We, the Divided   作:Гарри

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04.「歌」

 蹴飛ばされたバケツが立てた耳障りな音は、疲れから寝入っていた五十鈴を叩き起こすには十分なほど大きく響いた。彼女は慌ててそれまで寝転んでいたスリーピングマットの上から飛び退くと、姿勢を低くして脅威に対しいつでも飛び掛かれるよう腰を低くした。音を立てることになった元凶を探して、寝起きのかすむ目が左右を泳ぐ。それはすぐに見つかった。龍田は何度も何度もバケツを蹴飛ばし、壁を蹴り、足を床に打ちつけるようにしてその場をぐるぐると歩き回った。知らない間に起こった何かについて感情を荒立たせているのは明らかだったので、五十鈴は声を掛けずに黙って見守った。自分の命は龍田の気分次第であることに、彼女は順応し始めていたのだ。

 

 龍田はバケツを何度も蹴りつけてから、引っくり返ったそれの前で両膝を折って跪いた。まるで、これから先どうすればいいのか分からない、というように顔を両手で覆っている。()()()()()()()()()。彼女はそれを見て、今なら龍田を仕留めるか、無力化できるかもしれない、と考えた。目を細めて、室内にある武器として使えそうなものを探す。薙刀は二人のいるレーダーサイト内で龍田を挟んで向こう側にあったし、艤装の残骸は五十鈴のいるところから離れた角に集められていた。それを掴んで龍田のところに駆け寄るよりも早く、彼女の薙刀か腰の刀、あるいは砲で殺されるだろうと五十鈴は推察した。

 

 仕方なく無手で挑むのを想像する。だが、彼女にはどうしても自分が勝つイメージができなかった。蹴られてへこんだバケツで殺される自分を想像した後、五十鈴は結論した。これはチャンスなどではなかったのだ。彼女は龍田を攻撃する代わりにどうするか、次の手を考えなければいけなかった。放っておくのも一つの手だったが、それでは何も変わらない。リスクはあるが、龍田と対話するべきだ。五十鈴は勇気を出して腰を上げ、ゆっくりと龍田に近づいた。驚かせないように、という配慮のつもりだったが、それは逆効果だった。戦争を通して鍛えられた龍田の耳は、背後からの足音を忍び寄るものだと判断したのである。先ほどまでの茫然自失の様相が嘘のように俊敏に、龍田は振り返った。その手は既に刀を振り抜こうとしており、刃は五十鈴の首へと走った。

 

 思わず身をすくめて目をつぶったが、数秒経ってもまだ死んでいないということを認識して、五十鈴は目を開いた。龍田はもう刀を鞘に戻しており、さっきより多少は落ち着いた様子で壁にもたれかかって座り、それでも俯いてかなり塞ぎこんでいた。寸前で思い留まってくれたのだ、と五十鈴は安心の息を吐き、今度は襲われずに済むよう、正面から近づいた。声を掛けようとしたが、喉がからからだった。声が出ないことに驚いた彼女が、奇妙な擦過音を喉から出すと、龍田はのろのろと首を上げて、微笑みが失敗した結果と思われる表情のまま、ぽつりと訊ねた。

 

「怖かったのね?」

 

 五十鈴は頷いた。だが何が怖かったのかについては言わなかったし、「怖かった」と発言することも避けた。それを実際に口にすることは彼女の心にとって苦痛だった。龍田はそんな五十鈴の心の機微にはお構いなしに、急に饒舌になって話し始めた。「そういうことがあるのよ。恐怖がどう作用するのかしら、唾液が止まるの。落ち着いてから友達に話しかけようとしても、みんな咳き込んでしまって話にならないなんてこと、よくあったわ。怖い、って感情は、本当に色々なことをするのね。時には頭から何もかも抜き取ってしまう。時にはすっかり人を幸せにして、それがなくなると寂しく感じさせる。敵に追われて、いつ背中を撃たれるか怯えきっていて、お漏らしにも気づかずに逃げ帰ってきたことだってあったわ。帰った直後は全然恥ずかしくなかったけど、落ち着くと部屋のベッドから出たくなくなったものよ。結局、その日は夕食も食べなかったっけ……」

 

 それから龍田は、恥じ入ったように顔を背けた。「楽しい話じゃなかったわね」突然五十鈴は、今の龍田が自分に向けて、僅かではあるが気を許していると直感した。何かがあって、それが彼女を打ちのめした。彼女はその傷にかさぶたができるまで、鎮痛剤の代わりに手近な話し相手と親しもうとしているのだ。これこそがチャンスだ、と五十鈴は思った。龍田に寄り添い、龍田を理解し、龍田と“友達”になることは、必ずや自分の生存という目的に対してプラスに働くと彼女は信じた。「何か、もっと話して」と五十鈴が頼むと、龍田は困った顔をして言った。

 

「何を?」

「あなたが体験したことよ」

 

 暫くの間、龍田は視線を宙に向けていた。時折口がぴくりぴくりと動いて言葉を発そうとしては、スピーチの原稿に重大なミスが見つかった演者のように、ぎゅっと唇を引き絞って発声を止めた。五十鈴はどれぐらい彼女が喋り始めるのを待つことになるか分からなかったが、真剣な表情のまま待ち続けた。やがてまず一言が、龍田の口から漏れ出た。「鯨がいたわ」その場の緊張にそぐわない、平和な一文だった。そこから龍田の口舌は滑らかになった。

 

