We, the Divided   作:Гарри

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08.「北緯47度46分、東経153度1分を目指して航行中」

 龍田がここ数日の宿であるレーダーサイトに戻ってきた時には、既に太陽に代わって月が空を支配していた。薙刀と、後の為に使わずに残しておいた分の罠用資材を持ち、空腹を感じながら、彼女は建物の中に入った。五十鈴は最後に見たのと同じ格好で、同じ場所に座っていた。違いと言えば、横に封の開いた携行糧食のパウチと、それに付属するプラスチックのスプーンが転がっていることだけだった。腰を下ろす場所を探して、龍田は視線を左右にやった。それが、五十鈴の視線とぴったり重なる。彼女は「お帰り」と言った。「ただいま」と答えてから龍田は、自分たちがそんな会話をする関係ではないことを思い出した。

 

 しかし、一度発した言葉をなかったことにはできない。奇妙なやり取りに違和感を覚えながら、龍田は五十鈴の近くに敷かれたスリーピングマットの上に座り込んだ。薙刀と資材を脇にやり、やや遠くに置かれた携行糧食の袋の山から、一つ取ろうとする。だがギリギリで手が届かず、仕方なく立ち上がろうとしたところで、五十鈴が動いた。反射的に目を彼女に向けるものの、龍田の抱き得た全ての予想を裏切って、彼女がしたのは代わりに食糧を取ってやることだった。困惑しつつも龍田が無言で受け取ると、五十鈴は両手を横に小さく広げてから言った。

 

「どういたしまして」

 

 率直に、懐かしい、と龍田は感じた。それは艦娘同士の、さばさばしたやりとりを彼女に思い出させた。かつて天龍と、あるいは他の艦娘たちと交わした軽口に宿っていた悪意のない毒が、五十鈴の言葉の中にもあったのだ。それは龍田の疲れた体に対して、清涼剤の役割を果たした。気分が楽になった龍田は、口角を僅かに上げて、「お話が聞きたくない?」と五十鈴に問う。彼女は胡乱げな目を相手に向けたが、髪留めを二つとも外すと、聞く姿勢を見せた。龍田は話を始めた。それはこういう話だった。

 

 それは、天龍がまだ生きていた頃の出来事だった。内地からの定期輸送船が、食料を含む大量の軍需物資を運んできた際に、望まれざる客人を乗せてきたことがあった。ネズミである。彼らは短いが快適な日々を過ごし、本来なら艦娘たちの口に入る筈だった食料を腹いっぱい味わいながら、単冠湾にやってきた。だから当然、彼らの大半は船から外に出るや否や、人か鳥獣の類に捕まった。丸々と肥え太った体で自然界を生き抜くことができるほど、ネズミは優れた種族ではなかったのだ。ところが、中にはげっ歯類ながら要領がいい者もあって、彼らは上手く食堂に拠点を構えて安定した食料供給を実現したり、暖かい工廠付近にねぐらを設けて寒さから身を守れた。そういう個体は他の同類よりも多少は長生きすることができたが、いずれは駆除される運命にあった。

 

 龍田が自室で出会ったのも、そんな過酷な運命に翻弄された内の一匹だった。彼は天龍の私物の革靴に身を投げ入れ、靴底をかじって命を繋いでいた。偶然その日泊地にいた天龍は、それを見つけると憤激してネズミを靴から追い出し、叩き殺そうとした。龍田はそれを止めた。どうやってか二人の部屋に入り込み、天龍の靴に隠れていたそのネズミの大胆さに、敬意を払いたくなったからである。靴をダメにされた天龍は納得が行かない様子だったが、最後には妹に負けた。それで二人はそのネズミを清潔にしてから飼うことに決め、彼の勇気を称える為に端切れで作ったマントを羽織らせることで、余人に対して彼の生存権を主張した。

 

 最初の内こそ警戒を露わにしていたが、ネズミはよく懐いた。自分たちにすがらねば生きていけないことを、獣なりに理解しているのだろうとある時天龍が言った。言われた方の龍田は、そんな打算的なネズミがあるかしら、と姉に反論した。そうやって二人がたまに会って部屋であれこれ話をしている時には決まって、ネズミは何処からともなく現れて、二人の間に座り込んだ。餌を余分に貰えることもあれば、特段何も貰えないこともあったが、彼は自分の定位置はそこであると信じているかのような態度で、龍田たちが何か別のことをする為に場所を移るまで、行儀よくそこにいた。

 

 ある夜のことである。龍田は任務を終えて泊地に帰ってきた。入れ替わりに天龍が出撃し、憂鬱な気分で龍田は一人、空っぽの部屋に戻った。ドアを開けると、マントを翻してネズミが駆け付けた。龍田はいつものように餌をやろうとして彼を見て、たちまち憤慨した。ネズミの頭に針金で作った輪っかが乗せられており、そのマントにはお粗末な手腕で「タツタ」と刺繍されていたからだ。もちろん龍田は誰がこの悪戯をしたのか理解していて、寝る前に仕返しをした。翌朝帰ってきた彼女の姉は、両耳に三角形の飾りを付けたネズミと、彼のマントの見事な「天龍」の刺繍を見て、非常に機嫌を悪くした。それから二人の姉妹は取っ組み合いをし、最後には大いに笑って()()をつけた。

