We, the Divided   作:Гарри

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11.「深海から来た傭兵たち」

 ぶかぶかの雨合羽を身につけた電は、洋上で停止した小型船の縁にしゃがみこみ、海面を覗き込んだ。空の暗雲を映して黒く濁った海に吸い込まれそうな気持ちになって、金属製の手すりを両手で強く掴む。潮水と今も降り続ける雨に濡れたそれは、かじかみそうになるほど冷たかった。思わず片手を離し、懐に抱え込む。それなりの広さがあって暖かな船室に戻り、持ち込んだ折り畳みベッドでここ数日の疲れを癒すべきかと考えたが、自ら提示することのできるそうするべき理由全てに抗って、彼女はその場に後ほんのもう少し、いることを決めた。その注目は、黒と灰の間の色に塗られた水平線に注がれていた。

 

 彼女が調達したこの船に同乗していた、三隻の深海棲艦たちがその線の向こうへと消えていってから、暫くになる。今頃は龍田も気づいていることだろうと思い、その時の彼女の様子を脳裏に浮かべようとした電は、よく知りもしない相手のことを想像するのは難しいという事実に直面した。つまらない結果に、彼女は憮然として手すりの根元を軽く蹴りつける。それから、この後のことを考えた。後のない深海棲艦たちが龍田を始末するか、その逆か、あるいは相打つことになるか。深海棲艦の攻撃が成功しようと失敗しようと、電にとっては損のない結果になる。依頼者である吹雪にどんな対価を要求したものかと思って、彼女は口の端を緩めた。

 

 海に背を向けて手すりにもたれかかり、空を見上げる。雨粒が額を叩き、目に流れ込み、頬を濡らす。唇に垂れてきた水滴を舌で舐め取ると、ほのかに塩の味がした。途端に気分が落ち込んでしまう。()()()()、と電は心の中で呟いた。()()()()()()()()。立ち上がって、船室に入る。雨合羽を隅に投げ捨てると、組み立て済の折り畳みベッドに横になった。合羽の守りを抜けた水で服は湿ったままだったが、電は気にしなかった。もっと濡れた服を着て、ベッドなしに眠った経験さえあったからだ。それを思えば、上等でなくともきちんとした寝床があるだけ、マシというものだった。

 

 いい時代になったと、電は本心からそう思った。戦争は終わった。二十歳にもならない子供が毎日のように海で死んでいき、そのことがニュースにもならない日々は終わり、それがかつて存在したことさえ疑わしかった平和が訪れたのだ。自分がその時代を作る一助を果たしたことが誇らしく、それだけに龍田が過去をあの島で蘇らせたことが彼女には不可解だった。どうして好き好んで、殺し合いを始めたのだろう? 世界にはそれ以外にも、できることが幾らだってあるというのに。

 

 奇妙でならなかったが、だからと言って電は龍田を狂っているだとか、心を病んでしまっているのだと決めつけるほど狭量ではなかった。きっと彼女にも理由があって、それは自分には想像もつかないものなのだと考えるだけの素直さがあった。加えて電は、そんな龍田の抱えた事情を気にしないで済ませられる、成熟した精神の持ち主でもあった。島に潜む彼女の動機がどのようなものだったとしても、始末してしまえば何はともあれこの件の解決に至る。その後で龍田という人物を研究し、類似の事件が起こらないようにするのは、自分たちの仕事ではない。電と、彼女に依頼をした吹雪は、この点において認識を同じくしていた。

 

 一際大きな波が、船を揺らした。ベッドから転がり落ちそうになって、電は小さな子供っぽい唸り声を上げると、上等な寝床から飛び出して船室の出入り口まで行き、扉を開けて外に向かって叫んだ。「これだから海は嫌いなのです!」それが何かを変えるということはなかったが、特別の理由もなく海で叫ぶことができるというのは、電のような戦争を体験した艦娘には格別の贅沢のように思われた。彼女にとって海は概ね口を閉じているべき場所という印象が強く、そこにタブーを破る快感があったのである。すっきりした、と考えながら、彼女は船室の扉を閉めた。

 

 また大波が来てもベッドから落ちずに済むよう、寝そべるのではなく、長椅子のように腰掛ける。足をぷらぷらと振ると、爪先が床をこすって耳障りな音を立てた。電はこのまま何もない海の上、船の中で、無為な時間を過ごしていたかった。海軍時代の記憶とその後の経験で彼女は心底海が嫌いになっていたが、それでも不思議と、陸にいるよりも海にいる方が落ち着けた。それに、もう電の仕事は終わったのだ。上司である赤城にバレないように深海棲艦たちの装備を整え、出撃地点まで連れてきたし、ロシア海軍が周辺被害として龍田の死を正当化して出張ってくる前に終わらせろ、という警告もした。そして仮に彼女たちが龍田に勝てたとして、それを迎えに行くのは電でなくともいいのだ。