「戦争中でも、海にはいいところがあった。輸送艦隊を中継地点まで護衛して、引継ぎを済ませて戻る最中に時々、鯨を見たのよ。そんな時はいつも、水中聴音機に耳を傾けてたわ。実際のところ、あの子たちはとっても叙情的な歌手なの。物悲しくて涙が浮かぶような、切なくて胸が痛くなるような歌が、ずっと聞こえてた。時間が夕方だと、余計に心に響くのよ。赤い夕暮れ。枝を掴んだ渡り鳥の声。明日の今頃まで生きていられるか分からない不安。夕方と夜が作るにじんだ境界。そのグラデーション。へとへとの体。鯨の歌声。私たちの沈黙。綺麗だったわ」

 

 龍田の熱に押されて、五十鈴は面食らってしまった。病的な気配が戦争を生き抜いた古参軽巡の瞳に写るのを見て、五十鈴の脳裏に幾つかの不穏な予測が浮かんだ。彼女は変に相手を刺激してしまわないよう、共感を込めた声音で「素敵ね」と言った。龍田は頷いたが、その首肯が何に対する肯定なのか五十鈴には分からなかった。ただの相槌とも思えた。

 

「一度でもあの歌を耳にした艦娘は、また聴きたいと思うようになって、気が向くと、心の中であの歌に浸るようになる。胸の痛みが癖になるのね。そういうの、何となく分かるでしょう? でも、彼女たちはもう二度とあの歌を聴くことができないの」

 

 初めて五十鈴は龍田の声に悪意を感じた。それは軽蔑か、嫉妬を感じさせる響きだった。今や龍田の顔は紅潮していた。自分の喋る言葉が彼女を興奮させていた。文節の合間と合間に、しきりに「そう、そうなのよ」と呟きながら、龍田は話を続けた。

 

()()()()戦争は終わってしまったから。あれは、あの歌は、あの感動は、リラックスして平和でいる艦娘が得られるものではないの。逆なのよ。開いたままの傷口がなければ、染み入ってこないわ。そして、もう終戦から二年も経ってしまった。ほとんどの人の傷口は閉じてしまった。そして私の知っている一番深い傷を負った人は、痛みから目をそらしている。それがどれだけ私を傷つけたか分かる? あの人が私を訓練したのよ? あの人が私と天龍ちゃんを艦娘なんかにして、海に送り込んだのよ? それで、天龍ちゃんはもう二度と痛みを感じないし、私は……私の耳にはまだ歌声が聞こえるし、胸がひどく痛むの」

 

 長い間、二人は黙っていた。五十鈴は目の前の軽巡が正気ではないことをほぼ確信していたが、それにしては龍田の話しぶりや態度は筋が通っていて、文章として意味するところが分からない箇所はあっても、言葉の一つ一つは違和感なく繋がっていた。新しい反応を引き出したくて、五十鈴は「私も聞いてみたいわ」と言った。それが間違いだったことには、言ってしまってから気付いた。龍田はバネが跳ねるような勢いで立ち上がると、五十鈴に詰め寄った。彼女の胸元を、龍田の力強い両手が掴んだ。

 

「聴きたいですって? あなたが? いいえ、あなたには本当に聴くことなんてできやしないわ。かわいそうに。あなたがこれを聴きたくなんてなる訳ないのよ。海の上がどんな場所だったかも知らない癖に」

 

 恐怖を感じるべきだったのだろうが、五十鈴はそれよりも強い怒りを感じた。自分が艦娘のまがい物だと言われたように思った。ここで龍田の侮辱に立ち向かわなければ、よしんば今度の事件を生き延びられたとしても、その後ずっと艦娘ではいられなくなってしまう。五十鈴は艦娘の自分が好きだった。龍田が戦中組と一括(ひとくく)りに呼ばれる名前のない英雄の一人だろうと、それを否定させるつもりにはなれなかった。これで殺されたって知ったことか、と心で叫ぶと、彼女は意志の力を総動員して、龍田を突き飛ばした。思いのほか、彼女はすんなり手を放して後ろに数歩下がった。「海が何だったって言うのよ!」そう喚いてから、五十鈴は龍田が自分に詰め寄ってきた時の、見る者全てを怯えさせる狂気の光が、その眼の中でやや柔らかな輝きへと弱まっていたのを見つけた。

 

 そしてそれと同じように、五十鈴の膨れ上がった勇気もあっという間にしぼんでしまった。殺されるかもしれないと思うと、足が震えるのを止められなかった。涙が目に溜まり始め、視界がにじんだ。それでもわっと泣き出したり、そこに尻もちをついたりしなかったのは、直前に自分がやったことを無意味にしたくないという一念が彼女を支えていたからだった。歯を食いしばり、よく見えない目で五十鈴は龍田の方を睨み続けた。すると不意に、龍田が身にまとっていた剣呑な空気が緩むのを感じた。「それでこそ軽巡艦娘、度胸満点ねぇ」とからかうように彼女は口にして、五十鈴の頬に手を沿わせ、親指で涙の溜まった目元を撫でた。五十鈴の頭が一言で一杯になった。()()()()

 

「無理しないで座りなさい。ほら、私の傍に来て、座って。話の続きをしましょう? 色々話してしまいたい気持ちなのよ」

 

 龍田の言葉に従い、五十鈴は彼女に近づいた。龍田は五十鈴を支えるようにしながら、一緒に座って、肩と肩を触れ合わせた。自分を死ぬほど怯えさせた人物の体温だったというのに、五十鈴は肩から伝わってくるその暖かみが自分を安心させるのを感じて、混乱した。「海の話だったわね?」と龍田は己に確認するように呟き、五十鈴は口を閉じたまま、首を縦に振った。龍田の手が、そっと五十鈴の頭の上に置かれる。龍田は「突き詰めれば、『行った艦娘にしか分からない』で済んでしまうのだけども」と前置きをした上で、話の続きを始めた。

