We, the Divided   作:Гарри

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05.「沈め、姉妹艦、沈め」

 他に人のいない会議室の時計を信じる限り、時間は深夜になっていた。那智は椅子に深く腰を下ろし、右手で卓上に頬杖をついたまま、左手首の腕時計をちらりと見た。そしてその文字盤も同じ時刻を示しているのを確認し、息を吐いた。気分が沈んでいたが、その難問を解決する手段を思いつかないでいた。アルコールに逃げられたらよかったのに、と彼女は飲酒を禁止した吹雪を恨めしく思った。龍田からの連絡がいつ入るか分からないので、事件解決までは一切の飲酒を封じられてしまったのである。まさに今みたいな瞬間の為にこそ酒が必要なのに、信じられない暴虐だ、と那智は憤慨していた。

 

 彼女には気に食わないことが沢山あった。たとえば彼女は、とことん実利を追及するべき軍が、どうして面子などという益体もないものに囚われ、龍田を放っておいてやれないのか分からなかったし、放っておかないにしてもすぐに暴力で問題を解決しようとする姿勢には、全く賛同できなかった。那智は彼女が戦争中に友誼を結んだ艦娘たちを思い描いて、自分の周りの席に座らせた。そうそうたる面々が会議室に揃った。長門、加賀、古鷹、グラーフ・ツェッペリン、響、その他にも大勢……中にはまだ生きている者もいた。戦争の終わりを見ることなく、沈んでしまった者もいた。だがその瞬間には生死に関係なく、彼女たちは那智の傍にいた。

 

 退役艦娘の為の特設高校に残してきてしまった、教え子たちのことを思う。特に、訓練教官時代に教練を施してやった者たちのことを考えた。せめてその中から一人、ここに連れてくればよかったと、今になって那智は後悔した。しかしそんなことをすれば、知らなくてもいいことを知ることになるかもしれない。それが教え子たちのことを傷つけたり、彼女たちの人生を少しでも捻じ曲げてしまうかもしれないことを考慮すると、那智には連れてくるという選択肢をよしとすることはできなかった。彼女は今や教師であり、立場は違えど同じ戦争を生き抜き、現在は同じ学び舎に通う教え子たちの幸せを、心から願っていたのだ。

 

 那智の艦娘的な部分が、過度に感情移入するのはよくないぞ、と自身をたしなめた。それは人間としての美徳であり、教官としての大きな欠点だった。それがある故に、那智は彼女の訓練隊にいた多くの艦娘たちから慕われた。が、手塩に掛けて育てた艦娘たちが何処かの海で轟沈したと聞いた時には、耐えがたい苦痛となって彼女を責め苛んだ。今日、那智は久々にその苦痛を味わっていた。龍田は那智が鍛え上げた艦娘だ。彼女の個人的な一面までは知らなかったとしても、自分の手で育てたという事実だけで、那智には彼女を特別視する理由になった。その彼女を殺す為の刺客を、那智は教育しなければいけなかった。

 

 それも龍田の姉妹艦である天龍を。龍田との最初の対話が失敗に終わった直後に呼び出され、天龍を単独で送ると聞いた時、那智は思わずそこにいた泊地総司令に「正気か?」と発言し、彼の表情を固くさせた。説明は、まあ筋が通っていたと認めてもよかった。艦隊単位で攻めると動きが大きく、のろくなり、龍田を捉えることは難しくなる。だから、単独行動可能な熟練した艦娘を送る。その艦娘は龍田の電探を避ける為に艤装なしで上陸せねばならず、従って武装は対深海棲艦用の弾薬を装填した小火器と、本人が持っていくとして譲らなかった刀のみ。そんなことはどうでもよかった。那智が腹立たしかったのは、まず一つには天龍を送ることそのものだった。

 

 自分が鍛えた龍田の同期の中にも天龍がいたことを、那智はよく覚えていた。優秀な艦娘だった。軽巡ではなく戦艦、せめて重巡だったならどれほどの英雄になっていたかと、残念に思ったことさえあった。けれども、その天龍は結局、終戦前に戦死してしまったのである。そのことが龍田にとって小さくない傷であることは、容易に想像できた。その傷を刺激して、動揺を誘い、仕留めるつもりなのかもしれなかったが、那智にはどうしてもそれが成功するビジョンが見えてこなかった。むしろ龍田を怒らせ、より予測不可能にさせることで、海軍は墓穴を掘ることになるだろうと思えてならなかった。

 

 二つ目は、その天龍を那智が訓練しなければならなかったことだ。訓練自体はごく短時間だったが、それによってその天龍は那智の教え子の一人になってしまった。自分の教えた技術で、自分の教育した艦娘たちが、殺し合う──そんなことの為に教えたのではなかったのに。那智は初めて教官職に就き、艦娘訓練所に送られてきた子供たちを見た時、何よりも強く思ったのだ。彼女たちを一人でも多く、一日でも長く生き延びさせようと。ナイフの扱い方、罠の使い方、徒手格闘、サバイバル術、那智が教えた教典に載っていないことの全ては、その目的に根差していた。それが自分や、海軍に対して牙を剥くとは思ってもいなかった。

 

 昔はよかったなあ、と呟いてから、苦笑する。まるで六十、七十の老婆みたいなことを口走ってしまった。けれど苦笑の裏側で、自分の呟きにも僅かに正しいものが含まれているということを、那智は感じ取っていた。昔はよかった。戦争時代は、敵は深海棲艦、味方は艦娘で白黒はっきりしていた。世界は恐怖に包まれていたが、シンプル(・・・・)だった。敵との間には憎悪があり、味方との間には同胞愛とでも呼ぶべきものがあった。敵を殺し、敵に殺されないように気をつけてさえいればよかった。そうだ、あの頃は誰もが迷うことなく生きていられたのだ。それは単に、迷う余裕なんてなかったからなのだろうけれども。

