ウーイッグのカテジナ・ルース   作:Mariah_Bastet

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ようやく殺意から解放されたカテジナです。
そこに新たな訪問者が現われます。


第7話 薔薇のみそぎ

ガタガタと何かやっていると思っていたら、不意にカチリと音がした。

 

しばらくすると、微かな熱気を鼻先に感じた。

 

 

「喫茶スペースのあった所に、ストーブをつけました」

 

 

ウッソが言った。

 

 

「手前に椅子を並べてますから、そこより先には絶対入らないで下さいね」

 

 

カテジナは返事をしなかった。

 

ウッソがどこからか持ってきた揺り椅子に座り、じっと窓の光を眺めている。

 

 

「火事になったら、大変ですから……」

 

 

サイド2のアメリアに、クロノクルが借りてくれたコンドミニアム。

 

きっと今もそこにあるのだろう。

 

その窓辺に見た空――空のあるべき場所にせり上がった大地。

そこに流れる光の川を、カテジナは思い返していた。

 

川底のガラスを抜けた宇宙空間から、ミラーがいざない降り注ぐ太陽光――。

 

それと、今地上で見ているこの光に、何か違いはあるのだろうか。

 

白濁したチョコレート色の瞳は、重力を逃れてルース商店を離れ、

広い太陽系を遊弋していた。

 

しかしときどき、大きな物音が現実へと呼び戻す。

 

 

――陳列棚を動かしているのかしら……空き缶を集めている。

 

  足音が遠くなって、水の音。続く足音、きっと拭き掃除。

 

  シュンシュンと音がし始めたのは、

  ストーブの上にヤカンが置いてあるんだわ。

 

 

そのたびに、カテジナは地球の重力圏にある肉体を自覚することになった。

 

先日まで店内に満ちていたマスの酢漬けの腐臭は、今はほとんど感じられなくなっている。

 

ウッソが部屋中を掃除して、窓を開けて空気を入れ換えたのだ。

 

 

「ウッソ君」

 

 

カテジナが呼びかけると、物音が止まった。

 

ウッソはじっと言葉を、待っている。

 

 

「ゴトラタンのメガ・ビームキャノンは強力よ」

 

 

――私は何を喋っているのだろう。

 

 

ウッソの用意した、それなりにバランスの良い食事と、

マグカップに、薄いたっぷりの紅茶。

 

それとストーブの暖気によって、カテジナのくちびるは、

しなやかな湿度を取り戻していた。

 

そのくちびるが、上の空で言葉を紡ぐ。

 

甦った生気が、カテジナの無自覚の思考を漏出させていた。

 

 

「あのときあなたは、とっさに光の翼をビームシールドに流し込んだわね。

 でもシールドのIフィールドが、干渉を起こすことも考えられたはず。

 

 そうなれば、そこにできた隙間を私は狙撃できた。位置的には、左肩の部分ね。

 メガ・ビームキャノンなら、そこからでも機体を大破させるだけの威力があったわ」

 

 

ベスパによるV2の分析は、かなり進んでいたのだ。

 

真面目な尉官であったカテジナは、技術官からたびたびレクチャーを受けていた。

 

ただあまりにも素早い戦況の変化が、

その情報に対して新たな戦法を編み出すだけの時間を与えなかった。

 

 

「ビームはコックピットブロックに穴を開けたかもしれない。

 あなたは光に包まれて、視力を失って。そんなあなたを、私は拾ったのかしら……

 拾ったかもね。白いやつを墜とすことでクロノクルの手向けはできたのだし、

 クロノクルは……」

 

 

言葉はそこで途切れた。

 

どうしても口にできない言葉が、その先にあったからだ。

 

 

「………………」

 

 

ウッソはバケツを床に置いて答えた。

 

 

「V2のビームシールドを制御するIフィールドは、

 全方位に無段階の偏向調整が出来ます。

 

 だからあのときは、側面を完全にオフにしたんです。

 そうすれば干渉は起こらずに、光の翼を巻き込んだビームが……」

 

 

そこまで言ってしまって、ウッソは後悔した。

 

冷たい知識を組み立てて、それを誰かに伝えたい――そういう欲求をとっさに抑えるには、

ウッソは賢すぎたし、また幼すぎた。

 

しかしその幼さを、悲しいことだと思えるほどには、成長している。

 