 

 そこまで聞き終わると、五十鈴は「面白い話ね」と言った。龍田は頷いて微笑み、「何処まで本当だと思う?」と訊ねた。年若い軽巡はその言葉で、自分が耳を傾けていた話が相手のでっち上げだったということに気づいた。真面目に聞いていた自分が馬鹿みたいだと思って、彼女は溜息を吐いた。その様子に、龍田がますます笑みを深くする。目の前にいる艦娘が見せる素直な反応は、彼女を惹きつけてやまなかった。しかも、刺客としてやってきたあの天龍を撃たせた後でさえそれが失われていないことに対しては、ほとんど嫉妬にも近いものを感じずにはいられなかった。龍田は五十鈴が真剣に聞く気を完全に失うのを見計らってから、言葉を続けた。

 

「そう、今のはただの剽窃。何の意味もない話よ。大事なのは、あなたがそこに何を見つけられるかということなの。時には、本当の話からでは得られないような教訓を、フィクションが与えてくれる。そうだと思わない?」

「それじゃ聞かせて欲しいんだけど、今の話にどんな“教訓”が見つけられる訳?」

「あら、何が大切なのか、たった今言った筈よ? 私がどう答えたとしても、あなたの邪魔にしかならないわ。自分で考えて探しましょうね」

 

 諭すような物言いに、五十鈴ははっきりとした不快感を表した。彼女は長い間、考え込んでいた。龍田はそれを邪魔しない為に、なるべく音を立てずにゆっくり食事を取った。一つ目のパウチを食べ終わると、五十鈴は龍田に呼びかけた。丁度、次のメニューに移る前の小休止中に呼ばれたので、龍田は彼女が自分を待っていたことを悟った。ここ数日の出来事にひどく打ちのめされながらも、それを飲み下してしまおうとあがき続けているこの軽巡艦娘は、短い言葉で要求した。

 

「別の話が聞きたいわ」

 

 語り手は飲料水の入ったペットボトルを探して、手と目をさ迷わせた。今度も五十鈴がそれを龍田よりも早く手に入れ、彼女に差し出した。そしてまた龍田は無言でそれを受け取り、ふたを開けて長々とその中身を飲み込んだ。一息に三分の二も飲んでしまうと、彼女は細く、長く、滑らかに息を吐き出した。言葉は始まらなかったが、五十鈴は待ち続けた。それがいつ始まるのか彼女は知らなかったが、龍田がそんなに長く黙っていられるとは思えなかったから、待つのは苦にならなかった。予想していた通り、疲れ果てた熟練の艦娘はやがて口を開いた。ただし前回とは違い、それは語りではなく対話に近い形を取っていた。

 

「知り合いの艦娘がいたの。戦艦「扶桑」のね。面倒見のいい人で、私とは別の提督の下にいたんだけど、誰のこともよく気に掛けてくれる人だった。……粉末ジュースはどう? レモン味だけど」

「レモンなら貰おうかしら。その扶桑はどの艦隊に所属してたの? 艦隊内序列は?」

 

 質問に答えないまま、龍田は糧食のパックの中に入っていた粉末ジュースの小袋を、付属の薄いプラスチック製カップに入れ、そこに水を注ぐ。薄黄色の液体の底にはまだ粉が沈殿していたが、気にせずにそのまま五十鈴に渡した。彼女は埃のついた人差し指をスカートで拭ってから、カップの中に突っ込んでかき混ぜると、引き抜いた指先をぺろりと舐めた。一口目を彼女が飲み、強い酸味に眉を動かすのを見て、龍田は話を再開した。

 

「第二艦隊旗艦。立派なものよね? でも役職だけじゃないのよ、立派なのは。部屋も相応だった。広いとか、家具が豪華だってことじゃなくて、そこに彼女の人生があったのよ。考えてみたら、おかしなことじゃないけれど。だって彼女は最初の着任以来、ずっとその部屋にいたんだもの」

 

 五十鈴はカップをあおって、中身を全部胃に流し込んでしまった。そして空っぽになったそれを龍田に返したが、五十鈴の意図したところと違って、彼女はそれをおかわりの要求だと受け取ったようだった。龍田は自分の為に取っておいたオレンジ味の粉末ジュースを作り、話し相手に差し出した。彼女はそれを拒まなかったが、口はつけなかった。代わりに訊ねた。

 

「人生がある、ってどういうことなの?」

「そこが寝に帰るだけの場所じゃなくて、家になっていた、って言えば分かるかしら。ううん、いいのよ、分からなくても。私は彼女が好きだったから、よく部屋にお邪魔したわ。天龍ちゃんがいない日の夜なんか、同じベッドで眠ったこともあるぐらい。宿舎三階の長い廊下をずっと奥に行って、配電がおかしいのかいつも電球が点滅していたところの、向かって右側が彼女の部屋だった。宿舎の裏手に立っているエゾマツが窓を塞いでいて……」

「ねえ、実は話がしたくないって言うんなら、黙ってたっていいのよ」

 