 

 翻って、現在はどうだろう? 那智は考えようとしたが、酔っている訳でもないのに、頭の中にもやが掛かったようになってどうにも思考がまとまらなかった。でもこれだけは思った。戦後世界はよく分からなくなってしまった。深海棲艦と講和したことで、連中とは味方同士になった。そして今、島に引きこもった艦娘「龍田」を日本海軍は敵として殺そうとしている。那智は世界が狂ってるんじゃないかと感じて、その考えの下らなさに笑った。全く、世の中ってものは訳が分からない。

 

 今なら龍田とも少しは話ができる気がした。那智は持ってきた通信用の小型端末を手の中で弄び、龍田が回線を開いてくれないかと願ったりもした。作戦が順調に進んでいるとしたら、もう天龍は島に潜入した後だろうから、回線が開かれたとしたらそれは龍田が首尾よく侵入者を始末したということをも意味することになるのだが、那智はそれに気づかないふりをした。考えたくなかった。那智はあれこれと考えてしまう自分の気質をなじった。何を悩むこともなくぼんやりしていられたら、どれだけ楽だろう。あるいはもし、外から眺めていることしかできないような立場でなければ……。

 

 そう考えて、那智は気を動転させた。自分が信じられなかった。()()()()()()()()()()()()? ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()? それはあり得ない選択だった。少なくともさっきまではそうだったのだ。那智は、最も早期に退役した艦娘たちの内の一人だった。軍の用意したバスに乗って基地を出て、自身の旗艦を務めた艦娘と同じ場所に降り、その艦娘とそこで別れてそれぞれの家路を歩き始めた時に、もう二度と艤装なんか着用しないぞ、と心に決めた筈だったのである。那智は戦争に辟易(へきえき)していたから、それは当然の反応だった。

 

 会議室のドアが開いた音がして、那智はびくりとした。そちらを向くと、吹雪が立っていた。短く「失礼」とだけ言って、吹雪は那智に近づくと、互いの間に一つ空席を挟んで腰を下ろした。那智はこの自分以上に長い時間を戦い、勝ち抜いてきた艦娘と大の仲良しという訳ではなかったが、この時は安心した。話し相手として最高ではないにせよ、一人きりで延々と煩悶するよりはマシに思えたのだ。何と話しかけたものか迷ったが、結局二人の間の共通項で、吹雪が最も食いつきそうな話題と言ったら、一つしかなかった。現在は軍警のトップに君臨する彼女の提督にして、以前の那智の提督でもある女性についてだ。

 

「ああ、吹雪秘書艦。最近の提督はどうだ? 軍警司令官の仕事は、きっと楽じゃないだろう」

「健康とは言えませんね、まあ不健康なのは海軍時代からですが。最近も、元部下たちからボトル四本と少額の現金が届いたとかで、痛飲しておられました」

 

 吹雪は自分の左手首を右手で撫でさすりながら答えた。やはり提督の話題にした甲斐あって、彼女にしては長く喋ったな、と那智は吹雪の顔を見て口の端を緩めた。「何か楽しいことでも?」という牽制と共に名前負けしない冷たい睥睨が投げ返されて、視線を軽く落とし、何の気なしに秘書艦の左手を見る。薬指に私物らしい簡素な指輪がはめられていた。思わず目を見開きそうになるのを、那智は意志の力で捻じ伏せた。彼女はもう一度、今度は少し暖かい感情を込めて微笑んだ。

 

「いや、何でもないさ、吹雪秘書艦。提督によろしく」

「ええ、伝えておきましょう」

 

 吹雪は実に素っ気なく答えたが、那智は前よりも更に彼女のことが好きになり始めていた。

 

*   *   *

 

 龍田は自分が死体のようになってしまった気がしていた。指の一本一本の動きが、腕や足の一振り一振りが不自然に思われた。彼女の心は、危機感によって支配されていた。誰かが、島にいる。一人か、二人か、もっといるのか、それは分からないが、誰かがいる。そこで生きている。信号弾の罠に掛かった後、次の罠に掛かった気配もないということは、自分と同じ技術を身につけた誰かだ。龍田がその代表として真っ先に思いついたのは、彼女の教官だった。那智が自分を殺しに来たのかもしれないと想像し、そうだといいなと願った。彼女と直接顔を合わせたかったのだ。

 

 でも、そうではないだろうとも思っていた。那智は姿だけ艦娘のまま民間人となり、変わってしまったからだ。今更、龍田のいる場所に足を踏み入れてくれるとは思えなかった。それが彼女には辛く、悲しかった。昔なら違ったでしょう、と龍田は聞こえる筈もない教官へ語り掛けた。あなたはきっと来てくれた。私を理解してくれた。胸襟を開いて、語り合うことだってできた。私が何を感じているか、聞かなくても分かったでしょうに。そしてそれこそ、私があなたに期待したことだったのに。

 

 一歩進む度に、龍田の胸は恐怖に張り裂けそうになった。巡視船を挑発した時の余裕は、もう存在しなかった。歩く速度を速める。でなければ、何処かで足を止めてしまいそうだった。そして一度止めれば、再び歩き始めることはできそうになかった。五十鈴は興奮が続いてその他に何も感じていないのか、速すぎると言って前を行く龍田の服の端を引っ張ったが、激しく振り払われて薙刀を構えられると、流石に手を放した。しかし、薙刀という形を持った暴力の象徴すら、彼女の興奮を払うことはできなかった。弛緩した顔で、五十鈴は言った。「何よ、そんなもの」顔つきが未だにぼうっとしており、龍田は彼女が何を思い出しているか悟った。五十鈴は馬鹿にしたように言い放った。

