「…………」
紅魔館の厨房にて、この館のメイド長である十六夜咲夜はある一点をじっと見つめ続けていた。
彼女の視線の先にあるのは、黒い長方形の物体。
それは“チョコレート”と呼ばれる食品であり、彼女はとある理由からこの材料を使った菓子作りに対して思案に暮れていた。
「――咲夜、何をしているの?」
「っ」
ビクッと咲夜の身体が大きく跳ねる。
不意打ちに等しいその声掛けの主であるレミリア・スカーレットは、従者の様子のおかしさに首を捻りつつ、厨房へと足を踏み入れた。
「仕事は終わったの?」
「お、お嬢様……は、はい、とりあえずの仕事は完了しております」
「それならいいけど……何を見ているの?」
咲夜が注いでいた視線の先に目を向けるレミリア、そこに置いてあるチョコレートを見てから……彼女は壁に取り付けられているカレンダーを見て、にやーっと意地悪じみた笑みを浮かべた。
「へー、ふーん、ほー」
「な、何でしょうか……?」
「いや、咲夜にもこういった一面がある事がわかって嬉しくなっただけさ。
――明日はバレンタインだ、ナナシに渡そうと思っているのだろう?」
瞬間、咲夜の顔が一気に赤く染め上がり、それを見たレミリアはますます口元の笑みを深めていった。
なんと初々しい反応か、それもあの咲夜がだと、レミリアは内心笑いが止まらなかった。
「あ、あの……その……」
「別に恥ずかしがる必要なんかないでしょ? お前はただ前に世話になった礼がしたいだけなんだからさ」
「…………」
(おや……?)
てっきり赤い顔のまま反論してくると思ったのだが、咲夜は何も言わず黙り込んでしまう。
そんな彼女を見てレミリアは浮かべていた笑みを消し、彼女にある問いかけを投げかけた。
「咲夜」
「は、はい」
「お前……本気でナナシに惚れたのか?」
「…………」
またも無言、肯定はせずとも否定はしないという曖昧な態度。
いつもの彼女らしからぬ姿に、レミリアはふむ、と顎に手を置き思案に暮れた。
珍しく異性の相手と仲の良い姿を見せられたので、興が乗ってからかっていたが……本気になってしまったのだろうか?
まあそれはそれで面白い、あの咲夜が男に惚れるなど初めてだからだ。
しかし、どうやらそう決め付けるのは早計かもしれないと、咲夜の照れたようなそれでいて困ったような表情を見て、レミリアはそう思った。
「……お嬢様は」
「うん?」
「お嬢様は、恋をした事はありますか?」
「無いよ。そもそもわたしに釣り合う男との出会い自体ないんだから」
肩を竦めるレミリア、そんな主を見て咲夜はおもわず苦笑する。
予想通りな返答もそうだが、このような問いを主に言い放った自分が可笑しいと思ったのだ。
「お嬢様には、私がナナシ様に対して恋慕しているように見えるのですか?」
「えっ、うーん……そういうわけじゃないんだけどさ。もしかして……わたしの早とちりだった?」
「……わからないのです。私がナナシ様をどう思っているのか」
「ああ……」
その言葉で、レミリアは理解した。
彼女は今悩んでいる、自分自身の感情を持て余して迷っている。
……それが嬉しくて、レミリアは先程とは違う慈しみが込められた笑みを浮かべた。
「お嬢様、何を笑っているのですか?」
「ごめんごめん、別に咲夜を馬鹿にしているわけでもからかっているわけでもないよ。
ただ嬉しかったんだ、お前がこんな風に年頃の少女らしい姿を見せてくれた事なんて、今までなかっただろう?」
「それは……お嬢様に出会う前も今も、ずっと闇の中で生きていますから当然ですわ」
「ああそうだ、夜の女王であるわたしの従者であるお前も闇の中で生きる者。だがな、今みたいに人間らしさを見せてくれるのは好ましい」
自分に絶対の忠誠を誓っているが故に、彼女は時折完璧を目指そうとするのだ。
向上心があるのは良い、だがその結果として人でありながら人間らしさを失うのはレミリアにとって面白くない。
人間でありながら悪魔の従者、十六夜咲夜という少女はそういった立ち位置だからこそ栄えるのだ。
「咲夜、ナナシの事は嫌いではないのだろう?」
「……はい。お優しい方ですし温厚で話しやすく、嫌える要素を見つける方が難しいです」
「わたしもアイツは気に入っているよ、御人好しという次元を通り越した危うさと不気味さはあるがそれもまた魅力の1つだ。
フランも気に入っているしこの館で働いてくれたらとも思っている。――今はそれで充分じゃないか?」
「えっ?」
「少なくともお前はアイツを好ましく思っている、それが親愛から来るものかそれとも異性に対する愛情からなのかはわからなくとも……今はそれだけで充分じゃないのか?」
答えを急ぐ必要などない、寿命の短い人間だとしてもまだ時間は充分にあるのだから。
