赤い森のイリス   作:ぬまわに

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三話

 春にしては暑く、夏にしては涼しい。

 紫陽花(あじさい)が風景を彩るにはいささか早く、しかし雨は多くなってきた時節だった。

 ひどく人相の悪い男がワンボックスカーのドアを開け、いかにも気怠げな様子で車外に組んだ足を投げ出していた。収まりの悪い髪をオールバックにまとめ上げ、三白眼の鋭い瞳が薄いブラウンのサングラスから覗いている。顎髭を蓄え、額を真横に一筋、目を縦断して一筋、刃物で切ったような傷跡がただでさえ悪い人相をさらに壮絶なものに変えていた。

 男はおもむろにジャケットから煙草の箱を出し、開け、空なのを見て箱を握りつぶし、溜息を吐いた。

 

「よぉ摩周(ましゅう)、ちょっと煙草買ってきてくれね?」

 

 人相が悪い上に声も恐ろしくドスが聞いている。子供も大人も震え上がる事請け合いだ。

 

「えー、やですよ。もう少ししたら朱里さん戻りますから、そしたら道の駅にでも行ってお昼にしません? 煙草はそこで買いましょう」

 

 そんなドスの効いた声に返答したのはむしろ対照的に軽薄とも、優しげとも言える声だった。

 摩周と呼ばれた運転席の男だ、長髪を赤く染め、耳には幾つかのピアス、甘い顔をし、スーツを着崩す様はどこかのホストクラブから抜け出してきたかのようだ。

 人相の悪い男ははぁぁと声を溜息に乗せた。

 

「最近自販機でショッピ売ってねーんだよ、上司の機嫌取るのもできる部下の要素だぜ?」

「もういい機会だからそろそろ禁煙とかどうですか? 朱里さんが標津(しべつ)さんが近くで煙草吸うと仕事に支障が出るって言ってましたよ、鼻が効かなくて」

「ニコチンとタールから俺を取り上げたらあいつらが可哀想だ、死ぬまで一緒に添い遂げてやらねーと」

「アルコールはどうなんです?」

「あいつは愛人だ、たまに()りすぎて頭おかしくなるけどな」

「気が多いことですねー」

 

 車の通りもまばらな路上に停車された車で、二人はそんな力の抜ける会話をしていた。

 一台、地元の人らしき軽トラックがゆっくり通り過ぎて行く。

 ツバメが二羽絡み合うように空を飛び、どこかへ行った。

 

「暇っスねえ、やっぱこれ地域管理課の方でできません?」

「無理だろ……あっちが一杯一杯だから三課(うち)に回されて来たんだぜ」

「人が居ないって悲しい……」

「仕方ねーなあ、霊地管理はそういうのを感じ取れて動かせる奴でないと駄目だし、そりゃ限られる」

「うちも朱里さん以外駄目駄目ですしねー」

「うるせぇ」

 

 グダついたやりとりはコツコツと鳴る特徴的な足音で途切れた。ハイヒールの音だ。

 戻ったかという標津。摩周はいつでも出られるように車のエンジンをかける。

 足音は近くなり、途中で乱れ、きゃっ、という妙に可愛らしい悲鳴と共に鈍い音が聞こえた。

 やがて子供が欲しいものをねだるような「うー」という唸りに変わり、パタパタと服を叩くような音になる。

 車内の二人は目を合わせ言った。

 

「転んだな」

「転びましたね」

 

 標津は肩をすくめ、開きっぱなしのドアから出ると、ボブカットで幅広のメガネをかけた女性が指で触れば泣き出しそうな顔で服の埃を払っていた。しばらく観賞を楽しみたいような気分を抑え、軽く頭を振り、声をかける。

 

「平気か海別(うなべつ)?」

 

 声を聞くや、女性の表情は一瞬にして怜悧なものへ、背筋はぴしっと伸び、ヒールのかかとは合わされ、それまでの事がまるで夢か幻かであったかのように消え去り、耳にかかった髪をふと気になったように手で掻いて流す。

