We, the Divided   作:Гарри

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15.「home from the sea.」

 龍田は木に背を預け、咳混じりの弾む息を整えようと努力した。右手を膝につけて身を折り、今にも破裂しそうな肺を、肌の上から左手で押さえる。汗と涙が混じったものが赤らんだ頬を伝ってあごに集まって、ぽたぽたと足元に落ち、地面を湿らせる。その様子を彼女は呆けたように数秒の間見つめていたが、不意に背後から微かに枝を払う音が聞こえたように思って、ぎこちない動きで振り返った。涙で僅かににじんだ彼女の視界には何の異常も人影も映らなかったが、龍田はまだ自分が追われているということを疑いなく認めた。

 

 背を伸ばし、逃走を再開する。けれど走るには疲れすぎていたし、那智との距離は数時間ほど伸びても縮まってもいなかったので、歩くことにした。早歩き程度の歩調を取って、彼女は上を見た。いつの間にか枝の天井からは光が差し込んでくるようになっており、それは龍田を長い間那智の目から隠していた夜が明けたことを、率直に示していた。小休止を挟みながらだったが、それでもそんなに長い間移動し続けていられたことに、龍田は自棄気味な感動を得た。

 

 歩きながら、疲れのせいで思考が霧散しそうになるのをどうにか留めて、次にどうするかを決めようとする。逃げているだけでは那智のもたらす確実な結末を回避できないという事実は、彼女の教え子たる龍田が一番よく理解していた。立ち向かうか、死ぬか。奇妙にも、これまでの那智との対話でも姿を見せたようなフレーズが頭を過ぎって、龍田は唇を歪めた。笑おうとしたのか、不愉快になったのか、自分でも分からなかった。その無意味さ故に、己の感情について考えるのをやめて、那智の狙いを探る。

 

 彼女は重石になっていた艤装を下ろし、追いつくことを諦めて、彼我の距離を保つことにしたようだった。龍田が百メートル進めば、那智も同じペースで百メートル進んだ。龍田が立ち止まれば、那智もまた立ち止まって休憩をした。けれど休憩時間が三分を越えると、今度はじりじりと近づき始めて、龍田を追い立てるのだった。近づく際には必ずわざとらしく音を立てて来るので、ただちにそれと分かった。

 

 その故意性に那智の狙いを読み解く鍵がある気がして、意識を思考に集中させる。その甲斐あって、すぐに思いつくことがあった。()()()()()()()()()()()。疲れきって何もできなくなるまで追い回し、へたばった獲物を仕留める、という狩りのやり方があることを、龍田は知っていた。しかしまさか、自分がその獲物役にされる日が来るとは思っていなかった。彼女は軽い苛立ちを覚えた。それは那智から、「こいつは追われれば逃げるだけだ」と評価されていると思ったからだった。そうでなければ、こんな手法は使わない筈だった。

 

 疲れと苛立ちが合わさり、彼女の中で捨て鉢な敵意として結実する。どうしても那智に一泡吹かせてやりたくなって、たちまち龍田の脳と肉体は、今までの疲労を忘れたかのように動き始めた。思考を覆っていたもやが晴れていくような感覚に、彼女は言い知れぬ快感を覚えた。けれどもそれで彼女の冷静さが失われることはなく、経験深い元教官が、依然として打倒しがたい強敵であることも忘れていなかった。

 

 消耗させ、罠に掛け、意表を突き、混乱させなければ、勝ち目は薄い──龍田はそのように決めつけた。那智が現場を離れてからは二年も経っており、一方で自分は現役であるということは、龍田にとって何のアドバンテージにも思えなかった。事実として、最初に交戦した時、那智は白兵戦で龍田を無力化することに半ば成功していたのだ。それを無視して真っ向から戦いを挑めば、同じことの繰り返しになるだけだと彼女は信じていた。それは単純な経験的判断というだけでなく、恩師にはそうあって欲しいという教え子の願望でもあった。

 

 順番に考えていく。消耗は、朝まで獲物を追い続けていたのだから、それなりに疲労を蓄積していると思われた。意表を突くのは、罠に掛ければ達成できることだ。最後の一つが中々の難題だった。混乱させられれば、ごく短時間でもいいから判断力を奪うことができれば、那智とて無敵ではない。返り討ちにもし得る。でも、どうやったら彼女を混乱させることができる? 龍田は自問し、即座にそれは無理だと自答した。だとすれば混乱ではない別の要因を以って、那智から敵の行動に対応する時間を奪わなければならなかった。

 

 那智の顔に土を掛けて逃げ出した時のことを思い返す。冷えた頭で分析してみれば、何故彼女があの時隙だらけだった自分を仕留め損なったのか、龍田にも分かった。那智は、龍田が彼女のことを愛し、崇拝してその能力を絶対的に信用しているのと同様に、龍田のことを鍛え上げられた一人前の兵士として、砲火の下を潜って生き抜いた本物の艦娘として見ていたのだ。だから那智が教え子を追い詰めた時、彼女が予測した龍田の反応は、打ち倒す為に向かってくるか、逃げ延びて仕切り直す為に向かってくるかの二つだった。単に背を向けて逃げ出すとは、考えていなかったのである。

 

 そのせいで那智を失望させたとしたら、現在こうして龍田が狩りの標的扱いをされているのも、納得の行く話だった。龍田は深く恥じ入って、消えてしまいたい気分になった。けれどじきに彼女の冷徹な部分が「それはつまり、教官は今、意識的にか無意識的にかは別として、私のことを侮ってるってことよね?」と鋭い指摘を放って、恥辱を丸っきり忘れさせた。

 

 移動速度を落とさずに、龍田は自分の装備を調べた。逃げる内に拳銃を落としてしまい、矢は残り二本しかなかった。水は水筒一つ分で、希釈した高速修復材に至っては水筒に半分もない。右肩の矢傷を治すのに使うのも、躊躇いながらというほどだった。武器は弓、天龍の刀、ナイフ、それから両手両足。久方ぶりに龍田は口を開いて、独り言を言った。「前近代的ねえ」だがその程度のものしかないからには、それでどうにかするしかなかった。

 

