「――ん?」
何度となく繰り返し、既に血すら滲み始めた手。矢を放ち続けて十時間以上、再び矢を番えた時、弦の耳に金属音が聞こえて来た。
音の出所はトレーニングルームではない、恐らくウィリスからの合図だ、そう思った。
「もう夜なのか……」
弦は弓を壁に立て掛けるとトレーニングルームを後にする、予め用意していたタオルで汗を拭うとゴミ箱を足で退かして布を捲った。見れば既にウィリスの手が向こう側にある、時計を見ると既に十一時を回っていた。
「済まない、遅れた」
「いえ、構いません、今は大丈夫ですか?」
「ん……あぁ、多分問題無い」
壁に背を預け自室の扉を見る、そこに誰かの気配はない。弦は念のためリモコンで部屋を消灯し、寝ている体を装った。夜食には手を付けていないが、まぁ言い訳は何とでもなる。それに話すだけならば光は不要だ、寧ろ視界が閉ざされるからこそ思考に容量を割ける。
「没入はどうだった? 上手くいったのか?」
「あ、えっと、はい、多分上手くいった方だと思います、才能も幾つか覚醒して……久々にトレーニングルームに入りました、剣とか、弓とか、そういうモノを使うために」
「へぇ、そうか、ウィリスも……」
トレーニングルーム、やはり彼女も武術系統の英雄が先祖だった。そうでなければ才能の話からトレーニングルームという言葉は出てこないだろう。弦が頷いていると、「もしかして、弦さんも?」と疑問の声が上がった。
「あぁ、俺も武の才能を引き継いだんだ、本当は数学者とか科学者とか、発明家の祖先が良かったのだけれど、俺のご先祖様は武人であったらしい、俺は銃もそうだが格闘技など生まれてこの方一度も学んだ事がないのだけれどね」
「それは私もです、まさかこの年になって、こんな古武術の才を貰えるなんて」
女性ならば尚更だろう、となると彼女の祖先は女傑か何かだったのか。古い歴史には疎い弦である、誰か女性で凄まじい偉業を成した人物など居ただろうか? 少しの間考えてみるが、そもそも今から数百年、千年以上も前の話など大して学んでいない。それも弓や剣の時代の人間だ、下手をするとカルナと近い時代の天才なのかもしれない、恐らく地域も違うだろう、ヨーロッパかアジアかはたまた別な場所か。
その辺りだと数百年単位で知識が無い、最早名を聞いても「誰だソレ」となる事は目に見えていた。
それは彼女にも、そしてその英雄本人にも失礼に当たる。弦はウィリスの英雄の名を問い質したりしまいと誓った。
「男は存外そういうものが好きでね、先程までずっと弓を引いたり、槍を振るったり、剣を薙いでいた、数日前までは遥か昔の武器モドキと馬鹿にしていたが、一念貫き通せば最上にも勝る、今なら粒子銃を持った連邦隊にも負ける気がしないよ」
おどけた様に、しかし自信に満ちた声で弦はそう口にする。
無論如何に才能が有ろうと弓と粒子銃では話にならないだろうが。
そもそも矢の飛来する速度と粒子銃では余りにも差がある、光の速度に近い粒子銃の射撃は動く前に相手を貫く。そんなトンデモ兵器に廃れた古代の武器が敵う道理は無い。
だが例えそうであっても、僅かな隙さえあれば穿つ自信が弦にはあった。或はこれもカルナの精神に引っ張られた結果か、己ならば成せると信じて疑っていない。
「凄い自信ですね……私も弓を引いてみましたが、やっぱりご先祖様には敵いません、元の体が貧弱という点もあると思いますが、何て言うか、全然迫力が違いました、剣も、何て言うかご先祖様は風そのものを断つ、って感じなのですが、私のは力任せに振り回しているみたいな」
「あぁ、分かる、分かるぞ、思うに俺達には神の加護みたいなものが欠如しているのだろう、ウィリスの英雄がどんな人なのかは分からないが、遥か昔には神様という奴が本当に居たらしい、摩訶不思議な現象を起こせるインチキ野郎共だ、或は魔法みたいなモンだと思っても良い、そういう神様の厚底効果があって漸く英雄という人間は立ち上がれるんだ」