 

 つまり、単冠湾に彼女がいる理由はもうなかった。だが本土に戻れば、融和派の拠点に帰らなくてはならなくなる。拠点に帰れば、今もあれこれと案件を抱え込んで顔色を悪くし、気つけのハーブティー漬けになっている赤城に、仕事をたっぷりと押しつけられるに決まっていた。丁度、吹雪に呼び出される直前までそうだったように。

 

 そんなのは嫌だな、と電は考えた。それで、降って湧いた長期休暇だと思うことにしようと決めた。すると外見さながらの子供めいた喜びが、体一杯に広がった。相好を崩し、何をしようかな? と自問する。彼女は戦争が終わってからというものずっと、仕事のことを考えずに過ごす時間など取れないでいた。したいことは沢山あった。美味しいものを食べたり、映画を観たり、本を読んだり、目的もなく街を歩いたり、前後不覚になるまで酔っ払ったり、一日何もしないでごろごろしたり──それは彼女が、職務に疲れ果てて潜り込んだ冷たい寝床の中で繰り返し夢に見た、何でもない日常だった。

 

 気分が良くなって、電は歌い出した。船の操縦席に腰を下ろして、母港へ針路を取る。今や彼女の頭には、この休みを使って何をするかという考えしかなかった。深海棲艦たちのことも龍田のことも、消え失せていた。それは彼女にとって、どうでもいいことだった。

 

*   *   *

 

 崖の上で泥の中に寝そべり、倍率を調整した暗視装置付きの双眼鏡を覗き込むと、巡視船に回収される連合艦隊の姿が龍田の視界一杯に映った。疲労と負傷の大きな者から順番に、掛けられた梯子を上っていく。海軍と違い、艦娘の運用を考慮していない海保の巡視船らしい回収方法だった。梯子を上がる艦娘たちを無視して龍田は艦隊旗艦を探し、すぐに陸奥を見つけた。彼女が旗艦だと知っていた訳ではなかったが、明らかに自分よりも怪我の小さな者を先に上がらせていたり、手を振って指示を飛ばしたりしている姿を見れば、たちまちそれと知れた。彼女の艦隊員と同様に傷だらけで、疲れた顔をしている。

 

 だが龍田には、その立ち姿からまだくすぶっている戦意の熱を見て取れた。興味深く思って、ふうん、と小さく声を上げる。彼女が知る限り、そういう熱を持った艦娘を退かせることができるものは、二つしかない。助言か、命令だ。陸奥は素直に命令に従うタイプの艦娘だろうか? 龍田は首を動かすと、梯子の横にいる摩耶を見た。彼女は上がる者を下から支え、しきりに笑っては何か言って、励ましているようだった。彼女が陸奥と一緒に襲い掛かってきたことを思い出し、二人に骨を折られた軽巡艦娘は、脇がじくじくと痛むのを感じた。心の中で、陸奥に語りかける。()()()()()()()()()()()()()()()()? 答えはなくとも、分かっていた。もう一つ、返事を求めない質問を口にする。

 

「その子の助言を受けたから、撤退を選んだの? それとも、単冠湾のレーダーが深海棲艦を察知して、その情報が伝わったの?」

 

 連合艦隊旗艦が島の方を振り向いた。見つかったか、と考えてから、幾ら歴戦の艦娘でもそれは無理だろう、と龍田は考え直した。飛ぶだけ飛び回っていた上空の艦載機たちも、既に陸奥たちの撤退と共に退いている。島は再び龍田一人の王国に戻ったのだ。泥だらけで、水浸しの王国。けれども、体の下に土があるというのはいいものだった。艦娘らしくない考えに、小さな王国の主はもう抑える必要のない笑いを上げる。彼女を除いて誰もいない空間に、その声は寒々しく響いた。

 

 背負われたまま巡視船に上がっていく五十鈴を視界に捉え、笑いを止める。雨は龍田の体の上に降り続け、その水を吸った土は下から彼女の体を冷やしていたが、五十鈴を見ると僅かにその冷たさも和らいだ気がした。五十鈴。声にすることなく、その名を噛み締める。彼女と共に過ごした時間は短く、友情よりも敵意に満ち満ちていたが、であるにも関わらず龍田は彼女を好きになっていた。ワイヤーで拘束しようとした時も最後まで暴れ続け、手足が封じられれば口でとばかりに食って掛かった五十鈴の逞しさは、龍田の堪忍袋の緒や逆鱗よりも、彼女の心の琴線に触れたのだった。あれなら私の艦隊に来ても歓迎ね、と考えてから、龍田は自分が今となっては艦隊旗艦ではなかったことに気づいた。五十鈴を鍛え上げたらどんなに立派な艦娘になっていたかと、ほんの少しだけ残念に感じる。