 

「私のいた海は、シンプルなところだったわ。複雑ではいられないの。それは無駄ってことで、無駄を抱えていると沈んでしまうから。初めはもちろん、みんなそこに適応できなかったわ。私も、天龍ちゃんだって。でも段々とそぎ落とされて、私たちもシンプルになった。分かる?」

 

 分からなかったが、龍田の言う“海”という言葉が、その単語そのままの意味としての海ではないことは、五十鈴にも理解できた。「分からないわ」と彼女は告白した。それは本心だった。龍田はぱっと顔を明るくした。「そうでしょうね。でも、真実なのよ。あの頃の海では、何もかもに筋が通っていて、単純だった。私と、私たちと、敵がいて、後はたった一つ、やるべきことがあるだけだった」龍田のわざとはっきりさせない、匂わせるような言い方に、五十鈴は苛立ち始めていた。「暴力ね」と彼女は吐き捨てた。その言葉を艦娘の使命に当てはめるのは好きではなかったが、龍田に反抗する為に、あえてそれを選んだのだった。五十鈴は言ってしまってから、短期間で完璧に慣れ親しんだ後悔をまた感じたが、龍田は別段、怒った風には見えなかった。

 

 彼女は五十鈴の言葉を相槌として、話を続けようとした。けれどもその時、龍田の艤装に装備された電探が、反応音を発した。ラスシュア島のレーダーがこちらに近づいてくる船影を捉え、リンクされた龍田の艤装にそのデータを送信したのだ。龍田は最初こそ不機嫌そうに眉根を寄せたが、それはほんの数秒のことで、じきに『丁度よかった』という表情に変わった。「口で説明するより、やってみた方が分かることってよくあるでしょう?」と龍田は言い、五十鈴の頭から手を離して、彼女の無力化された艤装の方へと立ち上がって歩いていく。

 

 そしてその中から、辛うじて使えそうな単装砲を探し出すと、五十鈴に投げ渡した。反射的に、彼女はそれを龍田に向けて発砲しようとした。龍田はきょとんとして止めようともせずそれを見ていたが、弾薬は抜かれており、弾は出なかった。五十鈴は砲を下げ、龍田は励ますように彼女の肩を軽く叩いた。

 

「すぐに撃つ機会があるわ。約束してあげる。ついて来て」

 

 薙刀を持ち、腰にベルトを通してナイフと天龍の刀、小さな水筒を下げ、艤装を装着した状態の龍田を追って外に出る。空はもう暗くなり始めていた。周囲の針葉樹林の隙間から、月が顔を出していた。道を歩きながら、中断された話の分を取り返そうとするように、龍田が口を開く。「天龍ちゃんは花粉症でね、季節によってはここに来ると、ひっきりなしにくしゅん、くしゅんって、鼻を赤くしてくしゃみしながら怒ってたわ。ある時なんか、もう少しで島全体を焼き払うところだったの」五十鈴はそれを無視して、逃げ出す隙を探した。最初は龍田に合わせていた歩調を、緩やかに遅らせていく。龍田は話に夢中になっているようで、一向に制止や脅迫の言葉が掛けられることはなかった。だが、行けると踏んで五十鈴が道を右方向に駆け出そうとしたところで、龍田が言った。

 

「聞こえないのかしら。私は構わないけど、あなたの右手側にある罠は『ダメ』って言ってるわよ?」

 

 はったりだと信じて、五十鈴はそのまま駆けようとした。しかし龍田が薙刀を投げる方が早かった。柄が五十鈴の行く手を遮るように、その刃は一本の木に突き立った。急いでその下をくぐろうとしたところで、首を掴まれて後ろに引き倒される。逃げ出そうとしたにも関わらず、龍田は一切気にしていないようだった。右手で五十鈴を抑え、左手で薙刀を抜くと、それを使って首ほどの高さの宙を指した。五十鈴はそれまで暗さで気づいていなかったが、そこにはワイヤーが張ってあった。それがどういうことか、分からない訳がなかった。「ごめんなさい」とだけ五十鈴は呟いた。龍田に何か思惑があってのことだったかもしれなくても、命を救われたことは認めなくてはいけなかった。肩をすくめて、罠を仕掛けた張本人は言った。

 

「逃げるならその前に私に言いなさい? 失血でじわじわ死んでいきたくないなら、特にね」

「もうしないわ、逃げられそうにないもの。それにどうせ、あなただってこの島から逃げられやしないんだし……ねえ、聞かせて。ここにずっと居られると本気で思ってるの?」

「さあ? そんなに先のことなんて分からないもの。でもこれだけは言えるかしら。ここを出ていくのは、今日じゃないわ。絶対にね。さあ、立って」

 

 二人は再び歩き出したが、その時には五十鈴は龍田の後ろを離れなかった。暫く行くと、龍田は彼女が自転車を隠した場所まで着いた。「ナビゲートするから、あなたが前に乗って」と五十鈴に告げる。逆らう理由も気力もなかったので、彼女は言われた通りにした。単装砲を龍田に渡して、後ろから指示されたように走らせる。声に従って仕掛けられた罠を一つ回避する度に、五十鈴は龍田とその言葉を信頼し始めるようになった。一蓮托生だという気がしたのだ。心の隅では、それが危険なことだと警鐘を鳴らしていたが、その音は五十鈴に届いていないも同然だった。