逆に言えば神の手を借りずに英雄となった人間こそ、本当の意味で讃えられるべきなのかもしれない。もしくは英雄と呼ばれる存在そのものの質が下がっているのか、その辺りは弦の知るところではない。
弦がウィリスに対して、「ウィリスの英雄は、神様と何らかの関係を持っているか?」と問えば、彼女は一も二も無く頷いた。
「はい、何でも神様の子らしくて」
「それは……凄いな」
存外、英雄には神の子が多いのかもしれない、弦はそう思った。
そう言えば嘗てヨーロッパの方で盛んだった天文学だったが、正座やら何やら人々は星々を結んで神聖なものとして扱っていたらしい。それに連なる人物たちは半神であったり、半妖精であったりしたとか、もしやウィリスの英雄はその類のものかもしれない。
存在するかも怪しい人物ではあるが、カルナも同じようなものだ。
「半神ならば、やはりこう、人の身とは思えない技があるだろう? 先程からソレを再現しようと頑張ってはいるんだが、どうにも、百凡の一射にしかならない、技のキレは凄まじいのだが本物と比較すると酷く見劣りする」
「――それで神様の加護が無いと言っていたんですね、確かに私のご先祖様も凄い方でした、多分私も才を引き継いだとは言え、完全に再現するのは無理だと思います、あの辺りはやはり本当の意味で英雄でなければ……」
本物の英雄、それを判断するのは何だろう。
血の滲む修練か、或は神の血か、才を引き継いだとしても体に流れる血の割合は変えられない。つまり自分達は何処までいっても英雄本人に届く事は無い、無論カルナと並び立つ事が出来ると腹の底から思っている訳ではないが、やはり悔しさがあった。
弦はぐっと唇を噛みながらもウィリスが自分を呼んだ本当の用件を思い出し、「それで、今後の相談というのは何なんだ?」と話を戻した。才能の話も重要だが己は未だ研究所の全容を理解していない、今後の事は何よりも重要だ。
「あっ、すみません、そうでした……弦さん、これを」
弦が座り込んだまま壁に背を預けていると、コツンと手に何かが当たった。弦は近くの小型スタンドを掴み、扉から影になる場所で点灯。見れば摘まめるほどに小さく、勾玉の様な形をした小さな機械。それを摘まみあげて見つめ、「コレは?」と疑問符を浮かべる。
「通信機です、それ程遠くの人と会話は出来ませんが、ノア内であれば設計上問題ありません、耳に装着すればいつでも弦さんと私は会話をする事が出来ます、やはり一々壁に集まっては危険だと思うので……担当がいつ入って来るかも分かりませんし」
そう言うウィリスの言葉に、弦は確かにと頷く。しかし一体どうやって入手したのだろうか、通信機をくれと言って馬鹿正直に差し出す連中では無いだろう。
弦がウィリスに問いかければ、「ゲーム機とか、スピーカーを申請して、それを一度分解して作り直しました」と事も無く言い放つ。どれだけ手先が器用なのだろうか、弦には真似できそうにない。
「私はウィル・O社の技術部門でしたから、下っ端ですけれど、これ位の製造なら朝飯前です」
ふふん、と自慢げに言い放つウィリス。成程、今更だが彼女が大企業の社員であった事を失念していた。こういう面を見るとやはり、彼女はとても頼りになる存在だ。
「充電は必要ないタイプなので、放って置けば勝手に電力を蓄えてくれます、この辺りはゲーム機のバッテリーをそのまま流用しました、小型化の為少しばかり燃費が悪いですが一日に一時間超も通信するとは思わないので恐らく問題は無いでしょう、えっと、通信を開始するには側面の小さなボタンを押し込んで下さい、そうすると相手に声が届きますから」
「ん……分かった」
