ミリオンライブの1ページ   作:笠原さん
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シリーズラスト


宮尾美也〜はっぴー、もーめんと〜


キラキラと煌びやかなステージ。
満開のサイリウムの花が、会場に咲き誇って。
そんな光に満ち溢れた世界の中心で。
宮尾美也は、マイクを握って歌っていました。

もちろん、これが夢だって事は分かります。
ステージの中心に立つ彼女の顔以外、まるで霧に包まれているかのように見えないんですから。
ですが、夢に見ているという事は。
私にとって、とても強い想い出だと言う事なんだと思います。

他の人達の顔は分からないけど。
いつか、きっと。
私は全部を思い出して。
また、あの場所に立てる日が…





「おかえりなさい〜」

「ただいまー」

夕方、と言うには少し遅い時間ですね。
太陽はもう殆ど沈んでいて、夕焼けだったそらが黒くなり始めた頃。
家でのんびりとうたた寝をしながら外を眺めていた時。
仕事を終わらせたプロデューサーさんが帰ってきました。

「荷物持ちますぞ〜、お疲れ様です〜」

「ありがと、家に帰ってきた時に誰かが待っていてくれるなんて幸せだな」

「むむむ…そこは誰かが、ではなく美也が、だと嬉しいんですけどね〜」

なんて他愛のない会話をしながら、夕飯の準備をします。
隣には、プロデューサーさん。
それとってくれ、どうぞ〜なんて会話が。
たまらなく、心地良いんです。

テキパキと料理を完成させて、二人で食卓を囲みます。
いただきます、とパチンと手を鳴らして。
今日会ったことを教えて貰って。
プロデューサーさんのお話はいつも楽しくて。

「食器は俺が洗っておくから、先にお風呂どうぞ」

「ではでは、お言葉に甘えますね〜」

洗い物をプロデューサーさんに任せて、お風呂に入ります。
ぽかぽか、ゆったり、鼻歌を歌いそうになりながら。
ふわふわとんでーくふーんふーんふーんふーん。
お風呂に浸かってると、なんだか眠くなってきますね。

いけないいけない、と目を擦って体を流し上がります。
かなり長くなった栗色の髪の毛を乾かして。
歯を磨いて、口をゆすいで。
眠る準備は万端です。

「お先でした〜」

「んじゃ、俺も次入っちゃうから」

ぽかぽか気分がなかなか抜けず、また眠くなってきました。
でも、まだ彼におやすみなさいを言ってませんから。
のんびり、なんにもせずに。
ただただ、のーんびり。

夜はあんまり楽しくありません。
暗くて遠くの景色が見えませんから。
テレビはもちろん禁止です。
彼から、止められていますから。

そう、見ちゃいけないんです。
外の情報を、シャットアウトする為に。
だって、きっとそれは。
良い結果には、なりませんから。

だって…
私は、記憶喪失なんですから。

「あがったぞー…ん、寝てると思ったけど」

「まだ貴方に、おやすみなさいって言ってませんでしたから〜」

「眠そうだぞ、おやすみ」

「ふぁ〜い…おやすみなさい…」

何があったのか、何が起こってこうなったのか。
それは、分かりません。
今、私はプロデューサーさんの家で暮らしていますけれど。
それだって、一度世間から私を隔離する為で。

けれど、私に不安はありません。
何か大きなトラウマを抱えて記憶を失ってしまったのだとしても。
外に出る事が出来なくても、外を知る事を彼経由でしか出来なくても。
今の私には、彼が一緒にいてくれているのですから。



翌朝目がさめると、既にプロデューサーさんは仕事に行っていました。
私はのんびりと起きて、外出の準備をします。
彼からは、ダメと言われていますけどね。
少しでも、記憶を取り戻す努力をしたいですから。

世間一般では、宮尾美也は休養を取っている事になっているそうです。
ですけれど、変な事を勘繰るニュースや心無い方々の声は当然あるものらしくて。
そう言ったもので尚更心を傷付けるのは良くない、と。
だから私は、彼の言い付けをきちんと守りそう言ったものからは離れた日々を送っていました。