 龍田は休憩を取らずに歩き続けた。那智の疲労の度合いを知る術がなかったのと、自分が休むことで彼女を休ませたくなかったからだった。傷つき、酷使された体に無休が堪えたが、龍田は小声で機械的に罵声をぶつぶつと呟きながら歩き通した。頭の中で何度も地図を開き、目指す場所を脳裏に描く。島の東端、森の外縁部に那智を連れていくつもりだった。そこで彼女を罠に掛けるのだ。

 

 罠に掛け、首尾よく那智を仕留められたとして、その後で彼女をどうしたいのかについては考えないようにした。どんな拷問を加えたとしても、龍田には那智が口を割ってくれるとは思えなかった。話すとすれば、それは彼女が自分の意思でそうしたいと思った時だけだろう。でも、那智は戦争のことを話すのを拒んでいた。話すことによって、苦しみを取り去るのを嫌がっていた。それから救われたいと願った教え子とは逆に、苦しんで生きたいと望んでいたのだ。

 

「分からない人」

 

 諦念を声に乗せて、龍田は言った。那智を理解しきれない己を不甲斐なく感じて、溜息を吐く。それは傲慢な考えであると分かってはいたが、心から愛した恩師のことを何も分かってやれていないという悲しみは、龍田の胸を締めつけた。自分が彼女をもっと理解できる他の誰かだったら、こうはならなかったのではないか、という疑問が、繰り返し繰り返し胸の奥底から湧いては消えていった。

 

 無性に那智と話したかった。これから殺すか殺されるかする相手と話したいというのは異常な欲求であるようにも思われたが、たとえそうだったとしても、半径数十キロ圏内に龍田を糾弾できる者などいないのだ。彼女は罪のない妄想を楽しんだ。那智にどういった言葉を掛ければ殺意ではなく、より暖かな感情のこもった返事をしてくれるか、考えてみたりもした。通信機の付いている艤装を持ってこなかったのは、大きな間違いだったと龍田は悔やんだ。立ち止まって那智が自分の息の根を止めに来るのを待てば、最後に二分か三分程度はお喋りができるかもしれないという希望的観測を、鼻でせせら笑う。

 

「あなたはきっと、私の言うことなんてまともに取り合わないでしょう」

「どうかな。内容次第じゃないか」

 

 教官の声が聞こえて龍田はびくりと震えたが、直感的に幻聴だと理解して、むしろ気を楽にした。

 

「じゃあ、やっぱり無理よ。私は救われたい。あなたにも苦しんで欲しくない。だけど、あなたは傷を癒したくない。上手く行く筈がないじゃない」

「そうとも限らないだろう。お前の最大の目的は何なんだ、救世主気取りで私を救うことか?」

 

 姿は見えなかったが、龍田は彼女の不安定な心の中にだけ存在する那智が、「救う」の部分で両手の人差し指と中指を使って宙を掻いたのが分かった。その滑稽な様子と当該部をわざとらしく強調した声に、龍田は忍び笑いを漏らした。「そういうのじゃないけど。私とあなた、二人で痛みを分かち合って、お互いに問題を抱えてるってことを認め合えたら、それでもいいんだって言い合えたら、楽になれると思ったの」話しながら、ふと龍田は疑問に思った。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「それが救世主気取りだと言っているんだよ、龍田。私は私、お前はお前だ。なのに、どうして私にまで構う? 私を“救う”ことで、お前は何を得るんだ?」

「得るだなんて、それじゃあ取引みたいで、潔白じゃないわ。あなたが苦しんでいるのは、私にとってもつらいことなのよ」

「いいぞ、遂に本音が出たな。つまりお前は、実際のところ自分の為に私を救おうとしている訳だ」

 

 龍田は視線を鋭くして、そこに幻の那智がいるかのように虚空を睨んだ。彼女の口から攻撃的で刺々しい声が出て、森の中に響いて消えていった。

 

「ひどい言い方ね。私はあなたを助けたいと思っただけなのに、それが悪いことだったって言いたいの?」

「気にすることはない、利己的なのは別に恥じゃないんだ。もちろん、チャームポイントとも言い難いがね。なあ、龍田、お前は今のところ非常に悪い子だ。いい子は自国領を占領したりしないし、人の心に土足で踏み入るような真似はしないものだぞ。ましてお前は、それを何だかんだと理屈付けて正当化したんだ。どうして素直に、自分の傷を癒したいだけだと認められなかった? 苦しんでいる時、その苦痛を取り去りたいと思うのは、ごく自然な心の働きだ。苦しみが大きければ、どうにかしようとして必死にもがくだろう。その為に誰かを傷つけることになったとしても、それは至って普通のことでしかない。なのにお前は自分が、自分だけが救われていくことが何かとんでもない悪事のようなものだと思って、釣り合いの取れる善行をしようとした。その結果を見てみろ。もう頃合いだから、よく見てみるがいい。お前は私を救おうとして、かえってずたずたにしたんだぞ」

 

 発作的に言い返そうとして、龍田は言葉に詰まった。彼女は幻聴の言葉を認めそうになっていたのである。何故那智の告白が必要なのか語った時、彼女は「()()()の傷を癒す為」に必要なのだと主張することはあっても、「()()の傷を癒す為」とは言わなかった。それは、那智の救済が龍田の快癒に要求される段階の一つであって、それそのものとして独立した目的ではないことを示唆していた。認めればそのことへの罪悪感までを背負い込むことになるという恐れだけが、あわやというところで龍田の認容を押し止めていた。

 

 潮の匂いが強くなってきて、目的地に近づいていることが分かった。もう少しだと自分に言い聞かせ、幻聴を気にしないように努めながら、龍田は棒のようになった足を動かし続けた。存在しない那智は、そんな教え子の様子を察してか哀れみを多分に含んだ声で言った。「私はそんなに頼りないか? 何故、純粋に助けを求めようとしてくれないんだ」これには龍田も反論した。本物の那智に聞かれることを恐れて、声を小さく、低くしてだったが、心の生み出した幻には声の大小は関係なかった。

 

「じゃあどうしろと? あなたの足元にすがり付いて泣きながらこう言えばいいの? あなたがどれだけ傷ついたってどうでもいい、私は救われたい、生きていたい、死にたくない、何でもいいから助けて、って」

 