言われた通り電源を入れて耳に装着すれば、僅かにノイズが聞こえて来る、恐らく向こうの電源が入っていないので音を拾えないのだろう。少ししてウィリスも電源を入れたのが、ノイズは相変わらずだがトントンという音が聞こえて来た。指でマイクを叩く音だ、確認の合図だろう。
「良し、聞えた、問題無い」
「良かった……音が聞き取り辛いかもしれませんが、そこは有り合わせで作成したものなので許して下さい」
「有り合わせでコレを作れたなら凄い事だ、何も文句なんてないさ」
通信機を取り外して弦は頷く、これで大分連絡を取りやすくなった。態々穴に集合する必要もないし、怪しまれる心配もない。万が一穴が見つかってもコレさえあれば連絡は取れる、正に最高の一手だ。
弦がウィリスの有能さに感謝していると、向こうで声のトーンを落としたウィリスが淡々と口にした。
「それで、これが本題なのですが――ノアに連れて来られた英雄の子孫、没入を終えた後の処遇が分かりました」
「!」
それは弦が懸念していた事の第一項目、全てが終われば金を与えて元の場所に帰すと言っていた連中だが、弦は終ぞ担当の言葉を信じた事は無かった。そもそも英雄の子孫から記憶を盗み見し、オーパーツや才能を回収したとして、前者はそもそもノアの職員より扱い方を心得ている上、後者に至っては本人を帰せば苦労して才能を開花させた意味がない。
つまりあんなものは方便だ、弦はそう考えていた。
「そんな情報をどこで?」
「ただの偶然です、実は今日の没入でシートの裏側に、その、こんなものが張り付けてあって……本当なら今後の相談だけの予定でしたが、やはり、弦さんにも見せた方が良いと」
弦が問いかければ、穴の向こう側から一枚の折り畳まれた紙が滑って来た。手紙だろうか? 今時データ化でペンを執る事さえ稀だと言うのに。しかし端末で読み込むチップなどは監視されている可能性もある、確かに最も安全な手段ではあった。
弦が紙を受け取り恐る恐る開けば、中には文字がびっしりと書き込んであった。一応最低限で済ませようと思っていたのか、箇条書きで重要な事ばかりが書いてある。しかし如何せん紙のサイズが小さい為、一つ一つの文章は酷く短かった。
・ノアを信用してはいけない
・没入に深入りするな
・記憶を最後まで見るな
・英雄の道具を渡すな
・覚醒を急げ
・英雄が生を終えるまでに
・逃げ出せ
書かれてあったのは、それだけ。
小さな紙の隅から隅までびっしりとそう書かれていた。一つ一つの情報を読み取れば分かる、やはりこの場所は危険であると。覚醒を急げと言うのはつまり、記憶を最後まで見た瞬間、自分達は終わる、その時に備えろと言う事か? 英雄が生を終える時、万が一記憶を全て見てしまったら、逃げ出せと。
逃げ出せという事は、やはり全ての先に待っているのは――
弦は自身の心拍数が上昇するのを自覚した、緊張か、或は恐怖か、顔が熱を帯びて僅かに指先が震える。
弦はその紙を再び折り畳み、ウィリスへと返した。
予想はしていたし、薄々感じてもいた。だが実際にそんな事態に直面すると嫌な汗が流れる、まるで自分が立っていた場所が切り立った崖の上で、その先には奈落しかないと自覚した様な気分。弦は口元を抑えながら、小さく息を吐き出した。
「どう思いますか……この手紙」
ウィリスは手紙を受け取り、どこか沈んだ声でそう問いかける。弦は首を横に振って、淡々と考えを述べた。
「……どうも何も、俺には隣人からの命懸けの忠告としか思えない、態々こんな手紙を作ってまで無差別に忠告するって事は、それだけ拙いって事なんじゃないのか」
「そう、ですよね」
この書いた本人がどうなっているかは分からない、だがこんな没入シートに張り付けてまで無差別に情報を撒いたと言う事は、それだけ切羽詰まった状態なのではないか。それこそ安全な手段で連絡を取る試みも何もなく、最悪ノアの関係者の手に渡る事も考えられただろうに。