 

「……なんの事でしょう」

「いや、別にいいけどな……」

 

 いかにもできる秘書然とした女性は、ならいいですと言い、報告は移動しながらにしましょうと続けて、車の助手席に回った。

 

 ――秘跡というものがある。

 カトリックではサクラメントと呼ばれるその原型は、ラテン語ではサクラメントゥム、ギリシャ語ではミュステリオン、ロシア語ではタヤナ、英語ならもっと平たくミステリーになってしまう。

 古い言葉だけに意味合いは様々だ。聖別されたものを指す事があれば、特殊な意味を持つ儀式を指す事もある。

 そしてもっと曖昧に、ただ『不思議なもの』を指す言葉とし、未だ自然科学では解析されていない人類未踏の部分、そして理学ではどう捻ってもそうはならないはずの現象を指し、そう呼ぶ者達が居た。

 

「分析班の割り出した地点を巡った結果、やはり駒ケ岳市は非常に不安定な状況です。霊地化するかしないかの境を行ったり来たりしているような」

 

 車の助手席に、見本のように丁寧な座り方をしている女性が言った。

 後の座席に座っている男は煙草が切れて口寂しいのを誤魔化すように、ガムを五つまとめて口に放りこみ、事態を整理しているのかしばらく間を置き、口を開いた。

 

「霊地が新たにできる前例があったはずだな」

 

 すでに調べてあったのか、海別は間を置かずはい、と応え、バッグからタブレット端末を取り出した。

 

「確実な記録だけでも1900年から三件あります。一つは南米、チリ南西部のチロエ島、一つは北アフリカ、エチオピアのアクスム、一つは中央アジアのトルクメニスタンのアシガバートです。チリのものは地震による霊地の変動によるもの、エチオピアのものは反エリトリア武装勢力が引き起こしたものとされていますが、方法については検証中、トルクメニスタンのものは原因不明となっているようです」

 

 わお、と運転席の摩周が声を上げた。

 

「世界的っスね。日本だと初めてって事ですか?」

「いえ、確定されていないだけで、()()()()霊地でない場所が霊地になった場所というのは日本だけでも四十五ヶ所ありますね」

 

 ああな、と標津は声を出した。

 

「普通の土地か、元から霊地だったのかなんて何かの偶然でそこをよーく調べた事前情報でもなけりゃ比較できねーもんな」

「その通りです。元々霊地自体は緩やかな流動を繰り返すというのが協会本部のシェール派による仮説で、一応矛盾が無い事からこれが主流となっています」

 

 摩周は、どこまでわかっているのかほうほうと相槌を打ち、言う。

 

「んじゃー、今回のここもそのひとつって事で?」

「なり得るかもしれない、と言ったところです。少なくとも珍しい現象であるのは間違いがありません。経過を観測できれば貴重なデータとなるでしょう」

 

 どさりと音がする、海別が振り向き後を見ると、標津は大柄な体を伸ばし、シートに寝転がっていた。

 

「子供ですか上司」

「ママって呼んでやってもいいぜ部下。まあ後は報告書作って上にやるだけだなあ、学者さんの領分に俺らが立ち入っても仕方ねえ。牛丼でも食って帰るか」

「……また牛丼ですか?」

「大盛りトッピング三品まで許す」

「行きましょう」

 

 摩周はハンドルを握りながら「安上がりっスね」とつぶやき、隣からきつい視線を浴びた。

 ふっと思い出したように、海別は視線を外し、そういえば、と付け加えるように言う。

 

「もう一つだけ当たってみても良いでしょうか? 複数の地点から同一人物の臭いがあったので」

「おいおい、追跡者(トレーサー)の真似事か? 今日中に終るんだろうな」

「特徴的な人物だったので特定は既に」

 

 そう言い、手元の端末を操作し、後ろに渡した。

 標津はそれを受け取り、目を通すとなるほど、と頷く。

 

