Life Will Change   作:白鷺 葵

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【諸注意】
・各シリーズの圧倒的なネタバレ注意。最低でも5のネタバレを把握していないと意味不明になる。次鋒で2罪罰と初代。
・ペルソナオールスターズ。メインは5、設定上の贔屓は初代&2罪罰、書き手の好みはP3P。年代考察はふわっふわのざっくばらん。
・ざっくばらんなダイジェスト形式。
・オリキャラも登場する。設定上、メアリー・スーを連想させるような立ち位置にあるため注意。
 @空本(そらもと) (いたる)⇒ピアスの双子の兄で明智の保護者その1。武器はライフル、物理攻撃は銃身での殴打。詳しくは中で。
 @デミウルゴス⇒獅童の息子であり明智の異母兄弟とされた獅童(しどう)智明(ともあき)を演じていた『神』の化身。姿は真メガテン4FINALの邪神:デミウルゴス参照。詳しくは中で。
・歴代キャラクターの救済および魔改造あり。
・一部のキャラクターの扱いが可哀想なことになっている。特に、『普遍的無意識の権化』一同や『悪神』の扱いがどん底なので注意されたし。
・アンチやヘイトの趣旨はないものの、人によってはそれを彷彿とさせる表現になる可能性あり。他にも、胸糞悪い表現があるので注意してほしい。
・ハーメルンに掲載している『運命を切り開くだけの簡単なお仕事』および『ペルソナ3異聞録-.future-』、Pixivの『2周目明智吾郎の災難』および『【一発ネタ】有栖川黎の幼馴染』の設定を下地にし、別方向へ発展させた作品である。
・ジョーカーのみ先天性TS。
 ジョーカー(TS):有栖川(ありすがわ) (れい)⇒御影町にある旧家の跡取り娘。旧家制度は形骸化しているが、地元の名士として有名。身長163cm。
・歴代主人公の名前と設定は以下の通り。達哉以外全員が親戚関係。
 ピアス:空本(そらもと) (わたる)⇒明智の保護者2で、南条コンツェルンにあるペルソナ研究部門の主任。
 罪:周防 達哉⇒珠閒瑠所の刑事。克哉とコンビを組んで活動中。ペルソナ、悪魔、シャドウ関連の事件の調査と処理を行う。舞耶の夫。
 罰:周防 舞耶⇒10代後半~20代後半の若者向け雑誌社に勤める雑誌記者。本業の傍ら、ペルソナ、悪魔、シャドウ関連の事件を追うことも。旧姓:天野舞耶。
 ハム子:荒垣(あらがき) (みこと)⇒月光館学園高校の理事長であり、シャドウワーカーの非常任職員。旧姓:香月(こうづき)(みこと)で、旦那は同校の寮母。
 番長:出雲(いずも) 真実(まさざね)⇒現役大学生で特別調査隊リーダー。恋人は八十稲羽のお天気お姉さんで、ポエムが痛々しいと評判。
・敵陣営に登場人物追加。
 @神取鷹久⇒女神異聞録ペルソナ、ペルソナ2罰に登場した敵ペルソナ使い。御影町で発生した“セベク・スキャンダル”で航たちに敗北して死亡後、珠閒瑠市で生き返り、須藤竜蔵の部下として舞耶たちと敵対するが敗北。崩壊する海底洞窟に残り、死亡した。ニャラルトホテプの『駒』として魅入られているため眼球がない。獅童パレスの崩壊に飲まれ、完全に消滅した模様。
・「2罰ボスの外見を見た人間の反応」に関するねつ造設定がある。
・普遍的無意識とP5ラスボスの間にねつ造設定がある。
・『改心』と『廃人化』に関するねつ造設定がある。
・春の婚約者に関するねつ造設定と魔改造がある。因みに、拙作の彼はいい人で、春と両想い。
・魔改造明智にオリジナルペルソナが解禁。


累の果て、願わくば

 沈没した日本を悠々自適に航海するのは、国会議事堂をモチーフにした豪華客船だ。この船に乗ることができるのは、箱舟の船長が見出した“特別な人間”たちだけである。

 しかし、船に乗れたからと言って安泰であるとは限らない。船長に見限られれば即船を下ろされ、死を迎えるのだ。死刑執行人は自分。――だから、勝手に安心していた。

 

 

(……結局俺もまた、獅童正義にとっての『駒』でしかなかった……。皮肉なもんだな……)

 

 

 投げ出された体に、力は入らない。目を閉じれば最後、自分は死ぬのだろう。

 

 自分と瓜二つの顔をした認知の自分が転がっている。眉間を撃ち抜かれたそいつの顔色には血の気はなかった。最期に見るのが廃棄された人形だと考えると、なんとも馬鹿馬鹿しい終わりである。

 思えば、自分の人生はロクなものではなかった。誰からも愛されず、愛されたいと願いながら誰も愛さなかった。父親に認めてほしいと努力を続けた結果、遺ったのは血で汚れた両手と、抱えきれない程の罪だけだ。

 ……ああでも、と、気づく。脳裏に浮かぶのは自分を認めさせたかった父親ではなく、自分を認めてくれた――でも決して自分が認めなかった黒衣の怪盗だった。自分とは違う、正真正銘の義賊。

 

 それは羨望だった。それは憎悪だった。それは好意だった。

 それは敵意だった。それは殺意だった。それは安堵だった。

 

 それは、それは――。

 

 自分が何を考えているのか、自分自身がよく分からない。

 何をしたいのかさえ、分からなかった。

 

 

(…………)

 

 

 後悔しているかと問われれば、「はい」と答える。もっと早く出会いたかったのも、あの温かな場所に居たかったのも本当だからだ。

 満足しているかと問われても、「はい」と答える。この選択を選べたことも、最後まで手を差し伸べてくれたことも、充分だからだ。

 

 後悔していようが満足していようが、今となってはもうどうしようもない。もうすぐ死ぬであろう自分に、できることなど何一つとしてないのだから――

 

 

「そうかな?」

 

 

 誰かの声がした。聞き覚えのない声だった。掠れ始めた視界の中に、青いブーツが映りこむ。

 何事かと視線を動かせば、金色の蝶がひらひらと、機関室の中を舞っているところだった。

 

 何かを言おうと口を開くより先に、誰かが屈んでこちらを覗き込む方が早かった。顔は見えないが、奴は確かに微笑んでいる。

 

 

「――()()()()()()()()()。そうすれば、届くかもしれないぞ?」

 

 

 ――金色の蝶が、自分の指先に停まっていた。

 

 いつの間にこんなものがいたのだろう。箱舟を何度も出入りしていた身だが、今の今まで、黄金の蝶など見たことがない。呆気にとられる自分の姿を相手――おそらく成人男性――はどう思ったのか、誰かは静かに笑ってこちらを見ていた。

 奴の言葉の意味を理解できず首を傾げる。蝶を飛ばして、一体何がどうなるというのだ。自分はもう死ぬ以外に残されていない。獅童への復讐は潰えたし、自分の命だって燃え尽きようとしている。

 相手に対して不平不満をぶちまけようと視線を動かしたが、所詮は死に体の身。小さな呻き声が漏れただけだ。しかし、沈黙よりは雄弁に自分の意を訴えることができたようで、相手の顔から笑顔が消えた。

 

 次の瞬間、ムッとしたような表情となる。己の意見を頭ごなしから否定されたと思ったのだろうか?

