ルイズの身体に、激震が走った。
それはもう、強烈に。直前までの気持ちが全て、吹き飛ぶくらいには。
「遊びじゃないんだぞ!オレ達の仕事を、一体なんだと思っている!料理くらいは誰にでも出来る、溢してしても作り直せばいい、そう思っているんだろう?!だからこんな事になるんだ!オレ達は、アルヴィーじゃないんだよ!同じことを同じ様に、淡々とは出来ないんだ!こんな事をされたら、腹をたてるんだよ!」
彼女の目の前で今、広大な食堂を取りまとめる給仕長が、大噴火を見せていた。
おっかなかった。
昨日は昨日でパチュリーが癇癪を起こして恐ろしい思いをしたが、あんなの比較にならない。ルイズにとってこの世で一番恐ろしいのは実家の母親で間違い無いが、それとはまた異なる恐ろしさだった。コレは、ルイズが産まれて初めて味わう、本物の怒りというものだった。
まさか、魔法が成功する様になったその日のうちに、こんな目に合うとは思わなかった。
こんなの、屈辱以外の何物でもない。百歩譲ってこれがまだ、昨日までの自分なら許せただろう。しかし今や、ルイズは1人のメイジだった。いや、今までもそうだったが……昨晩には普通のメイジとして覚醒した筈だった。
それが、こんな、食器の配膳ごときに失敗し。あまつさえ怒鳴り声を上げる平民男性に震え上がるとは。
こんなバカな話があるか?
何よりルイズが気にくわないのは……怒られているのが自分ではないという事だ。
彼女の目の前で犬の様に床に座らされ、しゃくりあげているのは……日頃世話になり今朝一緒に洗濯をしたばかりの、シエスタなのである。こんなの彼女にとってみれば、トバッチリ以外の何物でもないだろう。
「あのね……そのくらいにしておきなさいよ。悪いのは私でしょう?」
「いいや、アンタは何も悪くないぜ、貴族様。元より貴族とは、そういうもんだろう?アンタは魔法を使ってオレ達の手伝いをしてくれたんだ。感謝しかないよ。コレは、アンタに……貴族様に無理をさせた、この子のミスなんだ。」
「そ、それは私が調子に乗ってボンヤリしてたから……」
「申し訳ありませんね、最近耳が遠くなってまして。何を言ったのか聞こえませんでしたよ。そもそもコレは、いわゆる平民同士の話に過ぎないだろう?……分かったら、とっとと出てった方がいいぜ?こんな姿を見られたら、貴族のお友達からバカにされるんじゃないか?」
ルイズは最低な気分を味わった。何なんだコレは。これではまるで、自分の非を人のせいにするダメ貴族と、それに目を瞑る意地汚い平民の様ではないか。
こんな真似をする為に始めた事では無かった筈だ。
確かに三皿分の料理を台無しにしてしまった。
おまけにその時は、目の前のことを忘れて別なことを考えていた。
それに釣られたシエスタも、損害を齎してしまった。
しかしこの一連の出来事の根本は、善意に根ざしていた筈である。
「……ううう、うるさい煩〜〜い‼︎何よ、何なのよ?!怒りたいなら怒れば良いじゃない!目を逸らされる様な、恥ずかしい真似はした覚えは無いのよ!」
「……だったら命令してくれよ。シエスタ達にそうしたみたいに。」
「め、命令なんてしてないわよ……お願いしただけなのに…、何なのよコレは……わかったわよ。お、怒りなさいよ…」
次の瞬間には、ルイズは飛び上がりそうになってしまった。
「だったら何をそんな所で突っ立っている?!お前もここに座れ‼︎」
怖い…
ルイズは今、初めて人に怒鳴られていた。さっきまでシエスタが怒鳴られるのを見ていたが、そんなのメじゃなかった。
びっくりしたのである、本当にビックリした。
ルイズは静々と、大声に従うしか無かった。床に座れだなんて貴族が出来るか、とかそういう思いは頭から消し飛んでいた。それくらい、人の声には人を動かす力があるのだ。そのことを初めて思い知っていた。
「…何が見える?」
噴火を抑えるような低音の声が響き、ルイズはそれだけで身震いしてしまった。
「…床。」
「それだけか?」
「…随分と綺麗よね。」
直後に、ルイズは再びビクリと肩を竦めた。
「言葉遣いに気をつけろ!お前は、父親と母親から、一体何を教わったんだ!畏る時に口調を改めんとは、一体なんのつもりだ?!」
「マルトーさん、マズイですよ。貴族様にそこまで言っちゃあ…」
コック帽を被った一人が口を挟んだが、一喝されていた。
