We, the Divided   作:Гарри

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10.「Warship Troopers」

 陸奥たちの無線交信を傍受した吹雪は、何の感情表現も交えることなく、ただ「いいですね」と呟いた。それまで龍田との連絡に使っていた無線機を彼女に横からいじられた那智は、「何がいいものか」と喉元まで反論が出掛かったが、それを口にしたところで吹雪が那智を満足させてくれるような返事をするとは思えなかった。それでも黙っているのは吹雪に対する敗北に感じられて、葛藤した末に那智は言った。「何がだ?」するとやはり吹雪は、つまらない質問はやめてくれませんか、とでも言いたげな目で那智を見つめると、「決まっているでしょう」とだけ応じた。苛立ち混じりに、もう一度那智は問い返す。

 

「だから、何がだと言っているんだ。無線を聴いた限り、連合艦隊は龍田に翻弄され通しだぞ。陸奥は艦隊員の所在も把握していない。たった一人を相手に易々と分断され、見事に各個撃破されているじゃないか。それが望みだったのか?」

 

 吹雪はその質問に答えて言った。「それが一番の、という訳ではありませんが、その一つではありましたよ」そしてそこで言葉を切ると、それが相手(那智)の心の奥に土足で入り込む発言になると確信した、わざとらしい口調で訊ねた。「あなたは随分と嬉しそうですね?」彼女の言葉に、那智は確かに自分が彼女の言葉通りの心境であったことに気づき、鼻白んだ。自らの手で育て上げた艦娘が、絶望的な状況と戦力差を物ともせずに戦い、勝利を収めつつある事実は、()()()()にとって誇らしく感じられるものだったのだ。しかしもちろんその感情は、この場において適切なものとは言えなかった。吹雪の視線による批判から逃避するように、那智は長らく思い返すことのなかった過去の記憶に意識を浸らせた。

 

 と言っても、那智にとって龍田は特別な訓練生ではない。彼女が教官時代に大勢育て、海へと送り出した軽巡「龍田」の内の一人に過ぎず、その後今日まで再会の機会にも恵まれなかった。覚えていることはそう多くなかった。彼女よりもむしろ、彼女の姉妹艦である天龍についてのことを多く覚えていたほどだ。那智は左手に意識を向けると、ゆっくり握り拳を作った。教え子(天龍)のみぞおちに沈む左手から伝わった、柔らかな感触が蘇る。あれはよくなかったな、と那智は自責した。右腕を失ったことなどが原因で前線での戦闘部隊から外され、教官職に任じられた那智は、何度も復帰の嘆願を出しては却下されていた。その度に彼女には鬱屈が溜まり、ある時とうとう爆発した。それが運悪く、天龍を含む当時の訓練生たちへの八つ当たりという形で現出したのである。

 

 目を閉じれば、その時のことが那智にはすっかり思い出せた。訓練生たちに向かって「伏せろ! 地面に伏せろ!」と怒鳴る自分の声。それに従う訓練生たち。その中で動かずにいた天龍の、見開かれた片目。沸き上がる激情。殴られてうずくまる天龍、今度は立つように命じる自分、龍田がさっと駆け寄って、天龍に肩を貸す。自らは荒れ狂うまま、訳の分からぬことを叫ぶ。龍田の顔は天龍に、だが目は姉を殴った教官へ向いている。と、そこで那智は混乱した。記憶の中の龍田の目は、那智への怒りや敵愾心に燃えていて然るべきであったのに、それとは別の輝きを放っていたからだ。那智にはそれが親しみや、憧憬のように感じられた。そんなことがある筈がないだろう、とよくよく思い出そうとしてみても、結果は変わらなかった。

 

 溜息を一つ吐き、那智は思考を目下の問題に切り替えた。連合艦隊が失敗したことは、今や明らかだ。その原因は幾つもある。政治的な事情で時間と適切な装備を与えなかった提督たち、悪天候、拙速な上陸の判断、陸戦経験の欠如。最後の一つはそもそも艦娘の根本的な運用法が対深海棲艦戦を目的として築かれてきた為、責めることはできない。陸戦に造詣の深い龍田や那智こそ異端であり、海軍的ではないのだ。けれど残りについては、避けられた筈だった。特に、上層部による制限がなければだ。那智は陸奥の戦場における指揮や、時期尚早な上陸などには批判的だったが、後方からの横槍を受けたことについては同情していた。それさえなければ、連合艦隊に現況のごとき敗北はなかったに違いないのだ。

 

 次の一手はどうなるのだろうか。そう考えて、ようやく那智は吹雪の発言の意図を理解した。連合艦隊が撃破されつつあることは、提督たちにも伝わっているだろう。彼らの間で、前回却下された吹雪の案、つまり深海棲艦の投入が現実味を帯び始めていることは、想像に難くなかった。だからこそ吹雪は「いいですね」と言ったのだ。一度は拒否した提案を海軍が受け入れ、あまつさえそれで事態が解決すれば、吹雪(軍警)は海軍に貸しを一つ作れる。それも大きなものをだ。よしんばそれで解決しなかったとしても、海軍が軍警のオブザーバーの意見を容れたという事実は、最終的な解決時に「海軍と軍警が協力して事態を収束させた」と発表する為の十二分な材料になる。そして血を流すのは融和派から借りてきた敵性深海棲艦だけであり、人や艦娘は傷一つ作ることがない。

 

 いい手だ。那智は素直にそう評価した。深海棲艦に、より限定するならば人類と和平を結ぼうという気のない深海棲艦に対して、彼女は一切の慈悲を持っていなかった。従って、彼女たちの血がどれだけ流れようと、憐れみを覚えることはなかった。海軍も損をする訳ではない。軍警も、死んでもいい駒を派遣しただけの融和派も、それぞれに得るものがある。龍田は死ぬかもしれないが、それを覚悟せずに今回の事件を起こしたのなら、それこそその愚かしさは死に値するというものだ。いい手だ、と那智は再び胸中で呟き、それに続けて「気に入らんな」と現実でも言葉にした。吹雪は目だけ動かして那智を見たが、まぶたを下ろした彼女にその所作は感知できなかったし、目を開いていても気づかなかったろう。那智が、それだけ己の独白に動揺していたからだ。

