赤い森のイリス 作:ぬまわに
深海とはどういう所だろう。
もちろん人間が生身で潜れるような場所ではない。
青い光しか届かない、もっと深くなればその光さえも届かない暗闇の世界。
意識の世界で光が届くというのはいわば普通に思考できる部分という事だ。
では思考できない部分は?
自身ですら認識できない、意識の深海。
自らという拠り所すらあやふやになってしまいかねない場所に、直人は居た。
右手を繋いでいる。右手の先にはイリスの右手があり、妖精のような顔があり、華奢な体がある。
綺麗だな、とただ単純にそう思うと、イリスはむやむやと口の中でつぶやき、やがて言った。
「
「……マジで?」
「マジで。いや不純物の混じってない褒める感情って中々気持ち良いんだけど、っておお凄い羞恥だ」
「おいやめろ一方的過ぎるだろなんでだよ」
力の抜けるようなやり取りをしているうちにふわふわとした感覚も収まり、直人もまた自身が自身である事を気づかないうちに理解していた。
他者の存在が自身を定める。
自身の意識化ではそういうものなのだろう、と何となく思った。
「そう、瞑想とかして自我に埋没すれば良いかってーっとそうじゃないんだ。自分の中に飲まれつつ、自分を認識して形どっていないとただの夢に終わっちゃう。その感覚を忘れないでおいて」
こっちだよ、と手を引かれる。
その感覚にどこかで覚えがあり、直人は不思議に思った。
それもまた伝わってしまったのか、イリスが手を引きつつ答える。
「私の分霊だね。おまじないをかけた時に私の血族名を定義付けて呪詛いじったから、縁深い私が召喚されて
わけわからん、と説明を聞いた直人は頭を抱えたい気持ちになる。
それもまた見透かされたのか、くすくすとイリスは笑った。
「ちなみにこれに慣れれば念話とかも出来るようになる。同一線上の技術だからね」
「異能は一種類とか聞いたんだが」
「それはこっちの常識。魔力や霊力を通せば形になる、現象になる、そういう形質をたまたま生まれ持って備えてるのを異能って言ってるのだろうね。私が行った場所だとそれは個体の
「あー、念話ってのは魔法なのか?」
どうだろう、とイリスは首をひねった。
「念話自体はただの限定的な意識の癒合というかくっつけてやり取りするだけのモノだからね、魔法っていう程複雑じゃないよ。ただ、こっちはこっちで別の呼び方があるかもしれないね」
さ、着いた。その言葉が聞こえた時には周囲の光景もまた変わっていた。
混沌とした青い風、その流れの中にいる。
流れの中にいながら、錨でもかかっているかのように、流される事はなかった。
「直人が認識する光景と私が認識する光景は違うけど、
そういうものなのか、と直人は思い、見回し、その青い風を心に刻んだ。
それを見計らってか、イリスは言う。
「それじゃあ行こうか、外の時間とは速さが違うからここでの時間は外での一瞬だけど、あまり長居も良くない。あまり続けると互いの感情から記憶まで読めてしまうからね」
それはそれでこの五年の間、望に何があったのかを知りたいような気がした。
ただそれはばっちり伝わってしまったようで。
「おお、イリスの記憶を覗き見たいとは太い野郎だ、私がこの手の
「ごめんなさい」
考えただけで伝わってしまう。
なんて理不尽なのかと直人は思った。
ひとしきりからかって満足したのか、イリスは直人の額に左手の指を当てる。
「ここはある意味で深層意識の中継点、ここから自我に潜る事も、集合無意識とか阿頼耶識とか量子知性とかその手のに行くこともできる。もっとも、そっちに何の準備もなく行っちゃうと戻ってこれない。その危険性だけは覚えておいてね、自己の中にこそ死はあるんだ」