「確かに臭えな。一年以上前の経歴がない……つか無戸籍者か」

「はい、駒ケ岳市の異変を協会が認識したのは一ヶ月前ですが、少なくとも五年前に行われた調査の上では土地におかしな点は無かったようです」

「そんなら五年の間に居着いた奴を洗うか、シンプルでいいねえ。待ってんのも暇だし俺が出てやらあ」

「駄目です」

 

 部下からの駄目押しに標津はがくりと力が抜け、タブレットを落としそうになる。

 落としかけたタブレットを海別は絶妙な合いの手で受け取り、言った。

 

「対象の年齢と性別を見て下さい。標津さんの顔じゃ怖がられます」

「意外と子供受けは良いんだがなあ」

「怖いもの知らずの幼稚園児相手じゃないですか、相手は女子高生なんですから」

「まあなあ、とすれば」

 

 と標津は運転席に目を向けた。

 助手席の海別もはいと言い、隣に目をむける。

 

「な、なんスか?」

「聞き取り調査頼むぜ元ホスト」

「頑張って下さい元人間の屑」

「朱里さんの当たりが酷すぎる!?」

「ホストクラブは嫌いです」

 

 標津は豪快に笑い、言った。

 

「犬神使いは嘘が判るからな、ああいうおだてと嘘ばかり飛び交ってる場所はゴミ溜めみたいに感じちまうんだろう」

「臭いです」

 

 臭いスか、そうつぶやき情けなさそうな顔で脱力する摩周。

 標津は身を起こし、言った。

 

「まあ、決まりだな。摩周と海別で聞き取りだ、一応俺も後で待機。基本はCランクまでの情報開示に留めとけ、状況次第でこっちから指示を送る。調査対象は――」

 

 ◆

 

 子供の頃はただ飢えていた。

 痛みも苦しみも通り過ぎると、その先はただ寒い。

 それを知りたくなくて、触れたくなくて、食えるものなら何でも食った。

 物乞いをし、盗みをし、あげくには兄弟といつからか呼んでいた仲間を売り。

 日本という国の子どもたちを観察していると、ついそんな昔の事を思い出し、(ヤン)は苦笑した。

 

「どいつもこいつも楽しそうだ」

 

 実際にはそんな事はないのだろう、百人いれば百人の悩みと苦しみがある。

 しかしそれでも楊は思った。

 この当たり前に怒ったり悲しんだりできるような余裕ある奴らをめちゃくちゃにしてやったら、どれほどスカッとするだろうかと。

 八つ当たりだ。楊の、それも過去の不幸。目の前の子どもたちは無関係だ。

 ――それが何だというのか。

 憂さが溜まっている事を楊は感じていた。なにせ一つの仕事に半年もかけている。

(少し慎重になり過ぎたか)

 とも思った。

 しかしいやいや、と首を振る。

 今回の仕事は大きな仕事だ。相手は世界屈指の造形師。どんな罠があるかも分からない。物の真贋は元より、どんな仕掛けでも対応できる準備を整えておく事は必要不可欠だった。

 そしてお宝を無造作に放り出してある意図もまた分かっていない。

 

「天才の考える事ってな分かんねえなあ」

 

 低俗な人間は高尚な人間が理解できない、同時に高尚な人間も低俗な人間の事が理解できないのだろう。

 

「もっとも……」

 

 だからこそ俺のようなこそ泥に嗅ぎつけられる。

 そう心の中でつぶやくと、楊は腕時計に目を通し、まだ半分ほど残っている煙草を捨て、踏み潰した。

 市民の憩いの場となっている公園に、木々の香りにまじり、わずかな焦げ臭さが混じって消える。

 いつものように観察しようと学校へ足を向ける。

 中肉中背、悪人には見えそうもない朴訥な糸目という容姿を与えられた事に楊は神に感謝する時がある。シャツにチノパンでも履いて人波に混じれば、アジア圏なら大抵どこでも埋没してしまう。

