軍議から三日後、全快したアルゴノーツ達は割とあっさり怪物達を下し、見事金羊毛皮を入手した。
それから一週間後、凡その教授を終えたアナは遂にメディア姫との契約を終え、自由を謳歌していた。
「あぁ…自由とはなんと尊く、香しいものなのでしょうか…。」
何処か悟りを開いた様なアルカイックスマイルと共に、アナは太陽を眺め、喜びを噛み締めていた。
その胸中にあるのは、このコルキスに来てからの日々であり、何の因果か年頃の少女の外見としては極めて爛れた日々の思い出だった。
『アナさん、私とは歳も近いのですし、お名前で呼んでください!』
『アナさんって、随分と美しい御髪をお持ちですのね。凄い…。』
『アナさん…なんて綺麗なんでしょう…。』
『じゅるり…もう駄目です、頂きます。』
『お姉様!今日もお美しいですね!』
『お姉様、この数式が解けたらご褒美なんて…きゃっ、メディアったらはしたない!』
『お姉様、今日はこのお道具なんて…』
カット、カット、カット。
思考停止、浮かび上がった記憶を削除、関連記憶を封印フォルダへ。
「お姉様?」
カット、ってこれは違う。
「どうしましたメディア?」
「お姉様は、やっぱり帰ってしまうのですね。」
ここ十日程のはしゃぎぶりはなりを潜め、メディアは随分と落ち込んでいた。
何せメディアの初恋(同性だが)の相手がこの国を去ってしまうのだ、とても悲しかった。
きっとつまみ食いされてきた王宮の少年少女達は、王女の寵愛がこれで戻ってくると安堵の余り涙しているだろう。
「それなのですが、別にもう二度と会えない訳ではありませんよ。」
「そうなのですか?でも、簡単には…。」
何せギリシャ世界において、コルキスとは果ての名の通り外縁部に位置する。
しかし、このアナにとって、そんなものは疾うの昔に飛び越えたものでしかない。
「転移魔術用の神殿と通信用の礼装の設計図を渡します。私と「やります!」…そうですか。」
食い気味に叫ぶメディア、その瞳は希望(と欲望)でキラキラと輝いていた。
「さて、斯く言う私も貴方程の魔術師とは今後も共同研究したいですし、ちょっと一人では手が足りません。今後もビシバシ鍛えつつ、一年後を目途に結果を出しますよ。」
「はい!よろしくお願いしますお姉様!」
(うふふふふふふふ…これでお姉様と合法的にめくるめく愉しい日々が…。)
気合を入れて叫ぶメディア、しかしその思考が桃色一色である事を見抜いていたアナは早まったかと深く深く嘆息した。
……………
コルキス出航の日、アナはアルゴノーツ一同を集めた。
「皆さんに予言があります。」
その言葉と只ならぬ気配に、一同の背筋が伸びる。
目の前の少女が凄腕の女魔術師であり、虚飾や愚かさといった無駄なものをとことん嫌う合理主義者である事を彼らは知っていたからだ。
「今より一年後、ギリシャの英雄は再び集まり、二度目の航海に出ます。」
その言葉に一同が訝しむ。
既に嘗ての謳い文句通りに、アルゴノーツは末代まで残るであろう冒険を果たし、大きな成果を挙げた。
となれば、もうこのギリシャ英雄が大集合となる様な事態は、それこそ無い筈だった。
彼らの疑問はもっともだ。
無論、本来ならば、と付くが。
「その先で待つ困難は、正に人知未踏の領域。神々すら見通せず、私もそれが起こると言うだけで、具体的な内容は分かりません。しかし、この場の面々であっても全滅しかねません。」
その言葉、その意味に、多くが神との混血である英雄達ですら驚く。
信仰対象であり、家族である神々ですら見えず、英雄達すら皆殺しの憂き目に会いかねない。
それは一体、どんな災いだと言うのか?