…でも。

「ふ〜…風が気持ちいいですね〜」

やっぱり、外には出たいですから〜。
遠くまで行く訳ではありません。
ただ単純に、外の世界を見たい。
外の世界を感じたいんです。

一日中ずっと家に居るなんて、気が滅入ってしまいますからね〜。
少し暑くなってきた太陽の光と心地よい風を感じながら、のんびり歩きまわります。
もちろん、周りからの視線を遮断する為に帽子は被ってますぞ〜。
日焼け止めも塗ってますし、水筒にはお茶、カバンにはサンドイッチも。

ふらふら〜っと歩いていると、誰も居ない小さな公園を見つけました。
ここで、一休みしましょうか。
木陰のベンチに座って、のんびりサンドイッチを咥えます。
もちろん、水分補給も忘れません。

風に舞う木々の枝、飛んで行く木の葉。
何処までも高い空に舞い上がって、いつしか見えなくなって。
それとバトンタッチするみたいに、今度は蝶々が飛んで来て。
目で追い掛けては、見失って。

自由に、気まぐれに飛んで行く世界を眺めていると、あっという間に時間は過ぎていました。
もしかしたら、少しうたた寝してしまっていたかもしれませんね。
陽はまだ傾いていませんが、もう6時間も経っています。
プロデューサーさんが帰ってくるまでには家に居ないと、心配をかけてしまいますから。

よいしょっ、の掛け声と共に、私は公園のベンチを後にしました。
太陽が真上にあった時よりも、少し涼しくなった道を帰ります。
もちろん、道端の新発見も忘れません。
蟻の行列や名前のわからない花は、明日もまた私をお散歩させたくします。

と、その時でした。

「…あれ?あそこにいるのって…美也ちゃん…?」

バクン!と。
私の鼓動は跳ね上がりました。
何かは分かりませんけど、とても嫌な感じがします。
私の足は、その場に打ち込まれそうになりそうで…

…おっと。
いけませんね〜、少し油断しすぎていたみたいです。
気付かないフリをして早く立ち去らないといけません。
そっちに視線を向けない様に、ペースは変えず先を目指します。

「何言ってるのよ、こんな場所に居るわけないじゃない」

もう一人の女の子が、それを否定していました。
こんな場所に居るはずがない。
テレビに出ている人を街で見かけた時の、当然といえば当然の反応かもしれませんね〜。
ありがたいですし、このままささっと帰らせて頂きましょ〜。




「ただいま帰りました〜」

誰も居ない部屋に、私の声がこだまします。
良かったです、プロデューサーさんはまだ戻っていないみたいですね。
いつも通りの帰宅予定だとすると、あと2時間くらいでしょうか?
それまでは、のんびりゆっくりとしてるとしましょう。

窓から眺める景色は、赤と青が混ざった綺麗な夕焼け。
とても綺麗で、思わず写真に撮りたくなります。
この景色を、プロデューサーさんと共有したいですから。
この優しい世界を、プロデューサーさんと…

そう言えば、写真と言えば。
私の携帯電話は、何処にあるんでしょう。
アイドル業界にいたのだとしたら、連絡を取る為のソレは必需品な筈です。
それに、私の事ですからいっぱい写真も撮りたくなる筈なんですけれど。

なんて事を考えながら暗くなっていく空を見上げていると、玄関の外から音が聞こえてきました。
プロデューサーさんが帰ってきたみたいですね。
ソファから立ち上がって、スカートのシワを直します。
彼の前では、ピシッ!っとしていたいですから〜。

「おかえりなさいませ〜」

「お、ただいま。お刺身買ってきたぞー」

スーパーのビニール袋を受け取って、そのままキッチンへ向かいます。
既にお刺身の状態になっているので、お皿に盛り付けるだけですけどね〜。
予約しておいた炊飯器も、丁度炊き上がりました。
二人並んでキッチンに立つ幸せを、今日も手にする事が出来ました。

「そういえばプロデューサー殿〜、私の携帯電話は知りませんか?」

「…あー…あるっちゃあるけど、その話は食後でいいか?」

どうやら、少しばかり重い話になってしまいそうですね…。
美味しい食事は、気分から。
辛い事を考えていては、折角の二人の食事が勿体ありません。
素敵な景色を一緒に眺めたかったんです、とだけ伝えてお箸を動かしました。