「煩い!お前こそ、こんな所で何をしているんだ?!誰が手を休めろと言った!コックが厨房から出て来て、一体何をするつもりなんだ?!見せもんじゃないんだぞ!」
怒鳴られたコックさんは渋々と、厨房に引っ込んでしまった。シエスタと連座させられたルイズは、仕方なく言い直すしか無かった。
「…うう、随分と……綺麗です。」
「フンッ、なかなかいい所見てるじゃないか。」
ゴツゴツした手で頭をグシャグシャと撫で回され、ルイズは顔を顰めた。パチュリーが衛生状態が云々とよく分からないことを言っていたから、気がついただけである。
こんな時まで支えられているのかと思うと、情けなかった。
「この床はな、オレが毎朝、真っ先に綺麗にしているんだ。何故だかわかるか?」
「私達に綺麗な食事を出すためじゃ……ないんですか?」
「それもそうだが、一番の理由は、ここだよ。」
ルイズはそうして、この歳になってから初めて男性に胸元を触られた。いや、触るどころの話ではなく、ゲンコツで左胸をブっ叩かれたのだが。
思わず蹲ってしまったが……不思議と衝撃だけで痛さは無かった。
「わかるか、心だ。俺たちは、自分の仕事に誇りを持っている。だからいい仕事が出来るんだ。そのためにはまず、心を綺麗にしないとダメだ。薄汚い仕事場では、心まで汚れちまう。だから、綺麗にするんだ。そうしないと、いざって時にも困るからな。色々あって下を向いちまった時、床まで汚かったらドン底だろう?だから、ここだけは汚さない。汚れても、綺麗にするんだ。」
ルイズにはちょっと、難しい話だった。ここまで思いを込めて仕事をする人間がいるとは、思わなかったのである。どんな気分なのか想像もできない。
手伝いだからって気を抜いたのがいけないと、そういう事だろうか?
「オレもああ怒鳴っちまったがな、本当は嬉しかったんだよ。まさか貴族様がオレ達の手伝いをしてくれるなんて、どんな立派な奴かとガラにもなく期待しちまったんだ。だが……蓋を開けてみれば何てことはない。思い上がったクソ野郎がいたんでな、ムカついちまったのさ。」
「…うう、それは謝ります……」
「オマエだけの事じゃないよ、シエスタもそうなんだ。……いや、オレも含めてここにいる奴らみんな、ちょっと前だったりこれからだったり、舞い上がったクソ野郎な時期があるんだ。みんなそうなんだ。
だって、毎日毎日、必死に努力してるんだぜ?自分の腕が上がったら、それを披露したくもなるじゃないか。そうなって、当たり前なんだよ。真面目にやってる証拠なんだ。何も恥じる事はない。オレ達の腕前は、披露してナンボなんだ。自分だけでスゴイこと出来ても抱え込んじまったら、折角の苦労が台無しだぜ……お前もそう思うだろう?」
ルイズにも、漸く分かる話になってきた。そうだ、確かに昨晩の成果ではあるのだが……ルイズはその前からずっと、人を笑顔にする魔法が使いたかったんだ。だからその機会が訪れて、いても立ってもいられなくなってしまった。
その際に少し、自分だけの興味に走ってしまったのは反省すべきところであろうが……
「だがな……それだけでも、ダメなんだ。出来るからって、人のためになるからって、それだけの理由でやっちゃあダメなんだよ。どんなにいい見栄えのカットが出来たと思ってもな、一部の皿にだけ載ってるんじゃあダメなんだよ……なぁ?!ピエット!そうだろう?!オマエ、都合の良いときだけ厨房に隠れるんじゃねーよ!」
「親方、何も貴族様の前で……クソっ!はい、ええ!そうです!そうですよ!」
先ほど怒鳴り飛ばされた若手のコックさんが、苦笑いしながら頷いていた。
「おい、聞いてたか?!スローン、お前もだよ!断りもなく新配合のソースを出しやがって?!何だったんだよ、ありゃ?!どう考えても全員分作れる様なレシピじゃなかったよな?!マニアック過ぎるんだよ、オマエの配合は!あんなのは、自分の店を持ってからやれ!」
「あの事は水に流すって……ええ、はい!」
「よしよし……それじゃあ最後に、オマエに確かめるわけだが……何でか分かるか?」
ルイズは、首を振った。
「わからないわ……です。」
「いいか、よく聞けよ?オレ達はな、食べてくれる奴等みんなのために料理を作ってるんだ。分かるか、皆だ。オマエが食事の席に座ったとき、隣の奴だけ見栄えの良いものが出ていたら、それだけでメシがマズくなるだろう?隣の奴だけ違う味の料理を食ってたと分かったら、折角の満腹感が台無しになるじゃないか?
