翌朝、オレは猛烈な空腹感で目が覚めた。
そういえば夕飯を食べていない…。
そして、部屋中に満たされたこの朝飯のにおい…。思わず腹が鳴った。
セイランが立つ台所に行って声をかける。
「こんな事まで、悪いな…」
「あっ、おはようございます」セイランは顔を赤らめ伏し目がちで言った。
そんな顔をされるとこっちまで照れる…。
「おはよう…」
朝飯を済ませて、二人並んで洗い物をしている時にセイランが聞いてきた。
「隊ちょ…サクモさん」
…また戻ってる、ま、いきなりは無理な事は分かってるけど。
「今日の任務は?」
「あぁ、今日は無いな。午後、火影様の所に次の指令書を貰いに行くだけだ」
「そうですか…」
「…何かあるのか?」
「昨日…帰るなと言われたのですが、一度家に帰らないと…忍具も持って来ていませんし」
「…そうだな」確かに、身の回りの物は買い揃えられても、忍具はそう簡単にはいかない。
「これ終わらせたら、行くか…」
セイランの家は一晩で酷い有様になっていた…。
昨日オレ達が此処を出てから更に暴れたのだろう。
「お父さん…」
セイランは酔いつぶれて寝ている父親を起こそうとするが、オレはその手を掴んで首を横に振った。
あんな目にあっても父親は父親なのか…。
オレはこの時、一つの決意をすることになった。
忍具と身の回りの物を持てるだけ持って、セイランの家を後にした。
「荷物置いたら、ちょっと早いが火影様のところに行ってくるよ」
「これが次の任務だ」
オレは渡された任務指令書にざっと目を通した。
Aランク任務で、少なくとも三日はかかりそうか…
メンバーの中にセイランの名前は無かった。
火影様は昨日オレが「忘れ物を届けに行った」事をご存知なのに何も言わない。
オレはまだ迷っていた。
が、しばらく家を留守にするなら、やはり言っておかねばならない。
「セイランは今、私の家にいます」
火影様は何も言わず、ジロリと眼だけ動かした。
「身内を同じ班にしないという掟は承知しています。ですが」
「身内とは…お前、それは男としてケジメをつけてからの話だ。一緒に暮らしておるだけで編成を考慮したりはせん。まぁお前らが任務に身が入らんようになったら考えるしかないがのォ」
そう言ってから、もう一度オレを睨んで続けた。
「しかし、外聞の良い話ではない。ワシは聞いておらんことにする」
「そう言っていただけると助かります。任務に影響が出るような事は決して致しません。 ですが…」
「なんだ?」
「我が儘ついでにもう一つお願いが…」
「言うてみろ」
「以前任務で、火の国のアルコール依存症の治療をしている施設を訪れた事があるのですが…、火影様からそちらの施設に口利きしていただけないかと」
「セイランは承知しておるのか?」
「いえ、まだ話していません…、ですが、このままではあの父親は野垂れ死にするでしょう。私はそれでも一向に構いませんが、セイランが父親を見捨て私の所に来たと後悔するような事はさせたくないのです。必ず説得します」
「わかった。手配しておこう」
「ありがとうございます」オレは最敬礼で感謝を述べた。
「…サクモ、辛い役割をさせてしまったが…お前に頼んで良かったわ」
火影様は目を細めて微笑み、そう仰った。
「とんでもありません…」
オレは師匠の想いに触れ、胸が熱くなった。
家に帰り、しばらく任務で留守にする事と、火の国の施設の事を、セイランに話した。
聞いている間、彼女はぽろぽろと泣いていたが、あの必死に堪える泣き方で無くなったのがオレは少し嬉しかった。
「お前達親子は一緒にいたらダメだ。親父はお前に甘えようとするし、お前は堪える事しかできない…。お互いの為に親父さんにはしっかりと治療してもらうべきだと思う。だけど、出発はオレが任務から戻ってからだ。それまでは放っておいても死にゃしないよ。絶対に一人で家には帰るな」
セイランは泣きながらコクリと頷いた。
翌日からオレは三日間の任務に出た。
その間、オレは自分の心境の変化に驚いていた。
忍者にとって感情とは不要なものだと言われている。
しかしこの三日間オレは以前にも増して、「失敗はできない。必ず成功させて帰る」という意志が強くなっているのを感じた。
守りたい人がいて、帰りたい場所があるというのは、何も忍にとって悪いだけではないという事なのだ。
そして、任務完遂の報告に火影室を訪れたオレは、施設はいつでも受け入れ可能である事と、多忙を極める業務の傍らで、火影様が密かにオレの名前で移動の手配まで済ませてくださっていた事を知った。
「ありがとうございます…」オレは数日前と同じ様に、火影様に最敬礼でそう言った。
この方はどこまで大きいのだろう…。ここでどれだけ感謝の気持ちを述べたところで、オレの今の気持ちを言い表し尽くす事はできないだろう。
オレはこの方の弟子である事、この方が治める木ノ葉の里の忍である事を、改めて誇らしく思った。
