赤い森のイリス   作:ぬまわに

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五話

 駒ケ岳市は北と南で空気が違う。

 北は片田舎、南側は市が戦後行った学校への誘致政策により高校や大学が増え続け、一つの学術都市のようなものになっている。活気があるのは南側だろう、娯楽施設も、宿泊施設も多く、スポーツのための施設も揃っている。

 そして北でも南でもない東側、旧街道に沿った古い町並みがまだ残る場所にその小さな診療所はあった。

 外見はあまりパッとしない、少なくとも若い人は喜んで入りたがるような外見ではない、昔からある地域の小さな診療所という見た目だ。診療科目は外科を謳っているくせに、ついでのように脳神経外科や内科、整形外科とも看板にある。何とも怪しげな診療所でもあった。

 入院用に設けられた部屋もその規模に見合ったもので、そう多くはない。その数少ない病床に大柄な、ひどく顔つきの悪い男が寝かされていた。よほどあちらこちらが傷ついていたらしい、包帯が巻かれていない場所の方が少ない。

 隣のベッドに寝かされているボブカットの女性の方はそれから見ればまだ軽症のようだった。少なくとも男のように腕と足をグラスファイバー製のギプスで固められ、宙吊りにされてはいない。

 カラカラと、その部屋にストレッチャーに乗せられた男が新たに一人加わった。

 付き添っているのは返り血らしき血を浴びている初老の医者と、イリスだった。

 

「よーし、そっち引っ張れ、引っ張ったら患者転がしてマットを抜きな」

 

 乱暴な指示ながらもおおまかには判る。

 イリスは言う通りに患者をベッドに移し替え、タオルケットをかけて頷いた。

 医者もどっかと椅子に腰掛け、緊張を抜くように息を吐く。

 

「実際見てみりゃ、最後の若いのの方が危なかったな。失血性の昏倒とか結構危ねーんだよ、まったく、最初の奴はなんだありゃあ、重傷も重傷のくせに血圧低下も無し、おまけに大体の傷は縫合要らんぐらいにぴったり合ってやがる」

 

 あんな医者要らずの重傷者は初めてだ、とこぼした。

 

「で、だ、一応六咬会からの伝手ってこって受入れたが」

「どういう理由(ワケ)でとか?」

「いや報酬(カネ)はあるんだろうな中学生、保険なんて適用しねえぞ」

「残念、高校生で通ってる。というか見た目中学生からきっちり金取ろうってのも凄いね先生は」

 

 医者は肩をすくめて返す。

 

「こんな時間にヤクザの名前出して診させる奴に子供も大人も無いもんだ」

「ごもっとも。丸山名義で適当にそっちの方に請求だしておいてくれればいいよ」

「おいおい、若頭サンか? 騙りだったら大変な事になっちまうぞ」

「保証人だから大丈夫」

 

 イリスは手をひらひらと振る。

 カバーストーリーではあるもののまるきりの嘘というわけでもなかった。この辺り一帯を取り仕切る広域暴力団、六咬会とはそれなりに良好な関係を築いている。

 医者は大げさな身振りで両手を上げ、言った。

 

「まあ金が入るんだったらいいさ。とりあえず処置は終わったし俺は寝かせて貰うぜ、通用口は開けといてやっから出入りは勝手にしな。痛みが出たら薬を置いてある分だけ飲め、容態が急変したら救急車でも呼ぶんだな」

 

 冗談か本気か分からないような事を言って病室を出て行く。

 それを見計らったように、寝かされている大男が口を開いた。

 

「ちっと疑問もあるが、礼を言うぜ。吉野ちゃんだったか?」

「おぉ、起きてたのかい?」

「目覚めて150秒ってとこだ、カップラーメンならちょっと固めだな」

 

 そんな冗談を面白くなさそうな顔で言い、身を起こした。

 

「……一番重傷だって話だったけど?」

「覚えときな、世の中のおっさんはみんなタフガイなんだ。ところで、初めましての挨拶は省いていいな?」

 

