「遅かったか!」
シビュレの差し向けた天馬に乗ってヘラクレスが駆け付けた時、既に爆心地となった場所で動く者は黒い巨獣しかいなかった。
そして放たれる紫色の絶毒の光に、天馬は素早く馬首を傾け、光線の間を駆け抜ける様にして回避していく。
どうやら、射撃精度も連射速度も以前のゴルゴーンよりも大幅に低下しているらしく、無理に攻撃しない限りは天馬なら無事に回避できる様だ。
さりとて、この状況が続く事は望まれない。
何せ絶毒は未だあの巨獣から放たれているのだ。
このまま手を拱いていれば、何れあの絶毒はギリシャ世界中に広がっていく事だろう。
そうなれば、この世に地獄が現出する事になる。
『ヘラクレス、無事か?!』
「イアソンか!」
不意に、腕輪の通信機能でイアソンが焦りを隠さずに通話を繋げた。
「こちらはシビュレ殿がゴルゴーンと相打ちした。今は動き出したゴルゴーンの抜け殻を相手にしている。」
現状を報告しつつ、師匠らの前を除けば割と人を食った様な軽薄な態度をする男の常には無い有様に、ヘラクレスは嫌な予感が募る。
『それはこちらでも確認した。気を付けろ!後5分もすれば、体内に溜まり過ぎた絶毒と一緒に破裂して、ギリシャ中を汚染するぞ!』
「なんと!?」
巨獣の中に未だ存在するプロメテウス炉心。
それは破損し、巨獣自体の予期しない再起動もあって、既に碌な安全装置も働いていない。
それはつまり、暴走状態にあると言う事に他ならない。
しかも、先の爆発によって自己修復機能だけでなく、排熱や絶毒の制御機構すら停止している。
もしこのまま時間が経てば、巨獣の身体は過剰に集積された熱量と絶毒に耐え切れず、内側から破裂する。
その際に発生する爆発は膨大な熱量と絶毒を周囲へと撒き散らしながら、ギリシャ処か世界中へと広がっていくだろう。
最悪、大気圏に火が付き、全ての生物が瞬く間に全滅してしまうだろうし、そうでなくても絶毒によって滅亡乃至大量絶滅は不可避だ。
「止める手段は!?」
『炉心を停止させるしかない!方法はさっきメディアが見つけたが…』
「手短かに言え!らしくないぞ!」
イアソンが口籠る理由を、ヘラクレスは大体分かっていた。
分かっていて急かすのだ。
普段ギリシャ最大の英雄と持て囃されておきながら、肝心な時に間に合わなかった己である。
此処が命の賭け時であると、偉大な師の弔い合戦なのだと、そのためには何でもするとヘラクレスは覚悟を決めていた。
『稼働状態の炉心を破壊する。だが、破壊時に今までの比じゃない絶毒を浴びる事になる。』
「それは何処にある!」
今までの比ではない。
国一つすら容易に汚染する絶毒、それをゴルゴーンのブレス以上の濃度で浴びる事は、例えそれを無害化する礼装を持っていた所で、ヒュドラの猛毒を浴びる事にも等しい。
既にこの戦闘が始まって数時間が経過している現在、シビュレもいない今、高濃度の絶毒を浴びて、果たして生きていられるのだろうか?
例え不死の神々や複数の命を持つ者であってもたじろぐ様な方法に、しかしヘラクレスは怯まずに聞き返す。
『心臓と腹だ!だが、余り時間は残ってないぞ!』
「任せろ!」
『そんな、お姉様…』
十分な情報を得たヘラクレスは、それきり通信を切った。
小さく後ろで姫君の泣く声が聞こえたが、今はそれに構っている余裕は無い。
何より、今は生き残る事すら困難なのだから。
(どの道、こいつを倒さねば皆死ぬ。)
不退転の覚悟を決め、ヘラクレスは師の愛馬と共に巨獣へと突貫した。
……………
目覚めたばかりの巨獣、正確には誤作動したゴルゴーンの対主神級用外殻の自意識は、自身に迫るギリシャ最大の英雄を正確に視認していた。
自意識、と言っても大したものではない。
本来ならゴルゴーンの指令の下、単純な命令を遂行するため、ゴルゴーンの補助を目的とした簡易的な使い魔に過ぎない。
そこには情動や感傷といった感情は無い。
あるのは僅かばかりの達成感であり、それはゴルゴーンからの命令を遂行する時にのみ働く。
だが、ゴルゴーン亡き今、誤って起動したこの巨獣は嘗ての命令を遂行する事しかしないし、出来ない。
故に、この獣にとって、愚者の代名詞たるギリシャの人々・英雄達・神々は皆全て殲滅すべき対象だ。
無論、トロイアの様に例外もあるのだが、今のこの巨獣にそこまで正確に識別する機能は無い。
