赤い森のイリス   作:ぬまわに

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七話

 高く登っていた月は傾き、夜風はわずかな湿り気を帯び、ひんやりとした空気が包む。

 どこか遠くで若いホトトギスが夜通し声の練習をしているのか、濁音の交じる鳴き声が響いた。

 深夜と早朝の入り交じる時間、山の清澄な空気に油のような、血のような、あまり気持ちの良いものではない臭いが入り混じり、それを嫌うように白く細い腕がふらりと揺れ、後を追うように風が吹き抜け、臭いを散らす。

 切り刻まれた無数の残骸はその風を受けると、何千倍もの早回しの映像を見ているかのようにひび割れ、粉々に朽ち、塵となり、風に吹かれて草原に飲み込まれるように消えてゆく。

 

「土は土に、灰は灰に、塵は塵に、だっけ?」

 

 キリスト教で有名な葬送の一文句を言うイリス。

 次いでふと思ったように続ける。

 

「不思議だよね、あの宗教って基本土葬なのに灰は灰にって言うし」

 

 昔は火葬もやってたんかなと、雑談でもするかのように傍らの直人に話しかけ、待て待てと頭を振られた。

 

「なんだ今の? なんかさらっと凄い事やってなかったか?」

「ふしぎな力で原子分解を」

「あー、えー、ああ。それでいいやもう」

「うん、大丈夫だと思うけど、今説明すると相手に読まれかねないからね、後で機会があったら説明するよ」

 

 相手? と直人はぎょっとしたように顔を歪めた。

 その顔が先程、あまりにも呆気なくイリスが倒してしまった灰色の髪の男、ラファエロに向く。

 男の姿には腕が一本無く、上半身と下半身が泣き別れしている。子供が見たらパニックを起こしそうな、ちょっとしたバラバラ死体だ。人間であったならば。

 よく見れば分かたれた腹の部分からはひしゃげた歯車(ギア)や千切れた鉄の繊維、割れたガラス片が散らばり、明らかに人間どころか生物のものではない。

 

「消えてないし、もしかしてまだ生きて?」

「人形の命を問うのは難しい問題だけどね、その一体は特殊だってのは確かだよ。ただそう警戒する事もないかな。少なくともどこかの液体金属みたいに復活して背中狙ってくるってのは無いと思うよ」

「お、おお。そうか」

 

 明らかにほっとした様子の直人に、イリスは笑いかけた。

 

「いや、死地に向かっていった時にはこれ以上ないくらい勇敢だったのにねえ」

「冗談じゃねえよ、あれはもう選択肢が無いって思ったから仕方なくって奴だし……というか夏希は?」

「ん……」

 

 と、二人はその白い姿に歩み寄った。ラファエロを倒した瞬間、糸が切れたように倒れてしまったのだ。

 直人が心配そうに見守る中、イリスが触診するように額、そして心臓部に指を触れると、微妙な顔をした。

 

「どうした?」

「ん……いや、ちょっと面倒かなーって。大丈夫だよ、彼女の命には別状はない。本来抗えないように出来てるのに無理してずっと抗ってたから無理が出ちゃったみたいだね」

 

 言ってみれば疲れから寝てしまっている状態だと説明すると、直人は気が抜けたように草原に座り込んだ。

 あぐらをかき、下を向いて大きく溜息を吐く。

 

「……そうかあ。まったくなあ、ホント心配させやがって」

「安心したかい?」

 

 直人はがりがりと頭を掻いた。

 

「全部片付いたかっていうと全然なんだが、それでもまずは一安心したな、まったく……何とかこいつの話を聞いて力になれるならってはずが、色々話が膨らんで膨らんで」

 

 直人の言葉が止まる。

 困ったような目でイリスを見て、あー、うーと言い出しにくそうにし、ようやく口を開く。

 

「……(のぞむ)なのか?」

「ん、だからそうだよ。五年の間に忘れてしまったかい? 何だったら君の家族構成くらいなら覚えてるけど、当ててあげよっか?」

「いやむしろ、お前の方がそのくらいしか覚えてねーのかよ、他にもほら、色々あったろ?」

「んー、時間の流れが違うというか、私の方は私の方で色々あってね」

 