 

 負われた五十鈴が船の中に姿を消すと、龍田が雨の中で連合艦隊を監視する理由もなくなった。レーダーは既に発進した深海棲艦の航空機を捉え、接近の警告を発している。まだ到達までには余裕があったが、龍田にその限られた時間を無駄にするつもりはなかった。レーダーサイトまで戻り、中の物資を建物から離れた場所へ持っていく作業を開始する。終戦後の世界においては、深海棲艦が彼女たちの行動に政治的配慮の介入を許す蓋然性(がいぜんせい)もあったものの、サイトを爆撃されてから瓦礫(がれき)の下で「まさか」と考えるよりは、無駄に汗を流す方が龍田の好みだった。

 

 資材や装備を一まとめにして、サイトから森に運び出していく。重みのある食料には手こずるかと龍田は思っていたが、どうやら五十鈴を放置して連合艦隊と戦っている間、彼女はストレス発散に食べられるだけ食べていたらしかった。()()()()()()()()()()()()()()()()! すっかり軽くなった糧食のケースを抱えながら、龍田はまた少し五十鈴を好きになっている自分を見つけた。彼女を逃がしたことを後悔してしまいそうなほどだった。こんなに誰かを好きになるのがいつぶりか、龍田自身にも分からなかった。

 

 作業を続けながら、敵艦隊の構成について考える。数は三つ。島のレーダーが捉えた敵航空機の数からしても、龍田の経験則から言っても、空母はその内の一隻だと思われた。軽空母の可能性を一瞬だけ考えてから、それはないと切って捨てる。そもそも人類に敵対的な深海棲艦の残党が、偶然この島に来るということが考えづらい。誰かが融和派と手を組んで、送り込んだのだ。とすると、目的は龍田の殺害になる。なら、島に上陸できない非人間型の深海棲艦ではなく、人間型で固めるだろう。ヲ級が一人と、重巡のリ級かネ級、あるいは戦艦ル級かタ級……そこで最悪の展開を思いつき、龍田は身を震わせた。

 

 戦艦レ級がいたとしたら? 人間型であり、砲戦力と航空戦力の両方を有している。鬼・姫級深海棲艦に迫るほど強力で希少だが、融和派なら用意できてもおかしくはなかった。たった一人の軽巡艦娘を相手に出してくるような戦力ではないが、そんなことを言い出せば連合艦隊を寄越したことだって、過剰も過剰なのだ。彼女たちを撃退することができたのは、その装備が制限されていたり、連合艦隊の艦娘たちに陸戦経験が欠けていたが故であり、二日目にもつれ込んで長引いていれば、相手もある程度の慣れを得て、戦いは違った結果になっていただろうと龍田は推察していた。

 

 レ級が出てきた場合の対処を考えつつ、荷を運び続ける。一抱えの箱を置いた戻り道、ふと立ち止まって空を見ると、分厚い雨雲の切れ目から紅色の光が漏れていた。次いで、いつの間にか静かになっていたレーダーを確認する。見て取れるのは三隻の深海棲艦たちの反応だけで、海保の巡視船と近づいていた航空機のそれは、影も形もなくなっていた。前者は連合艦隊の後送と深海棲艦の到着に合わせての退避。後者は夜が近いので、雨中の夜間戦闘を避ける為に帰投させたのだろう、と龍田は考えた。サイトに戻り、荷物最後の袋一つを肩に担ぐ。水のペットボトルが入った袋はずっしりと重く、肩に食い込んだ。

 

 戸口を出て、溜息を吐きながら一歩踏み出そうとして、足を止める。無能な空母艦娘が、戦闘空域への到着時刻の計算を誤ることは、起こり得る。だが深海棲艦は、先の戦争では人類をもう少しで壊滅させられたほどに有能だった。計算ミスなど、あり得ない。

 

 深海棲艦に対する彼女の強い信頼を裏付けするかのように、レーダーが再び騒ぎ始める。やがて、聞き覚えのある飛行音が聞こえてきた。それで龍田にもようやく理解できた。ある程度の距離から島までずっと、航空隊は島影と超低空飛行を用いて探知を避けてきたのだ。聞こえてくる音はあっという間に大きくなると、一気に発生源を上へと移した。思わず龍田は空を振り仰いだ。黒い雨雲を背負って、大量の航空機が飛んでいる。その一群は、龍田のいるレーダーサイトを目指していた。はっとして、彼女は駆け出した。森に入って二、三十メートル行ったところで、サイトへと爆弾が降り注いだ。

 