 皮肉っぽく大袈裟な抑揚をつけ、否定されることを前提としてそう訊ねる。けれども那智の声が即座にそれを肯定したので、龍田は束の間の精神的な空白の後、羞恥と嫌悪感を露にしてやっと言い放った。「そんなこと!」彼女の背後で、姿なき那智は押し殺した笑い声を上げた。幼児のあどけない振る舞いを見た母親が漏らすようなその笑いは、彼女の教え子の感情をひどく逆撫でしたが、龍田が更に言葉を重ねる前に那智の方から口を開いた。

 

「ああ、死ぬほど恥ずかしいだろうよ。お前はプライドが高そうだから、余計にそうかもしれないな。だができないとは言わせないぞ。お前だって、恥を晒せと私に要求したじゃないか。こっちが同じことを求めないなんて、都合のいい思い込みだ」

 

 応酬の前に森林地帯の切れ目が見えて、龍田は口を閉じた。もう数十メートルも行けば、目標地点だ。仕掛けようとしていることが成功するにせよ、失敗するにせよ、一つの大きな区切りが訪れる筈だった。恐れに指先が冷やされ、感覚が失われそうになって、龍田はしきりに手を擦り合わせた。後ろに那智がいるのを、彼女はまだ感じていた。でもそれが本物なのか、自分で作り上げた虚像の那智なのか、自信が持てなかった。話しかけても答えてくれるとは限らないし、答えたのが本物という保証もない。木々に隠れた那智を見つけ出せるほどの眼力があるのでもなければ、手は一つしかなかった。

 

 目標の数メートル手前で立ち止まり、やにわに振り返って弓を構え、矢を(つが)えて放つ。那智がいるであろう方角へ向けたものであって、彼女の姿を捉えて射たものではなかったので、当然この矢は遠くで木に命中する軽い音を立てるだけに終わった。その音を聞くか聞かないかの内に第二の矢を矢筒から抜き、息すら止まりそうな緊張に耐えながら“その時”を待つ。集中した意識の中で、視界に動くものが映った。輪郭すら明確に捉えられないそれが何なのか確認するよりも先に、龍田は覚悟を決めて目を見開き、歯を食いしばって両腕を体に引きつけ、盾にした。

 

 ひゅう、と音がして、左腿に一本の矢が突き立つ。その出所は、龍田が矢を放った方角と概ね一致していた。木を削っただけの雑な作りの矢じりに肉を抉られる感覚に、彼女は自分でもぞっとするような呻き声を上げ、足を滑らせた風に見える動きで後方に倒れ込んだ。すぐに半身を起こし、那智の影を見た辺りに射掛けようとする。けれども狙いをつけていると、姿を隠したままの那智が放った二射目が、龍田の脇腹に突き刺さった。その痛みで腹筋に力を込めるのが難しくなって、思わず矢から指を離してしまい、末の一矢は見当違いの方に飛んでいった。

 

 弓を捨て、右腕が下になるように身を捻ると、龍田は地面を這ってさっきまでの進行方向に進んだ。少しも行かない内に、三射目が彼女の左肩に命中した。龍田は我慢するのをやめて、痛みに叫びを上げた。右腕だけで土を掴み、体を引き寄せ、右足で地面を押して進む。伏せている龍田には姿こそ見えなかったが、那智は標的のその様子を見て隠れるのをやめたようだった。しかし、がさがさと音まで立てながら近づいてくるので、彼女の教え子にはただちにこれが誘いだと分かった。彼女はまだ、敵が反撃の余力を残していると考えている。三本も矢を当てておきながら臆病なまでの警戒に、龍田は改めて彼女を尊敬した。

 

 痛む左腕で音を立てないように刀を半分ほど鞘から抜く。茂みや低木の向こうから、那智の足音が近づいてくる。彼女は自分にとどめを刺しに来ているのだという考えが、龍田の頭にぐるぐると渦を巻いて恐怖を煽る。地を掴む右腕を止めて、刀の柄を握る。音に耳を澄ませ、那智の場所を想像し、特定する。そして彼女との間に存在する最後の茂みが揺れ、那智の姿を草木越しに捉えた途端、龍田は激痛を無視してもう一度身を捻り、刀を投擲しようとした。

 

 突き飛ばされたような衝撃で、失敗を知覚する。今度は右肩に矢が刺さっており、刀は龍田を離れて脇に転がっていた。柄に手を伸ばすと、その腕を射抜かれる。なので彼女は刀を諦め、足の動きだけで体をひっくり返し、那智が追いつくまでの絶望的な時間稼ぎを続けた。下半身が血で濡れて不快だったが、地面との摩擦係数が減ったのか、這って進みやすくなっていた。失血で酩酊じみた状態に陥った脳で、怪我の功名とはこのことかしら、と考える。

 

「終わりだ」

 

 那智が静かに言った。距離はまだほんの少しあったが、彼女の声を邪魔できるものは二人の間に存在していなかった。龍田はそれを無視して這い続けた。彼女が地面を引き寄せる度に、体の矢の刺さった箇所から血が染み出て、土や彼女の服を赤く汚した。血みどろの芋虫、と龍田は自嘲的な言葉を思い浮かべた。土の上を泳ぐようにして進む。ぼろぼろの手袋が擦り切れ、爪が割れて指からも出血が始まったところで、辺りを見回し、今自分が寝そべっている場所こそが終着点だと確かめる。

 

 肘を地に突いて支えながら、彼女は体を返した。それから少し後ろに下がり、追跡者を見やる。五メートル離れたところで、那智は既に姿をさらけ出していた。目をしばたかせて己の視線を隠しながら、教え子は瞬時に元教官の武装を調べた。残っている矢は下ろした弓に軽く番えている一本きりで、後はナイフが一本。それが彼女の持つ全部だった。魂まで吐き出しそうな深い溜息を済ませてから、龍田ははにかむような上目遣いで呼びかけた。

 

「教官」

 

 彼女の予想通り、その呼びかけに答える者はいなかった。那智はかつての教え子を、感情の読み取れない目で見下ろしていた。その顔は、敵が未だに反撃を試みようとしていることを確信している兵士の、硬い表情以外を浮かべていなかった。龍田は彼女自身でもどうやったか理解できないまま、笑みを見せて言った。「こうなると、あなたを呼んだのは」そこまでで咳き込んでしまうが、吐血はしなかった。脇に刺さった矢じりのせいで肺が圧迫でもされたのだろうかと思いながら、龍田は先を続けた。