 

 考えることも、自問することも避けたかったが、那智にはそれを止められなかった。()()()()()()()()()()()()? 龍田が死ぬかもしれないから? その為に深海棲艦を使おうとしているから? これらの問いへの答えは、どちらも是であると同時に、非でもあった。那智は龍田が死ぬのを何とも思わないでいられるような、冷血な人間ではなかった。講和は成れども軍民問わずしこりの残る相手である深海棲艦の力を、海軍が借りようとしていることにも、やり切れない思いを抱かずにいられなかった。しかし龍田の死はどのような手段によっても事態解決の上で不可避に思えたし、必要なら何でも使うというのは、那智が戦争で学んだ道徳の一つでもあったのだ。そしてこの問いかけは、那智が吹雪の策を気に食わないでいる理由の、特定の側面にしか焦点を当てていなかった。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。那智の嫌悪感の出所は、まさしくこれだったのだ。自身が必死になって生き抜いた戦争の紛い物を、目の前で見せつけられることへの不満が彼女を苛立たせており、また那智はそのことに驚きもしていた。自分の中で戦争体験についてきちんと片をつけられていたなら、そんな不満が出てくる理由はなかったからだ。単なる味気ない過去として、あの深海棲艦との戦争を処理できていたのなら──そうして、那智は己にそれができていると信じていたのである。にも関わらず、吹雪の作戦に彼女が思ったのは、「許容しがたい」という感情的な一言だった。

 

「本気で深海棲艦を投入するつもりなのか?」

 

 那智は目を開くと、部屋の壁に寄りかかって考え事をしている様子の吹雪にそう訊ねる。返事は那智が予測した通りの、沈黙だった。それは単純な肯定だけでなく、「今更そんなことを言うのですか?」や「今になって撤回できるとでも?」、「愚問ですね」といった複数のニュアンスを含んだものだった。何とか彼女の意思を変えられないか、元教官は頭を回転させようとする。だが彼女の経験は、吹雪の意見を変えるには、彼女を意のままにすることのできるただ一人の人物、彼女の“司令官”を説得するしかないという解答を既に出していた。今は軍警を牛耳る立場に収まっているその女提督の顔と、吹雪と共に彼女の下にいた頃のことを思って、那智は顔をしかめそうになった。が、それを抑制し、無駄と知っている説得を試みた。

 

「奴らがどんな手合いか、私もお前もよく知っているだろう。深海棲艦は精強で、狡猾で、抜け目ない連中だ。もし奴らが龍田を上首尾に始末したとして、その後素直に投降なり撤退なりしてくれると思うのか? あの島に潜む敵が一人から三人に変わったら、軍警にとっても不利益になりかねないぞ」

「もしそうなったら、後はロシア側に任せるだけです。日本国民を彼らに始末させたら大問題ですが、深海棲艦なら新聞の片隅にも載りません」

「その深海棲艦を送り込んだのが日本だと知られたら、それこそ大問題だ。内々に済ませることなどできなくなるだろうな」

 

 初めて吹雪が退屈さ以外の感情を顔に浮かべた。感心したような表情で近づいてきて、那智の顔を覗き込む。無線機の前の椅子に腰掛けていた那智は、距離を取ろうとして椅子をがたがたと言わせながら後ずさった。「誰がそんなことを教えるんでしょうね?」と軍警司令秘書に問われて、彼女は自分の発言が相手にどう受け止められたかを理解した。しまったと思うと共に、那智は体が冷え込んでいくのを感じた。艦娘「那智」としての制服の下、背中にじとりとした汗がにじんで、シャツが素肌に張り付く違和感を覚える。吹雪の瞳から視線を外さないまま、彼女はどちらがいいか比較した。誤解させたままにしておくか、それを解くか。

 

 数々の決断を下してきた那智にも、即断はできなかった。深海棲艦の投入を阻止しようとするなら、誤解させたまま、脅しを掛けでもしなければ目的は果たせないだろう。けれど軍警司令秘書を脅すということは、彼女と個人的にも密接に繋がりのある軍警司令を脅すことと、ほぼ意味は変わらない、と那智は見ていた。しかもそうやって軍警を丸ごと敵に回しても、吹雪を翻意させられるという確証はないのだ。那智には誤解をそのままにしておくことが、分の悪い賭けとも言えない愚行のように思えた。言うことを決めて、吹雪の発する圧力を押しのけるように、固い声を出す。

 

「私が言っているのは、()()()()()()じゃない」

 

 すると、吹雪は身を引いた。圧力が消える。那智は緊張を解き、視線を床に落として、安堵の溜息を迂闊にも漏らした。はっとして目を上げると、吹雪の失望の表情が視界に映る。元いた壁際に戻って、彼女は軽蔑したように鼻を鳴らした。戦争中まで遡ってみても、那智には吹雪がこれほど露骨に感情を表現したことが他にあったか、見つけられなかった。彼女は自身のがっかりした気持ちをそのまま乗せたような、諭すようにさえ聞こえる口調で那智に言った。

 

「正直に言えば、私は期待していたんです。あなたが私を脅してくれるんじゃないか、って。教師らしく、自分の教え子を殺させない為に、手段を選ばずに私の邪魔をしてくるんじゃないかと。それは予想でもありました。でも、あなたはそうしなかった。とても残念です。あなたは教え子を殺させない為にではなく、あなた自身の為に私を止めようとしたんですから」

 