この恩には、オレの命を懸けて、この方が治める里を守り、この方の意志を守る事で報いる事にしよう…。
翌朝、何も知らされていなかったセイランの父親は驚き、また少し暴れたようだが、オレが姿を現すと大人しくなった…。先日の恐怖が余程身に沁みついているらしい…。
セイランは暴れている父親を見て手を震わせていたが、一行が出立すると、いつまでも頭を下げていた。
「会えなくなる訳じゃない。寧ろ、これがゆっくり会える日の始まりだと思えばいいさ」
オレがそう言うと、セイランは顔をあげて微笑んだ。
しかしこの数日後、一通の手紙がまた彼女を悲しみへと落とした。
施設に入った父親は検査で肝臓に異常が見つかった。
長年の過度な飲酒によるアルコール性肝硬変からの肝臓がん…
オレですら一年前、セイランと出会った頃に気付いてやっていれば、もしかしたら…と考えてしまうのだ。セイランの後悔は計り知れない…。
「オレもお前も、やれなかった事を悔やむんじゃなくて、これからやってやれる事を考えよう」
そう言ってやるしか、オレにはできなかった…。
それからオレ達は任務の合間を縫って、時々火の国の施設を訪れた。
いまだにセイランは父親を見ると震え出すので、遠くから様子をうかがうだけだが…
それでもこの親子にとっては重要な繋がりだった。
翌年、セイランが二十歳になるのを待って、オレ達は籍を入れることにした。
火影様に事前に報告するととても喜んでくださったが、また小隊の編成に頭を悩ませねばならんと…ぼやいてもおられた…。
オレ達の隊、オレとセイラン、スオウ、カズサ、あの風の国の任務から度々組むことになった四人一組は、木ノ葉でも重要な任務をこなすのに外せないチームだったからだ。
セイランと既に両親共いないオレの祝言は、ひっそりと仲間内だけで済ませた。
それでも忙しい合間を縫って火影様ご夫婦も二人の親代わりとして出席してくださって、オレ達にとっては最上の門出となった。
宴が終わって控室に戻ったオレは、セイランに謝らなければいけなかった。
「セイラン、今まで黙っていてすまないが、もう一人だけ…、お前のその花嫁姿を見てもらいたい人がいるんだ…、 お前の親父さんに」
「え!?」
セイランの手が震えだしたので、オレはその手をしっかり握って言った。
「大丈夫だ、オレがいる。火影様もいてくださるから」
しばらくして先に火影様が部屋に入って来られて、呼んでも良いかと尋ねられた。
「お願いします」とオレが言うと、一度部屋を出てビワコ様と共に、セイランの父親を連れて来た。
セイランの姿を見た父親が動いたので皆に緊張が走ったが、要らぬ心配だった。
父親はその場に土下座していたのだ…。そして
「娘をよろしくお願いします」とオレに言った。
額を擦り付けんばかりに頭を下げるその床には、涙がぽとぽとと落ちていた…。
「今日呼んだからって、アンタがセイランにやった事をオレは許した訳じゃない。 でも、アンタがいなきゃセイランは生まれてこなかったわけだし…、なんだかんだ言って、良くも悪くもセイランを育てたのはアンタだ。悔しいけど、アンタが育てたセイランにオレは惚れたんだから…、 まぁ、何が言いたいかって言うと…、アンタには感謝もしてるって事です」
オレがそう言うと、セイランと父親は二人して嗚咽を漏らした。
「泣いてる暇があったらセイランのこの姿、見てやってくださいよ。その為に呼んだんだから…」
父親は顔を上げて、涙でくしゃくしゃになった顔でセイランを見上げ
「セイラン…、本当にキレイだ……。すまなかった…。すまなかった…」
そう言って何度も謝っていた。
「いつか生まれてくる子供にとっちゃ、アンタが唯一のじいさんなんです。孫にまでみっともないとこ見せられないでしょう?早く良くなる事ですね」
オレがそう言うと、また頭を床に擦り付けるようにして
「ありがとう…、ありがとう…」何度もそう言った。
火影様は温かく微笑まれて、ビワコ様はその隣で目尻を何度も拭っていた。
しかし、孫を抱かせてやりたい、その希望は叶う事は無かった。
オレ達が祝言を挙げた翌年の春、セイランの父親は亡くなった…。
だが、セイランは最期のひと時を父親と穏やかに過ごすことができ、それだけで十分だと言った。
あの祝言の日をきっかけに、セイランの父親への恐怖は和らぎ、少しずつだが二人の時間を過ごす事ができたのだった。
特に最期の数日は、火影様にお願いして休暇をいただき、セイランは火の国の施設で泊りがけで看病していた。
「私が二人分任務をこなしますから!」とセイランの休暇を願い出る時にオレが言ったのを、その通り受け止められて任務を振られたので、オレはしばらく休みがなかったが…。
しかしまぁ、それで、セイランも父親も最期は和解して別れも言えたなら、それでいい。
別れの言葉も無く、感謝も、詫びる事さえできない、そんな忍の最期は珍しくも無い。
できることはできるうちに、伝えたい事は伝えられるうちに…。
オレは改めてそう思った…。