その場所を一言で言い表すのなら――地獄、であった。
「同調値上昇、止まりません! 英雄人格と没入者人格の同調値、九十%突破、人格重複最終段階に移行……無理です、乖離処理間に合いません!」
「バイタルに大幅な乱れが見えます、これ以上は没入者の体が……!」
「記憶内での没入者感情グラフが振れ幅上下値を五オーバー、ミーシャ管理官、これ以上は……!」
「没入中止、緊急停止プログラム作動、強制
ミーシャを中心に乱雑に並べられた機器を叩く医療班の面々、寝かせられた弦には無数の管とパッチが張り付けられ現在進行形で増えている。急激な同調による肉体の変質を最小限に留め、尚且つ彼の人格を無傷に近い形で引き揚げようとしているのだ。しかし事態は思う様に進んでおらず、彼らの表情には余裕が無い。
「人格同調遮断、強制引き揚げ開始――直ぐに覚醒します!」
「っ、ウド、ツェン!」
「はい!」
弦の人格を強制的に戻したミーシャは、二人の男性医療員に声を掛ける。彼らは足元に置いていたドクターバッグと機器を手にすると、弦の寝ているシートに駆け出した。弦が不調を訴えた場合、直ぐに対応出来る様にする為だ。
そうしてミーシャを含む班全員が緊張を孕み見守る中、弦の意識はゆっくりと浮上した。
「弦様、体の方は――」
ミーシャに変わりウドと呼ばれた班員が弦に声を掛ける、そしてその肩に手を触れた瞬間、ウドの顔面が弾け飛んだ。鼻が陥没し、パキン!と首から音が鳴る、大きく後方に仰け反るウド、突然吹き飛んできた彼に対応できず背後に居たツェンもまた巻き込まれて地面に転がる。
ガシャン! と機器を横倒しにした瞬間、周囲の空気が凍った。
シートから身を起こした弦、その姿を見た全員が固唾を飲む。一目で理解出来た、たった今、目を覚ました弦が正気ではないと。
「ッ、ァ、あ、クリシュナぁァアアッ! クソ、クソッ、クソォッ! アイツ、あいつだけはァ、殺す、殺してやるッ……!」
顔面を片手で覆い、唾液を飛ばしながら血走った目で叫ぶ。
それは最早狂人の挙動であり、部屋の班員は全員顔を蒼白にしながら数歩後退った。それはその奇行に気後れしたという点もあるが、何より弦は全身に黄金の粒子を纏っていたのだ。
可視化されたソレは班員全員の視線に止まり、弦が覚醒を果たした事を証明している。つまり今の彼は唯の狂人ではなく、英雄の才を十全に引き継いだ狂人だった。彼に殴り飛ばされたウドはぐったりしており、首が明後日の方向に折れ曲がっていた。
英雄の才を纏った怪力で殴り飛ばされたのだ、常人には耐えられないだろう。
この部屋に居ては拙い、全員の意見は一致していた。しかし安易に飛び出せば弦の標的になりかねない、まるで猛獣の扱いだ。
弦は荒い息を繰り返しながら周囲を見渡し右手を突き出して叫んだ。
「メラーガルム・シャクティッ!」
狂っているだけならば良かった、しかし幾度の没入を繰り返した弦の精神は闘争本能だけは決して鈍らせない。どれだけ狂乱の状態であろうと、こと神性の扱いだけならば理性が働く。
弦は叫ぶと同時に黄金槍を構成し、確りと掴むとその場で一回転。脇に挟み刺突の構えを見せた。
「ッ、ぅ、わ、ああぁッ!」
正面に居た班員がウドの死に錯乱し、背中を見せて逃走しようとする。しかし反転した瞬間に弦が踏み込む、それはカルナの動きを参考にした足捌き。凡そ数歩分の間合いを一息に潰し、右腕が弾丸の如く放たれた。
ズドン! と槍にしては余りにも重々しい衝撃音、槍の矛は逃げ出した男の背中を貫き、そのまま心臓を穿っていた。即死である、男は穿たれた痛みに白目を剥き、自身の胸から生え出た槍を掴んで絶命。
弦は貫き殺した男の背を蹴り飛ばし槍から抜く。ズルリと赤色と共に骸が地面を転がり、弦は再び槍を指先で回転させた。
「殺す、全員殺す、殺してやるッ――パーンダヴァは全員殺すッ!」
血走った目と唾液に塗れた口元。
弦の瞳は目の前の彼らを見ていない、否、正確に言うのであれば彼は未だ没入の最中――つまりこの場所を現実だと理解していない。目の前に見えるのは敵、カウラヴァの戦士が身に着けている鎧も剣も印も無い、ならば敵だ、殺すべきだ、殺さなくてはならない。