 素っ気ない口調で、五十鈴は言った。本題にたどり着く前に、延々と回り道させられそうになっていることへの怒りが、彼女の語勢を強めていた。

 

「どうせ、私はここに捕まってて、あんたをどうこうすることなんてできないんだもの。ちゃんと話をするか、全然口を閉じたままでいるか、どっちかに決めましょうよ。つまり、あんたの意志でってことよ」

 

 語り手は殺意を込めて聞き手を見たが、そのことで五十鈴に何か感じさせることには失敗した。彼女の視線は睥睨(へいげい)と交わることなく、龍田の目に縫い付けられていた。助けを求めるように、龍田は宙を仰いで口をぎこちなく動かした。だがそこから漏れ出るのは息ばかりで、動かした本人も自分が本当は何を言いたかったのか、そもそも何か言いたかったのか、分からなかった。彼女は初めに宙へやった視線を俯いて床に向け、右左の壁にやり、五十鈴を見て、また下を見て、最後にもう一度五十鈴に向けた。その時には、もう龍田の視線に不穏な感情は含まれていなかった。彼女は囁き声で言った。

 

「春になった頃に、彼女の艦隊が壊滅したの。帰ってこれたのは旗艦だけ。後はみんな海の上で散り散りになって、とうとう誰も見つからなかった。あの人は戻って探そうとしたけれど、提督は彼女を死なせたくなかったから、絶対に許さなかった。艤装を取り上げ、倉庫にしまい込んで、艦娘の歩哨まで警備に当たらせた。それで片付くと思っていたのよ」

「要するに、片付かなかったってことね」

「ええ。彼女は夜になると、新品の服を着て部屋を出た。長い廊下をずっと行って、階段を降りて、玄関を抜けた。その辺を散歩するのと同じ足取りで、倉庫に近づいていった。歩哨の艦娘はすぐ気づいたわ。彼女は懐中電灯を向けて、部屋に戻るように呼びかけた。でもあの人は、歩哨のことなんか気にしなかった。何でもないことのように鍵を壊して、自分の艤装を取り戻して……その後彼女がどうなったかは、知らないわ。海には出たでしょうけど。軍は脱走として処理して、新しい六人の艦娘が着任して、おしまい」

 

 五十鈴は一口も飲まずにもてあそんでいたオレンジジュースのカップを、龍田に渡した。彼女は呆けた顔でそれを受け取って、手の中に握っていたが、少しすると舐めるように飲み始めた。聞き手の少女は座る位置をぐっと龍田に近づけると、「それで」と言った。言われた方は、驚いたように目を開いた。カップから唇を離し、「それで?」と聞き返す。透明な丸い水滴が、下唇に残っていた。五十鈴は手を伸ばして、その小さなしずくを指先で拭った。龍田は身じろぎもしなかった。

 

「あんたはどう思うの? その扶桑は艤装を取り戻して、艦隊員たちを見つけられたのかしら」

 

 この質問は、龍田を仰け反らせた。それだけではなく、彼女を笑わせもした。やれやれというように頭を横に振りながらカップの中のジュースを飲み干すと、龍田は身を横たえ、呆れ声で言った。

 

「私は、あの人が“探しに出た”なんて言わなかったわよね?」

 

 そうして、彼女は目を閉じた。五十鈴は暫く龍田に今の話の本質を、せめてそのヒントを話させようとして頑張った。だが返事はなかったので、やがて諦めた。

 

*   *   *

 

 深夜、大半の艦隊員たちと共に完全装備で工廠から直結の出撃用水路に立ったまま、作戦海域の気象情報の印刷された紙を見ながら、「よくないわね」と陸奥は呟いた。旗艦としては迂闊なことだったと気づいて辺りを見回すも、不幸中の幸いと言うべきか、誰も彼女の独り言を耳にはしていないらしかった。安堵して体から余計な力を抜き、艦隊員最後の一人を待つ。第一艦隊二番艦の摩耶は、集合時間を数分過ぎて未だ尚、水路に姿を現していなかった。何か、彼女単独では対処できないことでも起きたのだろうか? 陸奥の脳裏に、そんな懸念が浮かぶ。彼女はそうではないことを祈った。口は悪いが有能なベテランの副官なしで、龍田とやり合う気にはなれなかった。

 

 摩耶を待ちながら、連合艦隊旗艦は何度目か思い出せないほどの艤装点検を行う。艦隊員たちにも声を掛け、同じことをさせた。彼女たちも陸奥同様、艤装のチェックには飽き飽きしていたが、指示に逆らったり、怠ったりはしなかった。点検は何度繰り返してもいいものだということを、彼女たちは実戦を通して学んでいたからだ。その場にいる十一人全員で、形だけのおざなりなものではない、真剣な検査を反復する。艤装を装着したままでは見られない箇所は、戦友と確認し合う。陸奥のところには天城が来て、背部を点検してくれた。旗艦の艤装を直接触って確かめながら、天城は言った。

 

「天気、悪いみたいですね」

「ええ、向こうは雨になるみたいよ。このタイミングでなんて、自分の不運が恨めしくなるわ」

 

