・各シリーズの圧倒的なネタバレ注意。最低でも5のネタバレを把握していないと意味不明になる。次鋒で2罪罰と初代。
・ペルソナオールスターズ。メインは5、設定上の贔屓は初代&2罪罰、書き手の好みはP3P。年代考察はふわっふわのざっくばらん。
・ざっくばらんなダイジェスト形式。
・オリキャラも登場する。設定上、メアリー・スーを連想させるような立ち位置にあるため注意。
名前:
・歴代キャラクターの救済および魔改造あり。
・一部のキャラクターの扱いが可哀想なことになっている。特に、『普遍的無意識の権化』一同や『悪神』の扱いがどん底なので注意されたし。
・アンチやヘイトの趣旨はないものの、人によってはそれを彷彿とさせる表現になる可能性あり。他にも、胸糞悪い表現があるので注意してほしい。
・ハーメルンに掲載している『運命を切り開くだけの簡単なお仕事』および『ペルソナ3異聞録-.future-』、Pixivの『2周目明智吾郎の災難』および『【一発ネタ】有栖川黎の幼馴染』の設定を下地にし、別方向へ発展させた作品である。
・ジョーカーのみ先天性TS。名前は作中で明記。
・歴代主人公の名前と設定は以下の通り。達哉以外全員が親戚関係。
ピアス:
罪:周防 達哉⇒珠閒瑠所の刑事。克哉とコンビを組んで活動中。ペルソナ、悪魔、シャドウ関連の事件の調査と処理を行う。舞耶の夫。
罰:周防 舞耶⇒10代後半~20代後半の若者向け雑誌社に勤める雑誌記者。本業の傍ら、ペルソナ、悪魔、シャドウ関連の事件を追うことも。旧姓:天野舞耶。
ハム子:
番長:
物陰に隠れながら機を伺う。運が良いのか悪いのか、跋扈する影は僕たちに興味がない様子だった。奴らの視界にさえ入らず、脱出経路さえ見つけられれば容易に出られるだろう。
「まるで潜入捜査みたいだ」
身を潜めていた黎がぽつりと零した。僕は思わず彼女を見る。――こんな状況だと言うのに、彼女の唇はゆるりと弧を描いていた。その姿に、場違いにも胸が高鳴った。
不敵に、大胆に、鮮やかに、黎は身を隠す。時には異形の背後を疾風の如く駆け抜け、物陰へと潜んだ。そんな黎の背中に
唐突な話だが、黎は黒系の服を好む。今だって、彼女は黒のトレンチコート風ワンピースを身に纏っていた。それが翻る度に、僕の脳裏に何かがフラッシュバックするのだ。
彼女のそれは潜入捜査というには密やかで、けれども酷く大胆不敵だった。黎の立ち振る舞いを見ていると、もっと違う表現が――今の黎を正しく言い表すに相応しい表現があるように感じるのだ。例えば――
僕がそんなことを考えた途端、頭を殴られたような衝撃に見舞われる。実際に殴られたわけではないが、その衝撃は僕の中にある既視感を強く揺さぶった。白と黒を基調にした道化師の仮面が、黎の目元に重なったように見えたのは何故だろう。
「吾郎、あれ」
「……もしかしたら、出口か?」
黎が指さした先には、光が差し込める入り口があった。心なしか、向こう側からかすかな喧騒が聞こえる。悪魔やシャドウのような異形の囁き声ではなく、人間の気配だ。僕の予想が正しければ、そこはこの迷宮の出入り口なのだろう。
こんな場所に居続けるつもりはない。幸い敵の気配はなさそうだ。善は急げと踏み出そうとした僕は、目の前に現れた人影を見て、すぐにその判断を翻して身を潜めることになった。心臓がばくばくと音を立てる。本能的に感じたのは、得体の知れぬ恐怖。
なんなんだ、アレは。僕は心の中で悲鳴に近い悪態をつきながら、物陰から奴の様子を伺う。――異形が跋扈する世界に佇んで、周囲を見回しているそいつは、どこぞの悪神(具体例:ニャルラトホテプ)を連想させるような気配を漂わせていた。ベクトルは別だが。
逆光のせいか、顔は一切伺えない。着ている服は僕と同じ進学校の制服だ。もう少し特徴が分かれば、後でそいつの正体を調べられるのではないか――僕がそう考えたときだった。
奴は迷うことなくどこかへ歩き出す。だが、すぐに足を止めた。銃に弾丸が込められる音が無機質に響いた。
嫌な予感を察知した俺は、思わず息を押し殺した。奴の眼前には人影が見える。上質なスーツを着た、年配の男性だった。
「や、やめてくれ! こ、殺さないで!!」
「……お前は、用済みだってよ。獅童さまからの伝言だ。――『死ね』」
耳をつんざくような炸裂音。1回、2回、3回、4回――計8回、それらは迷宮中に響き渡った。男性は3発目の時点でもう地面に倒れ伏していたのに、奴は容赦のよの字もない。空薬きょうが地面に転がった音を最後に、撃たれた男性の姿は溶けるように消え去っていた。
銃を撃ったのは俺じゃない。
迷走しかけていた僕の思考回路は、隣にいた黎によって引きもどされた。「……なんて、酷い……!」と零した黎の顔は真っ青で、彼女は口元を抑えて戦慄いている。
(くそっ……! 殺されてたまるかよ!)