ウッソは再びバケツの取っ手を掴んだ。

 

 

「カテジナさん、僕たちはもう民間人でいいじゃないですか。

 過去はくつがえらないけど、そういう話じゃないんです。

 無理に掘り返すことは違いますよ」

 

「そうね。そうかもしれないわね」

 

 

それからは、あまり話をしなかった。

 

掃除と夕食の用意を済ませると、ウッソはストーブのヤカンを下ろして、

カサレリアに帰って行った。

 

 

 

………………。

 

…………。

 

……。

 

 

 

カテジナは、あのウーイッグ空爆があってから、

初めて店の奥に――自分の家の中へと向かっていた。

 

爆撃から逃れた家は、何も変わってはいない。

 

ただ、階段の手摺りには埃が降り積もっているようで、奇妙にさらさらしていた。

 

乾いた手のひらを擦り合わせると、

ダマになったものがぱらぱらと足下へ落ちるのが分かった。

 

手探りで部屋に入り、壁づたいに歩いて引き出しを開くと、

替えの下着を売り物のトートバッグに入れた。

 

服は――ニットのワンピースがあったはずだ。

 

あれなら手探りで見つけられるし、目が見えなくとも不自由なく着られるだろう。

 

暖かさも申し分ない。夜着に着替えるような余裕は、まだなかった。

 

バスタオルを調達するのには少し苦労した。

 

リネン室に足を踏み入れることは、ほとんどなかったからだ。

 

いつもはメイドが用意してくれていた。

 

 

――デニサはどこかで生きているのかしら。

 

 

母の命よりも、先にメイドのことが頭に浮かんだ。

 

 

――確か彼女は、買い物に出ていたんだったわ。

 

 

バスタオルを2枚と、ハンドタオルをトートバッグに入れると、

階段を降りて、台所のタライを探した。

 

これはあっさり見つかった。

 

台所に入るなり、足にぶつかったからだ。

 

広いシンクにタライを置いて、お湯を注ぐ。

 

心配性の父は、ベスパの地球侵攻の噂が流れ始めたときに、

前の住人が使っていたらしい中庭の井戸を、業者に再掘させた。

 

それを電動ポンプで汲み上げて、台所の水道で使えるようにしたのだ。

 

もちろん大容量のガソリン発電機も設置した。

 

そこまで準備をしておいて、

イエロージャケットとのパイプも作ろうとあれこれ手を尽くし、

 

 

――私には家族を守る義務がある!

 

 

その挙げ句に爆撃で消し飛んだ。

 

それを思うと笑いたくなってしまうのだけれど、

もしかすると、笑うと泣いてしまうのかもしれなかった。

 

カテジナはいつも、自分の心が分からない。

 

発電機は、今日ウッソが使えるようにしてくれていた。

 

ガソリンはリガ・ミリティアの工場跡で、焼け残った缶をたくさん見つけたらしい。

 

中庭に設置された発電機は、給湯器と一体型になっているので、

こうしてお湯を使うこともできる。

 

台所では狭いから、カテジナはお湯を張ったタライを慎重に売場まで運んだ。

 

ウッソが陳列棚を隅に寄せてくれているから、広くスペースがとれる。

 

外からは丸見えだろうけれど、ウッソが帰ってしまえば、店の前を通る人間などいない。

 

第一、真っ暗だ。

 

 

「……ふ」

 

 

久しぶりに服を脱ぐと、外気に肌がちくちくした。

 

肩や腰に触れると、下着の痕が深くなっていて、

意識の曖昧なうちに過ぎ去った時間の長さを感じさせた。

 

化繊技術の発達した現代、服はとても汚れにくくなっているけれども、

鼻に当てると濃いにおいが感じられる。

 

そういうことに気を回す余裕が、カテジナにも生まれ始めていた。

 

すっかり裸になると、その場に屈んで、ハンドタオルを湯に浸した。

 

揉むようにして頭の地肌を洗い、痛んだ髪をハンドタオルで挟んで、梳くようにして。

 

顔は手で直接、お湯を掬って洗った。

 

静かな店内に響く水音。

 

お湯は、髪の脂のにおいがした。

 

それでも髪を洗って、顔の垢と埃を落とし、絞ったハンドタオルを押し当てて拭うと、

ずっと靄のかかっていた意識に、風が吹き抜けるような心地がした。

 