 那智は不可解に思い、吹雪に反論しようとした。龍田の教官を務めたことが、軍警司令秘書を脅してまでも彼女を守る理由になるとは思えなかった。訓練所を出てすぐの子供そのままの龍田ならともかく、既にその時期は終わって久しく、十五歳の龍田はいなくなってしまったのだ。最早彼女は、那智にとって庇護の対象ではなかった。自立した存在だった。そういうことを、つっかえつっかえに言い立てる。そうすると吹雪は、ますます落胆したようだった。

 

「それでも、あなたは彼女の教官でしょう。あなたには責任がある筈です、彼女の戦争を終わらせる責任が。全てではなくとも、その一端程度は。それを果たすなら、深海棲艦に任せる必要はありません」

「私の教え子だから、私が行って、殺すべきだと言っているのか? 当てにならない第三者に頼ったりせず、この手で教え子を殺せと」

「ええ。それが龍田を育て上げた人間としての、責任というものです。できないなら、あなたは教官など務めずに退役するか──いっそ、その右腕を失った時、死んでいた方がよかったんです」

 

 その挑発に思わずかっとなり掛けたものの、すんでのところで那智は思い留まった。それもまた、吹雪には気に入らない様子だった。

 

「有効な代案は出さない。私を脅してでも、という決意もないし、己の手を汚す気概もない。あなたには一体、何があるんです?」

 

 壁を離れ、吹雪は部屋の出入り口へと向かった。那智が追いすがってくるか確かめる為にか、彼女は戸口で立ち止まり、数秒ほど待った。しかし那智は一歩も動かなかった。椅子から立ち上がることさえしなかった。吹雪はゆっくりと右手で自身の顔を覆った。長い溜息を吐き、最後の最後まで彼女の期待を裏切り続けた昔の戦友を、(かえり)みる。以前は所属する艦隊のあらゆる構成員に頼られ、心の拠り所の一つとされる艦娘であった那智は、道を探すことを諦めた迷子のように俯いたまま、微動だにしていなかった。吹雪はぽつりと言った。

 

「あなたは、本当に、全く。他の教え子たちがこんな様子を見たら、何と言うでしょうね」

 

 疑問への返事を待たずに、吹雪は部屋を出る。ドアが音を立てて閉まると、那智にはその無慈悲な音が自分を責めているように聞こえた。頭の中でぐるぐると、吹雪の言葉が回る。龍田の命を救う為ではなく、己の不快感の為に止めようとしたことについて、動機がそんなに重要か、と那智は反論したかった。龍田のところに行き、直接手を下すのを忌避していることについて、危険を避けたいと思うのは当たり前じゃないか、とも。「私は民間人なんだぞ」と那智は開き直るように言った。「軍人じゃないんだ」聞かせる相手のいない言葉が、部屋の壁と床に染み込んで消える。

 

 けれども、彼女はそこでふと、吹雪の言葉にも考慮すべき面があることを認めた。教え子たち、それも艦娘訓練所で鍛え上げた教え子たちがこれを知ったら、どう思うだろう。今現在の『那智教官』の姿を見て、それを誇りに思うだろうか?

 

 言い訳や益体もない文句は、幾らでも出すことができた。吹雪に言ってやりたいことも、龍田に言ってやりたいこともその中には含まれていた。()()()()? ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。だが、教え子にして戦友の艦娘たちがどんな目でいつも自分を見ているかを思い出すと、その文句は心の中で途端に勢いを失った。那智は、手ずから鍛えた彼女たちに信じられる自分が好きだった。彼女たちから寄せられる信頼を失いたくなかったし、それに背きたくなかった。

 

 再び、那智は教官時代の記憶を呼び覚ます。国外の泊地から電話を掛けて、感謝を伝えてくれた艦娘がいた。配属されてから最初の休暇を使って、会いに来てくれた艦娘がいた。戦死した教え子の遺書を受け取った両親が、彼女がどれだけ教官を慕っていたか知って欲しいと、その遺書のコピーを渡してくれたこともあった。戦闘部隊に行く筈が広報に回されても、那智の励ましの言葉を胸に努力し、彼女に訓練されたお陰で、他の教官の下にいた訓練生たちよりも恵まれた時間を過ごすことができた、と手紙を送ってくれた艦娘もいた。那智は彼女たちが自分を見ている様子を思い浮かべた。彼女たちの瞳は、無邪気で純粋な信頼と崇拝に満たされていた。那智はそれを裏切ることができるほど、勇敢ではなかった。それに流されるほど、臆病でもなかった。

 

 吹雪を追いかけることに決め、那智は立ち上がった。足取りは重く、気分は悪かったが、しなければならないことが何なのか、分かっていた。龍田を止める。何としても。それが吹雪の言う「龍田を育て上げた人間としての責任」を果たすことになるかどうかは分からなかったが、彼女はその内容はどうあれ自身の意志で選択したということで、満足していた。扉を開き、廊下に出る。人の気配を感じて、右を見る。と、そこには彼女に背を向けた吹雪と、龍田の提督が立っていた。提督は渋面を隠そうともしていない。那智の顔が、後悔に染まる。

 

 吹雪はくるりと振り返り、言った。

 

「投入が決定されました。もう手遅れです」

 

*   *   *

 

 雨合羽を脱ぎ捨てた龍田は、口の中に広がった泥の味をたまらなく不愉快に思った。閃光を浴びた目の側の視界は、白いヴェールを被っているがごとくはっきりしないし、頭はがんがんと痛み、耳鳴りも鳴り止まない。その状態で摩耶の勢いづいた右拳の一撃を避けるには、地面を転がるしかなかったのだ。口中に入り込んだ異物を吐き出しながら、龍田は自分を仕留めようとした拳の持ち主を見た。躊躇いもなく放たれた摩耶の拳は、龍田の過去位置を殴りつけ、加古の縛りつけられていた木に当たっていた。右腕の艤装の重みが乗せられていたせいか、少し幹がへこんでいるように見えて、龍田は背筋をぞっとさせた。一度でもあんなものに当たったら、それで終わりだ。