息を殺して、殺人犯が去っていくのを待つ。犯人の足音は段々と遠ざかっていき、ついに聞こえなくなった。僕は身を乗り出して周囲を確認する。もう、誰も居なかった。
その事実に胸を撫でおろし、僕は黎を見た。黎も同じようにして様子を確認していたようで、ほっと小さく息をつく。微かに震えが残る彼女の手を取れば、黎は小さく頷き返した。
光射す道を進めば、どこからか声がした。『案内を終了します。お疲れさまでした』――出所は僕のスマホだった。雑踏が戻って来る。けれど、真っ青な昼下がりの空だけは戻ってこなかった。空は茜色に染まり、地上の星――人工灯が瞬き始めている。
ふざけるなと思った。こんなの、お疲れさまどころの話ではない。2人でゆっくり遊び回る予定は台無しだし、黎にとっては散々だったであろう。残されたのは、過ぎ去ってしまった時間と悪夢のような出来事の記憶だけだ。本当になんなんだ。
「黎」
「……うん、大丈夫。吾郎がいるから平気」
ふわりと黎が笑った。顔色はまだ悪いままだったが、
「ごめん。僕があの迷惑メールを開いたせいで……」
「吾郎は悪くないよ。……それにしても、さっきのは――」
『――緊急ニュースをお伝えします。つい先程、都議会議員の〇〇◇◇さんが事務所のベランダから飛び降り、死亡しました。警察は自殺とみて捜査を――』
黎の言葉は、街頭のテレビジョンから響いてきたキャスターの声によってかき消された。大画面に映し出されたのは、有力な都議会議員の死を告げるものである。被害者の顔が映し出された瞬間、僕は凄まじい悪寒を感じた。
同じだったのだ。先程、謎の迷宮で、僕と同じ進学校の制服を身に纏った人物によって殺された、年配の男性。
これは僕の罪だ。これは僕への罰だ。漠然とした感覚だけれど、それは鋭利な刃物のように突きつけられる。
先程開いた迷惑メール――その文面に込められた意味を、僕はようやっと理解した。せざるを得なかったのだ。
『……お前は、用済みだってよ。獅童さまからの伝言だ。――『死ね』』
犯人の発言が、勝手に脳内で再生される。獅童という名が、何度もリフレインされた。僕の頭が鈍い音を立てて回り始める。
獅童、獅童正義――俺の、本当の父親。犯人は獅童をさま付けしていた。獅童の伝言内容は『死ね』。そうして、犯人は、異形が跋扈するあの世界で、人を殺した。結果、現実世界でもその人物が死んでしまった。ベランダから飛び降りて自殺という形でだ。
あの世界と現実世界には、何か大きな関わりがある。しかも、獅童はその関係性を知っており、子飼いにしている部下に殺人を命じていた。後が残らぬ完璧な殺人、完璧な隠蔽――八十稲羽の連続殺人や巌戸台の復讐サイトのことが脳裏によぎった。
前者はテレビの中で死ねば現実世界に死体が残るパターン、後者は“存在しない時間”に行われた殺人故に証拠が残らないパターンだ。どちらもその事実について知識を有していなければ使えない方法である。最も、後者は影時間の消滅によって犯行は不可能になったが。
「吾郎」
「っ……!? あ、ごめん。ぼうっとして――」
「――吾郎は、1人じゃないよ」
黎は、僕を真っ直ぐに見つめた。黒曜石を思わせる美しい双瞼が僕を捉える。僕の手を取って、彼女は力強く微笑んで見せた。
1人で走り出そうとしていた焦燥感が、恐ろしい程の脅迫概念が、彼女の言葉1つで解けていくから本当に不思議だ。
「……分かってる。俺は1人じゃない。黎や、みんながいてくれる」
「よし、ちゃんと思い出せたようで何より。吾郎は時々、そういう
「悪かった。悪かったってば」
咎めるような黎の言葉に、僕は苦笑した。彼女は時々、僕以上に僕のことを知っているような物言いをする。実際大当たりだから何も返せないのだ。本当に、黎には頭が上がらない。……彼女が傍にいてくれなかったら、僕はどうなっていたのだろう。考えるだけでゾッとする。
繋いだ手は温かくて、愛おしくて、なんだか泣きたくなってきた。黎と一緒にいると、完璧な自分でいられないのが困る。最も、彼女は「どんな吾郎も好きだ」と言い切るのだろうが。……多分、僕は黎以上に黎に詳しいのではないだろうか。それが誇らしいと感じるあたり、僕も末期だ。
安心したせいか、不意に、ムードをぶち壊しかねない音が聞こえた。出どころは僕と黎の腹である。そういえば、あの奇妙な迷宮を駆け回っていたときは飲まず食わずだった。時間経過の分も考慮すれば、「お腹がすく」のは当然であろう。僕と黎は顔を見合わせて苦笑した。
何をするにも、まずは腹ごしらえが大事である。
それが終わったら、知り合い全体に連絡を取らなくては。獅童正義が子飼いの部下を使って、完全犯罪を行っている――この事実を見過ごすことはできない。
最悪なことに、僕や黎はその目撃者だ。もし獅童に目を付けられてしまったら口封じされるだろう。社会的な抹殺だけで済むなら御の字。下手すれば、僕たちも完全犯罪の被害者になるかもしれないのだ。
奴が向ける矛先が僕ならともかく、もし黎に被害が向かったら――そんなこと、考えたくない。
(いくら天下の都議さまと言えど、好き勝手出来ると思うなよ……! ――俺は、絶対に、アンタに負けない)
宿命と言えば、きっと聞こえはいいだろう。悪事を働く獅童正義と、その血を継ぐ“望まれない子ども”である俺。
今日この日、あの世界に迷い込んでしまったその瞬間から、僕/俺――明智吾郎の運命は劇的に切り替わった。
生ぬるい日常は燃え尽きて、迫りくるのは人の悪意。それだけではない。『神』による作為も感じられた。
「……これだから、俺は『神』ってモンが大嫌いなんだよ」
誰にも聞かれないように零したぼやきは、賑やかな雑踏に飲み込まれて消えた。
◇◇◇
この日を境にして、僕の周囲は怒涛のように日々が過ぎていった。
獅童正義は都議会議員から、国会議員になっていた。
僕は獅童正義の情報を集めるため、パオフゥさんや直斗さんの下で探偵見習としてアルバイトをするようになった。同時に、南条コンツェルンと桐条グループの協力を受け、件のアプリについての調査も並行して行うことになった。僕には戦う力はないので、迷宮探索はペルソナ使い同伴だったけれど。
あの世界にいる黒い影は八十稲羽のシャドウに近い性質のようで、どいつもこいつも自分の中にある欲望をぶちまけていた。以後は奴らをシャドウと呼ぶことにしたが、能力的には御影町や珠閒瑠市で見かけた悪魔が近いかもしれない。双方の複合と言った方がいいだろう。
シャドウの中には、自分が犯した悪事を平然と自慢している奴も多かった。証拠がどこに置いてあるのか、悪事の計画に使う店や拠点なんかもペラペラ喋ってくれる。……もしや、と思った俺は、探偵組や警察組の協力を得て裏取り調査をしてみた。
『暴力団殺人事件、吾郎くんの情報通りだったよ。あの迷宮に出てくるシャドウから聞けば、もっと早く事件が解決したかもしれない』
『この前の浮気調査の件なんですけど、あの迷宮で得た情報通りでした。……僕の苦労って何だったんでしょうね』
『行方不明になっていた弁護士だが、奴を殺したと言っていたシャドウの証言通りの場所から遺体が見つかったぞ。証拠も出てきた』
……結果はビンゴ。どんぴしゃり。探偵組や警察組に対する罪悪感が鰻登りになるレベルであった。