 顔はよく見えないのに、酷く子どもっぽい印象を受けたのは気のせいではなさそうだ。

 

 

「馬鹿にするなよ。可能性という名の蝶は、羽ばたき1つで大嵐を引き起こすんだぞ」

 

「…………」

 

「あ。その眼、全然信じてないな!? ――そんなキミには出血大サービス。バタフライエフェクトを舐めちゃいけないってこと、教えてやる」

 

 

 男性がそう言った次の瞬間、機関室の周囲に蝶が舞い始める。自分が瞬きする頃にはもう、機関室は輝く蝶の群れに覆いつくされていた。

 金色、銀色、青色、白色……様々な色の蝶がこの場を飛び回っている。呆気にとられた自分に更なる追い打ちが叩きこまれた。

 

 

『ダメだ! こんな結末、絶対嫌だ! ――明智、死ぬな! 死ぬんじゃない!』

 

 

 悲痛な叫び声だった。聞き覚えのある人物の声だった。

 

 

『手遅れなんかじゃない。まだこれからじゃないか。やり直せるじゃないか』

 

『何もない? そんなこと言うな! お前は1人じゃないだろう。自分がいる』

 

 

 悲痛な叫び声だった。聞き覚えのある人物の声だった。

 

 

『自分では、ダメだったのだろうか。彼の生きる理由にはなり得なかったのだろうか』

 

『世界の誰もがお前の死を望んでも、自分はお前に生きていて欲しかったのに』

 

『世界は救われたよ。獅童は『改心』して罪を認めて償いの人生を送り、全ての元凶を斃したよ。……でも、お前だけは、どこにもいない』

 

 

 悲痛な叫び声だった。聞き覚えのある人物の声だった。

 

 

『世界を救った自分は、最早彼のために何かをすることすらできないのだろう。でも、だからこそ、自分は祈るんだ。どこかの世界で、彼が生きていることを』

 

『もし、どこかに可能性があるのなら――明智吾郎が幸せになれる世界があって欲しい。悪神の玩具として使い潰されるのではなく、彼が彼自身の幸せを追いかけていけるように』

 

『できることなら本当の仲間として、叶うならば本物の友として、一緒に笑い合いたかった。……いいや、笑い合える世界が欲しいと、今でも思っている』

 

 

 悲痛な叫び声だった。男女どちらの声かはよく分からないが、同一人物――あるいは同一存在のものであることは認知できた。

 

 

「……“ジョーカー”……!」

 

 

 かすれた声が漏れる。凍り付いて死にかかっていた心を溶かすようにして、“彼/彼女”の声がじわじわと沁みてきた。

 

 自分――明智吾郎に手を伸ばし、救えなかったことを嘆く“彼/彼女”たちが、明智吾郎にとって唯一無二の存在である“彼/彼女”が、明智吾郎のためだけに蝶を飛ばしたのだ。

 明智吾郎のために捧げられた、数多の世界に存在する“ジョーカー”たちの祈りと願い。明智吾郎の幸福を願い、共に歩む可能性が存在することを祈った義賊の想い。

 祈りと願いを集めた蝶の群れは温かな光を纏っている。それは、誰からも必要とされないと思っていた明智吾郎を救いあげた。尊い光。見ているだけで涙が出てきそうになる。

 

 いつの間にか、機関室は蝶の群れで埋め尽くされていた。色とりどりの蝶たちが、明智吾郎への想いを伝えてくる。明智吾郎の不在を嘆き、幸福を祈り、共に歩む未来が存在していて欲しかったと願ってくれている。――ああ、なんて、綺麗。

 死に体だった身体が小さく動いた。ゆっくり、手を動かす。止まり木を模した人差し指に、薄桃色の蝶が羽を停めた。この色彩はどこかで見たことがあるな、と、ぼんやり考える。程なくして、バラエティ番組で宝石言葉の話題が出た際に見た宝石の色を思い出した。

 

 薄桃色の宝石の名前は――愛する者への一途で深い愛情を意味し、本来は悪しき要素(モノ)から持ち主を守る守護の意味を宿していた宝石を、何と言ったか。

 鮮やかに煌めく蝶は、ただ静かに自分に寄り添う。『貴方の傍にいたい。貴方を守りたい。私には貴方が必要だ』と、ただ静かに伝えてくれた。

 

 

「凄いよな。この蝶全部、キミを想ったただ1つの存在が飛ばしたんだ。キミのためだけに、こんなにも飛ばしたんだよ」

 

「……俺の、ため……俺だけの、ため……」

 

 

 男は感嘆の息を吐く。“明智吾郎のため”というお題目の元に――その大半は“ジョーカー”たちの自己満足だろう――集った蝶の群れ。

 とんだお人好しだ。とんだ偽善者だ。とんだ傲慢だ。相変らず、頼まれないことをしてくれる。余計なお世話以外の何物でもない。

 

 ――だけれど。

 

 

「……バカだなぁ」

 

 

 視界が滲んだ。漏らす資格のない嗚咽が零れた。胸を抉るような痛みと共に、形容できない震えと熱がすべてを塗り潰す。溢れだしたそれは止まることを知らない。

 幼い頃から「要らない子」と呼ばれ、唯一の肉親からも「使い捨ての駒」と呼ばれ、他者から本当の意味で必要とされなかった明智吾郎(じぶん)が欲し続けたモノ。

 手を汚した自分では、決して届かないと諦めた。殺人犯が正義の義賊の仲間になれるはずがないと諦めた。でもそれは、予想外にすんなりと落ちてきた。

 

 

「……本当に、バカだ。今更になって、気づくなんて……」

 

 

 明智吾郎が何かに気づくとき、その大半が手遅れだった。でも、『今この瞬間に気づけた』ことだけでも儲けものだと言えるだろう。

 だってこれは無駄にならない。無駄になんかしない。明智吾郎は男に視線を向けた。蝶と戯れていた男はこちらに気づくと、納得したように頷く。

 

 

「数多の『神』の目を掻い潜り、あるいは奴らの仕掛けた運命をブチ壊して、この蝶たちはキミの元に辿り着いた。羽ばたき1つで、今この瞬間のキミに影響を与えた」

 

 

 蝶を飛ばそうと思う“明智吾郎”は何人いるだろう。

 “ジョーカー”がここまで飛ばしたなら、果たして“明智吾郎”はどれ程の蝶を飛ばすのか。

 

 

「――キミが飛ばした蝶が、いつかどこかにいる“ジョーカー”に届くかもしれない。そうすれば、きっと“あの子”に応えられる」

 

 

 “ジョーカー”の元へ辿り着ける“明智吾郎”の蝶は何羽だろう。

 どれ程の蝶が屍を積み上げ、どれ程の蝶が試練を乗り越えてゆけるのか。

 

 

「いいじゃないか。1人くらい、“ジョーカー(あの子)”に応える“明智吾郎(キミ)”がいたって。何もおかしいことなんてないんだから」

 

 

 自分の復讐を果たすために手を汚した明智吾郎がいるのなら、自分と愛する人の幸せのために駆け抜ける明智吾郎がいたっていいじゃないか――菫色の双瞼は、そう告げている。

 

 獅童正義を破滅させるために生きた人生は、非合法という言葉で満ち溢れている。復讐のためにすべてを捨てる生き方を貫き通した明智吾郎は、最期の最期ですら、ある意味で『自分の命を捨ててでも』復讐を成就させることを選んだ。怪盗団に獅童を『改心』させ、失脚へと追い込むという方法で。

 その生き方を間違いだと断言するつもりはない。この結末を嘆くつもりもない。だって明智吾郎は、自ら人形に成り下がることで承認を求める人生から解放された。18年という生涯の中で、初めて他者のためにすべてを投げだすことができた。そうすることで、初めて他者との絆を結んだ。最期の最期で、明智吾郎は怪盗団の仲間になれた。

 だけれども――数多の「もしも」を思い浮かべたことがある。叶わないと嘆いた後悔の断片を繋ぎ合わせる。最初から詰んでいた状況を――世界を変更する。敵対して別れるのではなく、破滅の前に顔を会わせたならば。心を通わせることができたなら。そうして――できれば、自分の周りにいる大人も、多少はまともであってくれれば。