 爆風で龍田の背が押され、つんのめりそうになる。脇腹にごく小さな破片が刺さり、傷口が焼けるのが分かった。どうにか転ばずに済ませると、彼女は水の袋を投げ捨てて走る速度を上げた。母艦がレーダーを確実に使用不能にすることを望んでいたのか、爆撃は未だに続いている。突然の激しい運動と興奮に、龍田は頭がくらくらとした。冷静さを取り戻そうと、足を止めないまま、自分に語り掛ける。

 

「夜間攻撃が可能な練度の航空隊となると、ヲ級フラッグシップの線が濃厚ねえ」

 

 意識的に語尾を延ばし、平静を保とうとする。だがこれまで龍田が空母に対して持っていた、夜戦におけるアドバンテージが覆されたことは、小さくない動揺を彼女に与えていた。昼となく夜となく頭上を敵機が飛んでいては、余程上首尾にやらない限り、襲撃を掛けても捕捉されて辺り一帯ごと爆撃されるだけだ。航空戦力を叩き、それから残りの二隻を始末するのがいいだろう。そう考えはしてみたものの、どうすればそれが達成できるかとなると、龍田にも思いつかなかった。爆弾の炸裂音が遠のいたので、立ち止まって息を整えながら、思考を「まず行うべきことは何か」に切り替える。その答えはシンプルだった。何にしても、装備を整えなければいけない。荷運びに邪魔になる薙刀と刀を下ろしてきてしまっていた為、今の龍田の武装はナイフが一本あるばかりだった。

 

 上空の敵艦載機に見つからないように、道を外れて枝の屋根が厚いところを進み、薙刀やその他の役立つ物品をまとめて置いている場所まで戻っていく。その道中、龍田は何かを蹴飛ばした。よもや自分の仕掛けた罠を忘れていたかと思って、彼女はすぐさまその場に身を投げ出して伏せたが、何も起こらなかった。そろそろと顔を上げ、何を蹴ったのか見てみる。そこには持ち込んだ覚えのない、真新しいバッグが転がっていた。

 

 連合艦隊が持ち込んだものだろうと当たりをつけて、()()()()を警戒しつつ、慎重に中を探る。龍田の足に合わないサイズのブーツ、未使用の合羽、それと摩耶や陸奥が投げてきたのと同じ閃光手榴弾が、一つずつ残っていた。合羽を着込み、ブーツから紐を抜いて、それで手榴弾を足に括りつけると、龍田は思わぬ拾い物に微笑みながらその場を後にした。

 

 なるべく空の目から逃れることを優先してルートを決定したせいで、装備を置いた場所に着く頃には日が暮れていた。真夜中と大差ない暗さだったが、航空機は相変わらず飛び交っている。おまけに深海棲艦たちが海域に到着し、島に対する艦砲射撃まで始めたので、龍田としてはまぐれ当たりの起こらぬよう、念じて祈るしかなかった。諸々の装備を回収し、砲撃と爆撃から遠くへ離れる道を歩き、寝床にできそうな場所を探す。だが、何処も安全には思えなかった。木の下に雨を防ぐのに都合のよさそうな大きめの茂みを見つけ、その中に潜り込む。葉は濡れていたが、合羽の下はどうせ濡れ鼠だったので、気にならなかった。

 

 薙刀を抱え込んで、赤子のように身を丸めてうずくまる。動きを止めたことで、体が急速に熱を奪われていく。深海棲艦たちにどう立ち向かうか、考える気にもなれなかった。龍田は空母を恨めしく思った。自分が生き延びる為にやってきた全てのことを差し置いて、「フェアじゃないわ」と彼女は呟いた。それと同時に、心の中で那智教官がぴしゃりと言い放つ。「戦争に公平さなどない」この至極もっともな理屈は、教え子を実に納得させた。熱を失ったことによる眠気が忍び寄り、意識の明瞭さが失われ始める。眠るのが怖くて、龍田は彼女の教官に訊ねた。「じゃあ、私があなたの力を借りてもいいでしょう?」那智は凶暴に見えるだけの暖かな笑みを浮かべると、「もちろんだ」と答えた。教え子は丸めていた体を伸ばしてうつ伏せになり、横の那智教官を見た。

 

「どうすればいいと思いますか?」

 

 ぼんやりとした、しかし敬意を払ったこの質問に、那智が答えない訳がなかった。彼女は熟練した教師がよくやるように、方向性を示しつつも、答えの全てまでは言わなかった。

 

「まずは敵の情報を集めることだ。敵の位置、数、種類、練度。この中の全部は分からなくても、一部は分かるだろう?」

「音、ね」

 