だから、オレ達は皆で一つなんだ。誰がやっても、同じ見栄え、同じ味のする料理を出さなきゃいけない。自分だけが出来るんじゃダメなんだ。やる時は、皆で、一緒に。これが出来ない奴は、どんなに腕が立っても、ここでは働かせたくない。働かせられない。こんな事が分からない奴に、ここで働く資格は無いんだ。」
ルイズは何とも言えない気分だった。料理の話は、何となく分かった。
だがそれが、自分が皿を割ってしまって怒られているのと、どう関係するんだ?それだけ大変な思いをしている料理を台無しにしてしまったと、そういう事を怒っているのだろうか?
だが……どうにもそれだけでは無い様な気がした。
ルイズが何とも言いあぐねていると、マルトーはその場からゆっくりと立ち上がった。そうして優しい手つきで、ゆっくりとルイズの事も立ち上がらせてくれた。
「オレは魔法なんて使えないけど、アンタの今の気持ちなら何となくわかるよ……嬉しかったんだろ?頑張って、腕を上げたんだろ?出来なかった事が、出来るようになったんだろ?それなのに、何で怒られなきゃいけないんだよな。マジで白けるぜ、こういうの。
これまでの頑張りは、一体なんだったんだって……オレだって、何度もそう思ったことあるよ。自分の方が凄いこと出来るのに、出来もしない奴に偉そうにダメだとか言われた時なんざ、ブッ殺してやりたくなったよ。……実際、ブン殴っちまったしな。何をシラけたツラしてんだよ、努力しろよ、オレを見習えよって。知った風なこと言うなよ、何様だよって、そう思ったんだ。そして多分、みんなそう思ったことあるんだ。だけど……そう思っちまったら、やっぱどっか違うんだ。だって、そうだろう?そんな思いをする、そんな思いをさせる為に腕を上げたんじゃ無いんだ。みんなに笑顔になって貰うために、腕を磨いたんだ。オマエもそうだろうが。」
言葉の迫力に圧倒されているルイズは、ただただ頷くことしか出来なかった。だが、この場合はそれだけで良かったようだ。
マルトーは、シエスタの先輩に対して昔話をしろと言った。その内容は、同じ貴族としてはルイズには耳の痛い話だった。
その頃は先ほどのシエスタの様に、複数のお皿を持って配膳していたそうだ。
そうしたら、生徒の一人に文句をつけられた。
自分は隣の者のついでなのか、と。
一枚ずつ敬意を持って、ちゃんと提供したたまえ、と。
ここは貴族の食堂なんだ。
平民の理屈で不快な思いをさせてくれるな、と。
「正直……言われた時には、いつものお叱りの類だと思いました。言いつけを守って効率が下がったら、それはそれで目くじら立てられるのでしょうと。けれども皆で話し合って結局、言われた通りにしたんです。何故なら、私達のお客様は貴族様ですから。一理ある要望を、こちらの理屈で撥ね付けるのは、身分に関係無くやってはいけない事だからです。だから……この食堂では、効率は下がっても一枚一枚提供するのがルールなんです。シエスタには、一番初めに言い聞かせていた筈だったんですが……」
「ご、ごめんなさい……ミス・ヴァリエールが見ていると思うと、思わず張り切っちゃって……」
なんてこったい。
ルイズはてっきり、シエスタが特別なのかと思っていた。だが別に、そうではなかった様だ。何も、人より多くの事が出来るというだけで、凄いという訳ではないという事か。敢えてそうしない、我慢している凄腕がこれ程いたのかと思うと、ため息しか出ない。
それより何よりも、やっぱり私のせいなのか。嫌になってくる。
「オレは、オマエやシエスタみたいなヤツ嫌いじゃ無いんだよ。頑張ってるヤツほど、工夫するからな。一悶着あるくらいで、丁度いいんだ。そういう意味では、オレにキレられた事の無い奴は、まだまだ努力が足らないって事でもある……。だがな、何処の世界にもルールがあるんだ。コレが無い場所は、どんなに綺麗で豊かでも、単なる未開地だ。逆に言えばルールのある場所は、それだけで聖地なんだよ。」
いきなり話が飛びすぎて、ルイズは一瞬ついて行けなくなかった。聖地って言えばアレだ、サハラの奥にあるアレの事でしょう?