 前日の接触の事を暗に言っていた。お前は俺に気づいていたのだろう、と。

 イリスは頷き、言った。

 

「私としてはあなた達の背景にも興味があるんだけど、とりあえずそっちの聞きたい事に答えるよ」

「そりゃありがたい」

 

 標津(しべつ)は頭を掻こうとし、右手に点滴、左手は固定され吊られているのに気づき、どうにも決まりの悪そうな顔をした。

 

「とりあえず、さっきの話でここがそれなりに秘密を守ってもらえる病院だってのは分かった、気を効かせてくれて助かる。金は後で払わせて貰うよ。聞きたいのは俺たちが助けられた状況だ、()()()()()()?」

「どうもこうも、空爆でも受けたような廃墟に三人揃って寝てたよ」

「……三人だけだったか?」

 

 イリスは頷き、少し首を傾げ、後は死体が一体、と指を上げる。

 普通の女子高生にはあり得ない話しぶりだ。標津も違和感を感じたがそれはひとまず置いておき、言った。

 

「詳細はこちらも把握しきれてねえんだが、あの場所には葉山直人ってのも俺たちと居たはずなのさ。それに佐藤夏希っていう……あー、なんだ、女子高生もな。学校同じだろ、知ってるかい?」

 

 イリスは表情を消した。

 標津はうっすらと寒気を感じ、内心で感じた動揺を表に出さぬよう押しとどめた。

 

「直人が? 佐藤さんも? どういう経緯かな?」

 

 標津は、下手を打ったかと一瞬思った。どうやら彼女は二人とそれなりに親しい間柄らしい、感情的に動かれてはさらに面倒になると。

 どう話すべきか悩み、それ以前に現状、当の二人の行方が知れていない事を思い出した。

 馬鹿か俺は、とつい口から漏れる。

 イリスは顔を近づけ、標津の目を真っ直ぐに見て言った。

 

「突拍子のない話でも良い、言えない事は言わないで良い。二人に何があってどうなっているのか教えて欲しい。私は二人の……いや、一人はあまり親しくないけど、うん。力になりたいんだ」

 

 標津は目を細め、諦めたように溜息をついた。

 

「俺ぁ動きが取れねえし、同僚はスヤスヤ寝たままだ。なのに事態は一刻を争うのかもしれねえ。全部話すってわけにもいかねえが」

 

 そう言い、細かい説明は省いたものの、一連の事情を話した。

 イリスは疑う顔も見せず、頷き、言う。

 

「わかった。直人の方は私で当ってみる」

「ああ、もし佐藤夏希を追っているんなら、引き止めてくれ、危ねえ。確率は低いとは思うが連れ攫われてた場合、絶対に近づくな。佐藤夏希についてはこっちの仕事だ、一応組織なもんでな、これから連絡してすぐ人員を出させる」

「ほいな」

「わかってんだろうな?」

「ほいさ」

 

 念押しにとても適当な声を返し、イリスは病室を出ようとし、寝ている男よりさらに大柄な人影に気づいて止まった。右手を上げ、お帰りと声をかける。

 

「オーナー、あの連中は目ぇ覚ましたかな?」

「ん、一人だけね」

「それは良かった」

 

 のっそりと病室に入ってきたのは2mにも届こうかという黒人だった。彫りの深い顔に細い目が覗き、整えた髭を蓄えている。分厚く、幅の広い体にかっちりとしたバーテン服を着込んでいた。

 不審げな顔になる標津に、イリスはあー、と声を出し男の肩にボディタッチしようとしたが、身長差が有りすぎ、仕方なく腰をポンと叩いた。

 

「私が持ってるバーの店長のロドリゴだよ。君たちを運ぶのを手伝って貰ったんだ、そっちと質は違うだろうけど裏社会にはどっぷりだから安心していいよ」

「お嬢ちゃんはホント何者なんだよ……」

 