 教官が頷くのを見て、龍田は迷いなく目を閉じ、意識を聴覚に集中させた。航空機の音はうるさかったが、発砲音を消すことができるほどではない。何度も砲声を聞いている内に、龍田にはそれらの違いが聞き取れるようになっていた。暫くして彼女は目を開くと、那智に対して答え合わせをするように、小さな声で言った。

 

「今のは八インチ砲、さっきのが十六インチ砲。つまり、重巡と戦艦が砲撃しているってことだわ。重巡は、八インチ砲に混じって六インチ速射砲の音も聞こえるから、リ級エリート。戦艦の方は、音だけじゃ無理。そうでしょう、教官」

「その通りだ。さて、これで敵の構成がおおよそ分かった。その他に分かったことは?」

「敵のいる大まかな方角と、陣形。リ級と戦艦はほとんど距離を取ってないみたい。きっと旗艦を護衛してるのよ。さっきから位置も移動していないようだもの」

 

 教官の質問に答えられるのが嬉しくて、龍田の声は弾んだ。教え子がよく学んでいることへの満足の笑いを那智が漏らすと、彼女はもっと教官を喜ばせたくなって、質問に先回りして答えを出そうとした。「だから、そう、やっぱりとにかくヲ級を真っ先に撃沈しないと勝ち目は薄い訳だけど、その為には、リ級と戦艦を彼女から引き剥がさないとダメで……」しかしそこまで考えて、どちらにも無理がある、と結論してしまう。ヲ級を先に潰すには、リ級たちをどうにかして誘引しなければいけない。しかしそうしようにも、ヲ級の艦載機が邪魔でろくろく誘き寄せることもできない。

 

 現況を打開することもできず、那智をこれ以上喜ばせることもできない自分にがっかりして、龍田はぼやいた。「完璧な手詰まりね」今こそ教官の助けを直接に借りる時だと決めて、隣を見ようとする。けれどその時、ヲ級の艦載機が落とした爆弾が何十メートルか離れたところで爆発した。熱風が茂みを通り抜けていき、龍田の目に水滴を飛ばした。教官との会話を邪魔された怒りが、彼女の体を突き動かした。激情のままに地面を殴って立ち上がり、茂みから出て空へと精一杯の罵声を浴びせ掛ける。姉と違い龍田はその手の語彙に欠けていたので、落ち着くのも早かった。感情を制御し損ねたことに肩を落とし、茂みへと戻ろうとするが、ふと周囲を取り巻く音の変化に気づいた。

 

「雨が止んでる……雨が、止んでるわ、教官!」

 

 飛び込むように茂みへと戻り、そこに那智を探すも、彼女の姿はもうなかった。突然一人ぼっちで放り出された気がして、龍田は言いようのない寂しさを覚えたが、再び丸まって熱を逃さないようにしながら目を閉じると、すぐに心地よい眠気がその気持ちを包んでくれた。

 

 朝方に目を覚ますと、またしても音に変化が出ていた。艦載機が空からいなくなり、砲声もまばらになっていたのである。それが響いてくる方角は龍田が眠る前と異なっていたが、リ級と戦艦が行動を共にしているのは変わりないようだった。龍田はもぞもぞと茂みから這い出して、凝り固まった筋肉をほぐしながら周囲を見た。眠る直前に彼女がかくあれと願った通り、雨は止んで雲は去り、代わって濃霧が発生していた。装備を持って、リ級たちのいる方角、東へ向かう。途中でごく近い位置に砲弾が降ってきたこともあったが、何とか無傷で森の切れ目、島の端まで到達した。

 

 木に身を隠したまま、島の周囲、広範囲に渡って白いもやに覆われた海を見下ろす。敵への肉薄が重要な課題となる軽巡艦娘にとって、理想的な煙幕だ。これなら、と思うと興奮が始まり、龍田は唾を飲み込んだ。さしものフラッグシップでも、この霧の中では航空機の運用は難しいに違いない。母艦が霧の外まで出ても、上空の艦載機から攻撃対象が視認できなければ意味はない。しかも砲戦能力のない空母が旗艦とあっては、護衛なしとは行かないだろうから、残った一隻は単独での霧中行動を余儀なくされることになってしまう。空母を霧の外に出す選択肢は、存在しないと龍田は踏んだ。

 

 戦闘前の興奮を御しながら、島の主は艤装のチェックを行い、各部の動作が正常か確かめる。機関、砲、機銃、魚雷、そして電探。電探で捉えられた敵の反応は一つしかなかったが、これは彼女たちが距離を非常に密に保っているせいだと龍田は判断した。もっと新型の、高性能な電探があればと思わないではいられなかったが、旧式でもないよりはいい。主砲の発射準備をし、敵の発砲に備える。運がよければ、霧のフィルターでも抑えきれなかった発砲炎の輝きが、彼女たちのより詳細な位置を教えてくれる筈だ。そこに撃ち込んで、重巡か戦艦のどちらかを釣って旗艦から引き剥がすのが、龍田の狙いだった。