 

 しかし距離を取る訳にも行かなかった。摩耶の砲撃から龍田を守ってくれていたのは、加古が龍田に近すぎるという一点のみだったからである。横っ跳びに避けたせいでその守りを失った今、逃げる為に背を向ければ、摩耶は大喜びで主砲を斉射するだろう。龍田は右手で腰の刀を抜き、腕を引き戻して構えつつある摩耶に斬りかかりながら、秋雲の艤装を回収した時に、薙刀も持ってくればよかった、と悔やんだ。刀の間合いは素手よりも遠いが、摩耶の踏み込みの速さを見た後では、龍田にとってその優位は存在しないものに思えた。

 

 危なげのない動きで、摩耶は刀を迎撃する。彼女の右腕の艤装に外へと刀身を払われて、龍田の体は左に流されそうになる。あえて止まらず、彼女は流されたその方向に突っ込んだ。摩耶の左舷側艤装から砲撃が行われ、一秒前に龍田の胸があった空間を抉り取って空へと飛んでいく。今ので上空の航空機にも、おおよその位置を掴まれてしまっただろう。龍田としては落ち着いて立て直したかったが、そんな時間はなさそうだった。

 

 身を返す勢いで刀を上段に構え、摩耶の首へと振り下ろす。彼女はこれを見て、またも右腕を使い、艤装で防ごうとした。加速が足りなかったせいか、受け切られる。だが龍田もそうなることは予想していた。左足を伸ばし、振り下ろされる刀にばかり気を取られていた摩耶の隙を突いて、彼女の膝の裏を蹴りつけようとする。それで体勢を崩せたなら、蹴り飛ばして土の上に転がし、その間に逃げるつもりだった。ところが摩耶は全く目をやりもせずに、龍田の蹴撃に同程度の力のこもった蹴りを合わせて、それをいなした。びり、と痺れたような痛みを感じて、龍田は足を引っ込める。上段を防いだ状態からの、体重を乗せられない蹴りでこの威力か──艦種の違いがあるとはいえ、龍田は彼我の身体能力の差を恨めしく思った。

 

 と、摩耶の体が沈んだ。右腕の防御も下がり、龍田の押し込む力が空滑りして、前につんのめりそうになる。己の不覚を罵る間もなく、不敵に笑った摩耶が一歩踏み出し、彼女の左腕が龍田の脇腹に刺さった。内臓を揺さぶられる痛みと、骨が軋み、折れる音。殴られた勢いで下がりたかったが、龍田は意志の力を総動員してその誘惑を跳ね除け、刀から手を放して摩耶の左腕を取りに行った。狙いに気づいたか、相手は腕を引こうとする。けれど盾にした右腕の艤装に視界を遮られていて、龍田の手の動きを読み取るのが遅かった分、対応も遅れた。彼女の両手から逃げ切れず、摩耶の左腕が取られる。何かされる前に頭を潰そうと、摩耶は右腕を振り上げた。

 

 どん、と衝撃が彼女の体に走った。上げた右腕の下をくぐられて、龍田に体当たりされたのだ。艤装をつけていない軽巡のタックルでも、その運動エネルギーは無視できない。摩耶は一歩下がって、姿勢を維持しようとした。その足に、龍田の足が絡む。その上、地面は降り注ぐ雨で最悪の泥濘と化していた。ずるりと滑り、二人して泥の中に倒れ込む。上を取った龍田はすかさず掴んでいた腕を放すと、ナイフを引き抜いて相手の左舷艤装の接続部を抉り、操作能力を奪った。噛みしめた歯の間から苦痛の声を漏らしながら、摩耶が右腕を乱暴に振り回す。それが龍田の横面に当たった。直撃した訳ではなく、かすったようなものだったが、それだけで龍田の体が大きく傾ぐ。ナイフが彼女の手から飛んで、陸奥のいる辺りへ転がる。

 

 摩耶はこれを好機と見て、馬乗りになろうとする相手を突き飛ばそうとした。もちろん龍田もそれをさせまいと、顔面を狙って突き出された右拳をいなして、反対に摩耶の首へ自分の右手をやり、絞めつける。窒息が始まり、摩耶は顔を真っ赤にして本能のままに暴れる。気を抜けば振り払われそうになるのを、龍田は全力を使ってしがみつき、絞め続ける。摩耶の顔色が鬱血して赤黒くなり始めた。大きく振り動かされていた腕が、動きを失ってくたりと倒れる。ぐりん、と目が裏返り、龍田は彼女が気絶したものと思って手を放し、気を抜いた。後は陸奥をどうにかするだけだ、と。

 

 だから何が起こったのか、地面に背中から落ちるまで龍田には分からなかった。だが何か大きな力が自分にぶつかり、暴走した車が子供を跳ね飛ばすように、宙を舞わせたということだけは分かっていた。受け身を取る余裕もなく、仰向けに叩きつけられ、したたかに後頭部を地面へとぶつける。そのせいで、意識が朦朧とした。誰かが咳き込み、吐くような音が聞こえて、龍田は身を横に転がして起き上がりながら、彼女の敵のいる方を見た。気絶したふりをしていた摩耶が、四つん這いになって喉に手をやり、胃の中のものを泥の上にぶちまけていた。大方吐き終わったか、顔を上げて龍田を見る。視線が交わされる。次の動きは、互いに全く同じタイミングで行われた。

 

 摩耶が右腕を上げ、発砲しようとする。地を蹴った龍田が、一直線にその砲口目掛けて飛びつく。発砲音。首を捻った龍田の頭のすぐ脇を、砲弾が通り過ぎる。頭の中を攪拌(かくはん)される感覚が、龍田を襲う。けれども、それで彼女の体が止まることはなかった。摩耶は再び組みつかれ、地面に押し倒される。ただし今度は彼女にも準備ができていた。倒された勢いを利用して、龍田の上を取る。そのまま摩耶は右腕を引き、拳を相手の顔がある場所へ叩き込んだが、払われて逸らされた。二発目を打とうとするが、その前に龍田の足が彼女の首に絡みつく。龍田の渾身の力で横へ投げられた摩耶は、軽く転がって距離を調節しようとした。けれどその首は龍田の足が執念深く押さえており、気づけば右腕も掴まれていた。

