ソレは白狼天狗を襲い、喰らおうとしている。
無銘の癒し手はそれに気づいた時、如何なる選択を選ぶのか……。
“それ”に気づいたのは、椛さんを見送ってから縁側で輝夜さんと一緒にのんびりとお茶を飲んでいた時であった。
八意先生から今日は休めと言われたので、ちょうど暇をしていた輝夜さんと共にお茶を飲む事にして、他愛ない話で盛り上がっていた。
そんな中、竹林の奥から刺すような寒気が漂ってきて、いつもとは違う空気を感じ取りその場で立ち上がる。
「…………何だ?」
永遠亭の外の広がる竹林が、いつものものとは思えない異界と化しているように感じられた。
明らかに空気が違う、その明確な正体は掴めないものの、関わるなと警鐘が鳴り響いている。
「何か、変なのが竹林に現れたみたいね。
ナナシ、今日は永遠亭から出ない方がいいわ」
少し強い口調で、輝夜さんは僕にそう告げる。
それだけ危険な存在だという事だ、僕ですら認識できるその正体は。
「輝夜さん、この空気は一体……」
「何かの妖怪でしょうね、でもこの禍々しさ……遙か昔の、まだ残忍さだけしかなかった妖怪特有の空気が濃いわ」
「っ、そんな危険な妖怪がこの竹林に居るんですか!?」
「安心なさいな。この永遠亭には私と永琳の結界が張られてる、おいそれと侵入できないわよ」
いや、それも確かに心配事の1つではあるけれど、気にしている点はそこじゃない。
それだけ危険な存在が竹林に居るという事は、現在そこに居るであろう他の妖怪達。
たとえば今泉さんや……山に戻っている途中であろう椛さんが、鉢合わせでもしたら。
「してるでしょうね」
「えっ?」
僕の心中を読んだかのように、輝夜さんは。
「だから、さっきの白狼天狗……この嫌な空気を撒き散らしてるヤツと、出くわしちゃったみたいよ?」
事も無げに、聞き捨てならない事を平然と言い放った。
それを聞いた瞬間。
「っ」
弾かれたように地を蹴り、外へと出ていた。
竹林の中を駆け抜ける、この肌を刺すような悪寒を追えばそこに辿り着ける筈だ。
〈おいおい落ち着けって、死にたいのかお前?〉
(八咫烏ならこの悪寒の正体がどれだけ危険か判るだろう!? 僕にだってわかるぐらいなんだから)
〈そりゃあそうだが……お前1人で何ができるんだよ?〉
(1人じゃない。八咫烏が居る!!)
僕自身に戦う力は無い、けれど八咫烏なら戦える。
僕ですら判る程の凄まじい悪意の塊を撒き散らす相手だ、話し合いで済むはずがない。
〈オレ頼みかよ……〉
(運命共同体なんでしょ?)
〈それを言われると弱いが……少しは己の身を省みる事をだな……〉
小言は無視する、それよりも一秒も早く椛さんの元に向かう事だけを考えろ。
足場の悪い地面など関係なく駆け抜ける、息が切れ始めるがどうでもいい。
悪い予感ばかりが頭を過ぎる、このまま全力で向かっても間に合わないのではないかと馬鹿げた事を考えそうになる頭を乱暴に振った。
急げ急げ急げ……!
椛さん、お願いですから……無事でいてください!!