 

「失敗だったかもしれませんね。まさかここまで頑固だとは、思いもしませんでしたよ」

 

 那智は微動だにしなかった。何を言われても考えないようにしているのか、平静そのものだ。それが龍田にはさっぱり気に食わなかった。鏡で見ずとも分かるほど顔を醜悪に歪めて、最後の最後まで彼女の頼みをはねつけ続けた元教官に言い放つ。「そうよね、どうせ私を今日殺したところで、あなたが死なせた教え子がまた一人増えるだけ。今更一人増えたからって何てことない、そうでしょう?」それまで龍田の目を見つめ返していた那智の視線が、心なしか下がった。自分の言葉が彼女の心の傷に触れていることを疑いなく信じて、龍田はいかにも哀れらしい声を出した。

 

「それに最初に手を出したのは私だもの、良心の心配も要らないわね。でも少しは、少しぐらいは自分だって悪かったんじゃないかとは思わない? だって私はあなたの失敗なのよ、那智教官。あなたが私をこんな風にしてしまったんだから」

「その責任を取りにここに来た」

 

 断固たるその言葉に、しかし龍田が返したのは品のない大笑だった。彼女の何処までも滑稽そうな笑い声は、何本もの矢で体を貫かれているという事実を加味すると、極めて違和感のあるものだった。何の事前動作も吐き捨てる言葉もなく、龍田はナイフを抜いて振りかぶる。そして当たり前のように反撃の矢を受けて、投げる前に手からそれを落とした。龍田はゆっくりと起こしていた背を土の上に横たえると、腹に新しく刺さった一本を見下ろして言った。

 

「なら、さっさと終わらせてもいいんじゃない? まさか苦しんで死んでいく私の姿を見ておいて、後でまた自虐に耽るの? 悪趣味ねえ」

 

 この発言で初めて那智が感情らしいものを見せた。それが逡巡だったので、龍田は笑った。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。再度激しく咳き込んでしまい、ぜいぜいと喘ぎ声が出る。掠れた声で、教え子は元教官に言った。「早くして」おぼろげな意識のお陰か、痛みはなかった。龍田がまぶたを下ろすと、耳に遠くから鞘と刃の擦れる音が聞こえた。那智がナイフを抜いたのだと知って、弱まっていた脈が残っていた気力の全てを体から搾り出し、ペースを取り戻す。

 

 土を靴底が撫でる、ざり、という音で、龍田は改めて目を開いた。彼女を育てた女が横に立っており、左の逆手に抜き身のナイフを持っていた。「終わりにしましょう」と教え子が言うと、那智は微かな動きで頷いた。緩やかにナイフを握った手が持ち上げられていく。漠然とした意識の中、龍田の胸には何の恐怖もなかった。那智の手の動きが止まったところで、彼女はにこりと微笑んで口を開いた。

 

「ねえ、教官」

 

 そうして、那智が教え子の遺す言葉に注意を向けるのを感じ取った次の瞬間、龍田はごろりと横に転がって逃げた。ぽん、と間抜けな炸裂音がして、地面から金属缶じみたものが跳び上がる。龍田は光と音と破片を防ぐ為に強い力を込めて目を閉じたが、その前に那智が唖然とした表情で「やられた」と言わんばかりの大口を開けていたのを見逃さなかった。

 

 先の炸裂音を何倍にもした破裂音が響き、ばら撒かれた時速百キロの金属片が木々や地面に突き刺さる打擲(ちょうちゃく)音がそれに次いで龍田の耳朶(じだ)を打った。小さな耳鳴りだけを残して、しんとした静寂が戻る。満身創痍の龍田は、那智が平気な顔をして立ったままでいるのではないかと思うと、目が開けられなかった。通常の小火器で傷つけることのできない艦娘の肉体に、何処まで小型対人地雷が通用するか、彼女にも詳細は掴めていなかったのである。だが倒れたままでいればいずれ失血が死を招くことは避けられない。遅かれ早かれ現実を認めなければならなくなるのだと言い聞かせて、龍田はまぶたを上げた。

 

 少なくとも、那智がきょとんとした顔をしていた、ということはなかった。やけに安心して、彼女はよろよろと身を起こし、希釈修復材の水筒を取った。矢傷を治療しつつ、那智の姿を探すが、見つからない。どうやら思ったより長い間目をつむっていたようで、龍田のものではない血の跡と、ベルトに引っ掛ける為の止め具が壊れた水筒が残っていた。水筒を拾い、匂いと味を見て中身が修復材だと知る。容器に穴が開いていたので、龍田は中身を自分の水筒に移し変えた。その作業を終えて、血痕を見る。それは茂みに向かって消えていた。出血のせいで言うことを中々聞いてくれない体に文句を言いながら、龍田は那智の後を追った。手傷は負わせたし、治療もできなくなっているようだが、それだけでは安心できなかった。

 

 那智はじきに見つかった。彼女は茂みを通った後で森を抜け、崖に行こうとしていたが、そこで力尽きたのか動けなくなってしまったようだった。壊れた義手を横に投げ出し、仰向けになって髪を振り乱し、苦しそうに悶えるばかりの姿は、彼女の絶対的な強さを信奉していた教え子に落胆さえ感じさせた。とはいえ、龍田も同じようなことを偽装して反撃をした身である。いっそ期待に近しいものを抱えながら、彼女は那智に近づいていった。そうして、彼女の煩悶が見せかけのものでないことを発見した。那智は、己の血で溺れ掛けていたのである。けれど、体には目立った傷がなかった。

 

 それで龍田は跳躍地雷の威力を把握した。やはり不足していたのだ。義手を破壊し、水筒を壊しはしたが、艦娘の肉体、その表皮を貫くことはできなかった。だから那智の体の見える場所は傷つかず──爆発の時に開けていた口の中が傷ついた。龍田は倒れるように那智の側に横になると、肘を突いて身を起こし、那智の口を覗き込んだ。そこには小さな血溜りがあったが、吐き出すことも首を回して口に溜まらないようにすることもできない様子だった。あごを掴み、横を向かせて血を吐かせる。酸欠寸前だった那智は荒い息をするばかりだった。龍田が彼女に上を向かせると、またもや溺れ始める。