こんな近くにある筈も無い。
だがコレがモノの喩えだという事くらいは、ルイズにも理解出来た。
「改めて言うと小っ恥ずかしいんだがな、間違っちゃいない筈だぜ?何をやっても許される、そんな無法地帯が聖地な筈が無いじゃないか。後はその……ルールの質の問題だな。残念だがオレには、非効率なものを守らせることしか思いつけない。けれども……アンタはメイジで、魔法が使えるんだろう?だったら今後、もっとスゲーのが作れる筈だ。そうなって欲しいモンだぜ。」
随分と大袈裟な話だが、ルイズにも漸くこのマルトーの怒りの理由が見えて来た。
この人は、この人なりの聖地の管理者なんだ。だからそこのルールを破る人には、どんな理由があって同情できても、罰を与えざるを得ない。その事自体に怒りを感じているのだ。何故ならば規則の周知不足は、この人のせいでもあるから。
いや……きっと、みんながお互いを思い合えばルールすら必要無いのだろう。だが、そんな世界は想像の中にしか無い。今、現実を生きる私達には決して辿り着けない場所にしか無いのだろう。
「よし!話は以上だ!一言で言えば、決められたルールは守れってこったよ!それだけだ!悪かったな、長話しちまってよ!オマエらも動け!シエスタ、グズグズすんな!オマエの大好きな仕事を与えてやる!この貴族様……そういや名前何て言うんだ?」
「ヴァリエールよ。」
「家名なんて聞いてもわかんねーよ。違うよ、後にくる方じゃなくて先のヤツだよ。」
「……ルイズよ。」
「よし!このルイズ様の部屋に食事をお届けしろ!こんな泣きっ面を晒させる訳にはいかんだろ!」
その時の事だった。
今、こうした雰囲気には一番口を出してはいけない存在が、横槍を入れて来た。
「それはやめて欲しいわね。」
ルイズは頭を抱えたくなった。いや、実際に気がついたら抱えていた。
うわ、最悪だコレ。
この後の展開は想像に難くない。下手すりゃ元の木阿弥で、この施設が丸ごと灰燼に帰してもおかしくない。
そのくらいこの場に首を突っ込んで欲しく無いのが、パチュリー・ノーレッジだった。
「なんだオマエ?」
「ルイズの使い魔よ。一罰百戒に倣って、この子には割った皿の枚数の100倍の食事を抜かせましょう。」
「成る程、そいつぁいいアイディアだ!採用!」
んな訳あるか!絶対、そういう意味の熟語じゃ無いから、それ!