「それでも、貴方達は挑まねばなりません。挑まねば、間違いなくギリシャが滅びます。待っているのは、そういう厄災です。」
そこまで言われ、英雄達は腹を括った。
アナは嘘は言わない。
隠し事は多いようだが、決して無駄な事はしない。
つまり、自分達が戦わねば、本当に滅ぶのだろう。
自分達の愛する家族が、友人が、恋人が、妻子が、故郷が、国が。
本当に、全て全て滅び去ってしまうのだ。
「敵はゴルゴーン。軍神アレスが破れ、神々が封印する事しか出来ない災厄そのもの。現在、奴は封印の中で更に成長し、約一年後には復活します。」
その名を聞いて、一同は納得した。
彼の怪物が現れたのは30年以上も昔の事であり、既に寝物語の存在だと思っていた。
直に見た事は無かったが、アナが言うからには本当にそれが起きるのだろう。
「敵は今回私達が相手をした眠らずの竜よりも遥かに巨大で強大です。全身から放つ目に見えぬ毒。目を合わせれば石にされる魔眼。髪が変じた毒蛇。無尽蔵かと思う程の耐久力と再生力。どれをとってもギリシャの多くの怪物達よりも格上であり、それはアレスと戦った当時です。つまり、もっと厄介で強くなっています。」
聞くだけで厄介さが伝わる怪物が、更に強化されていると言う。
その言葉に幾人かは何とか具体的な討伐計画を捻出しようとするが、残念ながら情報が少なすぎてどうしようもなかった。
「今より一年後、奴は復活します。それまで、各々で最適と思う様に己を鍛えなさい。可能なら、ケイローン殿の所で訓示を受けて下さい。必ずや貴方方の力になるでしょう。」
こうして、ギリシャ世界の果ての地で、ギリシャ世界の命運を賭けた一年が始まった。
……………
大急ぎで帰還したアルゴー号は何とか行きよりも大分短縮して帰る事に成功した。
そして、ペリアス王と共に女神ヘラに金羊毛皮を捧げ、何とか赦しを得ると、一同は即座にペリオン山のケイローンの下を訪れ、修行を付けてくれるように頼んだ。
だが、ヘラクレスとその従者ヒュラスだけは試練の続きを行わねばならず、参加できなかった。それでも、必ず一年後には戻ってくると告げて別れた。
また、アナも別口の用事があるとして離脱してしまった。
この珍事に対し、ケイローンは既に事情を知っていた事から快諾し、一同に厳しい修行を付けた。
これには丁度弟子として共にいた若かりし頃のアキレウスも参加しており、アルゴノーツの一人である父親のぺレウスと共に多くの事を学んだ。
イアソンはアナからの指示通りに自身を鍛えつつ、他の弟子仲間達にも声をかけ、ケイローンの修行へ参加させた。
怪物退治となれば、やはり人員は多いに越したことは無いとの判断故だったが、これが後々に生きる事となる。
そして、ヘカテーのシビュレことアナもまた、己の役割を全力で果たそうとしていた。
彼女はヘカテーとメディアと共に対ゴルゴーン用の武装の開発・量産を行っており、特に絶毒への対策とアルゴー号の強化に注力していた。
何せファンタジー版放射線とも言える絶毒は無味無臭かつ肉眼では捉えられない。
その対策として、絶毒の探知・遮断・解毒を実用レベルでアルゴナウタイ全員分ともしもの場合を考えて予備も作らねばならないのだ。
更に、ゴルゴーン自体の金剛鉄たるアダマンティン製の鱗を砕き、その巨体を引き裂くだけの武装も必要だった。
更に集団戦であり、後方支援要員に物資や装備の予備も必要となれば、どうしても足となる乗り物が必要となる。
そのため、最低でもアルゴー号を空陸海全対応に改良し、更に耐久性や機動性を向上させる必要があった。
誰もが一年ではとてもではないが時間が足りないと感じていた。
しかし、刻一刻と約束の時は近づいていく。
そして約束の日、
オリュンポスの長、ギリシャの主神にして天空神たるゼウスが敗北した。
……………
形の無い島にて
突如、島の中心にあるカルデラ山で激しい地震が発生した。
「……………。」
そんな中、不意にゴルゴーンの瞼が開かれた。
火山であるカルデラ山の地下にある地脈から魔力と熱量を直接摂取し、今まで自身の強化に回していたのだが、それが漸く終わったのだ。
同時に、ゆっくりとその巨体が蜷局を解きながら起き上がり、衝撃でカルデラ湖が激しく波立つ。
それを双子の女神はただじっと見つめていた。
「終わったわね、私。」
「そうね、私。」
もう二人の歌も何の効果もない。
この変わり果てた妹は、最期を迎えるまで望まれたままに戦い、殺し続けるだろう。
ギリシャと言う大地に住まう、愚かな人間と神々が根絶やしになるまで。
無論、そんな事はさせんと考える者達がいた。
……………
『ついに起きてしまったか…。』
ゴルゴーンの活動再開を、天上からゼウスは見ていた。
本来、ゼウスはタルタロスの巨人達を監視しているのだが、その目は時に地上で特定の人間や英雄、怪物にも向けられている。
特に危険なゴルゴーンやギガノマキアで活躍する予定のヘラクレス等が該当する。
