カンピオーネ! ~女神と共に在る神殺しの魔王~ 作:マハニャー
『ふん! やはり死んではおらなんだか。よかろう、次は我が下僕の相手をしてもらうぞ、神殺し!』
忌々しそうにメルカルトが叫ぶ。と同時、幸雅はブーンという不快な音を聞いた。
これは羽音か? いぶかしむ幸雅の前で、森の一部を覆い尽くすほどの黒い霧が出現した。
正体を探ろうと眼を凝らしたところで、思わずじっくり見たことを後悔する。
よく見れば、蟠った霧の下にある木々は、まるで食い千切られたかのように葉が一枚残らずなくなっていた。
幸雅は理解した。これは霧などではない。霧と見紛うほどに大量の、恐らく数億単位の数の――イナゴの群れだ。
「……そういえばイナゴはメルカルトの、もっと言えば原形であるバアルの下僕だったっけ」
生理的な嫌悪感と吐き気を誤魔化すように、わざわざ口に出して確認する。
神王メルカルト=バアルは嵐の神であり海の神であり太陽の神であり、豊穣と干魃をもたらす生命の神でもある。
故に、作物を食い荒らし、大地を荒廃させるイナゴは、彼の脅威の象徴とも言えるのだ。
しかしイナゴと言えば、旧約聖書における世界終末の日、審判の日に世界に現れる毒を持ったイナゴ、アバドンが有名だろう。もちろん、このストーリーもメルカルトに関係している。
旧約聖書に登場する悪魔、蠅の王ベルゼブブ。彼はまたの名をバアル・ゼブブといい、この別名はそのままメルカルト=バアルの別名でもある。
後発の宗教であるキリスト教がその伝説に取り入れる際に、異教の神を貶めるために悪魔として語り継いだ結果生まれたのが、悪魔ベルゼブブなのだ。
と、それらの知識を幸雅はアテナを通じて持っていたため、少なくとも混乱することはなかった。……吐き気は感じても。
それはともかく、幸雅は新しい脅威を排除するため、
「嗚呼、主は我に仰せられた。一にして全なる主・ヤハウェよ。御身は我に仰せられた。新たなる御子を創り給えと。故に我は、御身を讃えるこの聖句を詠おう……」
そこで一度言霊を切り、目を閉じる。
体内の呪力を高め、
「――聖なるかな」
幸雅がそれを言い切ると同時、幸雅の眼前で眩い光が発生した。
これは天照大御神の権能によるものではない。もっと、別のものだ。
生じた光はすぐにいくつもの粒となり、それらがさらに集結、人の形を作る。
そうして現れ出でたのは、一人の、翼を広げた天使だった。
純白の鎧と兜を着け、剣と大盾とで完全武装し、全身から黄金の光を放ち、頭の上には光り輝くリング、背中には鳥のような二対の翼。人間と同じぐらいの背丈。
頭だけでなく、顔の鼻から上を完全に覆い隠すデザインの兜なため、顔は見えない。
おおよそ、天使という存在に人間が思い描く姿、その通りの姿だった。
「続けて詠い、創り出そう。そなたらは主へ捧げる賛美歌を唄い給え。聖なるかな聖なるかな聖なるかな聖なるかな聖なるかな聖なるかな聖なるかな――!」
まるで早口言葉のように一息で言い終えると同時に、新たに七体の天使が出現し、群れとなって迫るイナゴの群れに突貫していく。
最初に創り出した一体と合わせ、計八体の天使はイナゴの群れと真正面からぶつかり、手に持った剣で害虫を駆除するようにイナゴを切り裂いた。
メルカルトの神獣の相手は天使らに任せ、幸雅はメルカルト本体に向き直る。
『ぬう、貴様も、なかなか使える従僕を持っているようだな……』
「お陰さまでね。大悪魔の眷族を、天使が駆逐する……いいシチュエーションだとは思わないかい?」
『抜かせ! 貴様ごとき若造、我が棍棒で捻り潰してくれるわ。貴様の後には、まだウルスラグナも残っておるのでな』
「ウルスラグナとも戦うつもりなのかい? 相変わらず、まつろわぬ神というのは、状況判断すら出来ないのか」
幸雅は嘆息した。しかし、どこかで納得もしていた。