そういう一種の強迫観念、或は憎しみの感情に身を委ねていた。
「管理官、これは……!」
「全員、NBGを用意して」
ミーシャの隣で冷汗を流す女性班員。ミーシャ自身も現状が非常に拙いと理解している、故に彼女は弦の安全性確保を一端放棄しNBG――非殺傷銃の使用を許可した。
ミーシャの言葉に残った班員、凡そ九名が腰裏に装着した小型の銃を引き抜く。非常事態に備えノアの職員は全員NBGの装備が義務付けられていた。
しかし、その動作だけで弦は相手に何らかの攻撃手段があると察知、素早く踏み込むと同時に槍を振るった。
犠牲者は弦の一番近くに立っていた女性班員、銃に手を伸ばしながら片時も弦から目を離さなかった彼女はしかし、神速の踏み込みに反応する事が出来ず容易く槍の攻撃範囲に呑まれる。
瞬きに用いる時間、凡そ一秒未満、それだけで首に矛先が埋まった。
「ぁ――」
次いで矛が首を貫通し、女性の首が鮮血と共に宙を舞う。
それがスローモーションに見えた他の班員は回転しながら更に手を緩め、黄金槍を長く持った弦の行動に身を竦ませる。そして次の瞬間、放たれた薙ぎ払い。それは非常に広い攻撃範囲を誇り周囲の班員は矛に首を浅く斬り裂かれた。
範囲内に居たのは三人、そのどれもが骨に届かない絶妙な位置まで矛の侵入を許す。ドポリ、と血が噴き出し三人は首を抑えて喘ぐように膝を着いた。
「穿ち殺す」
薙いだ状態から槍を宙で回転、そのまま投擲態勢に。
拙いと思ったミーシャは掴んだ銃を引き抜き速射、圧縮された空気が破裂し火薬銃と同程度の速度で小型カプセルが射出される。中には対象を昏倒させるナノマシンが込められており、体のどの部位に当たっても等しく効果が得られる優れもの。
しかし弦は射出されたソレを目で捉える訳でも無く、ごく自然な動作で体を傾け躱して見せた。カルナの才が直感を発したのだ、これは射線を見れば躱せると。
「嘘……ッ」
銃を引き抜いてから一拍を置かない、ガンマン顔負けの射撃をいとも簡単に。その動揺がミーシャの表情を歪ませ、弦の黄金槍は誰に邪魔される事もなく放たれた。
ボッ! と空気の壁が穿たれ、そのまま指先から滑る様に槍が投擲される。ソレは直線に凄まじい速度で飛翔し、ミーシャの隣に立っていた女性班員の一人を捉えた。
瞬きする間もない、顔面に直撃した槍は肉を削ぎ抉り、そのまま頭蓋を貫通して体の上半身を消滅させる。まるで戦車に轢かれたような惨状、ビシャリと脳髄とも血とも言えない赤がミーシャに降り掛かり、白い没入ルームは赤色の華を咲かせた。
頭部から胸部にかけて丸々失った骸は膝を折り、そのまま崩れる様に倒れる。
残りは四人、生き残った班員は慌ててミーシャの元に集まり弦に銃口を向けた。
「こんなに覚醒が早い何て――スーリヤの神性にヴァサヴィ・シャクティまで具現化を……? いえ、アレは違う、ヴァサヴィ・シャクティじゃない、もっと別な……」
「ミーシャ管理官! そんな事は後にして下さい!」
ミーシャは弦の持つ黄金の槍――今しがた投擲した槍を復元し、再度構えた――を見て呟く、ソレは彼女の覗き見たカルナの記憶、ヴァサヴィ・シャクティと同じ形状だ。しかし発せられる神性はインドラとは異なり、その特性もまた自壊槍と言うよりは自爆槍に近かった。
インドラの槍を模倣した、結果は同じとはいえ、過程の異なる武具、それはミーシャの知らない情報。彼女は研究者として未知に貪欲であった、それが今の状況に相応しいかどうかは別として。
「ッ、来ます!」
「――一斉射撃!」
弦が大きく上体を沈ませた瞬間、ミーシャが叫ぶ。
彼女は研究者であるが同時に多くの部下を持つ管理官でもある、判断は早かった。
その足が地面を蹴るより早く、ミーシャの言葉に従った四つの銃口からカプセルが撃ち出された。パァン! と空気が爆ぜる音、同時に弾丸を模したカプセルが飛来し弦を襲う。
高速で飛翔する弓より速い弾丸、カルナ本人ならば兎も角、その肉体は弦と言う英雄の劣化版に過ぎない。