 

――生きているし、生きたいんだわ。

  粘着質だ。これは生き汚いということだ……。

 

 

それでも、カテジナは自分の肉体が発散する生気に、どこか頼もしさを感じざるを得ない。

 

それは初めてモビルスーツを駆って宇宙を飛んだ、あの感覚にとてもよく似ていた。

 

 

「…………!」

 

 

不意に、白い光が走った。

 

カテジナは屈んだまま、素早くバスタオルで体を覆った。

 

ワッパの音だ。ウッソが帰ってきたのだろうか。

 

光が消えて、ローター音がやんだ。

 

足音が近づいてくる。

 

ゆっくり――とてもゆっくりと近づいてくる。

 

扉がノックされた。

 

 

「ごめん下さい」

 

 

その声を聞くと、奇妙なほどに胸が熱くなって、懐かしさがこみ上げた。

 

 

――バカな。

 

 

こんな感情はおかしいのだ。

 

あの最後の戦場では、この声を聴いて頭を抱えたのではなかったのか。

 

 

「こんばんは。お久しぶりです……シャクティ・カリンです」

 

 

カテジナは、胸の奥からこみあげる切なさをこらえた。

 

 

――魔女の娘だ。呑まれてはいけないんだ。

  カガチのリングのまやかしだ。

  どうして私の人生には、おかしな子供が絡みついてくる!

 

 

カテジナの脳裏に、いくつもの言葉が駆け抜けていく。

 

 

――もともとの平和とは、魂がそれぞれの家に戻ることでありましょう。

 

 

あのリングの、温かい光に乗って漂ってきた言葉。

 

 

――ああ、ここからもう少し南ですけど、

  うちにコンパスのスペアがありますから……。

 

 

あのときあの少女は、

 

 

――どうなさいました?

 

 

どんな顔をしていたのだろう。

 

 

「……どうなさいました?」

 

 

過去の言葉が、現実の今と重なった。

 

シャクティの声は少し震えているようだった。

 

 

「……いえ」

 

 

少女の震えを感じ取ると、カテジナは次第に冷静になってきた。

 

 

――なんで私が小娘に怯えなければいけないんだ。

 

 

カテジナは今、裸だ。

 

しかし裸というのは、本当の意味で人間の最も弱い姿だろうか。

 

カテジナは服を脱いで、空気に素肌を晒して、自己の発散する生気を感じ取った。

 

それはカテジナひとりの肉体の中で、完結する流れではない。

 

自身の存在感を、放射するということなのだ。

 

そう考えると、カテジナは自信をつけるのを通り越して、

少し嗜虐的な気持ちまで湧き上がってきた。

 

身体を隠すバスタオルを、静かに払い落とした。

 

 

「入っていらっしゃい」

 

 

色を含んだ声に、自分でも驚いた。

 

 

「失礼します」

 

 

銃撃に歪んだドアがギイと鳴って、控えめな足音が入ってきた。

 

 

「電気をつけてもいいですか? 何も見えなくて……」

 

 

発電機が動いていることは、ウッソから聞いているらしい。

 

 

「好きにしてちょうだい。スイッチはカウンターの向こうよ」

 

 

足音が通り過ぎる。

 

しばらくするとパチリと音がして、視界にフローリングの色が差した。

 

ぎしっ、と床板が鳴った。

 

 

「ご、ごめんなさい、ご入浴中だとは分からなくって……」

 

「構わないわ。別に見られて恥ずかしい身体ではないつもりよ」

 

 

嗜虐的な気持ちというのは、こういうことだ。

 

カテジナは重い髪を左手で持ち上げて、うなじをハンドタオルで拭った。

 

タオルは絞らずに――湯が背中のラインに沿って垂れるのを感じる。

 

それからゆったりと背を反らして、喉の下を拭いた。

 

湯の筋が乳房の間をつたう。

 

カウンターの向こうで少女が(おのの)くのを微かに感じながら、

カテジナは大輪の薔薇のように生気を発散していた。

 

手首を返すようにして、喉元からわき腹へ、ハンドタオルをすべらせた。

 

静かに舞うように、自分の肉体を少女に見せつけた。

 

 

「背中を拭いてくれるかしら……シャクティさん」

 

「……はい」

 

 