ルイズは真っ青になった。
そんな事されたら、普通に死ぬ。餓死してしまう。
「……って言うのは冗談だから、あんまりマジな顔すんなって。そこまで鬼じゃねーよ、オレも。」
「い、今さっきのマルトーさんは、オーガより怖かったですよぅ……」
「……シエスタ、貴女はもう配膳に戻りなさい。」
シエスタは先輩に連れられて、その場を後にした。
とはいえ、すぐ側で仕事をしているのだが。
さて、こうなるとこの場には最も会話をして欲しくない2人+ルイズだけが残された訳である。胃が痛くて堪らない。
先制射撃は、マルトーの口から発せられた。
「アンタ、オレの一番嫌いなタイプのヤツだよ。何でも出来る、出来て当たり前ってツラしてやがる。そういうのとは、ソリが合わねーんだ。この子を殺すつもりか?バカな事言ってんじゃねーよ、顔洗って出直して来い。」
「不思議な事があるものね。貴方に私の何が分かると言うの?」
「何もわかんねーよ。そもそもオレは、賢くないんでな、料理の腕前でしかものを語れない。だからこそ……アンタが凄い何かだってことくらいは分かるよ。それで、一言だけ言っておきたい。」
マルトーはそう言うと、ルイズの頭を再びグシャリと撫でた。
正直、やめて欲しい。最早セットも何もないくらいに台無しである。だが不思議と、嫌な気分はしなかった。
「何を考えてるか知らないが、やめておけ。ソレはアンタの独り善がりだよ。この子はきっと、後から知って後悔する。アンタは自分が良いと思った事を、説明もなく人に押し付けるタイプだ。そんくらい、目ぇ見りゃ分かるんだよ。まぁ……このくらいしか分からんがな。」
ルイズはこの時ようやく、昨晩からパチュリーが色々と食事を摂らせまいと動いていた事に気がついた。そうだ、そもそも一体、それで何をさせようと言うのか。
「パチュリー、貴女一体、私に何をさせたかったの?」
「捨食の術。言ったでしょう?毒殺とかのツマラナイ死に方はして欲しく無いと。」
「何だい、そりゃ。断食みたいなモンか?」
「それだけでは無いけれど、無期限にやれば術の半分は満たすわね。」
ルイズは寒気がした。
間違いなく死ぬだろう、そんな事をすれば。
いや、というよりも。そんな恐ろしい事をさせようとしていたのか?今の私に?術のあと半分って、一体何をすりゃいいんだ?
とても出来る気がしない。
その前に死んでお終いだ。
「そんな事したら間違いなく……」
「私は産まれた時からそうしている。貴女には中途半端な魔法使いで終わって欲しくは無い。最低限、私と同じ視点からは魔法を見れるようになって欲しいと思っているの。」
あまりの事に、言葉も出ない。ルイズは今、この魔女の底知れなさを改めて思い知った気分になった。
同じ魔法を扱う存在でも、メイジとは何かが違うと思っていたが……まさかここまで隔絶しているとは。過剰な期待を寄せるのは、やめて欲しい。
しかし……この場にはルイズとパチュリーの二人だけではなく、別な人物もいる事を忘れていた。
「なぁ、それ……喰っちゃダメなのか?」
マルトーであった。
自分の分かること以外には関心を示さぬ人間なのは間違いないので、その彼がこうして口を挟むという事は、彼の中では何かが像を結ぼうとしているのだろう。
「その術は……いや、魔法か?何だかよく分からんが、喰ったらお終いとか、そういうヤツなのか?」
「そんな浅はかなものでは無いわ。その程度の柔軟性は織り込み済みよ。」
「……だったら食ってみろよ。」
ルイズは思わず溜息をつきそうになって、マルトーの顔を見た。
おいおい、そんな柔軟なヤツじゃないんだって、このパチュリーは。
「喰うな、だと?アンタが食わねーのは分かるよ。だけどな、強制すんなよ。料理を食ってみたことがないから、そんなバカな事が言えるんだ。一口でいいから、ここの料理を食ってみろよ。そうすりゃ、どれだけ今まで損してたか分かるよ。」
「私にはそんなものは必要無いのよ。」
「そんなもの、だと……?」
ルイズは続けて起こる筈の大噴火に備えて、耳を塞いだ。
だが、そうではなく念力で浮かぶべきだった。
マルトーは、卓上に拳を叩きつけていたからだ。それだけでも、床が揺れた。
「アンタも一端に何かを極めた身なら、人のやる事をバカにするな!オレ達のこの料理はな、一つの作品なんだ!皆でこれまで努力して、辿り着いた結果なんだよ!」
マルトーはそう言うと、大きく息を吸った。
「……頼む。試しに食べてみてくれよ。これまでモノを喰った事が無いアンタにだからこそ、頼みたい事なんだ。オレ達の努力の結晶が、初めてモノを食べる人間にどれだけのものを与えられるのか、確かめたいんだよ。」
ルイズはここで、口を挟む事にした。
そもそもパチュリーには、このハルケギニアの世界を教えてあげたいと思っていたのだ。今や正しく、その機会が訪れようとしているのである。
「私からもお願いするわ。食べてみて頂戴よ。貴女のその口は、詠唱専門じゃあないでしょうに。私達と今こうして話しているんだから、必要無いからって、切り捨てないで。理解の仕方は、言葉だけじゃない。味覚とは、そういうものだと思うわ。」
ルイズは少し、意地悪な言い方をした。真っ先に自らを知識と名乗った事から察するに、パチュリーはそれと関連する言葉には相当に敏感だろう、と思ったのである。
だからそれを、少しだけ刺激してみる事にしたのだ。
「分かったわよ。でもその前に約束しなさい。私がコレを食べたら、貴女も食を捨てると。」
「……あのねえ、イキナリは無理よ、そんなの。どう考えても高等技術じゃない。私は今、念力ひとつ制御するのに苦労しているのよ?」
「だったらオレが、オマエに断食メニューを作ってやるよ。少しずつ減らして行って、最終的に何も食わなくなれば成功なんだろう?だったらそのくらいの猶予は与えてやっても、良いんじゃないか?」
はっ?