 

「麻痺してるわ」

 

 と龍田は診断した。吐いた血が流れ込み、涙と混じって赤く染まった眼球で、那智は彼女を見つめた。生死を完全に敵の制御下に置かれているにも関わらず、その目つきからは険が抜けていた。「破片が口腔内を通って、脊椎か何処かを撫でていったみたい」だとすればどうやって那智が地雷の爆発したところからここまで這ってくることができたのか、上向きに倒れていたのは何故かという疑問は残ったが、それが龍田の見立てだった。「多分、動いたせいで損傷が大きくなって、完璧に麻痺したんでしょう」再び那智の顔を横にし、血を吐かせる。が、その時ぴくりと那智の首が動いた。反射的なものだと考える余地はあったが、龍田はそう思わなかった。彼女は穏やかに言った。

 

「首から上は麻痺してない……死のうとしてたのね」

 

 那智が言葉で答えることはなかったが、赤色を洗い落とそうとして涙を流し続ける彼女の双眸は、龍田にとって十二分に答えと成り得た。起き上がり、伸ばされた那智の足の上に膝を開いて座る。彼女の胸元を掴んで引っ張り上げると、首が下がり、唇を伝って血が流れた。「どうして?」と龍田は尋ねた。那智が口から垂らす血が手に掛かるのにも構わず、詰問する。

 

「苦しんで生きたいって言ったじゃない。なのにそれも諦めて逃げようとするなんて! 私はどうなるの? あなたが死んだら私がどうなるか考えなかった? 私は生きていたいのよ、でもそれは、あなたなしにはできないことなのに!」

 

 彼女の教官を抱きしめた龍田は、両目から涙を溢れさせながら那智の胸に顔を(うず)めて、何度も頬を(こす)りつけた。暖かな液体が龍田の後頭部に降り注いでいたが、それを苦にも思わずに彼女は那智を抱いた。泣いてはいたが、それは悲しみからこぼれたものではなく、むしろ彼女が那智に向ける純真な愛情がそうさせていたものだった。

 

 涙が止まるのを待って、龍田は自分の水筒を取り、その中身を那智の口腔へと注いだ。麻痺の治癒には時間が掛かりそうだったが、出血は止まった。それは那智の自殺が失敗に終わり、彼女の命を彼女自身から守ることに龍田が成功したという意味だった。空になった水筒を捨てて、彼女は抱擁をし直した。回した腕と腕の間に確かな体温を感じて、安堵する。と、緊張と共に涙腺が緩んで視界がにじんだ。片手で目元を拭いつつ、那智の体を横たわらせ、龍田もその左隣に寝転がり、昼の曇り空を見上げる。

 

 那智が死なずに済んだとはいえ、これからどうすればいいのか、もう龍田には分からなかった。凄惨な最期すら厭わないほど強固な那智の拒絶を前にして、龍田には打つ手もなければ気力もなかった。ずっとこうして横になっていられればいい、とは思ったが、そんな馬鹿な話が実現する訳もないということは承知していた。来るべきものが来るまで、那智と一緒にいたい。ただそう感じて、その欲求に身を委ねる。すると、思いのほかに気が楽になった。来るべきものというのが何なのか分かっていたのに、それは龍田にとって驚くべき変化だった。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。その驚きに任せて、彼女は那智に言った。

 

「あなたは私を殺せた」

 

 言葉ではなく、弱々しい呼吸音が返ってくる。龍田は苛立たなかった。那智が耳を傾けてくれているのは感じていた。「何度もその機会はあったのに、あなたは私を殺さなかった。さっきだって、私の目や頭や喉を射抜いてしまうこともできたでしょう」しかし実際に射られたのは腕、肩、脇や腹であって、即死するような箇所ではなかった。標的が通常の人間ならそれでも殺意を否定するには足りないが、相手は方法次第では瞬時に負傷を回復させることのできる艦娘である。龍田を長く苦しめる為にそうしたのでもなければ、これは歴然たる手加減だった。そこが彼女には理解できなかったのだ。

 

 殺すという那智の宣言を聞いた際に、龍田は取り違えなどできないほどの殺意を感じ取った。つまりその時点では、那智は教え子を手に掛ける覚悟をしていたということになる。それなのに、実際に交戦した時には既にその決心を失っていた。「どうして?」と龍田は同じ質問を繰り返したが、その意味や込められた感情は先ほどとは変わっていた。首を右に回し、那智の横顔を覗く。昼の明るい太陽に照らされた彼女の顔は、血と涙と唾液の混合液の痕で汚れていたが、龍田には美しく輝いているようにさえ見えた。

 

 その輝きに触れたいという欲望を押し込めて首を戻し、代わりに那智の左手を握る。麻痺のこともあり、握り返されはしないだろうと思っていたが、希釈された高速修復材は龍田の予想を上回ってその効力を発揮していたらしかった。軽く握り返されて、思わず彼女は那智の方を向いた。傷が障って動かしづらいのか、那智の首は龍田の側を向こうとして半端なところで止まっていたが、目は意思の光を点したまま、教え子を見つめていた。彼女は血の塩気にやられた聞き苦しい声で、ぽつりと言った。

 

「殺そうと思った」

 

 龍田の手を握る那智の左手に力が込められる。その力は龍田に小さな痛みすら感じさせられなかった。でもそれには、那智の言葉の重みを証明する働きがあった。彼女は浅い呼吸で一言一言を区切りながら、続けた。「苦しんだままでは、生きられないと、お前は、そう考えていた」龍田は那智の一方的な断定を、正しいものとして認めた。シェルターで那智との心中を図ったのは、その考えに基づいての行動だったから、見抜かれていたことを意外には思わなかった。「けれど、自ら死ぬことは恐ろしい」那智はそう言って、麻痺の影響が抜けてきたのだろう、大きく息を吸い込んだ。

 

「生きることも死ぬことも選べないまま、命だけ永らえるというのは、つらいものだ。お前はそれを一番恐れていた。それで私と取引をして、生きる上で邪魔な苦痛に対処しようと試みて、失敗した。私が取引を拒み続けたからだ。私のせいでお前は苦しみ、その苦しみから逃れる術もまた、私のせいで失ったから、せめてその責任を取ろうと思った」

