田中貴夫は二歳年下の妻と二児の息子をもつ普通のサラリーマンである。毎日を幸せに過ごしていた。ある日貴夫は虎に変身してしまう難病にかかかってしまう。



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虎になる日

 

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田中貴夫は二歳年下の妻と二児の息子をもつ普通のサラリーマンである。毎日を幸せに過ごしていた。

 

ある時貴夫は医者に虎になる難病にかかったと宣告される。 少しずつ人間性が失なわれ最後には姿形も完全に虎になってしまうというのである。

 

貴夫は医者の勧めにより日記をつけていく。 人間であるときの記憶を書き記していくことによって少しでも虎への変化を食い止めようというのである。

 

この小説はその貴夫の日記である。

 

 

 

 

 

6月19日

 

「虎になる病気にかかりました。極めて珍しい病気です。治療法はまだ発見されていません。二週間後には完全に虎になります。」

 

私は医者にそう告げられた。

 

ここ何週間体調が優れず、知人の勧めにより総合病院で精密検査を受け、その通知が届き急いで再検査を受けるようにとの旨が書いてあったのでここに来たのだ。 医者はこれから隔離病棟にある檻状の部屋の中で生活していくことになると告げてきた。そうしないと虎になったとき誰かに危害を加える危険があるからだそうだ。 入院期間は経過を見ないとはっきりしたことが言えないがかなりの長期間になるとも言われた。

 

「冗談じゃない。私には家族がある。会社だってある。それにいきなり虎になると言われてそれを信じろと言われて信じられられるか。」

 

腹が立った私は医者に凄い剣幕で食ってかかった。 しかし医者は至って冷静で私を諭すように静かに話し始めた。

 

「虎になってしまえば、あなたは自分の愛する家族やお子さんを噛み殺してしまうかもしれないんですよ。それでもいいんですか。」

 

たじろきもしない医者の強い眼差しに、私の怒りは抑えてられはじめていた。そして私はうつ向いた。

 

「確かに、急に自分が虎になると言われて、しかも家族と離れて会社も辞めて檻の中で生活しろとまで言われて素直にわかりましたと言えるはずがないですよね。 わかりました。では3日間だけ猶予を与えます。3日後には必ず入院してもらいます。」

 

医者は淡々とそう告げたが、最後の3日後の入院のところは厳しい口調だった。

 

そして3日の猶予には条件がついた。日記を書くことである。それもできるだけ詳細に。 人間としての記憶を書き記していくことによって、虎への変化の進行を少しでも遅らせるのだそうだ。この病気の処方箋でもある。 私はしぶしぶそれに従うことにした。実はこの時医者の言うことに納得出来ずにいた。 でも家に帰してくれるのであれば今は大人しく医者の言うとおりにしようと思ったのである。

 

家に帰ってからはいつもの団らんを過ごした。病気のことはストレス性の胃腸炎だということにした。自分が虎になると言ってもまさか信じないだろう。 そして、しばらくは休養の為会社を休む必要があると妻の陽子に伝えた。 陽子は夕食の準備中で忙しく背中で私の話を聞いていた。

 

冷蔵庫からビールを出そうとしたら、さっとこちらに顔を向け 「胃が悪いんだからダメでしょ。家計も厳しいことだししばらくは禁止!」 と言ってきた。まったく陽子の生真面目さは天下一品である。

 

私はふて腐れてリビングに行き寝転がってテレビのスイッチをつけた。 夕飯後長男の健太と次男の裕二と三人でお風呂に入った。

 

小6の健太は急に体つきが大きくなったように思えた。裕二とは普段からよく一緒に風呂に入っているが健太と入るのは久しぶりだ。 健太の体はやはり大きくなっていて三人一緒に浴槽に入ってみたがとても窮屈だった。それで私か健太のどちらかが浴槽から出て頭や体を洗うようにした。 風呂の中で今日学校であったことを聞いてみた。 健太は図工の時間に牛乳パックで作った飛行機が市長賞をとって賞状を貰ったことを嬉しそうに話してきた。 健太は手先が器用での図画工作系についてはのめり込めばその完成度は誰の追随を許さないくらいである。私の息子ながら感心してしまう。

 