 陸奥が八つ当たりに手に持っていた紙を強く握ったので、それはくしゃりと音を立てて歪んだ。天城は旗艦の艤装の精査を終えると、彼女の手の中からくしゃくしゃになったその紙をつまんで抜き取った。広げてしわを伸ばし、情報を読み取っていく。印刷された文字と画像を追う目が進めば進むほど、天城の表情は曇っていった。彼女は互いの気分を晴らせないかと思って「天気はあっちの味方に付きましたか」と軽い口調で言ってみたが、陸奥はそれを冗談とは受け取らなかった。冗談にするには、事実性が強すぎた。

 

 紙切れに書かれた『現地への到着時には、激しい雨が予想される』という短いが旗艦を悩ませる一文を、天城は親の仇を見るような強い視線で睨んだ。だが、そうしたところで何の意味もなかった。天城にも、そして陸奥にもそんなことは分かり切っていたので、二人は一秒だけ目を閉じて気分を切り替えると、対策を考えることにした。「雨で困ることは何かしら?」と旗艦は問いを立てた。すかさず第二艦隊のリーダーにして、頼れるもう一人の副官は「航空機の能力が低下します」と答えた。他にも面倒は思いついたが、今回の作戦ではそれが一番の大問題だった。上手く型にはまれば労せずして龍田を無力化できた筈の航空戦力が、戦う前から減衰させられてしまったのだ。

 

 雨中では視界が悪化するし、飛行そのものにも悪影響が出る。同時に島の上空を飛ばすことのできる機体の最大数だって、減らさざるを得ない。致し方ないものではあるが、それは打撃力だけでなく、島中を逃げ潜む龍田を捉える為の目を失う選択でもあった。艦載機で攻めるにしても、上陸して島内で決戦を仕掛けるにしても、陸奥たちのアドバンテージは索敵における優位性に頼るところがあったのに、そこをピンポイントで減じられたのである。陸奥には残念でならなかったが、初日での事態解決は難しくなった、と考えざるを得なかった。

 

 また、気象情報によれば一日で雨は上がるとされていたが、それも極めて不都合だった。雨が上がった後には、霧が出てくることが予想できたからである。そうなれば、航空機は飛行こそ雨ほどには邪魔されないものの、地上の監視はほぼ不可能になる。ただでさえ防空目的の針葉樹林が空からの視界を大きく遮っているというのに、そこに霧まで加われば濃薄など些細な違いにしかならない。そんな気象条件下で航空機を使っての攻撃・索敵に可能性があるとすれば、それは龍田が島の外に出てきた時ぐらいのものだった。そして陸奥は、彼女が絶対にそうしないだろうと確信していた。

 

 それに航空戦力のことを忘れるとしても、雨・霧は攻め手である連合艦隊の艦娘たちには寄与しない。海戦ならともかく、森林内で良好な視界を保てない状態で連携する訓練など、陸奥たちは受けていなかった。冷たい雨は波の飛沫と同じく彼女たちの体温を奪うだろうし、無数の水たまりは歩く度に音を立てて隠伏を阻むだろう。ぬかるんだ土に足を取られることも想定できた。だが何よりも陸奥が恐れたのは、罠が見つけづらくなることだった。特に霧の中では、熟達した使い手によって隠された罠を素人同然の彼女たちが見つけることは、至難を極めるに違いない。龍田を見つけられても罠を気にして追跡・反撃できず、一方的になぶられるだけの展開になるかもしれなかった。

 

「どうにかして艦載機を森林内で運用できないかしら? ごく少数でもいいわ」

 

 ダメで元々、という気持ちで、陸奥は天城に問い掛けた。歴戦の空母は、彼女にしては珍しいことに顔をしかめて答えた。「失速速度ギリギリでも時速百キロ強ですよ。しかも人の手の入っていない森を、雨や霧の中で飛行させるだなんて、賛成できません」その上でやれと言うならやりますが、と付け加えたが、陸奥には最初の意見だけで十分だった。航空機の運用について天城が賛成できないと言うなら、そうなのだと納得できた。彼女のその様子を見て、天城はやや躊躇いがちに言い添えた。

 

「あの、艦戦妖精の中でも、最高の数人でしたら不可能ではないとは思います。個人の質に頼るような戦術は好ましくありませんが、本当にそれが必要な時には、いつでも指示をお願いします」

「ありがとう。可能な限り、そんな事態に陥らないように気をつけるわ。空母艦娘にとって優秀な艦載機妖精がどれだけ価値ある存在か、私も認識しているつもりだから、安心して」

「はい!」

 

 頼もしい返事に、陸奥は頷いた。先に自分の艤装を見て貰ったお返しに、彼女の艤装のチェックをしようとしていると、水路の入り口、泊地の工廠と繋がっている方から慌ただしい物音が聞こえてきた。見れば艤装を装着した摩耶が大きなドラムバッグを抱えて、げらげら笑いながら陸奥たちの方へと走ってきている。その後ろに人の姿はないが、明らかに追われている様子だった。戦闘前の緊張感を台無しにする摩耶の笑い声に、陸奥は思わず「あらあら」と感嘆めいた響きの言葉を漏らした。摩耶は足から水路へ飛び込み、最大船速で陸奥のところまで来るとバッグを天城に投げ渡して言った。