だってそうだろう。探偵組も警察組も、地道な調査と経験から基づく推測を検証――主に自分の実力と仲間の協力を経て、それを何度も繰り返して犯人の元へと辿り着くのだ。僕の調査方法は、それらを一気にすっ飛ばして証拠を得ることになる。チートにも程があろう。
そこで僕は思いついた。この調子で事件を解決していけば、いずれは獅童正義に関係する人物とコネクションを得られるのではないか、と。ついでに、件の事件――都議会議員の自殺を皮切りにして、獅童の部下が関わったと思しき事件を調べることができるかもしれない、と。
『何よそれ。完璧に反則じゃない! しかもそれを利用しようなんて、結婚詐欺師と変わらないわ!』
『自作自演の名探偵、か……。碌な結末にならない予感がするぜ』
『なんだか複雑な気分になりますね。理不尽さを感じるのは、僕自身、叩き上げだったからでしょうか?』
『……直斗さんやパオフゥさん、うららさんには、非常に申し訳ないと思ってます……』
『後でただしとたまきにも謝りに行かないとな』
……提案したら、散々なことになった。うららさんが怒り、パオフゥさんがため息をつき、直斗さんが乾いた笑みを浮かべて天を仰ぐ。この場に居合わせていないけれど、夫婦で探偵業を営む里見夫妻も非難轟々だろう。きっと、警察関係者である周防刑事たちや真田さんも遠い目をしているに違いない。
真面目に探偵をやっている面々からの眼差しに、僕は針の筵になってしまった。確かに、彼らからしてみれば、この迷宮で得た情報を使って立ち回るのは「ずるい」だろう。けれどそれ以上に、大人たちが心配しているのは、「異世界に入って情報収集できる力を僕が有している」ということを獅童に気づかれることだ。
この力を使えば、獅童の懐に飛び込める可能性は上昇する。だが、相手側にも僕と似たような力を持ち、且つ、人殺しを厭わないキラーマシンじみた部下がいるのだ。しかもそいつは――僕と同じ進学校の制服を着ていたため――僕の身近に潜んでいると言っても過言ではない。僕など下位互換扱いされた挙句、奴らに殺されるのがオチだろう。
キラーマシン対策として僕にできることは、同じ学校の男子生徒を警戒することくらいだった。元から交友関係は上辺だけで、日常生活を円滑に回す程度しか築いていなかったけれど、今回はそれが功を制したらしい。正直言って、あまり嬉しくなかった。
『せめて、吾郎にも自衛手段があればいいんだが……』
『ペルソナさま遊びも、召喚機も効果なかったのに? ついでに、マヨナカテレビにも吾郎が出てきたことはなかったよな?』
『それなんだよなあ』
いつかの夕食の席で、空本兄弟が語っていた言葉を思い出す。その力があれば、件のキラーマシンと相対峙しても逃げおおせる可能性が――生き残れる可能性がぐんと上がる。だが、僕には空本兄弟や舞耶さん、命さんや真実さんのような戦う力――ペルソナ能力に目覚める気配は一切ない。
ペルソナさま遊びをしても、召喚機を使っても、マヨナカテレビで自分が映るまで粘ってみてもダメだった。まるで、「お前は役立たずなんだ」と言われているみたいで苦しかった。己の無力さに何度歯噛みしたことだろう。僕はどうしても、獅童と決着をつけねばならなかったのに。
……あの日は確か、航さんが認知訶学の研究者を自宅へ招いていたか。
『ペルソナ能力……もしかしたら、その力は、私の認知訶学研究を完成させる鍵になるかもしれない。もっと詳しく訊かせてくれないかしら!?』
一色若葉という女性は、目を爛々と輝かせながら航さんの話を聞きたがった。航さんもまんざらでもないらしく、聖エルミン学園での出来事を皮切りに、至さんの旅路から手にした研究データを見せては議論を続けていた。議論好きで突き詰めるのも好きな2人はとても気が合ったらしい。
彼女は航さん共々数日間家に居座って議論することもあった。その度、2人から『なんで朝日が差し込んでいるの?』やら『どうして外が真っ暗になってるの?』やら、終いには『どうして日付が進んでいるの?』なんて連絡が来ることもあったか。2人して話し込み過ぎである。
呆れる僕や至さんであったが、一色さんや航さんは研究のことだけを話し合っていた訳ではないらしい。被保護者である僕の話題から、いつの間にか『私の娘の方が可愛い』『いやいや、俺の弟分が可愛い』『いやいやいや(以下省略)』という議論に発展したのだという。
どちらの被保護者が可愛いかの議論をした結果、2人の議論時間は最長記録を更新した。
日付は3日進み、外は夕焼けになっていたという。……本当に何をしているんだろう。
……ある日僕は、一色さんに訊いてみたことがある。
『そんなに娘さんが大事なら、家に帰ってあげたらいいんじゃないんですか? この話を聞いたら、娘さんも喜ぶと思いますよ』
『……それは、無理ね。私は母親である以上に研究者だから……』
一色さんは悲しそうに笑うだけだった。その笑い方が、亡くなった母の笑みとよく似ていて――僕は、思わず、彼女に喰ってかかっていた。
『僕は、母に愛されてると思ってました。でも、彼女が最期に僕に残したのは、『僕はいらない子だった』という真実だった』
『――ッ!?』
『……今でも、僕は母が残していった真実が忘れられずにいます。その言葉に囚われて、時々周りが見えなくなってしまうくらいには』
『明智くん……』
『愛されなかった僕ですら、母の言葉は忘れられなかったんです。愛されていると信じていたかった。信じたままでいたかった。……娘さんを愛しているなら、ちゃんと伝えて欲しい。娘さんはきっと、あなたのこと待ってますよ』
僕の言葉を聞いた一色さんは何を思ったのか、僕にはわからない。ただ、吹っ切れたように彼女は笑って、『研究がひと段落したら、娘とゆっくり過ごす』と僕に誓ってくれた。
一色さんはシングルマザーで、女手一つで娘を育てていたらしい。研究者として仕事に従事しながらも、彼女は娘を愛していた。ただ、娘に直接示せなかっただけである。
大人にも様々なしがらみがあることは分かっていたけれど、やはり自身の口から“大好きだ”と伝えてやってほしいと思ったのは、俺がまだ“子ども”だからかもしれない。
……どうして大人は、“いつか分かってもらえる”と言って黙ってしまうのだろう。
子どもは直接的な言葉や態度を欲しているのに、大人はそれを惜しむのか。難しいものである。
件の話をパオフゥさんとうららさんに漏らしたら、2人は生温かい目で僕を見守っていた。まるで夫婦みたいだと言ったらうららさんが顔を真っ赤にして怒鳴り、パオフゥさんは僕に背を向けて肩をすくめていた。僕の目がおかしくなければ彼の耳が微妙に赤くなっていたように感じたが、何も言わないでおくことにした。閑話休題。
散々悩んだけれど、僕はあの迷宮を活用することにした。探偵組や警察組と連携を取りながら、獅童正義に関係する手がかりを集めつつ、細々と探偵業に励む日々。
あまり目立つことはしない――それが、至さんたちとの約束である。不満は山ほどあったけれど、信頼できる憧れの大人たちが心を砕いてくれているのだ。無碍にはできない。
それでも、僕がじれったさを感じていることに気づいていたのだろう。元珠閒瑠地検検事の嵯峨薫氏が、嘗ての司法修習生だった人物へのコネクションを示してくれた。条件付きで。