ルイズは目を点にして、マルトーを見つめた。
こんなバカな交渉があるか?ルイズは今、マルトーサイドについてパチュリーを説得しているのに。
自分サイドの人間を人身御供に差し出すバカが、一体どこに……
そこまで考えてマルトーの目を見ると、ルイズは既視感を覚えた。コレは……この目は……ミスタ・コルベールとおんなじだ。
「よくよく考えりゃ、アンタもそうだよな。イキナリ貴族様専用のメシなんか喰ったら、胃が受け付けないだろ。おい!シエスタ!ちょっとこっち来い!」
マルトーはイキナリ大声を出すと!ヒイと首を竦めたシエスタを呼び寄せた。
「おい!あの、ロイヤル仕様じゃない、普通の紅茶を出してやれ!飲みモンならこのメイジさんも、流石に大丈夫だろうが!」
「え、エエ〜〜?!折角なんだから、私の最高の一杯をですね……」
「オマエ、さっき自分がどんな理由で叱られたのか、もう忘れやがったのか?」
「…ご、ごめんなさい……」
静々と厨房へ引き下がっていくシエスタを見て、ルイズは首を傾げた。
「何よ、とっておきがあるならもったいぶらないでよ。」
「あの淹れ方は、時間が掛かり過ぎるんだよ。全くアイツも……一体何処の誰に、あんなやり方を教わったんだか。それに、初めから極上のモノを飲んじまったら、その後に飲むモノが全部ヘドロみたいに思えちまうだろう?」
「ヘドロって何よ、ヘドロって……」
そうしてティーセットを手にして戻ってきたシエスタは、優雅な手つきで一杯の紅茶を注ぎ始めた。
「本当は、もっととっておきがあるんですよ?でも、それはまだパチュリーさんには早いですから。……さあ、どうぞ?」
そうしてパチュリーがティーカップの中身をそのまま念力で浮かせた時に、ルイズは目眩を覚えた。
料理を手掴みは分かるが、その発想は無かった!
それに、さり気なくヤってくれるな!液体を掴むとか、意味不明過ぎる!私が衣類ひとつ掴むのにアレだけ苦労したのに……‼︎
「貴女は天才よ、私の気分を台無しにしてくれる……それにね、飲み物はそうやって飲むモノじゃあ無いのよ。こうやって……」
ルイズはそう言うとティーカップを手に取り、そっと宙に浮かぶ液体をその中に収めた。一滴も溢れないのは、最早ワケが分からなかった。
そしてそのまま、薄い唇に向けて斜めに傾けてあげるのだった。
……まぁ、はじめは一口くらいで丁度いいだろう。
「……正直良く分からないわね。何が良いのやら。」
マルトーとシエスタは顔を見合わせると、肩を竦めた。
「やっぱな……はじめはこんなもんかい。料理を食わせなくて正解だったぜ。」
「ううう、あの淹れ方をしてこの反応じゃあ、立ち直れなくなるところでした…」
まあ、兎にも角にもこうして、パチュリー・ノーレッジは生まれて初めて飲み物を口にした訳である。
パチュリーさんのアルヴィーに対する興味は、消失した訳ではありませんが……ルイズに余計な食べ物を与えさせられているのか気になって、フヨフヨとお叱りの場面に鉢合わせたとご理解下さい。
本文中に収めきれずに、申し訳ございません。