レミリアとしてはさっさと答えを出してほしいと思っているが、待つのもまた一興だと己に言い聞かせる。
「……そう、ですね。お嬢様の言う通りだと思います」
「当たり前だ。わたしはお前の主なんだぞ?」
胸を張ってドヤ顔をかますレミリア、良い事言ったと言わんばかりである。
……確かに良い事は言ったとは思うが、ドヤ顔のせいで台無しだ。
やはり主は長い間カリスマを維持できないようだ、まあこれはこれで可愛らしいのでよしとする。
「咲夜、お前何か失礼な事を考えなかったか?」
「いいえ、気のせいですわ」
「……まあいいわ、それよりそのチョコレートを使って何か作ってくれない? 小腹が空いちゃったのよ」
「すみません、ナナシ様に渡す分しかありませんので」
「……お前、主を後回しにするとか」
「代わりにプリンを用意致しますので」
「よし、許す」
速攻で怒りを霧散させるレミリアに、咲夜は内心苦笑する。
はーやーくー、子供のように急かす主を見て、咲夜は自身の能力の1つである“時止め”を用いてプリン作りを開始したのだった。
■
「はい、これ」
「えっ?」
朝。
いつものように、寝ている輝夜さんを起こしに行ったら、既に起きていた彼女は長方形の箱を手渡してきた。
綺麗にラッピングされたそれを反射的に受け取ったものの、意図がわからず呆けてしまう。
「ナナシ、今日がバレンタインだって事を忘れてない?」
「バレンタイン……」
壁に掛けられているカレンダーに視線を向ける。
今日の日付は2月14日、確かにバレンタインの日だった。
「呆れた、男なら今日に備えて女の子からのポイントを稼いだり、そわそわしたりするものじゃないの?」
「後者はともかくとして、前者はどうかと思うんですけど……」
ふむ、つまりこの箱の中身はチョコレートというわけか。
バレンタインのことなんて忘れていたけど、貰えたのは素直に嬉しかった。
「輝夜さん、どうもありがとうございます」
「いいのよ別に、だってソレ里で買ってきた市販品だもの」
「それでもですよ、わざわざ買ってきてくれたんですからお礼を言うのは当然です」
貰えた事に感謝するのは当たり前だ、気持ちには気持ちで返さなくては。
すると輝夜さんは呆れたように肩を竦め、苦笑を見せた。
「それじゃあ、ホワイトデーは期待しているわよ?」
手をヒラヒラさせながら、輝夜さんは行ってしまった。
さて、じゃあ台所に行って朝食の支度の続きを……。
「ナナシ」
「八意先生、どうしましたか?」
此方に向かってきた八意先生にそう訊ねると、いきなり黒い物体を投げ渡された。
それはまごうことなきチョコレート、ハート型に象られたそれを受け取った僕は、おもわず八意先生に視線を向けた。
な、なんでハート……? なんだか変に意識してしまう。
「どう? ドキドキした?」
「…………正直」
「素直でよろしい、こっちもわざわざこの形にした甲斐があったわ。それじゃあ早速食べてくれる?」
「でも、もう朝食ですよ?」
しかし八意先生は「いいから」と強い口調で促してくるので、仕方なく受け取ったチョコレートを一口齧り……。
「っ、ちょ、うぇ……」
その味に、顔をしかめ口に入れたチョコを吐き出してしまいそうになった。
……しょっぱ甘い、ただただしょっぱ甘い。
しかもその甘さとくどさと言ったら、無理矢理呑み込んでも口の中で残る程だ。
「どう?」
「……正直に言っていいなら、美味しくないです」
貰っておいてあんまりな回答だが、それほどまでに悪い意味で強烈だったのだから仕方がない。
うぐ、舌がピリピリしてきた……何が入ってるんだこのチョコは。
と、僕の身体に変化が訪れた。
「効いてきたみたいね」
「何を入れたんですか? なんだか身体が軽くなってるんですけど……」
「滋養強壮効果のある薬を独自の比率で混ぜ合わせた特製のチョコレートだもの、まあそっちを重視したから味は五の次くらいになってしまったけど」
「せめて二の次ぐらいにしてくださいよ……」
とはいえ、確かに身体に残っていた疲労感などは綺麗さっぱり消えてくれていた。
ただ口周りは最悪の一言に尽きる、効き目重視の栄養食品だと思えば食べられるか……。
「ともかく、ありがとうございます……」
「気にしなくていいわ。実験も兼ねているから」
「…………」
「冗談よ。最近のあなたは特に働き過ぎなのだから、無理はしないで頂戴ね?」
「はい……うぷっ」
身体は軽くなったけど、気分は悪くなってきた……。
これは朝食を食べるのは無理そうだ、そう思った僕は八意先生に事情を説明して部屋で休む事にした。
「……失敗だったかしら」
八意先生、やっぱり実験も兼ねていたんじゃないんですか?