 よくよく警戒し、遠間から観察する分にはまず気取られない自信があった。

 むろん情報量は少なくなる。

 それを数で補った。

 来る日も来る日も足を向け、観察し、その痕跡を辿り、あるいは、覗き屋が使うような小道具を使い。少しずつ集まる情報をパズルのように延々と組み上げる作業。

 経験則からその仕組を解析し、推測する。作る事などできはしないが、分析し、穴を突く事は楊の得意とする所だ。

 途中まで歩いたところで楊の足は止まった。

 顔が強張り、落ち着かない様子で自らの後頭部を撫でる。

 

「……なんだ?」

 

 悪い予感がしていた。

 予感は大切だ。彼のような一つ間違えれば地獄が口を開けているような小悪党にとっては特に。

 ちょっとした仕事ならこいつはヤバイと思い身を翻してしまうかもしれない。だが、何も確認せず逃げ帰るには、今回のヤマには時間も金もかかっていた。

 楊は頭を振り、足を進める。

 そして角を曲がり――自分の予感が正しかった事が分かった。

 一人の少女が大人二人と話している。

 目立つ三人だ、少女は巳浦高校の制服を着、染色や脱色ではない金色の長い髪が見える。

 大人の一人は一言で言えばチャラ男だろう、赤く染めた髪に着崩したスーツ、連れがいなければただのナンパに見えたかもしれない。

 そしてもう一人はボブカットの女性だ、見た目だけならひどくキツい印象がある。

 楊はひどく緊張しながら、それでいてその緊張をまったく表には出さず、何食わぬ顔で通り過ぎた。近くに止まっていたワンボックスカーの中の人間がちらりと見えた時は一瞬息を止めてしまったが、ほんの一瞬だ。

 角を二つ三つ曲がった所で、ようやく緊張が抜け、壁に背を預けてへたりこむ。汗が吹き出し、服を不快に濡らした。

 

(くそったれ)! (くそったれ)! なんでこんな所に協会の連中がいやがる、犬女に豪腕まで控えてやがった!」

 

 舗装された歩道を拳で叩く。

 異様な様子に人目が集まるが今の楊にとって知ったことではなかった。

 

「嗅ぎつけられたか? いや、それは考えても仕方ねえ」

 

 立ち上がり、ブツブツと独り言をしながら歩く。

 

「あいつらなら気づく、気づけば放っておくわけがねえ、どうする……どうする?」

 

 その顔は作りは温和ながら、鬼気迫り、凶相としか言いようのないものになっていた。

 

「どうする……くそっ、どうするもこうするも、やるかやらねえかだけか」

 

 足を止め、ああ、とやけっぱちにも溜息にも聞こえる声を発する。

 

「やってやる、畜生、やってやるぞ」

 

 そう言い、遠巻きにして見ている一般人に向かい、獣のように歯を見せ喚き威嚇すると、悪鬼の様相を呈した顔で走り出した。

 

 ◆

 

 よく晴れた日だった。

 空高くにある薄い雲が風に流されて形を変える。

 少し季節外れのウグイスがどこかで鳴き声を発し、車の通りがかった音でかき消された。

 そんないつも通りの日、いつも通りの学校からの帰り道で、吉野イリスは二人の大人に捕まっていた。

 捕まっていたといっても拘束されているわけでも何でもない。立ち話でいいので話を聞かせて欲しいというのでそれに応じている形だ。女性の方は公安調査官の手帳を見せ、ご協力下さいと言っていたが、男性の方は始めから軽妙な軽口で、情報調査というよりむしろイリスの個人情報を聞き出そうとしているようでもある。

(面白い)

 とイリスは感じていた。

 よく喋る男性については普通の人間だ、ただ横で一歩下がり立ち会っているだけに見える女性、こちらはどうも違うようだった。

 そして少し離れた電柱の近くに止まった車、その中の男はより()()