一つ、二つ、三つのカプセルを躱し、同時に黄金の槍でカプセルの軌道を逸らす。しかし四つ目のカプセルが弦の肩に着弾し、上半身が大きく傾いた。
「やったッ!」
班員の一人が叫ぶ、カプセルは何処に当たろうが等しく効果を持つ、更に中のナノマシンは即効性だ。これでもう彼は数秒後には動けなくなる。
喜びの表情で銃を掲げた班員は――しかし、次の瞬間に投擲された黄金槍に胸を射抜かれた。
ボシュッ! と血飛沫が上がり、班員は喜びの表情を浮かべたまま絶命する。
他の班員が愕然とした表情で弦を見る、彼は着弾した肩を叩きながら黄金の粒子を散らせた。それはカルナという英雄の代名詞、ミーシャもまさかという思いで呟く。
「黄金の鎧……」
弦が肩に集中させたソレは、確かにカルナが持つ黄金の鎧であった。
あらゆる攻撃を防ぎ、着用者を守る無敵の神性、局所的とは言え弦は現世でそれを発現してみせた。この時点でミーシャは、あらゆる攻撃手段が彼に通じない事を悟る。
もし仮に彼が没入先のカルナと同じ鎧を発現しているのならば、ソレを破る手段をミーシャ達ノアは持ち得ていない。彼のインドラですらカルナの黄金の鎧を卑劣な手で剥ぐ他なかった、つまり大神ですら黄金の鎧は手に余ったのだ。
それを拳銃如きでどうにか出来るなどと。
「管理官!」
ミーシャは班員の叫びで自意識を取り戻した。
そして視線を真っ直ぐ向ければ、弦が黄金の弓を生み出し既に構えている。その弓矢をミーシャは良く知っている、不偏にして絶対、英雄カルナの放つ太陽の一射。
「――
止める事など出来なかった、そして回避する事も。
気付いた時には既に矢は飛来し、四人全員を射抜いている。班員は全て頭蓋を射抜かれ、一瞬の内に命を落とした、恐らく自分がいつ死んだのかすら分からなかっただろう。
唯一ミーシャだけは矢を頭部に受ける事を避け、代わりに右肩に矢が突き刺さる。それでも威力共々凄まじい衝撃で、大きく吹き飛んだミーシャは没入ルームの壁に叩きつけられた。肺の空気が全て抜け落ち、大きく口を開けて喘ぐ。残った神性がミーシャの体を蝕み、意識が一気に白濁した。
「ま……って」
ミーシャ意識を失う直前に弦に向かって手を伸ばす、その手に僅かな粒子が集うものの――それが形を成す前に、ミーシャの意識は闇に呑まれた。
全てのパーンダヴァの兵士を無力化したと思った弦は、再びヨタヨタと歩きながら呻く。没入ルームの扉を抜け、そのまま廊下に出た弦は血走った目で周囲を見渡した。
「クリシュナ、くそ、あぁ、何処行きやがった……アルジュナ、ッ、俺達は、まだァ……」
黄金の弓を消し去って、廊下を覚束ない足取りで進む。
胸の内には憎悪と憎しみ、あらゆる不快感を詰め合わせた様な感情がぐるぐると渦巻いている。自我は確かに弦だった、しかしカルナの精神も持ち合わせており、何より弦の意識は此処を古代の戦場だと思っている。景観など関係ない、ただ味方は救い、敵は殺す、単純な故に強い暗示、弦の思考は酷く限定されていた。
そんな弦の肩を、誰かが強く掴んだ。
背後から肩を掴まれた弦は、黄金の粒子を右手に纏いながら振り向く。
誰だか知らないが、きっと敵だ、そうに決まっている、此処には敵が多い。
振り向き様に顔面を殴り飛ばそうとした弦は――しかし直前で拳を止め、粒子を霧散させた。
「弦さん!」
短く切られた金髪に青い瞳、整った顔立ちは大人びていて、自分を見る目は酷く慈愛に見ている。同時になにか焦燥した表情を浮かべており、弦はその容姿に一瞬知らない人間だと判断を下したが、それよりも先に声が耳に届いた。
――弦さん。
聞き覚えのある声と呼び名、それは弦がこの場所で唯一友と呼ぶ人間のもの。
霧散した粒子は虚空に溶け込み、弦は目を見開いたまま振り上げた拳を力なく下げた。
「………ウィリス、か?」
混濁した思考に一筋の光が差し込む、それは狂乱に満ちた弦の胸の内を一瞬とは言え鎮め、思考に空白を生む。
ウィリス、それは弦がノアで出会った被験者。
つまり同じ境遇の仲間だ。
しかし、此処は現世ではない筈――何故彼女が?
