では。
―――――おかしなひと。
ふと気付いたら、來野巽は耳の奥に残るその言葉を思い出すようになっている。
言葉だけでなく、そう言った自分より歳下の女の子の瞳の明るさも。その横に控えていた白髪の少女が放った瀑布のような風も。
今のようにこうして公園のベンチに座っているとき、電灯の光の中に巽はそれらを思い出す。
―――――ええ、殺すわ。
聖杯戦争を止める、と言った自分に言われたのは無邪気な殺害予告だった。
第一位の英霊、セイバーのマスターは、熾天使の翼を持つ階梯一位の魔術師で、そして巽より幾つか歳下に見える愛らしい女の子だった。
巽は運良く昼間に彼女に接触し、言葉を交わした。自分から探し出したのではなく、雑踏の中から簡単に見つけ出されたのだ。
友人を午後のお茶に誘うような朗らかさで、巽とバーサーカーに話しかけてきた少女は、巽の言葉に心底から驚いた風に笑い、無邪気に殺意を返した。
―――――夜に会ったら殺し合いましょう。
あの女の子にそう告げられたとき、巽は何も言えなかった。
巽は今まで生きてきてあんな風に何の虚飾も強がりもなく、ただ殺すと言われたことはない。だから何も返せなかった。自分のために誰かを殺すなんてそんなこと、思ったこともなかったから。
それでもあの子の言葉には嘘も虚勢もなかったことは分かった。
セイバーという巽より幾つか歳上なだけに見える少女も、巽の言葉に何かを動かされた様子は無かった。彼女が表情をはっきりと変えたのは、巽がバーサーカーを偶然に召喚したと言ったときだけだ。
『タツミ、考えごとかい?』
霊体になったバーサーカー、ジキルに語りかけられ、巽は公園のベンチから背を思わずもぎ離した。
声に出して答えかけ、そうする必要は無いのだと心の中の声に切り替えた。
『何でもないさ。バーサーカー』
バーサーカー、ジキル博士は狂戦士と呼ぶには相応しくないんじゃないかと巽が思うほどはっきりした理性を持っていた。
彼の願いは、聖杯を手に入れた先にはない。
彼が召喚に応じたのは、生前の後悔故だ。
ジキル博士、と名乗った彼は生前自分の悪性を別人格という形で解き放ってしまい、たくさんの人を殺め、傷付けてしまったという。
学識深い理知の瞳の狂戦士は、巽に言った。
―――――自分の願いは、今度こそ初めから人を守れるように在ること。
だから、バーサーカーの願いは東京の人々を守りたいと思う巽に召喚された時点で、もう半ばは叶っているのだと言った。
でも、東京を守るためにはジキル博士はあのセイバーという少女を殺さなければならないのだ。巽は友人に、あんな
そんな簡単なことも、巽は分かっていなかった。分かったつもりに、なっていただけだったのだ。
「バーサーカー、実体化してくれ」
ひとけのない公園のベンチにバーサーカーの姿が顕現する。バーサーカーも何かに悩んでいるように見えた。
―――――もし、自分が戦いを止めたいと言ったら。
バーサーカーは、何というのだろう。
來野巽がそう思いかけたとき、ふわりと夜空から光が舞い降りた。
「こんばんは、バーサーカーのマスター。また会いに来たわ」
否、光そのもののような可憐な少女が一人、何も無かったはずの虚空から姿を現したのだ。
「セイバーのマスター……!」
ジキルが叫び、巽の前に出る。
その手が懐に伸びたが、それより先に愛歌は笑って首を振った。
「違うわ。戦いに来たわけじゃないの。誘いに来たのよ。ほら、わたしはセイバーを連れていないでしょう」
何も持たない手を広げて愛歌は笑った。
半ば反射的に、『静止の魔眼』を使い赤く染まりかけていた巽の片目は愛歌の目を見た瞬間、元の色に戻った。
取り消したのではなく、発動ができなくなったのだ。愛歌の透き通った碧眼が、巽の方へ向けられる。
「あら、ちょっと変わった目を持ってるのね、あなた。……まあいいわ。わたし、戦いに来たのでは無いもの。あなたたちに話があるの」
「話だって?敵のマスターだろう、君は」
「ええそうよ、バーサーカー。だけどそれが何なの?あ、セイバーのことを気にしているなら大丈夫。彼女はわたしがここにいることを全然知らないわ。ちょっと別な所で戦ってるから」
ね、と愛歌は手を合わせてお願いをするように巽を見た。
「……分かった」
どの道、この子からは逃げられないだろうと巽は悟った。さっきも、少女は空間からいきなり現れた。漫画で見たテレポートのような魔術をこの子が簡単に扱えるなら、巽にもバーサーカーにもどうしようもない。
愛歌は簡単にバーサーカーの横をすり抜け、ベンチの巽の隣にすとんと腰を下ろした。
「バーサーカーのマスター。あなた、この戦いで殺される人を無くしたいって言っていたわよね。じゃあきっと、都心で起きている連続殺人事件のことも知っているでしょう?」