「なんかさらっと凄い単語が出てきてるな、実は俺結構やばい事しようとしてるのか?」
「まさか、さ。私がついてる以上そんな事にはならないよ、ただ私がついてない時にふらふらっと危ない場所に行かないようにね」
「……俺は幼稚園児かよ」
あんよはお上手、とからかうようにイリスが言うと、光景がブれた。
どこか見覚えのある風景だ。
古びた鳥居、苔の生えた狐の石像、樹齢何百年なのかわからない、巨大なブナの木。
「稲荷神社?」
「そう、昔はよくカブトムシとか採りに来てたよね」
直人の家からほど近い、歴史だけは古い寂れた神社だった。
足を踏み出すと、足元で砂利を踏む音、そして感触までも伝わる。
「深層意識にしちゃ、随分現実的というか……」
「そ、主観的な記憶だからね。その御神木の幹に
「アルマス?」
「ああ、うん、そう呼ばれてたからね。ほらそれ」
イリスが指差す場所を見ると、直人の胸あたりの位置に手の平ほどの大きさの複雑な図形が刻まれている。
「……こりゃ罰当たりな」
「あはは、まあ直人の記憶の中だけだし。ここならイメージしやすいかなーってね」
「それで……具体的にどうすればいいんだ?」
「手を触れて『動け』、とか『我が力を導け』とか、『唸れ我が深奥の黒き
直人はげんなりして言った。
「なんで段々痛々しくなるんだよ」
「起動ワードを設定して、物凄い詠唱唱えないと動かないようにしようかって一瞬思ったんだ」
「思いとどまってくれて助かったよ」
心底からそう思い、左手をその紋章に当て、何となく目をつむり、動けと念じる。
左手が熱くなり、その熱が一瞬で全身に巡る。体の奥底から迸るものを感じ、脈動が、自分のみならず空間全てを揺らし――
◆
目の前に赤ら顔の少年がいた。
年は14、5あたりだろうか。
蜂蜜色の癖っ毛に、どんぐりまなこ、愛嬌のある顔立ちに緊張を走らせ、いっぱいいっぱいの眼差しで見ていた。
そしてもじもじと何かを言い出そうとし、躊躇い、言い出そうとし、躊躇い、深呼吸を一つして、言った。
「お師匠さま、僕と結婚してください!」
ぶは、と直人は突然の事に吹いた――が、どうも勝手が違う。
体が動かないというより、体が無いような気がした。幻覚を見ているような、自らが幻覚であるような。
「ライール」
聞き覚えのある声がした。ついさっきまで聞いていた声だ。透き通った、鈴のような声。
体が動き、困ったように頬を掻く。
「ライール、それは何かの比喩でなく、男と女の関係になりたいという事で良いのかな?」
「あ、あけすけ過ぎです! でも、はい。お師匠様と、その、そういう関係になれればなあ、と」
「結婚の方がよほど重い事だろうに、そこに恥ずかしさを感じるとはね」
くすくすと笑い声が響いた。
一枚板で作られた素朴なテーブル、そこに置かれた湯気を立てるカップを一口。
亜麻のカーテンが風に揺れた。
答えをじっと待つ少年に、ゆっくりと、諭すように答えた。
「君の成長を、嬉しく思う。でも、君も一端は知っているように私は色々面倒臭い身の上だ。いや、面倒くさい事情しか無いと言ってもいい。一人前の女として君に応えてあげる事なんてできないんだ」
そんな、と何か言いかけた少年の前に指を出し、続けた。
「だからね、賭けでもしよう。どんな形であっても私を組み敷いてみせれば君の勝ちだ。イリスは君のものになる」
「も、ものだなんて」
言いかけた少年の口を指をつけて閉じさせると、ふふ、とおかしげに笑った。
