三、
最近、皆がおかしい。
最初にこの間の紫がそうだ。お花見の最中に、気が気で無い様子で酒もいつもの半分も飲んでいなかった。
次に妖夢だ。博麗神社から紫と二人で帰ってきたのは良いが、それでもまだ妖夢は帰ってきていなかった。お茶や寝床は幽霊が準備してくれていたが、それとは別問題だ。
しょうがないので、今日の茶菓子は絶対に美味しい物を出してもらおうと、幽々子は思い、妖夢が剣術の修行を終える頃に彼女に伝えた。
文句を言われたばかりだったので、今回は驚かすのを諦めたのだが、妖夢は幽々子の行動に構えていたようで拍子抜けした表情をしていた。次回は、また驚かせるつもりだ。
「もう少ししたら、妖夢も来るかしらね」
幽々子は立ち上がる。
ひとまず部屋の障子を開け放ち、なるべく外の風が入るようにした。冬に閉め切られた部屋に、めいっぱい春が入ってくるようにすると、気分だけでなく環境にも春が伝わる。
先日の晴れの日、布団が干し上がった時は嬉しかった。日を浴びてたっぷり空気を含んだ布団に潜り込む時の幸せは、美味しい食事の時にも匹敵する。
結局、昨日の酔いはほとんど残らなかった。疲れてもいないので、紫との待ち合わせまではゆっくりと過ごそうと思う。
春の緩慢な時間の経過が、幽々子は好きだ。
四季の中で一番今が好きで、きっと桜の下の子と紫とでこの時期を一緒に過ごしたりすると楽しいだろうと思って、幻想郷から春を集めた。
結論は、やはり西行妖は満開にならなかった。
それでもあれだけ奇麗だったのだから、満開になればきっと、その魅力に誰もが惹かれる桜になるのだろう。
毎年、春に白玉楼では西行妖以外の桜は、満開に花開く。
以前、幻想郷の取材をして観光名所の地図を作ると告げた記者が来てから、花見客は更に増えた。今では幽霊、亡霊、その他幻想郷の生き物が白玉楼の花見を楽しみにしているようだ。
だけど、実は幽々子はどんちゃん騒ぎではなく、静かに縁側から花を見ていたかった。
静かな、それでいて優しい春を静かに見ていたかったのだ。でも、それは叶えられない。
「勿体無いのよねー」
幽々子は呟きながら、屋敷の襖をどんどん開いて行く。春の陽気と一緒に、桜を見に来た物たちのざわめきが建物に段々と混ざりだす。
こうした雑多な様子も嫌いではないし、昨日のような騒ぎも悪くない。ただ、ここではゆっくりと過ごしたかった。
一番美しい季節に、思い通りの桜が見られないのは少し、悲しい。
紫には、自分の我侭が伝わっていたのだろう。そうでなければ改めて、花見をしようだなんて言い出さなかったに違いない。
今日も、朝から何やら用事があったようで、妖夢に呼び出されていた。ちょうど忙しい時は重なるのかも知れない。
歩むにつれて、履物を通して板張りの冷たさが足に伝わる。日差しがあっても、陰になる場所にはまだ冬が隠れていた。そろそろ本命の場所へと向かう事にする。
思う存分屋敷を歩き回って、とうとう台所にたどり着く。エプロン姿の妖夢が何やら皿に盛りつけているのを見つけた。
「妖夢ー」
声を掛けると、妖夢がにっこりと振り返った。
「丁度、蒸し上がったところですよ」
「沢山歩いたから、もうお腹ぺこぺこよ」
お皿には紅白の丸がいくつも乗っている。甘い餡の香りがふんわりと漂う。
妖夢は器と急須を持って幽々子の後ろに立つ。
「あとから参りますので、部屋にお戻りください」
「ええ。足も冷えちゃったし」
「外にいらっしゃったのですか?」
「ううん、屋敷の散歩よ。春だから色んなお部屋に風を入れようかと思ったの」
「ありがとうございます。まだ随分と部屋の空気もこもっていましたし、随分清々しくなるでしょうね」