 

 この熟練の重巡艦娘が失敗を悟った時には、もう遅かった。龍田は足で彼女を押さえつけたまま半身を起こし、摩耶の右腕を強引に肘のところで捻じ折った。彼女は初めて、悲鳴を上げた。摩耶の左手が自分のスカートに伸ばされ、拳銃を掴み、撃鉄を起こしながら引き抜く。滑らかな動きだったが、速度が不足していた。彼女が引き金を引くよりも先に、龍田はそれが武器だと判断して奪い取った。右手の中の銃を見て、驚く。()()()()()()()? けれど状況から考えれば、それは艦娘を殺すことのできる弾薬を装填された、危険な武器に違いなかった。こんなものまで用意して殺しに来たのか、と半ば感心しつつ、龍田はそれを摩耶の頭に向けて、引き金を引こうとした。陸奥が叫んだ。

 

「やめて!」

 

 その声を無視し、陸奥を見ずに龍田は指に力を入れた。でも、何も起こらなかった。かちん、と音を立てて撃鉄が落ちただけだった。龍田も、摩耶自身も、どうして弾が出ないのかと思った。戦闘中の興奮で回転のよくなった龍田の頭が、瞬時に解答に辿り着く。彼女は拳銃の遊底を引き、初弾が装填されていなかったことを確かめた。手を離し、遊底が戻る。これで弾が薬室に送り込まれた。

 

 今度こそ摩耶の頭の中身を地面に広げてやろうとしたところで、泥の上に何かが落ちる音がした。そちらを見る。龍田のナイフを片手に持った陸奥が倒れていた。ナイフを拾い、吊り罠のワイヤーを切って脱出したのだ。彼女は身を起こし、ナイフを投げようとしていた。咄嗟に龍田は拳銃を彼女に向け、発砲しようとする。その腕が跳ね上げられた。摩耶が、折られたせいで警戒されていなかった右腕を使って、下から無理やり押し上げたのだ。放たれた弾丸は明後日の方向に飛んで行き、陸奥の投げたナイフは龍田の左肩に突き刺さった。龍田が鋭い痛みに思わず仰け反ると、仰向けのままの摩耶が追撃に蹴りを放つ。龍田は飛び退って、これを回避した。

 

 潮時だ、と傷ついた軽巡は判断した。陸奥と摩耶から目を離さず、瞳を動かすこともなく刀の落ちた場所を見やる。陸奥は両腕で頭と心臓を守りながら、突進の姿勢を見せていた。これでは拳銃を何発撃ったところで、致命傷を与える前に肉薄され、反撃で殺されるだけだろう。今なら、負傷した摩耶や加古を優先して、追いかけて来ない筈だ。頭の中でそう計算して、龍田は動き始めた。牽制に一発、陸奥に向けて射撃する。幾ら生存術に貪欲な龍田でも、拳銃射撃にまでは熟練していなかったので、命中は期待していなかった。ただ陸奥がそれで少しでも怯んでくれればいいと思ってのことだった。目論見通りになったかを確かめずに、龍田は刀のところまで走り、それを拾って駆け出す。ナイフが刺さったままの肩がひどく痛んだが、血を余計に流さないで済ませる為にも、安全な場所に戻るまで抜く気はなかった。

 

 摩耶に殴られた脇腹が痛んでも、龍田は速度を落とさなかった。だが息が切れ始めたので、集中力を途切れさせることを恐れて、彼女は立ち止まった。自分で仕掛けた罠だからこそ、彼女はその悪辣さをよく知っていた。間違ってもそんなものの犠牲になりたくはなかった。一本の手頃な、ごく細い木に背を任せ、手に持ったままだった刀を鞘に納める。それから肩に刺さったナイフを引き抜いてそれも鞘に戻すと、腰の水筒を取り、中の希釈修復材で応急処置をした。脇の傷に修復材を塗り込みながら、龍田は疑問を感じた。皮膚に塗っているのに、どうして骨折が治るのだろう? しかし考えてみても答えが出る訳がなかったので、やがてその問いは頭から消えた。

 

 代わって、敵のことを考える。陸奥と摩耶に散々な目に遭わされるまでに、彼女は初期に離脱しなかった連合艦隊の艦娘たちのほぼ全員を片付けていた。誰一人として殺しはしなかったが、龍田はそれを「殺せば彼女たち(連合艦隊)は後に退けなくなる、そうすれば数や能力で不利なこちらが負ける」からだと自分に説明した。それなりに筋は通っていたが、それが本当なのかどうなのかは考えなかった。彼女自身にも分からなかったし、とにかくそれで上首尾にことが運んでいたからだ。

 

 激しい運動のせいで発生した熱が、雨で冷やされていくのを龍田は感じた。額から目に流れ込みそうになった水滴を、指で拭う。そろそろ動き始めなければ、体温の低下が運動力を奪い始めてしまうだろう。そう判断して、彼女は長く憂鬱な吐息を漏らした。雨風の防げる場所に戻りたかった。緑の屋根を見上げて、龍田は呟いた。

 

「そろそろサイトに戻ってもいいんじゃないかしら?」

「ダメよ」

 