 

 海は昨日までの荒れ具合が嘘のように()いでおり、岸壁を打つ白波は控えめな水音しか立てていない。静かな時間が流れた。朝の寒さは厳しかったが、龍田の額には汗が浮かんでいた。薙刀の柄を握る手に、力が加わる。痛いほど歯を噛み締め、砲撃を待ち続ける。唾液で歯と歯が滑って不快な音を立てるが、龍田の耳には入らなかった。なのに、心臓の鼓動はやけに大きく感じられた。砲撃はまだ来ない。「遅い」と彼女は呟いた。相手の発砲を待たず、電探を頼りに撃つべきか短く思考し、龍田は決断した。

 

 深海棲艦のものではない砲声が轟き、火の玉のような砲弾が霧の中に飛び込んでいく。射手は電探の情報を確認した。当たらないのは分かっていたが、一塊になっていた連中を散開させることぐらいはできると考えていた。思った通り、電探は一つだった反応が()()に分かれたことを示した。即座に薙刀を構え、踵を返す。背後では頭部の艤装を外したヲ級が、その金色の目を剣呑に光らせながら、今にも襲い掛からんと杖を振り上げていた。

 

 龍田は落ち着いて必殺の速度で振るわれた打擲を脇に避けた。旗艦は守るべきもの、という思い込みを突かれたことや、狙いが読まれていたことに驚きはなかった。敵が有能であるという事実が彼女の身に染みていたので、そんなこともある、という程度の感慨しかもたらさなかったのである。彼女は下段に構えると、ヲ級から目を離さぬまま、じりじりとすり足で森の外へと移動を始めた。ヲ級が追ってくれば、崖の上という不安な足場ではあるが開けた場所で、思うように薙刀を振り回すことができる。それを厭って追ってこなければ、砲撃してしまえばいい。霧は未だ濃く、海上に残った二人の深海棲艦たちが支援砲撃しようにも、狙いをつけることさえままなるまい。さしたる危険もなくヲ級を始末する絶好の機会に、龍田は含み笑いを漏らした。

 

 と、地面が大きく揺さぶられた。予期していなかったその揺れに、流石の龍田も足元が覚束なくなり、意識が敵から外れる。マズい、と彼女が思った時には、ヲ級はマントを翻し、森の奥へと走り出していた。咄嗟に、不安定な姿勢から龍田は薙刀を投げる。ヲ級には当たらなかったが、マントを木に縫いつけて彼女を転ばせることはできた。木に手を突いて身を支えながら、急いで立とうとしているヲ級へと近づいていく。しつこく続く地揺れの原因である崖への砲撃を忌々しく思って、島の主は舌打ちをした。同じような手管を使って生き抜いてきた艦娘として、妙手だと認めずにはいられなかった。

 

 顔を泥で汚したヲ級が立ち上がり、マントの縫い止められた部分を引き千切る。彼女はまだ逃げるつもりだったが、背後の龍田が腰の刀を抜く音を立てると、諦めたように向きを変えて一歩下がり、自分も杖を構えた。うねり尖った杖先が、龍田の目に向けられる。その圧迫感に彼女は顔をしかめ、杖先を逸らさせる為に様子見を兼ねて突き掛かった。次に感じたのは痺れだった。突き出した剣先を叩き落されたのだと気づいて、龍田は本能的に左手を柄から離して顔の前に掲げた。追撃が下膊(かはく)を叩く。龍田の食いしばった歯の隙間から声が出たが、それに構わずヲ級の細腕を打たれた左手で掴み、腰の捻りを利用して右に投げ飛ばす。彼女は木の一本に背をぶつけたものの、咳一つしなかった。

 

 ヲ級の手が体を支えようと左右に広げられ、体全体の守りが皆無である様子を見て、龍田は相手の首筋を斬りつけることを考える。しかしこれまで培ってきた経験が、杖で柄を受け止められ、ノーガードになった脇腹をヲ級に蹴り抜かれる未来の自分を見せた。拙速に攻め掛かることなく、構え直す。誘いに乗ってこなかったのが意外だったのか、ヲ級は片眉を上げると、両腕で杖の両端を持って、それを体の前にだらんと下げた。カウンター狙いの構えを取るというあからさまな挑発に、龍田の中で苛立ちが募った。嘲る時の声色で「乗る訳がないでしょう?」と囁き、右手を柄から離して、近くの木に刺さっていた薙刀を抜く。それでようやく、ヲ級は顔を歪めた。何の躊躇いもなく背を見せて逃げ出すが、龍田に発砲させずに済ませられるほど、彼女は足が速くなかった。

 

