赤い森のイリス   作:ぬまわに

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六話

 sosta、そんな声が夜に紛れたような気がした。

 時間が止まってしまったかのようだった。

 何かを感じ取ったのか、虫の音一つしない。

 流れ散る血が服を濡らし、滴り落ちた。

 白い少女の顔は苦悶に染まっている。

 自らの胸を貫く手、どんな威力があったものか、服の繊維をあっさりと切り破り、指の半ばまでが体に埋まっている。

 太い血管でも傷つけたのか、鮮やかな血が吹き出し、その手を斑に染める。

 

「ば……か、夏希!」

 

 血相を変え直人が少女に駆け寄り、自らを傷つけたその手をどうにかしようとするが、男の力であってもびくりともしない。

 

「な、んだよ、どうなってんだよ!」

 

 奇妙な状態だった。

 自らの胸に突きこんだ腕のみがぶるぶる震え、足も、もう片方の手も、石となってしまったかのように動いていない。

 

「――arresto(停まれ)

 

 夜風に混じり、そんな声がはっきりと聞こえた。

 夏希は悔しそうに顔を歪めた。

 

「葉山く……逃げ」

 

 その言葉を言うだけで力を使い果たしかのように。

 まるで生命など最初から持っていなかったかのように、表情が消え失せ、血に染まった腕は力が抜ける。

 傷口もまた服に空いた穴のみを残し、嘘のように消えていった。

 何も無かったかのように。

 服に染み付いた血の染みさえも薄れ、腕から垂れる血も霧散し消え失せる。

 直人は息を飲んだ。

 掴んでいた夏希の腕をおそるおそる放し、夏希、とつぶやく。

 

「我が命を重複させるか」

 

 声が聞こえた。

 低く、老人を思わせる錆びた声。だが、そこに弱々しさは欠片もなく、あるのは無機質さだけだ。

 声の出処が判らない。

 直人は周囲を見回し、次の瞬間驚愕にあえいだ。

 夏希のすぐ後ろに、老人とも壮年とも言える姿が居たのだ。

 瞬き一つの間に、そこに立っていた。

 服装には無頓着なのか、既成のものらしいスーツを着て、灰色の長い髪を乱暴に後ろに撫で付けている。その爬虫類のような、感情を感じさせない灰色の目でじっと夏希を見ていた。

 

「……なんだよアンタは」

 

 そう、言うだけ言ったが、直人も薄々は判っている。夏希を背中で庇うよう、前に出ようとし――

 庇おうとした夏希に腕を掴まれ、冗談のような力で無造作に放り投げられた。

 日頃の修練のたまものか、柔らかい草原だったのが幸いしたか、受け身を取った直人は擦り傷を頬にこしらえた程度で済み、すぐに立ち上がった。

 しかし体の傷は浅くても、心は大きく動揺していた。

 息が浅く、心臓は破鐘(われがね)を突くようだ、嫌な汗が額から流れ落ちた。

 

「なつ……き?」

 

 呼びかけには答えず、白い少女は無表情にただぼんやりと直人を見ている。

 判っている。直人にも判っているのだ。

 人の力ではなかった。そんな当たり前の力ではなかった。

 そして彼女は最後に逃げろと言いかけた。どういう事態になってしまうかなんて彼女自身が一番よく分かっていたのだろう。

 それでも、そうであっても直人は逃げるという選択だけは出来なかった。

 

「賢者の石の性質か。己にも可能性を導き出す――面白い結果になったものだ。要因は度し難いが」

 

 男は夏希を観察するように視、そう静かに話す。

 そして初めて直人に視線を移した。

 

「見ての通り、聞いての通りだ。ハヤマナオト、お前に感謝をする。お前の影響により我がネーヴェは主の意に背くほどの成長を得た」

 

 望外の成果だ、という男に、直人は何か引っかかる違和感を感じた、が、まずはと会話を優先させる。

 

「ネーヴェ?」

「雪という意味だ。緋石のごとく紛いものではない、賢者の石を核として用いると白、何にも成り得る真なる白が(あらわ)れる。ゆえに私はそれにちなんだ名前をつけているのだよ」

 

 敵だと内心で思ってしまっていたが、どうやら話をする気はあるらしい。

 直人はすぐに動けるようにだけ膝を柔らかく立つと、先程と変わらず何も表に出さない夏希を見て言った。

 

「夏希を……どうするつもりだよ」

「ハヤマナオト、お前の憂慮は理解しているつもりだ。人に向ける愛とは違いがあろうが、ネーヴェも我が娘に違いはなく、粗末に扱う事など有り得ん」

 