『彼女の手を借りる場合、今よりもっと危険な目に合う可能性が高まるぞ。それに、今のお前さんじゃあ『話にならん』と追い出されるに決まってる。彼女に興味を持たれるには、最低でも探偵王子サマレベルの名誉と実力を有するか、あるいはその若さのまま司法試験を突破するレベルがなきゃ難しいだろ』
『……それって、かなりの無茶なんじゃあ……』
『そんくらいの能力と覚悟がなきゃ紹介できないって言ってるんだよ。……奴さん、親父さんの死から人が変わったように冷徹になっちまった。手柄を挙げられず、周囲から見下されすぎて苛立ってるからな。コネを結ぶなら、最終手段一歩手前くらいの覚悟で挑めよ』
『ぐぬぬ……!』
最終手段一歩手前とは、そう易々と頼れないではないか。もう少し頼れる相手はいないのかと思ったが、嵯峨薫氏曰く、『獅童を追いかけている最前線にいる人物が彼女』らしい。
元々、件の検事――新島冴は、正義感溢れる女性だったという。現在は理知的な切れ者として有名ではあるが、裏の方では“なかなか強引な捜査をしている”と噂になっていた。獅童正義絡みの事件を追っているものの、どれもこれも歯がゆい結果に終わっているためであろう。
使えるものは使うというスタンスを取っているため、高校生だろうと容赦なく獅童の元へ投入される可能性がある。学生ということで深入りできないことを加味しても、リスクの方が高いと嵯峨薫氏は分析していた。……そこまで言った後、僕に背を向けた嵯峨薫氏の横顔が憂いに満ちていたことは忘れられない。
状況打破のために劇薬に手を出すべきか否か。空本兄弟に要相談だということで、この話は保留となった。……保護者の許可がなくとも、いずれ手を出す予感はあるが。
警察関係者は管轄外という言葉のため、なかなか獅童に関する情報が回ってこない。南条コンツェルンや桐条グループのような社交界の華ですら、獅童の喉元には迫れない。
そうこうしている間にも、獅童正義と対立候補にある連中や獅童と繋がっていたと思しき奴らが不審な死を迎えていく。焦げ付くような、じれったい日々が続いた。
――そうして、事態は動き出す。
***
『一色さんが、死んだ』
あくる日の夕暮れ時、憔悴しきった航さんが帰って来た。今にも死にそうな顔をしていた。
『一色さんは、俺と、娘さんの前で死んだ。車に撥ねられたんだ。……警察の連中は、自殺だって言ってた』
言葉とは裏腹に、航さんは警察の発表に納得している様子はない。紫苑の瞳はぎらついている。彼の手に握られていたスマートフォンがみしみしと音を立てた。
爆発する一歩手前で踏み止まっているのだろう。あと一押しすれば、彼は本格的に暴れ出すはずだ。そうなってほしくはないのだが、そうなりそうな気配を感じた。
『一色さん、車に撥ねられる前に、俺を見たんだよ。彼女の心が言ってた。『双葉を守って』って。――言い終わった次の瞬間、あの人の脳天に穴が開いて、そうしたら現実の一色さんがおかしくなって、そのまま車道に飛び出した』
『その手口は、まさか……!』
『吾郎が追いかけてる事件の犯人の手口と同じだ。おそらく黒幕は獅童正義だろう。……だが、警察は俺の話を聞いてはくれなかった。一色さんが突然おかしくなったって訴えても、聞き入れてもらえなかった』
航さんは悔しそうに歯噛みする。しかも、握り潰されたのは目撃証言だけではなかったようだ。
『一色さんが自殺なんてするはずない。実際、あの日は俺と待ち合わせをしていたんだ。一色さんは、俺に、自分の娘を――双葉ちゃんを紹介するって……!!』
『航さん……』
『なのに、どうして。なんで、なんであんなものが……あんな遺書が。研究は完成させるって、研究も双葉も手放すつもりはないって、命を懸けるって、言ってた、のに……!』
『え……!? まさか、遺書の偽造……!?』
『――ふっざけんなよクソがァァァァァァァァ!!』
僕の言葉が航さんの背中を押してしまったらしい。張りつめていた感情が爆発した。刹那、航さんの持っていたスマホがぐしゃりと潰れる。液晶画面や部品が床に転がった。次に餌食になったのは、近くに転がっていたジュースの空き缶である。こちらも跡形なく粉砕した。
僕の保護者である航さんは、普段は冷静沈着な男である。けれど、感情が爆発すると親戚内で一番手に負えない破壊魔となるのだ。僕がこんなことを考えている間にも、航さんの手近にあるものが次々と破壊されていく。テレビの液晶画面に正拳突きをかまし、リモコンを握り潰し、リンゴを叩き潰し――最早やりたい放題だ。
航さんの話を纏めると、一色若葉さんが自殺したという根拠となった遺書には『娘が我儘を言って邪魔するから研究が進まない。でも、娘にこれ以上寂しい思いをさせたくないから、認知訶学の研究を辞めようと思っている』ということが記されていたらしい。一色さんと交流していた航さんには、それが嘘だとすぐ気づいたのだ。
遺書が偽造であることを遺族に伝えようとしたところ、航さんは葬儀に参加させてもらうことなく門前払いを喰らった。航さんより先に来た黒服の連中が先手を打って、遺族にあることないことを吹き込んだためだ。
おかげで航さんは『一色若葉の研究成果を横取りするため、わざと『双葉のことをもっとかまってやるべきだ』とプレッシャーをかけて、ノイローゼに追いやった』張本人として、一色家の関係者から糾弾されたという。弁明する間もなかったそうだ。
『彼女に頼まれてたんだ。『私に何かあったら、娘の双葉にこの手紙を手渡してくれ』って』
家電製品や皿を破壊しつくした後で。ようやく落ち着いた航さんが、懐から1通の封筒を取り出した。一色若葉が最期に残した、娘への愛情。
『……一色さんは、覚悟してたんだな。自分の研究に関することで狙われてるって』
『しかも、自分を狙っている相手が大物であることも察していた。もしかしたら、自分の死に様すら歪められると予想してたのかもしれない』
手慣れた様子で破片を処理する至さんは、沈痛な面持ちだった。見知った人が理不尽に命を奪われることに関して、彼はとても敏感な人だから。
『でも、どうするんだ? この手紙を手渡そうにも、一色さんの関係者からは出入り禁止レベルで敵視されてるんだろ?』
『警察すら手駒にしているような連中だから、他の施設関係者も心配だな。本人への手渡しが一番安全だが、完全に手詰まりか……』
『……こうなったら、直接獅童の悪事を証明するしかないと思う。すべての罪を白日の下に晒すしかない』
誰に乞われるわけでもなく、俺は自然と決意を口に出していた。自分がどれ程無謀なことを言っているのか理解しているが、それ以外に良い方法なんて思い浮かばなかった。
……どこからか、声がする。
全部任せた。信じていたから、任せられた。でも、本当は、自分が幕引きを図るべきだった。もっと早く、もっと早く――そう決断出来ていたら、“あの子”は。
ぞわぞわと背中を這いずり上がる感覚の意味を、顔を引きちぎりたくなるような衝動の理由も分からない。分からないのに、急かされているような気になる。
急げ、急げ、急げ急げ急げ急げ。
早く、早く、早く早く早く早く。
――でも、どうしたらいい? 何をどうすれば、この焦燥から解放される? この痛みが意味するものは、何だ――?