 組織めいている。イリスはそう感想を抱いた。

 世の中は結構色々あるものなんだな、とも。

 

「ああぁ、苦労してんだねえ……イリスちゃんは。結局そんな生活をずっと?」

「ええ、はい。一年前の冬頃に養父の、昔お世話になったという方が色々世話してくれて今は何とかなってるんですが」

 

 イリスの実父も実母も居ない。物心付く頃には揃って行方不明になってしまっていた。

 養父である吉野悟も実父も昔あった小さな暴力団の一員だった、当時の暴力団の統合の波に飲まれて消えてしまった組だ。実父の盃兄弟であった養父は幼いイリスを連れて各地を転々とした。破門回状を回され、いわば極道の世界から追放された身であり、日雇いなどで何とか生きていたが、若い時から極道に入り、他の生き方など知らない男だ。問題を起こす事も多く、その度に別の土地に行く事になった。

 イリスに戸籍はなかった。出生届を出されていなかったのだろう、養父もまたそれをあまり大した事に考えていなかった。小学校に入れない事が判ると自分でやれとどこからか手に入れてきた小学生用の教科書を渡した程度だ。

 そんな生活が続き、養父は精神的に疲れ、病み始めた。

 厭世的になり、働く事を止め、安い貸し部屋を追い出された。

 そんな時、窮状を知り助けになってくれたのが、六咬会という、かつて養父の居た組を奪った暴力団、そこの若頭になっていたかつての舎弟だ。

 養父はその助けを拒んだが、イリスを代わりにと託し、現在に至る。

 そんな話だった。

 

 身の上話を終え、同情たっぷりな顔をしているホスト風の男から、最近この辺りで変わった事がなかったかなどを尋ねられたが、それもイリスは男に心を許したかのようにさらさらと答えた。耳を澄ませれば入ってくるような高校生の噂話、まったく根も葉もない都市伝説じみた話などだ。

 男と女は目配せを交わし頷いた。

 

「うん、ありがとうイリスちゃん。時間をとらせてすまなかったね、個人情報に関しては秘匿の義務があるから心配しなくていいよ、仕事上口約束以上にできないのが残念なんだけどね」

 

 気をつけてと手を振る男に、にっこりと笑顔で手を振り返すイリス。

 妖精めいた少女が見えなくなると、男は力が抜けたようにがっくりと項垂れた。

 

「あああ、辛い、あんな可愛い子に探り入れるの辛い」

 

 隣の女はメガネをくいと上げ、答えた。

 

「その点は同意します、本当に持ち帰りして撫で撫でしたくなる可愛さですね。きっとテディベアの……ペッツィーが似合うに違いありません。甘ロリ系で、薄い青のドレスが……」

「朱里さん朱里さん、可愛いものに目がない朱里さん戻ってきて」

 

 海別朱里は硬直し、口を固く結ぶと頭を振った。もう一度ずれてもいないメガネをくいと上げ直す。

 

「話を散らかさないで下さい摩周さん」

「……ハイ俺ガ全部悪イデス」

 

 摩周はいじけるように屈み込み、無意味に歩道を指でつついた。

 わずかに右目を閉じ、言う。

 

「それで嘘の反応どうでした?」

「……嘘の臭いはしませんでした」

 

 海別はどこか困惑したような声で言う。

 少し迷ったように空を見上げる。

 

「摩周さんはどう思いましたか?」

「嘘付きッスね。それも相当慣れてる感じの」

「さっき探り入れるの辛いって言ってませんでした?」

「そりゃ女の子に嘘を付かれるのは好きでも俺が疑ってかかるのは嫌いですから」

 

 海別は目を大きくして驚くと、変わってますね、と言った。

 

「そうですか?」

「はい」

 

 真面目に頷く海別に、摩周は不思議そうに言った。

 

「標津さん、その辺どうっスか?」

 