 見れば判るんだろうけど、とイリスは小さく笑む。

 それはまあ、と直人は頷き、疑問げに言った。

 

「あー、ええと。女なんだよな?」

「そりゃもう。間違いもなく性別女だけど、ふむ」

 

 と、何気なく直人の右手を取り、自分の胸に押し当てる。

 控えめだが柔らかい感触をしっかりと手のひらに感じ、直人は不意打ちにむせた。

 もにもにもに、と手の上から押さえた手が動き、必然的に――

 

「ほれほれ、一応しっかりあるでしょ。何だったら下も確認するかい?」

「……っ、待て待て待て! それは何だ、色々おかしいからな!」

 

 慌てて右手をイリスから離し、動揺を抑えるために頭を振る。

 

「うんうん、生唾飲み込む程度には私の体にも魅力があったようで何よりだよ」

 

 ニヤニヤと楽しげにイリスは言った。

 直人は頭を抱えた。

 

「俺の知ってる望はそんな事……ああ、結構悪戯モンだったなそう言えば」

 

 年の割に早熟だった望は直人を引っ張り、あれやこれやと奇抜な事をしでかしては大人に怒られる常習犯でもあった。一度などは二人で作った結構大掛かりなダンボールの船で、本当に川下りをやってしまい、浸水、二人だけでなく、集めた同い年の子供達もろとも流されて中々のおおごとになってしまった事もある。

 目を細め、ふふと口の中で笑うとイリスは言った。

 

「こんな風になっちゃったし、私の家族の事を調べるついでに遠くから見てるだけにしようと思ってたんだけどね」

「いや、お前そりゃあ……何だ、俺ぐらいにゃ話せよそういうの」

「言って信じたかな?」

「信じたさ」

 

 その言葉にイリスは驚いたように目を丸くし、そして頷いた。

 

直人(なお)ならそうかもしれないね」

 

 直人は照れたようにそっぽを向き、やや躊躇ってから言う。

 

「呼び方は、望でいいのか?」

「直人、言ったように私は成れの果てなんだ。堂平望は死んでイリスになった。記憶はあるけど結局私はイリスなんだよ」

「死んだ……のか?」

「んー、聞きたかったらそのうちゆっくり聞かせてあげるよ。異世界の変な食べ物とか飲み物とか、何しろ土産話には事欠かないからね」

 

 でも今は、とイリスは立ち、振り返った。

 直人も釣られるように後ろを見て、戦慄する。

 ラファエロが何事も無かったかのように立っていた。

 幻覚でも見せられていたのかと直人は一瞬思うも、その服の損傷が、決して幻覚などではなかった事を物語る。

 

「やるなあ、短時間のうちにもうつなぎ直しちゃったか」

「間に合わせに過ぎんという事は見抜かれているか」

「どうだろうね。遠隔から使うにしては随分精細だ、本体はどこかな、それとも本体なんてとっくに無い?」

 

 どういう事だよと顔に現れる直人に、イリスは何かを思い出しているのか、どことなく寂しそうな声で言った。

 

「たまにいるんだよ、極まっちゃった研究者にはさ、自分の複製作って延々研究してるとか、ほっぽっとかれた自動人形が周囲の意思取り込んで主の模倣してるとか、魔法の術式そのものに自分組み込んで幽霊じみた存在になってる奴とか」

「……ごめん、言ってる事がよくわからねえ」

「健全だって事さ、染められてあっち行っちゃ駄目だよ?」

 

 そんな二人をラファエロ――ラファエロの人形はただじっと見ている。

 やおら、足を少し上げ、とんと踏み降ろした。

 

「退こうかとも思ったが、興味深い。吉野イリス、素晴らしい未知だ」

「決めたかい?」

 

 ああ、と人形は頷き、alzare(起きろ)とつぶやく、同時に先程踏んだ地面がわずかに鳴動した。

 イリスは一瞬目を細め、その足元を見やったが唐突に「直人!」と叫び、手首を掴み、強く引っ張った。

 小柄な少女とは思えぬ力だ。

 直人は唐突な行動に驚いたが、その背中をかすめるように、何かが凄まじい勢いで通り過ぎた。

 たたらを踏み、転がる。受け身を取って振り向くと、夏希が表情を無くし、人形の側に在った。

 