「――暴力事件? 黎が? ――そんなバカな!?」
それを掴めないまま日々が過ぎて。
その意味を悟ったときにはもう、遅かった。
◇◇◇
黎の有罪が確定したのは、一報からわずか1ヶ月後のことだった。僕や至さん、舞耶さんや周防刑事、南条さんや桐条さんらが尽力したけれど、一時の抵抗にすらならなかった。唯一救いだったのは、取調室という閉鎖空間で、彼女の尊厳を踏みにじるような暴力等は行われなかったことくらいか。
有栖川の本家や空本兄弟、摩耶さんや周防刑事、命さんや真実さんの関係者は黎の無実を信じていた。僕だってそうだ。けど、“御影町の名士の娘が暴力事件を起こした”という噂は、あっという間に御影町中に広がった。外様の親戚や野次馬たちが毎日のように本家へ押しかけては、親族会議(とは名ばかりの跡目争い)に興じる始末だ。
珠閒瑠有数の進学校である七姉妹学園高校も匙を投げたようで、黎に対して退学を言い渡してきた。しかも一方的にである。文字通り、黎の周辺は孤立無援だった。嘗て世界を救った頼れる大人たちが徒党を組んで張り合おうとしても、冤罪事件の真犯人とは同じ土俵で戦うことすらできない――この事実に、酷く打ちのめされたような心地になった。
「……黎。これから、どうするんだ?」
『このまま地元に居続けるのは難しいかな。『私を更生させる』という名目で、変な輩がうようよ湧いてきたから』
受話器越しの黎の声は、ひどく憔悴しきっている。心無い誹謗中傷や、今回の件を弱みとして握ろうと画策する連中が跋扈しているためだろう。
『私、保護観察処分を受けることにしたんだ。保護司の方は有栖川とまったく関係ないのだけれど、だからこそ、証明になると思ったの。だって私、何も悪いことしてないから』
「当たり前だろ!? 話を聞く限り、あれは冤罪以外の何物でもない。警察内部に顔が利く犯人が権力を乱用したに決まってる……!」
黎の話を思い出しながら、僕は情報を繋ぎ合わせていく。
酔っぱらった男が女性に言い寄っていた現場に遭遇した黎は、迷うことなく女性を助けに行ったらしい。彼女の周りにいる人々が『正しいことを成そうとする頼れる大人たち』だったことが、今回ばかりは災いしたと言うべきだろうか。
酔っ払いの男は黎を見て、今度は彼女に言い寄ったという。その話を聞いた僕は憤慨した。女であれば誰構わず手を出そうなんて虫唾が走る。僕の実父並みに汚い大人だ。しかも、そいつは黎に拒絶されて激高した挙句、足をもつれさせて転倒したそうだ。
利き腕を痛めた男は大層不機嫌になり、警察に連絡。黎を傷害事件の犯人に仕立て上げ、『私の名前が出ないようにしろ』と根回しをしたらしい。酔っ払っていた割には随分と頭が切れるらしい。素面だったら、大層なやり手だったであろう。本業ではそれを活かしていそうだった。
警察を使って冤罪をでっちあげるには、それ相応の権力――あるいはコネがなくてはならない。僕の中で考えられるのは3種類のタイプの人間だ。
1つは南条コンツェルン級の金持ちで社交界の華、2つは周防刑事や真田さんのような警察上層部(特にキャリア)、そして――嘗ての須藤竜蔵や、現代における獅童正義クラスのような大物政治家か。
「……黎。キミの負担になるとは分かってるけど、その男の特徴を教えてくれないか?」
『でも……』
「確かに僕は、獅童正義の件を追いかけている。でも、キミの冤罪を放っておくことなんてできない。キミの力になりたいんだ」
「普段僕に『頼れ』って言うくせに」と付け加えて逃げ場を封じ込めれば、黎は観念したようにため息をついた。……黎だって、僕のことは言えないじゃないか。
『えーと……頭に髪の毛が生えてなかったのが一番印象に残ってるかな? それと、目元はサングラスをしてたからよく分からなかった。でも、見てるこっちが一瞬寒気を感じたから、鋭い眼差しだったんだと思う。あと、使っていたサングラスは『※※』メーカーのじゃないかな。南条コンツェルン傘下の大手デパートの眼鏡店で見かけたことがある。限定品だったから覚えてたんだ。後は、外国製の高級スーツ……パッと見た感じは『〇〇』のブランド品だと思うんだけど、あの一瞬だけだからどうも自信がない。それから、タバコの臭いがした。おじいさまの友人である議員さんが吸ってる高級なヤツで、銘柄は『◇◇』だったと思うよ。それから、タバコの臭いに混じって香水の香りもあったかな。以前私に言い寄って来た40代のおじさんがいたでしょう? あの人が愛用していた『××』という銘柄と同じ香りだった』
「……たった一瞬の間にここまでの情報を集めて分析できるあたり、黎の方が探偵に向いてるような気がしてきたなぁ」
『でも、ごめん。名前に関係する情報は一切分からないんだ。趣向品から辿るなんて、膨大な手間がかかると思う』
「構わないさ。……それで、保護観察中はどこで生活するんだい?」
『東京の四軒茶屋。喫茶店の住居スペースに間借りする形になる。その間は秀尽学園高校に通うことになるかな。来年の4月から――』
僕の住む家や通う学校とは方向が違うようだ。僕が通う名門進学校が(冤罪とはいえ)前科持ちを受け入れるわけがないし、他の公立や私立にお鉢が回るのも当然と言えよう。ただ、前科持ちを受け入れるのは並大抵のことではない。メリットよりデメリットの方が大きいからだ。
前科者がまともに学生生活を送った場合、それは確かにメリットになる。学校の評判が上がるからだ。……最も、前科者がまともな学生生活を送らせてもらえる可能性は、本人の気質や周囲からの眼差しによって容易に変動する。問題が発生すれば学校側の責任だ。該当者を退学処分にして収まれば御の字である。
学校の場所が違っても、東京という地域内にいるなら、僕でも黎をサポートすることは可能だろう。手が届かないわけではないのだ。至さんや航さんだっている。一番の懸念材料があるとするなら、黎が獅童正義――あるいは獅童の部下であるキラーマシンと鉢合わせる危険性が高くなることか。
僕がそう考えていたとき、不意に、頭の中に何かがフラッシュバックした。
鼻の長い老人と、悪趣味に輝く金色の杯。不気味に響く笑い声は、誰かを嘲っているようだ。杯から這い出た異形の腕は、白と黒の人形を好き勝手に振り回していた。
2体の人形には覚えがある。黒い方は、黎に似ていた。……では、白い方は? 鳥の嘴を思わせるような真っ赤な仮面を被っていたのは――?
『……ごめんね、吾郎。迷惑かけて』
「そんなことない。いつも黎に支えてもらっているんだ、今度は僕の番だよ」
『私が“屋根裏部屋のゴミ”になっても?』
「当たり前だろう。というか、唐突だな。どうしていきなり屋根裏部屋が出てくるんだ。しかもゴミだなんて……」
彼女が自分を蔑むなんてよっぽどのことだ。元気そうに振舞っているだけで、本当は限界なんだろう。僕も、黎を支えられるようになりたいと改めて思った。
けど、それとは別に、僕は何か引っかかるものを感じた。“屋根裏部屋のゴミ”なんて蔑称、僕は黎に対して一度も使ったことはない。なのに、どうしてか“しっくりくる”のだ。最初は蔑みを込めてそう言ったのに、いつの間にか、手の届かないやるせなさと羨望を込めてそう呼ぶようになった――そんな響きを感じるのは何故だろう。
それは黎も同じだったらしい。『はは、自分でも酷い蔑称だなあ。“屋根裏部屋のゴミ”、略して“屋根ゴミ”?』等と笑っている。その蔑称に対して何か愛着のようなものを見出しているように感じたのは、僕の気のせいではなさそうだった。僕もまた、そんな酷い蔑称に不思議な親近感を抱いていた始末だから。
それから僕と黎は暫く雑談した後、寝る前の挨拶を交わして電話を切った。そうして僕は内心黎へ謝罪して、まとめた情報を頼りに調査を始める。アルバイトとはいえ、本職の探偵や刑事と関わって来たのだ。推理や調査のイロハはきっちりと叩き込まれている。大人たちの助けを借りつつ、僕は情報を集めた。
***
黎との電話から1週間後。手元に集まった情報を総合して導き出された黒幕の姿に、俺は頭を抱えて項垂れていた。
息がまともに吸えない。手が戦慄いている。
身体は熱いのに、背を伝う汗は異様に冷え切っているようだ。
「――獅童、正義」
最悪だ。最悪だ最悪だ最悪だ。俺の実の父親が、黎に言い寄った。挙句の果てには、単なる腹いせで黎に冤罪を着せたのだ。
俺の身体にも、アイツと同じ血が流れている――そう意識した途端、言いようのない嫌悪感と吐き気に襲われた。
汚い。気持ち悪い。悍ましい。俺は前髪を掻き上げて息を吐いた。呼吸の間隔はどんどん短くなり、遂に俺は口元を抑えて咳き込む。
あの男はどれだけ俺を追いつめれば気が済むのだろう? 俺と母を捨てて苦しめるだけでは飽き足らず、今度は黎まで巻き込んだ。
……許せるはずがない。許していいはずがない。――許せるものか、許せるものか!!