 はっははと笑い声が響き、バァンと音を立てて摩周の肩が叩かれた。

 

「てめえはいい男だからな! ただちょっと自覚しろ、イラッと来る」

「ひでぇ! パワハラだ、訴えてやる。労働組合はどこだ!」

「ん、そんなんあるとでも思ったか」

「ブラックだ! とんでもない所に来てしまった!」

 

 むしろダークだから安心しろと標津は言い、顔を面白げに歪めた。

 

「嘘か本当かはともかく、あいつ俺を見てたな」

「……ッ、まじッスか?」

 

 全然気づかなかったと言う摩周に、標津は頬を掻く。

 

「いや……見てたっていうかな、意識をこっちにやってたというか、あれだ。めっちゃ強え異能者相手にバトってるとたまに全部こっち読まれてる気になるだろ、あれよ」

「いや全然分からないんですが」

「うるせぇ考えるな感じろ」

「この上司適当すぎる」

 

 標津はふん、と鼻を鳴らした。

 

「まああの娘に関しては『嘘つき』でいい。それ以下にもそれ以上にもするなよ、適度に警戒してる分には害にはならねえだろ」

「勘ですか」

「勘だが」

 

 標津はそこで間を置き、言った。

 

「当たる」

 

 ◆

 

 直人はアルバイト先に行きがてら夏希を送っていた。

 夏希には普段部活動があるだけにこうして時間が重なるのは珍しい。

 もちろん理由はあった。体操部の部長から今日は練習を休んで休養に当てるようにと釘を刺されてしまったのだ。夏希は勘を取り戻すために、と言っていたがどうもまたやりすぎてしまったらしい。

 そして部長から送りを頼まれたのが、直人だった。

 部長が言うには、それだったら大人しくするからだと言う。直人にはピンと来なかったが、そう言うからにはそういうものなのだろう。

 夏希の家は繁華街と高校から見て少し東側の住宅街にある。通り道としては先日直人が全力疾走した道だ、八房公園沿いを通り、なんたら街道というカーブの多い道を抜け、左側の高台になっている場所がそうだった。

 よく晴れてはいるが、時折強い風が吹く。

 その時も直人の目の前で、あまりにタチの悪い風か少々の悪戯をした。

 

「う……おぉ、パンチラった」

 

 そう言い夏希が自分の浮き上がったスカートを押さえる。

 こういう場合男はどう対応すればいいのだろうか、直人が難しい顔で悩んでいると、夏希は妙に楽しそうな表情で言う。

 

「で、葉山君、感想は?」

「……スパッツは無しだと思う」

「しっかり見てたねー葉山君にも人並みのエロ心があってあたしゃ安心したよ」

「というか尻でかいな」

「うああああー! 言うなああ! というか何でそういうのを平然と言うの、もう少し顔を赤くしてくれたりとかしても良いんだよ? ねえ」

「うーん。ちょっと今更すぎて、というか俺にどんな反応望んでるんだよ」

 

 確かに直人も中学生あたりは色々困る事もあったが、さすがに何年もツルんでいれば慣れもできる。もっとも、そのやたらスタイルの良い、長い足の白さは脳裏にきっちり残ってしまってもいるのだが。直人も年頃だ、表には出さない。

 

「そういえば葉山君、バイトの方はどう?」

「どうってもなあ、普通だよ普通。先輩が動いてくれないからやったら運ぶ量が増えちゃってるけどさ、まあ体鍛えてると思えばちょうど良いかな」

「お酒の配達でしょ?」

「卸しだからなあ、居酒屋に運ぶビールの量とか半端じゃないんだぜ。あの辺古いからエレベーターついてない店もあるしな」

 

 ふぅむ、と夏希は考える素振りを見せると、直人に右腕を出させ、曲げさせる。ビルダーがよくやる上腕二頭筋を強調させるようなポーズだ。

 

「ほうほう、これは確かに」

 