「夏希!」

「――嫌な手を、でもそれで終わらないか」

 

 無論、と人形がつぶやくと、夏希の背中に手を押し当て、何か一言つぶやいた。

 赤い霧、と見まごうばかりの濃密な何かが一瞬現れた。

 瞬き一つの間にそれは形を変え、収束し、複雑な螺旋を描き、文字を描き、絵を空に描く。

 夏希の口が開き、ラテン語にも似た発音で、朗々と、聖歌じみた抑揚の乏しい歌を歌う。

 否、それは詠唱だった。

 唄と共に空に広がり続ける、薄明の空に広がる緋の絵。それを見てイリスは、うわぁ、とどこか引いたような声を出した。

 

「……直人、一旦距離を取るよ、巻き込まれそう」

「いやまて、あいつは大丈夫なのか!?」

「魔力源として使われてるだけみたいだ、大体読めた、安全だよ、今は一番ね」

 

 直人は分かったと言う代わりに頷き、傾斜の強い斜面を走って下る。

 体重を感じさせない、走るというより飛ぶようなイリスに追従しながら。

 

 ◆

 

 深夜から早朝に切り替わる狭間の時間。

 森が静まり返っていた。

 寝静まっているのとも違う、冬の静けさとも違う。

 息を潜めているかのような重苦しさ。

 鳥どころか、虫の音一つしない。時折吹いた風が木々を揺らし、ざわめいているようにも思えた。

 イリスは珍しく、面に険しさを表し言った。

 

「こりゃまた……大層な。空間の置換……じゃなくて連結か。漠然とした存在への対処に……って霊地干渉か、というかここまで複雑にごちゃごちゃとよくもまあ」

 

 うわぁ、と若干引いたように呻いた。

 よく判らないが、まずいのかと直人が聞くと、イリスは仏頂面で返す。

 

「まずいかまずくないかって言ったらまずいよ。少なくともこれ完成するまで手ぇ出せない」

「あのでっかい、なんだ、魔法陣?」

「そう、とにかく色々なものをかき集めてごっちゃ煮にしてるような奴。あんなのがリアルタイムで書き換えられてると下手に手出ししようものなら」

「ものなら?」

 

 ボン! だねとイリスは手を広げた。

 駒ケ岳市の北部全域吹っ飛ぶほどの爆発になると言う。土地を人質にされてるようなものだと。

 おいおい、と想像が追いつかないのか微妙な顔になる直人にイリスは言った。

 

「霊脈っていうかレイラインっていうか、世界を走ってる動脈みたいな気の流れがあってね、どうもこの一年で駒ケ岳市(ここ)がそれに接続しちゃいそうなくらい不安定な霊地になってたんだ」

「ここ一年って……そういえばラファエロ(あいつ)も言ってやがったけど……もしかしてこれか?」

 

 そう言い、直人は胸元から十字架(クルス)を持ち上げる。

 イリスは曖昧な顔になり首を傾げた。決まりが悪そうに頬を掻く。

 

「半分くらいは。もう半分は私かな」

「お前なのかよ」

「いや仕方なかったんだって、色々私にも事情があるんだよ」

「あっちもこっちも事情だらけで俺はさっぱりだよ」

「あはは……まあ、状況整理は後でじっくりやるとしてだね、それはちゃんと持っておきなよ、君にとっての切り札なんだから」

 

 直人は、む、と唸り、難しそうな顔になり言った。

 

「とはいえ、今は何も感じないんだが」

「やり方は体が覚えてるだろうけど、慣れてないしね。補助(アシスト)用の制御紋は刻んでおいたからそれさえ動かせれば結構簡単にいけるとは思うんだけど」

「……いつの間に?」

 

 おまじないだよ、と言うイリスに直人はあの時か、と額を押さえた。夏希の元に向かう直前だ。

 