 そう言い、男は名乗った。

 ラファエロ・コーテッサと。まるで大した事もなさそうに、ただ口にした。

 その平凡さ、あまりに作り物じみた()()()()さに、かえって直人は戦慄した。

 

 ◆

 

「“ゲオルギウスの心臓”と呼ばれている」

 

 唐突に、ラファエロはそう言った。

 直人は突然出てきた名前に眉をひそめ、何だよそりゃ、とつぶやく。

 

「ネーヴェが話した、お前を主と定めた偉品(レリック)の事だ。四百年程前にプラハのオペラ座に安置され、二百年ほどは私が所有し、研究している」

 

 この男は、一体自分に何をさせたいのか、夏希をどうするつもりなのか。

 先の見えなさに直人は歯噛みをする。

 男は急ぐな、とでも言うかのように手を緩やかに振った。

 

「私はお前の疑問に答えるつもりがある。そしてお前は正確に自らの状況を知っておくべきなのだ」

「……それは」

 

 確かに何も知らないよりは、嘘か本当か判らない事でも知っておいた方がまだマシかもしれない。

 自分の理解を大幅に超えている話なのだ。

 直人は言葉が見つからず、押し黙る。

 男は肯定の意味と受け取ったか、一つ頷いた。

 

偉品(レリック)については太古より大勢の研究者が研究していたが、判っている事はひどく少ない。本来の機能と思われていた事が副次的な作用に過ぎなかったという事もままある」

 

 あまりにちぐはぐ。少なくとも用途を考えて作られた物、人の作る物とは根本的に異なる物なのだと言った。

 

「ただその“ゲオルギウスの心臓”については、強力ではあるが単純な効果ゆえ、多少の解析は進んだのだ」

 

 男は目を瞑り、感慨にひたるように数秒言葉を切った。やがて目を開き、言う。

 

「その名で知られるように、それはかつて聖人ゲオルギウスの所持していたもの。悪竜退治に赴く際に入手し、彼の不死性の(もとい)となった物だ。だが、調べを進めるとその不死性こそが副次的なものである事が分かった」

「不死が……副次的?」

「本来の機能は永久機関だ。熱力学を無視し、あらゆる理論、錬金術師の理学を無視する。有り得ぬはずの永久機関。概念としてのあらゆる力を供給する物であるという事だ。かの英雄はそれをただ個人の不死性に限定し、用いていたに過ぎない」

 

 直人は首を振る。

 スケールがよく判らなくなっていた。永久機関、聖人、単語としてだけなら聞かなくもない。現実感の薄い話がさらに無くなった気がする。

 ただ、不死なんて世の中の誰もが欲しがるようなものを、あっさりと、取るに足らないものであるかのように扱うほど、大きな話ではあるようだった。

 むろん、と男は続ける。

 

「今の段階ではまだ推定の部分も多い。私にはその力の発現を割り出し、計測し、推定を積み上げていったものに過ぎない。そして正確にそれを調べ、用いるには偉品(レリック)の主であるお前が必要なのだ」

 

 そして男は内懐から古めかしい、真鍮の首飾りを取り出した。

 ちゃら、と夜気に音が紛れる。

 さほど大きくはない、慣れた者ならピアスにもできるほどの大きさと重さの十字架(クロス)が先端についている。そして中心には瞳にも見える琥珀がはめ込まれていた。

 ()()()()()()()()

 だが、なぜそれなのか。

 直人は顔を歪め、動揺する自分を抑えようというかのように自分の肩に爪を立てた。

 それは形見だった。

 五年前、兄弟のようにして育った幼馴染が死ぬ直前にくれたもの。

 ――父さんから土産で貰ったけど、僕が持っててもって感じだし、直人(なお)のお姉さんにでもあげてよ。

 死んだ?

 直人はまた頭痛を感じる。本当に死んだのか。

 新聞に乗っていたように、交通事故で家族もろとも死んだのか。

 

「……それが偉品(レリック)だってんなら、アイツは、望も関わって?」

堂平望(ドウヒラノゾム)、あの少年もまた何らかの因子を持っていたのだろう、あるいは潜在的な異能者であったのかもしれない。偉品(レリック)そのものに干渉する可能性は低いが、初回の力の発現に干渉するというならば方法は少なくはない」

「お……教えてくれ。五年前、何が起こったんだ」

 

 直人に当時の記憶は無い、というより酷く曖昧で、夢を見ているような記憶しか残っていなかった。

 ラファエロはただ質問に答えを返す、というような無機質さで答えた。

 

「“ゲオルギウスの心臓”の不完全な発現、それによる暴走だ。無尽の力場が一点に溢れかえり、ある種の異界化を起こした。基点であるハヤマナオト、お前は助かったが最も近かったドウヒラノゾムは異界化した空間ごと世界から消失した」