 

 獅童の元に集うような、あるいは明智吾郎が出会ってきた大人たちの大半が、どうしようもないクズばかりだった。

 そんな大人と対峙し、ボロ雑巾同然に傷ついたからこそ、絶望した。明智吾郎の絶望は、破滅への道を転がり落ちる加速炉となったのだ。

 

 

(――そうして何より、俺自身に、踏み止まる理由があれば……)

 

 

 脳裏に浮かんだのは“ジョーカー”の微笑だった。ギリギリまで『明智吾郎と共に歩む未来』を模索していた正義の義賊――“彼/彼女”を選べなかった自分の弱さに苦笑する。

 明智吾郎がどうしようもない悪党であることは、覆しようのない真実だ。けど、そんな自分を望み、真摯に祈りと願いを捧げてくれた“ジョーカー”に応えたいと、強く願う。

 

 ――次の瞬間、明智吾郎の胸元が淡く光り始めた。

 

 青白い光は、いつの間にか白青色に瞬く1羽の蝶となった。その蝶は、先程自分の指先を止まり木にしていた薄桃色の蝶と戯れるようにして飛んでゆく。

 番という言葉が相応しい程の睦まじさを見せながら、2羽の蝶はどこかへと飛んでいった。それを追いかけるようにして、数多の蝶が宙を舞う。

 明智吾郎は幻想的な光景を見つめていた。針の穴のように細い可能性であっても、祈り願えばきっと届く――そんな夢を見れるような気がしたのだ。

 

 

「夢を見る権利は誰にだってある。限りある命を当たり前に生きる権利だってそうだ。嘘に惑わされず生きたいと願い、真実を追い求める権利もある。自分の正義を貫き通し、居場所を見つけたいという権利だってあるんだよ。――そうして、それが世界を変えていくんだ」

 

 

 蝶が飛んでゆく。数多の祈りと願いを乗せた蝶が、いつかどこかで生まれ落ちる世界を変えてゆく。破滅の因果を書き換えて、未来を指示した。

 

 

「……アンタ、神様みたいだな」

 

 

 明智吾郎はぽつりと呟いた。神と呼ばれた男は眉間に皺を寄せる。

 憤るようにため息をついた男は、心底嫌そうな顔をしていた。

 

 

「――やめてくれ。俺は神様なんて嫌いなんだ。ロクな目に合ったことがないからな」

 

 

 「それに」と、彼は付け加えた。

 

 

「俺には“セエレ”という名前があるんだ。間違っても、神様なんて呼ばないでくれよ」

 

 

◆◇◇◇

 

 

 街中はバレンタインデーフェアで埋め尽くされている。勿論、僕の学校や黎の通う秀尽学園高校も例外ではない。女子たちはチョコレートの準備に勤しみ、男子たちはソワソワしっぱなしだ。かくいう僕も、ソワソワしている男子の1人だったりするのだ。

 黎はお世話になった人々に配る用のチョコレートと、僕へ贈る用のチョコレートを鋭意制作中とのこと。『2月14日の放課後は一緒に過ごす』と約束を取り付けてある。楽しみすぎて自宅の階段を踏み外し、あわや転げ落ちそうになったことは内緒だ。航さんに目撃されたけど。

 

 さて、本日は2月13日。バレンタイン前日とあって、バレンタイン戦線の熱気が半端ない。明日の下駄箱と郵便受けがどんな惨状になるかを想像すると、色々と鬱になる。

 

 僕はどちらかと言うと、他者と接触するのを好むタイプではなかった。と言っても先天性ではなく、母が亡くなる以前までは別段何ともなかったと記憶している。

 おそらくそのきっかけは、親戚縁者の前に引きずり出され、人間の汚い面を見せつけられてからだと考えている。後は“明智吾郎”の影響があったのかもしれない。

 但し、“明智吾郎”並に徹底してはいなかった。そこは黎や空本兄弟を始めとした良縁と巡り合えたおかげであろう。彼等と交流する分には、抵抗は感じなかった。

 

 

―― ………… ――

 

(どうかした?)

 

―― ……別に。気楽だなと思っただけだ ――

 

 

 僕に話しかけられた“明智吾郎”は、ふいっとそっぽを向いた。

 

 自分から何か言いたげにこちらを凝視していたくせに、話しかけられるとあんな態度を取るのだ。天邪鬼にも程があろう。

 最も、“彼”の事情を知る僕としては――黎や“ジョーカー”程お人好しではないが――、本人が何か言うまで待つ以外にないと分かっていた。

 

 “明智吾郎”は11月末~12月半ばで確実に命を落としている。『獅童との決戦を乗り越え、統制神ヤルダバオトを下し、数多の理不尽を飲み込んで警察へ出頭し、無事に釈放されて、20XX年の2月に生きている』というのは初めてのことだ。“彼”は『“自分”がいなくなった後の世界』を体験していると言ってもいい。

 12月の時点で、“彼”は己の不始末が招いた事態を目の当たりにしている。『廃人化』事件の実行犯が行方不明となった際、誰がその証言をするのかで白羽の矢が立ったのは“ジョーカー”だった。“ジョーカー”への感情を異性間の恋愛に昇華させた“彼”にとって、その光景は許しがたかったに違いない。

 言葉にならない程の理不尽や不条理に辛酸を舐め、それを強いてくる大人や世間への反抗心が“明智吾郎”を突き動かしていた。“ジョーカー”と過ごした日々の中で吐露した己のルーツは嘘偽りのない本音だった。理不尽を振りまく側に身を置きながらも、本当は誰よりも理不尽を嫌っていた。

 

 今回は運が良いのか悪いのか、“彼”は己の不始末を片付ける機会を得た。“彼”1人でどうにかできればベストだったのだろうが、世の中はそんなに甘くない。

 僕と黎は双方納得していたが、“彼”と“ジョーカー”に関してはよく分からない。最も、終始ぶすくれていた“明智吾郎”の様子からして、一方的に押し切られたのだろう。

 

 

(……まあ、気持ちは分からなくもないけど)

 

 

 出所後、僕が“明智吾郎”と“ジョーカー”が何かを話し合っている現場に居合わせたことは一度もない。……と言うか、“明智吾郎”が一方的に“ジョーカー”を避けているように思う。

 

 おそらく『顔を会わせ辛い』のだろう。何せ、“ジョーカー”は“明智吾郎”亡き後、獅童の犯行を証言するために怪盗団リーダーとして出頭している。“ジョーカー”は世界を救った英雄(ヒーロー)なのに。

 本来なら褒め称えられるべき存在が、世間を騒がせた極悪人として少年院送りにされてしまった。もし“明智吾郎”が己の罪から逃げずに生きていたら、“ジョーカー”はそんな目に合わずに済んだのかもしれない。

 むしろ“明智吾郎”は『“自分”がそうなるべきだった』と思っている。今回こそはと贖おうともしたけれど、結局俺が黎に言い含められて痛み分けとなった。“彼”個人としては不本意極まりないのだろう。

 

 憤りを“ジョーカー”にぶつけるのは間違っていると理解しているが故に、八つ当たりは余計に自分が惨めになるが故に、これ以上“ジョーカー”に理不尽をぶつけたくない故に、“彼”は沈黙することを選んだのだ。本音でぶつかれば、余計に相手が傷つく/相手を傷つけてしまうと思っているから。

 ハッキリ言って面倒くさいことこの上ない。しかし、僕自身も残念なことに、“明智吾郎”の思考回路や感性に同調しやすいタイプである。だから嫌でも“彼”の気持ちを理解できてしまうのだ。それに引きずられかけて自殺一直線に突っ切りかけたこともあるから、同調しやすさに関しては折り紙付きである。

 

 けれども、と、僕は思うのだ。僕自身も人のことは言えないが、言いたいことがある。

 そっぽを向いたままの“明智吾郎”の背中に、僕は声をかけてみた。

 

 

(“お前”が惚れ込んだ“ジョーカー”は、そんなに心が狭い奴だったか?)