 

 自転車を走らせながら、龍田と五十鈴は話を始めた。二人とも気が軽くなっていたのか、互いに軽口まで叩いた。「これまでに仕留めたので一番の大物は?」と五十鈴が尋ねると、龍田は「横鎮の艦隊で二番艦だった戦艦「霧島」かしら」ととぼけて、運転手を笑わせた。一方で龍田が同じ質問を返すと彼女は口ごもって、「昼戦で、艦隊からはぐれたらしい重巡リ級を」と答え、龍田が「戦後組にしては、確かに大物ね」と感心した声を出したのを聞いてから「……艦隊員五人と一緒に」と付け加え、オチをつけた。状況さえ無視すれば荷台に腰掛けた軽巡艦娘は憧れの戦中組であり、五十鈴が普段気さくに話すことなどとてもできない相手だったから、余計に話が弾んだ。友人同士であるかのように笑い合ってから数分後、龍田が言った。

 

「止まって」

 

 短いブレーキ音と共に、自転車が止まる。二人はそれぞれサドルと荷台から下りて、もう一度龍田の先導の下に歩き出した。数分ほど歩いたところにあった、茂みが特に深い場所で龍田が立ち止まり、二人はその中に入った。地面は座れば首元まで隠れるぐらいの深さに掘られており、シートで隠してあった。

 

 龍田は艤装を下ろすと、それをめくり、穴の中に腰を下ろすよう後輩の艦娘に指示した。本来は一人が余裕を持って入れるように作ったのだろう穴は、二人で入ると窮屈だったが、五十鈴も龍田も気にはしなかった。「シャベルか何かで掘ったの?」と五十鈴が訊ねると、龍田はにこりと微笑み、薙刀を示す。五十鈴は大胆にも「教訓を得たみたいね」と評し、ミスを犯したベテランの軽巡はこの生意気な新米の頭を指で弾いた。

 

 それっきり、あれをやれ、これをやれと言われることもなかったので、鳥の声と互いの息遣いに耳を澄ませながら、五十鈴はここ暫くのことを一からなぞってみた。任務を受けたこと。龍田と一戦交えたこと。捕まったこと。そうしてどうした訳か、今は二人で同じ穴に肩を並べて入っている。不思議極まりなかった。龍田という軽巡艦娘は、五十鈴に分からないことばかりで構成されていた。心の中で、彼女はこう考えた。「もし後で誰かが、『龍田は狂人だ』と言ったら、私は『龍田は謎だ』と言い返そう」それを龍田が喜ぶだろうか、嫌がるだろうか、何とも思わないだろうかということが気になって、横を見る。彼女は今まさに、口の中にガムを投げ入れるところだった。

 

「それは?」

「カフェインの補給。目を覚ましていなくちゃいけないから」

 

 それを聞いて、五十鈴の頭にまた一つ謎が浮かんだ。占拠以来、龍田は寝ているのだろうか? 気を失っていたり、疲れてうとうとしている時間が長かったことや、自分が捕まってからそう日が経っていないのを五十鈴は認識していたが、しかしそれにしても龍田は常に目を覚ましていた。若き軽巡にはそれが偶然だとは思えず、そして敵襲への警戒心から眠るのを避けているのだとも思えなかった。睡眠不足は体調を劇的に悪化させる原因になることから、軍では訓練期間中に睡眠について二つのことを教え込むからである。その二つとは「すぐ寝ること」並びに「何処ででも寝ること」であり、もちろんベテラン艦娘の龍田がそれらを身につけていない筈がなかった。

 

 詳しく聞きたかったが、それは叶わなかった。何処からともなく、特徴的な風切り音が聞こえてきたからだ。それは別の言い方をすればローター音であり、ヘリの接近を知らせていた。龍田は驚く様子もなく、目を閉じて音の方角を聞き定めようとしていた。五十鈴は落ち着かない気持ちになり、穴を飛び出して逃げたくなった。ヘリの音がどんどんと大きくなっていくということは、近づいているということだ。そして五十鈴は死んだものと見なされていたから、龍田と間違えられて撃たれる可能性は少なくなかった。彼女を自暴自棄な逃走に追い込まなかったのは、龍田に対する奇妙な信頼があったからだった。この状況では彼女の横が一番安全なのだと、五十鈴にはすんなり信じ込めたのである。

 

 ローター音の圧力に心を押し潰されそうになりながら、彼女は耐え続けた。今は夜だし、自分は穴の中に居て、上は木々の枝葉に覆われている。ヘリの赤外線センサーに捉えられることはない。それにもし危険なら、龍田は対処を始めるに決まっている。動きがないのは、動かない方が今はいいからなのだ。自分の生存率が低くないことを信じさせる為に、五十鈴はそういったことを頭に浮かべ続ける。座ったまま何もしない龍田をじれったく見つめるが、言葉は発さない。だが五十鈴は彼女に言いたかった──()()()()()()()()()()()()()()

 

 そこにいるのが友軍であるとは最早、五十鈴には思えなかった。そこにいたのは敵だった。自分を殺そうとする敵。昨日までと違うのは、深海棲艦の形をしていないという点だけで。ヘリはどんな武装を積んでいるのだろう、と彼女は恐ろしくなった。ロケットで吹き飛ばされたり、ミニガンで細切れにされる自分の姿を思うと、体全体が凍りついたようになってしまった。動かないまま、目だけを右へ左へと動かして、そこに映るものを焼きつける。湿った土と名前も知らない雑草、それから小さな枝の切れ端。五十鈴はショックを受けた。自分が死ぬ時のことを考えたことはこれまでに何度もあったが、彼女の想像の中で最後に視界に映るのは、命がけで救い出した戦友だとか、刺し違えた深海棲艦の苦痛と恐怖の表情だとか、そういった映画的な一シーンばかりだったからだ。