小4の裕二はまだまだ甘えっ子で勉強が苦手でちょと不器用かなと思うがお兄ちゃんを目指してがんばっている。 また人知れず努力をするタイプのようである。逆上がりがまだできないが、裕二に手を見せてもらったらたくさんマメが出来ていた。

 

「裕二、このマメはどうしたの?」

 

と訊いても、知らないよと答えるだけだった。

 

風呂から出た後は健太と裕二に学校の宿題をやるように言って私はリビングで一人でお笑い番組を見ていた。 陽子は食器の片づけやら洋服のアイロンがけやらの家事をしていた。

 

お笑い番組をみながらも、明日どんな理由で会社に休暇申請をしようかな。うちの会社有休や長期休暇なんて認めないからな。クビになるかな。 クビになったら失業給付金でやっていけるかな。一応は病気だから保険適用だけど月どれくらいの入院費がかかるんだろう。 ちゃんと聞いとけばよかったな。

 

考えれば考えるほど思考が負のスパイラルに落ち込んでいった。私は思考をストップさせお笑い番組を見て気持ちを切り換えた。

 

家事を終えた陽子がテレビ鑑賞に加わってきた。そして

 

「あなたってストレスをあまり溜めない人だと思っていたけど、表面に出さないだけで実は色々我慢していたのね。 しばらくはゆっくり休んでね。」

 

と横から心配そうに言ってきた。さっきまで私が負の考え事をしていたことに気付いたのだろうか。 つくづく気遣いに長けていると思う。

 

9時30分に陽子と息子たちは布団に入り、私は今こうして今日のことをまとめている。 今日の日記はここまで。

 

 

6月20日

 

いつも通りの朝をむかえ息子達と三人で朝食を食べた。

 

陽子は息子達のランドセルを開けて忘れものがないかチェックしていた。 玄関で陽子と息子達に見送られ自家用車に乗り込み会社へと向かった。

 

会社に到着して上司に昨日の診断結果を報告しに行った。 やはりストレス性の胃腸炎だということにし、休養の為に一ヶ月間の休暇の取得を医師の診断書を添えて願い出た。 診断書には具体的病名は記載されておらず「長期間入院を要す」とだけ書かれていた。

 

病気のことについては当然仕方なく嘘をついた。どうしてこれから虎になりますなんて言えようか。 休暇を下さいと言った理由については、本来なら医者の言うとおり会社を退職しなくてはならないのだが、自分が虎になってしまうことを信じられない部分がまだ心の中にあったからだ。 そして一ヶ月もあれば十分治せるだろうと勝手に思っていたからだ。

 

「ああ、いいよ。ゆっくり休んでおいで。傷病手当金が給付されるように総務の方に言っといてあげるから。体がよくなったらおいで。」 意外にあっけない返事だった。クビになることを覚悟しいていただけに上司の言葉に少しホッとした。 「でもねぇ、君がストレス性の胃腸炎にかかるなんて意外だよ。そんなものとは無縁だと思っていたけど。まあ本当にゆっくり休んでおいで。」 上司は薄気味悪い笑みを浮かべながら言った。

 

その後仕事の引き継ぎに専念した。引き継ぎにはそれほど時間が掛からなく、その後は関係部署の人や同僚にしばらく休むことになることを伝えに回った。 午後に早退することにし上司に挨拶をしに行ったときに、上司と人事課の人が何やら話をしていた。 誰か他の課から一人応援にほしいと上司が頼んでいるようであった。私の代わりにといったところだろう。 私は上司に「お疲れ様です。今日は早めに上がらせてもらいます。」といってその場を離れた。

 

その時である。部屋の扉を閉めたとき耳にしてしまった。

 

「で、応援はいつまでの予定ですか?」

 

「んっ?ずっとだよ。」

 

頭から血の気がすっと引いていくのが分かった。やはりここには居場所がないことが分かった。 たとえ戻ってきたとしてももう自分の机ごとないかもしれない。あの上司ならやりかねない。 本当にショックであった。ただ前々から閑職についており依頼退職の話も受けていたので予想通りの展開といえばその通りであった。 そうして失意のまま会社を後にした。

 