この傲慢さこそが、まつろわぬ神がまつろわぬ神である由縁であり、理由なのだろうと。
ならば、もはや言葉は必要なかろう。
後は、互いの
獰猛に笑い、呪力を上空へと向ける。
今の御神幸雅が放てる最大最強の一撃。それを放つためだ。
それが臨界まで高まり、一人と一柱が、それぞれの渾身を放とうとした――その時だった。
彼らの立つ位置から数十メートルほど離れたもう一つの戦場で、稲妻と白い焔が真っ向からぶつかり合い、閃光と轟音を撒き散らした。
即座に戦闘行為を中断し、幸雅はその方向に視線を移した。メルカルトも同じようにしている。
そこに立っていたのは、古代ペルシアの不敗の軍神、ウルスラグナ。彼は、その全身から膨大な神力を垂れ流しながら、呵々大笑していた。
ウルスラグナが視線を向ける先には、石板を握ったまま倒れ伏す草薙護堂の姿が。
先程そちらに向かったはずのアテナは、エリカ・ブランデッリを隣に立たせてウルスラグナと向かい合っている。
幸雅とメルカルトは無言で、天使とイナゴの群れを消す。
一度だけ、嵐から元の大男の姿に戻ったメルカルトと視線を交わし、一人と一柱はそちらに向かって歩き出した。
§
「これは……もしかしなくても、終わったということでいいのかな」
彼らの許へ到達した幸雅は、自然体を崩さずに今にも消えかかっているウルスラグナに話しかけた。
果たして軍神は、その輝ける美貌を、まるで悪戯小僧のような笑顔で彩ってみせた。
「おお、神殺しか。おぬしはメルカルト王と戦っておった筈じゃが」
「それどころじゃないと思ったのでね。それはともかく、結果は?」
「負けじゃよ。我のな」
ひどくさっぱりした口調で彼は言い切った。
彼の表情は、悔しさと、それを上回る爽快感で満たされていた。
「くくく、敗北を求めてこの地まで来てみれば……よもや、メルカルト神でも、神殺しであるお主でもなく、このような小僧に敗北を喫するとはな。いや愉快愉快!」
ウルスラグナの口ぶりから、確かに護堂は彼に勝利したのだと悟った幸雅は、まず倒れ伏した護堂の方に近寄った。
仰向けに転がる護堂の口元に手を持っていくと、弱々しいながらも確かに呼吸音が聞こえる。
もっとも、これからすぐに同胞として新生することになるだろうから、要らぬ心配かもしれないが。
そう思って苦笑していると、いつの間にかギリシャ風の衣装から薄い青の膝丈までのワンピースに着がえたアテナが寄ってきた。
幸雅に知る由もなかったが、そのワンピースはイタリアに発つ前にアテナが花南からもらったものだった。
基本的にアテナが何を着ていても絶賛する幸雅だが、もし花南がこれを贈ったと知ったら、服だけでなく花南をも崇め奉るだろう。
「お疲れ様、アテナ。こっちはどうだった?」
「そちらこそな、旦那さま。とは言っても、妾はそう大したことはしておらぬよ。旦那さまによって神格のほとんどを焼き尽くされていたとはいえ、彼の軍神にとどめを刺したのは、紛れもなくあの男子だ」
「……そっか」
まったく、この後輩は。もう一度、幸雅は眠りこける護堂に視線を向け、苦笑した。
とそこで、ウルスラグナの体から漏れ出る神力が、護堂の中に注ぎこまれていくのを感じた。そしてそれは、当のウルスラグナも同様なようで。
「おお、そうか、くくく。そういう狙いであったとはな、魔女め。抜け目のない奴じゃ!」
「胡乱な奴だ。敗北を喫しながら笑うとは。脳まで腐れてしまったか」
「失敬じゃな、神王。ただ一度の敗北すら受け入れられぬようでは、狭量という他あるまい。何、これが最初で最後の敗北と思えば、より一層奮起するというものよ」
「ふふっ。ウルスラグナ様ってば、やっぱり負けず嫌いでいらっしゃるのね」
突如響く、新たな闖入者の声。
今のアテナの声よりもっと幼い、年下の娘っぽい声だった。
