月に襲来する狂オシキ鬼。
何も知らない月の民は、最悪の運命を拒否権なくたどり始める…
第26話「激昂」
―月―
月―――人類がそこに初めて足を下ろしたのは1969年のアポロ11号である。地球の周りを回り続ける、一種の衛星である。そこには地上の人々が知らない、月の民なる者が住んでいるのである―――
その月に降り立つ者がいた。ここまで地上を恐怖に陥れ、さらには有力者達も退けてきた狂オシキ鬼だ。殺意リュウと激突後、すぐに次の行動に移っていたのだ。その体に傷は一つも見当たらない。傷を負わなかったのか、それとも癒えたのか、それは定かではないが、今狂オシキ鬼の体調は万全だった。
何もなく、クレーターが広がる土地を狂オシキ鬼はずんずん進んでいく。しばらく歩いてその目に止めたのは、結界の向こう側にある都市だった。
月の都―――地上より500年ほど進んだ技術を持つ、月の民唯一の居住地。ここに住む者達全てが、ある理由によって高寿命を持ち、人口は増加の一途をたどり続け、発展を続ける都市である―――
狂オシキ鬼に迷いはなかった。無言で月の都を守る結界に近づき、まずはそっと結界に触れる。結界に手が触れた途端、手がビリッとしびれる感覚がして、反射的に手を引っ込める。やはりよそ者の侵入は拒むようだ。
狂オシキ鬼は両手を伸ばし、結界にもう一度触れる。しびれる感覚がするが、構わず力を入れ、結界を無理矢理こじ開けた。そして素早く結界の内に体を入れ、両手を結界から離した。結界は少しずつ狂オシキ鬼が開けた穴を塞いでいき、やがて完全に塞がった。
狂オシキ鬼は結界の様子を見ることもなく、月の都の出入り口となる門まで近づいた。狂オシキ鬼は門を開けようと試みるが、門には閂がかけられているらしく、押しても引いても動かない。
次の瞬間、狂オシキ鬼は門を右足で思いっきり蹴飛ばした。門は爆弾が爆破したかのように木っ端みじんに砕け散った。当然その音は大きく響き、何事かと月の都の住人達が門に集まってくる。
門は砂煙に包まれ、その形を認識できなくなっていた。すると、砂煙の中から1つの影が見えた。それは明らかに門ではなく、人でもない生き物の影だった。月の民は少しだけ後ずさりする。そして狂オシキ鬼の姿が砂煙から出てきた時、背を向けて逃げ出した。
「た、大変だ―――!!」
逃げる月の民の一人が大声で叫ぶ。その叫び声は月の都全土に響き渡った。
―宮殿―
月の民の中でも高位の者が住み、政治などを行う宮殿では、既に侵入者の報を受けて役員が忙しく対応に当たっていた。
「侵入者は地上の鬼とみられる、各自、早急に対応に当たれ!!」
役員の1人が指示を飛ばす。宮殿内は月の都を守ろうとする人が忙しく走り回り、声をかけられるような状態ではなかった。
その中でも、月の都の防衛を担当する綿月姉妹が一番忙しくしていた。姉の豊姫、妹の依姫は自分たちの部下である玉兎に通信で緊急の作戦を命じていた。
「ああ、そうだ。侵入者の勢いをまずはその広場で削ぐんだ。そこからは私と姉様が侵入者の相手をする。…もちろんだ、できれば援護をしてくれ」
依姫は落ち着いて通信をしていた。侵入者は1名、数でならこちらが圧倒的だ。ならばそれを利用して侵入者の体力を削っていく作戦だ。急な事態なので、玉兎が集まらなかったのは致し方ないが、ないよりはずっと戦況が良くなる。
依姫が通信を終えると、豊姫が声をかけた。
「依姫、準備できたわよ」
侵入者に対する戦闘準備を済ませた所のようだ。
「姉様が真面目なのは珍しいですね」
豊姫は普段仕事がない事から、桃を食べたり読書したりと天真爛漫な部分が生活に現れている。
「全くだ、私が『動かない』と言った記憶がないが…」