■
結局、午前中はベッドの中で過ごす事になってしまった。
けどその甲斐もあって気分も良くなってきたし、そろそろ起きて仕事の手伝いをしないと。
そう思った矢先、部屋の窓からコンコンという音が聞こえ開けてみると。
「こんな所からすまないな」
「ルーミア?」
そこには、僕に向かって右手を挙げるルーミアの姿があった。
「具合が悪いのか?」
「まあ、色々ありまして……それよりルーミアはなんで部屋の窓から来たの?」
「本当ならちゃんと入口から入るつもりだったんだが、チルノ達を待たせていてな」
「……大変だね、ルーミアも」
僕が封印の一部を解いてしまったせいで、見た目も精神も封印される前より成長してしまったルーミア。
そのせいか、今の彼女はいつも遊んでいる友達の保護者的ポジションに納まってしまっている。
それだけでもなんだか申し訳ないのに、彼女はまだ最初に僕を襲った負い目を感じて守ろうと考えてくれているのだから、余計に申し訳なかった。
「それはいいんだ。それより、これを受け取ってくれ」
「?」
手渡されたものを受け取る、長方形のラッピングされた箱……。
「もしかして、バレンタインのチョコレート?」
「ああ。だがこれは私のじゃないんだ、わかさぎ姫からお前にと渡すのを頼まれてな」
「わかさぎ姫さんから……」
「本当は自分で手渡したかったそうだが、おいそれと湖から出られる身体じゃないから泣く泣く断念していたよ」
そんな彼女が、わざわざ用意してくれたのか。
その気持ちが凄く嬉しくて胸に暖かくなった、これは早速食べさせてもらわないと。
なるべく丁寧に包装を剥がし、箱を開けて……ルーミアと共に絶句した。
入っていたのは確かにチョコレートだ、別に変な形をしていたとかおぞましい匂いを発していたとかそういった異常はない。
異常はなかった、少なくともチョコレートにはだ。
問題なのは、そのチョコの上に置かれたメッセージカードに書かれた内容である。
“私の鱗入りです、美味しく食べてくださいね?”
鱗って……えっ、いや、冗談だよね?
どうすればいいのかわからず、固まる事暫し。
「……じゃあ、私はこの辺で」
「えっ!? ちょ、ルーミア!?」
僕が止めるよりも早く、ルーミアはその場から飛び去ってしまった。
ず、ずるい……面倒な事になったから、僕に押し付けて逃げるなんて。
「…………」
……食べないと、駄目だよね?
カードに書かれた内容が本当か嘘かわからないけど、どちらにせよ用意してくれた事には変わりないんだ。
だったらちゃんと食べるのが礼儀である、そう自分に言い聞かせてチョコレートを口に含んだ。
「…………美味しい」
普通に美味しかった、甘さも控え目で食べやすい。
なんだか拍子抜けというか、安心したというか……。
〈お前も大変だな……〉
(はは……でも、こうやって女の子がバレンタインの日にチョコレートをくれるのは、本当に嬉しいよ)
ちゃんとホワイトデーのお礼を考えないとな。
そう思いながら、わかさぎ姫さんのチョコレートに舌鼓を打つ。
……鱗、本当に入ってるのかな。
「――ナナシさん、起きていますか?」
「鈴仙? どうぞ」
失礼します、そう言いながら部屋に入ってくる鈴仙。
走ってきたのか、呼吸を少し荒くしている。
「……ナナシさん、それ」
「ん? ああ、これはルーミアが持ってきてくれたんだ。作ってくれたのはわかさぎ姫さんだけど」
「ふーん…………良かったですね」
っ、なんだか悪寒が……。
それと鈴仙の此方を見る目が恐くなっているような。
「他の女の子から貰っているなら、私のなんかいらないですね」
「えっ、鈴仙も用意してくれたの?」
「……ええ、まあ」
「いらないなんて思わないよ、僕としては貰えたら本当に嬉しいから」
なんだかねだっているような感じになって恰好が悪いような気がしたけど、正直な気持ちなので訂正はしない。
僕の言葉を聞いて、唇を尖らせていた鈴仙はやがて懐から小さな箱を取り出した。
「じゃあ……これ」
「ありがとう、鈴仙」
「言っておきますけど、不味くても文句は受け付けませんからね」
「鈴仙は料理上手だし大丈夫だよ、それに万が一不味かったとしてもせっかく作ってくれたのならちゃんと食べるさ」
早速とばかりに箱を開けさせてもらい、中に入っていた一口大のチョコを口に含んだ。
あっ、サクサクとした歯ざわり……クランチチョコだこれ。
「美味しいよ、鈴仙」
「ぁ……よかった」
ほっとしたような表情を浮かべる鈴仙、自信がなかったのだろうか?