幸雅は、この声の主を知っていた。
というより、カンピオーネであれば、全員が例外なく
「ほう、おぬしは――おお、そうか。新たな落とし子の誕生にもう気付いたか」
「パンドラ! 全てを与える女め! 貴様が直々に顕れるか!」
面白そうに笑うウルスラグナと、忌々しげに歯軋りをするメルカルト。
そんな二柱の神に対して、顕現した新たな神――パンドラは微笑んだ。
推定十四歳ほどの、可憐に整った顔立ちに長いツインテール。そのせいか、とても幼く見える。
しかし、外見に反する色香をも身に纏っていた。
それはまさしく『女』そのものだ。その蠱惑的な可愛さと、内に秘めた叡智が垣間見える。
「御挨拶ね、メルカルト様。あたしは神と人のいるところには必ず顕現する者。あらゆる災厄と一掴みの希望を与える魔女ですもの。驚くほどのことではないでしょう?」
そう、彼女こそが魔王・カンピオーネの義母にして、最大の
カンピオーネとは、愚者エピメテウスと魔女パンドラの落とし子。
故に、彼女は新たなカンピオーネの誕生の際には必ずそこに立ち会い、気まぐれに助言を与えたりする。
だが、彼女はまつろわぬ神ではない。つまり、彼女にこの世界で会うことはできない。
この気まぐれな義母と会って話をするためには、『生と不死の境界』、アストラル界、幽世に赴くしかない。
しかも人間は『生と不死の境界』で起こったことを記憶し続けることはできない。けれど、確かに心の、魂の奥底には、彼女の言葉が深く刻みつけられているのだ。
そんな魔女が、すたすたと新たな息子、草薙護堂の許へと近づいた。
その途中で幸雅とアテナの存在に気付き、にぱっとした笑みを浮かべて見せた。
「あら、アテナ様にコーガ! お久しぶりね、二人とも。相変わらず仲睦まじいようで何よりだわ!」
「ふん、戯けたことを言う。ヘパイストスの許で大人しくしていればよかったものを」
「まあまあ、アテナ。……それで、パンドラさん。やっぱり、護堂は神殺しになるのかい?」
珍しく嫌悪感を滲ませたアテナの両肩に手を置いて宥めつつ、幸雅はパンドラに問うた。
魔女は、その問いににっこりと嬉しそうに微笑み、
「ええ、そうよ、その通り! この子、ゴドーは、あたしと旦那の新たな息子となるの!」
そう高らかに告げ、大仰に両手を振り上げた。
「さあ皆様! 祝福と憎悪をこの子に与えて頂戴! 八人目の神殺し――最も若き魔王となる運命を得た子に、聖なる言霊を捧げて頂戴!」
「ぬかせ、魔女め! 貴様の新たな落とし子など、すぐに葬ってくれるわ!」
「ふ、よかろう。ならば草薙護堂よ、神殺しの王として新生を遂げるおぬしに祝福を与えようではないか! おぬしは我の――勝利の神の権能を簒奪する最初の神殺しじゃ! 何人よりも強くあれ。再び我と戦う日まで、何人にも負けぬ身であれ!」
ウルスラグナは空を仰ぎ、これよりカンピオーネとして生まれ変わろうとしている少年、草薙護堂にそう言い残して。
無数の光の粒となって、世界に消えていった。
「………………」
まつろわぬ神はたとえ殺されたとしても、その存在が滅ぶことはない。
なぜなら、彼らの本体、魂とでも言うべきものはその肉体にはなく、彼らを構成する〝神話〟にこそ存在するのだから。
人間たちが彼らに対する信仰心を捨てず、彼らの伝承を忘れ去らない限り、彼らは何度でもまつろわぬ神として新生する。
しかし、再び
よしんば奇縁に従って巡り合えたとしても、そのウルスラグナが、あのウルスラグナであるかと言われれば……それも、分からない。
けれど、それでも。
ウルスラグナは、己に敗北を与えた少年に、己の権能と祝福を授けて。
その存在を散らしていった。
第三の権能については、旧約聖書のとある天使様の権能です。
記述は少ないですが、バカみたいにチートな能力だったんでぶっこみました。