豊姫の背から声をかけたのは、綿月姉妹よりも上位の役員、稀神サグメであった。
「サグメ様! 珍しいですね…」
依姫が驚く。よほどの事がない限り人前に出ることのないサグメが、今目の前にいる。だがサグメは、依姫の言葉を聞いても返事を返さなかった。
「相変わらず無口なのは変わらないわね、サグメ」
口に出すと事態を逆転させる程度の能力―――サグメの能力で、その名の通り、サグメが口にした何らかの事象は全て逆に進み始めるというもの。世界の動きを反対にできる強力極まりない能力だが、かなりややこしい条件がついている。
・能力者本人(この場合はサグメ)が、事象の当事者に対して、その事象について語らなければ発動しない。
・逆転する事象を選ぶことはできず、能力者にとって都合の良いこと、悪いこと関係なく同時に反転してしまう。
・既に起きた事の逆転は不可能。あくまでも変えられるのは「運命の車輪」、つまりは「流れ」のみ。
・言ったことと正反対の事が起きる能力ではない。あくまで事象を語る事が能力発動条件なので、どんな内容を言ったかは関係がない。
これらの条件、さらに能力の制御ができないためにサグメは無言を貫くしかないのである―――
サグメは表情で綿月姉妹に訴えかける。珍しくて悪かったな、と。
「そのにらむ目つきはやめてよ、サグメ。今はそんな気がそれる事をしている場合じゃないのは分かっているでしょ?」
豊姫がサグメをなだめる。サグメは冗談だ、という表情をした後で
「気をつけろ」
と小さく言った。
「もちろんだ」
依姫は宮殿を去りながら、小さく言った。
宮殿を出て間もなく、依姫の通信機に通信が入った。
「もしもし?」
依姫が通信に出る。豊姫は通信機に耳を当てて話を聞く。
「依姫様ですか!? 私です、レイセンです!」
通信の向こうの声は、焦っているようだった。
「どうしたの、レイセン?」
レイセンとは、綿月姉妹の部下の玉兎、それも綿月姉妹とは関係の深い玉兎である。そのため、お互いを名前で呼ぶ仲である。
「た、大変です! 侵入者が強すぎて、兵士の皆さんが…第1部隊が、全滅しました!」
レイセンの声は2人の耳にしっかり届き、2人を驚かせた。
「な、なにっ!?」
「今すぐに行くわよ、依姫!」
豊姫は走り出した。依姫も通信機を投げ捨てて後を追う。
「ぐあ!!」
狂オシキ鬼は群がる兵士達を次々に倒し、月の都の宮殿向けて着々と進行していた。狂オシキ鬼にとってはやはり月の都の兵士達は相手にならなかった。皆同じように狂オシキ鬼に突っ込んでくるだけで、そこに何の工夫もなかったのだ。狂オシキ鬼は迫り来る兵士達を倒しながら、どこか物足りなさを感じていた。
「あ…ああ…助けてくれ…」
まだ息のある兵士が狂オシキ鬼の足元で手を伸ばす。その手を狂オシキ鬼は血も涙もなく踏みつけた。兵士の手がつぶれ、血があふれ出す。
「ぎいやぁぁぁぁ!!」
兵士が叫び声を上げるが、狂オシキ鬼に慈悲はなくその場を去って行った。
あらかたの兵士が片付くと、月の都は静まりかえってしまった。一般民は全員避難してしまったのだろう。あるのは残酷に横たわる兵士達だ。
狂オシキ鬼は兵士達を乗り越えて宮殿を目指す。宮殿にたどり着くにはその前にある通路、広場を通らなければならない。狂オシキ鬼は最初の広場まで来ていた。
広場には、簡単に作られているバリケードが複数ある。狂オシキ鬼がそのバリケード数メートルまで近づくと、その後ろから玉兎達が銃剣を構えて出てきた。
「総員、撃て!」
銃剣から次々と銃弾が撃たれる。だが狂オシキ鬼は爪でいともたやすく弾をはじいてしまう。
「う、嘘っ!? 銃弾を、爪で跳ね返すなんて…!」