 

「行こうぜ、抜錨だ!」

 

 その頬には紅が差しており、瞳は興奮で濡れていた。陸奥は素早く周囲に目を配り、艦隊の全員が即座に出撃可能な姿勢にあることを確かめると、さっと手を高く上げて声を張り上げた。「連合艦隊、出撃よ!」旗艦の号令に従って、艦娘たちは外へ、海へと進んでいく。水路を出る直前になって陸奥が振り返ると、工廠と水路を繋ぐ扉をぶち破って、憲兵の一団がなだれ込んでくるのが見えた。周りには工廠勤務の明石や、偶然その場にいたのだろう一人、二人ほどの艦娘が押し潰されるようにして倒れている。彼女たちが摩耶を追ってきた憲兵隊を押し止めていたのだろうと見て、陸奥は帰ってからどうやって彼女たちに報いたものか、頭を悩ませることになった。

 

 しかしそのことも、冷たい潮風に顔を一撫でされると気にならなくなる。上空の雲はまだ薄く、星光は僚艦たちの姿を捉えるに不足のない視界を陸奥に与えてくれていた。陸奥は声を出して艦隊員に陣形を整えさせ、速度を合わせて進む。と、定位置を離れて摩耶と天城が陸奥の横に並んだ。天城は摩耶から渡されたバッグの中身が気になっているようだった。別に秘密にしておくことでもなかったので、陸奥は「上陸の時に脚部艤装だと歩くのに苦労するでしょう? それで、泊地付憲兵隊から摩耶にブーツを()()()きて貰ったの」と教えた。言外の意味を読み取れず、天城はその整った顔に疑問符を浮かべた。

 

「え、でも、追いかけられてませんでした? 摩耶さん」

 

 戦中組らしからぬ彼女の純粋さに摩耶が笑いを漏らす。ますます眉を寄せて、天城はこの笑い上戸な第一艦隊二番艦が実際に何をしたのか、考えようとした。けれども彼女が正しい答えを思いつくよりも先に、話題の本人が答えを出した。彼女は笑いで乱れた呼吸を整えながら、ピュアな心の持ち主に真実を教えた。

 

「そりゃ連中の備品倉庫に押し入って盗んできたんだから、追っかけられるのも当然だろうさ。全く、工廠の奴らが助けてくれて運が良かったよ。那智みたいには上手く行かねえなあ」

「那智って、どの那智よ?」

 

 今度は陸奥が訊ねた。「言ってなかったっけな、ごめんごめん」と軽く謝ってから、摩耶は彼女たちに罠や龍田が取ってくるだろう戦術などについて講義した、あの義手の那智について話した。彼女がパラオ泊地にいた頃、どんなに破天荒な艦娘だったか。何をして、どういう風に周りから見られていたか。天城は何度も吹き出し、陸奥は旗艦の威厳を保ちたい一心で、顔を真っ赤にして頬をぷるぷる震わせながら笑いの発作を乗り切った。摩耶に言わせれば、彼女があの那智について知っていることはかなり少ないらしかったが、それでも聞き手二人を楽しませるには足りていた。

 

「人は見かけによらない、ってことね」

 

 発作が落ち着いてから、陸奥が総括して述べる。天城は口の端を時折ぴくりぴくりと動かしながら、それに同意した。講義中の那智はとてもそんな風には見えず、むしろ堅物教官の見本みたいな態度だったからだ。だが摩耶の言葉を信じるなら、あの那智は交戦で腕を失った米海軍のアイオワに「(Arm)がないのに武装している(Armed)」と言い放って小規模な第三次世界大戦の引き金を引きかけたり、酔っ払ってホテルからテレビを盗み出したりして、憲兵隊からじきじきに二度とやってはいけないことのリストまで作られたという。それを聞いて陸奥は、今度の事件を終わらせて帰ってきたら、彼女を招いて何処かお酒が飲める店にでも行くか、それが無理なら泊地の食堂で小さなパーティでも開いて、那智に色々と話して貰おうと思った。

 

 ふと視線を感じて、陸奥たちはその出所に目をやった。前を行く葛城が、後ろを向いてじとりとした目で三人を眺めていた。まず姉妹艦である天城が居心地悪そうに咳払いをすると、「それでは」と言って定位置に戻っていった。それに続いて、摩耶がぼそぼそと言い訳をしながら、陸奥から離れた。その様子を確かめてから葛城は前を向く。一気に静かになり、退屈して、陸奥は一応の警戒をしながら機関の駆動音と波の音に耳を傾けた。もう何度も聞いてきたその音は、今日も彼女の耳に変わらないように聞こえた。海面は穏やかで、上下の揺れも少ない。賑やかな朝の前に来るのに相応しい、静かな夜だった。

 

 暗闇の向こう側にある水平線を見通そうとして、陸奥は目を細めた。だが薄雲を通して降り注ぐ星明りでは、海と空の境を見つけることは難しかった。無意味な努力を続けながら、龍田は今頃、何を考えているだろうか、と思いを馳せる。同一の提督の下で戦争を戦った者同士として、陸奥には龍田への親近感があった。立場や任務は全く違うし、戦場を共にしたこととなるとほぼ皆無だったが、龍田を傷つけなければならないことに憂いを覚えるほどには、彼女のことを知っていた。けれども、それでは足らなかったのかもしれない。もっと彼女のことを知るべきだったのかもしれない。陸奥はそう考えることを止められなかった。

