう見たって立香はあなたにぞっこんなのよ。あなたのいない世界に意味を見出せるかどうか怪しいくらいにね」

 それは誇張などではなく、私が感じたままの言葉だった。立香がマシュを見つめる眼差しは、とても優しくて、それでいて危ういものだった。世界と天秤にかけてもなお、この女の子一人を選ぶほどに。この娘がいなくなっただけで生きる意味を見失ってしまうほどに、彼はマシュを大切に思っている。それが、私にはわかる。

「立香がなんのためにこの世界を救ったのか、忘れたわけじゃないでしょう。あの子は、あなたのために痛みも苦しみも、なにもかもを耐えてきたんだから。立香にとって、あなたにはそれだけの価値があるの」

 あの奥手な息子が選んだ、ただ一人の女の子。あの優しい息子が、共に生きるため命を賭して戦い続けたほどの女の子。それがどれだけ大きな意味を持つのかなんて、言われなくても感じ取れる。自分の息子が一番大切にしている宝物、それを理解できなくて何が母親か。

 優しくて、儚くて、可愛らしい、ごく普通の女の子。それこそが立香の選び取った、この世界の宝物だ。

「だから、そんなに自分を責めないで。あなたがしょんぼりしていると、立香が可哀そうよ。いつもみたいに胸を張って、笑顔でいてあげて。……あの子にとってこの世界の価値は、あなたの笑顔なんだから」

 それを聞いたマシュは、一瞬キョトンとした表情になったあと、少し照れた様子でうなずいた。その口元にようやく微笑みが戻ってくる。

「……はい、お母さま」
「お母さん、だってのに」

 言うこと聞かない子はこうだぞ、とマシュの柔らかな両頬をつまんで左右に軽く引っ張る。ぴゃあ、という間の抜けた声を出すマシュ。彼女の頬は本当に柔らかくて、幼子のそれのようだった。このマシュマロほっぺめ、としばらく引っ張ったり押したり捏ね繰り回したりして弄んでから放してやった。

 手を放したとたんにむくれるマシュ。頬に空気が少しばかり溜められるのを見計らって、すかさず両側から指で押して、ぷう、と口からその空気を抜く。幼いころの立香に良くやってやったイタズラだ。

「むう、私の顔で遊ばないでください」
「あなたが可愛いのがいけないのよ」にやりと笑う私。嘘ではない。この娘は困った顔もむくれた顔も可愛いのだ。「少しは、元気出た?」
「……はい。ありがとうございます」

 彼女の肯定が確かなものになっているのを悟った私。もう大丈夫だろう、と部屋を出ていくべく立ち上がる。

 しかし、妙な抵抗を感じてその動作を中断する。マシュが、私のパジャマの袖をつまんでいた。

「どうしたの?」
「あの、私が寝るまで……」伏目がちな表情で言うマシュ。「手を、握っていただけないでしょうか」

 立香が「眠れない」と訴えた時に、そうしてやったことを思い出す。あの子は子守歌よりもそうした方が寝つきが良かったのだ。マシュは立香と手を繋いで寝ていたこともあるし、もしかしたら同じタイプなのだろうか。

「私の手でいいなら、どうぞ」

 ありがとうございます、と礼を言ってからマシュは布団をめくってそこに潜り込む。一緒にいたフォウも彼女の枕元で寝る体勢に入っていた。明かりを消して常夜灯に変えた私はその横に座って、布団から出された彼女の手を、両手で包み込むように優しく握ってやる。

 すると、マシュはちょっとだけ呆然とした表情を浮かべた後、うふふ、と笑いをこぼした。怪訝な顔をする私。

「どうしたの?」
「いえ、先輩の手に、似ていたので」
「こんなおばさんの手が?」

 私は自分の手の甲に目をやる。常夜灯の薄暗い光の下でもわかる。お肌の曲がり角と呼ばれる年齢はとうに過ぎ去り、ツヤもハリも無くなりつつある私の手。皿洗いや洗濯で指紋も薄くなっている。皮膚の薄いところでは血管が浮き上がり、手全体が徐々に老婆のそれへと変貌を遂げようとしている。立香の若々しい手とは、似ても似つかない。

「綺麗な手です」そっと握り返してくるマシュ。「先輩と同じ、暖かくて、優しい手です」
「……立香と同じ、ね」

 その言葉を反芻する。そして思い出す。生まれたてのころ、私の指を握ってくれた小さな手。腕相撲で手加減してやれた幼いころの、頑張ろうとする手。夕暮れの街を帰る時の、一緒に繋いだ手。そのすべてをこの手は覚えている。

 それだけ立香と手を繋いでいたというのに、私はマシュの言ったように「似ている」と考えたことなんて一度もなかった。むしろ夫の手に似ているのではないかと思っていたほどだ。

 でも不思議と違和感がなかったし、マシュがそれを気づけたことも納得できた。この娘は、誰よりも立香の手の温もりを愛しているのだから。それに似ていれば、自ずとわかるのだ。

「寝れそう?」
「はい。良く眠れそうです」

 以前に話してくれた、死の恐怖をかき消すくらい優しい立香の手を思い出しているのだろうか、彼女はとても穏やかな表情で目を閉じた。

「おやすみなさい」

 彼女が寝息を立てるまで、私は手を握ってあげた。

 可愛い寝顔だな、と私は思った。