 

 渦巻く空。

 歪む大気。

 変わる色。

 遠いはずなのに近い。

 空気のはずなのに固い。

 直人は人の認識をも超える光景が浮かび、あまりの理解のし得なさに呻きを上げる。

 ナイフで頭蓋を内側から掻きむしるような酷い頭痛が起こり、一瞬目の前が白くなった。

 

「異界化とは世界に規定された法則が修正不可能なまでに歪み、世界にもう一つの世界が出現する事を指す。法則の歪みきった世界の記憶は、フラッシュバックとして蘇るだけでも脳を()くだろう。過程は夢とし、結果のみを覚えると良い」

「ぐ……」

 

 結果のみ、そう。光景はどうでもいいものだった。ただ幼馴染が亡くなった時の曖昧だった事、それはようやく知れた。

 直人は胃の腑からせり上がったものを無理やり飲み下し、息吹を行い呼気を無理やり整える。

 目がくらむような感覚を表に出さぬよう抑え、言った。

 一つだけ、気になる事があった。

 

「あんた、望の家族に……手ぇ出したのか?」

 

 半分は勘だった。ただ、望がその時亡くなったとして、何故その父母まで共に死んだ事になったのか。

 ラファエロはわずかに顎を持ち上げ、感心したように、ほうと言う。

 

「まったく頭が働かぬというわけでもないか。答えよう」

 

 殺した、と端的に言った。

 直人は歯を噛み締め、くそ、と唸るような低い声で言う。

 

「なんで、なんで殺したんだよ……」

「念入りに調べる必要があった。異能は一般的には遺伝しないが、例外もある。また血筋を通し何者かを代々憑依させる者達もいる。結果的には父の方はただの運び手というだけであり、母の方はわずかに鬼道を受け継ぐ者との近似値があった、異能として発現する程ではなかったが」

「そんだけの理由で、ただ念のため調べるってだけで……」

「必要性があればやるというだけだ」

 

 直人はくそ、と内心で罵倒する。

 話が通じるから、何なのだと言うのか。

 ただ、単純に、ひどく単純な事に。せめて一発、殴ってやらないと腹の虫が収まりそうになかった。

 相手に知られぬよう、重心をかけようとし、固く、固く拘束されたかのように自分の体が動かない事に気が付き、愕然とする。

 ラファエロはやはり無感情に、ゆっくり歩を進め、直人の前に立つと言った。

 

「話に応じたのは偉品(レリック)の起動に必要かもしれぬのと、その主に対する礼意だ。質問が無いならば次の段階に移ろう」

 

 悔しさに歯噛みする直人の前でラファエロはゆっくりと十字架の首飾りを掲げ、儀式であるかのように直人の首にそれをかけた。

 どくん、と世界が鳴動するかのような衝撃。

 身動きできなかったはずなのに、揺れる視界。

 

「一年前、“ゲオルギウスの心臓”は再び動き出した。漏れ出した力のおかげで余計な者まで招いてしまったようだが、良い契機となったようだ。あるいは主たるお前の精神、その振れ幅に触発されたか、完全に復活したようだ」

 

 首飾りの十字架(クルス)から心臓へ、心臓から全身へ、得体の知れない力が脈動を続けながら大きくなって行くのを直人は感じた。

 唸る風は幻聴か、あるいは実際のものか。

 その中でラファエロの錆びた声だけが朗々と耳に入る。

 

「ネーヴェを通し、五年を掛けて呪をかけてある。“ゲオルギウスの心臓”の完全な起動と同時にお前の人格は私の精製した疑似人格に置き換わる事になる。安心せよ、記憶も引き継げるだろう。ネーヴェのようなものだ、否。それよりも完全に引き継げる事になろうか」

 

 白熱し、飛びそうになる意識の中で、そんな言葉が飛び込み、直人はそれの意味する事に思い至り、別の意味で真っ赤に頭が染まりそうになった。

 

「夏希……はどういう……」

「ネーヴェは佐藤夏希の肉を用い、創り出したものだ。記憶も一部残っているはず」

「あいつ……は、元の佐藤夏希の居場所を奪った事を……苦しんで、いたんだ!」

「それは興味深いな。役割上、特殊な作りにはしたが。ふむ……そろそろかな」

 

 もう直人には見えるものもなかった。

 過熱しきった力に耐えられなかったかのように視界は白く染まり、手足の感覚もない。

 苦痛は無かったが、ただ唸る風の音と、ラファエロの声が聞こえていた。

 