 

 ヘリのローター音はこれ以上ないほど近づいていた。耳元で鳴っているかのようだった。もう五十鈴は耐えられなかった。飛び出そうとする。撃たれることについては考えていなかった。とにかく、一か所に留まっているのが我慢できなかった。しかし、龍田が上から覆い被さるようにして彼女を地面に押しつけた。五十鈴は暴れようとしたが、狭い穴の中ではろくに体を動かすこともできなかった。もがいている内に、ヘリが二人の頭上を通過していく。眼下の標的を捉えたという様子は見られない。龍田が笑い、五十鈴はそれに噛みついた。

 

「何を笑ってんのよ」

「この島の針葉樹林は人工なの。レーダーサイトを隠して、爆撃から守る為のね。それがどれだけ役に立つのか、上に今いる連中は実感していることでしょうねぇ」

 

 標的を見つけられなかったヘリは、上空を低速で周回し始めた。深海棲艦との戦闘経験がないパイロットによる飛行だ、と五十鈴は見抜いた。もし一度でも経験があったならば、絶対に速度を落としたり、単調な機動を取ることはないからだ。とはいえ終戦直前に対深海棲艦用通常兵器が開発されるまで、艦娘によらない攻撃が深海棲艦に対して有効ではなかったことを考えると、戦争中からパイロットだったのだとしても、艦娘ではない普通の人間に対深海棲艦戦闘の経験を求めるのは酷な話だった。何にせよ、パイロットはその不手際の対価を払うことになった。

 

 龍田は五十鈴を足で押さえつけたまま、外した艤装を再度身に着けると、上を振り向いて一秒で狙いをつけた。木々の枝葉で空の多くが隠されていても、彼女の目と耳にはヘリのいる場所が分かっていた。それに、彼女の武装には対空砲弾が装填してあった。砲声に続いて空中で弾が炸裂する音がして、ヘリのローター音が明確にそうと分かるほど異音を交え始めた。テイルローターに不調をきたしたのか、緩慢に回転しながらヘリは高度を下げていく。龍田は呟いた。「平落としになりそうね、幸運じゃない」それから自分の下敷きになっている五十鈴を見て、足をどけ、手を差し出した。

 

「そろそろ出ましょう」

 

 その手を取って穴から這い上がり、土を服から払いながら歩く。時々向きを変えて、林を抜け、五十鈴がへとへとになった頃になってやっと崖に到着した。龍田は伏せるように指示して、自分もその場に身を投げ出した。土と草の匂いが鼻をくすぐって、五十鈴は小さなくしゃみをした。「お大事に!」と龍田が笑って言った。二人はじりじりと這って移動し、断崖から海を見渡した。目標はあっさりと見つかった。龍田が当てられるかどうか自信のなくなるギリギリの距離を、一隻の巡視船が航行していた。彼女は砲撃の構えをし、撃つ直前に五十鈴を振り返って言った。

 

「見ててね」

 

 発砲。赤い玉が巡視船の方に向かって飛んでいく。五十鈴はそれを息を呑んで見守った。それは飛んで、飛んで、巡視船の少し上空をかすめて、海に落ちた。外れたのだ。五十鈴の横にどさりと龍田が倒れ込み、退くように引っ張った。その瞬間巡視船からの応射が始まった。二人は大急ぎで這って移動し、崖から数メートルのところにある、地面が大きく盛り上がった場所の後ろに隠れ、仰向けになった。邪魔になったので解除された龍田の背部艤装が、五十鈴の横にごろりと転がってくる。頭上高くを、また時には手を伸ばせば触れそうな距離を、光を曳いて二十ミリや四十ミリの機銃弾が飛んでいく。その衝撃波さえ感じ取れそうだった。大迫力、と五十鈴は思った。()()()()()()()()

 

 弾丸は周囲の自然を切り裂いた。若き軽巡は初めて、木や地面に弾が当たると暫くの間、その箇所が光ったままになるということを知った。細い若木がなぎ倒され、枝が吹き飛んで五十鈴のところまで転がってきた。彼女はこれまで感じたことのない昂ぶりをどう表していいか分からず、とりあえず「これ、めちゃくちゃ興奮する」と言ってから、なんて頭の悪い感想だ、と顔を赤らめた。しかし実際、彼女はやけに高揚していた。二人は祭の花火を眺める気持ちで、夜空に描かれた火線のうねりを見物した。それは美しくて、五十鈴は自分がこんなに見事なものを知らず、人生を多少無駄に生きたことに涙を浮かべた。火線を形作る一発一発が、艦娘や深海棲艦さえ殺せるものだというのに、どうしてかそれらは彼女の心に感動として突き刺さった。

 

 五十鈴はずっとだってそれを眺めていたかったが、龍田にまた引っ張られて、仕方なくその場を移動した。あんなに壮麗なものを見た後では、地を這う自分が惨めに思えた。巡視船の見える、崖近くの別地点に行き、海を眺める。巡視船側はその場を離れたことに気づいていないのか、龍田たちの過去位置付近にまだ砲火を浴びせ続けていた。離れたところから第三者的に見ても、やはりそれは五十鈴の心を揺さぶった。撃たれるってこんな感じだったんだ、彼女はにやにやしながら思った。きっと、仲間のみんなは私を羨むだろう。だって、私だけ今は戦争の中にいる。戦後組の中で唯一私だけが、自分目掛けて無数の弾が飛んでくるのが、どんな気分なのかってことを知っているんだ。