玉兎達も狂オシキ鬼の動体視力には驚くしかなかった。銃弾が飛んでこないのを確認すると、狂オシキ鬼は前のめりになって一気にバリケードへ近づく。玉兎達は銃剣を握りしめて構えるが、その構えは狂オシキ鬼の前では意味なきものと化した。ある玉兎は正面から切り裂かれ、ある玉兎は頭が地面と拳のサンドイッチにされ…広場の部隊は、ものの数分で全滅した。
狂オシキ鬼は無言で動力を失った玉兎達を蔑むような目で見ていた。その表情には何か怒りに似たものが感じ取れた。
狂オシキ鬼が宮殿に続く道を見ると、そこにはただ1人怪我をしていない玉兎がいた。レイセンだ。レイセンは銃剣を構えながら震えていた。狂オシキ鬼の姿に恐怖しているのではなく、数分で部隊を全滅させた狂オシキ鬼に勝つことなんてできるわけがないという、死の恐怖だった。
狂オシキ鬼はレイセンにも敵意を向けるように構えた。そしてレイセンに推すように言った。
「恐怖に打ち勝てぬ者よ、潔く死合いの場より失せよ」
狂オシキ鬼がさらに近づいてくる。のしのしと近づいてくる狂オシキ鬼に、レイセンはただ銃剣を構えるだけだ。今にも泣きそうだ。
狂オシキ鬼の腕がレイセンの届きそうになったその時、突然辺りがまぶしい光に包まれた。
「『天照大神』!! レイセンを守れ!!」
神霊の依代となる程度の能力―――依姫の能力。神を自分の身に宿らせ、力を使役する事ができる。本来は正式な手順を踏まなければ不可能な事をすぐにできる。さらに宿せる神は八百万であり、あらゆる事態に対応できるため、万能である―――
狂オシキ鬼は光で顔を手で隠し、レイセンの姿を見失う。レイセンはその隙に下がる。
狂オシキ鬼の目が光に慣れてくると、そこには綿月姉妹が立ちふさがっていた。
「これは…なるほど、兵士を全滅させるだけの力があるわけですね…地上の鬼もここまで落ちましたか」
依姫は長刀の先を狂オシキ鬼に向けた。目もぎらりと狂オシキ鬼に負けないほどにらむ。その目は明らかに狂オシキ鬼を蔑む目だ。豊姫の目も狂オシキ鬼をにらむように細くなった。そして扇子を広げる。
豊姫の扇子―――実はこの扇子、うちわのように扱うものなら世界が滅びるというおっかない物で、この扇子で起こす風は森を一瞬にして素粒子に分解してしまう力があるのだ。そのため、むやみに使えば何もかもが分解されるため、豊姫が大事に持っているのである―――
「…へえ、確かに力はあるようですね、でもここまでです」
豊姫はわずかに笑みを漏らす。この程度の相手なら勝てる、そう確信していた。
だがその確信が、最大の慢心を生もうとは、この時気づいていなかった。
「…オオ…」
狂オシキ鬼の声が濁ったようにこもる。次の瞬間、綿月姉妹はこの世の者とは思えぬほどの咆哮を聞いた。
「オオオオオオオ―――ッ!!!!!」
狂オシキ鬼の咆哮は、月の都の結界に当たってこだまするように響き渡った。
「!?」
狂オシキ鬼の咆哮は、サグメの耳にも届いていた。そしてその咆哮を聞いたサグメは、最悪の結果を頭に浮かべてしまった。
(…!!! まずい!!)
サグメは駆けだしていた。早く行かなければ、月の都が滅びると。そしていくら月の民が地上に逃げても、侵入者は死ぬまで追いかけてくると―――
「!!?」
綿月姉妹が足を一歩引く。それもそのはず、狂オシキ鬼が咆哮した途端、殺意の波動が燃え上がるように狂オシキ鬼の体に纏わり始めたのだ。その瞬間が綿月姉妹にはこう見えていた。
(な…何なのよこいつ、なんて穢れを…地上の穢れ全てを吸っても、ここまでのものになるか…!)
(な、何という穢れ…このままでは、月全土があっという間に穢れに覆われてしまう!!)