「あとわずかで私の術式は発動する。言い残した事があるなら言いたまえ」

「くた、ば、れ、ちき、しょ……」

「その憎しみは受け取ろう」

 

 そして直人の意識は、白く染まっていった。

 ただごうごうと唸る力の奔流がいつまでもうるさかった。

 

 ◆

 

 爆発が起こった。

 ただ、爆風も爆炎も爆圧も爆音も伴わないそれを爆発と言って良いものか。

 それを視ることができる者なら、無数の光の粒子が爆発的に渦を巻きながら広がる。星雲の誕生を早送りで見ているようだとも言ったかもしれない。

 広がった不可知の何かは、ある程度散った場所で空間の摩擦を受け、紫電を散らし、時には風を作り消えて行く。

 ある意味で台風のようでもあり、その台風の目は倒れ、弓なりに体をそらし、悶絶するように顔を歪めている一人の少年だった。

 

「……素晴らしい。漏れ出たものでさえここまでは。結界を張り直さねばならんな」

 

 男は感嘆を滲ませ、言う。

 その目は苦しみ悶える少年の姿を映して離さない。大事な実験の結果を見逃すまいとする学者の目だ。

 その後ろで、白い少女の様子が変化する。

 ただ無感情だった顔はゆっくりと歪み。涙が一筋頬を伝った。

 口が開き、声の出し方を思い出すかのように、ぱくぱくと動くとようやく、あ、と声が出る。

 

「ああぁ……」

 

 震えた手が持ち上がり、口元を覆った。

 

「葉山く……ん」

 

 やがて疲れように肩を落とし、罪人が牽かれるがごとき足取りで近づいた。

 

「……(クレアトゥーレ)

 

 その言葉にやっと男は少女が動き出したのに気づいたかのように言う。

 

「ネーヴェよ、かの力で命が解けたか。見よ、お前の成果よ。よくやった」

 

 男は目を少年から離さない。

 ネーヴェと呼ばれた少女はゆっくりと、疲れ果てたかのような足取りで進み、もう一度言った。

 

(クレアトゥーレ)

 

 そして朱に染まった手、手とさえ言えない、朱色の刃を形取るそれを男の背中から体ごと、ぶつかるように突きこんだ。

 

「ふむ」

 

 男は微動だにしなかった。

 髪一筋ほどの苦しみも見せず、血の一滴ほども流さず、何も無かったようにただ少年を観察している。

 興味深い、そう言うと腕が関節を無視し背中に動き、少女の首を掴むと、言った。

 

「私に害意を抱くほどになるとは。感情か。良い、育ててみよ」

 

 言うや、少年に向かって放るように投げる。

 それなりに勢いもあったのだろう、地面に落ちた時に草により小さな傷が無数に付くが、跡形もなく治っていく。

 そして本人もまるで気にしない。

 わななく手で苦しみ悶える少年の体を抱いて言った。

 

「葉山くん」

 

 ごめんなさい、ごめんなさい、と壊れたように、言っていた。

 

 ――力の奔流に抗う事も出来ず、ただ流されていた。

 力というのが判らない。それは風のように感じる事もあれば水のようにも感じる。火のように熱ければまとわりつく大量の泥のようでもあった。

 激流に飲まれた一枚の葉っぱのようにただ浮き沈み、回り、自分の意思でどうにかなる事が一つもない。

 感覚は薄れ、痛みも苦しみも、悲しみも怒りも感じない。ただぼんやりと、自分は消えるのだろうかという疑問が残っていた。

 

「ただの真っ直ぐ馬鹿がこうまでたらしになるとはねえ」

 

 聞こえるはずのない声が聞こえ、直人はぼんやりと他人というものを認識し、そして自分というものがあるのを認識した。

 こっち、と手を引かれる。

 そしてようやく手があるのを知る。

 手の先に相手の手があった。

 その先にあるはずの顔を見ようと思っても上手く認識ができず、もどかしい気持ちになる。

 ただ、どこか懐かしく、そして信頼できるという気分になった。

 男にも女にも、幼児にも大人の女性にも見えるそれは直人の腕を引っ張りながら言った。

 

「力に飲まれないで。君の人格は少しも崩れてなんかいない。経験したことの無い力に押し流されてわけが分からなくなってるだけだよ。力の使い方は教えてあげる」

 

 手を取られ、導かれる。

 むかし、同じ事があったような。そんな気もした。

 短気で考えなしの直人と、のんきで頭の回る幼馴染。

 二人は対照的で、表と裏のようで――

 

 風が止んだ。

 停まったような静寂の中、少年の目が開き、夜空の星々を映した。

 

「終わったか」

 