いつもより早く家に着きしばらくゴロ寝をした後、帰ってきた息子達と愛犬のジョンと公園に遊びに行った。 家に帰ると陽子がカレーを作って待っていた。

 

陽子には会社でのことはあまり詳しく話さなかった。

 

夕食後子ども達と風呂に入った。やっぱり三人では狭かった。二人とも何か話しかけていたが私はただ呆然としていた。 そして就寝前こうして日記をつけている。

 

虎のことはやはり陽子に話さなければならない。でも今日は話す気力もない。明日にでもに話そう。

 

今日の日記はここまで。

 

 

 

6月21日

 

今朝は9時まで寝ていた。 昨日の会社のこともありなんだか無気力でイライラもしていた。 今日は外出もしないで、ただテレビをみながらゴロゴロしていた。 陽子はパートに出て家には私一人しかいない。

 

しばらく仕事をしないと考えるとなんだか気が抜けてしまう。 窓際族だったけど会社に行くのが日課であったので、それが無くなると何をしていいのかわからなくなる。 自由って結構苦痛なんだなと思う。

 

読書でもしようと思い憂鬱な気分のせいか太宰治の『人間失格』を本棚から引出し読んでみた。 昔古本屋で買ってろくに読まずにずっと本棚に収まっていたものだ。 だだ普段本を読まないせいか少しすると読み疲れてすぐ寝てしまったようだった。

 

昼に目を覚まし近くのコンビニにカップヌードルとコーラを買いに行った。 午後は憂さ晴らしに格闘系のテレビゲームをした。 対戦相手のキャラクターの名前の設定を上司の名前にしてみたが余計に虚しさが込み上げてくるだけだった。

 

夕方学校から帰ってきた息子達とキャッチボールをした。 気が塞いでいたが少しは紛れた気がした。

 

夕飯時、陽子は体のことを気遣ってきたがそれ以上私のことを詮索する様子もなかった。

 

今日も虎の話を陽子言いそびれた。というよりもともと私は虎になる病気にかかっていないのではないかと思う。 そんな非現実的な病気なんてそもそもあるはずがない。虎になるというのは何かの比喩でいったのかもしれない。 だから明日は病院に行かないつもりだ。

 

日記を書くのもなんだか面倒くさい。 今日の日記はここまで。

 

 

6月22日

 

今朝も9時まで寝ていた。

 

ジョンを散歩に連れて行こうとしたが、なぜか犬小屋から出たがらない。 だから今日は外に出ず家の中でダラダラ過ごした。 今日も陽子はパートに出て家には私一人しかいない。

 

今日も無気力である。実質的に失業したも同然で今まで人生の支柱としていた会社を取り払われたのだ。 自分で言うのもなんだがふぬけになっても仕方がないと思う。だんだんと悔しさも込み上げてきた。 何週間も会社に缶詰状態で働いたりノルマの為に高熱でも出勤したりこれまで随分犠牲を払って働いてきたつもりだけど、 いざ不況となったら紙くずを捨てるかのような扱いだ。こちとら生活があるんだぞ。

 

午前中はテレビを見たり『人間失格』の続きを読んだりした。昼はまたカップヌードルを食べた。 午後は昼寝をしたろテレビを見たり自堕落に過ごした。どんどん自分がふぬけていく気がした。

 

夕方になりあの医者から電話がかかってきて、いつになったら来るのかと言われた。

 

「私は虎ではなく人間です。檻になんか入るつもりはありません。」と突っぱねた。

 

それに対し医者は「どうなっても責任は持ちませんよ。」と言ってきた。 私は腹が立って話の途中で電話を切った。 その後医者から電話はかかってこなかった。

 

夕食後は子ども達とテレビゲームをして遊び、その後一緒に風呂に入った。

 

ああ書くのが面倒になってきた。 今日の日記はここまで。

 

 

 

6月23日

 

今日はジョンに噛みつかれた。 犬小屋からなかなか出ようとしないので「おいで」と手を差し出したらいきなり噛みついてきた。 どうも最近ジョンの様子がおかしい。

 

健太が今日学校で忘れものをしたということを陽子から聞いた。 そんな大したことではないと思った。 私は健太に軽く注意するつもりだったが、口答えをされてなぜか急に興奮して頬を思いっきりひっぱだいてしまった。 健太は吹っ飛んで壁に体を打ちつけた。