 背後から声が響く。龍田は後ろ手に木を突いて、離れようとした。けれど、摩耶を残して追い続けてきた陸奥が、龍田のもたれていた木ごと彼女の細い首を右腕の中に抱え込む方が早かった。逃げられないと分かった時点で龍田が自分の右腕を陸奥の腕と自身の首の間に差し入れていなければ、彼女の首の骨は木と諸共に圧し折られていただろう。龍田は左手で腰の刀を鞘ごと掴み、木の後ろにいる陸奥の脇腹をそれで突いた。腹筋にめり込む感触はあったが、陸奥による拘束は緩まない。それどころか彼女はもう片腕を龍田の脇の下に差し入れ、鞘による殴打を防ぎながら、バックチョークをより堅固な形にした。先ほどの摩耶のように、足をばたつかせて龍田はもがく。こうしている内に、まだ動ける連合艦隊の艦娘たちがここに来れば、どうなるかは分かり切っていた。

 

 腕ごとの強い圧迫を受けて、龍田の意識がぼやけ始める。右手から拳銃が滑り落ちそうになって、彼女はその存在を思い出した。左手でそれを取り、木の後ろから回されている陸奥の右腕の、なるべく付け根に近いところを撃つ。二発撃つと、力が少し緩んだ。三発目で、龍田を絞めつけていた腕が離れる。それと同時に、龍田は左の側頭部を殴られた。よろめきながら振り返り、拳銃を撃とうとする。が、陸奥は戦艦の脚力を活かし、摩耶以上の踏み込みの速さを見せた。龍田は完全に後手に回った。陸奥の女性的な左手が龍田の胸倉を掴み、彼女を近くの木の幹に叩きつけた。これまで受けたことのない強さの衝撃に、龍田の肺から喉へと空気が抜け、意識が明滅する。右手から拳銃が落ちる。

 

 陸奥は至近距離から龍田を睨みつけながら、傷口から今も血をだらだらと流し続ける右腕を構えた。殴られることを覚悟して、龍田はあごを引き、目を固く閉じた。恐怖に荒く浅い息が出る。だが、数秒経っても殴打は来なかった。どういうことかと思って、彼女は目を開いた。陸奥はその瞬間を狙って、龍田を横殴りに打擲(ちょうちゃく)し始めた。筋肉を銃弾に食い荒らされていても、陸奥のパンチは強力だった。それは一発ごとに、龍田の気力を奪っていった。痛みも段々と感じなくなり始め、ただ揺さぶられるような鬱陶しさを覚えるだけだった。()()が止み、かすんだ視界一杯に陸奥の顔を捉える。紅潮はしていたが、無表情で、その目は龍田以外に何も映していなかった。陸奥は最後の一撃のつもりなのだろう、大きく腕を引き、勢いをつけて殴りつけた。骨が砕ける音が、龍田の耳元で響いた。

 

 けれどもその音の出所は龍田ではなかった。陸奥の握り締められた指が、パンチの軌道上に置かれた龍田の左肘に当たって立てた音だった。予期せぬ痛みに、陸奥の意識がそちらに割かれる。ごく短い時間だったが、龍田には十分だった。彼女は右手を伸ばして相手の頭部艤装、信号桁を模したような形のそれを掴んでもぎ取ると、尖ったそれを陸奥の左目に突き入れた。突き刺さる直前、ギリギリで反応した陸奥が上体を反らそうと試みた為に、それは脳にまでは達しなかったが、左目は潰れた。さしもの陸奥も、ほんの半秒ほど呆然とする。その間に、龍田は足元の拳銃を拾って逃げ出していた。彼女の頭にはサイトに戻ることしかなかった。何度も殴られたことによる鈍い痛みを抱えたまま、龍田は木々にすがりながら走った。それはどう見ても敗走の様子だったが、しかし彼女はまだ生きていた。

 

 何処をどう走っているのか本人にもよく分からないまま、龍田は走り続けた。やがて見えるのが通ったことのある景色になってきて、暫くすると五十鈴のいる建物が見えてきた。ほっとするのと足を速めるのを一緒にすると、龍田は半ば体当たりするようにしてサイトのドアを開け、頑丈な屋根の下、奇妙な同居人のいるところへと文字通りに転がり込んだ。その時の五十鈴は食事の最中で、ぽかんとしてレトルトパウチの中身をスプーンでかき混ぜていた手を止め、ぼろぼろの龍田を見た。彼女の顔は腫れ上がっていたし、胸元はボタンが取れて大きく開いており、体中に泥が付着していた。倒れ込んだ彼女に、五十鈴は肩をすくめて一言だけ言った。

 

「疲れてるみたいね」

 

 這いずるようにして、龍田は壁際へと移動する。そしてぴったり背中を壁にくっつけて座ると、腰の水筒を取ってその中身を頭から被った。顔から腫れが引いていき、体の細かな切り傷や擦り傷も消えていく。水筒が空になると、彼女はそれを脇に置いて息を長く吐いた。これからどうするか、考えなくてはならない。連合艦隊はあれで諦めるか? その答えは、龍田に優しいものではなさそうだった。最初に離脱した負傷者たちの護衛を戻せば、連合艦隊側は数の優位を保つことができる。分断を狙うのも、もう警戒されて無理だろう。そういった密接に連携した集団に無闇な攻撃を仕掛ければ、必ずや手痛い反撃を受けると龍田には思われた。

 

 五十鈴を見る。外では雨が降っているとしても、砲声や航空機のエンジン音が聞こえていなかった訳ではないだろうに、平然と食事を続けていた。龍田の視線に気づき、スプーンを口にくわえたまま見つめ返してくる。ここ暫くで随分と彼女は艦娘らしくなった、とぼんやり龍田は考えた。拉致されてきた初日なら、もっと取り乱していただろうに。まるで民間人か何かのように、発砲音に震え、プロペラ音に怯えていたことだろう。()()()()()()()()()()()()

 

 龍田は重い腰を上げ、置き去りにしていた艤装を身につけた。やるべきことを頭の中でリストアップしていく。まずは薙刀を回収して、それからまだ戦える連合艦隊の艦娘たちを迎え撃つ準備をしなくてはならない。入念に備えた上で不意を打てば、可能性はある筈だった。あちらこちらを引きずり回し、毒を食らわせ、疲労させ、判断力を奪えば、どんな相手にだって勝てる。龍田は訓練生の頃に那智から教わったことを一つ一つ思い返し、それを忠実に実行しようと決めた。