「もう滅びた私の一族の婚礼の言葉なんだよ。『ダ・ルタ』『デ・ロテ』君のもの、私のもの、という古い言葉だ。これをフルネームの後に付けて交互に呼び合うのが習わしなのさ」
お、おお、と少年は目を輝かせた。
もっとも、と肩をすくめてイリスは言う。
「こんな事を始めたのは魔族たちが揃って追いかけてくる時期があってね、追い返すのに丁度良い方便として使い始めたのだけどね」
「……そんなこっちゃないかと思ってました」
お師匠さまですもんね、と少年は深い溜息を吐く。
イリスはくつくつとからかうように笑い、言った。
「そう言わない、ただの賭けとはいえ誓約の精霊まで使って百年近くも続けた事だ、高位悪魔でも縛れるほどの呪詛に近くなっている。とんでもない強制力だからね、勝てば私を得られるが、負ければ絶対に得る事は出来ないよ」
つと何かを考えるように首を傾げた。
「君の器量はかのレオンハルトに勝るとも劣らないものだ。ただ、まだ力のピークではない、もう少し勝機を見てからにした方が良いんじゃないか?」
少年は苦く笑った。
「リーダスが戦争の準備をしているようです。早ければ来春には来るだろうと」
イリスは無言でカップを傾け、わずかに重くなった声音でそうか、と言った。
「国境は君の故郷だったね」
「はい」
「君が行かなくても国が軍を出す」
「僕が自分の手で守りたいんです、それに……」
「腑抜けた貴族達には期待できないか」
イリスは何かを思い起こすかのように目を瞑り、小さく息を吐いた。
そして目を開き、言った。
「分かったライール。賭けは賭けとして、最後に君を厳しく鍛えさせてもらおう」
びくり、と少年が身を硬直させる。
「私は英雄なんて嫌いだ、他人の夢を背負い、他人のために自分を捨て去る。それを強いられ、利用され、しゃぶり尽くされ、本人が死してなお名前を使われる。君の曽祖父がまさにそうだった」
だからね、とイリスは椅子から立ち上がり続けた。
「君を英雄になんてさせない、これまで教えなかった悪いやり方をたっぷり教えよう。人の悪意に負けないよう、謀略と暴力を。殺意に負けないよう、恐怖を」
早まった、と顔に書いてある少年はガクガクとその身を震わせている。
「せ、戦場に行く前に心が死んでしまうような気がしてならないんですが」
「随分長い間、恐怖そのものとも言われた私だ、その味に慣れておけばどんな戦場でも乗り切れるよ」
さあ、とイリスの華奢な手が、がっちりと少年の腕を掴む。
少年は最初の勢いはどこに行ったのか、ひっと悲鳴を飲み込んだ。
◆
夢を見ていたかのようだった。
目を開けた時、一瞬今どこにいるのか、何をしているのかがすっぽり抜け落ち、ぶるぶると頭を振る。
日の出直前の薄暗さ、騒ぎ始めた鳥の声、目の前に仰向けで寝ている真っ白な夏希の姿。
「無事動かせたみたいだね」
イリスのその声に振り向き、そして先程見た光景を思い出し、直人は硬直した。
数秒固まっている直人を見て、イリスは首をかしげる。
「どうしたんだい?」
「……あ、いや。なんだ、うん。あの空間に長居は確かに禁物だったな」
「ああ、酔ったかな? ああいう所だと時間の感覚も空間の感覚も実際と違いすぎるからね、そのズレで酔う事があるんだ」
「あー、まあその、そうだな」
直人は髪をがしがしと掻いた。
あれはきっとイリスの過去なのだろう。
確かに何をやっていたか興味はあったが、本当に見てしまうとは思わなかったのだ。
そして年数。
あれが本当なら、こちらの五年の間、どれだけの時間を過ごしていたというのか。
外見は確認できなかったが、きっと変わっていないのだろう。
(エルフだから長寿って事か?)