 

「脅かそうったって無駄よ。怖くなんてないもの」

 

 彼女の口を閉じるには息の根を止める以外に方法がなさそうで、自分にその手段を取るつもりがない以上、せめて自身の口は閉じておくべきなのだと龍田にも分かっていた。でも限界は誰にでもある。龍田は「怖くない? 怖くないですって?」と聞き返した。五十鈴のにやにやした表情が、彼女の問いに答えた。だが背中に薙刀を突きつけられて龍田の前を歩き始めた時には、そんなににやにやしていなかった。初めの十歩を歩くか歩かないかの内に、彼女の足は震え始めた。三十歩ほどで立ち止まろうとしたので、龍田は彼女の背中を軽く突いて、後ろから串刺しにされるのがどんな気分か、想像させてやらなければいけなかった。

 

 そんなことをしている時間はないのに、龍田は五十鈴を先に歩かせることをやめられなかった。いたぶる為ではない。彼女に教えたかったのだ。那智教官は熟練の艦娘だったが、民間人になってしまった。それなら、民間人とさして変わらない戦後組の艦娘だって、戦中組と同じようになれるのではないかと思ったのである。それには、自分が体験してきたものの一部を再現し、無理やりにでもその中を歩かせるのが手っ取り早いように龍田には思われた。それに付け加えて言うなら、さっきまで自信満々だった五十鈴が泣きながら歩くのを後ろから眺めることは、龍田を少しだけすっきりした気分にさせた。彼女は呻きながら言った。

 

「あんた、私を殺す気?」

「私にその気はないかなぁ。けど罠の方はどうかしら? ああ、気持ち自体がないから、聞くだけ無駄だったわねぇ」

 

 すとん、と音でも立てそうなほどあっさりと、五十鈴はその場に崩折れた。龍田はげんなりしながら少し強めに薙刀でつつき、刃を素肌に押しつけて、彼女を動かそうとした。五十鈴は俯いたまま、立ち上がろうともせずにされるがままになっていた。いらいらして、龍田は言った。「好きなだけ座ってたらいいわ。私がここを離れた後、一体どうやって移動するつもりなのか知らないけど」その言葉に反応して、五十鈴は顔を上げた。大きく歪んだ表情に、飛び出しそうな目がぎょろぎょろしている。龍田はその顔を何度も見てきた。恐怖を御しきれず、恐慌状態に陥った新米艦娘の顔だ。龍田自身も、出撃の度にそんな顔をしていた時代があった。

 

 どんな気持ちになるんだったかな、と龍田は思い出そうとした。だが思い出せなかった。それはもう遥かに過去のことで、恐怖に親しむようになってしまった龍田が思い起こせるものではなかったのだ。息を一つして薙刀を五十鈴の体から離し、普段のように己の肩に立てかけると、唐突に五十鈴がその場から逃げ出した。龍田は悲しみを覚えた。逃げる前には一言声を掛けて欲しかったし、逃げ出すタイミングが余りにも悪すぎた。低い姿勢から宙に飛びつくようにして走り出した五十鈴の背中に、後ろから覆いかぶさって地面に倒す。暴れるのを、力づくで抑え込む。泣きながら彼女は「嫌」と短く叫んだ。「怖いのはもう嫌なの!」それがおかしくて、先任の軽巡艦娘は笑った。

 

「あら、怖くなんてないんじゃなかったの?」

 

 パニックに襲われていても、五十鈴にはそれが皮肉だということが理解できた。彼女は混乱して疲弊した頭でそれに言い返す言葉を捜したが、見つからなかった。龍田は「すぐに怖くなくなるわ。私みたいに」と声を掛け、五十鈴の背中を撫でた。彼女の泣き声が段々と収まって、龍田は安心した。夜の静かな森の中で、もう既にかなり目立つような大声を上げている。この上、幼児に戻ったかのように振舞う軽巡艦娘を抱えて移動していたくなかった。そろそろ移動を再開しようと考えて立ち上がり、五十鈴にも早く立つよう声を掛ける。すると「なりたくない」と言葉が返ってきた。それがどういう意味か分からない龍田に、彼女は噛み砕いて繰り返した。

 

「あんたみたいになんかなりたくない。狂うのなんて絶対に嫌。そうよ、あんたは狂ってるんだわ。だから平気なのよ」

 

 龍田は愕然とした。最初に覚えた反感のままに反論しようとして、言葉が出なかった。それは勢いと感情に任せるには、難しい話題だった。龍田は五十鈴の体を引き起こすと地面に座らせて、その横に腰を下ろし、ぐすぐすと泣き続けている彼女を抱き寄せた。五十鈴の体温と熱いほどの涙を肌に感じながら、ゆっくりと囁く。「海で見たのは深海棲艦と鯨だけじゃなかった」五十鈴が聞いているようには思えなかったが、龍田は言葉を続けた。「イルカとか、シャチとかもいたの。私はシャチが好きだったわ。仲間だとでも思ってたのか、こっちに速度を合わせてきて、一緒に何キロも行ったことだってあった。命を救われたことも。重巡リ級の足に噛みついたのよ……想像できるかしら? その子はすぐに殺されてしまったけど、私は死なずに済んだ」言葉を切る。泣き声はもう聞こえなかった。

 