 

 彼女は自分の血管が脈打つのが聞こえた。アドレナリンが神経を研ぎ澄ませるのを感じ、思考がクリアになる快感に身を委ねた。自分も何かをああも撃ち続けてみたいと、五十鈴は強く欲した。それから、違うわね、と訂正した。()()()()()()()()()()()()()。目を閉じると、林をなぎ払う砲火の赤っぽい線が思い出された。木がばらばらになり、鳥が逃げ出し、土がえぐれ、石が弾丸のように跳ねる音が、耳に残っていた。規模は先ほど見たものの百分の一程度でもいいから、彼女は自分の手で再現したかった。

 

 彼女が夢見心地で微笑みを浮かべていると、悪戯っぽい笑顔で龍田が五十鈴の頬をつつく。「子供には刺激が強すぎたかしら」と笑われて、龍田の見せたものに心奪われた少女は、素直に頷いた。「ありえないぐらい凄かった」と呟き、ぶるりと身を震わせる。龍田は幼い妹をあやす姉のような手つきで、五十鈴の頭を撫でた。彼女の手からは湿った土と汗の臭いが少しだけしたが、今の五十鈴にはそれもかぐわしく思えた。撫でられながら、熱に浮かされた口調で彼女は言おうとした。

 

「今夜のことは、私、一生忘れられそうに──」

 

 けれど、その言葉の終わりは龍田には聞こえなかった。島に仕掛けた罠の一つ、作動させた敵の大まかな位置を伝える為の信号弾が、空高く上がって弾けた。

 

*   *   *

 

 信号弾の光の下で、天龍は溜息を吐いた。彼女は戦中組の一人として、これまで色々なことを上手くこなしてきた。軽巡艦娘お定まりの輸送艦隊の護衛もやったし、水雷戦隊の一員として、敵の主力の横っ腹に食らいついたのだって二度や三度の話ではない。更に言えば、彼女が体験してきたのは勝利ばかりではなかった。敗北と、その中で生き抜くこともまた、彼女がやり遂げた種々のことの一つだったのだ。深海棲艦の艦載機に追われ、戦艦の長射程砲の追撃をかわし、同程度の航速を持つ巡洋艦や駆逐艦を追い払い、時には逆に相手の追撃隊を待ち伏せもして、天龍は常に生き延びてきた。深海棲艦が相手ならどんな状況下でも、世界水準以上にやり抜く自信が彼女にはあった。しかし、艦娘を相手にして戦うのは初めてだった。

 

 今すぐその場から離れたい気持ちを抑え、そろそろと用心して歩く。幸運だったのだ、と天龍は自分を慰めた。罠を作動させてしまったことは致命的なミスだったが、作動した罠は致命的なものではなかったのだから。地雷を踏んだ訳でも、落とし穴に掛かった訳でもない。天龍は繰り返し、頭の中でその言葉を繰り返した。だが、気分は余りよくならなかった。右手に持った刀で、前方を探りながら進む。と、切っ先が固い何かに触れて、乾いた音を立てた。天龍は全身の筋肉を硬直させて己の動きを止めると、刀をそっと持ち上げてから、音を立てた場所を指で撫で、土を払った。水筒のような形をした、金属の物体が現れる。

 

 天龍はまた溜息を吐いた。対人地雷だ。加えてそれは、明らかに日本陸海軍の制式装備品ではなかった。帰って、自分を送り出した連中に問い詰めたかった。全く、龍田はどうやってこんなものを手に入れたんだ? 掘り出すのも危ないので、踏まないように気をつけてまたぐ。もちろん、またいだ先を探ってからだ。天龍は自分にこういった罠に関する知識がある程度あったことを、心底呪った。彼女がここに来させられたのは、まさしくそのせいだったからだ。

 

 刀で地面を掘り返して歩きながら、彼女はここに来る前の短いブリーフィングを思い出していた。あろうことか天龍の提督は、出席した泊地総司令に対して今度の任務を彼女に「打ってつけ」だと請け負ったのである。大人数で上陸しても陸戦に不慣れな艦娘たちでは餌食になるだけだが、この天龍なら龍田を出し抜くことさえできるだろう、と。

 

 確かに、天龍には単独行動が可能なだけの練度がある。多勢に無勢な状況を、敵を陸地に誘き出すことで挽回したこともあった。その際の経験から、後で罠というものについて独学ながら学びもした。だがそれは彼女が深海棲艦によって追い込まれた状況を打開する為のものであって、自ら危地に飛び込む為のものではなかったのだ。龍田の島で一人きりというシチュエーションでなければ、天龍は怒鳴り散らしたかった。

 

 同じ単冠湾泊地所属の天龍・龍田という姉妹艦同士ではあるが、指揮する提督、配属された艦隊が違う二人の間に面識はない。無関係な艦娘が起こした、無関係な事件に、どうして自分が出向いて命を危険に晒さなければならないのか、天龍には寸毫(すんごう)たりとも分からなかった。この事件と天龍を結ぶ唯一にしてか細い糸は、海軍が『龍田に殺害された』と考えている五十鈴と天龍が、顔見知り程度の仲であるという些末な事実のみだった。現状を受け入れる為に、艦娘の仕事なんてこういうものだ、とは考えたが、それにしたってひどすぎる、とも感じられた。政治的に不安定な地域であることを理由にか、大してバックアップもないのだ。