直人の中のイリスの位置付け、とても複雑なそれがまた一つ難しくなってしまった。
あの誓いの言葉の意味など考えると難解至極になりすぎ頭痛すら起こりそうだ。
「さて」
イリスがぽんと直人の肩を叩いた。
物思いにふけっていた直人は急に現実に戻され、少々の挙動不審を見せる。
少し不思議そうにしたイリスだったが、まあいいかと言うように頷き、言った。
「
直人の首から下がっている
「君はきっとこれを異物のように思ってしまっているだろうからね、力の大元として使うには自らの一部であるかのように思わないとなんだ。息を吸うように、腕を曲げるように、新しい一つの器官が出来たように思うと良い」
「ぬ……そりゃあ、なんだか難しそうだな」
「大丈夫、何のための制御紋だと思ってる? すでに無意識下では動かせているんだからそれをどうやって意識下に置くかって事さ」
とにかくやってみる、とあぐらをかき、集中するように目を閉じる直人。
イリスはふと思いついたように手をぽんと叩いた。
「直人、ラファエロはそれを“ゲオルギウスの心臓”と呼んでいたけど、最初に使った人がたまたまそういう名前だっただけなんだ」
言葉を切り、どう言ったものかと悩むように視線を空で遊ばせ、続ける。
「私は精霊とか幽霊、怨霊、その手の感知できないはずの存在と相性が良い。感応しやすいのだけど、その直人の
砂漠の神、アシュ。
イリスはそう言った。
「
くすり、と小さくイリスは笑う。
「神とか悪魔っていう存在にはよくある事さ、人間とは尺度が違うだけにその性質もとんでもない事になる。それは力を流動させるためだけに、この世界と他の世界をつなげてしまったんだ。だからそれは『門』でもある、そして五年前に分かたれてしまった鍵は既に譲渡されてる、あとは直人がそれを開くだけでいい」
――門。扉。力の流動。
イリスの言葉を聞きながら、直人は何となくイメージが固まってくるような気もした。
それは丹田だろうか、心臓だろうか、頭だろうか。
どれとも違う。体内ではない、体外にあるその扉。誰にも触れず、見えず、感じ取れないそれを、そっと押し開いた。
「お……おお!?」
直人は目を開け、そのあまりの力強さ、湧き出る力に驚きの声を上げた。
凄まじい全能感に身を灼かれ、やがてそれも感覚が慣れたのか、制御紋とやらが仕事をしたのか、感覚が落ち着いてくる。
「よくやった、直人」
イリスは褒め、直人の手を掴んだ。
「力を貰うよ」
そして次の瞬間、世界を掴めそうなほどの全能感もなんのその、凄まじい勢いで力が抜け、直人はへたりこんだ。
「ディ・イル・クルス・アズ・ディメン――」
徐々にイリスの言葉に不思議な抑揚が混ざり込み、やがて何人もの人間が同時に別々の歌を奏でるような旋律へ続く。
今度の詠唱は長かった。
朗々と、そして子守唄のように続き、変化が起きる。
風、と直人は思った。
だがそれは風なんていうものではなかった。
青白い光、蛍のようにも見えるそれが群れ、集まり、吸い込まれてゆく。
渦を巻き、ただ一点に圧縮され、凝縮され、何かに姿を変えていった。
とさ、と草原に体の落ちる音がする。
その光の塊にも似た何かは、佐藤夏希と寸分違わぬ姿をしていた。
「へ?」
直人は間の抜けた声を上げ、固まる。
イリスは、一仕事終えたように、ふうと息をつくと直人に振り向き、頷く。
「直人、じっくり見るチャンスだよ。あれ佐藤さんとまったく同一の体だから」
「いや待てそうじゃない」
全裸であることには違いないので、直人は目の毒だとばかりに傷だらけになってしまっているシャツを脱ぎ、かぶせた。先程の脱力感も忘れ、混乱した様子でイリスに聞く。
「なんで夏希が増えてるんだよ!?」
「ん、ラファエロ対策だよ。あれはもうホムンクルスにしか定着しないように魂を作り変えてるからね。佐藤さんと同質の
いわば専用の牢獄だね、とイリスは笑う。
「いや、複製って、ええ、そんな簡単にできちゃっていいのかおい!」
「そりゃまさか。核になってる賢者の石から髪の毛一本まで同量の複製だよ? エネルギー換算だけでもどこかの世界で小さい林の一個か二個は消滅してるんじゃないかな」
「……消滅?」
物騒な言葉に直人の頬が引きつった。
どういうこった、と言うと、イリスは不思議そうに首を傾げて言う。
「エネルギー保存の法則を覆すような法則もあるけど、君のそれは原則的に等価交換なんだ。豊穣と荒廃、別の世界から力を持ってくればそれだけその世界の力は失われる」
それは……と絶句する直人。
何となく都合よく力を供給するもののように思っていた。
しかし、違った。
イリスが言う“アシュの半身”はただ力の流動を主眼において行う、ではその対象は?