 標津が疲れたような息を漏らす。

 ロドリゴと呼ばれた大男は実に同感だと言いたげに頷き、肩に担いでいた荷物、誰がどう見ても寝袋にしか見えないそれを床に下ろした。

 

「死体だ。必要かもしれないので一応保存処置を」

 

 そう言い、ジッパーを下ろすとビニール袋にくるまれ、氷に包まれた(ヤン)の顔が見える。

 む、と標津が目を見張り、ややあって礼を言う。

 

「おつかれ、んじゃ悪いけど私は行くよ、ロディも仕事に戻ってて」

 

 そう言い、身を翻す金髪の少女を見送り、居るだけで部屋を狭くしそうな二人の男は視線を交わしてどちらからともなく苦笑いを交わした。

 

「標津だ、標津正武。こんなザマ見せてすまないが、世話になったみたいだな」

「ロドリゴ・エンゾだ。あんたが友好的な限り美味い酒を出すバーの店主さ、ボンホアって所だ、恩に着て一杯()ってくれると嬉しいね」

「あの嬢ちゃんとの関係を聞いても?」

「シンデレラと魔女さ、ちなみに俺がシンデレラだ」

 

 そう言い、つるりと剃った頭を撫でる。

 標津は吹き出した。

 

「とんでもねえ灰被り姫が居たもんだ、WBCのヘビー級ランカーだったろ、世界王座挑戦(タイトルマッチ)は惜しかったな」

「日本人で知ってる奴が居るとは嬉しいね。十年も昔の話だが、ボクシングファンかい?」

「衛星放送契約するくらいには好きだな。それで――」

 

 何か聞こうとしたのを思い留めたように言葉を飲む。

 

「それで?」

「いや。童話の魔女とさっきの可愛いのと、どっちが滅茶苦茶かな?」

「そりゃ決まってる。美人の方だ」

 

 ◆

 

 月の明るい夜だった。

 午前二時、丑三つ時ともなり、一昔前なら妖怪や幽霊が出歩いているとも思われていた時分、夜の明るくなった現代でもさすがに人影は少ない。

 近隣の子どもたちが遊びに来るような、住宅地の中の小さな公園においては、なおさらだっただろう。むしろ昨今の風潮の中では深夜にそんな公園で徘徊する男でもいようものなら、一報され、事案になっていたかもしれなかった。

 街灯の下、置かれている素っ気もないベンチに座り、直人は溜息を吐き、スマートフォンを操作し、何か思い出す事はないかと地図を無闇にスクロールさせていた。

 一時的に通信状態が悪くなったのか、フリーズしたかのように止まる。

 衝動的にそれを投げ捨てたくなり、途中で思い直し、ベンチに置いた。

 両手で頭を抱え、目を閉じる。

 

「……くそ」

 

 弱い罵倒が漏れ出た。

 廃ビルから出た後、夏希の行方は杳として知れなかった。

 直人も思いつく限りは当たってみたのだ。夏希の家族は元より帰ってこない娘を探していたし、友人達とも連絡を取り、行き先と思える場所には行けるだけ行ってみた。

 しかしいない。

 見つからない。

 何とかしたいという思いは誰にも負けていない、だがそれだけだった。情報を集められる組織もなければ、海別のように特定の誰かを探し出せる非常識な手段もない。

 ただの高校生である直人の限界だった。

 くそ、と再度つぶやく。

 

「忘れろなんて、普通言わねえよな……」

 

 居なくなるつもりだ、と直感でなくとも分かった。

 精一杯やった、足が棒になるまで走った、一生懸命探した。

 もういいだろう、と弱音を吐く心があり、そんな自分に直人は、よくなんかねえ、と口に出し、拳を握りしめた。

 

「しかし……どうしろってんだ」

 

 力が抜け、明るい夜空を見上げる。再び溜息が出た。

 その視界の端に、いつかの焼き直しのように、金色の輝きがよぎった。

 

「やあ、こんばんわ。良い夜だね」

 

 そしていつかのような挨拶を投げかけてきた。

 