 

健太は大声で泣いていた。 陽子と裕二はとても驚いた様子だった。 自分も驚いた。 なにしろ息子を力強く叩いたのは始めてだったからだ。 健太に悪いことをしてしまった。

 

風呂には一人で入った。 子ども達といっしょに風呂に入る気分ではなかったからだ。 一緒に入ろうと言ってきた裕二にも今日はお兄ちゃんと入ってねと言った。 裕二はきょとんとし、なんで?って顔をしていたが。

 

陽子は平静を装っているがやはりいつもと様子が違う私を気にしているようであった。 家にずっといて気分が塞いでいるのだろうと思われていると思う。 それにしてもさっきの興奮の仕方は尋常ではなかったと思う。 いつも子どもを叱るときは感情的になりながらも、心のどこかで冷静な自分が怒っている自分を見つめていて、 感情的な自分を上手くコントロールしているのだが、さっき健太をひっぱだいた時にはその“冷静な自分”が心の中に いなかったのだ。というよりも獣のような得体の知れないものがうごめいている感じがした。

 

今日は体がだるい。だからいつもより早く寝るとする。 今日の日記はここまで。

 

 

 

6月24日

 

事件が起きた。 今日は人生最悪の日だ。

 

今この日記は駅前のカプセルホテルの中で書いている。 事の次第はジョンのことから始まる。

 

以下に詳細に述べていく。

 

午後三時頃、庭にいる愛犬のジョンがけたたましく吠えていた。どうしたのかと思い近づいていくとジョンは毛を逆立て低い唸り声を出した。何故か私に対して敵意を向けていた。 私がジョンに話しかけるとより一層激しく吠え出した。あまりにもうるさかった。

 

「うるさいぞ!」

 

イライラがピークに達しジョンをしかった次の瞬間、私はめまいを覚えた。それからしばらくのことは覚えていない。 気が付くとソファーに横になっていて、買い物から帰ってきた陽子に起こされて目が覚めたのだ。 陽子を見ると顔は蒼白で体をぶるぶる震わせていた。どうしたのかとたずねると、

 

「あなたジョンが、、。」

 

と声を震わせながら言った。 ジョンがどうしたのかと思い、庭に出てみた。そして全身が凍りついた。 庭にはジョンの死体が横たわっていた。全身血まみれで、そばには凶器に使ったであろう健太の金属バットが転がっていた。 誰が何の為にやったのかを詮索するよりも、とにかくジョンを土の中に埋めることを急がなくてはならなかった。子ども達にはショックが大き過ぎるだろう。 それから少しして子ども達が帰ってきた。彼らはすぐにジョンがいないことに気づき、どこに行ったのか何度も私にしつこく聞いてきた。

 

「うるさいっ!」

 

ジョンが殺されてかなり動揺していたせいでもあっただろう。子ども達のしつこさにイライラがピークに達し怒鳴った瞬間、急にさっきと同じめまいを覚えた。 それからしばらくのことは覚えていない。

 

辺りが暗くなったころ目が覚めた。私はリビングの床に横になっていた。そして周りを見渡してびっくりした。 部屋がめちゃめちゃに荒らされている、といより破壊されているのである。

 

そして陽子と子ども達の姿がなく、私は家の中を探しまわった。 家のあちこちを探し、ようやく二階の寝室のクローゼットの中で身を寄せあって隠れている陽子と子ども達を見つけることができた。

 

「そんなところで何をやっているんだ?」

 

私が声をかけるなり子ども達は悲鳴に近い声をあげながら大声で泣き始めた。 陽子を見ると目に涙を浮かべて歯をがたがた震わせいた。 目を凝らし暗いクローゼットの中の三人をよく見ると、陽子や子ども達の顔にはアザや傷がある。

 

「これは俺がやったのか?」

 

まさかとは思いながら問いかけると妻は首だけを縦にふった。くしゃくしゃに泣きじゃくっていた。

 

私は理解した。 私は虎になりはじめているのだ。 医者の言う通りだ。まだ姿は人間のままだが心が虎になりはじめているのだと思った。 おそらくジョンを殺したのも私だ。

 