 夏希は直人より頭半分ほど低い、そうやって腕を曲げるとちょうど顔のあたりに腕が来る。

 両手を出して腕に触れ、自分にない筋肉の膨らみに感心したように揉む。

 かと思えば――

 

「よいしょお」

 

 いきなり体重がかかってきて、直人は慌ててぐっと力を入れ、バランスを崩さないように支えた。

 

「おおー、凄い凄い」

「お前なあ、子供か?」

 

 夏希が腕に手を回し、膝を曲げてぶらりとぶら下がっていた。

 

「あっはは、ちっからもちー」

「テンション高いな!」

「葉山君と帰るのも久しぶりだからねー」

 

 膝を伸ばし、とんと綺麗に地面に足を着く。何気ない動作でもさまになるのは部活のおかげか。

 確かに久しぶりなのだろう、直人は思った。

 中学生の時はたまたま道筋が同じだっただけだが、よく一緒に帰っていたものだった。高校になって、それぞれアルバイトや部活動を始め、時間が合わなくなっていったが。

 夏希もまた同じような事を考えていたのかもしれない。

 

「昔はさ、葉山君随分荒れてたよね」

「中学ん時か? 昔ってほど昔じゃないけどな。まーあんま思い出したくは……うん」

「道長君が言う黒歴史って奴だね、いやー、でも封じてもらいたくないかな、結構あたしからすると良い思い出もあるのに」

「あいつとも最初は喧嘩してたような気がするな」

 

 当たり前だが今仲の良い四人も最初から仲が良かったわけではない。

 夏希は何を思い出したのか、にこにこと微笑み、言った。

 

「それそれ、理由覚えてない?」

「さあ、なんだったかな」

 

 直人は誤魔化した。きっちり覚えている。当時夏希は今ほど明るくもなく、物静かだった。ただ容姿は当時から抜群に良く、大人びていて、興味のあるものを見つけたら全力で絡んで行く道長に目をつけられたのだ。

 道長は今でも十分にアレなキャラだが中学時はもっと歯止めが効かなった。困り果てた様子の夏希を見て、つい直人は道長に喧嘩を売ってしまったのだった。しかも言葉が奮っている。

 

「ほんとに覚えてない?」

「……覚えてる」

「お前の面が気に入らないって言っていきなり道長君を殴り飛ばすんだもんね、びっくりしたよ本当に」

「いや勘弁してくれ、ください。マジでどこのチンピラだよって話だよな……」

 

 その喧嘩が元で出席停止を食らい、親には泣かれ、姉からは殴られ、空手の師範からはみっちりしごかれた。直人にとっては忘れたい記憶の一つではあるが、結局それがきっかけで夏希と知り合い、道長とは友達となったのだから始まりはどうあれ結果が良ければというものかもしれない。

 再び風が吹いた。

 背中を押すような追い風。

 そしてゾクリと。

 背筋に氷柱でも打ち込まれたような気がした。

 

「な、んだ?」

「……えっ」

 

 突如、どこにでもあるようなコンパクトカーが迫り、咄嗟に直人は夏希をかばう。

 車は二人の目の前で、激しいブレーキ音を響かせ、止まり、ドアが開く。

 息を飲む二人の前に現れたのは、何の変哲もない、朴訥そうな顔の男だった。ただその表情は歪み、凶相といっても差し支えはない。

 男は夏希を後にかばう直人を見るとぴくぴくと眉を震わせ、言った。

 

「なんだァてめえ、時間がねえんだ、こっちにはよ!」

 

 黒い、妙に立体感を失ったモノが男の足元から広がった。

 ――蛇。

 それも無数の。

 現実味の無い光景、だが間違いなく、これは恐ろしい存在(もの)だ。

 

「つっ」

 

 あまりの異様さに硬直する夏希の手を取り、とにかく距離を置こうと引っ張る。

 

「逃げ」

「逃がすわけねえだろ」

 