「……吉野……さん?」

「うん、私だよ。ただ、名前で呼んでほしいね、直人(なお)

 

 いつの間に来たのか、昼と変わらぬ制服姿のイリスがそこにいた。わずかな笑みを浮かべ、どこか人をからかうような悪戯そうな顔をして。

 直人は悪い、とつぶやいた。

 

「今はごめん、忙しいんだ。のんびり話してる余裕は」

「佐藤さんを探している?」

 

 その言葉に直人は血相を変え、思わず立ち上がりイリスに詰め寄った。

 

「知ってるのか!?」

「まずは落ち着いてね」

 

 いなすようにぽんと肩を叩くイリス。

 悪ぃ、と言い、気息を整えるように直人は息を深く吸い、吐いた。

 

「標津さんからは直人を止めてくれって頼まれたんだけどね」

「……もしかして知り合いだったのか?」

 

 直人の思考の中でつながって行く。イリスもあの夜の事といい不思議な部分があった。そして今日会った三人、異能者と呼ばれる人達、その背後にある協会という組織。

 

「いや、倒れてるのを拾ったんで診療所に放り込んできたんだよ」

 

 直人の頭がかくりと揺れた。つながった思考はあまり意味がなかった。

 とはいえと思い直し、言う。

 

「そっか、良かった。あの後俺も救急車は呼んだんだけどさ、詳しく説明する事もできねーし、あれで来てくれるのか不安だったんだ。その……容態は大丈夫だったか?」

「うん、とりあえずは問題ないみたい」

 

 そして目を覚ました標津から一通りのあらましは聞いた事を伝え、そして言った。

 

「止めてくれとは言われたけど、直人、君はどうしたい?」

「どうしたいもこうしたいも、俺は探すよ」

 

 そしてためらい、ややあって口を開いた。

 

「あいつ、隠そうとしてたけど、泣いてやがったんだ。それに、忘れてなんて言ってやがった」

 

 照れるように髪を掻き、どこか恥ずかしいように視線を外す。

 

「嘘つきなんだよアイツ。それも自分が我慢する方にばかり嘘つくんだ。怪我だって心配させたくないからって痛いのに表に出しやしない」

 

 そんな嘘が破れかけてる、無理もできなくなってる、そう続けた。

 

「そういうの知ってるからさ。俺が行かなくちゃなんだ。忘れろなんて言われたら、絶対に行ってやらなくちゃならないんだ」

 

 そこまで言って、直人は目の前のイリスの様子に気づいた。どこかぼうっとしている。

 イリスは、ああいや、と少し慌てたように首を振った。頬を掻き、溜めていた息を吐く。

 

「少しあてられて。いやあ、若いっていいよねえ」

 

 妙にしみじみとした様子で言うイリス、だが肝心の言った本人が直人より年下にしか見えない。

 羞恥よりも、どうも納得できない気持ちがしてむっすりと直人は顔を歪めた。

 イリスはまあまあ、となだめるように言った後、一歩近づき、下から見上げる。

 

「君の気持ちはよく解った。大丈夫だ、君も運は悪くない、こう見えて私はわりと何でも出来るんだ」

 

 そう言い、妙に頼もしげな笑みを浮かべてみせた。

 

 ◆

 

 直人は昔、空を飛ぶ夢をよく見ていた時期があった。

 何の影響だったかも分からない、もしかしたら勢い良く漕いだブランコから跳んでみたり、幼馴染と飛距離を競った鉄棒でのグライダー遊び、あるいはどこかで見たアニメか映画だったのかもしれない。

 夢の中では地面を蹴るとふわりと体が浮き、よくわからない不思議な力で綿菓子のような雲を突き抜け、その上で跳ね回り、何故か出てきたポップコーンを頬張ったりもしていた。

 高校生になった今でも、例えば真夏の暑い時期などは特に、歩くのもおっくうになり、追い抜いてゆく車を笑いながら空を飛べればなあ、などと妄想した事もある。

 そんな妄想がかなっていた。

 

「に、人間ってな生身で空飛んじゃいけねえな!」

 