 男の錆びた声が響く。

 泣きそうな、泣き疲れたような顔の白い少女が覗き込んでいるのを少年はぼんやりと確認し、安心させるように、軽く肩を叩いた。

 

「……え?」

 

 ぽかんと、固まる少女をそのままに、少年はどこか体の確認をするかのように、ゆっくりと立ち上がり、腕の関節を曲げ、伸ばし、手のひらをじっと見て、首をかしげる。

 額にはいつの間にか蛇ののたうち回ったような模様が浮かび上がっていた。

 地面に向かい、裏拳を放つように軽く手を振る。

 ボン、と何かの冗談のように地面が穿たれ、やがて吹き飛ばされた土砂が落ち、鈍い音を響かせる。もろともに吹き飛ばされた雑多な草が文句を言うように風に舞っていた。

 

「葉山……くん?」

 

 おう、と答える少年。

 ただその()()に、男は気が付かなかった。

 

「力の検証か? ただ漏れ出る力に指向性を持たせて放ったのみでそれか。だが、真価はさらにその奥にある。超新星のごとき無尽の力そのものだ。そんなものではない。行くとしよう、お前には制御を覚えて貰わねばな。そして名か」

「いらねえよ」

 

 着いてくる事を疑わぬように、背を向けた男に少年は答えた。

 その答えに、一瞬呆けたように止まり、なにと疑問符を発した時、少年はすでに間近まで迫り――

 拳が男の肋に深々と入った。

 男は冗談のように吹き飛び三転、四転草むらを転がり、倒れ伏す。

 残心をとる少年は、少し困惑したように、う、と呻いた。

 

「……やり過ぎたか? 死んでねーよな」

 

 白い少女はふらつくように少年に近づいた。

 

「葉山くん……なの? 本当に?」

「おう、そうだよ夏希、詳しい事は判んねーけど、何とかなった。元のまんまさ」

 

 それを聞くと、少女は足の力が抜けたようにへたり込んだ。声にならない声が漏れ、大粒の涙が幾筋も流れる。

 

「今日は本当によく泣くな」

「……一生分、泣いちゃった、気分だよ、よか、った、よかったあ」

 

 少女は嗚咽が止まらず、途切れ途切れの声を出した。

 

「解せん」

 

 錆びた声が混じり、少年と少女に緊張が走る。

 男は痛痒などまるで感じなかったように立ち上がり、服の埃を払った。

 その灰色の瞳はわずかな警戒の色もなく、ただ実験対象を観察するかのごとく、見る。

 

「お前に施した呪法はかの暗殺集団を800年に渡り存続させ得た人格置換の法、私の研究でも100%の成功率だった。一体お前に何がある? まさか愛や絆の奇跡というわけではあるまい」

「……知らねーよ」

 

 少年は吐き捨てるように言った。

 男は、まあ良い、とつぶやき、venire(来い)とただ一言言った。

 少年は目を(みは)る。

 見ていなかったら、男に注視していなかったら何が起こったかまるでわからなかっただろう。

 瞬きする程の間に、いつの間にかそこに存在していた、と思ったかもしれない。

 それは男の体から飛び出した、薄い紙のようなものだった。

 折り畳まれたそれがぱたぱたと、あたかも折り紙が元の一枚の紙に戻るように広がり、あろうことか、立体となり、人の形となる。

 一瞬の間の事だった。

 現れた姿は十体、人の形ではあるが、人ではないのはすぐに分かった。

 一体を見れば、毛髪のない陶器のような顔にひどく端正な顔立ち、蛇腹のような首に胴、腕には関節が一つ多く有り、手も足も同じ長さだ。

 一体は人と同じシルエットをしながら、首から上だけが欠けている。

 一体はあろうことか蜘蛛のごとき八本の手足に人の胴体が乗っていた。

 それぞれがバラバラの違う姿を持っている。

 そして人の姿を模しながら決定的に人ではなかった。

 

「我が手による人形共よ。望まぬ形とはなったが、“ゲオルギウスの心臓”は機能しているようだ。古式ゆかしき力尽くというもので得るのも良いだろう」

 

 身構える少年と少女だったが、男はそれを一瞥すると「arresto(停まれ)」と言霊を放ち、白い少女はたったその一言だけで再び停止させられたのか、悲しげな、悔しそうな顔でわずかばかり動く体を震わせる。

 

「ネーヴェから隔離し、確保せよ。手足は無くとも構わん」

 

 やれ、という一声で人形達が動き出した。

 

 ◆

 