「なんか精神干渉というか、内面作り変える系の呪詛があったからさ、ちょいちょいっとイジってね、それ自体を作り変えておいたんだ」

 

 ちょいちょいっと指を動かすイリス。

 直人は微妙な顔になり、溜息を吐く。

 

「なんかあっちにイジられこっちにイジられ、改造人間にでもなった気分だな」

「肉体的にはちょっとした超人なのは間違いないよ、十字架(それ)起動させてれば不老不死の上、ほぼ天井知らずのパワーアップが出来るわけだから。やったね特撮ヒーロー」

「不幸な過去とか倒すべき敵とか要らないからな!」

「訳ありの綺麗なお姫様は居るんだから」

 

 と、夏希が居る方を指差し、イリスは笑った。

 

「敵には不自由しなくなるよ」

 

 直人は渋い顔で、自らの額をごんごんと叩き、言う。

 

「だから夏希とはそういう関係じゃ……」

「あれだけ熱烈な告白されておいて逃げるのはちょっと感心しないね」

「ぐ……あ、あれも見てたのか」

「もち」

「いや……でもな、いきなりで、というか……いや、今そんな話してる場合じゃねーだろ!」

 

 ヘタレた、と楽しげにイリスは笑う。

 そして自らの髪を、あまり意味もなく指でくるくると巻きながら言った。

 

「ラファエロのやってる事は至極単純なんだ。霊脈を動脈に例えれば、それに連結する一つの人工血管を作ろうとしてるようなものでね、それもあまりに色々ごちゃごちゃとした術式なんで手出しのしようもない状態なんだよ。ちょっとバランスを崩せば霊脈から色々吹き出してきて、あっという間に地獄の出来上がり」

 

 そう言い肩をすくめる。そして少し機嫌の悪そうな顔になり、言った。

 

「ちょっと腹の立つのはね、()()()を見切られてるって事だよ。情報は決して多くなかったはずなのに、最低限、私があれの術式を見抜いて、それが終るまで傍観するだろうってね」

「足元見られてるって事か?」

「そう、だからまあ人質ってわけさ、頭の回る敵ってのはどうも……とか何とか言ってるうちに終わりそうだね」

 

 丘と森を挟み、ラファエロや夏希の様子をうかがい知ることはできない、ただ空に描かれた模様、蠢き、姿を変える巨大な魔法陣は回転を段々と早めながら収束し、小さくなってゆく。

 薄明の空を赤く染めていた魔法陣はふっと、何も無かったかのように消え、不気味な静けさだけが残った。

 直人は高まる緊張感の中、身構え、唾を飲み込む。

 ごくりという音が妙に大きく聞こえたような気がした。

 

「……お、終わったのか?」

「んー、多分。これで完了だろうね。ただ問題はこんな大規模な術式使って何をしたかったのかって事さ。不安定な霊地を一級霊地に変えたってだけだし」

 

 相変わらず緊張感の欠片もなく首をひねるイリス。

 そして、とっさに直人が動けたのは、いつも頼りにしている直感以外のなにものでもなかった。

 ただ、ヤバいと思った。

 そして何か頭で考える前に、イリスを庇い、覆いかぶさっていた。

 衝撃と轟音、背中を灼く熱さを感じると同時に、やっと直人は自分がイリスを攻撃から庇った事、そして今度は何とか()()()()()事に安堵し、力が抜けた。

 ――違った。力そのものが入らない。焦げた臭いが鼻をつき、自分は結構危ないのではないか、と直人は今更な思いを抱いた。

 

「――ばッ、直人! あほばか何やって」

 

 おう、大丈夫かと声を出したつもりになって、まったく声が出ていないことに気づく。

 イリスはひどく慌てた顔で直人の体を両手で抱きしめるように抱え、険しい顔で目を閉じ、集中した。

 

「ディ・イル・ル・クルス・ディ・ラーナ」

 

 直人の耳に聞き取れたのはそこまでで、その後は複雑な音韻が続く。

 背の熱さ、そして意識が明瞭としたものへ移ってゆく。

 

「直人」

 

 そう呼びかけたイリスの、小さく、儚げな、ひどく困ったような顔が間近にあり、直人は硬直した。

 