それから先何を考えたのかよく覚えていない。 ただ、しばらくの間家に帰らないとだけ言い残してその場を離れたことは覚えている。 それともう一つ覚えているのは、めちゃめちゃになったリビングを通り過ぎたときに見たバラバラに引き裂かれた健太の作った牛乳パックのロケットだった。 そうして今、駅前のカプセルホテルで日記を書いている。

 

なかなか眠れない。 家族はどうしているだろうか。ホテルについてからはそのことばかり考えている。

 

 

 

6月25日

 

「おそらく激しく犬に吠えられたことが虎としての攻撃本能を呼び起こしてしまったのでしょう。」

 

医者は淡々とそう言った。 医者は私が三日間後に入院するという約束を破ったことについて責めることはなかった。 私は医者に何度も頭を下げて謝った。 そしてワイシャツを脱ぎ寝台に横になって診察を受けた。それは形だけの診察に思えた。 体中の毛が異様に増えていた。今朝ホテルで見た時は驚いたが病院で改めて見ても驚きはしなかった。 診察後医者はきっぱりとした口調でこう言った。

 

「今日から特別病棟の病室の中で生活してもらいます」

 

そういわれて別段私は驚かなかった。そもそもそのつもりで病院に出向いたのだから。 入院手続きを済まして、看護婦さんに案内されて特別病棟の部屋、というより檻にたどり着いた。 見た目もよく刑事ドラマで容疑者が収監されている牢屋そのものだった。よくこんな人権無視の部屋をしつらえたとつくづく感心してしまう。 檻の壁は全面コンクリートで天井が高く、壁の上の方には小さな強化ガラス窓が一つだけあり、部屋は鉄格子で廊下と仕切られていた。 天井にはマイク付きテレビカメラが設置されていた。 床にはボルトで固定されたみかん箱ぐらいの金庫以外は何もなかった。 その他のものは虎になったときに壊してしまうから持ち込めないとのことだ。 金庫はダイヤル式ロックのもので、私はそこに日記と筆記用具と文庫本数冊と家族の写真を入れた。その他必要なものはテレビカメラにに向かって頼めば用意してくれる。もちろんそれは使用後に返さなくてはならない。

 

「自分はもう虎なんだなぁ。」

 

檻の中に入れられてその実感が湧いてきた。

 

しばらくするとさっきの医者が来た。 そして鉄格子越しに話しかけてきた。 不安であろう私を慮っての気遣いであろう。 だが私はその時ただ呆然としていた。

 

だからどんなことを医者が話したのかよく覚えていない。 夜になっても私はとにかく無気力で、ただぼんやりした頭の中で家族の顔を思い浮かべているだけだった。 昨日はよく寝ていないせいか今日は特別眠い。 今日の日記はここまでにする。

 

 

 

6月26日

 

朝起きて看護婦さんに鏡を見せてもらったら体毛がさらに伸びていた。頬にもたくさん毛が生えていた。ヒゲではなく獣毛のようなものであった。 また犬歯が伸びてきており両手両足の爪がとがっていた。

 

檻の中では何もすることがない。 だから持ってきた文庫本を読むことにした。 太宰治の『人間失格』を読んだ。 この話の薬づけになった主人公は私と同じで病院の檻に入れられる。 そして自分に人間失格の烙印を押す。それはそのまま人生の破滅を意味する。 私はこんな目にあっても決して自分に人間失格の烙印を押すつもりはない。 むしろ人間らしくなってやると強く思った。 前進し向上することを意識すること。つまりは生きる道しるべを持つこと。これがきっと人間らしさなんだろう。 そうすることによって心が燃焼するんだろう。

 

皮肉にもこうして檻に入り虎になろうとする今になって思ったことだが。 檻に入る前まではそんなこと考えたことがなかった気がする。 ただ会社に言われるままにひたすらに仕事して、時には家族をほっぽらかしにして、自分が持っていた道しるべといっても会社が設定したレール上のものだった。 そう考えると今までの自分の人生ははたして人間らしくあったのだろうか。 逆に今こうして檻の中で生きる道しるべについて考えている方が人間らしい気がする。

 