 

―― ! ――

 

 

 “明智吾郎”はびくりと肩を震わせた。

 

 

(“お前”の幸せを願って蝶を飛ばし続け、挙句の果てにはこんな世界まで創っちまったんだ。……そんな奴が、その程度のことで“お前”を見捨てる奴だと思うのか?)

 

 

 言っておくが、僕は黎のことを馬鹿にしている訳ではない。寧ろ、彼女の一途さや忍耐強さ、および慈母神度合いには毎度毎度救われてばかりだ。

 僕だって、“明智吾郎”のような思考回路に陥ったことは何度もある。その度に、黎が僕のSOS――僕自身にその気がなくとも――を察して声をかけてくれた。

 悔しいけれど、僕では到底黎に敵わない。そりゃあ、1回くらい男の甲斐性で甘やかしたり守ってあげたいとは思うけど、差が大きすぎるのだ。あまりにも。

 

 ……まあ、それで素直に甘えるタマであれば()()()()だった。

 “彼”は変な所でプライドが高く、高潔であろうとする。

 

 

―― ……嫌なんだ。こんな自分自身が ――

 

 

 “()()()()()()()()()()()()()()()()()()と、“明智吾郎”は苦しそうに呟いてため息をついた。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()とも。

 

 その点に関しては僕も同じだ。弱くて不甲斐ない僕を許して、いつでも支えてくれる人――それが有栖川黎だった。

 見捨てられてもおかしくないような行動をしたことだってあるし、結果を分かっていて行動した挙句に怯えたことだってある。

 得体の知れぬ不安に突き動かされ、自分でも頭を抱えたくなるような行動に走り、後悔したことだって1度や2度ではない。

 

 

「――『まともな人間になりたい』」

 

 

 気づいたら、その言葉は僕の口からぽろりと零れ落ちていた。僕の言葉は“明智吾郎”の心情を表すものとなったらしい。

 “彼”はハッとしたようにこちらを振り返ると、暫く躊躇った後に頷き返した。

 

 “明智吾郎”は人間の悪意を嫌という程知っている。自分の父親が、どうしようもないクズであることも知っている。真正面から悪意を受け続け、心はボロボロになった。――それでも、“明智吾郎”は生きていかなくてはならなかった。このクソみたいな世界が、己の居場所だったからだ。

 歪み切って斜に構えた表層と、人の温もりを求めてやまなかった深層。その板挟みになる中で“ジョーカー”と出会い、形はどうあれ執着し、救われた。課程でも結末でも、どこかで()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()と考えた瞬間があったのだろう。

 この世界における俺は――自分で言うのもなんだが――、“彼”が抱いた理想を正しい形で顕現したような存在だ。境遇や歪んだ大人たちの悪意に晒されたところまでは一致しているけれど、俺の場合は間一髪で空本兄弟を始めとした尊敬できる大人たちと出会えた。そうして何より、誰よりも先に“ジョーカー”と絆を結べた。

 

 同一人物故に本質は同じではあるが、過程の違いによって内面にも『それなりに』差が生じている。

 “明智吾郎”では到底叶えられない手段を選べたのが、俺というわけだ。

 

 人の愛し方を知っていて、人を大切にするにはどうすればいいのか知っていて、大事な人を傷つけてしまったらどう謝ればいいのかを知っていて、人でなければ人を救えないことを知っている。嘘や打算からではなく、賭け値なしの善意を正しく振るう方法を知っている。誰かを想い、誰かのために動く方法を知っている。

 俺にとっては当たり前のことだけれど、“明智吾郎”には難題以外の何物でもない。刻みつけられた歪みのせいか、どうしても斜に構えてしまう。人の善意を信じられなくて拒絶するくせに、その実、誰よりもそれを求めてやまない。支柱の壊れた天秤は、正しく推し量って比例させることができないままだ。

 

 俺のペルソナのアルカナであるLA・JUSTICE(正義)には『バランスを取る』という意味も含まれている。正義という概念に拘るという点でも、相反する感情や人間関係でバランスを取ろうとする在り方も、怖いくらいに重なっていた。

 

 

(多分、俺には一生無理だと思う。この歪みを抱えて、戦い続けなきゃいけないって考えるくらいだからな)

 

―― 痛いところを突くな ――

 

 

 俺の見解を聞いた“明智吾郎”は、誰が見ても納得するレベルの渋い顔をした。

 “彼”の理想形である俺ですらこうなら、“彼”にとってはもっとハードルが高いだろう。

 

 

(『それでもいい』と思ったのは、初めてだろ?)

 

 

 だけれども。

 

 

(永遠や不変なんて誰よりも信じられない性分のくせに『共に過ごす時間が永遠であって欲しい』と望んだのも、それを無条件に信じることが出来なくて苦しいと思ったのも、初めてなんだろ?)

 

 

 普通でなくとも普通で在りたいと願い、足掻いていた人の背中を知っている。

 足掻いていこうとしている奴のことを知っている。

 他者からの助けを必要とし、たとえその過程で無様な姿を曝しても、100点満点じゃなくても許されることを知っている。

 

 

(誰かを想うが故に思い悩むなんてこと、初めてだから戸惑ってるんだろ? こんな自分のせいで、“ジョーカー”に更なる負担を与えるようなことは嫌なんだろ?)

 

 

 人を信じることができなかった“明智吾郎”が、自ら進んで『誰かを信じたい』と願う相手を見出した――それがどれ程の奇跡なのかを知っていた。手にした奇跡を無意味にしないために、必死になって足掻いていることも知っていた。

 “明智吾郎”を縛り付ける鎖は最早存在しない。鉄格子は開け放たれ、“彼”は自由の身となった。運命を弄んだ相手――悪神ヤルダバオトの介入もなくなったのだ。目の前には、愛する人と生きる未来が広がっている。

 

 

(だから大丈夫。きっと大丈夫。誰かを想って遠回りすることは、決して悪いことじゃないんだからさ)

 

―― だといいがな ――

 

 

 皮肉気に笑った“明智吾郎”はそっぽを向いた。彼の耳はわずかに赤く染まっている。燻っていたような空気は消え去り、普段の調子が戻ってきたように思う。

 この様子なら、“ジョーカー”との蟠りも解消できそうだ。“2人”の関係に茶々を入れる必要はないことは、“彼”の様子からして分かっている。

 

 思えば、俺は“明智吾郎”に助けられてきた。“彼”がいなければ乗り越えられなかった分岐点は幾らでもある。感謝してもしきれない。

 本人も語らないだろうから問いかけていないのだが、俺はそんな恩人である“彼”に、何かを返すことができているだろうか。

 今回の一件で貸し借りなしになるとは到底思わないものの、少しでも“彼”の幸せを願えたらいい。それが“彼”の幸せに繋がってくれれば、尚いい。

 

 そんなことを考えながら、バレンタイン一色に彩られた東京の街を歩く。人々の楽しそうな笑い声がひっきりなしに響いてきた。

 

 世間は幸せ一色。“明智吾郎”には邪魔臭くて、けれども羨んでいた景色だ。

 獅童の箱舟――機関室を超えた先の景色は、彼にどう見えているのだろう?