 長腕の一振りで、直人の体は丘を超え、斜面を転がり、ようやく止まった時には百メートル以上も離されていた。

 文字通り、離すだけが目的だったのだろう。受けた腕はさほどの衝撃もない。

 だが――と直人は右に体をよじり、即座にかけられた鉄槌のごとき追撃をかいくぐった。

 空振りした腕が地面を叩き、その衝撃が地面から伝わるより早く目前の蛇腹状の胴体に、十分に“力”を乗せた鉤突き。

 車にはねられたように人形が吹き飛び、踏み込みで足場の地面が崩れ、直人自身も転げてしまう。

 人蜘蛛(アラクネ)めいた人形の滑らかな、刀身のような足が上から迫り、とっさに肘で地面を叩きつけ、体を回転、肩口を狙った足は深々と地面を刺し貫いた。

 

「ぐッ」

 

 追撃は一度では終わらない。

 主の言う事は守るのだろう、胴体と頭は狙われず、執拗に腕と足を刺し貫こうと四本の鋭利な足が恐ろしい速さで幾度も刺そうと迫る。

 掌で逸し、足狙いを躱し、すかし、四度目で躱しきれず、右腕を貫かれた。

 電流のように走る痛みと痺れを無視し、呻きを噛み殺す。

 

「ぐぅああぁッ!」

 

 刺さったままの腕の肉を固め、無理やりそのまま押し返した。

 ぶちぶちと腕が裂ける感触、そのまま体軸をずらし、左の前蹴り。蜘蛛型の人形を蹴りつけ、吹き飛ばす。

 体を起こし、立ち上がると、そこでようやく大きく息をついた。

 

「……づ、痛ェ」

 

 右腕の痺れていた傷がようやく痛みを発し、だがそれだけの大きな傷にしては、感覚が有り、手も動く事――否、動くと自然と理解している事に直人は内心で驚いていた。

 先に攻撃した二体の人形はどうやら破損し、行動不能になっているようだった。

 他の人形も追いつき、様子を見ているのか、一定の距離を開けて止まっている。

 一秒も経たぬ間に右腕の傷は治ってきたようだった。肉が塞がり、血がまとわりつく気持ち悪さが残るのみだ。

 

「治った……か、ったく。とんでもねえ」

 

 ただ、やれる。

 これで、やれる。

 訳の分からない力に、得体の知れない相手に対して、自分だけが無力というわけではない。

 直人はその事が妙に嬉しくも感じていた。

 ただ嫌いなものを殴れるだけの力がついただけだ、相変わらず夏希をどうしたらいいのかなんて妙案は無い。それでも、ただ知るだけで何もできずにうなだれるよりは、ずっとマシだった。

 どこか獣じみた笑みを浮かべ、半身で立ち、腰を落とす。攻撃を受ける左手は前へゆるく構え、右手は腰に。

 何となくとった構えだったが、何をするか判らない相手にはこれが良いのかもしれないと思った。

 動きに対して反応したのか、人形の中では最も人間に近いシルエットのものが音も立てずに迫り、わずかな溜めの後、わずかに白い霧を吹き付けた。

 毒、という思考が働く前に右の掌底に大きく広げた“力”をそのまま突き出し、散らす。

 ただ人形は変わらずそのまま進み、あろうことか胴体が真ん中から縦に()()()。腰椎から上に伸びる内臓を模した触手じみた何かが鞭のようにしなり、直人を絡め取った。

 悪趣味な、と思う間もなく同時に重槌(ハンマー)のような両手を振り下ろしてくる人形、斧としか見えない装飾過剰な腕を打ち下ろす人形が左右から同時に迫る。

 受ければ連撃で詰められ、躱すには動きの自由が取れない。

 だから直人は前に出た。

 再び足場が崩れてしまう程の踏み込み。

 手を地に突き込み支えとし、体は凄まじい勢いで回転し、その踵が前方の上半身を割ったような人形を文字通りに真っ二つに割り砕く。

 人外の胴回し蹴りの勢いはそれで止まなかった。

 

「っと!? うぉっと!」

 

 直人自身も縦に二転三転しつつ進み、柔らかい地面に深く突き刺さった右足で、ようやく止まる。同時に背後から二体の人形の攻撃が大地を叩く轟音が響き、慌てて足を引き抜いて、振り向き、まだ身を縛っている硬質なのか軟質なのか判らない素材の束縛を引きちぎる。

 

bravo(素晴らしい)!」

 

 いつの間に来たのか、人形の間から割入るようにラファエロが姿を表し言った。

 どこか演劇めいた調子で手を叩いている。

 

「手に入れたばかりの力を、限定的とはいえよく操り、よく使う。なまじの者ならば身動きすらできず、通常と同じように体を動かすにも二日か三日は要るだろう、類稀なる感性(センス)だよ。偉品(レリック)に認められるだけの事はある」

 