「何回か、長距離偵察作戦に私の艦隊が選ばれたことがあってね。ひどい任務なのよ? これって。私と、駆逐艦娘五人で何日も何日も泊地から離れて活動するの。頼れるのは自分と、艦隊員五人だけ。救援要請をしても届くかどうか分からない。寝るのだって交代制。おもちゃのゴムボートみたいなものを持って行って、膨らませて、寝る順番が回ってきたらその中に入るの。私の艦隊は二、三回ほど、運に恵まれたわ。敵にほとんど会わなかった。でも、四回目にとうとう運が尽きちゃった。交戦が終わった時、生きてたのは私と残り二人だけ。後はみんな死んじゃってた。私たちは呆然として、さっきまで一緒にいた友達がぐちゃぐちゃになってぷかぷか浮いてるのを眺めてた。そうしたら、シャチの群れが寄ってきた。心が洗われそうな話でしょう? 励ましに現れた、みたいな感じで。私たちもそう思った。けど違ったの。その動物たちは、死んだ艦娘の体に食いついた。引きちぎって、飲み込もうとした。次に私がどうしたか、分かるでしょう。ええ、そんなことは許さなかった。残ってた弾を掛け値なしに全弾、そのシャチの群れに撃ち込んだ。肉片が飛び散って、辺りの海面が真っ赤になった。生きていたのは私たちだけだった。そのことで途方に暮れていると、生き残った駆逐艦娘の一人が笑い出した。どうして笑ってるの? って私が聞くと、彼女はこう答えたわ。『じきにサメが来るだけじゃないか』」

 

 龍田は笑った。思わず薙刀を地面に投げ捨て、背部の艤装を解除してその場に放り、手の平で何度も土を叩き、罠があるかもしれないことを忘れて転がり回った。笑い声はどんどん大きくなっていったが、ある時を境にやがて小さくなり始め、それに伴って龍田も動きを止めた。静寂が戻ると、それを待っていたように彼女は再び口を開いた。

 

「艦娘になる時、最初に考えたのは退役の日のことだったわ。解体されたら家に帰ってこう言うの、『お母さん、私よ、ただいま!』そうしたらお母さんが『お帰り、ご飯の前にお風呂に入っといで!』って言ってくれる。十五歳の頃みたいにね。艦娘になる前の私と、艦娘になった後の私は、姿や表面的な性格が変わっても、本質的には一緒なんだ、って思ってた。だから退役して、解体を受けたら、普通の女の子になって、普通の女の子みたいなことをして生きていくんだって。でもその時に気づいたのよ。友達の血をすすったけだものを撃ち殺した時に、その後生き残った友達みんなで大笑いした後に、もう一緒じゃないんだと分かったの。私は変わった、変わってしまっていた。もう戻れないし、お母さんは『お帰り』なんて言ってくれないって気づいてしまった。だって、艦娘になる為に出ていった私は、もう何処にもいないんだから。たとえ私が『お母さん、ただいま!』って言っても、お母さんは昔のようには答えてくれないわ。だって彼女の知ってる私は、戦争を知らなかったんだもの。そして一度でも戦争を知ってしまったら、それを忘れることなんてできやしないのよ。そういうこと全部が、急に分かっちゃったの。それで、私がその時にどう感じたと思う? 『変わっちゃったわね』よ。本当に、たったそれだけだったの……」

 

 話し終わって、そのまま龍田は寝転がっていたかったが、そうは行かないことを認識していた。「私は狂ってる?」と五十鈴に訊ねたが、答えはなかった。その内に段々と、自分は訊ねたのか訊ねたつもりになっているだけなのかさえ分からなくなった。龍田は立ち上がり、背部艤装を拾って装着し直し、薙刀を拾った。五十鈴は膝を抱え込んで座っていたが、泣いてはいなかった。できる限りの力で笑いを形作って、龍田は言った。「さあ、歩きましょうか。今度は私が先頭に立つわ」五十鈴は従った。彼女の顔には涙の跡が残っていたが、目には力が戻っていた。龍田はその中に自分の姿を見つけた気がして、一歩のけぞった。だが気を取り直して道に戻り、歩き始めた。

 

 歩きながら、龍田は島にやってきた誰かのことを考えた。その誰かはレーダーの無力化を命じられているに違いない、と彼女は確信していた。けれども、彼女の艤装はまだレーダーからの情報を受信し続けていた。つまり、まだ刺客はサイトまで着いていないということだ、と彼女は判断した。もしかしたら音のしないタイプの罠に掛かって、死んでしまったという可能性もある。不意に龍田は、来たのは艤装を下ろした艦娘なのか、普通の人間なのかと迷った。それから、はにかみの笑みを一人で浮かべた。どっちでも同じじゃないの、何を気にしてたのかしら?

 

 それよりも気になったのは数と、島に侵入した方法だった。西の砂浜の罠が一つも作動することなく誰かを通すとは考えづらかったから、崖を何とかして上がったのかもしれないと考えて、そんなことのできる艦娘や人間がどれだけいるかと思い直した。仮にそうだったとしても、それだけの練度なら信号弾を作動させるような詰めの甘いことはしなかっただろう。そうとなると、龍田には一つしか思いつかなかった。ヘリだ。しかしヘリは撃墜した筈だった。その中から脱出して、作戦行動を遂行しようと試みる? どうやら来たのは艦娘らしい、と島の主は考えた。撃ち落としたヘリのサイズから、数は一人か二人だろう。

 

 次いで、相手の戦力評価に移る。レーダーに反応がないから艤装は持っていない、通常の小火器類は普段使わないので、持っていてもそこまで脅威にはならない。龍田は自分を含めて、白兵戦用武器を制式装備として採用している艦娘を、思い出せる限りリストアップした。伊勢型戦艦の二人は刀を、特型駆逐艦叢雲は槍を、球磨型軽巡の木曾はサーベルを、龍田は薙刀、天龍は刀を装備している。龍田はイギリスの戦艦「ウォースパイト」が杖だかメイスだかで深海棲艦を殴り殺した、という逸話を聞いたことがあったが、よもやイギリス海軍(ロイヤル・ネイビー)が出てくることはあるまいとその推測を退けた。