 

 旗艦としてではなく、秘書艦としてでもなく、艦娘「陸奥」としてでもなく、一個人として、彼女は己に問うた。自分は、龍田という女性の何を知っているだろう? そうしてみると、驚くほど陸奥の龍田に関する知識は少なかった。摩耶が那智のことを知らないのと同じか、それ以上に、陸奥は龍田のことを知らなかった。連合艦隊旗艦は艦隊員たち一人ずつに、こっそりと通信を使って訊ねてみた。が、彼女たちの誰一人として、陸奥よりも深く知っているということはなかった。責任感の強い彼女は激しい自責の念を覚えた。龍田を知っていれば、実際に彼女を止められたかどうかは、問題ではなかった。止められたかもしれないのに、今回の事態を引き起こさないで済んだ未来があったかもしれないのに、気づいた時には既に自分がそれを投げ捨てていたということに、陸奥は悲しみと憤りを感じ、空を仰いだ。

 

 沈痛な面持ちの旗艦に影響されてか、誰も口を開くことなく航行を続ける。摩耶は波の音に隠れる程度の音で口笛を吹いて、倦怠感を紛らわせようとした。だが吹き付ける風が彼女の唇を乾かしてしまうので、どうにも高い音がかすれてしまい、様にならなかった。ちぇっ、と舌打ちして、葛城をちらりと見る。彼女は前に出ていて、陸奥との距離は先ほどよりも大幅に開いていた。しめた、これならさっきみたいに騒がない限り、話してたって睨まれずに済むぞ、と考えて、摩耶は少しずつ旗艦の近くへと寄っていった。彼女にとっては幸運にも、星との間に掛かった雲がその濃さを増したこともあって、彼女の移動が葛城に気づかれることはなかった。

 

 声を掛けるのに適切な距離にまで近づくと、摩耶は陸奥が空を眺めていることに気づいた。それは彼女の目に、幾らか滑稽に見えた。陸奥の顔が摩耶の攻撃的な語彙で表すなら「辛気臭い」ものであったのも、そのおかしさに手を貸していた。嘲笑の意図なくにやにやしながら、摩耶は友人に話しかけた。最初、彼女は取り合おうとしなかったが、摩耶にはこのよき友人の抵抗が形だけのものだということが分かっていた。摩耶に対して何回か返事をする頃には、陸奥の発する雰囲気は常通りの穏やかなものに戻っていた。その様子を見て、艦隊員たちはみんなほっとした。

 

 雨が降り始めたのは、陸奥たちのラスシュア島への旅路が半ばを過ぎて暫くした頃だった。悪天候になることは分かっていたので、連合艦隊の艦娘たちはそれぞれ準備していた雨合羽を身につけて、雨粒を凌いだ。憲兵からの逃亡に忙しかった摩耶だけは雨具の用意がなかったが、彼女が追いかけられる原因を作った陸奥がもう一着の合羽を親友の為に持ち運んでいたので、一人だけ凍えるということにはならなかった。とはいえ、時間と共に強さを緩やかに増してゆく雨の前で、艤装の動作を邪魔しないように作られた薄手の雨合羽は頼りなかった。陸奥は自分の体が冷え始めるのを感じた。

 

 風を伴って降り続く雨に、艦娘たちの足元の波が荒く、視界の上下は激しくなる。歴戦の旗艦に率いられた艦娘たちは酔いこそしないが、その揺れはアトラクションのように楽しめるようなものでもなかった。何しろ波に足を取られて転べば、海の底へと沈んでしまうことも考えられるのだ。昼の海ならすぐに見つけて引っ張り上げて貰えるが、現在の時刻は深夜であり、星月の光は真っ黒な雨雲に遮られている。発見が遅れれば、救助は絶望的になる。艤装を外して海面に逃れても、今度は任務の達成がおぼつかなくなる。陸奥は隷下の艦隊員たちに指示を出し、自分を含めた艦娘たちの相互の距離を思い切って近づけることにした。

 

 十二人が互いに手を伸ばせば触れそうな距離まで接近してから、安全な航行の為に必要な最小限度の間隔を取り直す。陸奥はそれを見てよしとした。これなら万が一にも誰かが体勢を崩した場合、近くの仲間が支えるなり海から引っ張り上げるなりできるし、少なくとも誰にも気付かれないまま戦友が海に沈むということは起こり得ないと安心できた。距離が近すぎて、前を行く艦隊員の脚部艤装が海水を跳ね散らし、後ろの艦娘たちにそれが引っ掛かるということはあったが、雨中で濡れることを気に掛けるほど、彼女たちは神経質ではなかった。

 