外を見る妖夢の視線が、桜の辺りで止めた。きゅっと焦点を合わせる。
「今日は確か、紫様とお約束があったのですよね」
「そうよ。だけど、ちゃんとおやつも食べるわよ」
お腹をぽん、と叩いて幽々子が妖夢に言うと、彼女は笑顔で答える。
「分かってます、沢山用意してありますからね」
「温かいうちに、頂くのよ。先に行ってるわ」
幽々子はひらひらと手を振り、まっすぐ部屋に向かうことにする。
「お、まん、じゅうー」
妖夢の手作りは久々だ。嬉しくて部屋への足取りも軽やかだ。幸せなお茶の時間に、夕方はお花見だ。もやつく気持ちもあったが、楽しい事があるならば、今気にしても意味のない事だ。
開け放した襖を横目に、幽々子が部屋に戻る。あとは妖夢が来るのを待つだけだ。
「――あら?」
しかし、そこには見覚えの無い一枚の手紙があった。幽々子は、まだ温もりの残っていそうなその手紙を手に取る。嫌な予感がした。
自分は部屋を出るまで、こんなものは無かった。
「――幽々子様?」
開こうか迷っている間に、後ろから声が掛かる。妖夢が盆を持って立っていた。
「妖夢、この手紙」
「手紙ですか?」
「知らないならいいわ」
机の下で、そっと封を開く。見覚えのある達筆。――紫だった。
「――幽々子様?」
お茶を入れながら、妖夢が問う。
「先に食べ始めていてちょうだい。すぐ済むわ」
「は、はい――わかりました」
「まだ、時間は沢山あるから。たくさん」
そう言い乍らも幽々子は自分が文字を読み進めながら明らかに落胆しているのを感じていた。
紫の文字は簡潔に事実だけを伝えていた。
――霊夢の用事が長引きそう。
――少し遅れるけど、ちゃんと行くから。
楽しみの直前の焦らしは、随分と残酷だ。
目の前の美味しそうな食事にも、反応が鈍ってしまい、胸から何やら嫌な物が沸き起こる。
思わず胸元に手をやると、妖夢が心配そうにこちらを見つめている。
「幽々子様――、紫様からでしょうか」
「どうしてそう思うの?」
「急にお顔色が悪くなった気が、」
妖夢の言葉すら、癪に障る。
「――平気よ」
立ち上がろうとする彼女を手で制止し、幽々子は口の端だけを上げる。
「せっかく作ってくれたお茶が冷めちゃうから。気にしないで、ね?」
笑顔は上手に作れていただろうか。
――今ばっかりは、自信が無かった。
*
食事に手が伸びない幽々子を、妖夢は久々に見た。
台所に浮かれて顔を出した彼女の面影は、とうにどこかに消えてしまっている。
原因は、あの手紙だ。幽々子も誤魔化すつもりではなかったようだが、恐らく紫からだろう。
幽々子をあそこまで一喜一憂させるのは、紫だけだ。
「幽々子様、お茶のお替わりは」
「まだ、大丈夫よ」
「は、……はい」
黙っていようとするが、いつもと違う張り詰めた静寂に度々話しかけてしまう。しかし、答えは宙ぶらりんで、会話として成り立たないまま、また部屋はしんとする。
外は、随分と日が陰ってきた。妖夢は、幽々子と紫の待ち合わせている時間を知らない。だが、その時間がもう迫っていることを感じていた。
視線の行き場を無くし、妖夢は庭の方を見る。
桜が、少し散り始めている。
「――夕方になっちゃうわねえ」
幽々子の声が、寂しい。
「まだ、外は冷えますね」
「春なのに、夜はまだ寒いわ」
二人の視線は合わないままだ。
「幽々子様、膝掛けをお持ちしましょうか」
「そんなに心配しなくとも、大丈夫よ?」
幽々子も庭の桜に視線を移した。
奇麗な桜色が風に煽られて、庭に散り散りの模様を作る。
今は奇麗だが、散った桜はだんだんと色を失い、最後にはまるで面影が無いように地に戻って行く。花だった頃を忘れられるのは、きっと桜も辛いだろうに。一瞬が終われば、桜は終わる。