 

 希釈修復材を水筒に詰め直し、罠用の資材を幾らか持って、龍田は戸口に向かった。扉を開けようとしたところで艤装から、レーダーが何かをキャッチした、という警告音が鳴る。彼女は舌打ちして、レーダーが何に反応したのかを読み取った。その結果に思わず、口から言葉がこぼれる。

 

「冗談でしょう?」

 

 彼女の尋常でない様子に、五十鈴が反応した。龍田の背中に向かって、短くぶっきらぼうに「何よ?」と尋ねる。訊かれた彼女はゆっくりと向き直った。顔には笑いのような表情が貼りついていた。龍田は言った。「深海棲艦が来るみたい」五十鈴は、心底どうでもよさそうに「ふうん」と答えた。それからこれだけでは味気ないと思ったのか、「なら、次は陸軍かしらね」と付け足す。その冗談で、龍田の気分は少しよくなった。凝り固まり掛けていた表情筋を指でほぐし、囁くように同居人へ言う。「そろそろ帰りなさい」だが解放されるというのに、彼女は噛みつくような剣幕で言い返した。

 

「すっかりあんたの戦争に巻き込まれた後で、何処へ帰れるって言うのよ?」

「元いた場所へ。みんなきっと、あなたを待ってるわ。とても幸せね」

 

 彼女は空になっていたレトルトパウチを、龍田に向かって投げつけようとした。使用済みのスプーン以外に中身の入っていない袋は、大きく狙いを外れて床に落ちた。それを見て龍田は、罠用の資材から残り少なくなったワイヤーを取ると、五十鈴に近づいていった。

 

*   *   *

 

 陸奥が目を押さえながら摩耶のところに戻ると、彼女は既に応急処置を済ませていただけでなく、龍田に拘束された艦娘たちや、はぐれてしまっていたが襲われずに済んだ者を探し出し、合流していた。龍田に対する殺意が心の下層に沈み、ある程度は冷静に振舞える状態に戻っていた陸奥は、この得がたい二番艦の有能さに脱帽したい気分だった。驚かせないよう、がさがさと音を立てながら彼女の方に近づいていく。森の中から現れた女を見て摩耶は身構えたが、それが敵ではなく自分の旗艦であることを認めると、少し肩を落として言った。

 

「逃げられちまったか」

 

 そして陸奥の目と右腕を見るや、彼女は慌てて駆け寄った。陸奥は希釈修復材を持たずに龍田を追い掛けていたので、負傷の治療ができなかったのだ。傷を塞ぐのと並行して、摩耶は銃創を調べる。彼女の見立てでは、上腕の動脈が破れていた。しかも傷口のサイズからして、その傷を作ったのは艦娘用の銃砲ではなく、通常の人間用の拳銃だった。意気消沈して、摩耶は言葉少なに謝った。憲兵隊の物資からふざけ半分で持ち出してきた銃が親友を傷つけたことが悲しかったし、そんなものをみすみす龍田に奪われた自分の間抜けさが許せなかった。陸奥は痛みの残る右手で親友の頬を軽くぺしりと一度叩き、微笑んだ。「お望みなら、後で死ぬほどお説教してあげるわ。今は次のことを考えましょ」その暖かい言葉に、摩耶は何とか微笑み返すことができた。

 

 互いに意識を切り替え、達成しなければならない任務について話を始める。陸奥としては退くことは考えられなかった。結果論として誰も死んでいないとしても、龍田が摩耶を殺そうとするのを彼女は見たのだ。その時点で、陸奥の中で決定は下された。冷酷だとは思わなかった。確かに龍田は戦友の一人だが、それは摩耶も同じことだ。それに摩耶は陸奥にとって掛け替えのない人物だったが、龍田はそうではなかった。天秤に掛ければ、どちらに傾くかは明白だった。陸奥は任務の遂行を固く誓った。今日、彼女たちの来たこの島で龍田以外の艦娘が流したあらゆる血の復讐の為に、彼女は殺されなければならない。

 

 だが、それを止めたのは誰あろう摩耶だった。全ての艤装を下ろしていた陸奥に通信が繋がらなかったので、単冠湾泊地の提督たちは、彼女の二番艦である摩耶に連絡を寄越したのである。その内容は、龍田との交戦の間に感情が磨耗した陸奥をして、大いに驚かされるものだった。「撤退命令ですって?」と陸奥は思わず叫んだ。激しい雨の音さえはね付けるその大声に、周囲の艦娘たちがざわつくものの、摩耶がぐるりと見回すと静かになった。声を潜め、陸奥の耳元に口を寄せて、彼女にしか聞こえないようにして言う。

 

「そうだよ。でもただの撤退じゃねえ。いや、何も言われてねえけどよ、あたしには分かるんだ。泊地の連中は何か目論んでる」

「見当はついてるの? それとも、あなたがそう考えてるってだけ?」

「おい、あたしはただの艦娘だぜ。あいつらの考えることなんか分かるもんか。だけど、ここにいるのは多分マズい。本当にマズい。退こうぜ、陸奥。そうしたら、あたしらの誰もここで死ななくて済む。後がどうなろうと知ったことかよ、そうだろ?」

 

 陸奥は考えた。数秒だけだったが、それはとても深い思考だった。個人的な感情として、龍田を見逃したくはなかった。彼女に重い一撃を与えたという直感が、陸奥にはあったからだ。ここで追撃すれば、龍田を仕留めることができる。その確信があるにも関わらず退くなどということは、容赦も慈悲もなく艦隊員を傷つけられた旗艦にとって、小さくない苦痛だった。けれども命令は命令であり、それは彼女が従うべきものだったし、命令無視に戦友たちを付き合わせる気にはなれなかった。歯を食いしばり、端正な顔を悔しさに歪めながら、陸奥は艦隊員たちに撤退を命令することにした。