「平気か? 痛い所は? 痺れとかない?」

「……あ、ああ。うん、大丈夫みたいだ」

 

 イリスはあからさまにほっとした顔で大きく息をつく。

 呆れたように直人を見ると言った。

 

「その偉品(レリック)だっけ? それ使ってない限り普通の体なんだから無茶はやめてよ、背骨に内臓もごっそりやられてたよ? ちょっと治療遅れてたら即死間違いなしって感じで」

「……まじ?」

 

 まったく実感の沸かない直人、イリスはしがみつくように抱きしめていた手を緩め、ぽんぽんと直人の背中を叩いた。

 

「無事で良かったよホント、この馬鹿」

「え……ああ、いや。すまん」

 

 直人は謝った。イリスの表情が、泣きそうにも見えたからだ。

 イリスは気の抜けた顔で笑ったが、ふと気づいたように目を大きく開き、ありゃ、と間の抜けた声を出した。

 

「組み敷かれてしまったなあ……直人ならではこその油断か」

 

 そして仕方ないとも、やっと重荷を下ろしたような安堵とも見える、ひどく複雑な表情を顔に浮かべ、最後に穏やかな微笑になり、直人の耳元でささやいた。

 

イリスラティア(雨上がりの虹)フレス(赤い森)ラーナ(一族)・ダ・ルタ」

 

 知らない言葉なのに、なぜか直人には意味するものが理解できた。

 言葉のフレーズにイメージが追随してきたと言っても良い。

 なんだこりゃ、と戸惑い首を振る直人に、イリスは苦笑にも似た笑みを浮かべ、言った。

 

「一方的な誓いさ。君がどうこうなるってものじゃないし、私にとっても……まあ、別に悪くないよ、ちょっと複雑だけど」

 

 なおさら不思議そうな顔になる直人に、イリスは話を切り替えるように、さて、と切り出す。

 

「突き詰めたところ、君は今回の一件、何を目的にする?」

「それは……」

 

 夏希をどうにかしたい、と直人が答えると、イリスは分かったと頷き、満面の笑みで言った。

 

「力を尽くすよ」

 

 ◆

 

 日はまだ出ていない。

 ただその日差しの末端は空を照らし、何もなければ鳥が目覚め、朝一番の鳴き声を響かせていたかもしれない。

 春から秋にかけてのスキー場は広い草原になり、場所によっては放牧に使われる事もある。

 一面見晴らしの良い草原だ。

 その草むらに覆われているはずの草原が、今はどこか無機質な色合いに染まりっていた。無数の軍勢、先程の百体の人形が児戯に思える程、圧倒的な数だ。

 その先頭に立っている、白い少女を連れたスーツの男がまるで歌劇でもあるかのように、朗々と言った。

 

「どうだ。お前なら解るであろう、解るはずだ」

 

 佐藤さんみたいなのが何体か居る。そうイリスは言った。

 直人は頷いた。整然と並ぶ軍を率いるように白い人影が見える。

 

「五千、五千ってところだね、直人がやりあった人形だけの編成が半分、残りは生き物、人工生命(ホムンクルス)かな」

 

 一万という数は思ったよりずっと圧倒的なものだ、直人はそう思った。

 なだらかな斜面、こちらが低地にある分なおさら威圧感を感じてしまうのかもしれない。

 それにしても、だった。

 見渡す限りの敵。扇状に広がっている草原、その一面が敵で埋まっている。

 あっけらかんと、当然のように、絶望しか感じられない光景だった。

 

「大盤振る舞いだね、ラファエロ・コーテッサ。これだけの数を揃えるために霊脈を繋げたのかい?」

 

 イリスが話しかけると先頭に立つ男は頷き、どこか満足げに言った。

 

「その通りだ。霊脈上であるなら私の拠点と直接土地を結ぶ事が出来るからな」

 

 学者さんだなあ、とイリスはつぶやく。研究成果を見せたくて見せたくて仕方ないんだ、と。

 

「ただ、軍勢(レギオン)とのみ呼ばれている。我が人形(ドール)は兵士五人に、我が人工生命(ホムンクルス)は異能者五人に相応する。九体の我が子らはそれら百体にもな」