「仮に、仮に、この手紙の全てが正しいとして、恐らくオーパーツだけなら殺されても不思議じゃない、古代の凄まじい道具さえ手に入れられれば、宝の地図は不要だろう、つまりそう言う事だ、逆に言えば才能を持つ英雄の子孫なら機会がある、逃げ出す機会が、折角才能を開花させたのに殺す何て、そんな無意味な事はしないだろう」
無論、殺されないだけであって安全や自由などは保証されないだろう、首に爆弾でも仕込まれるか、或は脳味噌を弄られるかもしれない。ベラドンナやアーベルマンの様や毒物を一滴一滴、その体に染み渡らせる、そんな所業を受けるかもしれない。
命は在れど人権は無し、そんな未来が透けて見えた。
「だからこそ――覚醒を急げ、そういう事なのかもしれない」
弦は口元を覆いながら髪を毟った――しくじった、そう思ったのだ。
覚醒を急げと書いてあるが、覚醒を隠せとは書いていない、だが弦はその重要性に気付いていた。英雄の覚醒とはそれ即ち、武の才能を得たという事だ、科学や学問の発展に寄与した英雄ならばまだしも、弦の英雄はカルナである、その存在は圧倒的な武力によって成り立っている。
そしてノアの人間はそれを知っている、つまり覚醒イコール武力の目覚め、そしてそれを弦は馬鹿正直に話してしまっていた。トレーニングルームの弓や槍、剣である、そんなものを要求すれば「私は武の才能を受け継ぎました」と叫んでいると同じでは無いか。
「くそ……こんな事なら隠すべきだった、あぁ少し考えれば分かるじゃないか、何と頭の悪い」
弦はそう呟いて表情を歪める、ウィリスもこの手紙を見て同じことを考えていたのか、特に反応らしい反応も無かった。弦は暫くの間呼吸を乱し、それから何度か深呼吸を行った。確かにやらかしてしまったが、未だ致命的ではない。
そう、まだ取り繕うことは出来る――
「ウィリス……」
「はい、多分私も――同じ事を考えていました」
弦の言葉にウィリスは頷く、互いに考える事は一緒だった。
つまり。
「私の覚醒は既にノア全職員に知れ渡っていると思います、多分弦さんも、けれど『どこまで引き継いでいるか』は分からない」
「あぁ、限界まで引き延ばす、成長効率を誤魔化すんだ」
記憶に没入しながらも、その才能を引き継いでいる事を誤魔化す事はもう出来ない、トレーニングルームに弓や剣を求めた時点で覚醒した事は知られている。
しかし、どの程度覚醒しているのか、どこまで英雄に近付いているのか、その尺度を誤魔化す事は出来る筈だ。外に対しては大して成長していない風を装い、しかし裏では最大限の努力を行う、来るべき時――記憶の最後に備える。
「実際、記憶を全て見終わる前に此処を抜け出す……っていうのは出来ると思うか?」
「……分かりません、そもそも此処の正確な位置さえ掴んでいませんから、仮に上手く抜け出せたとしても車も飛行機も船もありませんし、テレポートステーションがあれば別ですが、こんな大規模な施設が脱走を考えていないとはとても思えません」
ウィリスの真っ当な意見に、「そうだよな」と弦は呟いた。自分達は元々その辺に転がっている一般市民でしかない、故に唯一の切り札は英雄の記憶、つまり受け継ぐ才能だけだ。矛盾しているが力を得るためには没入を繰り返すしかない、没入を繰り返せば繰り返す程、終わりの時は近付くがそうしなければ力を得る事さえも出来ないのだ。
「このまま大人しく飼われる――って選択肢は、無いよな」
「……それは、ちょっと」
「だよな」
なら抜け出すほかない、何としてでもこの場所から。
「どう思う? まず、俺達が成すべきことは?」
「……何を差し置いても、まずは情報を集めるべきです、その次に才能を磨く事、最後に体を鍛える、最悪徒歩で此処の追跡を躱さなければなりませんから」
「おいおい、徒歩? 正気か」
「私達の祖先に限りなく近づけば……或は」