『あの二神には残念だが、止むを得ん。』
その手に莫大な量の雷が収束、巨大な槍の形を取る。
これぞゼウスの雷、ケラウノス。
単眼の巨人キュクロプスに作らせた武器であり、世界を一撃で熔解させ、全宇宙を焼き尽くすことができる程の威力を持つと言う。
その最大出力を、可能な限り被害を抑えるために一点へと集中させたものだ。
一応、形無き島はヘファイストスの壁によって外界から切り離されているが、用心するに越した事は無い。
『さらばだ、ゴルゴーン。』
そして、雷霆が投擲された。
……………
「……………。」
ゴルゴーンは遥か彼方、物理的には成層圏に近い位置から降ってくる強大な雷撃を知覚していた。
同時に、その威力がこの島を消滅させ、自身を殺すに足るものである事も。
それは即ち、自身の傍にいる二人の姉も死ぬと言う事も。
「■■■■…。」
だが、それはさせぬとゴルゴーンは動き出した。
嘗ては一対だった猛禽の翼は三対に増え、広げた場合の全長は1kmを超えていた。
それらを上へと広げ、周辺に存在する大気及び水へと干渉を始める。
すると、空中と地上にあった電位差が大幅に軽減し、遂には零になる。
更に島の直上の大気密度がほぼ零、つまりは真空に近い状態となり、雷が通り辛い空間が出来上がる。
その上で、ゴルゴーンはカルデラ湖内の水分を操り、湖を空にした上で、己の尾をカルデラ湖の底へと突き刺して接地を行う。
同時、遂にゼウスの雷霆が降ってきた。
膨大な、それこそ人間なら失明する程の光量に、双子の女神はお互いを庇う様に倒れ込む。
しかし、本来なら感じる筈の、否、感じる暇すらない熱量は届かなかった。
二人が漸く視力の戻ってきた目を開けば、そこには雷を受けながらも、しかし体表が多少焦げた程度で未だ健在なゴルゴーンの姿があった。
その状態であっても、ゴルゴーンは知覚していた。
自身の直上、雲よりも高い遥か彼方に、この神話世界で最も傲慢で愚かしい者の一人がいる事を。
自身の創造理由たる「愚かな者達に然るべき報いを与える事」。
その対象に最も相応しい者に対して、ゴルゴーンは殆ど初めてと言って良い殺意を覚えた。
アレスの時は突然であり、生まれたばかりの事もあり、そんな感情を抱いている暇も無かった。
だが、今回は違う。
十分に心身ともに成熟したが故に、ゴルゴーンはやや幼いながらも人並みの感情を持ち得ていた。
自分の心が、プログラムされた使命が告げるのだ。
曰く、根絶やしにしろ、と。
『■■■■■■■■…!!』
全身にある11基まで増設されたプロメテウス炉心が直列に接続され、初めて全力を挙げて稼働する。
同時、生産された余剰魔力と熱量により、全身から紫の光と熱が漏れ出し、周囲を幻想的に照らす。
僅か5秒のチャージが終了と同時、直上を向いたゴルゴーンの口が頬まで裂け、口内の牙を外気に晒しながら限界まで開かれる。
そして、その喉奥から閃光が放たれた。
それは先程の雷霆が、今度は地上から放たれたかの様だった。
天よりの光を雷と称するなら、地よりの光を何と称すべきなのだろうか?
全宇宙を破壊すると言われたゼウスの雷霆と全く互角と言って良い程の極光は、先程の焼き直しの様に天を貫いていった。
その間にあった万物、即ち雲も、空間も、世界の境界も、何もかもを貫いて、一点を目指して伸びていった。
……………
『島が消えておらぬだと?』
ゼウスは天上から島を見ていたが、島の直上に分厚い雲がかかってしまい、視認を困難にしていた。
『この雲、儂の権能のものではない…?』
しかし、確かに直撃した筈だった。
だが、もしも、この雲がゴルゴーンの操ったものならば…?
『ならば今一度放つのみ!』
迷いを振り切り、主神は再度雷霆の投擲準備に入る。
先程よりも溜めの時間が短いため、やや出力は落ちるが、それでも島ごと消し飛ばすには十分な威力だった。
さぁ今度こそと視線を向けた時、突然雲が切れ、光が見えた。
その直後、主神の意識は途絶えた。
……………
「……………。」
頭上の神威が途絶えた事を確認すると、ゴルゴーンは三対の翼を羽搏かせ、飛翔を開始した。
周辺に台風程の暴風を撒き散らし、雨雲を引き連れながら、更に巨大化したゴルゴーンは空を泳ぐ様に身をくねらせながら我が物顔で進み行く。
辛うじて女神の名残を残す上半身は頭部を除く全てが金剛鉄製の鱗に覆われ、下半身に至っては長さも太さも倍以上になっていた。
鱗の一枚一枚もその数と厚みを増し、人間の上半身だけでも50m程であり、下半身に至っては7kmを超えている。
ゴルゴーンは確実に嘗てアレスを退けた時よりも強くなっていた。
最早、ギリシャ神話の神々の中に、単体でゴルゴーンに立ち向かえる者は一人もいなかった。
「■■■………。」
悠然と空を泳ぐゴルゴーン。
その行先はただ一つ、アポロンとポセイドンの作った城壁に守られた都市国家トロイア。
嘗て彼女を生け捕りにせんと追い回した老王ラオメドンの治める国であった。