神というのは尺度が違う、
「……まさか、人間とか消滅させてねえよな?」
「直人……そこに気づいちゃったかい?」
イリスは視線を逸し言いよどむ。
直人は答えを得た思いがした。
重い。ひどく重い。
自分の我儘のために犠牲を出したかもしれない。名も知れぬ、顔も知れぬ誰かもしれない。
全ては仮定。ただその可能性はイリスの反応を見るにきっと少なくはないのだろう。
苦いものを噛み締め、直人はうつむく。
そしてイリスは言った。
「ないない」
「……あ?」
「動物は意識とかその手のが複雑なんで還元されにくいんだ、まずは純粋な力に最も近い精霊とか神霊とかが変換されて、次にそれが根付いてる土地、最後に生き物だろうね」
いやお前、と直人は絶句する。
「……そういうもの?」
「そういうもの。考えてみなよ、五年前の暴走の時だって色々かき回されはしちゃったものの、私という動物の意識そのものは形を残したままだったんだ。世界をまるっと破壊とか、世界一個丸々創造してみる、なんて神様レベルの力でも使わない限りはそうそう動物の意識ってのは消化されないのさ」
「いやとんでもないスケールなんだが何それ」
「出来るか出来ないかで言ったら出来るよ、それ」
「そんなあっけらかんと……重荷が取れたかと思ったらとんでもねえ危険物持たされた気分なんだが」
「そりゃもう危険物度で言ったら水爆とかよりよっぽど……しかも起爆スイッチ持ってるのがただの高校生だもんね、私が権力者だったら即効で」
首をちょんと切るジェスチャーをしてみせるイリス。
勘弁してくれ、と髪をわしわしと掻く直人。
もう疲れたと言いたげな溜息を吐き、静かに横たわっている二人の白い少女に目を向ける。
「ところでラファエロの方は大丈夫なんだろうな」
「一応閉じ込めてあるけど、解析するの大好きっぽいし、そのうち出てくるだろうね」
「……それやばくないか?」
「やばいね。だから閉じ込めている間に牢獄ごと殺す」
あっさりと出た殺すという言葉。なんの気負いもなく、雑草を引き抜くような口調だった。
直人は嫌な予感がし、イリスの肩を掴む。
「駄目だ」
少し驚いたような様子で振り向き、イリスは困惑げに言った。
「何でだい? 言っておくけど、この体は夏希さんじゃないしただの肉、ラファエロはとっくに人間をやめているよ?」
「いや、そうじゃない」
ラファエロがここで死んだとしたらどうなるのだろう。
既に派手な事はいくつも起こっている。全てを隠し通すなんて事は不可能だ。
調べられるだろう、直人の想像では思いもつかない方法で、何通りものやり方で調べられ、分かってしまうだろう。その手の世界では大物の錬金術師がここで死んでいた事に。
ならばどうするか。
「直人も聞いていただろう。こいつは私個人としても親の仇だよ、邪魔はしないでほしいかな」
「お前、いなくなるつもりだろう」
今度こそ、演技などではなく、イリスは驚きに目を丸くし、もごもごと口の中で何か言い、諦めたように溜息を吐く。
「また勘かい? 仕方ない奴だね、理屈もへったくれもない」
「やっぱそうか?」
「こうして
ドーン、と爆発するような身振りを加えてイリスは言った。
「残念、ラファエロは返り討ち。弟子か同門はそのままラファエロの研究をまるっと押さえて、裏社会に名乗りを上げるって寸法さ」
「それがイリスか」
「ん、幸いラファエロの隠蔽工作も結構なものだし、夏希さん自身は検査受けても大丈夫、
直人は呆れたように息を吐き、言った。
「まっぴらだ。確かに俺と夏希は平穏になるかも知れないけど、全部お前に押し付けてぬくぬく生きるとか冗談じゃねえよ」
それに、と疲れのためか、あまり考えずに直人は言ってしまった。
「俺はお前に居てほしいんだよ」
イリスはぱちくりと目を瞬かせると、思わず、と言わんばかりに吹き出した。
「そ、その台詞は色々まずい、悲劇のヒロイン助けに来ておいてそれは……君って奴は」
くっく、と笑いを噛み殺すイリス。