 

 さあ、と男は指揮者のように手を振った。

 

「少女よ、世界の外から持ち帰ったその“業”を存分に見せてくれ。少年よ、君がどこまで“ゲオルギウスの心臓”を用いられるか、限界を見定めよう」

 

 うねりを上げ、津波のごとく押し寄せる群れ、群れ、群れ。

 歯噛みをし、せめてもと前に立とうとする直人を手で制し、イリスはなにほどでもないように笑った。

 

「大丈夫、このままだとキツいけどね」

 

 そう言い、一歩を踏み出す。

 容姿がぼやけ、霞んだように見え、直人は見間違いかと目をまたたく。

 再度見ても同じだった。

 存在しているのに存在していないかのように輪郭がぼやけている。

 姿も変わっていた。妖精じみた容姿が妖精そのものになっている。

 耳は長く、瞳はこの世ならぬものを映し、髪は重さを感じていないかのようにふわりと揺れている。

 

「……エルフ?」

 

 日本文化(サブカルチャー)にどっぷりな現代人らしく、直人の口からそんな言葉が漏れた。

 

「それそれ、直人もさすがに知ってたね。ゲームでラノベでアニメでお馴染み、エルフさんですよ、と」

 

 何のつもりかひこひこと長い耳を動かしてみせる。

 あんまりにもあんまりなノリに、直人はひどく残念な気分になり、口の端を震わせた。

 

「お前……お前……見た目ファンタジーなのに、凄く現実離れしてるのに」

「ふふ、見た目が変わるだけで私が変わるわけじゃないよ」

 

 それともう終わった、という言葉に、直人はハッと状況を思い出し、見れば――

 

「……いない?」

 

 夢か幻か、というほどに何もいなかった。

 あれほどひしめいていた軍勢の姿が、影も形もない。

 踏み荒らされた草原の草が、抗議するように風に揺れた。

 

「送って来たなら送り返せる、道理だろう?」

 

 硬直したままの男に向かい、無造作に近づき、イリスは言う。

 ややあって、男はのろのろとした動きで首を動かし、呻くように言った。

 

「何が、道理なものか」

 

 地の底から漏れ出たような乾き、錆びた声。

 

「その術理を解明し、改変し、己が人形に写しとり、再現するまで何十年を費やしたと思っている。それをわずか……あのわずかな間で理解したというのか」

「残念だけど私は学者じゃないんだ。細かい部分はどうでもよく、ただ使えれば良い」

 

 研究者にとってはひどく無情な言葉を投げつける。

 

「さて、あなたとの話もそろそろ終わりにしたい。高校生が出歩くにしては遅いのを通り越して早すぎる時間になってしまったからね」

「――待」

「待たないよ。もう知りたい事は解ったから」

 

 そう言うと、前触れもなく、そして呆気なく、男――ラファエロと名乗っていた人形はぐしゃりと内側に丸め込まれるように潰れた。

 

 ◆

 

 白々とした日の光が照らし始め、山の稜線が見え始めた。

 何度見てもなお現実味を欠いた姿であるイリスに近づき、直人は言う。

 

「終わった……のか?」

「……ん、もう少しってところだね」

 

 そう言い、立ったままぼんやりしている夏希の側に寄る。

 直人の手を借り、そっと地面に寝かせると、再び触診するように、体を手でなぞった。

 胸のあたりで手を止め、その豊かな感触を確かめるようにぽんぽんと。

 

「なあ、それ必要なのか?」

「私にとっては重要なんだ、止めないでくれ、本物だし、本物だし。何食べたらこうなるんだ」

 

 イリスは目を落とし、ひどく無惨な比較をし、溜息を吐いた。

 

「直人、おっぱいが欲しい」

「いや、そういう滅茶苦茶答えづらいフリやめてくれよ、俺にどういうリアクション期待してるんだよ」

 

 とは言いつつ、大体お前は元男じゃなかったのか、とかまだ成長期じゃないんだろうとか、色々浮かびはしたのだが、どう答えても地雷を踏みそうな予感がし、数々の危機を救ってくれた直感に直人は素直に従う事にしたのだった。