 

 

(願わくば、愛することと愛されること、大事にすることと大事にされることが、“明智吾郎(かれ)”にとっての『当たり前』になりますように)

 

 

 嘗て俺は、有栖川黎や空本兄弟を始めとした大切な人たちから、多くの『当たり前』を教わった。今でも時折歪んだ分が顔を出すことがあるけれど、どうにか逸脱せずにやってこれた。

 

 あの機関室を超えるまで、“明智吾郎”は俺にとっての導き役だった。“彼”を正しく認知できるようになって、“彼”が俺の心の海に還って来た後は戦友となった。そうして今、“彼”は――本人に言うと騒ぎの元なので言わないが――路頭に迷いかかっている。

 ひねくれた方面ではない意味での『普通』や『当たり前』を、“明智吾郎”は信じ切れずにいる。それが祟って、“彼”は俺以上に空回りしているのだ。ならば、今度は俺が“彼”が迷わないようにするというのが筋ってものだろう。本人に言うと騒ぎの元なので言わないが。

 

 イルミネーションにはしゃぐ趣味のない僕()()は、足を止めることなく家路につく。

 第三者からのチョコレート攻撃を考えると鬱になるが、放課後のことを考えると帳消しになってしまうあたり、俺も単純らしい。

 厄介なチョコレートの山を処分する方法については“彼”の方が熟知していそうなので、ご教授願うことにしようか。

 

 

◇◇◇

 

 

「はー。……疲れたなー……」

 

 

 もうすぐ夕暮れ一歩手前の時間帯。チョコレートの返却に関する雑事は、思った以上に時間がかかってしまったようだ。

 

 僕が『女子および女性ファンから貰ったチョコレートをすべて返却した。しかも、チョコレートの返却には警察も関わっているらしい』という話題はあっという間に広がった。

 その結果、僕の好感度は一気に下がったらしい。性別と年代問わず、恨めし気な視線が集中砲火してくる。これから卒業までは遠巻きにされそうだが、不利益は少なかった。

 卒業式は3月の初旬。あと2~3週間過ぎてしまえば、煩い連中とは軒並み縁が切れることになるだろう。あまり褒められたことではないが、耐え忍ぶことは慣れている。

 

 

(今すぐ黎の顔が見たい。黎に会いたい。黎からチョコ貰いたい。黎と一緒に過ごしたい。黎、黎、黎、黎……)

 

―― いっそ清々しいなお前 ――

 

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()と“明智吾郎”が苦笑した。相変らず、“彼”は出頭する際のことが引っかかっているようだ。

 黎がいるであろうルブランへ迷うことなく向かおうとする僕を引き留めるようにして、“奴”はちょっかいを出してくる。

 

 

―― お前、このまま直でルブランへ行くつもりなのか? ――

 

(そうだけど?)

 

―― 手ぶらで? ――

 

 

 どこか不服そうな顔をした“明智吾郎”は、僕の至らなさを責めるが如く眉間に皺を寄せた。昨日、きちんと覚悟を決めたはずの“彼”だが、直前になって挫けそうになっているのだろう。僕がルブランへ到着してしまえば、“彼”は嫌でも“ジョーカー”と対峙することになる。その瞬間を先延ばしにしようとしているのだ。

 僕や黎、および“ジョーカー”から見れば――言葉は悪いのだが――、“彼”は1人で勝手に怒って勝手に拗ねているだけにしか見えない。けれど同時に、“彼”はその葛藤を『拗ねている』という言葉で片付けられたくないし、“ジョーカー”だってその言葉で表現したくないと思っているはずだ。

 葛藤も回り道も、すべてを無駄にしたくない――“明智吾郎”にとって、現在進行形で行われている『往生際の悪さ』もその一環なのだろう。僕も明智吾郎なので、“彼”の気持ちは痛い程よく分かる。しかし悲しいがな。そのために張っている意地が“ジョーカー”/黎に余計な負担をかけていることも事実だった。閑話休題。

 

 嫌なことを先送りにしようとしている“明智吾郎”だが、“彼”の提案にはもう1つの意味が込められていた。

 

 どこぞの国では、バレンタインデーに男性が女性へバラの花束を贈るという風習がある。所謂『フラワーバレンタイン』だ。

 折角のバレンタインデーだ。僕の方からも黎に何かを贈りたいと思うことは間違っていないはず。

 

 

(バラの花束だと、世話や処分が大変だよな。押し花も難しいって聞くし……そうなると、プリザーブドフラワーやボトルフラワーが妥当かな)

 

―― ……そうか。いいんじゃないか ――

 

(四軒茶屋に向かう前に、どこかで買っていこう)

 

 

 僕は敢えて“明智吾郎”の提案に乗った。追及や揶揄されないと思った“彼”は、あからさまに安堵の表情を浮かべる。完璧主義を張り倒すが、意外と分かりやすいタイプだ。

 

 昔の話だが、何かのお祝いで花束を彼女に贈ったことがある。僕からの花束を受け取った黎は『枯れて捨ててしまうのは嫌だ』と言って全部押し花にしていた。『吾郎からの贈り物はなるべく捨てずに大事にしたい』と言う彼女に、どうしようもなく泣きたくなったことを覚えている。

 捨てられたことの痛みをよく知る僕は、捨てることも捨てられることも嫌だった。存在し続ける限り、いつか何かを捨てなければならなくなる。嘗て獅童が僕、および僕を孕んだ母を『要らない』ものとして捨てたように、いずれ僕も『黎を捨てよう』と思う瞬間が来るのかもしれない。もしくは、その逆。

 “明智吾郎”ならば、その不安に苛まれた時点で人間関係に見切りをつけたであろう。僕も“彼”程徹底しているわけではないが、人間関係に見切りをつけるのには慣れている。後は少々の意地汚さだろうか。それを教えてくれたのは、僕の保護者である至さんと生き汚いペルソナ使いである足立だった。

 

 丁度そのタイミングを計っていたと言わんばかりに、僕のスマホがチカチカと光った。SNSに連絡を入れてきたのは航さんである。『今日は泊まって来る』という文面からして、英理子さんか麻希さんの誘いを受けて一緒に過ごすのだろうか?

 至さんがいなくなった後、航さんは麻希さんのカウンセリングを受けたり、英理子さんに誘われるような形で外へ出て気分転換をしていた。女性陣2名は下心満載だろうが、航さんは2人の言葉を真に受け、健全な友人関係を不動のものとしている。

 

 

(……まあ、どちらを選ぶかは本人が決めることだしなぁ)

 

 

 一応、僕は至さんの立場を引き継ぐような形で中立派に所属している。そのため、麻希さんおよび英理子さん一方に肩入れするような真似はしない。

 『どちらの味方でもない』という立場を明確にするため、至さんや僕はこの3すくみに関してはノータッチを貫いていた。2人はそれが気に喰わなかったようだ。

 僕は航さんが誰を選んだとしても、選んだ相手を受け入れるつもりでいる。今はもうここにいない至さんも同じ考えを持って、2人を静観していた。

 

 3すくみの決着がつくまで、もう少し時間がかかりそうだ。僕がひっそり苦笑したタイミングを狙っていたかのように、またSNSに連絡が入った。連絡主は有栖川黎。

 

 

黎:今、チョコレートケーキを配り終えた。これからルブランに帰るところ。吾郎は?

 

吾郎:今年貰ったチョコレート関係のものを贈り主に返却してきた。全部終わって、今ようやく解放されたところだよ。

 

黎:まさか、今年貰った分を全部返してきたの?