 びゅうびゅうと音を立てる風に負けないよう、怒鳴るような声で言った。

 

「高所恐怖症だったかい?」

「違えし!」

 

 不思議とイリスの声はいつもの調子でも直人の耳に普通に届く。何かきっとまたよくわからない魔法でも使っているのだろう。そう思うことにした。

 魔法、そう魔法だろうこれは、と直人は思った。

 なにせ箒にまたがって飛んでいる。魔女の正式な飛び方だ。ゲームやアニメや映画でお馴染みだ。

 イリス自体は、いつも魔女扱いされるので作ってみた、などと言っていたが。

 実際、箒自体はどこにでもあるものだった。ホームセンターで見かけるし、学校の物置には置いてある、ただの竹箒だ。どこからか飛んできてフワフワ浮いたりなどしなければ。

 その箒に二人乗りでまたがり、空を飛んでいる。

 直人が内心ではしゃいでいたのは実際にそれが動き出すまでだった。

 ひどく落ち着かなかった。

 当たり前だったかもしれない。足場も何もない空中で、竹の柄一本のみで体を支えているのだ。おまけにどれだけスピードを出しているのか、うなりを上げるような風が直人の体にたたきつけてくる。イリスが気軽そうに落ちたら助けると言ったが、それと本能から来る恐怖心は別物だった。両手でしっかり握った竹箒の柄も手のひらから出た汗でぬめり、今にも滑ってしまいそうだ。

 

「顔色が悪いよ? だから遠慮せず私にしがみついていれば良かったのに」

 

 そんな事を言うイリスは直人の前、柄の先の方にちょこんと横座りをしている。いかにも不安定そうな座り方だったがまったくそんな事は無いようで、直人を見てくすくすと笑う余裕すらある。さすがにその長い髪は邪魔になると思ったのか、まとめて服の下に流していたが。

 

「仕方ない奴だなあ」

 

 そう言うとイリスは体をひねり、直人を正面から両手で抱きかかえるようにした。

 

「な……おい!?」

 

 驚きの声を上げる。恐怖心とは別の意味で心臓が悲鳴を上げた。

 次いで思ったよりしっかりと支えられ、体が安定している事に気付き、目をしばたかせる。

 

「箒はある意味飾りだからね、確かに箒を通して飛行の術をかけてるけど基点は私なんだ。だからこうして支えると座りが良くなるわけさ」

「な……なるほど、よく判らないけど分かった。ところで前見てないけど大丈夫か?」

「さっきのシルフがまだ残ってたから目の代わりになってもらってる。目閉じても見えるよ」

「そ、そうか!」

 

 至近距離というか、密着状態だ。

 直人が大柄というよりイリスが小柄なため、支えるといっても形としてはむしろイリスが身を預けているようになっている。ちょうど胸にイリスの金色の頭が来る形だ、先程とは別種の緊張に晒されていた。

 

「ほうほう、かなりの動悸。これから女の子を助けに行くのに私に抱きつかれて動揺してる気分はどうかな?」

 

 ぐひゅ、と息を飲んだ直人の喉から変な音が出た。

 

「お……お前なあ」

 

 やっと呻くような声を出すと、イリスがくふふと笑った。

 

「最初から私に背中からしがみつかれるか、私の背中にしがみつくかを選ばなかった直人が悪いんだ。まあ、妹がもう一人出来たと思ってしばらく我慢してほしい。というか本当はその箒を握ってる手で私にしがみついてもらえるともっと安定するんだけどね」

「おま……さすがにそれは!」

「んむ、やっぱり胸がないとなかなか役得とは思えないものかな」

「そうじゃなくてな!」

 

 そんな緊張感の欠けたやり取りを交わしている間にも箒は飛び続け、さほど時間がかかる事もなく、北にある駒山の上空で止まった。

 

「ここは……」

「覚えがある?」

 