「……俺が、終わらせないと」
俺には、いらない子どもである自分を救い上げてくれた人たちがいた。黎もその1人だった。その人たちに、俺の父親が害を成している。そうしてこれからも、超弩級の害悪として君臨し続けるのだ。自分の対立候補や気に喰わない相手を、完全犯罪を駆使して消し続ける――そんな屑野郎が政治家として日本を導こうとしているのだから笑える話だ。今、あの男は総理大臣に一番近い男となっていた。
須藤竜蔵を一喝した南条さんや、真実さんに対して悪態をつきながら襲い掛かって来た刑事の姿が脳裏をよぎる。……ああそうだ。須藤竜蔵へ南条さんが言い放ったとおり、獅童のような悪党に日本の未来を語る資格はない。やさぐれた刑事の言うとおり、世の中はクソだ。腐ってる。ただえさえそうだと言うのに、もし獅童が総理大臣として君臨したら、今よりも更にクソみたいなことになる。
決意は固まった。自分が今何をすべきなのか、俺にはハッキリと理解できる。自分の中にいる“何か”が声を上げた気がした。
◇◇◇
『お前さん、本当にやるんだな?』
元珠閒瑠地検検事の嵯峨薫氏は、僕の顔を見て深々とため息をついた。嘗て彼は復讐の徒だったから、僕を止める資格はないと思っているのだろう。それはそれでありがたかった。
『本当は、そんなことのために“探偵”という立場を使って欲しくないんですけどね……』
探偵王子として活躍している白鐘直斗さんは、苦い表情を浮かべて呟いた。彼女にとって探偵は誇りある仕事なのだから、探偵という職業を踏み台に使われるのに納得がいかないのは当然だろう。
正直とても申し訳ないのだが、もう限界なのだ。もっと早く獅童を抑え込めれば、黎や一色さんに被害が及ぶことはなかった。素直に謝って気持ちを伝えたら、彼女は頷いて送り出してくれた。
『吾郎クン、確かにキミは獅童正義の息子よ。でも、奴の血を引いているからと言って、キミがすべてを背負うのは間違ってる。キミはキミとして生きていいのよ。夢を叶える権利は――幸せになる権利は、誰にだってあるんだから!』
『レッツ、ポジティブシンキング!』と笑ったのは、周防舞耶(旧姓:天野舞耶)さんだった。彼女の底抜けた明るさに、ほんの少しだけ心が軽くなったように感じたものだ。
でも、『俺が獅童正義の息子だからこそ――夢を叶えて幸せになる権利を掴むためにも、獅堂と決着をつけたい。奴の影を断ち切りたい』と告げれば、舞耶さんは静かに笑った。
達哉さんや栄吉さんも『男には、どうしても引けない戦いがある』と語っていた。俺の決意に対しての敬意として、栄吉さんは特上の寿司を握ってくれた。美味しかった。
『あまり無茶をするなよ。キミがぼろぼろになっていく姿を見たら、空本たちや有栖川のお嬢さんが悲しむ。……当然、俺もだ』
宿敵だった神取鷹久が道化として落ちぶれていく姿を見せつけられたときのような沈痛な面持ちで、南条さんは俺のことを憂いてくれた。彼のような大人がいてくれたからこそ、俺は人から踏み外すことなくここにいられたのだ。
『……黎って奴は、ウチのはねっ返りと同じだと思うぞ。テメェがどこの誰の血を引いて、どんな業を背負ってようがお構いなしに決まってらァ』
『自分が幸せになるのが認められないなら、せめて相手だけは幸せにしてやれ』と言ったのは、巌戸台で寮母をしている荒垣さんだった。
丁度一緒にいた天田さんから『命さんを泣かせた前科持ちの貴方がそれを言うんですか?』と手厳しくツッコミを受けた彼は、居心地悪そうに視線を彷徨わせたが。
『復讐に走ることに関して、僕は止めない。どんな形であれ、ケジメはきちんとつけるべきだよ。……でなきゃ、キミは前を向けないんでしょ?』
天田さんはコロマルの頭を撫でながら、俺にそう言い切った。彼の場合、俺とは違って“復讐対象である相手があまりにも善良過ぎた”というレアケースの復讐者だった。
だから天田さんはこの結論を選んだのだろう。……そうして、虎視眈々と横恋慕を狙っている。荒垣さんが命さんを泣かせたら、即刻略奪愛に走る準備は万端だ。
獅童正義の悪事に関して、天田さんも怒り心頭の様子だった。『ここまで下種いと逆に清々するなあ。躊躇いなく復讐できるのは羨ましいよ』とまで言うレベルには。
『俺たちもできる限りのことはする。役立たずの大人にだって、五分の魂くらいはあるさ』
『吾郎。ヤバくなったら手を引いて、俺たちを矢面に立たせてやり過ごせ。逃げることは罪じゃない。深追いは厳禁だからな』
航さんと至さんが力強く笑ってくれた。『男の子には意地がある』というのも彼らの格言である。彼らがいてくれるから、俺は安心して無茶ができた。いらない子ではないのだと胸を張って言えるようになれた。
――そうして、何より。
『吾郎、大丈夫? 吾郎は無理してでも頑張っちゃうところがあるから気になって……』
自分の方が大変だと言うのに、――たとえ知らずとも――俺が自分を嵌めた男の息子だというのに、黎は俺の身を案じて支えてくれる。その事実に、どれ程救われただろう。
もう、充分すぎる程、俺は彼女に寄りかかっている。支えてもらっている。本来ならば真実を告げて彼女の元から離れるべきなのに、俺はどうしてもそれを選べない弱い奴だった。
黎がいてくれる。俺の名前を呼んで、俺を気にかけて、隣で支えてくれる――それだけで、俺は何もかもが平気だった。
……だからこそ、怖い。すべてを知った彼女が、俺の隣からいなくなるのが怖い。当たり前のことなのに、怖くて仕方がなかった。
覚悟はしている。……している、つもりだ。彼女と一緒にいられないならばせめて、獅童と刺し違えてでも罪を終わらせなくては。
――だと、言うのに。
「ヒャハハハハハハ! 殺し足りねェ……殺し足りねェよォォ!」
俺の目の前で、シャドウが高笑いしている。最近東京界隈で幅を利かせるヤクザ者であり、この世界では蜘蛛を連想させるような異形になっていた。
対して俺は、地面に倒れこんだまま一切身動きができない。奴の鍵爪によって、腹はばっくりと裂けている。着ていたジャージからは血が滲んでいた。
傷は熱と痛みを持って、万事休すだと訴える。けれど悲しいがな、反比例するが如く、俺の意識は遠くなりかかっていた。
護衛なしでの迷宮調査はやはり無茶だったか――そんな風に後悔しても、もう遅い。
(ああもう、クソが……。俺は一体、何をやってるんだか……)
何があったかを、朦朧とする頭で思い出す。
俺はあのヤクザ者が絡む事件を追いかけていた。関連情報を集めていた俺は、この世界――南条と桐条の研究者からは“メメントス”と名付けられた――に足を踏み入れて、本人のシャドウから情報を聞きだそうとしていた。探偵としての手柄が欲しかったというのが理由である。本音を言うと、手柄を焦っていたのだ。
嵯峨薫氏から『実績を挙げないとコネクションが結べない』人物の話を聞いていた俺は、ここ最近は超強行軍を組んでいた。学校の出席日数を稼ぎつつ、探偵として事件を解決してきたのだ。直斗さんや警察関係者および芸能関係者のそれとないアシストのおかげで、明智吾郎は『探偵王子の弟子』としてメディアに取り上げられるようになったのである。
『まさかメディア露出しに来るとは思わなかったな。だって吾郎くん、こういうの嫌いそうだし』
『そうですね。正直大っ嫌いですけど、マスコミやテレビの影響力って計り知れないじゃないですか。そこから獅堂に近づけるかもしれないでしょ?』
『……どうしよう。俺、なんだかマズいものを野に放っちゃった気がしてならないんだけど』
上杉さんが顔を真っ青にして『空恐ろしいわー』と言っていたことが浮かんで消える。嘗ての汚名を芸名に使って活躍する彼は、聖エルミンでの事件でかけがえのないものを得たのだろう。その強さは、正直羨ましいと思ったのだ。
……ああ。彼とのやり取りはつい1週間前だと言うのに、10年も100年も前のことのように感じたのは、俺の命が尽きかけようとしているからだろう。
奴から情報を聞きだそうと近付いたら、不意打ちを貰ってこのザマである。本当に俺は何をしているのだろう。無様すぎて笑いが止まらない。
俺は黎の冤罪を晴らすことも、獅童との決着をつけることもできないまま、無様に死んでいくのだ。誰にも知られることなく、死んでいくのだ。
(――
何も成せぬまま死ぬためではなかったはずだ。この世界にいらない存在として死んでいくためではなかったはずだ。
俺を必要だと言ってくれる人に応えたかったのではなかったのか。俺の手を取って、温かな場所へ導いてくれた人に応えたかったのではなかったのか。
そんな人に――有栖川黎に害を成し、他の人々にも害をなさんとする巨悪――獅童正義を止めるために、命を懸けるのではなかったのか!!