 

吾郎:うん。いつも大きい紙袋で数袋分貰うから、返却するのは大変だった。正直な話、黎からのチョコレートが貰えればそれだけで充分なんだ。

 

黎:嬉しいことを言ってくれるね。その期待に応えられるような品物か……。正直自信がないな。

 

吾郎:そんなことはないよ。毎年貰ってるけど、凄く美味しい。今年も楽しみにしてるから。

 

黎:ありがとう。それじゃあ、ルブランで会おうね。待ってるから。

 

吾郎:分かった。今から向かうよ。

 

 

 黎とのSNSを終えた僕は、今までの疲れが吹き飛んでいた。対数秒前まで鉛のように重かった両足が、今この瞬間には軽やかに動く。

 

 四軒茶屋に行く前に繁華街に降り立った僕は、百貨店でプリザーブドフラワーを購入した。花は大きめのワイングラスを模したようなケースに入っている。

 色は赤一色で、カスミソウやバラの葉が、バラの花を引き立てていた。グラスの持ち手部分には、猫と鳥のガラス細工が添えられている。

 大きさも棚やテーブルを占領する程のものではないから、黎の邪魔になることはないだろう。喜んで受け取ってくれたらいいなと思いながら、四軒茶屋へ向かった。

 

 電車に揺れる時間がもどかしくもあり、同時にそれは僕にとっての楽しみでもある。公共機関内ということで抑えてはいるものの、いかにも『生きてて楽しいです』と言わんばかりの顔をしている自覚はあった。そんな僕の顔を見た“明智吾郎”は小さく鼻を鳴らし、何かを待ちぼうけるようにして窓の外を眺めていた。

 茜色に燃えていた黄昏の空は、次第に藍色へと滲んでいく。冬は日が暮れるのが早い。2月半ばと言えど、油断すればあっという間に夜闇に覆われてしまう。地上を覆いつくす人工的な光に照らされたとして、夜の街は未成年が出歩くには物騒な場所であることには変わらなかった。一歩間違えれば、闇に飲まれて二度と帰ってこれなくなる。

 

 眩い光の中で、多くの人に知られることなく、闇は大きな口を開けて人を飲み込まんと待ち構えていた。光の眩さと闇の深さは比例する。曖昧な境界線の上を、人間たちは絶妙なバランスで歩いて行くのだ。

 何も知らずに転げ落ちていくこともあるのだろう。相手にはその気がなくても突き落とされることがあれば、そうとは知らずに転げ落ちる寸前になって誰かに手を取られることもある。

 

 世間は考える以上に厳しいが、思ったよりは優しい。案内はないが、標はある。迷い歩くことになることは確実だが、ちゃんと辿り着くことができると知っている。僕の考えた通り、程なくして、純喫茶ルブランの灯りが見えてきた。

 

 

「……よし」

 

 

 すうはあと深呼吸。僕の行動に呼応するように、“明智吾郎”も身構える。“彼”が覚悟を決めた姿を確認した僕は、ルブランの扉に手をかけた。

 店内の様子を確認する。今日は閑古鳥が鳴いていた。黎は佐倉さんと談笑しながら皿洗いの真っ最中である。2人とも楽しそうだ。

 

 

「こんばんわ」

 

「吾郎」

 

「お。やっと待ち人の登場か」

 

 

 僕が店内に入った途端、黎は顔を上げてぱっと明るい笑みを浮かべた。佐倉さんは茶化すように笑った後、手早く後片付けを終える。

 

 

「それじゃあ、店は閉めとくからな。後は2人でゆっくり過ごせ。……但し、節度はきちんと守れよ?」

 

 

 正直、最早節度も何もないので、僕らは黙って佐倉さんの背中を見送った。幸運だったのは、僕らの沈黙から沈黙の意味を佐倉さんが“正しく”看破できなかったことだろう。娘のように見守ってきた少女が巣立ってゆく姿を見て、彼は義理の娘に待ち受ける未来を思い描いていたらしい。佐倉さんの背中は酷く哀愁が漂っているように感じた。

 佐倉さんが扉を開けたのとほぼ同時に、モルガナが弾丸の如く飛び出していく。ほんの一瞬見えた黒猫の目は虚ろで、酷く疲れ切っていた。彼は野良猫ライフを送るのか、双葉にもみくちゃにされるのか、春にVIP待遇で迎えてもらうのか。その予定を知る術はなく、僕たちは想像する以外に手はなかった。

 

 出所してからもう2週間になる。顔を会わせる日もあれば、スマホでのやりとりのみで留まる日もあった。でも、出頭したときに失われてしまったと思った日常生活は、少しづつではあるが戻ってきたように思う。

 怪盗団と探偵という二足の草鞋を履いて駆け抜けた日々と比べれば、現在は完全に落ち着いている。怪盗団は解散し、探偵王子の弟子はすっぱりメディアから足を洗った。僕はどこにでもいる普通の学生となったのだ。

 もう、放課後に集まって怪盗家業の為の話し合いをすることもない。テレビの打ち合わせで呼びだされることもなくなった。特に後者の変化のおかげで、僕は黎や他のみんなと一緒に遊ぶ時間を確保することが容易になった。

 

 最近はみんなと一緒に卒業旅行や怪盗団解散旅行等の予定を立てている最中である。閑話休題。

 

 

「コーヒーでいい?」

 

「うん。それを飲んでから、ゆっくり話をしようか」

 

「わかった」

 

 

 僕の注文を受けた黎は微笑み、慣れた様子で豆を選ぶ。コーヒーを挽く手つきも、サイフォンの扱いも手慣れたものだ。4月半ばで黎が東京にやって来たとき、1年後の彼女が自力でコーヒーを挽いて淹れるようになるとは思わなかった。今となっては、「コーヒーの香りといえば有栖川黎」と連想できるようになっている。

 それは“明智吾郎”も同じらしい。“彼”はどことなくソワソワし始めた。落ち着きのなくなった“彼”にひっそりエールを送り、その背中を押す。“明智吾郎”は間抜けな悲鳴を上げて、無様に倒れこんだ。丁度その先には、当たり前のように“ジョーカー”がいる。ひと昔に流行ったハレンチ漫画のテンプレみたいな光景が広がった。

 “明智吾郎”は享年18歳。性格を分析するに、思春期真っただ中と言っても間違いではない。そんな18歳が、惚れた女の胸に顔を押し付ける――それ以上は何も言わないのが親切というものだろう。阿鼻叫喚の“彼”に対し、僕は敢えて耳を塞いで黎に向き直った。丁度そのタイミングで、黎もコーヒーを淹れ終えたらしい。湯気が漂うカップを差し出された。

 

 

「――うん、おいしい」

 

「えへへ、ありがとう」

 

 

 黎の淹れてくれたコーヒーは、いつ飲んでも美味しい。僕の賛辞を聞いた途端、黎はふわりと微笑み返した。

 照れたように微笑む黎は、そのまま僕と向かい合う。暫し談笑した後、黎は表情を引き締めて箱を差し出す。

 

 

「これ。勿論、本命チョコだから」

 

「知ってる。ありがとう」

 

 

 シックなモノトーンカラーで装飾された箱を開ければ、黎の作った本命チョコ――僕へのバレンタインチョコレートがお目見えした。コーヒー豆にチョコレートをコーティングしたバレンタインチョコは、ルブランでコーヒーの修業をした黎らしいチョイスである。

 

 東京に来て、ルブランでコーヒーのことを学ばなければ、この選択をすることはなかっただろう――なんて、そんなことを考えた。“明智吾郎”の場合はどうだったのかと訊ねてみたい衝動に駆られたものの、12月を生き残れた経験が皆無では話にならない。チョコを貰ったとしても不特定多数からだし、すべて燃えるゴミとして捨てられていただろうから。

 黎は無言のまま、僕の動きを見守っている。僕も僅かな緊張を弄びながら、コーヒー豆のチョコを口に運んだ。コーヒー豆の苦みや酸味、チョコレートの甘みが絶妙に合わさっている。キャラメリゼで香ばしさも付加したらしく、味により一層の深みがあった。感嘆の息を漏らした僕の様子を確認し、黎は安堵の表情を浮かべた。

 

 

「そっか、よかった。頑張って作った甲斐があったよ」

 

 