 

 道を行く内に、遠くにうっすらとレーダーサイトの影が見えてくる。龍田の背後の五十鈴は、それだけで表層的な元気を取り戻した。彼女は屋根と明かりのある場所に、戻りたがっていた。思わず彼女は小走りになって先導者の前に飛び出したが、龍田も止めはしなかった。彼女は現地点からサイトを結ぶ道には、罠を仕掛けていなかったからだ。ところが、たった三歩か四歩のところで、五十鈴は足を取られて前に倒れ込みそうになった。龍田が咄嗟に左手で彼女のセーラー服の襟を掴まなかったら、地面に倒れ込んで竹串に迎えられていただろう。五十鈴は先ほどの狂乱を思い出したように喚いた。

 

「止めなさいよ! 自分で仕掛けた罠でしょう!」

 

 違う、と答えようとしたが、龍田にはそれより差し迫った問題を解決する必要があった。右手に持った薙刀を、繁みから飛び出てきた何かに振るう。金属と金属が接触した際に立てる、耳障りな高い音がして、襲撃者は不意打ちで距離を詰めるのを諦めた。その相手をねめつけたまま、龍田は五十鈴を立たせ、道から少し出たところにある木の下に行くよう促した。五十鈴がそこに腰を下ろしてから、そのまま動かなければ安全だと言うと、彼女はぴたりと動きを止める。それがおかしくて龍田は笑いかけたが、すぐにそんな場合ではないと顔を引き締めた。

 

 薙刀を両手で保持し、油断なく対手の動向を観察しつつ、心の中だけで嘆息する。よりにもよって天龍とは、挑発してくれる。もちろん彼女は龍田が世界でたった一人()()()()()と呼んだあの天龍ではないが、容姿に関しては完全に同一であり、龍田は渋々ながら今は袂を分かった日本海軍に対して、この人選が自分の心をある程度波立たせたということを認めた。でも、負けず嫌いの龍田は、それは彼らが期待したほどではなかった、と付け加えることを忘れなかった。彼女にとって大切な『天龍ちゃん』は一人だけであり、後の天龍は外見が同じだけの別人でしかなかったのだ。

 

 五十鈴が巻き込まれないよう、龍田はじわりじわりと彼女から離れるように対峙する刺客から間合いを離した。天龍も五十鈴を巻き込むのは本意ではないのか、龍田に協力して間合いを調整する。龍田にとっては丁度よく、天龍にとってはやや遠い間合いで、二人は足を止めた。龍田は左半身を相手に向け、右手で薙刀の柄部を持ち、脇に挟んで刃を下に向ける。視線は相手の顔に向けられたまま、微塵もぶれない。対する天龍は特段の構えを見せることもなく、だらりと刀を垂らし、体から力を抜いている。龍田はその様子を一瞥し、誘われているのだと見て、それに答えてやることにした。二人目が潜んでいないとも限らないので、早めに倒してしまいたかった。

 

 腰の回転と腕の力を合わせ、踏み出しつつ脛を狙った一撃を放つ。天龍の刀が、すい、とそれに合わせて受けられた。相手が薙刀の刀身と柄を伝って龍田の側へ踏み込もうとしてくる動きを察知し、得物を上げて左手で柄を持ち、眼前で縦に構えて上段からの斬りつけを防ごうとする。間一髪、絶妙の間で手首を返した天龍の斬撃を、柄が受けた。

 

 すかさず龍田は得物を回転させつつ腰を落として柄を引き、刀身と柄の合間に設けられた隙間に天龍の刀を捕らえ、地面へと押さえつける。刀を手放そうとしなかった天龍は、自然膝を折る姿勢になった。そのまま梃子の原理を用いて刀を折ろうとするが、そこで天龍が手を離し、刀は龍田の後ろへと転がった。思惑の外れたことを気にせずに龍田は薙刀を縦に回し、左腕一本で石突を相手の頭へと振り下ろす。天龍は横を転がり抜けてそれをかわしながら刀を拾って、突きかかったが、龍田は前に出していた右足を軸にしてくるりと身を翻し、それについてきた薙刀の柄で切っ先を払うと、空いていた右の肘を天龍のあごへと横から打ち込んだ。

 

 だが入り方が浅かったのか、天龍には殴られた勢いを利用して、龍田の腹に後ろ回し蹴りを放つ余裕があった。まともにそれを食らって、二歩三歩とたたらを踏んで退く彼女に、天龍は笑って言った。「艤装背負ってよくやるよ。目ん玉が飛び出るかと思ったぜ……手癖の悪い妹は、姉貴がきちんと躾けてやんねえとなあ?」龍田は答えなかったが、艤装を解除し、地面にそれを落とした。今日何回目の艤装解除か疑問に思い、何度も何度も地面に落としていたら、必要な時に動かなくなって困るわよ、と自分をたしなめるが、顔には出さない。(天龍)は面白がるような顔をして、刀を中段に構えた。それに合わせて(龍田)も左半身を向け直し、両腕を軽く突き出すようにして、体の前で右斜めに薙刀を構える。

 