 

 隊列を組み、負傷者同士で支え合わせながら、のろのろと艦隊は移動を開始した。陸奥はそれを最後尾から見て、惨めな気持ちになった。己の指揮能力に疑問を感じ、自分が旗艦だったから彼女たちがこんな目に遭うことになってしまったのではないか、と恐れた。その肩を横に来た摩耶に叩かれて、陸奥は自分が隊に置いていかれそうになっていることを発見した。摩耶に手を引っ張られて、歩き出す。いい年をして同性の友人と手を繋いでいることに陸奥は羞恥を覚えたが、摩耶の手を握っていると不思議なほど安心できた。離さないように、繋いだ手に力を込める。すると摩耶は陸奥の方に顔を向け、何でもないことのように言った。

 

「あたしも、前にいた泊地で旗艦やってた時にさ。必死の思いで深海棲艦を追い出した海域、っていうか島だったけどな、それを命令一つで放棄させられたことがあったんだ。今のお前と同じ気持ちになったよ。いや、きっとお前よりひどかったね。信じられるか? 他の泊地の艦隊を捕まえて、そいつらと不正規な連合艦隊まで組んで、何度も何度も再出撃を繰り返して、ようやく奪った島だったんだぜ? その為に、艦隊員が二人も沈んじまった。あたしの戦友、あたしの家族……」

 

 摩耶は頭を振った。彼女は体温の低下で色の薄くなった唇を噛み、視線を下に落としていたが、少しすると陸奥の目をまっすぐに見て言った。

 

「分かるか? 二人も無駄に死なせたんだよ、あたしは。そりゃ獲った島が放棄されるだなんて思ってもみなかったけどさ、そんなことは言い訳になりゃしねえ。だろ? だけど陸奥、お前は違った。お前はこのクソったれな島でさえ、誰も死なせなかった。これは、マジで、すごい。誰にでもできることじゃねえ。それをやったんだ。だから、お前は自慢の旗艦さ、あたしたちみんなのな」

 

 彼女の突然の告白は、陸奥の耳には何となく嘘らしく聞こえた。けれどその嘘らしさには、摩耶の手から陸奥の濡れた手袋越しに伝わる熱のような、確かな温かみが込められていた。陸奥は親友と視線を絡め合い、無言の内に互いが互いにとって欠かせない存在であることを再確認した。落ち込んだ気分がいきなり上向きになるということはなかったが、それでも数分前と比べると、今の陸奥の心は落ち着いていた。どちらからということもなく、二人は手を離した。握るもののなくなった手はすぐに冷えたが、降り続ける雨の冷たさでは打ち消すことのできない温もりが、心に宿っていた。

 

 二人は、隊列の後方を警戒しながら、移動を続けた。森の中の道なき道を行き、地を這うほどの速度で襲撃を受けた地点にまで戻った。摩耶は目を皿のようにして調べたが、道端に転がされていた薙刀は消えていた。五分と休むこともなく、残っているであろう罠に注意を払いつつ、森を出たお陰で少々軽くなった足取りで、砂浜への撤退を始める。そうして十分ほど歩くと、隊の先頭に立つ艦娘──龍田の被害に遭った中では一番軽傷の艦隊員であり、陸奥が世界で最も勇敢な艦娘の一人だと考えている秋雲が、擦り傷だらけの右手を上げて停止を指示した。陸奥は最後尾から彼女の下へ小走りで向かい、何があったのか訊ねようとした。しかし秋雲が口元に指を立てたので、言葉を飲み込んで耳を澄ませた。

 

 最初は、雨音しか聞こえなかった。けれど集中すると、進行方向から人の呻き声のようなものが聞こえた。陸奥は「もしかしたら、通信が繋がらなかった護衛や、最初に退いた負傷者たち、あるいは天城たちも、龍田に襲われたのかもしれない」という最悪の予想を立てた。龍田の被害に遭わずに済んだ幸運な艦隊員を呼びつけ、天城や最初の離脱者たちに通信できるか試すように言う。少しの間を置いて、彼女は陸奥に両方と通信が繋がった旨を伝えた。

 

 それを聞いて「じゃあ、さっき繋がらなかったのはどうしてかしら」と旗艦は思ったが、それよりも先に声の主を特定するべきだと考え直し、声のする方向へ移動を命じた。連合艦隊の艦娘たちは傷つき、疲れていたが、それでもこの命令を受け入れた。艤装を身に着けた艦娘たちを先頭に変えて、声へと歩を進める。近づくにつれて、それは大きくなった。だがその一方でその声は、まるで口にものでも詰め込まれているかのような不明瞭さを保っていた。陸奥は龍田が拘束した艦隊員たちが、そのような処置をされていただろうかと思い、摩耶に尋ねた。答えは否だった。

 

 龍田が今度に限って声を封じようとした理由について考えを巡らせつつ、陸奥はぬかるんだ道を進んだ。やがて暗闇の先に、動くものが見えてきた。地面に転がされ、もがきながら何か喚こうとしているが、くぐもった呻き声にしかなっていない。陸奥は他の艦娘たちを止まらせると、慎重に近づいていった。その隣に、摩耶が並ぶ。陸奥は横目で彼女を見たが、戻らせはしなかった。二人はいつでも応戦できる姿勢で、それが誰なのか分かるところまでたどり着いた。立ち止まる際に、摩耶の足が小石を蹴飛ばす。それはじたばたと地面であがき続ける誰かの背中に当たった。

 

 泥まみれの五十鈴は縛られた体を捻って振り返ると、服を裂いて作ったらしい猿轡(さるぐつわ)を噛まされた口から、明らかに呪詛と分かる声にならない叫びを上げた。


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