 彼女の笑顔を見た途端、僕の語彙力が壊滅した。可愛い以外の語彙が出てこなくなったのだ。マリンカリンやテンタラフーを使われたわけではないのに。

 嬉しくて、幸せで、僕はバレンタインチョコをペロリと平らげてしまった。「ごちそうさまでした」と手を合わせれば、「お粗末様でした」と黎が微笑む。

 そのとき僕は、どうしてか唐突に、黎が『義理チョコはまとめてチョコレートケーキにしてお世話になった人たちに配った』と言っていたことを思い出した。

 

 ルブランに移動する途中で、僕のSNSにはいくつかの連絡が届いていた。怪盗団の男性陣と三島が『黎から義理チョコ(チョコレートケーキ)を貰った。美味しかった』(要約)というメッセージが入っていたように思う。黎のことだから、恐らく他の『お世話になった人たち』――佐倉さんを始めとした協力者にも配ったに違いない。

 本命チョコを貰ったのは僕だけなのに、義理チョコを貰った彼等に対して『羨ましい』と思ってしまうのは何故だろうか。他人が黎から料理を振る舞われることに対してモヤモヤするとか、嫉妬にしては醜すぎる。自分の心が想定以上に狭かったことに驚いた僕だが、そんな姿は見せられない。ひっそり咳払いし、内心かぶりを振った。

 

 こういうときに突っ込みを入れてくれるであろう相手の存在を探せば、“明智吾郎”が頭から湯気を出して蹲っているのが見えた。“ジョーカー”は静かに微笑み、“彼”に寄り添っている。……成程、どのみち僕は無様を極めてしまったようだった。ちょっと悲しい。

 

 

「……吾郎、今年は貰ったチョコを全部返却してきたんだよね?」

 

「ああ、うん。大変なことになるとは覚悟してたけど、予想以上の重労働だった」

 

「ふーん……」

 

 

 僕の返事を聞いた黎は、安心したように息を吐いた。自分で訊ねた癖に、自分の質問に対して後ろめたさを感じたらしい。申し訳なさそうに目を逸らした。

 よく見れば、彼女の耳は真っ赤である。相手が好きなのも、相手が渡した/受け取ったものに対して嫉妬を覚えるのも、僕たちは共通しているらしい。

 

 

「ああそうだ。僕の方からも、黎にプレゼントがあるんだ」

 

 

 居たたまれなさそうに目を伏せた黎をそのままにしておくわけにはいかず、僕は咄嗟に箱を手渡す。ここに来る前に購入した彼女へのプレゼント――プリザーブドフラワーの小物。

 中身を知らない黎は一瞬驚いたように目を見張り、おずおずと装飾を解いていく。程なくして、掌サイズのバラの花束がワイングラスを模したケースに入った置物が姿を現した。

 「海外では、男性が女性にバラの花を贈るって聞いたから」と補足すれば、黎は贈り物に込められた意味を理解したようだ。頬を淡く染めて「ありがとう」と微笑む。

 

 僕のプレゼントは喜んでもらえたようで、黎は目を輝かせながらプリザーブドフラワーを見つめていた。ありとあらゆる角度から置物を眺める姿は、指輪を手渡したときのことを思い起こさせる。

 

 揃いの指輪は未だ健在。普段は不揃いの指輪と一緒にチェーンを通して首に付けているが、普段着を着て過ごすときに薬指に付けるようにしている。

 高校を卒業して自由な服装が許される環境に置かれれば、僕たちは堂々と薬指に指輪を付けるつもりだ。周囲が何を言おうとも、その考えは揺らがない。

 

 

「ねえ吾郎。隣、座っていいかな?」

 

「構わないよ」

 

 

 「むしろ座ってくれたら嬉しいんだけど」と付け加えれば、黎は照れたようにはにかんで頷き返した。そのまま席を立ち、僕の隣に腰かける。

 

 当たり前のように手を重ね、当たり前のように互いの重みを預け合う。昔は手を繋いだだけでも一杯一杯だというのに――それだけでも充分満たされてはいるのに――、今はもっと欲しいとさえ思ってしまう。

 僕と黎が初めて一線を越えたのは11月――獅童およびヤルダバオトが仕掛けた罠を乗り越えようとしていた頃だった。それ以前は触れ合うことに対しておっかなびっくり気味だったのに、今では簡単に触れ合えるようになった。

 幸せなのは変わらない。けど、一度その味を知ってしまうと、分かっていて手を伸ばさずにいる理由を失ってしまう。壊したくないという願いすら忘れ、概算度外視してでも求めてしまうのだ。難しいことに。

 

 

「…………」

 

「…………」

 

 

 ――実際、今この瞬間でも、燻る熱を持て余している訳で。

 

 このままコトに及んでしまえたら幸せだろうなと思案している己がいることに気づいている。

 相手も自分と同じ気持ちで、同じ熱を持て余していることにも気づいている。

 

 僅かに零した呼吸にすら、持て余し続けた熱の余韻が滲んでいる――それが余計に、興奮してしまう。

 

 

「……2階、行こうか?」

 

 

 おずおずとした調子で尋ねてきた黎の言葉に、僕は間髪入れず頷き返した。

 

 

◇◇◇

 

 

『――――! ――――!!』

 

『――――』

 

『――――! ――――! ――――!!』

 

 

 水底から、誰かと誰かが何かを話し合う声が聞こえてきた。と言っても、『男の方が一方的にがなり立てている』のが正しい表現だろう。

 黒い甲冑のような仮面をつけた青年は、目を真っ赤にはらしながら怒りをぶつける。対して、ドミノマスクを付けた少女は穏やかな表情を保ったままだ。

 機雷が連鎖爆発するような調子で怒鳴っていた青年の声は、段々と尻すぼみになっていく。程なくして、青年の勢いは完全に失われた。

 

 怒りをぶちまけていたはずの形相は、後悔と恐怖に塗れている。何かを言わんと唇を戦慄かせるも、青年の口からは頼りない吐息が漏れるだけだ。終いには目も合わせられなくなったのだろう。小さくかぶりを振って視線を逸らす。

 

 

『お前が救ったのは、救おうとしたのは、こんな“しょうもないクズ野郎”だ』

 

 

 『俺のような人間は、他者に救われる価値などなかった』と青年は言う。

 『そもそも俺は、誰かに救ってほしいと頼んだ覚えはない』と青年は言う。

 

 歪んだ弧を描く口元。恨みの側面を司る青年が嘲笑っているのは、己を助けた少女だ。でもそれ以上に嘲笑っているのは、少女に対してまともな返答をしてやれない己自身。

 口では少女を容赦なく罵倒しているくせに、内心では拒絶されることに怯えている。拒絶されても仕方がないと分かっているくせに、彼女を詰るのを止められない。

 少女がこのまま自分を見限ってしまえばいい/見限ってくれればいいのにと思いながらも、いざそうなったら自分が生きていけないことを知っている。

 

 ――だから思うのだ。どうして自分は生きているのだろうかと。生きていてよかったのかと。

 

 11月下旬、あるいは12月半ばの機関室。そこから先へはいけないと知りながらも、いきたいと願って足掻いたのは何のためか。

 少なくとも、こんなことをするためではなかった。今までと同じことを繰り返すつもりはなかった。

 

 ――そうやって自己嫌悪するなら、最初から大人しく、あの場所で朽ちていればよかったのだ。

 

 

『幻滅しただろう? いい加減、こんな奴なんて見捨てちまえ。……そうしたら、俺も全部諦めるから』

 

 

 言葉は鋭く刺々しいのに、そう発した青年の表情は今にも泣き出してしまいそうだった。

 

 諦めて見切りをつけて生きてきた青年が、初めて諦めたくないと思った相手――それが、目の前にいる少女だった。ろくでもない形で執着し、その結果、彼女の一番に選ばれた青年だが、それが如何程の奇跡なのかを自覚していた。同時に、『永遠なんて存在しない』ことは青年の人生上、骨身に染みている。