「で、携帯電話だったな…これ、なんだけど…」

「…そう、でしたか〜…」

プロデューサーさんから渡された携帯電話。
その画面には、大きなヒビが入っていました。
おそらく、再び起動する事はないでしょう。
そのくらいの、損傷で…

「お前が倒れてた時、その手元の近くに落ちてたんだ…」

「そう、でしたか…」

朧げながらも、薄っすらと思い出すのはあの日の記憶。
プロデューサーさんに救ってもらった、記憶を失ったあの日の夜。
私は、必死にストーカーから逃げて…
何処だかも分からない道を、走って、走って、走り回って…

「おい、大丈夫か?!無理するな…落ち着くんだ…!」

「…え?わ、私は…」

自分の表情を確かめようと顔に手を伸ばしました。
ほ、ほら…笑えて、いませんか?
そう思って、いましたけれど…
伸ばした指は、目元で濡れて…

「大丈夫だ…俺がついてるから…」

「あ…」

ギュ、と。
プロデューサーさんに抱き締められました。
たったそれだけの事で。
私の心は、一瞬にして寂しさから救い出され…

「今度、カメラを買おう。今までの写真が消えてしまったのなら、これから幸せを増やせばいい」

「…はい…そうですね。素敵な景色を、幸せを、一緒に共有しましょ〜」

優しい、暖かい、プロデューサーさんの言葉。
ですが、私の心には一つの疑問。
少しですけど、思い出してしまったあの夜の事。
その瞬間、つい数秒前のあの瞬間。

なんで私は、寂しかったんでしょうか?

普通ストーカーに追われていたのだとしたら、怖い、と言う感情が当てはまる筈です。
これからどうなってしまうのか、と言う不安を覚えるのが普通な筈です。
なのに、どうして。
寂しさ、なんでしょうか?

その答えが、知りたい。
けれど、知ってしまったら。
今のこの幸せな一瞬を失ってしまう様な気がして。
私は幸せな今の為に、考える事をやめました。



会場を埋め尽くす、サイリウムの光。
女の子なら誰もが憧れる、スポットライトに照らされたステージ。
その中心で歌う、一人の女の子。
そこに居座る、茶髪の彼女。

まるで画面越しに見るようなその風景は、夢だと直ぐに分かりました。
それにしては、とても鮮明で。
もしかしたら、一度私も映像で見ていたのかもしれません。
そんな、光輝く彼女を見て…

私は…




「おい…大丈夫か?」

「…すみません、少し、寂しい夢を見ていた気がします〜」

スーツに着替えたプロデューサーさんが、こちらに不安そうな顔を向けていました。
目元に指を当てれば、やっぱり少し濡れています。
どんな夢だったかは、もう薄れ始めていますが。
私はとても、寂しくて…

「…抱き締めて、くれますか?」

「あぁ。まだまだ時間はあるし、落ち着くまで付き合うよ」

大好きな彼の温もりは、私の不安を溶かします。
今が、平和なら。
この一瞬の幸せがあるのなら。
私は、ずっと…




幸せな日々は続きます。
私を大切にしてくれる、彼との暮らしはとても幸せで。
のんびりと、ゆったりと流れてゆくその一瞬一瞬が、とても幸せで。
覚えてはいませんけど、今までにこんなに幸せで心穏やかなときがあったとは思えない程、とてもとても幸せでした。

…違う、と、言われれば。
その通り、ですけどね〜…。
私は放棄していたんです。
考える事と、思い出す事を。

今が、この瞬間が幸せだから。
前は、きっと、そうではなかったかもしれないから。
もしそうでなかったとしても、今までだって幸せだったとしても。
どうしても、今を手放すのが怖かったんですから。

のんびりとお散歩して。
小さな幸せを発見して。
夜は彼と共に過ごして。
それで、いいじゃないですか。

思い出す事で失う可能性があるのなら。
思い出す必要性なんてありません。
私が心から求める幸せは。
もう既に、手に入っているんですから。

…それでは、いけませんか?
貴方はずっと、私の隣で笑っていてくれませんか?
私の小さな願いを、幸せを。
続けたいと願うのは、忘れたままでいたいと祈るのは。

いけない、ことでしょうか?