故に、その全身から放たれる絶毒を孕んだ光線で、真っ直ぐ飛んでくる天馬と英雄を迎撃する。
しかし、その精度はお世辞にも良いとは言えない。
まぁ当然だ。
制御の中枢を担うゴルゴーンは既に亡く、周囲の観測を担う流体制御のための翼も無い。
辛うじて眼球による光学観測が残っているが、それも高精度とは言えない。
そんなものでは、天馬に跨る大英雄を討ち取る事は出来ない。
しかし、近づいてくる天馬を牽制する分にはそれなりに役に立つ。
時間は英雄達にとっては敵であり、そもそも勝利条件すら思考にはない獣にとっては気にするものではない。
巨体の移動と共に射点が変わり、周囲を薙ぎ払い続ける光線は、狙いが適当故にゴルゴーンの時には殆ど無かったものが生まれる。
即ち、光線同士の間と言う安全地帯だ。
もしこれがゴルゴーンだったら、敢えてそこに誘い込んで、更に光線を増やして追い込むのだが、この獣にそんな知恵はない。
故にこそ、ヘラクレスは光線の軌跡を予想すると、即座にその間に天馬を滑り込ませ、瞬く間に接近する。
「『騎英の…』」
此処でシビュレ作の馬具の真名が解放される。
この宝具により、天馬の持つ防御用の結界展開能力を強制的かつ増幅して発動、それを破城槌として躊躇なく突撃を仕掛けた。
「『手綱』!」
神代の城塞クラスの防御力を誇る結界が、絶毒の光線を弾き返しながら、超音速で正面から巨獣の腹へと激突する。
担い手の技量か、馬具の性能か、母親を殺された天馬の怒りか、それとも全てか。
その巨体に見合う大質量の巨獣の土手っ腹に、大気との摩擦と放たれる魔力によって光となった天馬の突進が命中する。
それは正に天を往く流星の輝き。
「■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ッ!?!」
流星の一撃の前には、仮令嘗ては神々すら恐怖する魔獣の一部だったとは言え、最低まで劣化した巨獣では、それを防ぐ事も耐える事も出来ず、絶叫と共にその下腹を貫通される。
だが、それは天馬らが巨獣の体内で刻一刻と増加していく絶毒を直に浴びる事に他ならない。
「ぐ、ぉぉぉぉおぉぉ…!」
対絶毒礼装ですら無効化できない程に大量の絶毒を浴びながら、それでも天馬は、手綱を握る大英雄はふらつきながらも飛行を続行する。
そこに不意をつく形で、巨獣の尾がしなり、今正に己の腹を貫き、背後へと飛び去る外敵へと叩き付けんと振るう。
それを寸前に回避しながらも、押し出されて荒れ狂う大気に翻弄され、天馬の動きが大きく乱れる。
「ぬ、何と!?」
慌てて右手に握った大斧を手放す。
見れば、再生能力を持った金剛鉄製の斧が、絶毒の余りの濃度により腐り落ちていたのだ。
自身の剛力に耐えられる得物を失い、天馬も弱っている今、大幅な弱体化は否めなかった。
(この、ままでは……!)
後一撃、それさえも億劫な状態に、ヘラクレスの中で僅かな弱気が頭を擡げる。
だが、その手綱さばきは決して緩まず、乱れた天馬の動きの制御を取り戻し、飛行を安定させる。
その時、不意に彼の視界一杯にあるものが映った。
それを見た時、ヘラクレスは即座に天馬の馬首を巡らせた。
それは一本の槍だった。
婉曲した刃を穂先に付けた、薙刀の様な槍。
金剛鉄で作られ、物質の分子運動を停止する事で、凍結と言う結果を生み出す刃。
殊、ゴルゴーンのプロメテウス炉心に対し、絶大な効果を生み出す武器。
それが大きな肉片に刺さった状態で放置されていた。
「ペガサス!」
その一声で、天馬は乗り手の意図を悟り、自身の母の振るった槍へと空を駆ける。
その軌道の先を潰す様に次々と乱雑ながらも絶毒の光線が降り注ぐが、それを何とか掻い潜り、すれ違う様に槍を引き抜く。
「よし、行けるな。」
先の爆発の中心点にいたにも関わらず、その槍はその分子運動停止能力により、刃毀れする事なく無事なままだった。
シビュレの背丈よりも長い槍を小枝の様に振るいながら、再度加速を付けるために一度距離を置く。
「天馬よ、これで最後だ。共に逝こう。」
そして、大英雄と天馬は、この戦いに決着を付けるべく、最後の突撃を開始した。
……………
それの突撃を見た時、巨獣はそれを宙を往く流星に酷似していると思った。