 

 上空から支援してくれる筈だったヘリは撃墜され、その際に支給された個人携行装備は大半が失われてしまった。どうせ撃ったこともない突撃銃だとか拳銃だったから、きちんと扱えるとも思えず惜しくはなかったが、それにしても刀一本と希釈修復材程度しか持っていないのは心もとなかった。艤装を装備していたらなあ、と嘆く。島ないし島付近での活動中に電探やレーダーで居場所を探知されることを防ぐ為に、天龍は艤装を泊地に残してこなければならなかったのだ。だがそうすることによる隠密潜入のメリットも、さっき信号弾が上がったせいで、失われてしまった。

 

 どうせバレるなら、最初から艤装を着用した状態で来させてくれればよかったのに、と天龍は不愉快になった。探知されるだろうが、こっちだって探知してやることができた。または艤装を解除して、囮にすることもできたろう。一つでも多くの選択肢が欲しかったのに上からそれを奪われて、彼女の心は不平と怒りで荒れ狂っていた。天龍には龍田を訓練したという教官の那智のことも気に入らなかった。彼女から彼女が龍田に仕込んだ内容を教わった時、天龍は泊地にいるだけの那智を馬鹿にして笑った。「腑抜けが」と天龍が言うと、那智は片眉を動かして答えた。それだけだった。「お前が訓練した艦娘だろ? お前が行ってどうにかして来いよ」と言われても、彼女は淡々と罠について講義を続けた。

 

 ふと、彼女には悪いことをしたな、と天龍は思った。自分も彼女も、仕事をしているだけだ。しかも那智なんかは、本当は民間人みたいなものなのに、教え子が事件を起こしたからというだけの理由で本土から引きずり出されたんだ。罵るんじゃなく、哀れんでやるべきだった。馬鹿にするのではなく、敬意を払うべきだったのだ。しかし、もう過ぎたことだった。謝罪するにも、今度こそ正しい態度を取るにも、島から生きて帰らなければならなかった。

 

 さっきまで聞こえていた巡視船の発砲音は止んでいる。きっと、墜落したヘリの救助に向かっているのだろう、と天龍は推測し、乗員が無事であることを祈った。彼女の知る限り、今回の事件で五十鈴以外の被害者は出ていない。天龍が思うに、二人目が死ぬか傷つく必要があるとすれば、そうなるのは事件の主犯である龍田その人であるべきで、自分を含めた他の誰かではなかった。もう一度、今回は那智ではなく龍田に対して、天龍は胸中で「腑抜けが」と罵った。姉妹艦にそんな言葉を向けることへの抵抗感はあったが、天龍の聞いていた話では、龍田の戦争ストレスがこの事件の原因だったから、そう言わずにはいられなかった。面識のない妹に訊きたかった。戦争で傷ついたのは自分だけだとでも? 専門家に助けを求めることは恥だとでも?

 

 天龍の考えでは、きちんと龍田が軍の用意した専門家の下で受診していれば、せめて辛くなった段階でそのことだけでも明かしていれば、こんな事態を引き起こすほど壊れてしまわずに済んだことは違いなかった。風邪を引いた人間が病院に行くのが当然なように、ある種の強いストレスを覚えた艦娘が専門の医師に掛かるのは、何ら恥ずべきことではないのだ。だというのにそれを恥じ、怠り、挙句この事件を起こした──天龍には、龍田の中で膨張した問題を解決する手段は、最早一つしかないように思われて仕方なかった。

 

 立ち止まり、島に来る前に頭に入れた地図を呼び出して、天龍は自分の想定位置を確認する。残り僅かな道のりを行けば、レーダーサイトに到着しそうだった。頭の中の地図を閉じ、歩みを続ける。レーダーの無力化も任務の内だったが、彼女にはそれを果たす気がなかった。龍田を始末してしまえば、レーダーサイトのことはどうでもよくなるからだ。しかし、龍田はそのことを知らないから、サイトを守ろうと出先から戻ってくるか、または待ち構えている筈だった。

 

 巡視船が発砲を始める前に発砲音を一つ聞いていた天龍は、彼女の標的がまだサイトへ戻る最中であることを願った。待ち伏せできたなら、相手が砲を持っていたとしても十分に勝ち目がある。待ち構えられていたら、どちらかが痺れを切らして下手を打つまで、隠れて耐え続けることになる。天龍は自分を忍耐強い方ではないと認識していた。

 

 土を刺す刀の切っ先に意識を向けながら、音にも神経を尖らせる。天龍は自分の目を信用していなかった。片方が塞がれている上に、目は余りにも虚言癖が過ぎた。木の(うろ)が敵の顔に見えたり、逆に敵の姿が風景の一部だとしか映らなかったりして危うく死にかけてからというもの、もっぱら彼女は耳と鼻を信じていた。集中と共に、鳥の鳴き声が遠くなり、風にそよいだ木々のざわめく音、天龍が「草木の衣擦れ」と呼ぶ音もまた、耳に入らなくなっていく。それに代わって鳥の羽ばたきや、小動物が動いて立てるがさがさという音が、より大きく感じられるようになった。

 

 不気味な静寂だ、と天龍は思った。その中に、自分と、龍田がいる。両者ともよく訓練され、実戦経験を積み、狡猾さと凶暴さを備えた優秀な艦娘で、武装している。今夜が終わった後、二度と太陽を見ないのはどちらになるのか、天龍にも分からなかった。