 今度は天龍が先制した。骨に阻まれることを避ける為に刃を寝かせた突きが、龍田の心臓を目掛けて放たれる。彼女は斜め下からすくい上げてそれを逸らしたが、天龍は妹のその動きを予測していた。逸らした時には刀の柄から離されていた右手が、龍田の頬を殴りつける。それだけに終わらず、天龍の右手は薙刀の柄を掴んで妹の動きを止めた。マズい、と龍田が考えた一拍後に、左の片手で握った刀が振り下ろされる。咄嗟に龍田も薙刀から右手を離して、天龍の刀の柄を手首で受け、斬られるのを防ぐ。それすら分かっていたのか、天龍は驚き一つもなしに龍田の前に出していた足を蹴って跪かせ、更にその鼻っ面に膝蹴りを入れた。勢いで天龍の手から薙刀が抜け、龍田は仰向けに倒れこむ。

 

 龍田は無我夢中で、追撃させない為に薙刀を短く持って突き出した。しかし本能的に突き出された速さだけの突きは、龍田と同じく熟練した艦娘である天龍には通用しなかった。腕を蹴られて、薙刀を手から落としてしまう。とどめの一刺しとして、逆手に持ち替えられた刀が、地面と龍田を縫いつけようとした。力を振り絞って身を捻り、刃を避け、天龍の胸倉、ネクタイを掴む。そして燃えるように熱くなった血の命じるままに、額を相手の顔へと二度三度と叩きつけた。それから体重を掛けて、横へ振り投げる。天龍が転がるのと一緒に、地面に刺さった彼女の刀が抜けた。荒い息を吐きながら、龍田は身を返してうつ伏せになり、転がった薙刀を取って立ち上がる。鼻血がべっとりと服に染み込んでいたが、どうでもよかった。

 

 演じているのが丸分かりのわざとらしさで、天龍がのろのろと身を起こす。龍田が性急に追い打ちを掛けてこないのを見ると、あっさりと()()をやめて立った。龍田の見る限り、形勢は彼女の方に不利だった。様々な苦境を乗り越えてきた戦中組艦娘の一人として、これまで己の武器の扱いにはそこそこの自信があったが、そう性能の変わらない同型の姉妹艦にこうもいいように打ちのめされて、そんな自信など砕け散ってしまっていた。左手で柄の前部、右手で後部を掴んで中段に構え、離れすぎた間合いを整えながら、左から右へと薙ぐ。天龍は半歩下がってからそれを刀で受け、龍田から見て反時計周りにぐるりと巻いて払った。薙刀を引き戻し、左右の手を入れ替えて攻めの方向を切り替える。

 

 脛、首、脛、突き。相手はどれにも対応し、突きに至っては下から刀身を押し上げられて巻き取られ、危うく頭を割られるところだった。もし龍田が咄嗟に足を引いて半身になり、石突側で払っていなければ、天龍の刀は血だけでなく脳漿にも濡れていたことだろう。再び脛への斬撃を放ち、受けられ、首を狙い、また受けられる。天龍の刀が突きに対応しようと動き始めたのを見てから、龍田は手首を返して相手の右小手を狙い、切り上げた。空を切る感触、飛び退り、仕切り直しに備える為に息を整えようとする。天龍は刀から手放した右手をわきわきと動かして、笑った。

 

「やらしいなあ、龍田。初デートでホテルに行こうとするようなもんだぜ、今のは。そんなの何処で習ったんだ?」

 

 初めて、龍田は彼女の言葉に答えようという気になった。同じ戦中組であり、今自分を追い詰めて殺すことに成功しつつある彼女に対して、敬意を払うべき気がしていた。警戒は解かないまま、口を開く。

 

「訓練所。あなたにはいい教官がいなかったみたいね」

「おいおい、天龍・龍田の間柄なのに、あなた、だって? 随分他人行儀じゃねえか、薙刀より傷つくぜ、全く。そりゃお前はオレの龍田じゃないし、お前の“天龍ちゃん”も別にいるんだってことは分かってるけどよ」

「私の天龍ちゃんはもういないわ。いるとしても私の頭の中にだけ」

「あー、地雷踏んだか? ごめんな、龍田。で、ごめんのついでなんだけどさ、降参する気とかないか?」

 

 龍田は少しだけ考えた。全身が倦怠感に包まれており、短時間ながら極度の緊張に苛まれた肉体は休息と絶念を推奨していた。が、ここで投降を決めたとしても、余り愉快そうな未来の展望は見えてこなかった。彼女が拒否の意思表示をすると、天龍は残念そうにかぶりを振って「そっか。じゃ、続きと行くか」と言った。これまでの中段ではなく、胸の高さで刃を寝かせて構えた彼女を見て、龍田は最初の構えに立ち戻る。片手で扱うことになるというデメリットはあったが、間合いを読まれずに済むその構えは、これから攻めかかってくる天龍を迎え撃つ上で唯一の選択肢だった。

 

 雷声(らいせい)とはこのようなものかと思わせる気合の掛け声と共に、天龍はまさに地面を蹴って踏み込んだ。龍田は完全にその速度を読み違えていた。彼女の動きは遅れ、刃を払うこともできず、ただ悲壮な覚悟を込めた両目で天龍の片眼を見つめていた。なので、どすん、と衝撃が走り、刀の切っ先が彼女のしなやかな肉体に沈み込む感触が指先から伝わってきた時、天龍は仕留めたと思った。そうしてから、どうして「どすん」などという揺れが自分を襲ったのだろうかと不思議になって、顔を下に向けた龍田から目を離して、突き刺した刀を見下ろした。それは確かに、狙いを真っ直ぐに貫いていた。だが、龍田が限界まで短く持った彼女の薙刀の刀身もまた、半分ほどまで天龍の腹に埋まっていた。

 