その矛盾が狂乱を破るキーと成る、弦は頭を抱えて呻いた。ウィリスが此処に居る、それはつまり此処は戦場ではない、現世だ。己は弦であり、没入から帰還したのだ。その事実を受け入れるのに弦は多大な痛みを伴った。
胸の内の憎悪は未だ轟々と燃え盛るが、なけなしの理性が『堪えろ』と檄を飛ばす。
そんな弦の手を掴み、ウィリスは声を荒げた。
「弦さん、時間がありません、早く!」
「ッ、ウィリス、あぁ、何で君が此処に……」
「それは後です、既に脱出は始まっています!」
脱出……脱出?
鈍った思考は数秒ほど単語から状況を引き出すのに時間が掛かった、しかし弦の脳裏にウィリスと話し合った脱出計画の事がリフレインする。そうだ、俺達はノアから逃げ出す為の算段を立てていた。
だと言うのに俺は管理官の前で能力――あぁ、いや、アイツ等は殺したんだった。
けれど、アイツ等はパーンダヴァの――違う、此処は現世で、パーンダヴァはカルナの……。
弦の思考が混濁する、既にカルナと弦の精神は深い部分で結びついてしまっていた。仕切りは取り払われ、カルナと弦の境界線は既に呑み込まれている。しかし時間が無いのも事実。
ウィリスは呻いて頭を抑える弦の手を引いて駆け出した、説明する時間が勿体ないとばかりに。
白い廊下は既に赤く染まっていて、廊下の端に何人かの職員が血塗れになって転がっている。ウィリスがやったのだろうか、やはり彼女も英雄だったのだ、弦は痛みを堪えながらそんな事を思った。
「幸い没入ルームから搬入口は遠くありません、他の被験者も目に付く部屋は全てブチ破りました! 今ノアは混乱状態です、このまま脱出を――!」
「あ、あぁ……」
見ればウィリスは背中に大きなリュックサックを背負っている、恐らく前に言っていた脱出する為に必要な物資だろう。弦も部屋に用意はしてあったが、この分では持ち出せそうにない。
弦は手を引いてよろよろと走っていた足を叱咤し、何とか精神を持ち直す。
弦一人だけでは立て直せなかった、カルナの精神が裏から弦の自立を支えたのだ。
廊下を駆ける二人の前に四人の職員が慌てて飛び出してくる、その表情は焦燥に満ちていて、弦とウィリスを見つけるや否や「止まりなさい!」と叫んだ。
ウィリスは小さく舌打ちを零しながら、弦に問いかける。
「弦さん、戦えますか!?」
「――大丈夫だ」
戦闘になると弦は冷静になる、狂乱に犯されようと何だろうと、英雄の精神が手元を狂わせる事を良しとしない。カルナと混じり合った今は顕著だった、躊躇いも無く腕に黄金の粒子を纏わせる。
ウィリスも右手を突き出すと、「では半分お願いします!」と叫び、二人は殆ど同時に技を放った。
「――
「――
取り出したのは互いに弓、放たれたのは
それは凄まじい速度で飛翔し職員四人を容易く射抜き、その上半身を消し飛ばした。下半身だけとなった職員はそのまま崩れ落ち、簡単に走り抜けられる。
しかし、二人はそうしなかった。
出来なかった。
血だまりの中――二人の足が止まる。
それはそうだろう、そうでなければおかしい。
弦の内心を言い表すのであれば、「あり得ない」、或は「嘘だろう」という真実を否定したい気持ち。それはウィリスも同じであり、弦とウィリスは互いに驚愕の表情を張り付けたまま見つめ合っていた。
弦の黄金の弓がギチリと鳴り、ウィリスの蒼穹の弓が震えた。
それは、あり得ない技だったから。
余りにも覚えがある技だったから。
だってそれは、その技は――
「………………
それは
これにて完結、出したい台詞が出せませんでしたが書きたいところは書けました。
満足です。
結局ヤンデレをブッ込む事が出来ませんでした、本当なら研究所脱走後にアルジュナとカルナの確執にかこつけてイチャコラチャッチャさせようかと画策していたのですが予想以上に長くなりそうなので諦めました。
カルナでありながら弦でもある、そんな場所にフォーカスを当てて書きたかったです(小並感)
ウィリス=アルジュナは気付いていた方が感想欄で予言していたので戦々恐々としていました、個人的には「兄弟が沢山」の部分でドゥルヨーダナと勘違いしてくれたら良いのになーと思っていたのですが……まだまだ力量が足りぬ。
第二部はあるかも分かりませんが、構想自体はあるのでメモ帳に書いて保存しておきます。未来の私が書いてくれるかもしれません。
それではまた次の作品でお会いしましょう。