 だがあるいは、龍田が相手を直接狙っていたなら、避け切ることもできていたかもしれない。当の射手さえ、それは感じていた。だからこそ、彼女はそうしなかったのだ。龍田が撃ったのは、ヲ級の足元であり、その周囲の木々だった。龍田は逃げ回る獲物を追い、撃ち続けた。弾切れでようやく発砲が止まり、ヲ級は息を整える為に立ち止まる。飛び散った破片が作った傷からは血を流し、汗だくで息は荒いが、目は一定の距離を保っている敵に向けられたまま、逸らされていない。正規空母の睥睨を歯牙にも掛けず、龍田は重荷となる艤装を下ろし、天龍の刀を納めて、薙刀を構えた。砲撃のお陰で根元近くから折れた木が多く、ある程度なら振り回すことも可能になっていた。

 

 最早ヲ級の態度に、挑発を掛けてきた時の余裕はなかった。龍田は満足しながら、薙刀で打ち掛かった。下段への突きを放つと、ヲ級はサーベルのように右の片手で構えた杖でそれを払う。素早く薙刀を回し石突で横面を狙い、防がれては反動で下段、上段と攻撃のパターンを作る。そしてヲ級の動きがこなれたタイミングに合わせて、彼女の防御にわざと跳ね返されるのではなく、体の回転を利用してそれを突き放しながら横に薙いだ。致命傷にはならずとも切り傷の一つくらいは、と思っての一振りだったが、ヲ級の杖捌きは龍田の予想を上回っていた。彼女は杖を構えて刃を眼前で止めると、空いていた左手で薙刀の柄を握った。武器をもぎ取られる前に、龍田は身を捻って勢いをつけ、ヲ級を振り飛ばす。

 

 間合いを取られて仕切り直しにされるのを避ける為に、龍田は一歩踏み出した。途端にヲ級が杖を振るう。喉を打ち据えようとするそれを、龍田は易々と払いのけ、返す刃の中段も跳ね上げた。ヲ級の杖が構えに戻る間に薙刀を回転させ、遠心力を乗せた刃を相手の腿に目掛けて叩きつけようとする。すかさずヲ級は杖を手の中で滑らせ、杖先を掴んで持ち手側でその攻撃を防ぐ。そして龍田が踏み込みつつ薙刀を縦に持っていくと、杖を持ち直して後ずさりながら、続く斬り下ろしをことごとく打ち払った。薙刀が大振りになり始めたところで、一転して攻勢を掛ける。ヲ級は隙あらば柄を取って龍田の武器を奪おうとしてくるが、その度に紫の髪を振り乱した軽巡は、この手癖の悪い正規空母に手痛い反撃を食らわせた。何度目かの試みの後、取ろうとした柄でヲ級の鼻がしたたかに打たれ、間合いが開く。

 

 龍田は戦いの主導権を自分が握っていることを認めた。それを失わぬよう、果敢に攻撃を加える。けれどその内に、ヲ級の動きに変化が出てきた。刃の応酬を交わしながら、ぐるぐると龍田の周囲を回り始めたのだ。抜け目ないこの空母が消耗戦に持ち込もうとしているのだと見抜いた彼女は、勝負を決めに掛かった。上段に意識を向けさせておいて、足元を斬りつける。何度かは避けられたが、間もなく反応が遅れ始め、やがて龍田の刃がざっくりとヲ級の片方のすねを抉った。それで倒れるかと思いきや、逆に彼女は杖を振り上げ、倒れこむようにして最後の抵抗とばかりに襲い掛かってきた。力任せの、技術も何もない、横殴りの一発。龍田に掛かれば、余りにも容易く回避できる攻撃だった。彼女は苦もなく杖の下をくぐり、短く持った薙刀でヲ級の体を受け止めると、刃を滑らせた。

 

 肉の奥深くに刃が沈み込む感触を龍田は期待した。しかし、実際に握った柄から伝わってきたのは、皮膚の下一センチの浅いところを斬る感触だった。ヲ級は左腕で刃の根元、相手の武器を引っ掛けて奪う為の切れ込みに手を差し込み、薙刀を押し留めていたのだ。龍田はそれに気づいたが、ヲ級の次の動きを止めるには近づきすぎていた。彼女の懐に潜り込む為に姿勢を低くしていた龍田は、相手の皮膚以上のものを斬れないまま薙刀を受け流され、うつ伏せに地面へと倒される。ヲ級は杖を投げ捨ててその背に飛びつくと、龍田自身の武器で彼女の首を締め上げた。彼女は必死に身を右左に振って、ヲ級を背中から引き離そうとする。けれどここで離せば後がないと考えているかのように、彼女は力の限り龍田にしがみつき、息の根を止めようとしていた。

 