声がする。その正義は何のためにあるのかと。偽りの正義が跋扈する世界を許せるのかと。歪んだ正義によって愛する者が傷つけられるのを、黙って見ていられるのかと。考えるまでもない。答えは否、許してはおけない。許していいはずがない。俺は心の中で吼えながら、体を起こそうと腕に力を籠める。
刹那、頭を勝ち割らんばかりの痛みに見舞われた。視界が真っ赤に染まる中、痛みにのたうち回る俺の姿を見たシャドウが後退りする。――俺は、自分の視界が狭まっていることに気が付いた。遮蔽物の正体は仮面らしい。触ってみてそれに気づく。――
―― 汝は我、我は汝。義憤に駆られし反逆の徒よ。己の命を賭して、歪んだ正義を打ち砕け! ――
声がした。風が吹いた。体の奥から力が湧いてくるような感覚。
この力の正体を、俺は知っている。使い方も知っている。――知っていたはずだ。
憧れの人たちと同じモノが、自分の中にも存在しているとは思わなかったけれど。
俺は体を起こし、即座にその力を――俺のペルソナの力を、行使した。
「――射殺せ、ロビンフッド!」
俺の背後に顕現したペルソナは、躊躇うことなくシャドウに矢を放った。それは真っ直ぐ、シャドウの胸元に直撃する。シャドウは断末魔の悲鳴を上げ、化け物としての姿を失った。残されたのは、俺が追いかけていたヤクザのシャドウ――人型のみ。
荒い呼吸を繰り返しながら、俺はそのまま床にへたり込む。見ると、シャドウの足元に何かが転がり落ちていた。拾い上げると、それは件のヤクザが所属する組のバッジだった。別段珍しいものではないが、俺は何となく、それを戦利品として回収することにした。
ヤクザのシャドウは夢現の中で謝罪の言葉を述べるばかりで、情報を聞きだせそうにない。後から出直すことにしよう。ついでに、他の面々に対して何と報告――もとい、言い訳しようか。そんな他愛ないことを考えながら、俺はメメントスを後にしたのであった。
周りから説教を受け、俺単独での迷宮調査が解禁されて1週間後。
珠閒瑠所の周防刑事から、「件のヤクザが自首しに来た」という奇妙な話を聞いた。
◇◇◇
今日は、黎が東京へ来る日だ。……分かっていたのだが、仕事が立て込み、終わったのがつい先程である。空は茜色に染まり、遠くには星が瞬きつつあった。
探偵王子の弟子としてのメディア露出や司法試験への挑戦等の下積みが功を制し、僕は嵯峨薫氏のコネクション先――新島冴検事と知り合うことができた。彼女の司法修習生(予備)という名目で検事局を出入りできるようになったおかげで、獅童正義の元へ潜り込ませてもらえるようになった。おかげで、末端ではあるが、情報を手にすることができる。
……正直、僕は、自分が獅童正義の息子であるとまだ明かしていない。冴さんにも、黎にも、それを伝えることはできなかった。僕が何であるかを示すときは、最後の最期だと決めている。僕の存在自体が奴にとっての醜聞だ。奴の足止めくらいにはなるはずである。最悪の場合、僕は己の命と引き換えにしてでも獅童の罪を終わらせなくてはならない。
黎の下宿先である喫茶店――ルブランに赴けば、不愛想な店主が僕を迎えてくれた。彼の目は死んだ魚の様に濁っている。
間髪入れず電話が鳴り響く。受話器を取った店主は、泣きそうな顔になって「分かったから。分かったから、もう勘弁してくれ」とぼやいた。
……彼は迷惑電話に悩まされているのだろうか。僕は興味本位で、壮年の店主に問いかけてみた。
「どうかしたんですか?」
「……ああ、ちょっとな。今日から居候が増えることになったんだ。だが、ネームバリューが凄まじい奴らが、居候に関することで次々と電話をかけてくるから……」
成程。尊敬する大人たちは、精一杯の根回しを行っているらしい。黎の冤罪を晴らせなかった分、最低でも“これ以上彼女の生活が悪化しないように”心を砕いているようだ。
みんな考えることは一緒らしい。僕は内心苦笑しながら、店主が淹れてくれたコーヒーを啜った。この店のコーヒーは絶品である。
「佐倉さん。屋根裏部屋の掃除と片付け終わりました」
「おう、意外と早く終わったんだな。急きょ用意した荒れ放題の埃塗れだったから、まだまだかかると思ってたんだが……」
僕がコーヒーに舌鼓を打っていた丁度そのとき、控えめな声が聞こえてきた。
見上げれば、保護観察処分を受けている黎が、階段からひょっこりと顔をのぞかせているところだった。この階段が住居スペースである屋根裏部屋へ繋がっているのであろう。彼女と直接顔を合わせたのは久しぶりである。嬉しくて嬉しくて、思わず表情が綻ぶ。黎も僕と同じように表情を綻ばせた。
何も言わなくても通じ合える――その事実に、胸の奥が熱を持ったような気がした。次の瞬間、どこからか咳払いの音が聞こえてくる。カウンター席の方へ振り向けば、「佐倉さん」と呼ばれた店主が渋面のまま僕たちを見つめていた。言いたいことをぐっと飲み込んだような顔だった。
佐倉さんは元々聡明な人物なのだろう。僕と黎の関係性を察したようで、彼は「成程なぁ……」とぼやいた。青春がどうこうと呟きながらも、佐倉さんの眼差しは僕と黎を値踏みするように鋭い。暴力事件を起こしたという話と暴力事件が冤罪であるという話、どちらが正しいのかを見極めようとしているかのようだ。
最も、黎と出会ったばかりの佐倉さんが即座に黎の味方になるはずもない。信頼関係はマイナススタートなのだから、仕方がないことだ。
引っ越しして初日ということもあって、黎は少し疲れているように感じる。彼女に無理はしてほしくない。できることなら傍にいて支えたいが、難しい話だった。
「黎」
おいで、と、手招きする。黎はこてんと首を傾げながら、僕の言葉通りにやって来た。そのまま彼女の手を取る。
……温かい。当たり前のように握り返してくれるのが嬉しくて、この手のぬくもりに応える術のない自分が恨めしくて、僕は歯噛みした。
「……ごめん」
僕は、黎に隠し事をしている。
僕の実の父親が、彼女を嵌めた張本人であること。僕には戦う力があること。
この力を駆使して、父――獅童正義を追いつめようとしていること。
全部知っているくせに、獅童の悪事を止めるには至らないこと。
僕を信じ、寄り添い、支えてくれている彼女に対する最低な裏切りだ。
本当は、こうやって傍にいることすら許されないのに。
「大丈夫だよ、吾郎。私は絶対に負けないから」