 言葉をかぶせてきた男が一歩足を踏み出した。

 黒い蛇に見える、だが絶対に蛇ではない、数えるのも馬鹿らしいくらいの無数のそれが異様な速さで迫り、夏希を飲み込んだ。直人の掴んだ手だけがかろうじて突き出しているが、痙攣するように震えると、力を失う。

 

「夏希ぃッ!」

 

 直人は叫び、塊のごとき黒い蛇の中に腕を突き込み夏希を引っ張りだそうとした。

 塊はぬめり、蠢き、冷たい。生き物のようでそうではない。おぞましい感触に一瞬ひるみ、歯を食いしばり腕を深く突きこもうとする。

 

「鬱陶しい!」

 

 言葉と共に、直人の首筋に衝撃が走った。

 一瞬の空隙。

 

「クソが! クソが!」

 

 ガツ、ガツと鈍い音が響く。

 倒れた直人の後頭部を男は何度も踏みつけ、蹴りつけていた。

 やがて直人が動かなくなった事を確認すると、息を整え、車に戻る。

 あれだけあった黒い塊は冗談のように男の足元に収まり、消えていった。

 

 ◆

 

 血溜まりに伏す直人を通行人が見つけ、救急車を呼ぶ前に、一台のワンボックスカーが停車した。恐ろしく強面(こわもて)の男が降りて、こりゃまずいとつぶやき、担ぎ上げ、車内に引き入れる。

 

「おい死にかけだ、摩周、E-05の薬出せ、海別、俺が組織は繋ぐからお前は不自然な部分がないかチェック頼む」

 

 そう言い、標津は太く大きい手のひらで負傷している直人の首と後頭部付近を探るようになぞる。五分ほどもそんな動作をし、終わったのか、ふぅと息をつく。

 横から摩周が目当てのものを取り出したのか、ペンにも見える注射器を差し出した。

 海別は目を閉じ、何かに集中し、口を開く。

 

「問題ないようです。()()と比べ、不自然な臭いはありません」

「よし……脳味噌潰れてなくて助かったぜ。あればかりは手に負えねーしな」

「相変わらず標津さんのは無茶苦茶ですよね、医者要らずじゃないですか」

「馬鹿言え、病気の一つも治せねーし、肉と骨と神経継ぐくらいだ。実際の治癒はコレ頼みだしな」

 

 そう言い、プッシュ式の注射器を直人の肩に押し当てる。

 ひとまずの治療を終えたのか、標津は直人の顔についた血を拭い、後列シートに寝かせる。

 摩周は運転席に戻り、エンジンをかけた。

 

「とりあえず移動しますね。ってか渡しといてなんですけどあの薬使っちゃって良かったんですか?」

「あー、緊急事態だ。それに異能犯罪に巻き込まれた被害者だ、重要参考人と判断し救命措置を行った。これでいいだろ。海別、臭いはどうだ」

「消えました。かなり隠形に長けている相手のようです。現場に残った臭いも微少、あと数分も遅れていれば消えていたかもしれない所を見ると」

「お前が居ること前提で動いてやがるか、面倒臭ぇ相手だな、何より目的が分からねえ」

 

 標津は苛立たしげに顎髭を撫で、後部座席に横にした直人を見、溜息を吐く。

 

「状況報告はしておきました。応援要請はどうしますか?」

 

 海別が言うと、標津は首を振った。

 

「この不透明な状況じゃさすがに出してくれん、やるとしてもこいつから話を聞くのが先だ」

「標津さんと朱里さんのツートップですもんね、大体の事は解決できるって思われてますよ」

「買いかぶりも普段は楽だがこういう時ぁ面倒だな、摩周一人にすれば応援続々と来てくれるか?」

「無能力者一人置いてかないで下さいよ、死にますってば」

「摩周さんならできます、私が保証します」

「お願いですから朱里さん悪ノリだけで保証しないでください、騙されますよそのうち」

 

 私に嘘は効きません、と海別は薄い胸を張った。


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