でも檻の中で道しるべを見つけることができるか。 いや人間らしくなるためには見つけなければならない。 今の自分に唯一出来ることは家族の事を想うこと。これしかない。これが今の自分の光であり道しるべだ。

 

自分はまだまだ人間なんだ。

 

 

6月27日

 

顔中毛だらけになった。 体毛も一層増えて地肌がほとんど見えないくらいになった。 檻に入って三日目だが、その間何もされていない。

 

珍しい病気で、しかもここは大学病院だから私は格好の研究材料として扱われるものだとばかり思っていた。 午後の形だけの診察の後に私は医者に皮肉まじりに聞いてみた。

 

「私は珍しい病気なんですよ。人体実験とか人体解剖とかなさらないんですか? どうぞ煮るなり焼くなり切るなり好きにやって くださいよ。現代医学の為に私貢献しますよ。」

 

「そういうことはしません。貴方に何もしないというのが日本医学理事会の決定ですから。」

 

「どういうことです?」

 

「率直に分かりやすく言います。貴方の難病は権威ある医師の学説やら研究論文を否定するものでもあるのですよ。 貴方の病気の治療に挑むことは医学理事会や厚生労働省の医学部門の地位ある人達への反抗になってしまうのです。」

 

「つまりは、医学理事会は…あなたがた医師たちは私の病気を黙殺するのですね。」

 

「そういうことになります。」

 

医者が檻から去った後、私は愕然として床にへたれこんだ。 不治の病ということは聞かされて知っていたが、こうも絶望をつきつけられるとは。 病気に反抗し人間らしく生きてやると思っていた気持ちをくじかれた思いだ。 悔しさがこみあげてきた。 叫びながら壁を何度も殴った。それからしばらくのことは覚えていない。 暗くなってから人間として気がついた。

 

おそらくまた心が虎になったのだろう。いやもう体も虎になりはじめているが。 それから自分は考えた。 これはどういうことだ。なんで自分だけがこんな目にあうんだ。神様のイタズラか。そもそも神様って本当にいるのか。 いるとしたら世の中にあるあらゆる不可抗力な不公平をどう説明するんだ。

 

家族の写真を眺めながら泣いた。 今私を人間に繋いでいるのは愛する家族だけだ。

 

陽子と健太と裕二の為にこの病気と戦って幸せな生活を取り戻してやると思い頑張って心を奮い立たせた。

 

 

6月28日

 

顔つきが獣っぽくなってきた。 骨格系も変わり始めてきた。体つきもごっつくなってきて背筋を伸ばすことは難しくなってきた。呼吸をするのも難しく感じる。

 

陽子から手紙が届いた。自分がここにいることは医者が家に連絡してくれていたらしい。 子ども達は元気に生活していることが書いてあり、最後に「早く元気になって下さいね」と書いてあるお見舞い文だった。 いたって簡素な文章だった。

 

陽子が自分自身の不安や心配の気持ちを表さないようにしていることがわかった。 そうやって私に心配をかけさせまいとする気遣いなのだろう。

 

本当は何枚書いても書ききれないほど伝えたいこと聞きたいことがあるのだろう。それよりも直接会って話がしたいだろう。 ただ言葉を多くすればするほど隠している心の内の不安が露出してしまう。 陽子はそうなることを避けたかったのだろう。

 

陽子ありがとう。

 

あまりロマンチックな比喩ではないけど君はまるで空気のような存在だね。 君の存在がそばにあるだけで心が落ち着き毎日をエネルギッシュに活動できる。今まで自分が頑張ってこれたのも陽子のおかげだ。 家事の事、子ども達の世話、君の笑顔…。今までどんなに君に助けられてきたことだろう。 でもそれが当たり前のことになってしまって空気と同じで君がいなくなってみると有り難みや愛しさを痛切に実感する。 この手紙のおかげで窒息状態で苦しんでいた自分の心が呼吸を取り戻し気分が楽になりはじめた。 陽子本当にありがとう。

 

 

 

6月29日

 

鏡を見せてもらいびっくりした。人間の面影はほとんど残っていない。 骨格系もかなり変化して、もう二足歩行をすることが困難になった。昨日に比べて呼吸が苦しい。

 