 箒はゆっくりと高度を下げて行く。

 高い位置からは森が一部消え去り、ゴルフ場のようにも見えたその場所。

 近づくにつれ月に照らされ、どこか不気味にも見えるロッジや、コースごとに設置されたリフトが見え始め、山頂近くにあるスキー場である事が分かった。

 雪が溶けて牧場のようにも見える草原に着地し、直人は周囲を見回す。

 

「夏希は……」

 

 イリスは箒を手に持ち、空いた手で北側の斜面を指差した。

 

「あの丘を越えた先。ところで君は彼女をどうするか、どうしたいかって決めてあるのかい?」

 

 直人は首を振った。

 

「あいつ自身が何も教えちゃくれなかったし、事情も分かってねえ。もしかしたら俺がどうやった所でどうにもならない事情があるのかもしれない」

 

 でも、と直人は後頭部をガシガシと掻く。

 

「少なくとも『何も知らない間に全部終わってた』なんて事にはならねえ」

 

 そしてふと気づいたようにバツが悪そうな顔になって言った。

 

「あーワリ、考えたらほとんど自己満な事情に手貸してもらってたかも」

「いいさ、他ならぬ君の頼みだ」

 

 イリスははっとするような穏やかな顔で笑みを浮かべた。

 ありがとな、と直人は言うと身を翻し――

 

「あ、ちょっと待った」

 

 服を捕まれ止められた。

 訝しげに振り向いた直人の額にイリスの手が当たる。

 

「ディオ、アドセム、ルセル、シェリ、フェスラ、リー、ラーナ」

 

 直人に聞き取れたのはその辺りまでだった。

 二重にも三重にも聞こえる声音、どうやって発音しているのかまったく分からない。そして意味の分からない言葉が数秒続き、直人は、自分の中に()()が流れ込み、消えてゆくのを感じた。

 

「……なんだ?」

 

 何か変わった事でもあるのかと思い、直人は無意味に振ってみるが、特に何かが変化した様子はない。以前の時のように疲労感が無くなったという事でも無い様だった。

 イリスは出来を確認するように少し首を傾げ、そして頷いた。

 

「魔女のおまじないだよ、特に何かが悪くなるわけじゃないから安心して」

 

 直人は不思議そうに、そうかと言い、よく判らないながらも何か意味があるんだろうと思い、礼を言い、改めて丘に向かい走って行った。

 草原で鳴く虫達のざわめきの中、イリスはふう、と小さく溜息を付く。

 

「少しは頼るそぶりでも見せればいいのに。まったくあいつは」

 

 そう言い、星の海が広がる夜空を見上げ、もう一度、まったく、とつぶやいた。

 

 ◆

 

 中学生の行事、林間学校の時の事だ。

 直人の通っていた中学の林間学校はそう変わった場所ではなかった。むしろ予算の都合からか、地元も地元だ。北の駒山、その山頂にあるカルデラ湖、諫見湖の近くに大きなキャンプ場があり、そこを借りて行われたものだった。

 キャンプ場とはいえ広い。小川が流れ、釣りもできるし、家族向けにアスレチックもなかなか本格的なものが用意されている。自由時間の折には生徒に目を光らせる教師の心労も大変なものだっただろう。

 そしてその自由時間の時に、霧が出た。

 山の霧だ、雲にすっぽり覆われてしまったかのような濃霧で伸ばした手の先も見えない。教師たちは慌てて生徒達を集め、確認してみたが、一人の生徒がどうしても見当たらなかった。

 佐藤夏希だ。

 彼女はこの頃まだ大人しく、同性の友達からのイジりともイジメともつかない嫌がらせを受ける事があった。

 受けている当人以外はただの遊び、子供にはよくある事だった。

 そしてこの時、そんなただの遊びが佐藤夏希を迷子にしてしまっていた。班で一緒にいたところ、彼女がトイレに行った所で皆で姿を隠してしまおう、などという戯れともつかないものだった。

 日が暮れても彼女は見つからなかった。事が大きくなったとしても公的機関に連絡し、捜索隊を出してもらうか、そんな事を大人たちが相談していた時、やっと本人が見つかったのだ。