 その様子をちらりと見て、「なるほど」と天龍は呟いた。彼女が刀を龍田から引き抜いて下がると、彼女の薙刀は持ち主の手を離れてついてきた。「困ったな」と天龍は言い、それを自分で抜いて脇に投げ捨てた。そして二人は同時に同じ所作をし、違う結果を得た。天龍は水筒を手にして、龍田の手は空を切ったのである。姉は妹に「探し物はこれだろうな?」と言って、自分の足元に転がった彼女の水筒を見せつけた。その中身に何が入っているか、戦争を経験した天龍には聞かずとも分かっていたのだ。それ故に、彼女は刺された衝撃で虚ろになった龍田から離れる時、腰の水筒を盗んだのである。艦娘にとって生命線の一つとも言える希釈修復材を奪われ、ようやく正気に戻った龍田は、腹に小さくない穴が開いた状態で、何とか口を開いた。

 

「手癖が、悪いのは……どっちかしら、ね?」

 

 天龍は腹の傷に希釈修復材を掛けながら、その問いを聞いた。傷口の肉がどんどん盛り上がって、時間が巻き戻るように治癒していくのを確認してから、彼女は妹の皮肉な質問に返事をした。

 

「オレだよ。だからお前に勝てたんじゃねえか。なあ、悪いことは言わねえからさ、倒れちまえよ、龍田。楽になるぜ、マジで」

 

 本当にそうしてしまいたいほど、龍田は疲れていた。血は流れ続けていたし、蹴られて揺さぶられたことで脳が酔ってしまったのか、意識も朦朧として、視界はちかちかと点滅していた。手を再び腰へとやり、しかし今度は希釈修復材を詰めた水筒を求めてではなく、龍田が唯一にして真実姉と慕った軽巡「天龍」の、遺品である刀を求めてだった。龍田はそれを地面に刺して杖のようにし、倒れこみそうになる我が身を支えた。目前の天龍は軽く息をつくと、上段に構える。その顔や身のこなしからは何の感情も興奮も見て取れず、龍田は不愉快に思った。この刺客は、自分のことをもう終わった存在だと見なしているのだ。龍田の艦娘としての自尊心は、その侮辱に対して見て見ぬふりを決め込めるほど、軟弱ではなかった。

 

 掛け声もなく、鋭い太刀筋で天龍の刀が振り下ろされる。右足を一歩引いてそれを避けながら、龍田は刀を持ち上げ、天龍の振りが止まったタイミングで、引いた足を前に出して回り込みつつ、天龍の手首を目掛けて振るった。手が痺れるほど強く、天龍の防御と龍田の攻撃がぶつかる。けれども痛手を負った龍田の刀は、防御を破るほどの力を持っていなかった。天龍がにやりと笑い、押し返そうとする。彼女はそのまま胴を一薙ぎにして、龍田を始末するつもりだった。誤算だったのは、龍田にもうそれ以上立っているつもりがなかったということだ。彼女は自ら膝を折った。ずるりと刀が刀の上を滑り、天龍の防御を抜けて、彼女の右膝へと振り下ろされる。龍田の刃は膝を割り、脛を裂き、足首までを断った。

 

 初めて天龍は、怒りに任せて刀を振るった。それは龍田が地に転がった時、槍を掴んで放った一撃とよく似た、本能の支配した攻撃だった。であれば龍田にも、防ぐことができて当然だった。左手を峰にやって刀を持ち上げ、頭上で止める。蹴って防御を崩そうにも天龍の右足は深く斬られており、動かすことなどできなかった。とはいえ龍田は跪いた状態であり、天龍は立っている。体重を掛けることのできる天龍の方が優位であり、事実彼女の刀は少しずつ龍田の刀を押し下げていた。天龍には見えていた。龍田の頭部艤装を自分の刃が抜け、頭にゆっくりと沈み込み、龍田が鼻と口から血を流しながら震え出し、やがて倒れるところが、天龍の目にはしかと映っていた。だから龍田が左手を離し、右腰のナイフに手を伸ばした時、天龍の反応は少しだけ遅れた。それで十分だった。

 

 峰に添えられた左手がなくなったことで、龍田の刀は斜め下を向いた。力任せに押し付けていた天龍は、その力の流れる方向が変わったことに対応しきれず、刃を滑らせてしまった。龍田の頭部艤装が斬られ、刃が肩の上で止まる。顧みず、龍田はナイフを握った左手の手首を返し、天龍の左足に突き立て、捻ってから足首までを裂いた。獣のような叫び声が、先ほどまでは冷静沈着だった刺客の口から漏れ出たことに、龍田は深く満足した。天龍は立っていられなくなり、両膝を地面につける。刀を片手で押し上げると、天龍の刀は彼女の強張った手を連れて背中側へ回った。腹は無防備に晒されていた。それは、ナイフで刺すのに丁度いい間合いだった。腹を二度刺し、首を切りつけようと振るう。最後の一撃だけは天龍も必死だったのか、刀の柄から離した手を防御に差し出した。結果として指が二本取れたが、致命傷は避けられた。

 

 龍田はそれさえ面倒だったが、血のついたままのナイフを腰に戻した。それから手探りで天龍の腰から水筒を取り、中身を自分の傷口に流し込んだ。傷が塞がっていくのと共に、活力が僅かずつ戻ってくる。刀を杖代わりにして立ち上がり、投げ捨てられた自分の薙刀を拾った。天龍を殺すつもりだった。放っておいても死ぬのは分かっていたが、必要以上に苦しみを長引かせてやるほど、龍田はこの天龍を恨んではいなかった。薙刀を拾うまでの間に、天龍は這いずって木の近くまで行き、幹に背中をもたれかからせ、楽な姿勢を取っていた。彼女は笑おうとして、咳き込んだ。尋常ではない苦しみの中にいるのが、龍田には分かった。今や、彼女はこの刺客を哀れんでいた。