ようやく自分の言葉が言葉通りのもの以外にも取れることに気がついて、直人は渋い顔で眉間を揉んだ。
笑いの発作が収まったイリスは、仕方がない、と穏やかな笑顔を向ける。
「直人には抗えないしね。ただそれだと立場をひっくり返すことになるよ?」
「ひっくり返す?」
「ん、ラファエロをこのまま協会に捕まえさせれば、それをやったのが誰かってのが出てくるからね、ならいっそ直人と佐藤さんはそっくり正体を明かして保護してもらった方が良い」
「それって……大丈夫なのか?」
イリスは頷く。
「さっき言った通り、
危険があるとすれば、と思考を遊ばせるように顎を叩き、言った。
「派閥争い、それと野良にいる鼻の効く連中かな。それについては私が二人に隠れて動く事で何とかする」
「立場をひっくり返すっていうのはそういう事か」
「私は融通が効くからね。だからそう、ラファエロについては――」
こうしよう、と裸体のまま倒れている少女の側でとん、と足を踏むとその体の上に複雑精緻な絵とも模様とも付かない光で出来た模様が現れた。
平面ではない。何層にもわたり増え続け、重なり続け、やがて球体のように膨れて行く。
「よし」
イリスが頷くと同時に、その光の塊、絵と模様で構成された球体は少女の胸へと飛び込み、消えていった。
何をやったんだと聞く直人に、イリスはニヤリと意地の悪い笑みを浮かべて答えた。
「無限に続くパズルみたいなものだよ。十二万通りの構成陣を同時に解かない限り復元修復する。復元の度に倍々ペースで構成陣は増殖する。そういった結界を作って閉じ込めてやった。昔魔神の封印用に考えた奴だったけど日の目を見たね」
「……なんかよく判らんけどすげーってのは分かった」
「そう、イリスは結構凄いんだよ」
飄々と言うイリス。
「これでとりあえずラファエロは出てこれないし、外部からはよく判らない結界の中に引きこもっているようにしか見えない。後は細々とした細工だけやっておけばいいかな」
ところで、と向き直り悪戯気な顔になる。
「眠りを目覚ますには眠れる森の美女方式が良いと思うんだけど一発佐藤さんにやってくれないかな? シチュエーション丁度いいし」
「ちょっ! 待っ……」
慌てた声を出したのは直人ではなかった。
イリスと直人は揃って声の出本である夏希を見る。
身を起こしかけた夏希はその視線を浴びると、居心地悪そうに目を動かし、やがて再び横たわり、息を整えた。目を瞑り、言う。
「……どうぞ」
「起きてんじゃねーか」
眠り姫は王子様のキスを待たずにさっさと目を覚ましていたようだった。
近づいた二人に、どこかきまり悪そうに、若干赤みの残った顔でぺこりと頭を下げる。
直人は身をかがめ、上半身を起こしている夏希を心配そうに見つめた。
「大丈夫か? 体の調子は?」
「……うん。多分大丈夫だと思うけど」
そう答える夏希に、イリスは軽く首を傾げ、言った。
「実はあんまり大丈夫じゃないんだ。佐藤さんの体はラファエロが常に乗り移れるように造られてる」
少女の心臓部分を指差し続ける。
「今はラファエロが乗り移るための基盤部分から引き剥がして、私の術でそこを塞いでる状態なんだ。定期的にそれを掛ければ問題無いと言えば無いんだけど、私と距離が開けば解けるし、時間経過でも解ける。その状態だと非常に霊体とかに憑かれやすくなるんだ」
あるいは、と考えをめぐらし、思念を誤受信して挙動が変になる時があるかもしれない、と。
「んなラジオみたいな……」
「あはは……」
致命的、とは言いにくいものの、地味に困る事態になっていた。
日常生活の中で困り事が多くなりそうだ。
さしものイリスもあれこれと考えているがぱっとした手段が浮かばない様子だった。
「やっぱりこればかりは協会の方に事情打ち明けて、良さそうな
特殊な道具を作れる異能者が居るだろうという事はイリスにも予測がついている。街中でビルに仕掛けられた結界はそれによるものだったのだ。
「――あ」
ふと思いついたようにイリスはぽんと手を叩いた。