そのまま一気に食べ、満足感を得た僕はおもわずほぅ……と、息を吐いた。
「喜んで、もらえました?」
「勿論、寧ろ申し訳ないくらいだよ。僕なんかにここまでしてもらえて……」
「そ、そんな事ありません! ナナシさんに喜んでもらおうと作ったんですから!!」
「えっ……」
「あっ……」
……沈黙が、部屋に訪れる。
鈴仙の顔は真っ赤に染まり、きっと僕の顔も赤くなっているだろう。
今の言葉はどういう意味なのか、問いかけようとしても口が上手く動かない。
鈴仙も何か言いたげだけど、僕と同じく何も言えない状態に陥っていた。
2人して互いを見つめ合うという珍妙な光景を繰り広げる事暫し、自分達だけでは破れないこの沈黙を来訪者が破ってくれた。
「おーい、2人して何見つめ合っちゃってんの?」
「っ、て、てゐ!?」
「ち、違うんですよこれは!!」
「何が違うのかよくわかんないけど……ナナシに客だよ」
じゃあ私はこれで、さっさと部屋を去るてゐさんと入れ替わるように入ってきたのは……。
「あ、咲夜さん」
「ご無沙汰しております、ナナシ様」
相変わらず丁寧な一礼を見せてから、部屋へと入ってくる咲夜さん。
なんだか緊張しているように見えるけど、気のせいかな?
「今日はどうしたんですか?」
「まずはお嬢様と妹様からの伝言を。“暇だから遊びに来い”との事です」
「あー……近い内にお伺いさせてもらいます」
フランはともかく、レミリアさんはかなり怒ってるなこれは。
なかなか行ける機会に恵まれないけど、行かないとどんな目に遭わされるか……。
「お願い致します。……そ、それと……これを」
言いながら、咲夜さんは僕に小さな箱を手渡してきた。
「咲夜さん、これはもしかして……」
「チョコレートです、食べていただけますか?」
「ありがとうございます、咲夜さん」
箱を受け取る、鈴仙のを食べたばかりだからこれは後で食べよう……。
「……食べて、いただけないのですか?」
「えっ、今すぐですか?」
食べないんですか、口では言わず目で訴えてくる咲夜さんに、もちろん勝てる筈もなく僕は箱を開けた。
中に入っていたのは丸い形をしたトリュフチョコ、金箔が鏤められ高級感を醸し出している。
さすが咲夜さん、鈴仙に負けないくらい美味しそうなチョコだ。
「いただきます」
1つを手に取って口に含む。
じんわりと広がる甘さ、噛めば噛むほどに濃くなっていく味は決して濃厚過ぎるわけでもなく、幾らでも食べられそうだ。
「とても美味しいです、咲夜さん」
「……よかった」
先程の鈴仙と同じように、ほっとした表情を浮かべる咲夜さん。
「それでは、私はこれで」
「わざわざすみませんでした、このお返しは必ず」
「ふふっ、お気になさらないでください。私がナナシ様に作りたいと思ったのですから」
「あ……そ、そうですか……」
他意はない、それはわかっているのにそんな事を言われてしまうとおもわずどきりとしてしまう。
……バレンタインの事を忘れていたとはいえ、まさか女の子からチョコを貰えるとは思わなかった。
一部はちょっと……いやかなり食べるのに躊躇いがあるものだったけど、素直に嬉しい。
「……ナナシさん、あのメイドのチョコと私のチョコ、どっちが美味しいですか?」
「えっ? うーん……どっちも同じくらい美味しいから甲乙付けるなんてできないよ」
そもそも鈴仙はクランチチョコで、咲夜さんはトリュフチョコ。
比べようが無いではないか、そう答えたら鈴仙が不機嫌そうにこちらを睨んできた。
も、もしかして咲夜さんに負けるのが悔しいのか……?
〈ある意味では当たってるけどよ……お前、本当にガキだな〉
八咫烏には馬鹿にされる始末、解せぬ。
それはともかく、こうしてバレンタインの日は過ぎ去っていった。
最終的にこれ以上チョコは貰えなかったけど、僕からすれば充分過ぎるほどに貰えたのでとても嬉しい。
……お返し、何にしようかな。