 迷子になった夏希を探し出したのは、自身もこっそりと抜け出して探していた直人だった。

 あの時なぜ探し出せたのかは、直人自身よく分かっていない。

 大人たちが探していない場所を探そうと思ったのと、ただの理由の無い勘だった。

 あの時も、月が明るく、雲もなく、満天の星空の下で、疲れたようにうずくまっていて――

 

「夏希」

 

 直人のかけた言葉に、白い少女は何かに怯えるようにびくりと震えた。

 おそるおそる、と振り向く姿に、直人は中学の時は髪が長かったな、と場違いな思いを抱く。

 体操を初めた頃からショートボブとも言えるくらいに短くなっている髪は、色という色が抜け落ちたように白い。月の光を浴びてどこか青く染まるその姿は、恐ろしく幻想的だった。

 やっと言うように振り向いた夏希の、赤い瞳が揺れ、蠱惑的なまでに赤い唇が震えた。

 

「……葉山くん」

 

 どうして、と続けようとして、堪えられなくなったのか、涙が一筋こぼれ落ちた。

 直人はどうしようか迷った。彼自身何も考えていなかったわけではない、少なくとも最初にどう接しようかくらいは考えてもいた。ただ、そのあまりに寂しそうな顔と涙を見て、頭から全部吹っ飛んでしまった。

 迷ったあげく、もう一度名前を呼びかけると、ゆっくり歩み寄った。今の彼女はどうにかするとすぐに逃げてしまいそうな気もしたのだ。

 

「全部話してくれないか?」

 

 情緒もへったくれもない、単刀直入な言葉。

 ただ、それは正解だったようだ。

 夏希は一瞬呆気にとられたようにぽかんとすると、徐々に笑みが浮かんできた。

 

「うん。葉山くんらしいね」

 

 そう言い、一歩直人に近づいた。

 頭半分ほど自分より高い直人の目を見つめ、そして瞑目した。

 数秒、何か大事なものを刻むように。

 そして目を開け、言った。

 

「全部話すよ。そう、まず――」

 

 私は人間じゃない、人間に似せた『フラスコの小人(ホムンクルス)』だと。

 

 ◆

 

 偉品(レリック)というものがあるのだという。

 どんな存在が作ったのかすら判らない、()()()()()()()()()()()()()

 いつの間にか消えている事もあれば、形を変えて再出現する事もある。

 総じて人の身に余るほどの力を、あるいは叡智を与える物品。超一流の錬金術師をもってしても一部を解析する事がやっとの程のもの。悪魔が姿を変えたものとすら言われている。

 夏希の作り主は一つの偉品(レリック)を保持し、長くそれの研究をしていた。

 

「二百年、造物主(クレアトゥーレ)はそんな時間、ずっとそれの研究をしていたの」

「な……長いな」

 

 うん、と頷く夏希。何となく、といったように空を見上げ、続ける。

 

「十七年前、転機が訪れた。研究していた偉品(レリック)の主が生まれた」

「十七……? ってそれ、同い年か」

「そう。葉山くん、あなたの事だよ」

 

 は? と直人は予想外の言葉に呆気に取られた。

 夏希は苦笑し、そうなるよねと言う。

 

「えーと、じゃあなんだ、もしかして夏希の作り主ってのにとって俺が邪魔にでもなったのか?」

 

 夏希は首を振る。

 

「逆だよ、葉山くんは絶対に必要だった」

 

 偉品(レリック)はその正当な主でない限りは用いる事が出来ない。ラファエロにとってはようやく待ち望んだ事態に恵まれたのだと言った。

 偉品(レリック)は因果律の一部を操り、人の手を渡り歩き、あるいは動物や海の流れさえ動かし、いつの間にか主の手に収まる。それを知っていたラファエロは偉品(レリック)そのものに細工を仕掛けた。ただその場所を知らせるだけの細工だ、ラファエロほどの錬金術師であってもその程度の細工しかできなかった。