 

 しかし天龍の前に立ち、その哀れみに任せて薙刀を振るおうとした時、横から五十鈴が顔を出した。彼女の顔は嫌悪感を覚えさせる笑みに輝いていた。龍田は思わず渋面を浮かべ、それを自分が隠しきれなかったことに、ひどく驚いた。「私、すっかり見たわ。全部見ちゃった」と五十鈴は言った。龍田は彼女が言いつけを破って勝手に動いたことを叱ろうかと思ったが、そんな元気はなかった。「殺し合い」と五十鈴は呟き、目を閉じた。その音の一つ一つを自分の中で味わっているようだった。天龍がぎょっとして、咳をしながら言った。

 

「おい、龍田。お前こいつに何したんだ? たちの悪い薬でもやらせたのか?」

 

 龍田は答えなかった。天龍は語気を荒げた。「答えてくれ、こいつはオレの知り合いなんだ、頼むよ!」それで、龍田はやっと応じた。「何も。私たちが見てきたものを、ちょっと見せただけ」瀕死の刺客は、それ以上何も言えなかった。それよりも先に、五十鈴が喋り始めたからだ。彼女は、何かの切っ掛けで同世代の友人たちより一足早く大人の世界を知った子供の無邪気さと、落ち着きなく踊るような足取りでその場をうろうろしながら言った。「戦争ってこんな感じだったのね? 私、本当の戦争を知ったんだわ。こんな感じだったなんて!」その言葉が耳に届いた時、いきなり龍田の中で何かが爆発した。彼女は五十鈴に掴みかかると、矢継ぎ早に問いかけた。

 

「本当の戦争ですって、これが、こんなものが? あなたは一体何を見ていたの? あなたが一体何を見てきたって言うのよ、ねえ! あなたの艦隊は“後任の艦娘”なんて迎えたこともないでしょう。同期の艦娘が減ったことはある? 貴重な休みを使って、目の前でばらばらになった友達の葬式に出たことは? 釘付けされた棺をこじ開けようとして爪を立てる父親を、爪がはがれても指を掛けようとする母親を、羽交い絞めにして止めた経験があるの? 敵の海域で脚部艤装をやられた子が、どうしてもすがり付いてきて邪魔になるからって、残りの五人を生かす為にその場で処分されるのを見た? あなたが自分でその子の頭を撃ったことは? 泊地に戻ってからそれを褒められたことは? いつ自分にその順番が回ってくるのか怖くて、布団の中で震える夜を何回過ごした? 大体さっきあれだけ怖がってた癖に、もうあの気持ちを忘れたって言うの?」

 

 龍田が最後の一言を搾り出した時には、五十鈴はショックを受けた顔になっていた。それは龍田が自分に共感を示してくれると信じていたのに、裏切られたことへのショックであり、また自分が何か別のものに変わろうとしているのを自覚し始めたショックでもあった。溢れ出しそうになる感情を否定する為に、五十鈴は声を大きくして言い返した。「何よ、今更になってそんな泣き言」彼女は手に持った単装砲で龍田を殴ろうとしたが、避けられて転んだ。立ち上がりもせず、うずくまったまま、龍田を睨む。「私はただ、あんたの気持ちを理解しようとしただけよ」それが彼女に最後の一線を越えさせた。龍田は五十鈴の弾切れの単装砲を奪い取ると、乱暴に操作してから投げ返した。訳も分からずそれを受け取った彼女に、倒れた天龍を指差して示す。

 

「それでこの天龍を撃ちなさい」

「何ですって?」

「私を理解したいんでしょう? 友達の頭を吹き飛ばした瞬間に私が何を感じたのか、知りたいんでしょう? 撃ちなさい」

 

 突然、五十鈴の手の中で単装砲は何トンも重みを増した。砲身が地面を向くと、龍田が五十鈴の腕を後ろから掴んで立たせ、彼女の単装砲を強引に天龍へと向けさせた。だが引き金に掛かった彼女の指にだけは手出ししなかった。「撃ちなさい」と龍田は繰り返した。年若い軽巡の体はまさに石化していた。目だけがひっきりなしに上下左右へと動き、この状況を解決する何かを探していた。天龍はもう声を出す体力も残っていなかったが、首を振った。それが「やめろ」という意味のジェスチャーなのか、それとも「仕方ないんだ」「いいんだ」の意味を持つジェスチャーなのか、五十鈴には分からなかった。

 

 耳元で龍田がまた「撃ちなさい」と言った。その声の優しさが、五十鈴の心を恐怖で氷漬けにする。彼女は自分がどうしてその場にいるのかも分からなくなった。腕を前に突き出しているのか、それとも垂らしているのかも分からなかった。地面に立っている感触が失せ、世界が回転しているように感じた。目の前にいるのが天龍なのか、天龍がそこにいると自分が思っているだけなのかも分からなかった。龍田の声が全てだった。それだけが存在の明確なただ一つのものだった。五十鈴は叫んだ。叫んで、彼女の単装砲の引き金を引いた。

 

 強い力の掛かりすぎた引き金が、ばきりと音を立てて壊れた。龍田はいつの間にか五十鈴から離れていた。砲は沈黙していたし、天龍の頭はまだ肩の上に乗っていた。五十鈴は腰が抜けて、その場に倒れた。自分が今何をしたのか、彼女はこれ以上ないほど完璧に理解していた。五十鈴から弾切れのままの単装砲を取り、地面に捨てて、龍田が言った。

 

「戦争にようこそ。今ならあなたも、歌が聴こえるでしょう」


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