 追い風に背中を押されながら、彼女たちは進み続ける。何も起こらない、冷えと揺れが苦痛なだけの、退屈な時間が過ぎていく。とうとう、陸奥は艦娘になってからというもの一度も下したことのなかった類の指示を出した。雑談を許可したのである。これは十人の艦娘を驚かせ、摩耶の意識を夢の世界への道から引き戻した。これについて、艦隊員の中でも「お堅い」と評されている葛城が真っ先に異論を述べた。彼女は、陸奥の雑談許可と同じ程度には類を見ない内容ではあるが、それでも自分たちが任務中であることを示し、であるからには私語は慎むべきだと主張した。世界の海における深海棲艦の脅威が概ね去ったのは事実だったが、残党はまだいる。そして、連合艦隊がそういう連中に龍田のいる島に行くまでの道中で襲われない、と確信できる理由はなかった。

 

 それは、非の打ち所のない主張だった。陸奥も天城も摩耶にしても、そればかりは認めざるを得なかった。そこで旗艦は妥協案として交代制で私語禁止の見張り役を数人立てることにし、堅物ではあるが適度に気を抜くことの大切さをも知っている葛城は、陸奥に対して自分の意見を汲んでくれたことへの感謝こそあれど、不満を抱きはしなかった。彼女は最初の見張り役の一人として立候補し、隊列の端から視認できる限界の一歩手前まで移動した。摩耶はそれを見ながら「何処にでもいるよな、ああいう奴」と独り言を呟いたが、その言葉の表面的な意味に反して、そこに込められていたのは自ら率先して役割を引き受けようとする、自立的で責任感の強い友人への、暖かな同胞愛だった。

 

 よし、と一言発して、摩耶は葛城の後に続き、見張り役に進み出た。陸奥には彼女の気持ちが分かっていたが、敢えてとぼけた。

 

「あら、あらあら? 大変ね、私たち、間違えて違う艦隊の摩耶を連れてきてしまったみたいだわ。それとも、私が違う連合艦隊に混じりこんじゃったのかしら?」

 

 摩耶の返事は笑い交じりの「ぶっ殺されてえか?」だった。

 

*   *   *

 

 戦争は悲惨なものだ、と言われて、「そんなことはない」と言い返せる人間は少ない。龍田は戦争という状況に慣れ親しんでいたが、それを楽しんだことは一度もなかった。()()()()()()と龍田は思っているし、そう思わない人間や艦娘を密かに軽蔑していた。彼女の姉を含む天龍型一番艦は戦争を楽しむ傾向にあったが、大抵は彼女たちすら自分が放り込まれた海の上に広がる世界が、おぞましくむごたらしいものだったということについては妹艦と同意見だったし、その上でそれを楽しんでいる己の感性を、無闇やたらと誰かに押し付けたりはしなかったものだ。

 

 いわゆる戦争の悲惨さというものを龍田が最初に思い知ったのは、多くの艦娘と同じく訓練所でのことである。龍田たちを担当した前線帰りの実技教官だった艦娘は、およそ戦場における残酷さというものを、余すところなく熟知していた。そして彼女はそれを見事に訓練の中で再現し、軍法に触れることのない範囲で与えられる最大限の苦しみを、訓練生たちにもたらした。訓練生でなくなった者を待ち受ける、本物の体験に備えさせる為に。それは不寛容な温情であり、痛苦を伴う慈悲だった。故にこそ厳しい女教官の課した試練をやり抜き、深海棲艦との戦いを生き延びた元訓練生は、誰もが遅かれ早かれ理解した。自分たちは幸運にも、思いやりを持った最高の教官の一人に育て上げられたのだ、と。

 

 本人が元訓練生たちからのそういった賛辞をどう捉えるかは別としても、確かに彼女は教官として優れていた。僅か二ヶ月程度の短い期間の中で、他の者には一見不可能に思えるほど多くのことを彼女の訓練生に教え込んだ。艦娘としての動き方、砲の撃ち方、航空機の扱い方、一部の制式に則らない装備品の使い方。そういったものの中で、その頃の龍田にとって何よりも有用に思えたのは、恐怖という重圧に抗い、それを克服する方法だった。それは理論的に教育できるようなものではなく、教官が切っ掛けを与え、訓練生たちが個々のやり方で気づいていかなければならないものだったが、答えへと導かれた以上、龍田にとってそれを教えてくれたのは教官だったのである。

 

 以来、龍田が何かを恐れた際、たとえば海で燃料弾薬が少なくなった時や、自分の艦隊よりも有力な多数の敵に捕捉された時、彼女は必ずかつて自分を導いてくれた一人の女性を思い出した。その女性は龍田の中でほとんど神格化され、教育期間中に龍田の大切な“天龍ちゃん”を勝手な理由で殴ったりしたことさえ、幾分かは大目に見られた。この教官の存在は天龍と並んで龍田の心を支えるよすがになり、彼女の心の奥深くから湧き出てくる自信が、実態の伴わない空虚な思い込みでないことを保証するものにもなった。ただの人間だった龍田以前の少女を作り変え、艦娘龍田を初めに生み出した何か形のないものの全てが、この教官──那智に端を発していたのであるから、これは元少女本人にとって極めて合理的な成り行きだった。

 