 こんな相手に褒められても嬉しくはない。直人は構えを崩さず、無言で睨みつける。

 それにもまったく頓着せず、ラファエロはやはり演技めいた大げさな手振りで言った。

 

「お前は自身の価値を証明せしめた。ハヤマナオトよ、私は早計を認めよう。他の偉品(レリック)がそうであるからといってお前のソレが人格と無関係とは言い切れん。そのままで良い、お前に加工は加えまい、私の協力者となると言ってほしい」

「……冗談じゃねえよ、ここまでの事をやっておいて、手前ェはそんな事を言うのかよ」

「これは契約と言っても良い、対価は十分にやろう。あるいはネーヴェを望むのならばそれもまた良い、好みに合うよう手を加えてもやろう」

 

 その言葉に、直人の心が冷えた。

 怒りも、あまり続くと逆に怒れなくなるらしい。

 そんな事を思い、絶対的に感覚が隔絶しているこの相手に向かって、拳を突きつけ言う。

 

「クソ喰らえ、だ」

 

 ラファエロは演技めいた動きを辞め、元の無表情になると、残念だ、と言った。

 

「やはり力尽くという事になるか」

 

 残り七体、直人は冷めた心で現状を確認する。

 全能感、力の幾らでも湧き上がる感じは未だに途切れる事はない。

 致命傷に当たる傷を負っても無事だ、それは試していなかったがどこか確信を持っていた。

 残り七体。

 やれる、と思った。

 

「様子見は止めるとしよう」

 

 その言葉と共に、次々と雪のように畳まれた紙片のようなものが舞い、草原に人形があふれかえるまでは。

 

「百体用意した。私は人形師とも人形遣いとも呼ばれている、これがその所以(ゆえん)だが、別に操っているわけでもない。現代風に言えばロボットのようなものでな、自律起動をしている。錬金術師(アルケミスト)の端くれとしてはゴーレムと呼んで貰いたい所だ」

 

 直人の判断は早かった。

 舌打ちを一つ残し、開けた草原から右手の森に突っ込み、木々をなぎ倒し、派手な音を立てる後ろに気を取られながらも、木の幹を蹴り、あるいは枝から枝へと飛び移り、移動し、やがて目印としていたスキーリフトの支柱を見つけると、森を飛び出した。

 丘の上の平原だ。

 目的としていた夏希は居た。

 多数の人形に囲まれて。

 全ては読まれていた。

 背後からは追い立てるように木々をなぎ立てる爆砕音が聞こえる。

 

「くっ……そおおおおああああああッ!」

 

 考えを捨てた。

 人形達の群れに突っ込み、躱し、薙ぎ払い、突き、抉り、切り裂かれ、殴り抜く。

 蹴り払い、浮いた人形を掴み、ぶん回し、力任せに投げた。

 あと、八歩。

 虎爪で打ち、引っ掛け、どこでもいい、掛かった場所から力任せに下に崩す。

 あと、七歩。

 地面を抉るよう踏み込み、相手の足場を崩し、肘を入れた。

 あと、六歩。

 水平に打ち掛かってくる鋭利な何かを掻い潜り、足場代わりに蹴りつけ反動で前に出る。

 あと、五歩。

 幾筋ものワイヤーが腕に絡み、それを操る人形もろとも引き抜き、宙に飛ばした。

 そしてあと四歩。

 腕だけでなく絡みついてきたワイヤーに体を巻かれ、鋭利な槍が虫のように足を縫い付けた。

 

「は……っなせええええっ!」

 

 直人は全身の力を込めて暴れるが、さらに幾重も拘束が続き、両手両足を地面に縫い付けられ、弱らせるためか、機械のような無常さで打ち据えられた。

 身動きすらままならなくなり、怒りに燃える瞳にラファエロが映る。

 

「やはり毒は効かぬか。植物毒、動物毒、合成毒も含め二十一種ほど試してみたが。傷と同じく、傷病部位を極小単位で死滅させ、作り直しているようだな」

 

 ふむ、と頷き、言う。

 

「麻酔も効かんという事だ。これから苦労しよう。いや」

 

 やはり無機質に、ガラス玉のような感情を映さぬ目で直人を見る。

 

「かの騎士はいかなる拷問にも屈さなかったという。ただの不死性のみでなく、精神に対する強化、脳への作用も考えるべきか。限界を試してみるのもよいが」

 

 ラファエロは身動きの取れない直人の頭に腕を伸ばした。

 

「夜も更けた。人格置換は考慮せねばならんが、まずは幕としよう」

 

 直人はラファエロの伸ばした手に、何かの力が収束していくのを感じた。

 それが何かは判らない、ただ、きっと自分にとって悪いものには違いなかった。

 