■
椛と少年の戦いは、まだ終わりを見せないでいた。
いや、これは戦いではない、一方的な蹂躙だ。
「がっ……!?」
後頭部に強い衝撃が刺さり、一瞬意識が遠のく。
それをどうにか耐え抜き、しかし彼女の眼前には次なる一手が迫っていた。
「くっ……!」
身体を捻ってその一撃を避ける。
左の頬を掠める一撃、それだけでも皮膚を切り裂き鮮血が舞った。
華奢な細腕から繰り出されている筈の一撃は、頑強な妖怪の肉体などそれこそ紙のように粉砕する破壊力があった。
「かはっ……」
紙一重で避けられた、それを自覚する前に肉体には衝撃が響く。
あまりに速過ぎる一撃に、肉体が追いつかない。
的確に、確実に相手の身体を壊し尽くすソレに、息を呑む暇すらなかった。
まるで拳の雨だ。
まともに受ければ意識を失いかねない威力があるというのに、その速度はまさに雷の如し。
無茶苦茶な軌道で襲い掛かるソレを前にすれば、並の妖怪はおろか天狗であっても瞬く間に沈み勝敗が決するだろう。
「……ふうん、よく耐えるね」
「ぐぅ……!」
それでも椛がどうにか持ち堪えているのは、彼女の類稀なる剣士としての能力と千里眼の恩恵があるからだ。
目では追えない、しかし全てを見通せると謳われる千里眼の能力と、彼女が積んできた剣士としての経験を駆使して急所だけは逃れる。
だが反撃する余裕など椛にはなかった。
剣を振るおうとすれば、その前に相手の拳が彼女の心臓を貫く。
妖怪故に即死はしないかもしれないが、次の一手で頭蓋を砕かれ、結局待っているのは死だけだ。
反撃は許されず、かといって逃走はできない。
少しずつ、けれど確実に椛の身体は壊され削られていく。
倒れるのは時間の問題、それでも椛には反撃のチャンスを手繰り寄せる一手は存在しない。
「下っ端と言ったのは訂正するよ、君は白狼天狗の中でも抜きん出た実力を持ってる」
ゆらりと、相手の身体が揺れた。
違う一撃が来る、直感でそう感じ取った椛は致命傷だけは避けようと両腕を交差して顔を守り。
真横から、意識を刈り取る一撃が叩き込まれた。
「ぁ……あ……?」
脳が揺れ、意識が落ちる。
防御の構えなど無意味とばかりにすり抜け、叩き込まれたその一撃は彼女が初めて受けた致命傷であった。
「く、あ……!」
受身など考えず、真横に転がる。
瞬間、先程まで顔があった位置に槍のような鋭い一撃が通り過ぎた。
「ぐっ、う……」
転がりながらも体勢を立て直し、反撃の構えではなく防御の構えを取った。
相手の追撃が来ると予測しての構えは、見事的中する。
「ごぶっ……!」
それでも、相手の一撃は彼女の防御をすり抜け顔を強打した。
鼻血を出しよろける彼女に迫る、相手の肘。
遠のきかけている意識でそれを見た椛は、咄嗟に身体を横にずらす。
「ぐ……!」
左肩に落ちる衝撃。
今の一撃で破壊されたのか、痛みは感じるのに左肩から下はぴくりとも動かなくなっていた。
「う、おおおお……!」
しかし、ここに来て勝機が訪れた。
無事な右手だけで剣を振り上げる、狙うは相手の首。
もうこれ以上は耐えられない、防御もまともにできない以上捨て身の一手を放つしか残されていなかった。
「とった……!!」
白銀の刃が振り下ろされる。
神速の一撃は、風を切り裂きながら少年の首を斬り飛ばそうとして。
ガ、という鈍い音を響かせながら。
少年の指が、椛の右肩を貫いていた。
「あ……あ……」
あと一歩、あと一歩の時点で止まる椛の斬撃。
右肩を貫かれた影響か、まるで石化したかのように動かなくなった彼女の剣を見ながら、少年は薄く笑い。
「惜しかったね、お・ね・え・さ・ん」
嘲るように言って、彼女の鳩尾に掌底を叩き込み吹き飛ばした。
「あ、ぐっ、が……!?」
受け身など取れない程の衝撃で吹き飛ばされる椛の身体。
背後の竹を容易くへし折り、それでも止まらず地面を滑るように飛んでいく。
剛速球のように殴り飛ばされた椛は、最後はゴロゴロと地面を転がりながら、漸く太めの竹に叩きつけられ。
「――椛さん!!」
先程友人になったばかりの、彼の悲痛な叫びを耳に入れながら、活動停止に陥った。
■
「椛さん!!」
ぴくりとも動かない彼女へと駆け寄る。
すぐに抱き起こし、彼女に刻まれた痛々しい傷痕を見て、戦慄した。
「……なんで、こんな」
白を基調とした天狗衣装は赤く染まり、彼女の顔には裂傷や打撲痕が残されている。
頭部からは血が流れ、髪や耳を汚し、それが致命傷だと物語っていた。
「人間? ふーん……こんな血と死肉に包まれた竹林で、ただの人間に会えるとは思わなかったよ」
振り返り、こちらへと向けられる小さな身体。
チルノや大ちゃんと同じ程度の大きさだが、身に纏う空気は醜悪で、見るだけでも心が凍りつきそうだ。
あれは人間ではなく妖怪、それも危険度で言えば極高などという生易しい評価では決して現せない、恐怖を具現化した存在だ。
「男……なのは残念だけど、若いからいいか。
悪いけど、餌になってもらうよ? そっちの犬っころと一緒にね」
相手が、ゆっくりと近づいてくる。
口元には薄い笑みを浮かべ、敵ですらないと瞳が訴えていた。
……ふざけるな。
椛さんを地面に寝かせ、真っ向から相手を睨みつける。
「……もしかして、戦うつもり? やめときなよ、ただの人間がボクに立ち向かうなんて……余程の大馬鹿のようだ」
ヤツが笑う、心底可笑しいと腹を抱えて笑い出す。
ああそうだとも、人間が真っ向から妖怪に立ち向かって勝てるなんてありえない。
そもそも地力が違い過ぎる、向こうがその気になれば秒を待たずに僕なんか消滅させられる。
「…………どうして、こんな酷い事をしたんだ」
けれど。
今の僕にとってそんな事実など、どうでもよかった。
ただ椛さんをここまで痛めつけ傷つけた目の前の妖怪が、どうしようもなく憎かった。
「どうして? そんなの訊いてどうするのか?」
「いいから答えろ、どうしてこんな事を」
「……これだから、身の程を知らないガキは嫌いなんだ」
相手の此方を見る目が、変化する。
汚らわしいものを見るような瞳で、射抜くように僕を見つめてくる。
その瞳から目を背けず、真っ向から睨み返した。
気持ちで負ければそれまでだ、勝ち目がなくても負けたくはなかった。
「…………はっ」
小さな嘲笑が聞こえた時には、もう勝負は決まっていた。
視界から相手の姿は消え、再び現れたと思った時には、相手は眼前で拳を引き絞っていた。
「っ、この……!!」
見えなかった……!?