 

「そしてそれが人の手から手へ渡り、葉山くんの手元に届いたのが五年前」

「五年……それは」

 

 直人はこめかみに鈍痛を感じた。思い出そうとすると苦痛を覚えるものがある。なるべく思い出したくはなく、そして誰からも幻覚を見ているなどと言われ信用されなかった、自身ですらそれは夢でも見ていたのではないかという穴だらけの記憶。

 頭を振る。

 今大事なのは夏希の事だった。それで、と夏希に話を促す。

 

偉品(レリック)は五年前を境に反応が消えてしまったの」

 

 ラファエロは当惑し、だが諦めなかった。当然だろう、二百年も待ったのだ。偉品(レリック)の力はなくなっても形骸のみは残っており、その復活を待つことにした。

 そして、と夏希は言葉を切り、息を吐く、胸に手を当てて言った。

 

「その監視と万が一の護衛のために作られたのがあたし。佐藤夏希、本当の佐藤夏希は五年前に(クレアトゥーレ)に殺されてあたしとすり替えられたんだ」

「ん……な」

 

 直人は絶句した。ラファエロという錬金術師は非道も辞さない者らしい。そしてある意味間接的に直人のために佐藤夏希という少女は殺されてしまったという事にもなる。

 

「本当の佐藤夏希は病弱で、自宅と病院を行き来してる子だった。表に出ないから記憶をいじるのは少人数で済む。殺された理由はそれだけなんだ。お父さんもお母さんも、たったそれだけの理由で娘が殺されて、あたしを娘と思い込んでる」

 

 夏希は疲れたような笑みを浮かべた。

 

「あたしはあたしで五年間、ずっと自分の事、人間だと思ってた。今だって、幼稚園で遊んだ子の名前も顔も出てくる。でもそれは調べて記憶した、本当の佐藤夏希さんの記録」

 

 それにそれだけじゃない、と言った。

 

「葉山くん、私の主が必要なのは葉山くんの魂と体だけで、人格は必要がないんだ」

「魂と体……だけ?」

「うん、(クレアトゥーレ)は葉山くんの人格を書き換えて、自分の人形として使うつもり。だから――」

 

 罪を告白するように、夏希は言った。

 

「そのための術式をあたしも無意識のうちに葉山くんに組み込んでた。会うたび、会うたび、あたしは」

 

 声が震える。

 枯れたと思っていた涙はまだ溢れてきた。

 

「どうすればいいの、どうすれば。あたしは葉山くんを壊したくない、でも壊さないといけないの。もうあなたの偉品(レリック)は再起動を始めているから。あたしは逆らえない、そんな風には出来てない」

 

 夏希は幼女のように慟哭した。

 どうしようもない事に、抗えない事に。

 

「感情なんて要らなかった、こんな、こんな思いをするなら」

 

 直人には何もできなかった。

 考えても考えても、できそうな事がなかった。

 与えられた命令と反する感情、それをどうにかする都合の良い手段なんて何一つ持ち合わせていなかった。

 だから、単純に、泣いて震える女の子を抱きしめた。そんな事しか出来なかったから。

 そして言う。

 

「ごめん。俺は壊されるわけにいかない」

 

 腕の中で夏希が頷く。甘えるように一瞬つよく直人を抱きしめると、分かってるとつぶやき、顔を上げ、直人の唇を奪った。

 驚き、腕を緩める直人から夏希は離れ、やっちゃった、とにへらと相好を崩す。直人が見たことも無いような一番の笑顔を浮かべ、言った。

 

「葉山くん、あなたが大好きです」

 

 不意打ちの連続に呆ける直人からさらに一歩距離を取る。

 月の光のせいか、直人にはひどく白い少女が儚い存在に見えた。

 

「今度はちゃんと、わすれてね」

 

 そう言い、夏希はいつの間にか赤く揺らぐ手をかざし、己の胸に突き立てた。

 

「なっ……」

 

 夜目にも鮮やかな朱が舞った。 


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