「――幽々子様」
「なあに」
「あの、」
「大丈夫、聞くわよ。そう慌てないの」
躊躇する。幽々子はそれを見透かしたように、答える。
「紫様には到底及ばなくとも、この魂魄妖夢、常に幽々子様の元にいます」
「――知ってるわ」
「幽々子様、」
言っても何も変わらない。
でも、今まで思ってきた気持ちだ。
誰にも言わない、そして知られないと決めた。
ただ、本人は別だ。
「――私は、いつでも幽々子様の御心に添うことが出来ます。幽々子様が悲しむのは、嫌です。
もっと強くなって、安心して過ごせるように致します。――だから、そんなお顔は止めて下さい」
息が止まって、死ぬかと思った。
でも、幽々子がいつものように笑ってくれるなら、自分が苦しいくらいは良かった。
幽々子は自分の主人である以前に、かけがいのない存在なのだ。
だから、言った。
恥ずかしいなどはとうに超え、必死で上げていた顔ももはや地面とにらめっこだ。
だから、声が聞こえた時には――泣きそうになる。
「妖夢」
「はい」
「ありがとう――私ね、妖夢のこと、好きよ」
心臓の中で、血の流れを感じる。勢い良く体の中を駆け巡り、妖夢は頬が熱くて焼けそうになる。
「――はい」
「いつもね、側にいてくれて感謝してるわ。沢山我侭言ってるし、この間だって春を集めてくれた。妖夢じゃなかったら、私もあんなに安心して構えていられなかった」
結局は、負けちゃったけど。
幽々子の笑む気配が伝わる。
「実はね。西行妖がもし咲いたら、静かに、もちろん妖夢とも一緒にお花見したかったの。いつも色々世話掛けてるもの」
「そんなこと、ありません」
気を緩めれば、きっと一気に塞き止めていたものが溢れそうだった。顔を下ろしたままだと、もう涙が我慢できない。
妖夢は幽々子を見る。幽々子と瞳が合う。
今だけは、春も桜も目に入らない。
「だから、心配かけちゃって、ごめんね」
「――は、い」
「ほおら、妖夢。だから、ね?」
幽々子がすっと立ち上がる。
体に電流が走ったように、妖夢はびくりと跳ねる。
「いい子」
頭上で囁かれた声。
妖夢の頭の上に乗せられた手が、髪の上を滑って行く。春よりも暖かい、幽々子の手だ。
「――よしよし」
袖をぐっと目蓋に当てる。
狡い、と思う。これは、反則だ。
――幸せすぎるじゃないか。
「幽々子様……っ」
「うん」
「ありがとうございます……。私、――わたしはっ」
「……うん」
「何があっても、一生、側にいます、から」
言葉にならない。出来ない。
幽々子の声が降るたびに、悲しさと幸せがマーブルになって押し寄せる。
「ありがとう」
「――はいっ……!」
妖夢はやっとの事で返事を返す。
消えない気持ちも、きっとこのままで進めると思えて、嗚咽しそうになる。
一生このままでいられたら、と思った事もあった。 だが、それは辛い。愛情を友情や親愛に誤魔化して生きて行けるほど、自分は要領がよくなかった。
それでも幽々子が応えてくれたことで自分の思いは、それだけでも救われる。
強い気持ちは、きっと自分を強くするのだ。
もう、甘えるのは終わりだ。
「幽々子様、私はもう、――大丈夫です」
「――ええ。妖夢が強いの、知ってるわ。私の自慢の子なんだから」
「はい」
自分の我侭はもう、終幕だ。
さっきから幽々子を待つ気配がしている。彼女は桜の元に向かい、自分はそれに添う。
自分は西行寺幽々子の従者だ。迷いは無い。
「――桜、一緒に見に行きましょう」
「――それを幽々子様が望むのなら、この魂魄妖夢、どこへでも参ります!」