 

 那智は咳き込み、その顔が上を向く。涙が一筋、重力に引かれて顔を伝っていき、耳から粒になって滴り落ちた。「だが、私には無理だ」涙声で那智はそう言った。「たとえどれだけその手で痛めつけられたとしても、どんなに変わってしまったとしても、何をやってしまったとしても、それでも貴様は、私の教え子なんだ。私が愛した、生きて欲しいと願って鍛えた」弓なりに背を反らせ、わなわなと唇を震わせながら、噛み締めた歯をこじ開けるようにして那智が叫ぶ。「殺すなんて、できない……!」

 

 尾を引くような長い叫びの後には、岸壁に打ち寄せる波の音だけが残った。龍田は自分の声に動揺が含まれているのに気づきながら、那智に確かめた。「だから、一緒に死のうとした?」彼女は上を向いたまま僅かに首を動かして頷くと、「お前の為にこの那智ができることなど、それくらいしかなかったからな」と乾いた声で答えた。“それくらい”にも失敗したことへの悲観を感じ取り、言い返そうとして龍田は口を閉じる。脳内に火花が走ったようだった。

 

 それは、意識的なものではなかっただろう。けれども那智は、確かに人称を変えていた。「貴様は、私の教え子なんだ」と彼女は言い、その後には「お前の為にこの那智が」と言った。龍田には分かった──そこには確固たる区別があった。人称の違いは、単なる愛情を示す為だけの変化ではなかったのだ。幻の那智が話していたことも、とうとう龍田はその正しさを理解した。現実には存在しない那智の声が、心の中でからかうように言った。

 

「お前は()()()()と取引をするつもりで、()()と交渉していたんだよ。そうなるのも当たり前だろう、何処の軍隊に教官と対等に取引できる訓練生がいる?」

 

 龍田がその冗談に笑うと、幻聴の那智は相槌めいた含み笑いを漏らして、トーンを変えて諭すような声色で囁き掛けてきた。「訓練生はみんな教官を憎むか、頼るか、あるいは泣きつくかするものだ。そして教官は、そんな訓練生を助けるんだ」そう言い切ってから、彼女は気恥ずかしげに付け加えた。「その為になら、何だってするさ……」

 

 それきり、龍田の心は静かになった。何を促されたのか自覚して、彼女は口を開けようとした。だが、どう言えばいいか分からなかった。声帯を震わせただけの、意味を持たない喘ぎ声が喉から漏れる。恥の感情が毛細血管の一本ずつまでを駆け巡り行き渡って、開けた口を閉じ、出そうとした声を飲み込むよう、龍田の意思を無視して肉体に命令しようとする。それに従うのは楽な選択だった。逆らえば今後の一生、思い出す度に忸怩(じくじ)たる思いに心乱され、身悶えして苦しむことになるに決まっていた。でも龍田は、そうなりたかった。

 

「た、助けて」

 

 言い慣れていない単語を使おうとした為に、舌を噛みそうになってしまう。決まりが悪かったが、一度(ひとたび)恥を受けたなら、重ね塗りしたところでどうだというのだ、と考える厚顔さが龍田には備わっていた。「私は、苦しんで生きたくなんかないの」その厚かましさを以ってしても、出せたのはこの二言三言だけだった。龍田はこの島に来てから感じた中で最も大きな恐怖に押し潰されながら、那智の反応を待った。その間、怒らせるかもしれない、無視されるかもしれない、そんなことを恐れてばかりいたので、那智がどう切り出すかを考えているのに気づかなかった。「親友がいるんだ」と彼女は言った。

 

「え?」

「親友だよ。こいつの為なら、深海棲艦の口にだって頭を突っ込んでやる、なんて風に思える相手だ。私の場合、それは戦艦「長門」だった。奴とは色々とやったものだ。教官になってからの私しか知らない連中が、到底想像できないようなことも含めてな」

 

 乏しい想像力で、かつての那智がどんなことをしたのか龍田は思い描こうとしてみた。けれども彼女が脳裏に描く那智の顔は、何をしていても、教官としての彼女が見せる仏頂面がほとんどだった。那智は教え子の罪のない空想に気づかず、話を続けた。

 

「私たちは、互いが自分よりも相手のことを優先し合うと信じていた。どんな状況でも、どんな困難の中でも、こいつだけは私の側にいて、逃げたり裏切ったりしない、と。敵に追われて、私と長門の二人だけで小島に逃げ込んだ時もそうだった」

 

 右腕を失くした際の話をしているのだと龍田は直感して、ごくりと喉を鳴らした。

 

「長門はそれなりに元気だったが私は右腕がめちゃくちゃで、顔の半分には火傷を負っていた。希釈修復材も切らしていて、通常の医薬品で止血はできたが、それでその備蓄も尽きた。私たちは身を潜め、長いこと捜索隊を待ったが、来なかった。すると何日目だったか、私の右腕が感染症に(かか)って、壊死を始めたんだ。長門は私の右腕をナイフで切断すると、火を使って血止めをした。そうして私の艤装から燃料を抜き取り、ありったけの食料を持って、敵がまだそこらにうようよいる中、一人で救助を呼びに行った」

 

 那智は溜息を吐いて言った。「そう言えば聞こえはいいがな。あいつは私を一人にしたんだ。重傷でろくろく体も動かせず、食料や水の確保すらままならない私をな」でもそれは仕方ないことだったでしょう、と龍田の口から出そうになったが、彼女はそれを飲み下して封じ込んだ。那智がそんな類の相槌を求めていないことは明白だったからだ。望まれてもいない言葉が彼女の邪魔をすることを、龍田は心から忌避していた。

 

「まあ、それ自体はいい。立場が逆なら、私も同じことをしただろう。二人で確実な死を待つよりはマシだ。でもある時、私はあいつが書いた報告書を読んだんだ。私を置いて島を脱出したのは、『事前に二人で取り決めていたことだった』と書いてあった。ところが、私にはそんな記憶がない」

 

 言葉を切ると、それまで喋り続けていた彼女は暫く黙っていた。その姿は、胸中で伝えようとしていることを整理しようとしているかのようだった。空の明るさが目に痛くなってきたのか、まぶたを閉じると那智は語りを再開した。