「アレなら一石二鳥か。丁度いいかも」
「なんだ、何か良い手があったか?」
うん、とイリスは頷き、言った。
「使い魔契約ってのがあった」
「……使い魔だ? えーと、なんだ、カラスとか、黒猫とか?」
「意外とその辺のセンスは昔風だね。私のやり方の一つに魂を繋ぐ事で従属対象にするっていうのがあるんだ」
イリスは指を立て、続ける。
「佐藤さんの状況は魂が欠けてるって事、いわば凄い不安定な分子がそのままふわふわしてるような状況でね、酸素なり窒素なり、他のものを取り込んで安定しようとするんだ」
「お……おう、魔法とか魔術ってそんな感じでいいのか?」
「いいんだよ。で、それなら先に永続的な繋がりを作って安定させておけば良し、協会側にも直人の強い庇護下にあるって示せて、二度美味しい、直人はご主人様と呼ばれるようになって三度美味しいって事さ」
ぶは、と直人は吹いた。
夏希は驚くように目を丸くし、そしてもじもじそわそわと直人と自分の手元に視線を往復させる。
「……デ、デメリットとかはないのか?」
「んー、完全に魂としての主人と従者って形になるから、死が二人を分かつまでどころじゃなく、直人が死ぬと一緒に佐藤さんも死んじゃうくらいかな。あ、その逆はないよ?」
夏希はどこか琴線に響いたのか、祈るように組んだ手を胸元に置き、じっと直人を見つめ、ご主人様? とつぶやいた。
言われた本人はひどく動揺し、待て待て、と慌てて言う。
「そこまで夏希を拘束するのはアレだし、ご主人様とかあれだ、色々早いというかな、というか文字通り命預かるとかどんだけ俺は覚悟固めなきゃならないんだよそれ」
イリスと夏希は視線を交わし、ヘタれた、ヘタれたね、と息の合ったコンビネーションで頷きあった。
「まあまあ、落ち着くんだ直人。覚悟を決めなくちゃならないのは佐藤さんだし、これほどの据え膳は滅多にないよ? あの時がっつり行っておけば良かったって後悔の涙を流すかもしれないんだよ」
「だ、大丈夫、あたしはいつでもOKだから」
視線を外した直人は何かを言おうとして言葉にならず、口の中でむにゃむにゃと言い、やがて二人に向き直り、言った。
「夏希、えーっと、なんだ、ラファエロについてはあれで良かったのか? 生みの親なんだろ?」
「逃げたね」
「逃げちゃった」
妙に息の合った二人の攻撃に、直人はなんだか目から塩気の効いた水が流れそうな気がした。
「頑張ったよな、俺今日超頑張ったよな、頑張ったはずだったよな」
イリスはがっくりと肩を落とす直人の肩をぽんと叩き、取ってつけたような口調で、よくやったよくやった、と慰めた。そのまま夏希の方を向く。
「まあ、直人をイジるのはこの辺にして、その辺りは私も気になるね。恨みが残るなら全面的に引き受けるけど」
とても男らしい台詞を言うと、夏希は苦笑し首を振った。
「あたしにとっては確かに造物主だし、親なのかもしれないけど。支配されるのが当たり前に造られてるから、好きとか嫌いとか思える存在じゃないかな。お父さん、お母さんは今の家族がそうだとしかやっぱり思えないし……それも、そういう役割だったんだけどね」
寂しそうに、無理した笑みを浮かべる夏希に、イリスが何か言おうと口を開き、それよりも先に直人が言った。
「嘘じゃ無いんだろ?」
「え……」
「この五年間さ、色々あって、その時の感情は嘘じゃないんだろ? だからあんだけ悲しんで大泣きしてさ。ならそれで良いとは言わねーけど……その五年間の事は認めて大事にしてくれよ。俺だって一緒に過ごしたんだしさ」
「あ……」
夏希の大きく開かれた目に涙が溜まり、一筋二筋と流れ落ちた。
「ちょ……あぁ、もう。は、葉山くん、胸貸して、駄目だよ。そんな事言われたら駄目、泣く」
すがりつき、肩を震わせる夏希を、若干挙動不審になりながらも受け止め、あやすようにその背中を叩く直人。
イリスは束の間二人を穏やかな顔で眺め、そして空を見上げ、息を吐いた。
夜明けの透き通るような空に