とにかく避けろ、避けないと一撃で殺される……!
〈この馬鹿、何やってんだ!!〉
「うわっ!?」
身体が勝手に動いた。
刹那、相手の拳が放たれ、けれど僕の身体に命中せずに空を切る。
「あ、っ……」
危なかった、八咫烏が咄嗟に僕の身体を操作しなければ、今の一撃で腹に風穴が空いていた。
見た目で侮っていたつもりなど毛頭なかったが、それでも相手の力量は想像を遥かに越えていた事実に、愕然とする。
〈ナナシ、代わるぞ!!〉
八咫烏が僕の身体を使おうとするが、僅かに遅かった。
既に相手は次弾を放ち、秒を待たずに命中する光景が広がっている。
「…………」
間に合わない。
相手の拳は、人間である僕の身体など軽く破壊できる。
八咫烏が僕の身体を操作するよりも早く、相手の拳はこちらに届く。
当然止められない、ジャンプ能力も反応が追いつかず発動する前に事切れる。
……わかっていた事実だ。
僕では、ここに来たところで何もできる事などないと、初めから判りきっていた。
――相手の拳は、的確にこめかみを狙っている。
鉄槌めいたソレを受ければ、こめかみどころか顔全てが吹き飛ぶ。
選択を誤った、椛さんに駆け寄る前に八咫烏に身体を貸しておくべきだったのだ。
僕には何もできない、誰も守れない。
人間としても弱く、戦う力などない僕にこいつに太刀打ちする術は存在しない。
死のイメージが頭を占める。
でも、それを受け入れる事はどうしてもできなかった。
だってそんな事になったら、一体誰が。
誰が、後ろに居る椛さんを助ける事ができるんだ?
止めなくては死ぬ、防げなければ死ぬ。
そんな事は認められない、ならどうする?
武器などない、あるのは自分の身体のみ。
避ける事も防ぐ事もできないのなら、向かってくる力を相殺させるしか道はない。
「…………、ぁ」
引き出せ。
引き出せ。
引き出せ。
僕の力では相殺なんかできない、僕の能力はあくまで治癒などの補助系の能力だ。
攻撃に適したものではない、だから……八咫烏の力を引き出す。
できる筈だ、いや違う、やらなければ。
急げ、やるんだ、八咫烏を受け入れられたのなら、その力を引き出す事だってできる筈なんだから。
そうしなければ殺される、力が無ければ殺される。
後の事なんか考えるな、今はただ後ろに居る椛さんを助ける事だけを……!