 

「唯一確かだと言えるのは、朝目を覚ますと隣にいた親友が姿を消し、食料と艤装の燃料がなくなっていたということだけだ。急ごしらえのシェルターで倒れたまま、私は猛烈にあいつのことを憎んだ。裏切られたと思った。なのに長門が私を助けに戻ってきた時には、全く……心底、恥じたとも」

 

 己の勘違いを彼女は冗談めかして笑い交じりに口にしたが、その陽気さも長くは続かなかった。不意に声の調子が、平坦で落ち着いたものになる。

 

「だけど、こうも思ったんだ。私の気持ちが憎悪から恥に変わったように、あいつの気持ちも変わっていたとしたら? 最初は本当に、足手まといの私を置き去りにして、戦死したとでも報告するつもりだった。だが敵の手を逃れ、落ち着いてきたら良心の呵責に耐えられなくなって、それで救助要請の為の脱出だったと偽装して、何食わぬ顔で戻ってきたんだとしたらどうだ? そうでなかったら、どうして食料も全部持っていった? 私が飢えると分かっていた筈だ。私は……」

 

 話していて興奮してきたのだろう、那智は早口に言い立てた。「真実なんてどうせ分かりはしない。私は失血で朦朧としていた。約束したことも忘れていたのかもしれない。実際のところ、真実など知りたくもない。知ったって救いにはならないんだ」那智が身じろぎをして目を開き、宙に視線を這わせる。何をしているのか、龍田には最初不可解だったが、よく観察すると分かった。那智は失った右手を見ていたのだ。あたかもそれがそこに残っているかのように、それが動いているのを眺めるような目つきで、彼女は何もない空間を見ていた。視線を落とし、呟く。

 

「私は切り落とした腕を食ったんだ」

 

 腐った腕をだぞ、と那智は言った。笑い飛ばしてしまおうとして、彼女はその発言に続けて「猛烈に腹を壊したよ」と付け加えたが、その声の内面には見せ掛けではない明るさが欠如していた為に、かえって彼女の苦痛を浮かび上がらせる結果になっていた。

 

「今でも何かの折に肉を食べたり、その()()()を嗅いだりすると、ふっとその瞬間に戻ってしまうんだ。私は島にいて、土の上に転がり、黒く変色した自分の右腕に、必死で噛みついている。どろりとした血の塊の味、肉から溶け出した液体の臭み、崩れる脂肪の感触、そんなものがどっと押し寄せる。それから立ち直ると、私は過去を思い返して、こう考える。結局、長門は私を裏切ったんだろうか?」

 

 頭をゆっくりと左右に振り、那智は呻くように言った。「答えは永遠に出ないだろう。私はずっと彼女を愛し、また疑い続けるだろう」口を閉じ、彼女は浅く息を吐いた。それは、全部言ってしまったことを示すサインだった。それでも念の為に続きがないことを見極めようと、龍田は何も言わずに黙っていた。五分以上が過ぎてようやく、彼女は話が終わったことを認めた。

 

 龍田は不思議な気分を味わっていた。那智が抱えていた苦しみを聞き、分かち合うことで何かが劇的に変わり、それまで龍田を苦しめていた過去の記憶や、感情から解放されるものだと想像していた。けれど実際にはそうではなく、彼女はそれがまだ心の奥底にへばりついているのを感じていた。違いと言えば、それが以前ほど気にならなくなったという点だった。生きていける、と死にかけの軽巡艦娘は思った。そう感じるのがいつぶりなのか、彼女にも分からなかった。でもとにかく、生きていけるのが嬉しかった。今更投降しても海軍が死刑以外を宣告しないであろうということは、些細な事実だった。

 

「私たちの戦争は、終わるでしょうか?」

 

 希望を声に込めて、龍田は那智にそう尋ねた。那智は力を抜いて首を教え子の方に回すと、「もう終わってるさ」と答えた。「後はそれを受け入れていくだけだ。時間を掛けて、少しずつ」首を戻し、昼の空を見上げて、透明感のある青さに目を細める。やがて二人の間で、「帰ろう」という声が出た。

 

*   *   *

 

 早くに目覚めた五十鈴は遮光カーテンの裏側にもぐって、単冠湾泊地の医務室の窓から朝の泊地の景色を見ていた。比較的高層階に部屋があったので、眺めは非常によかった。カーテンの隙間を通って光が差し込み、周りで怨嗟の唸り声が上がる。陸奥と摩耶、それに天龍だ。負傷や疲労が激しかった彼女たちは、入渠後に感染症やその他の不調を起こす可能性があったので、まだベッドから出して貰えないでいたのである。強い光で目覚めさせられた三人は、三者三様の言い方で五十鈴を批判した。それにはラスシュア島に行く前の五十鈴が聞けば泣き出してしまったかもしれないような、手ひどいものも含まれていたが、今の彼女にはそれも艦娘同士のじゃれ合いにしか感じられなくなっていた。

 

 適当に返事をするばかりの五十鈴に、三人はじき興味を失くした。陸奥と摩耶は、島で艦隊員たちと一時通信が繋がらなくなった理由が、実はとても下らないものだったという話で盛り上がり始め、天龍は二度寝に入った。島で経験したことが嘘のような平和な様子の病室に、五十鈴は我知らず微笑んでいた。だが、泊地の方はこの部屋ほど安穏とはしていなかった。ひっきりなしに入渠施設と工廠を人が行き交い、艤装を装着した艦娘たちが点々と歩哨に立っている。前日の夜に五十鈴の見舞いに来た海風の言によれば、龍田を処理する為に送られた二十四人の艦娘たちが道中で攻撃を受け、それによる負傷と弾薬の消費を理由に引き返してきたとのことだった。

 

 その艦娘たちに罪悪感を覚えつつ、五十鈴は彼女らが島に到着しなかったことを喜んだ。龍田が死ななかったことを喜んだのか、彼女たちが悲惨な戦いに知らずして身を投じずに済んだことが嬉しかったのか、判断はできなかった。なので五十鈴は、きっと両方だと信じることにした。出会いと別れのどちらもが、彼女に龍田を憎むように仕向けていたが、奇妙なほど彼女はあの無謀で熟練した軽巡のことを嫌いになれないでいた。