穢れ―――生命現象における生と死のこと。つまり、人間や妖怪の寿命による死などがこれにあたる。先ほど書いた月の民の高寿命は、これがないことによるもの。月の民が最も嫌うものである。そのため、月の民にとって地球は「重大な犯罪をした者が送られる監獄」と位置づけられている。豊姫いわく、穢れだらけの土地(いわゆる幻想郷の土地)はその地に生きるだけで罪なのだという―――
狂オシキ鬼が穢れの塊だと言うのは考えてみれば当然、殺意の波動が明らかに生死に関わるものだからだ。だが綿月姉妹は地上の事態を知らなかった、だから狂オシキ鬼の力加減を知っていなかった。しかも狂オシキ鬼が外の世界の者である事も知らないため、地上の者だと勝手に決めつけて知らぬ間に見くびってしまったのだ。
「無知な汝が、我を退けると言うか! ならばその身、果てるが定め!!」
綿月姉妹の狂オシキ鬼に対する態度が、狂オシキ鬼の逆鱗に触れてしまったのだ。狂オシキ鬼の言い方が、完全に激昂している。もう彼女たちを許す気はない。灰になるまで死合う事を心に決めている。
「ぬうあっ!」
狂オシキ鬼が怒り狂った猛牛のように依姫向けて飛び込む。止まって直立の体勢から移行できるとは思えないほど体勢が前のめりになっていた。
「うっ!?」
依姫がとっさに刀を上げて防御しようとするが、狂オシキ鬼にはその動作が丸わかり、勇儀にも仕掛けたフェイントの切り裂き攻撃が依姫の背中に決まった。
「がっ!」
依姫は長刀を手から放し、うつ伏せに倒れた。背中からは血が吹き出ていた。
「依姫! くっ!」
豊姫は周りの建物を巻き込む覚悟で扇子を使おうとする。だが依姫を切り裂いた狂オシキ鬼は、その切り裂いた場所から既に横に移動していた。
(速すぎる…っ!!)
明らかに狂オシキ鬼の動きが機敏になっていた。大きな体からは予想もつかないほど豊姫の視線から外れるように素早く移動する。これではいくら風で狙いの補正ができても、当てるのは難しい。豊姫は今、狂オシキ鬼の動きに目を合わせるだけで精一杯、動くことができなかった。
そしてついに、狂オシキ鬼の動作が豊姫の動体視力を上回った。まず豊姫の腕がギリギリ届くか届かないか絶妙な位置まで潜り込み、拳で地面を突く。足場にひび割れが一気に入り、豊姫のバランスが崩れる。豊姫は反射的に背を丸めてしまう。ダンゴムシのように頭を前のめりにして丸めたため、頭は狂オシキ鬼の眼前にあった。
その格好は狂オシキ鬼にとって絶好のチャンスだ。まずは顔面向けて上空に突き刺すように殴り飛ばす。すると豊姫の体は回転して真上に飛んでいく。落ちてきたところを右足で思いっきり蹴飛ばす。豊姫の体はさらに飛び、背中から地面に着地する。
狂オシキ鬼は両手を波動拳の構えにして電気を帯びる。そして素早く溜め終えて発射する。電気を帯びた波動拳は豊姫の背中を的確に捉え、感電した。
「うあっ…!!」
豊姫も扇子を手からこぼす。すぐに立ち上がろうとするが、体がしびれて立ち上がれない。
狂オシキ鬼は抵抗する力を失いかけている綿月姉妹を腕ごとがっちりと体を掴んだ。
「ぐっ…あっ…!!」
背中に切り傷を負った依姫と、感電して体がうまく動かせない豊姫の体は簡単に持ち上がった。足をばたつかせるが、それは陸に上がった魚が最後の抵抗ではねているのと同じ事でむなしいものだった。
「やあああ!!」
突然、狂オシキ鬼の背後から声がする。振り向くと、レイセンが銃剣を向けてこちらに突進してきた。尊敬する綿月姉妹を置いて逃げるわけにはいかなかったのだ。
だが今の狂オシキ鬼にそのような赤ちゃんでもできる攻撃が通じるはずもなく、狂オシキ鬼はレイセンの腹を蹴飛ばした。レイセンは吹っ飛び、強烈な腹痛が襲いかかってきて立ち上がることもできなくなった。
狂オシキ鬼はレイセンが動けなくなったのを確認すると、綿月姉妹を一つにするように両手を合わせ、そのまま真上に放り出した。そして右手を高々と上げて言った。
「我が力、万界に満ちたり!!」
その瞬間、右手に殺意の波動に満ちた波動がたまっていく。その波動を握りしめ、大きく振りかぶった。
「…っ!」
サグメが到着したが、既に手遅れ、狂オシキ鬼は右手を地面にたたきつけた。右手の波動が炸裂し、2人を遙か上空に吹っ飛ばす。
そして全身に真っ黒な気を纏い、吹っ飛ばした2人を追いかけた。もう止められる者はいなかった。
「死屍凄愴、此処に極まれる!!!」
上空に吹き飛んだ綿月姉妹は、串刺しのように2人縦に並んでいる。そこに狂オシキ鬼がものすごい勢いで背中に昇龍拳をたたき込む。真っ黒な気が2人の胴体を貫いた。
月の都の空に、真っ黒な『天』の文字が刻まれた。だがそれを知っているのは、無情にも月の民だけである―――