おびえたような足音。

 

それでも近づいてきて、小さな手にハンドタオルを渡して、それから静かな水音。

 

ときどき淡い光の中に少女の影が差す。

 

温いハンドタオルが、カテジナの肩に触れた。

 

おずおずと、まるで赤子の頬を拭うように、ハンドタオルがすべってゆく。

 

自分の女としての熱量が、そのハンドタオルを貫いて、

働き者の少女の指まで、深く深く沁み通ればいいと念じた。

 

久しぶりに愉快な、爽やかな気持ちだ。

 

それでも、タライの湯の汚れていることを想像すると、苦々しい気もした。

 

 

――私はクロノクルに愛された、美しい女だ。

  それが汚れきって、美しい少女に介護されている。

 

 

奇妙な状況に沸き上がってくるもやもやした感情に、

カテジナは不思議と自分らしさを感じる。

 

ベスパ空爆以前のカテジナ・ルースは、

ずっとこういう感情の狭間を生きていたのではなかっただろうか。

 

 

特別区居住権という特権が嫌いだ――不法居住者が嫌いだ。

 

暴力だけの戦争が嫌いだ――こんな街は滅んでしまえばいい。

 

自由が欲しい――やりたい事なんてない。

 

居場所が欲しい――どこにも居たくない。

 

まとわりつかれたくない――愛されたい。

 

 

その混沌を貫いて、大きな手のひらを差し伸べたのがクロノクルだった。

 

クロノクルは、瞬く間に矛盾の霧を晴らしてくれた。

 

 

ベスパの正規パイロットになり、軍の少尉という身分を得た。

 

マリア主義のために戦った。

 

モビルスーツは手足のように動いて、やりたいことは何でもできた。

 

クロノクルが私の居場所になった。

 

私は――愛された。

 

 

クロノクルがカテジナの道になった。

 

清潔な、迷いのない道へ――。

 

 

「私、カテジナさんとウッソが一緒にいると思うと、不安になるんです」

 

 

シャクティの言葉に、カテジナは現実に呼び戻された。

 

壊れた街で、裸でいる自分へと。

 

シャクティは、ひとり呟くようにして続けた。

 

 

「でもそれは戦争が終わって、リガ・ミリティアもザンスカールも

 無くなってしまったから、感じられる不安なんだと思っています。

 この不安は……平和の証でもあるんだって……そう思うんです」

 

 

――マリア・ピァ・アーモニアの娘だ。

  きっと、いつまでもそんなことばかり考えているのだ。

 

 

だから、そんな少女の言葉を卑近なものに貶めてやりたくなった。

 

 

「あなたはウッソが私にとられると思っているのね」

 

 

ひどく攻撃的な言葉だとカテジナは自分で思ったけれども、

そう的外れなものではないはずだ。

 

シャクティの意識からザンスカールの姫君を拭い去って、

裸のカサレリアの田舎娘にしてしまえば、そこに残る意志はそれくらいのものに違いない。

 

それでも、小さな手に身体を丁寧に拭われているうちに、

肉体で圧倒してやろうというような気持ちや、

汚れた湯を少女に見せることへの苦々しさは薄れていた。

 

カテジナの不安定な心境が移り変わる狭間に、シャクティは何を思うのだろう。

 

 

「カテジナさんがウッソを自分のものにしようと思えば、そうなります」

 

 

ハンドタオルを絞る水音と、短い沈黙。

 

 

「だって、ウッソの光の翼が、あなたの眼を灼いたのだから」

 

 

ふたたび、背中に暖かいものが触れた。

 

 

「………………」

 

 

何か言い返さなくてはならない。

 

可哀想な女にされたままではいられないと思った。




カテジナとシャクティの関係は、とてもデリケートなものがありましたね。

ウッソの想い人とその幼馴染というだけではなくて、
カテジナが苦々しく思っているであろう、昔ながらの女らしい素養を、
シャクティが少女ながら如何なく発揮していたからでしょうか。

そしてそういうカテジナの視線は、シャクティ自身も感じていたと思います。
「カテジナさん、赤ちゃんが嫌いなのにね……」というモノローグには、
そういったせめぎ合いが垣間見えるようです。

宇宙に上がってからは、腹パンかましたりしてましたが。

ふたりのコミュニケーションは、次回に持ち越しです。

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