 

 龍田と過ごした数日のことを思っていると、窓の外、眼下で人の動きが前にも増して慌しくなった。今度は何があったのかと見てみれば、武装した艦娘たちがこぞって工廠へと駆けて行くのが見えた。工廠には何があったかしら、と考え、即座にぴんと来る。()()()。龍田がとうとう帰ってきたのかもしれないと思うと、いても立ってもいられなくなって、五十鈴はベッドから転がり落ちるようにして降りると、病室から飛び出した。後にはぽかんとした様子の陸奥たちと、高いびきの天龍が残された。

 

 結論から言えば、五十鈴の推測は当たっていた。帰ってきたのではなく、連れ帰られてきたという箇所だけが彼女の考えと反していたところだったが、大筋では正しかった。那智と龍田は艤装を回収し、二人で支え合いながら、島から何時間も掛けて航行してきたのだった。水路に入った二人を出迎えたのは、十数人の完全武装した艦娘だった。龍田に肩を貸された状態で水路の端、上陸用ステップの前に立った那智は、麻痺の抜けた体を見せつけるように左腕を広げると言った。

 

「上がっていいか?」

 

 許可が出るには十分ほど掛かった。そして上がって工廠に入るや否や、二人は引き離された。だが那智の予想と異なり、龍田を護送しようとしているのは泊地付の憲兵ではなく、軍警所属の人員だった。その中には艦娘もちらほらと含まれており、戦闘艦ではない明石までいた。龍田の健康状態を調べているようで、それには時間が掛かりそうだった。場の注目が今回の事件の犯人に集まっているのを感じ、那智はそそくさとその場を後にした。工廠を出たところで、後ろから声を掛けられる。振り返れば、吹雪がいた。怪我もなく、いつもの無表情を顔に貼り付けている。

 

 那智は「生きていたのか?」という無駄な問いかけを省いて、より有益な質問をした。

 

「軍警が龍田を捕まえたのはお前の差し金か、吹雪秘書艦?」

「意外ですね、先にどうやって生き延びたのか訊ねると思っていました」

「どうせ実は一対二十四じゃなかったとか、そんなところだろう」

 

 吹雪は肩をすくめてから、「電と彼女の部下たちは極めて優秀でした。足止めの援護を条件に交わした契約を無視して、本件について彼女の上司に知らせなければならないのは、実に残念です」と応じた。電をやり込めたことに満足しているのか、腕を組んで背を軽く反らし、相手を見下したような冷たい声音で那智に言う。

 

「質問の答えですが、概ねその通りです。あなたは軍警の協力者ですから、あなたが捕まえた犯人は私たちが預かるのが筋でしょう。事態解決の手柄と世間の注目も、私たちで引き受けてあげましょう」

「恩着せがましい言い方はやめろ。……龍田は死刑になるか?」

「私には理解できないのですが、死体からどんな利益が得られます?」

 

 じろりと那智を睨んで、物分りの悪い相手に話すのは苦痛だと言外に表しつつ、彼女はそう質問をし返した。

 

「手は幾つかあります。死刑は避けられるでしょう。あなたはそれを恩に着る。そしていつか、その恩を返す」

「多分、(あだ)でな」

「だとしても、そうと分かっていれば利用できます」

 

 那智は言い込められたような不快感を覚えて、悔し紛れに鼻を鳴らした。軍警の護送車が、うるさいエンジン音を鳴らしながらやってくる。その車が工廠の前で止まったので、那智と吹雪は排ガスを吸い込まないでいいように、位置を変えなければならなかった。護送車の後部が開かれ、乗っていた見張りの軍警察官が降りる。那智はそれを見守っていたが、吹雪が横で「ヴェールヌイ」と声を上げたのでそちらに顔を向けた。

 

 間髪入れず、目を離せなくなるような柔らかな微笑みが那智の視界に入った。ヴェールヌイは工廠前の人だかりを早足で抜けて近づいてくると、まず那智と、次に吹雪と握手をした。「Спасибо(ありがとう)! Большое(本当に) спасибо(ありがとう)!」静かだが強く感情のこもった声で、彼女は礼を言った。那智はさっきの吹雪を真似て肩をすくめ、微笑み返した。その吹雪がヴェールヌイに言った。

 

「もしお望みなら、護送に付き添いますか? 安全の為、その場合は私も同行しますが」

「いいのかい?」

「知り合いがいた方が、護送される側も気が楽でしょう。ただ、言っておきます。護送車の乗り心地は最低ですよ」

 

 ヴェールヌイは笑って頷くと、さっさと車の後部に乗り込んでいってしまった。軍警察官の一人が止めようとしたが、吹雪に制止と説明を受けて退く。戻ってきた軍警秘書に、那智は大きな不信感を前面に押し出した態度で接した。彼女には、吹雪が他人に対して利益抜きで親切にする理由が分からなかった。それを知ってか知らずか、吹雪は那智の視線に背を向け、診断と簡単な治療を終えて工廠を出てきた龍田を指差して言った。

 

「ほら、来ましたよ」

 

 龍田は服を新品に替え、周囲を軍警察官たちに囲まれながら、顔を俯けさせることなく、足取り確かに護送車へ歩いていった。その途中で、那智と目が合う。その時ばかりは龍田も少しの間、首を回して教官の姿を捉え続けようとしていたが、護送車に向かって進むにつれてそれも難しくなり、結局は前を向いた。

 

 彼女が車の後ろに立つと、中でヴェールヌイが普段と同じ微笑を浮かべて待っていた。恐れることなく、龍田は足を上げて乗り込もうとする。その時、「どいて、どいて!」と騒ぎながら誰彼なく押しのけて、五十鈴が現れた。彼女は護送車と野次馬たちの間に、無意識的に作られていた空間にずかずかと入り込んでいくと、龍田の目の前に立った。声を掛けたかったが、いざ去りゆく彼女の前に立つと、何も出てこなかった。それを見て龍田は、五十鈴の耳元に口を寄せてゆっくり訊ねた。

 

「ねえ、今日が何の日か知ってる?」

 

 そして彼女が答える前に、龍田は笑って自分で言った。

 

「私の終戦記念日よ!」


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