 行き詰った時にも、龍田は常に自問した。「那智教官なら、どうするかしら?」その問いには、彼女が那智ではないが為に、捻り出した答えが実際の教官が出す答えと一致するものだったか、という疑いがいつも付いて回った。それでも龍田は彼女の作り上げた那智という神格に問いかけることをやめなかった。想像上の彼女が出す答えは、現実の龍田が出すそれよりも信用できたからだ。また仮にそれが苦痛に満ちたものだったとしても、龍田の造り主たる那智が歩むであろう道をなぞることは、彼女に傾倒する者であるこの軽巡艦娘の心に、抑えがたい喜びを生み出す行為だったのである。

 

 加えて彼女をいたく心酔せしめた理由は、那智が痛みを知っているという点にもあった。龍田の姉艦を狂乱した那智が殴るという事件が起きた直後、彼女がそんな凶行に及んだ理由が、教官職を辞し、教え子たちと共に戦地へ戻ろうとして上層部に嘆願し、それが叶わなかったからだということを知った瞬間に、龍田は初めて彼女に対して言葉や理屈では説明できない共感と、安堵と、崇敬に及ぶ愛情を感じたのだ。もし那智が天龍を殴らなければ、殴った理由を知らなければ、龍田の教官に対する感情は単純な敬意で止まっていたに違いなかった。見えない傷から血を流しつつ職務を果たし、日々を生き、抱え込んだ痛みを受け入れてそれに向き合い、それを解決していこうとする那智の姿勢は、ひたすら龍田を感動させた。あれが艦娘というものだ、自分もいずれそうなるべき、気高い艦娘の姿なのだ、と彼女は固く信じた。

 

 この信念があったから、龍田は多くのことを背負えた。友人だった睦月が腕の中で苦しんで死んでいったことへの後悔を背負った。たった一人の“天龍ちゃん”が死んだ悲しみを背負った。彼女がどんな風に死んでいったかを知らされた怒りを背負った。まだ死んではいない艦隊員を見捨てたことへの苦悩を背負った。深海棲艦との戦争における、最後の大規模作戦に参加できない悔しさを背負った。そのどれもが彼女の心をずたずたに引き裂いて、踏みにじり、焼き焦がしたが、それでも龍田は逃げなかった。眠れなくなれば薬を飲み、不健康なほど一つの考えに囚われれば、それを振り払おうと努めた。病院に行き、長い戦争の中で自分の受けた傷を告白するという恥からも逃げなかった。そういったもの全部に立ち向かい、打倒しなければ艦娘でなくなってしまうという思いが、彼女を縛りつけていた。

 

 そうやって戦いながら、時々、龍田は海で死んでいった艦娘のことを羨ましく思った。誰も彼女たちのことを悪くは言わない。誰もが彼女たちを艦娘の中の艦娘、本物の艦娘だと認める。彼女たちの誰もが、今やちっとも苦しむことはない。最後の一つだけでも、龍田は妬まずにはいられなかった。しかし、その時には既に遅かった。戦争は龍田を置き去りにして先に終わっていて、海の上に敵はもういなかった。そこは戦場ではなくなってしまっていた。倒すべき敵も、自分を死した英雄の列に加えてくれる敵もおらず、彼女らと共にする最後の空間もなかったのだ。現実と内面の乖離に、龍田は考え込んだ。どうして戦争は終わったのに、私は戦い続けているの? 分からなかった時の習慣に従い、龍田は心内の那智に尋ねた。彼女は答えた。

 

「事象としての戦争が終わったからといって、体験としての戦争が終わる訳ではない」

 

 では、どうすれば『体験としての戦争』が終わるのだろう? 龍田の関心はそこに移った。それが終わる時が、彼女の戦いに終止符が打たれる時だと那智が答えたのだから、何としてでも終わらせたかった。艦娘であり続けたいと同時に、その為に彼女が耐え続けている苦しみから救われたかった。それも、艦娘でなくなる以外の方法で、だ。そうして龍田は考えを巡らせ、自分の、自分の為だけの戦争を始め、終えることによって、彼女固有の『体験としての戦争』を終戦に導くことができるのではないか、という仮説を立てた。

 

 言い訳のしようがない狂気の仮説に、龍田は限りない羞恥を覚えた。けれど考えれば考えるほど、それが自分に限っては効果的に作用するように思われてならなかった。彼女は随分前から、己の精神が均衡を失っていることを自覚していたからである。それは戦争を再現するもう一つの理由にもなった。彼女は病院に行き、海の上で見たものを他者と共有しようとする無意味な試みに失敗していたが、その原因を自身ではなく相手に見出していた。戦場を知りもしない、傷ついたことのない医者にどれだけ話をしても、龍田が言いたかったことが伝わったとは思えなかったのだ。でも、戦争になったら? 頭の回る誰かが、艦娘龍田のことを最も熟知する人物を呼び寄せるかもしれない。

 

 それに思い至った時、元少女は喜びに胸を躍らせた。恋をしたような気持ちで、那智の姿を脳裏に描いた。また彼女と会える、言葉を交わすことができる。傷を負った者同士で、今度こそ本当の意味で経験の共有が、話ができる。()だけのものではなく、()()だけのものでもない話。

 

 ()()()()()が。


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