今日医者にさらなるショックな告知をされた。 私の余命は5日であるという。それも長くみてである。 つまり私が完全に虎になる頃、ほぼそれと同じくして私の命も終わるというのである。 いつも医者の診断は聴診器をあてるだけの形だけのものだと思っていたが、実は毎回心音の変化をチェックしていたそうだ。 医者によると、体全体の急速な変化に心臓の変化が追いついていないとのこと。 心臓は血液を体全体に送るポンプであって、このままのペースで体が大きく変化すると、小さな心臓ポンプがもたないというのである。

 

私は人間であるどころか、生きていることも許されないのだ。 なぜ私はこんな目にあわなくてはならないのか。 絶望の上塗り。これは何かの試練なのか?いやその先に光はない。ただ闇の中へ落ちていくだけだ。 希望の光がほしい。どんなに小さな瞬きでもかまわない。

 

誰か助けてくれ。

 

 

6月30日

 

※この日から医者のことを先生と筆記しています。(陽子)

 

自分の体はほとんど虎になった。ちょっと運動をしただけですぐに息があがる。 指も丸みを帯びもう字を書くことが出来ない。 だから自分がしゃべったことを先生に筆記してもらっている。

 

今までは興奮状態の時だけ心が虎になっていたが、今日はそうでなくても朝に急にめまいを覚え虎になった。 人間として気がついたのは夜になってからだった。 こうして今人間としての理性を保つのも辛い状態だ。 あと4日で私は完全に虎になるのだろう。

 

ああ人間として生活していた頃がなんと光眩しかったことか。 辛いことの方が多かった人生だったけど、なぜか今は楽しかったことが脳裏に浮んでくる。

 

あの会社も楽しかったように思える。窓際に追いやられたけどいい事もたくさんあった。 なんだかんだ言っても今の私と家族があるのは会社のおかげだからな。

あの上司だってこれまで色々お世話になったし。 陽子とも会社で知り合えたわけだし。感謝しなきゃと思う。

 

先生も私の病気に根気よく付き合ってくれていると思います。

本当は誰も得体の知れない病気をもった私の主治医なんてやりたがらないんでしょ?先生。 匙を投げるどころか関わり合いたくない病気なんですよね。自分の保身にも関わるから。

先生がショックなことも率直に告知してくれるから試練に打ち勝ってやろうって気持ちを強く持つことができましたし。 私の病気を引き受けるに当たって先生も立場上色々苦労されたのではと察します。

毎日の診察についても、それも先生の自己責任でやっていたんですよね。 だって先生って木・金曜日は休みの日じゃないですか。最初来院したとき受付にある医師の担当日表見ましたよ。でも代わりの先生が来られるのではなくいつも診察は先生でしたよね。 先生のご尽力に心から感謝します。

 

私の家族はどうしているんでしょうね。先生もご存じないですよね。

 

ああ家に帰って健太や裕二とキャッチボールをしたい。

一緒にテレビゲームをして遊びたい。

一緒にお風呂に入りたい。

ああ陽子が作ったカレーが食べたい。

一緒に散歩したい。

一緒にドライブしたい。

ああみんなとずっと一緒にいたい。

 

 

 

7月1日

 

今日人間として目覚めたのは夜だった。 それまでは虎だった。 もう見た目もほとんど虎である。体も大きくなり、やはり心臓の変化がそれに追いついていないらしく呼吸が苦しい。

 

先生が言うには意識が人間でいられる時間が明日は1時間、明後日が3分程度とのことである。 そして3日後には完全に虎になりその頃私の命も終わるとのことだ。

 

人は何のために生きているのだろう。自分は何のために生きてきたのだろう。 自分が生きてきたことの意味って何だったんだろう。 人は何かを後世の誰かにリレーして歴史を繋いできた。そうすることが生きていく意味だって自分なりに答えを出していた。 しかし自分は何かをリレーできたのだろうか。 社会的に自分は何かをリレーしたのだろうか。 陽子や健太や裕二は自分から何かを受け取ったのだろうか。 家族の為にといいながら家庭をかえりみることなく会社の為に働いてきて、何かを後世にリレーしたという実感がない。 会社の為に尽したとは言っても社会貢献ができたという実感もない。正直誰かの為というよりサラリーの為に働いてきた。 結局自分は何もリレーしていないんじゃないか。