先程も見たソレは、自身の下腹を貫き、二つある稼働状態の炉心の内の一つを破壊し、致命的な損失を与えた。
今度は最後の炉心、即ち心臓を貫く軌道を描くと思われる流星に、巨獣は破綻した思考回路で最適な戦術行動を算出しようとして出来ず、最悪の行動を選択する。
結果、最後に残った暴走状態の炉心に更なる出力上昇を命じ、それによって得られたエネルギーを口部へと集中、発射する。
嘗てゴルゴーンがアレスを、主神を撃破した技。
最大時の出力の12分の1でしかないが、この状況であればギリシャ中の愚者と神々を滅ぼすには十分だ。
故に、巨獣は咆哮と共に最後の一撃を放つ。
放たれた紫色の閃光、絶毒を孕むあらゆる命を汚染し、腐らせる光は反動を制御できずに一度足元の大地を砕き、溶かし、腐らせてから天を割く光の柱の様に上へと薙ぎ払われる。
地面を、山肌を、山頂を砕き、溶かし、削りながら、猛毒を孕んだ光の柱が天へと昇っていく。
その光景は、その凶悪さに反して、余りにも美しかった。
……………
天馬の流星の如き結界では、この光の奔流を防ぐ事は叶わない。
余りにも出力が違い過ぎて、まるで滝の様な奔流と障子紙のそれだ。
勿論、ヘラクレスもそれは承知している。
此処に来て、大英雄の心には何の迷いも、驕りも、恐怖も無かった。
不思議と心は凪いでいた。
思うのは、今はもういなくなってしまった師の言葉だ。
色々と秘密を抱え込んでいた彼女が最後に自分に伝えた技。
永い時を生き、その多くを研鑚に費やした彼女ですら完全には体得し切れなかった奥義。
『ヘラクレス…いえ、今は敢えてアルケイデスと呼びましょう。』
『貴方に最後の教えを伝えます。心して聞くように。』
『今から貴方に伝えるのは戦技の極み、その一つの形です。』
『これは貴方の射殺す百頭、その先にある境地です。』
『超高速の連撃ではなく、全く同時の、複数の斬撃です。』
『修めれば三つの異なる斬撃か、或はそれを一点に集中したものとなるのですが…生憎と私が体得できたのは前者、斬撃も二つまでの不完全なものです。』
『ですが、貴方なら何れは全てを修める事が出来るでしょう。』
『そのためにも、拙いながら手本を見せます。瞬きせずに見る様に。』
その時、技の的となった木には、完全に同時に、全く異なる軌跡の斬撃が刻まれた。
その時は直ぐには出来なかったが…今この時こそ、師の期待に応えるべき時なのだ。
下方から振り上げる形で、正面から絶毒の奔流が向かってくる。
天馬の城壁が如き結界をして、容易に打ち破るそれに、正面から向かっていく。
(行けアルケイデス、今出さねば、皆死んでしまうぞ。)
もう一人の師も、戦友達も、姫君も、後輩も。
この場にいない多くの人々も、何れ出会う多くの人々も。
後序でにいつも余計な真似しかしない神々も。序でに。
「『射殺す』…」
普段よりも腕のしなりをよく利かせ、以前よりも更に速く、鋭く、それでいて無用な力は抜いて、右手の槍を振るい抜く。
何、既にその一歩手前の技は修めている。
その半歩先、一つの標的に複数の斬撃を全く同じ箇所に叩き付けるのは既にやった。
ならば、後はその更に先、一つの標的に全ての斬撃を全く同時に叩き付ければ良い。
「『一頭』!」
放たれる九の斬撃。
普段なら超高速の連撃であるそれは、今回初めて完全同時の九重斬撃。
一つの空間に九もの斬撃が重なり、局所的な事象崩壊現象を引き起こす。
それは後の世において、二人の天才剣士が行きついた技の果て。
この世界において、宝具にすら匹敵する対人魔剣。
それを世界を割き、天空を支える大英雄の剛力で放てば、一体どうなるのか?
その超斬撃とも言える一撃は、光の奔流を切り裂き、その先にある分厚い巨獣の皮を破り、その肉を抉り飛ばし、その頑強な骨を砕き、今にも破裂しそうなプロメテウス炉心にすらその切っ先を届かせた。
「『騎英の手綱』よ!」
斬撃により作り出された安全地帯を、天馬が更なる加速を以て駆け抜ける。
最早後がない彼らは、ただ只管に前を突き進む。
「ヒヒィ――ン!!」
そして、嘶きと共に、巨獣の最後の心臓たるプロメテウス炉心は、流星によって打ち砕かれた。
こうして、ギリシャ神話最大の戦いの一つとされた、ゴルゴーン討伐は多大な犠牲を上げつつも、辛うじて成功に終わった。