 冗談はともかく、とイリスは振り返り、言う。

 

「ラファエロの本体はこの子だね」

 

 その言葉の意味がよく判らず、直人は硬直した。

 イリスはまばたきを一つし、淡々と続ける。

 

「違和感があったのは直人に仕込まれていた呪詛だ。年数をかけたとはいえ、とても精密、緻密な構成だった。あんなものを果たして遠隔から仕込めるのかってのが一点」

 

 イリスは指を立てて言う。

 

「もう一点はさっきの巨大な術式だ、流れを視れる私からすれば、あれは佐藤さんが基点でラファエロはむしろ使われているように見えた」

「使われる?」

「ん、私がここに直人を運んだ時を思い出して。あの時飛んでいるのはあくまで私が術の基点になっていて、箒はただの付随物だった。ああいう感じだね」

 

 イリスは視線を夏希に戻す、手をかざし、この辺かなと心臓の上あたりで止めた。

 

「佐藤さんが自殺を図ろうとした時、実は本当にラファエロは危なかったんだ。だから強引な方法で止めた、どうせなら状況を利用して直人を揺さぶってやろう、そんな思惑であのラファエロもどきの人形を出してきたんだろうね」

「……なら、夏希と、ラファエロの状態ってのはどうなってるんだ?」

「騙されてたーとか思わないのは直人の良いところだね」

 

 イリスは一拍置き、言った。

 

「佐藤さんが器で注がれてるのがラファエロって感じかな。いや、うーん、わかりにくいか。要するに佐藤さんは自我のある端末で……いや、んー、何というか例えるのに困るな」

「あー、いや分かるか分からないかはともかく、例えないで教えてくれるか」

「ん、それなら。まず前提で、ラファエロってのは既にもう実体とか無くしてて、亡霊とか怨念に近い存在になってるんだ」

「そ……そりゃ随分極まってるな」

「そう、錬金術師(アルケミスト)として極めすぎてしまった。だから動機は推測になるけど、研究さえ続けられれば人間としての自分もどうでもよくなったとかそんな所かな? 彼は自分の制作した人工生命(ホムンクルス)に意思を移して存在するようになったんだ」

 

 おそらく複数体、とイリスは思い出すように続ける。

 

「さっき見かけた中の佐藤さんと同型の九体、彼が我が子って言って特別扱いしているのは、子であると同時に自分の憑代(よりしろ)なんだろうね」

「……えーと、なんだ。じゃあ今もまだラファエロは夏希に取り憑いてるって事か?」

「うん、的確。今は私が囲い作って封じてるけど、夏希さんの精神も一緒くたに封じてしまってるし、これからその処置をしようって事さ」

 

 そう言い、イリスは仰向けに横たわっている夏希の側に座った。

 直人に手振りで来い来いと伝えると、自分の隣に座らせ、でっかい魔法を使うから手伝いよろしく、と言った。

 

「いや、手伝いって言っても俺に何かできるのか?」

 

 イリスはこくりと頷き、言った。

 

「これから行うのは直人の体を治したのと同系統の魔法だからね。賦活じゃなく、一からの復元。とんでもない量の魔力使うから、直人に賄ってほしいんだ。私は結構万能なんだけど直人ほど無尽蔵に力引き出せないからね」

「そりゃ……俺が役に立てるならいいが、どうやって使うんだこれ」

 

 直人が困惑げに胸元の十字架(クルス)をつまんだ。

 イリスは直人に向き直り、大丈夫だよ、と笑った。

 

「ちょっと言った通り、直人の深層には制御紋を刻んであるから、それを起動させるだけ。まあ慣れてないから私がきっちりリードするよ。大丈夫痛くしないから」

 

 壁の染みでも数えてて、とさらりと下ネタに走るイリス。

 

「……どこに壁があるんだよ」

「そういえば外だった、初体験が野外でとか刺激的だね」

「頼むからその見てくれで下ネタはやめてくれ空間が歪む」

 

 駄目だコイツ、どうにかしないと、と言わんばかりに直人は空を仰ぎ溜息をついた。


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