 龍田は何とか地面に肘を突いて横に転がると、上下の関係を反転させた。そうして頭を持ち上げては、後頭部を敵の顔面に何度も打ちつける。ヲ級の鼻が折れたのか、ぬるりとした液体が龍田のうなじや髪に付着したが、力は緩まなかった。右手で柄を押し返して絞めつけに抗いつつ、龍田は左手を自分の足に持っていく。縛りつけられた閃光手榴弾を抜き取ると、右手の指にピンを引っ掛けて抜く。安全レバーを離して頭の横に転がし、目を固く閉じて顔を逸らした。

 

 耳元で砲弾が炸裂したかのような衝撃と音、まぶたを貫く強い光が一瞬あって、龍田は甲高い金属音のような耳鳴りの他に、何も聞こえなくなった。でも彼女にとって、これは二度目だった。だから、ヲ級よりも冷静に動けた。薙刀から離した手で顔を覆ってのたうち回るヲ級の上から、転がり落ちるようにして離れる。彼女の隣で仰向けになったまま、息を浅く何度も吸って、体に酸素を取り込む。それから地面の上で手を動かして石を握り込むと、それでヲ級の額を殴りつけた。何度か殴ると、彼女は動かなくなった。一仕事を終えた兵士の安堵の息が、龍田の唇から吐き出された。

 

 希釈修復材を耳孔に振りかけると、音が戻ってくる。ごろりと転がり、手を突いて身を起こす。手強い敵との短い交戦を制した後では、歩く気になれなかった。四つん這いで下ろした艤装のところまでたどり着き、電探を調べる。二つの反応は消えていた。「あら、逃げたのかしら」と龍田は言ったが、もちろんそれは皮肉だった。艤装にもたれかかりながら、彼女たちは島に上がり、ヲ級の救援に向かっているのだろうと考え、ここからどう動くかの計画を組み立てようとする。ヲ級との交戦はそう長くなかったから、崖への砲撃を止めて移動を開始したのがどんなに早かったとしても、まだ島内には立ち入っていない確率が高かった。

 

 上陸地点を推測し、それに基づいて迎撃計画を立てなければいけない。龍田はそう決めて腰を上げ、艤装を背につけた。その場を去る前に薙刀を一振りして、ヲ級の死を確実にしておく。「上陸地点は何処になると思いますか、教官?」昨夜のように那智が現れることを期待して、龍田は誰もいない隣に問い掛けた。声は霧の中に溶けて、返事はなかった。肩をすくめ、自分で考えることにする。()()()? 罠を除いて足元の心配が要らず、広さも十分。連合艦隊も使った、理想的なポイントだ。「けど、理想的すぎるのよね。霧が出てるとは言っても、遮蔽物もないし」()()()()()()()()()()()()? 足場は最悪だが、遮蔽物はある。罠も仕掛けづらいから、その警戒もある程度省ける。霧と岩に身を隠して進めば、森林地帯まで安全に進める。

 

「援軍に来るつもりだったなら、そんな島の端まで行って余計な時間を掛けるとは思えないけど……いえ、何も本当に端まで行かなくても、少し岩場を登れば上陸はできるわね」

 

 だとすれば、戦艦はタ級だろうと龍田は思った。ル級はその艤装に、砲を内蔵した二つの盾を含んでいるからだ。深海棲艦は優秀な兵士だが、空を飛べるほどではない。それに高速戦艦のタ級なら、リ級と航行速度を合わせて移動できる。思いつきを得て、島の主は思案の溜息を吐いた。ヲ級が敗北したことは、彼女との通信が途絶えたことで伝わる筈である。タ級たちが次にすることは? 龍田は自答した。()()()()()。ヲ級は一蹴されたのかもしれないし、善戦して、敵と刺し違えたのかもしれないからだ。戦闘の現場を見ることで得られる敵の情報は、タ級らにとって貴重なものになる。

 

 待ち伏せ──使い慣れたアイデアが、龍田の心を揺さぶった。罠を張り、身を潜め、予想される接近ルートを監視して待つ。シンプルで、効果的な作戦だ。それはつまり、今回の深海棲艦たちのように何をしてくるか読み切れなかった相手に使うには、不安の残る手だということでもあった。彼女たちは当たり前に伏兵の存在を計算に入れるだろう、と龍田には思えた。大きく迂回して、待ち伏せを警戒しつつ静かに進んでくるか、手当たり次第に砲撃で進行方向の地面を耕しながら進んでくるか。最終的には敵の進み方次第だが、待ちの姿勢は悪手になる可能性が高い。「まあ、夜通し砲撃した後だから、無駄撃ちはできないでしょう」と彼女は一人ごち、深海棲艦たちが南から上陸してくるという判断の下、活動を再開することにした。


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