 

 刀の先が、ワイヤーに触れた。天龍は即座に刀を引き、その鋼線が何に繋がっているか確かめた。前回は信号弾だったが、次に作動するのが爆弾ではないとは限らないのだ。しかも、爆弾ならまだいい方だった。死ぬとしても迅速な死を迎えることができるからだ。彼女の知識には、緩やかに失血死させる為の罠が複数個あった。このワイヤーに繋がっているのがそういう運命ではないと、確認もせずに否定できる材料は、一つもなかった。天龍はワイヤーを視線でたどり、両端を調べた。どちらも枝に縛りつけてあるだけで、特に何にも繋がっていなかった。転ばせる為だけのものだと安心して、一歩踏み出そうとし、そこで天龍は足を上げたまま固まった。それから自分の愚かさに向かって言った。そんな訳があるか!

 

 ワイヤーに足を掛けて転んだら、どの辺に手や足、体が触れるだろうかと想定し、その場所を刀で探る。天龍が思った通り、そこには竹串が仕掛けてあった。ワイヤーに気づいた者が、それを軽くまたいだ後で足を下ろすだろう場所にも、丁寧に竹串が刺さっていた。天龍は、自分の焦燥をごまかそうとして微笑んだ。どうやら龍田は基本をしっかり押さえているらしいと思って、苦々しく感じると同時に、同じ技術を修めている者として小さな親近感を覚え、きっと一緒に話して酒でも飲んだら楽しいだろうな、と想像した。そんな未来はあり得ないとも思えたが、しかし想像の世界は下らない現実に囚われず、自由だった。

 

 天龍は竹串を刀で払って地面に寝かせた。手でやらなかったのは、竹串の先に何か毒性のものが塗ってあることを警戒した為だ。仮に即効性の毒物ではなかったとしても、毒に触りたくなかった。そうしてその場を後にしようとして、天龍は考え直し、その罠のワイヤーと竹串を回収した。こんなに丁寧で心のこもった罠を仕掛けてくれた龍田に、お返しをしてやりたかった。巡視船が龍田の発砲に応射する形で攻撃を加えていたことから、彼女のいる方角は大体分かっていた。後は、彼女より先にサイトに到着し、彼女が通るだろう道に仕掛けてやればいいだけだった。

 

 自分が仕掛けた筈の罠が、本来とは違う場所に仕掛けてあるのを見つけた時、龍田がどんな顔をするか考えると、天龍は友人に悪戯を仕掛けようとしている時のように楽しい気持ちになった。にやにやと笑いながら、考える。龍田は罠を見抜くだろうか? 見抜くだろうな、きっと見抜くに決まってる。驚くだろうか? 当然、そうだろう。逃げ出すだろうか? いいや、龍田は絶対に逃げ出さない。その代わりに、ふざけた闖入(ちんにゅう)者を殺しに掛かるだろう。その為の誘いとして背を向けることはあっても、逃げようとはしない。天龍には分かった。罠の一つ一つに込められた折り目正しさが、龍田の非情さと熟練を代弁していた。そんな罠を仕掛ける艦娘が敵前逃亡をするとは、到底信じられなかった。

 

 木々の合間に、上部へとレーダーが据え付けられたトーチカが見えてくる。中に人の気配はない。天龍は、自分が最初のレースに勝ったことを認めた。だが本番は次であり、その結果次第では何もかも引っくり返されかねなかった。隠れる場所を探して、辺りを見回す。龍田の接近を監視できる都合のいい茂みがあり、天龍はそこに隠れようと決めた。それから彼女は標的が使うであろう道を見つけ、そこに罠を仕掛け直した。久しぶりに作ったにしては、期待よりも遥かに素晴らしく為された隠蔽に、天龍は満足しながら茂みへと身を潜めた。いつでも飛び出せるように姿勢を整え、龍田の足音を待つ。そうしながら、失敗した時の為に、逃げ道を見つけておくことも怠らない。

 

 二つほど撤退ルートを頭の中に作ると、天龍はいよいよひたすら待つ他にやることがなくなった。彼女はレーダーサイトを眺め、どうやって森林に遮られることなく周囲数百キロの様子を探査しているのだろう、と思った。でも、ほとんどの艦娘と同じで十五歳で軍に入った彼女には、その方法を想像するだけの知識がなかった。自分の無知を思い知らされるようで気に食わなくて、天龍はそれについて考えることをやめた。どうせ、思いを巡らせることは他にも沢山あったのだ。ふと天龍は、最後にこんな戦闘らしい戦闘に参加したのは、いつのことだったろうかと考えた。そして彼女が直面している、ぞくぞくするほどの命の危険を感じるような時間は、ここ二年ほど皆無だったことを思い出した。

 

 規模は小さく、かつ変則的ではあったが、これはかつてあらゆる天龍が「死ぬまで戦わせろ」と叫んだあの戦争の終結以来、初の戦闘任務だったのだ。それに思いが至った時、何となく天龍は龍田のことを責められないような気がした。何しろ、彼女自身も徐々に興奮し始めていたからだ。お前も()()が欲しかったのか? と天龍は想像の中の龍田に問い掛けた。彼女は笑い、天龍も歯をむき出しにして笑った。確信があったが、その確信が実際には外れていようと、当たっていようと、どっちだってよかった。天龍はその何処かに龍田が潜む闇に向かって、歌うように囁いた。いいぜ。お前にオレの命を、そうでなければ死をくれてやるよ、龍田。


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