巽とバーサーカーが頷くより先に、それを今からわたしとあなたたちで止めに行く、と愛歌は明日の天気を言うように告げた。
「何を驚くの?あなたが言ったことじゃない。聖杯戦争を止めるって、言い切ったのはあなたよ」
「それは……」
反論が咄嗟に思い付かなかった。
凍った巽に、愛歌は音も立てずに近寄るとその肩にそっと触れる。
瞬間、巽は空中にいた。
眼下には夥しい光がある。それが、空から見下ろした東京の街だと気付く前に思わず巽は叫び声を上げた。
しかし瞬きの間に、足はしっかりとコンクリートを踏みしめていた。
「そんなに驚くことかしら。セイバーは高いところも平気で着いてきてくれたのに」
「……英霊と一緒にしないでくれ」
心底から巽は言った。
背中を支えてくれているバーサーカーの存在が頼もしい。彼も諸共に転移されたのだ。
「……で、ここは何処なんだ?」
こうなったらもう、巽はこのセイバーのマスターに付き合うしかない。彼女の指先一つが動いて転移で地上に叩きつけられたら、それだけで死ぬ。
「何処って、これから事件が起こる場所よ。見てみて」
言われ、巽はようやく自分たちのいる場所がどこかのビルとビルの間であることに気付いた。先程の公園とは似ても似つかない喧騒が背中の方から聞こえてくるが、裏路地は静かで微かに生臭い臭いがした。
「彼処よ。見えるでしょう?」
翠の布と白いレースに包まれた愛歌の手が暗闇を指差すと、手から光の球が数個生み出され、裏路地に蟠る闇を払った。
照らし出されたのは、白い髑髏の仮面だった。
「うわっ!?」
巽の目の前で何かが光る。
乾いた音がして、地面に叩き落されたのは黒い短刀だった。
「マスター、下がれ!」
ナイフを振るって短刀を叩き落としたバーサーカーが前に出る。髑髏の仮面の人影は瞬時に飛び退いて、ビルの壁面を蹴って跳び上がろうとした。
しかし、ふわりと愛歌が右手に雷を宿してビルの更に上に転移し、魔術を仮面の人影に押し当てた。
闇に火花が飛び散って、仮面の人間の体がどさりと路地裏に落ちた。魔術を浴びた白い髑髏面が真っ二つに割れて転がる。
「そう簡単には逃さないわ。こっちもセイバーに気づかれる前に帰らなくちゃならないの」
とん、と降り立った愛歌は腰に手を当てて巽の方を見た。
「そいつ……サーヴァント、なのか?」
「多分ね。あんな風に普通の人間は動けないもの」
ただの夜の女の人ならこんな短刀も持たないしね、と愛歌は地面から柄も刃も黒く塗られた凶器を拾い上げて手の中で弄ぶ。
たった今、自分があれに刺されて殺されかけたのだと巽は今更のように足が震えた。
サーヴァントに近寄って見て、巽は更に驚いた。
「え、女……の子?」
愛歌の作り出した魔術の灯りに照らし出されているのは、艶かしい肢体を革の服で包んだ、小柄な少女だった。
「女の子、というよりはアサシンのサーヴァント、この事件の犯人よ。ああ、下手に近づかない方がいいわ。その子に触れたらあなた、死ぬかもしれないから」
そういう愛歌は、ぺたぺたとアサシンの体を触っている。
顎に指を当てて、愛歌はふうん、と鼻を鳴らした。
「一画も令呪の移植をしていないようだし、この子が殺人をしていたのは、本当に魂食いのためみたいね。じゃあ、何故マスターを殺してしまったのかしらね」
「……魂食い?」
アサシンの傍らにしゃがみ込んで、愛歌は巽の方を見上げながら答えた。
「人間の魂を食べて、サーヴァントが魔力を取り込むことよ。マスターを無くしたサーヴァントや、マスターからの魔力供給が十分じゃないサーヴァントが取る方法ね」
「魂を食べる……って、それ、殺すってことか?」
「当たり前よ。魂を食われて生きている人なんているわけないじゃない。この子も自分が生きるために殺したのでしょう。まぁ、セイバーくらいに堅物だと、魂食いを全力で拒否するのだろうけれど」
アライメントが善寄りだと苦労性になるのかしらね、と愛歌は他人事のように呟いている。
「それで來野巽くん、あなたはこの子をどうしたいの?」
当然のように愛歌から名前を呼ばれ、巽は怯んだ。愛歌は一向気に留めず、地面の上のアサシンを指さした。
「放っておいたらこのサーヴァントはまた人を食うわ。そうするのは偏に自分が生きるためだけれど、あなたの守りたい無辜の人々を食らっているのに変わりはないわ」
どうするの、と愛歌は巽の様子を測るかのように無機質な、底に渦を宿した瞳で言った。
この子は自分の何を見ているんだ、と巽は状況も忘れてその瞳に囚われる。
「タツミ」
傍らのバーサーカーに名前を呼ばれて、巽の意識が浮き上がった。