■
「う、嘘……!?」
その光景を、僕の代わりに意識を取り戻した椛さんが代弁した。
「な、に……!?」
初めて見せる、相手の驚愕に満ちた声。
それと同時に空へと消えていく黄金の光を、僕はぼんやりと見つめていた。
死ぬ寸前まで陥って精神が沈黙してしまったのか、危機を脱していないというのに僕は茫然と空を見上げてしまっていた。
「こいつ!!」
憎悪を込めた目を、僕に向けてくる敵。
そいつの左腕は、いつの間にか初めから存在していなかったかのように消え去ってしまっていた。
否、正確には僕が
殺される瞬間、無我夢中で右手を突き出し――そこから放たれた黄金の光によって、相手の左腕は消し飛んだ。
その力は太陽の光、僕の中に居る八咫烏の力であった。
〈お前……オレの力を使ったのか!?〉
八咫烏の驚愕に満ちた声を聞きながら、僕は繰り出される相手の拳を見た。
今度こそ殺される、そんなのは……嫌だ。
「う……」
右腕でガードする。
瞬間、拳全体を包み込むように光が溢れた。
「っ、ぎぃ……!?」
搾り出すような悲鳴を上げながら、ヤツが後退する。
僕を砕こうと放った右の拳は、黒々と焦げ付いていた。
「う……おおお」
右腕に宿った光が、剣の形に形成されていた。
腕自体が光の剣となり、それに触れた相手の拳が焼け焦げたのだろう。
闇に生きる存在にとって、この光は己を滅ぼす死の鎌に等しい。
「――うぅぅぅぅうおおぉぉぉぉぉっ!!」
ならば討てる、目の前の存在を。
光の剣を振りかざしながら、地を蹴った。
「くっ、このガキィィィ……!」
闇が、周囲に広がっていく。
おもわず足を止め、迫る漆黒を光の剣で斬り裂いた。
斬った闇は瞬く間に霧散していき、周囲の光景がいつもの竹林へと戻ってくれた。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
荒い息が、妙に響く。
……先程まであった闇は消え、それと同時にヤツの姿も消えていた。
終わった、のか……?
周囲に視線を向けても、ヤツの姿は見えない。
〈逃げられたな……だが、充分だ〉
「あ、ぅ……」
八咫烏の言葉を聞いて、緊張が解けたのか。
その場で膝をつき、右手に展開されていた光の剣を消し去った。
身体に残るのはいまだ解けぬ緊張感と、殺されかけたという恐怖心だけ。
「……ナナシさん、大丈夫ですか?」
「あ、も、椛さん!! 駄目ですよ、立ち上がったりしちゃ!!」
「大丈夫です、こう見えても頑丈なんですから」
安心させるように微笑みながらそう告げる椛さんだが、痛々しい傷痕が消えたわけじゃない。
すぐに治療を……そう思ったが、立ち上がる前に力が抜けその場で倒れ込んでしまう。
〈無茶すんな、オレの力を使ったんだぞ? ……しかし驚いたな、オレの力をお前自身が使えるようになるまではもっと時間が掛かると思ったんだが〉
(……無我夢中だったから、よくわからないや)
もう一度身体に力を入れ、今度こそ立ち上がる。
まずは永遠亭に戻らないと、僕も椛さんも……ボロボロだ。
「また、助けられてしまいましたね」
「あ、いえ……そんな事は」
「ナナシさん、ありがとうございました」
優しい笑みを向けながら、僕に対して最大限の感謝を込めて言葉を放つ椛さんを見て。
ああ、助ける事ができてよかったなと、心が喜んだ。
それと同時に、椛さんを傷つけたアイツに対する怒りが、ふつふつと沸き上がっていく。
目的なんて知らないし興味もない、けれどアイツは放っておけない存在だ。
椛さん以外の犠牲者も出てきてしまう可能性がある、それだけは避けなくては。
(八咫烏)
〈お前、面倒事に首を突っ込む気か?〉
(アイツは許せない、それにこのまま放っておいたら被害が増えるかもしれないし、放ってはおけないよ。だから君の力を自由に使えるように……強くならないと)
〈……やれやれ、まっ……主人がそう決めたのなら、オレからは特に反対しないさ〉
とは言いつつも、明らかに呆れを色を言葉の中に込めている八咫烏。
確かに呆れるのも当然だ、所詮僕は人間でしかない、危険な存在に立ち向かえる力なんて無いのだ。
だけど、アイツを野放しにはできないという気持ちの方が遥かに勝っている。
〈だが今はゆっくり休め、そっちの嬢ちゃんも連れて八意女医に診てもらった方がいい〉
(……そう、だね)
アイツへの怒りは、一先ず奥底に沈めていこう。
今は身体を休ませよう、耳鳴りがしてきたし四肢の感覚も曖昧になってきた。
頑丈ではないのに無理をし過ぎた、気をつけないと。
すぐにその場に転がって、目を閉じて眠りたい衝動に抗いながら、僕は椛さんと共に永遠亭に向かう。
身体が妙に熱い、八咫烏の力を使ったからだろうか……?
茹るような熱を全身から感じながら、帰路へと着く。
それになんだか痛みも発してきたような気がする、これは本当に早く休んだ方が良さそうだ。
隣を歩く椛さんに心配だけは掛けさせないように、平静を装いながら歩く。
……結局その日は、身体を蝕む熱は消えてはくれなかった。