ウィリスは真剣な声色でそう告げた、英雄、確かに彼等ならば凄まじい速度で駆け、全く息を荒げなくとも不思議ではない。その持久力と脚力があれば追跡を躱せるか――だが、受け継ぐのはあくまで才能、そんな劇的な変化が肉体に現れるのか、弦は疑問に思った。確かに英雄に肉体は近付くだろうが、飛行機を超える速度で人間が走れるとは、とても思えない。
「勿論、足があるに越した事はありません、この研究所に何かしらの移動手段がある事は確かです、それを奪うのも手でしょう――尤もGPSや粒子探知の類があれば場所もバレてしまうので、無効化する術が必要不可欠ですが」
「アンチ・パーティクルか……流石に、そんなモノは作れないよな?」
「通信機とはワケが違いますし、専門家でもないと無理です、そもそもジャミング装置なんて作れる人は連邦軍部の方か
GPSの方なら何とかなるかもしれませんが、粒子探知を避ける手立ては今のところありません。そう告げられた弦はスタンドの光を消し、天井を見上げた。光があると嫌に思考が揺れた、周囲が闇に包まれているからかもしれない。
一度深呼吸をして、それからぐっと腹に力を籠める。
「まぁ、今すぐ何とかしなければ、って訳でもない……問題の先送りは嫌いだが、現状足すら手に入れていないんだ」
「――そうですね、幸い時間はあります、私の方も記憶没入は序盤も序盤ですし、古文書と比較してまだ時間に余裕はありそうです、少なくとも後数回の没入で記憶が終わるって事は無いと思います」
「五回か、十回か、或は二十か……」
弦とウィリスは己の身に残された正確な時間さえ知らない、一週間、二週間、少なくとも一ヵ月はないだろう。決して短い時間ではない、だが長くもない、それで己の一生が決まると考えればそうだろう。
「……施設の、他の人達とコンタクトは取れないのか」
弦は僅かな希望を抱いて問いかける、武の才能を引き継いだ奴が増えれば単純に心強いし、発明の天才でも引ければ儲けものだ。余り物で凄まじく便利な道具でも作ってくれそうなイメージがある。そうでなくとも現状を打破できる最善手を考えられる頭がある筈だ。
そして仮に、そんな奴がいるとすれば、黙って飼い慣らされるとは思えない。
「基本的に他者とのコンタクトは不可能です、それこそこの穴みたいに壁に穴でも空けない限りは、入退室の時間さえ厳密に決められているんですよ、廊下ですれ違う事さえ出来ません、没入を行う部屋には限りがありますから、それで移動時の接触を避けているんです」
あくまで推論ですが、私は未だに弦さん以外の方と逢った事もありません。
強ち間違った推論でも無いと言う事だろう、弦は唇を噛んだ。成程、成程、英雄という存在は酷く厄介だ、その力は個人でも十分恐ろしいが、それが集まりでもしたら凡人では手出しができない。
例えそれが劣化版、つまり英雄本人でなくとも十二分に恐怖の対象となる。弦は脳内でカルナが百人集まった想像をした、正直勝てる気がしない。物理的にも精神的にも。
「……いっその事、逆の壁にも穴を空けてみるか? 隣に部屋があるなら同じく人もいる筈だ」
「――穴の中層を見れば分かりますが、多分壁の中にはダングステン合金が挟まっています、何の粒子と複合させたのかは知りませんが、人が素手でどうこう出来るものではありません、金属ドリルでも穴を空けるのは至難の業ですよ?」
「じゃあ、この部屋の穴はどうやって出来たんだ」
「……英雄の力とか」
便利過ぎるな。
しかし確かに、アストラ・スーリヤならば――少しだけそう思ってしまった。若しくはソレに近い武を持つ英雄ならば壁を穿つ事も出来るかもしれない、しかしその力を得る為にはどれ程の没入を繰り返す必要がある? それとも矢を手に奇声を上げながら壁を削れば良いのか? とてもマトモな人間には思えない。
「どちらにせよ時間が掛かるか」