黎は笑った。すべて許すと言わんばかりの、地母神の如き柔らかな微笑。隠し事だらけでも良いと、美しい双瞼は細められる。――ああ、どうしてだろう。今、凄く泣きたい。このまま彼女に縋りついてしまいたかった。
でも、僕には男としての矜持がある。この衝動を堪えながら、僕は笑い返してみせた。「ありがとう。キミの冤罪を晴らせるよう頑張るから」と紡いだ僕の声は、震えていなかっただろうか。頼れる名探偵の仮面を被れているだろうか。
「……あー、その、何だ。そろそろ閉店だから……」
非常に言いにくそうな顔をして、佐倉さんが声をかけてきた。生気をすっかり失ったかのような、真っ白な顔をしていた。
時計を見れば、閉店時間の数分前である。どうやら僕たちは、僕たちが自覚できないくらい2人の世界に没頭していたらしい。
名残惜しいが手を離す。言葉にできない切なさを込めて視線を向ければ、黎も同じ気持ちだったらしい。僕を真っ直ぐに見つめて、小さく頷き返した。
ルブランを出て家路につく。街並みは既に夜闇に覆われていた。電車を乗り継いで暫くした後、僕と保護者が暮らす家が見えてきた。
扉を開けて「ただいま」と声をかければ、当たり前のように返って来る「おかえり」の声。黎は今日から、そんな返事もないところで孤軍奮闘しなくてはならないのか。……佐倉さんは、黎を「おかえり」と迎えてくれるだろうか。そのことが酷く気になった。
後でスマホにメッセージを入れておこう。僕は1人で納得しながら部屋に戻った。部屋に戻る途中にダイニングがあるので、今日の晩御飯が嫌でも目に入ってくる。今日のメインディッシュはハンバーグだ。丁度出来立てらしく、デミグラスソースの香りと漂う湯気が鼻をくすぐる。
「吾郎。今日、黎ちゃんのところ行ってきたんだろ? ……どうだった?」
「何か不都合なことはなかったか? 不当な扱いはされていなかったか?」
制服を脱ぎ捨ててジャージに着替えた後、席に着いた途端、空本双子は心配そうに声をかけてきた。2人は有栖川の本家だけでなく、黎にも恩義を感じている。
聖エルミン学園での“スノーマスク”では僕と一緒に鏡の破片を所持していたおかげで世界滅亡は免れたし、自分の正体を知って思い悩む至さんを引き留めた1人でもあった。珠閒瑠市で発生した“JOKER呪い”の一件でも、“滅びの世界”に関する話を聞いて落ち込んだ至さんや僕を励ましてくれたのだ。
他にも、月光館学園高校の特別課外活動部では、ニュクス降臨の直接的原因として順平さんから責められた命さんに対し、『世界中の人が命さんを責めても、私は命さんのことが大好きだ。何度でも貴女に巡り合いたい。だから居なくならないで(要約)』というメッセージを送り、彼女の心を支えていた。
僕たちが八十稲羽に迷い込んだとき、黎は菜々子ちゃんのペンフレンドになってくれた。今でも黎と奈々子ちゃんは文通を続けている。黎が謂れなき冤罪によって有罪になったとき、堂島親子はとても悔しい思いをしたそうだ。東京での保護観察が決まったときは、『何かあったら相談に乗る』という手紙が来たらしい。
この場には届かないかもしれない。でも、沢山の人の想いが黎を守っている。彼女を彼女足らしめている。
……もし、僕が、その中から居なくなったとしても。彼/彼女たちの想いが、引き続き黎を守り続けることだろう。
(ほんの少しだけ、寂しいけどな……)
もしかしたら辿り着くであろう“明智吾郎の終わり”を夢想し、僕は湧き上がってくる感情を飲み込んだ。
代わりに、2人が待っているであろう情報――ルブランと佐倉さん、および黎の様子を伝えるため口を開く。
「1日目だから、まだどう転ぶかは分からないな。保護司の人……佐倉さんは中立を保とうとしてるみたいだった」
「そっか……」
「やはり、状況は厳しいか」
「あと、喫茶店の住居スペース、屋根裏部屋のことだったよ。急きょ用意した荒れ放題の埃塗れとか言ってた――」
「――屋根裏部屋?」
「――荒れ放題の埃塗れ?」
至さんと航さんの動きが止まった。前者の顔からは表情の一切が消えて、後者は般若みたいな顔で握っていた金属製スプーンを(純粋な握力のみで)ぐにゃりと曲げる。そこで、僕はしまったと身を固くした。間髪入れず至さんはスマホを取り出し、航さんは手当たり次第に近くにある物体を破壊し始めた。
航さんは怒り狂うと破壊魔になるが、至さんは無表情のまま様々な方面に電話を始める。電話をしない場合は、誰もが引いてしまうレベルの物騒な計画(一例:対象の抹殺計画)を立てはじめるのだ。怒り狂うと一周回って冷徹になる――それが、空本至の怒り方だった。至さんは粛々とした態度で誰かに電話を掛ける。
僕の耳が正しければ、至さんの電話相手は佐倉さんだろう。『分かった。分かったから、もう勘弁してくれ……』と、ほとほと困ったような声が聞こえてきたためだ。「俺の恩人は、お嬢は、屋根裏部屋のゴミではないのですが」と力説する至さんは、普段の親しみやすさはない。佐倉さんをマシンガントークで叩き潰すつもりのようだ。
このまま捲し立て続ければ、かえって逆効果になりかねない。
僕は深々とため息をつき、保護者2名を宥める算段を立て始めた。
――なんやかんやあったが、最終的に、佐倉さんへのアプローチはこの件を最後にひと段落することと相成った。
彼には本当に申し訳ないので、一部の関係者にルブランを紹介することにした。
……売り上げに貢献することで、この一件を手打ちにしてくれればいいと思ったのだ。
後に、佐倉さん曰く。
桐条グループのトップから「カレーの特許が欲しい」と言われたり、警官志望の女子大生にカレーを喰い尽くされたり、警察官キャリアが特性カレーにプロテインをかけたり、南条コンツェルンの次期当主がコーヒーのうんちくや日本の政治経済の話と各種挽きコーヒー数十杯と3食分のカレーだけで開店から閉店間際まで居座り続けた挙句ブラックカードでお支払いしていったりと、結構凄い目にあったらしい。
……唯一悲しむべきことは、この面々が佐倉さんに根回しをしてきた面々と同一であったことだろうか。
魔改造明智と愉快な保護者+大人一同による、原作直前から開始直後までの軌跡。とりあえず、導入部はひと段落しました。これから本編の時間軸に進んでいく予定です。
大人たち同士のコネクションが、明智や黎に様々な影響を与えていく図を描写できたらいいなと思っているのですが、意外と難しいですね。精進します。