 

でもリレーすべきものは何だったんだろう。

 

よくわからない。もっと長生きしていれば答えが出るのだろうか。 ああ呼吸が辛くなってきた。

 

今日の日記はここまでにします。

 

 

 

7月2日

 

今日も人間として目が覚めたのは夜になってからだ。やはり呼吸が苦しい。呼吸をするのが苦痛でもある。

 

いよいよ明日で人間としての自分が終わる。 それもたった3分で。 人生を振り返ってみると長くもあり短くもある人生だったと思う。

 

私は意を決して家族との面会を先生に申し出た。 先生は許可してくれた。 実は陽子も私の方が面会を望むなら面会したいと先生に申し出ていたそうだ。 他に先生にお願いしたのは家族へのメッセージをそのまま筆記してほしいことだった。 明日はふりかえって日記を書く時間がないからだ。

 

自分のこんな姿を見て驚くだろうな。 窓の外の星の光が眩しく見える。

 

ああ明日が楽しみだ。

 

 

 

7月3日

 

「陽子、健太、裕二、来てくれてありがとう。かなり呼吸が苦しいから短い別れの言葉になるけどごめんな。」

「陽子、今まで本当にありがとう。陽子の支えがあったから今まで頑張ってこれた。自分がいなくなってたも絶対に幸せになってくれ。天国から見守っている。」

「健太、夢を持て。そして将来はお前がなりたいものになれ。誰にも遠慮するな。いつも天国から応援しているよ。一人前の男になってママや裕二を守ってやってくれ。」

「裕二、甘えん坊の君だけど、その甘えた分だけちゃんとママに恩返しするんだぞ。がんばれ。お前も兄ちゃんに負けないくらい大きな夢を持て。そしてそれを決してあきらめるな。」

「陽子、子ども達のことをよろしく頼む。」

「みんな さようなら。」

 

 

 

7月4日

 

午後1時15分20秒

田中貴夫氏の心肺停止による呼吸機能停止による死亡確認

担当医師 奥田 聡

 

 

後書き

 

天国のあなたへ。

早いもので今日であなたの二十回忌をむかえることになりました。今日は三人でお墓参りに来ています。

子ども達のその後の成長をこの日記に後書きすることで天国にいるあなたにご報告したいと思います。

健太は国立大医学部に進学し今はそこの付属病院で研修医として頑張っています。お母さんに負担をかけたくないって言って頑張って学費の安い国立を受験したのよ。 裕二はアメリカの大学の医学部に進学したわ。裕二の学業成績はとても優秀で、将来入ることを契約している医療チームから学費を援助してもらっているそうよ。 二人ともあなたの病気の解明をして仇を討つんだって意気込んでいるのよ。

ちなみに裕二がアメリカの大学に行った理由は、そこだと日本みたくいろいろ医学の研究に制約がないから自由に虎の病気の研究ができるからだって。 二人とも立派に成長したわ。とても私たちの子どもとは思えないわね。

あれから私もあなたの分までしっかり生きてやるって誓って一生懸命子育てしたわ。

もういいおばちゃんになっちゃったけど今私はとても元気よ。

さっきは久しぶりに三人揃って食事に行ってあなたの話で盛り上がって楽しかったわ。

二人ともあなたとのキャッチボールとお風呂が楽しかったみたいよ。

大人からみれば何気ないことでも子どもにとってはディズニーランドなんかよりずっと楽しいことなのね。

私たちはみんな元気にやっています。だからあなたは安心してゆっくり天国でお休み下さいね。

 

陽子

 

 

 




この小説は7年前に自作HPで「道しるべ」として発表したものです。
当時「涙きました。」とか「母に読み聞かせをしました。」とかのメッセージを頂きました。とても感激したのを覚えています。
もともとはタイトルは「虎になる日」だったのですが、やはり多くの人に中島敦著「山月記」と比較されてしまい、それから「道しるべ」に変えました。でもやはり当初のタイトルの方が率直な感じがして気に入っていますので7年ぶりに元に戻したいと思います。中島敦ファンの皆様ごめんなさい。


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