 いつか、その奇跡が終焉を迎える日が来るのだろう。自分が彼女に見限られるか、自分が彼女を捨てるのか。それが怖いなら、傷つく前に手放せばいい。諦めて見切りをつけるなんて行為、人生で何度も繰り返してきた。――でも、でも、だって。普段なら簡単に踏ん切りをつけられるのに、それができない。

 

 少女は黙って青年を見つめている。灰銀の双瞼は逸らされることなく、じっとこちらを映し出していた。

 彼女はどうするのだろう。詰るのか、幻滅するのか。何であっても、ロクな結末にならないだろう。

 少女が青年を切り捨てるなら、それでもいい。上手く笑って、何事もなく振る舞えばいいのだから。

 

 

『――残念』

 

 

 少女は笑う。鮮やかに、艶やかに。

 青年は思わず息を飲んだ。

 

 

『私はそんな、どうしようもない貴方だから好きなのに』

 

 

 虚をつくような返答だった。あまりにもあんまりな言葉に、青年の脳内が完全にフリーズする。

 

 一歩遅れてすべてを理解した青年は噴き出した。嘲るような声色で笑っているが、その表情は年相応だった。

 あまりの嬉しさで、泣きたいのか笑いたいのか判別つかない。ごちゃごちゃになっている。

 

 

『――ばーか』

 

 

 口を突いて出たのは悪態だが、その声色はどこまでも優しい。深い感謝と愛情に満ち溢れたものだ。そんな彼の気持ちを汲んだのか、少女は微笑んで青年へと手を伸ばす。青年はそのまま少女をぎゅうぎゅうに抱きしめる。青年の背中に少女は躊躇うことなく手を回した。

 青年も歪んでいるが、彼を許容する少女も正常とは言い難い。けれど、彼等がここに辿り着くまで長い時間がかかった――彼らの邪魔をしてきた存在がいたことも事実だ。『神』に打ち勝とうと足掻いた怪盗と、流されるままだった自分自身と向き合い未来を得るため戦った青年。長い旅路に辿り着いた、安息と結末。

 もう二度と、『神』の気まぐれや悪意によって、この光景が害されることはないのだ。時々こうやって迷走することもあるだろう。こうやって傷つけあうこともあるのだろう。だが、それでも2人は離れない。理不尽によって引き裂かれて千切られた分だけ、結びつきも強固になった。

 

 ――不意に、世界に靄がかかる。

 

 身近にあった繋がりが途切れるような感覚。刹那、共鳴していた思考回路が遮断される。次の瞬間、自分は青年の意識および感情から切り離されていた。

 「あ」と声を漏らすよりも先に、無理矢理背中を引っ張られた。幸せそうな笑みを浮かべて触れ合う2人の姿がどんどん遠くなっていく。

 

 

 

 

 

 

「――ッ!?」

 

 

 一気に意識が覚醒する。真正面には、僕を見つめる愛おしい人。

 

 

「ああ、ごめん。起こした?」

 

「いや、自分で起きた」

 

「そっか」

 

 

 黎はふわりと微笑む。開き直ったように目元を緩ませ、彼女は僕の頬や髪に触れて弄び始めた。若干のくすぐったさを感じて、僕は思わず苦笑する。

 彼女の様子から、僕より先に意識を取り戻していたことは明白だ。妙に機嫌が良さそうな様子からして、僕の寝顔でも観察していたのだろう。

 

 

「俺の寝顔なんか見たって、面白くも何ともないのに」

 

「いいや、飽きずに何時間だって見ていられるよ。吾郎だって私の寝顔を飽きずにずっと見ているんだから、御相子ってことで」

 

 

 そう言って俺の頬に触れる黎を見ていると、なんだか甘酸っぱい気持ちになる。彼女の言っていることは何も間違いではないから、僕は何も言わず身を任せていた。

 ルブランの屋根裏部屋はまだ薄暗い。窓の遠くにぽつんと灯った光だけが、今がまだ深夜の時間帯であることを告げていた。時計を見れば、現在時刻は午前4時を指している。

 始発までまだ早いが、このまま寝てしまえば寝過ごしてしまいそうだ。2月15日は平日であり、学校だって登校日である。僕の場合、出席日数的な意味で欠席は許されない。

 

 暫し僕の頬に触ったり髪の毛を弄んでいた黎だが、目覚めた時間が時間だったことや、数刻前の情事の疲れが響いてきたらしい。うとうとと微睡み始める。

 

 

「……ん……ちょっと、眠い……」

 

「無理しなくていいよ。本当はまだ寝てていい時間なんだから」

 

「でも、吾郎の見送り……」

 

「ありがとう。気持ちは嬉しいけど、俺は大丈夫。ゆっくり休んで」

 

 

 僕は黎をあやすようにして、頭や背中を優しく撫でる。規則正しい呼吸が聞こえてきた頃、黎は再び眠っていた。できることなら、少し幼い無防備な寝顔を見守っていたい。それが叶わないことは重々承知しているから、俺はひっそりと苦笑した。

 暫し黎の寝顔を堪能した後、僕は布団から起き上がった。手早く身支度を済ませた後、黎への置手紙を書く。『散々無理させた挙句、こんな書置きを残していなくなってごめん。始発電車で帰るから、ルブランを出ます。最高のバレンタインをありがとう』――我ながら酷い文章だ。

 

 あと数時間して黎が起きる頃になったら、改めてバレンタインのお礼を言わなければなるまい。脳裏に浮かぶ獅童の背中を追い払いながら、僕は立ち上がった。

 母を弄んだ男は、こういうとき、どんな態度をしたのだろう。僕は奴と同じ轍を踏んでいないだろうか。考えても仕方がないとは分かっているが、少しだけ気になる。

 少なくとも、『避妊具なしで好き放題に相手を抱いて、抱き潰したまま放置して去っていく』ような真似はしない。これからも、そんなことはしないと決めていた。

 

 

「ありがとう、黎」

 

 

 すうすうと安らかな寝息を立てる少女の瞼にキスを落とし、僕は立ち上がる。名残惜しいのは山々だが、そろそろルブランを出ないと始発電車に間に合わなくなる可能性があった。

 

 後ろ髪をひかれるような思いとはこういうことを指すのだろう。僕はひっそり苦笑し、2階の階段を降りてルブランから立ち去った。僕が外に出たのと、外泊から帰ってきたモルガナが「げ」と表情をしかめたのはほぼ同時である。彼は僕と入れ違いにルブランに入ったが、階段の近くにひっそりと隠れていた。

 11月のときはそのまま2階に直行して『ニ゛ャ゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛!!』と大絶叫していたことを思い返すと、モルガナも色々と学習したらしい。情事後の黎は色気が凄かったから――なんて考えかけた自分を叱咤し、僕はルブランに背を向けて家路についた。

 

 




リアルが忙しくてなかなか更新できずにいました。今回は“明智吾郎”が蝶を飛ばすに至った『はじまり』と、魔改造明智と黎のバレンタインイベント。甘々を目指してから回った感が否めません。互いに対して一途なCPが好きです。
P5本編における効果に当てはめると、『黎の本命チョコ』は魔改造明智しか使えない専用アイテムで、戦闘中にSPを一定量回復してくれそう。対して、『魔改造明智のプリザーブドフラワー』は黎専用限定アイテムになりそうです。後者の効果は考えてないですね。
3学期編はこのお話で終了。次回はエピローグの章になります。うまく纏まれば1話、そうでない場合は2話構成になる予定。魔改造明智の旅路もついに終幕となります。ここまで見守って頂き感無量ですが、もう少しだけおつき合い頂ければ幸いです。


蛇足:今回のお話、タイトルは『(かさね)の果て、願わくば』と読みます。

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