「ここまで……かよ!」

「まさか」

 

 直人の言葉に、飄々とした、鈴のような声が答えた。

 場違いなほどのどかなそよ風が直人の頬を撫でた。

 目前まで迫っていたラファエロの腕は肘あたりで切断され、得体の知れない黒さと赤さが混じった液体を吐き出している。

 

「やっぱり人形か」

 

 イリスがラファエロの腕を手に持ち、淡々と言う。

 ふと、体の締め付けが無くなっている事に気付き、みじろぎをすると、それだけで全身を縛っていた無数のワイヤーが千切れ落ち、抑えていた人形もバラバラと崩れた。

 崩れ落ちたのは直人の周囲の人形だけではなかった。

 ガラガラと、ゴトゴトと、瓦礫が一斉に崩れるような音がし、あれほどひしめいていた人形が全て原型を留めないほど切り刻まれ、崩れ伏す。

 夜風に油とも血ともつかない臭気が漂い、散らされていく。

 

「な……え、おお?」

 

 あまりに突然の展開に直人は思考が真っ白に染まり、目を丸くさせた。

 そこにひどく不機嫌そうな顔をしたイリスがずかずかと歩み寄り、膝をついている形の直人の額を指で突く。

 つんつんと。結構な勢いで。

 

「なーんで、こんなギリギリになっても助けを呼ばないかなこの直情男は、ねえ? 私がこの手のマホーとかチョーノーリョクとかそっち系の専門ってのは何となく分かってたよね? 呼ばれてもないのにしゃしゃり出るのも何だし、直人(なお)に何か考えがあるのかと思って待ってたら単身特攻始めるし、忘れてた? 私もしかして忘れられてた?」

 

 つんつんつん、と突く勢いを五割増しにして、憤懣やるかたないように言う。

 

「あるいはあれかな、英雄願望とかそっち系? 私英雄とかすんごい嫌いだからイジめるよ、もう人生の素晴らしさを道端のカエルに説教するようになるまでイジめ抜いちゃうよ?」

「い、いだい、地味に痛いから! 悪い、いや、色々有りすぎて流されて助けとかまったく思いつかなかったんだって、おおお、二倍速で突くのやめて、ごめんなさい馬鹿でごめんなさい!」

 

 緊迫していた空気は一気に緩みそうになったが、直人はハッして言った。

 

「いや、こんな事やってる場合じゃ、というかラファエロは!?」

 

 視線を向けると、肘までになった腕を揺らし、数歩離れた距離でただ立ちすくんでいるようだった。

 見られた事に今気づいたかのようにラファエロは顔を向け、イリスを見る。

 イリスは仕方ないというように肩をすくめると、振り向いた。風で目の前に舞った金の髪を後ろになでつける。

 

「娘よ、この異能は。何者――いや、何なのだ?」

「んー、何なのって来たか。鋭いね、何だと思った?」

「力場の変動もなく、ただ現象のみを(あらわ)す。その上高次の霊的存在に役割を与え、それを用いるなどは、およそ有り得る事ではない。コーレスの世捨て人の類か?」

「その世捨て人さんには知らずに会ってるかもしれないけど、まず外れ。でもご明察、よく見てる。世界に有り得ない現象なら、それはやはり有り得ないんだ。私は部分的に違うのを持ち込んだからね」

 

 ラファエロが、ぞくりとするような、あまりに平坦な声を出した。

 

「まさか」

「ラファエロ・コーテッサ。あなたが“ゲオルギウスの心臓”と呼ぶアレだけど、無尽の力は()()()()来るんだろう?」

「まさか……なれば、あれは門? 貴様。外から帰還したと」

「流れ着いたっていうのが正しいね。私の因果は結局ここに繋がっている。そしてあなたとの因縁もどうやら浅くないみたいだ」

 

 そう言い、目を細めるイリスに、直人は困惑した表情で言い合う両者を見ながら声をかけた。

 

「な、なあ、話が見えないんだけどさ」

 

 半眼でそんな直人を見やるイリスだったが、それ自体が演技であったように、ふと相好を崩した。

 

「そうだね、君はそうだろうね、直人」

 

 そして自分を指差し、言う。

 

「つまり、五年前の事故で変な世界にぶっ飛んだ堂平望、その成れの果てって事さ」

「へ……は? 望?」

「そ、お久しぶり直人、ただいま」

「お、おお……おかえり?」

 

 いや待て、どういう事だ、わけ判らん、とひとしきり混乱した直人は、やはり今日一日の経験を活かし、()()()()()()()と思う事にした。そろそろ、その思考停止も一杯一杯になりつつ。


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