「……焦っても仕方ありません、まずは才を磨く事に専念しましょう、どちらにせよ私達では自発的に情報を得る事も出来ません、果報は寝て待て、でしたっけ」
ウィリスの言葉に弦は頷く、確かに意味も無く焦燥感を抱いても事態は好転しないだろう。別に一日二日でどうにかなる話でも無いのだ、焦るよりは冷静に、腰を据えて挑むべきだ。
「なら、今日はもう解散しよう、そっちも没入したばかりだろう? シャワーでも浴びてゆっくり寝ると良いさ」
弦は立ち上がってそう告げる、自分もトレーニングルームに籠っていたから風呂に入りたい。夜更かしするなとは言わないが、今の生活を考えると大した利点も無いのだから。今のところ一番に気を付けるべきは健康だ、体調を崩しては元も子もない。
或は不健康を装って、没入を伸ばすのも一つの手ではあるが。
「そうですね……そうさせて貰います、では、また明日、弦さん」
「うん、お休み」
弦は穴にゴミ箱で蓋をして、手に握った通信機を見えない様にタオルで包んでベッドの上に置いた。万が一これが見つかってしまったら大変な事になる、使う時はある程度注意しないといけないだろう。
暗闇の中一歩を踏み出すと、ズンッ、と肩が重くなった。まるで見えない力が全身を押し付けているみたいだ。
「大丈夫だ……大丈夫」
弦は暗闇の中、覚束ない足取りでシャワールームへと進んだ。既に闇に慣れた瞳はある程度の視界を約束する、何度も「大丈夫」と口にする弦、それは誰に向けた言葉でも無く、ただ自分に言い聞かせていた。
自信はない、恐怖が先行する。
今の今まで騙し騙しやって来たが、こうなってしまうと、やはり恐ろしい。
まるで映画か漫画の主人公ではないか、気付けば連邦の秘密裏に設立された組織に誘拐されて祖先が英雄だ何だと言われて、挙句の果てにソレが真実で実際に力を得ている。こういうのは一般人では無くて、もっと主人公然とした優秀な人間にこそ相応しい立場なのではないか?
自分はただの人間だ、鋼の精神も持っていないし、英雄でもない。
相手を馬鹿にした態度、或は夢か幻か妄言の類だと高を括っていた、そして力を得れば純粋に新しい玩具を与えられた子どもの様にはしゃいだ。
そして真実を突き付けられればコレだ。
途端に委縮して恐怖に呑まれる、何と凡人らしい凡人か。
それが無性に腹立たしかった。
「何と情けない」
それは羞恥の感情だった、若しくは怒りだった。
力任せにシャワールームの扉を叩く、ドンッ! と音が暗闇に響いた。
一度カルナと言う男と同調した己が、あの男の血を引く己が、こんなにも矮小で無様で取るに足らない存在だと、そう指を突き付けられて糾弾されている気分だった。
こんな有様でどうする、数日前まで自分は秀才止まりで、決して天上人には届かないのだと腐れていた、しかし望外の才能を手に入れて更に己の先祖は歴史に名を刻んだ英雄だと言う。これで奮い立たずしてどうする、今のこの状況は寧ろ才能の代価と言っても良い。
それに、何より。
こんな無様な姿では、カルナの背を見る事すら許されない。
「俺ならば出来る――いや、俺にしか出来ない」
それは弦らしからぬ言葉だった。
過去の彼ならば、何だかんだ理由をつけて現状から逃げ出していただろう。辛いのは嫌だ、苦しいのは嫌だ、自分は強くないから、自分は天才ではないから。
理由は何だって良い、人が何かから逃げ出す時は周りにある何事でも理由になり得る。だがこの時の弦はそれを良しとしなかった、プライド、矜持、信条、何でも良い、そういうのを搔き集めて丸ごとぶつけてやったのだ。そうして絞り出したのが先の言葉。
自惚れであった、自分ならば成し得る、自分こそが相応しいと。
自惚れだと自覚しながらも、しかしソレを欠片も疑っていなかった。
英雄の精神、カルナの人格である。
「待っていてくれ、カルナ――直ぐに追いつく」
もう少し書くスピードを上げたいです……