バーサーカーの手には宝具である薬瓶が握られていた。あれを使えばジキル博士の理性は消し飛んで獣となり、そうしてようやく彼はサーヴァントとしてまともに戦闘を行えるようになる。
彼に命令すれば、ジキル博士は簡単にアサシンの命を奪うだろう。
見た目は、本当にただの女の子でしかない。
殺せという一言を、來野巽はどうしても舌の上に乗せられなかった。それが彼の限界だった。
沙条愛歌は巽のその様子を見ても何も言わなかった。ただ興味深そうに目を細めて、首を傾けただけだった。
そのまま愛歌はビルで区切られた夜空を見上げ、急に、あらと驚いたような声を上げた。
くるりと愛歌のドレスが翻り、アサシンの腕を掴むと何も無い空間へと放り投げる。音もなく空間に黒い裂け目が開いてアサシンを飲む。それと同時にバーサーカーが巽を後ろに庇った。
愛歌とバーサーカーが揃って空を仰ぎ見、巽が目を白黒させている間に、かつんと乾いた音が裏路地に木霊する。
「驚いたわ、まさかこんなに早いだなんて」
愛歌の呟きと共に、ふわりと月の光を遮ってビルの屋上から新たな人影が舞い降りてくる。
「それはこちらの台詞ですよ、セイバーのマスター。このような夜に、従者を連れずに出歩くだなんて。あなたは困ったひとのようですね」
月を背に飛び降りて来たのは、大槍を携えた銀の髪の美しい女。槍を持ったまま、彼女はそう言って儚げに笑った。
「ランサーのサーヴァント……!」
「あら、ばれてしまいましたか。そういうあなたはキャスター……ではありませんね。……ではバーサーカーでしょうか」
理性のある狂戦士とは珍しいこともありますね、とランサーは身構えるバーサーカーと微笑む愛歌に視線を向けつつ、槍の穂先を下ろしたまま言う。
「セイバーは他所に行かせているの。それから、あなたのマスターのお薬を台無しにしたことは謝らないから」
一対一でサーヴァントと向き合いながら、愛歌は欠片も臆せずに言ってのける。
ランサーは長い睫毛に縁取られた目を伏せ、首を振った。
「構いません。あれは相当貴重な秘薬で、この戦いの最中に再び作ることは叶わないそうですが……。正直私としてはその方が良いので」
にこりとランサーは今度は明るく微笑んだ。
「こちらのマスターからの命令はセイバーとの再戦でしたが、セイバーがいないならば仕方ありません。別の命令に従いましょう」
「あら、それはなあに?」
「この街で暗躍しているアサシンの発見、または撃破です。神秘の漏洩は、私のマスターにとっても好ましい事態ではありませんから」
へぇ、と愛歌はただ肩をすくめた。たった今アサシンを自分の手で何処かへやってしまったことなど無かったかのように振る舞う。
「悪いけれど、わたしたちは知らないわ。ランサー、あなたのような戦乙女の求める戦いはここには無いの」
「では、バーサーカーたちと並んで何をしていたのですか?」
「さあ。あなたに答える必要は無いわ。こんなに月が綺麗なのだもの。夜の散歩くらいしたくなるものよ。その答えじゃあいけないかしら?」
くすりと愛歌が笑った瞬間に、ばちんと音を立てて裏路地を弱々しい光で照らしていた街灯が弾ける。
電球から飛んだ火花を浴びながら、ランサーは視線を愛歌から外した。
「ランサー、戦いの気配を、あなたも今感じ取ったんじゃないかしら?わたしたちにかまけるよりも、そちらに向かうべきではないの?」
愛歌の指が空の彼方を指し示した。
「……ええ。今宵はあなたの言う事に従っておきましょう。では私は、マスターの指令もありますので、これで」
言葉が終わるとランサーの体が光の粒子になる。巽へ向けて一瞥だけをくれて、戦乙女はたちまちに消え、立ち去って行った。
それを見届けて、巽はよろめきかけるが何とか踏みとどまる。
「……戦いって、何のことなんだ?セイバーのマスター」
唾を飲み込んで、巽は愛歌に聞いた。
愛歌はうーん、と少し困ったように告げた。
「セイバーがね、戦っているのよ。それも結構な敵と。藪を突いて大蛇を出しちゃったと言うか、眠れる竜を叩き起こしちゃったと言うか。……怪物退治はセイバーの十八番のようだけれど、このままだとちょっと厳しいかしら」
だからわたしも今日はここまでね、と愛歌は唇に指を当てて可愛らしく片目を瞑った。
呆気なく瞬き一つを残して、沙条愛歌の姿はかき消えた。
後には巽とバーサーカー、割れて明滅する電球だけが残った。愛歌と共に灯りも消え去り、路地裏には再び闇が巣食ってしまうのだ。
「……」
何も言えずに、來野巽はのろのろと月を見上げ、大きく息を吐くと裏路地から立ち去ったのだった。
短編書いていて少々遅れました。
短編と言ってもプロローグみたいな出来ですが、楽しんで書いていたら遅れてしまいました。
尚、殺し愛は今話にはありませんでした。