ふ〜…今日も、充実した1日でしたね〜。
空はとっても綺麗ですし、ちょうちょも見つけられましたから。
もう空は少しずつ茜色に染まってきてますけど。
今日は事務所の生放送番組があるそうで、プロデューサーさんの帰りは遅いらしいですから。

てくてくと、のんびり夕焼けに染まった道を歩きます。
普段とは違う帰り道なのに見覚えがある様な気がするのは、以前通った事があるからでしょうか。
そんな再び味わえる新発見を、もっともっと積み重ねて。
それを今までも、今も、これからも…

そんないつも通りのお散歩をしている時。
甘い時間を更に手に入れようとして。
少し欲張って、もっと初めて見る景色を集めようとして。
曲がり角を曲がった時…

「この道は見覚えが〜…っ!」

バクン、と。
いままでに無いくらい、心臓が跳ね上がりました。
一気に鼓動は早くなり、私に注意を促しています。
この道は…

私が、彼に救われた。
私が、記憶を失った。
私が、倒れこんだ。
あの夜の、道だったのですから。

一気にフラッシュバックするのは、あの夜の出来事。
聴き手なんてどうせいないだろうと、私は叫び続けた事。
そんな私を見つけた、私のプロデューサーと名乗る男性に運び込まれて、何とか助かった事。
ストーカーに追われて、必死に逃げ回った事。

「あれ?ほら静香ちゃん、やっぱり美也ちゃんだってばー」

追撃を掛ける様に。
道行く女の子の一人が、私に気付きました。
その瞬間、言い様の無い不安と寂しさを覚え。
気づいたら、私は走り出していて…

「だから貴女は何を言ってるのよ…彼女はーー」

周りをシャットアウトする様に、私はひたすら走りました。
まるであの日の様に、逃げて、逃げて、逃げ回って。
少し人通りの多い商店街に出ても、私は走り続けて。
早く、彼と二人だけの世界に、幸せに満たされた世界に戻りたかったのに。

『そうですね〜。そうやってれば、いつだって世界も平和なんですよ〜』

私は、見てしまいました。
商店街の電化製品屋の店頭に置かれたテレビ。
そこに放送されていたのは、765プロの生放送番組番組で。
その画面に映し出された、画面越しに見る彼女は。

紛れもなく、宮尾美也だったんです。




「ただいまー」

「おかえりなさい〜、プロデューサーさん」

いつも通りのその一瞬が。
もしかしたら、これで最後になってしまうかもしれないから。
私は思い出してしまった事を隠して。
彼とのひと時を、精一杯幸せなものにしました。

「ご飯、作っておきましたよ〜」

「お、ありがとう。今日も色々あったからなぁ…」

「そうですか〜。お聞きいたしますぞ〜」

二人で食卓を囲むその時間が。
二人で笑いながらお話をするその時間が。
二人で並んで食器を片すその時間が。
私にとっては、最後になるかもしれないから。

手離したくないものは、いずれ離れていってしまうものでした。
それに気付いてしまったのなら。
その一つ一つを、幸せな一瞬に…
本当に、これなら思い出さない方が良かったんですけどね。

ありふれた、天気の話。
綺麗だった夕焼けの話。
明日もまた、なんてお話をしながら。
私は、覚悟を決めました。

「さて、プロデューサーさん〜。一つお聞きしたい事があるんです」

「なんだー?」

…やっぱり、ですね。
もしかしたら、なんて思ってはいました。
気付かないふりをするのも、もう終わりかもしれません。
意を決して、なんとか口に出せました。

「…美也、とは…呼んでくれないんですね…」

「……」

静寂が部屋を支配します。
プロデューサーさんは表情を変えず、此方を見てきます。
ここで私が、ま〜いっかなんて誤魔化せば。
きっとまた、気付かないふりを続ける幸せな日々に戻れると分かりながら。

それでも私は、目を逸らさずに。

「…そう、か…思い出したんだな」

諦めた様な顔をしたプロデューサーさんが、ようやく口を開きました。
本音を言えば、今にだって誤魔化したいくらいです。
けれど、それを続けていてもお互い幸せにはなれませんから。
それに私には、逃げる場所なんてありませんから…

「全部、思い出しました」

テレビに映った宮尾美也。
微々たる違いはあるものの、私にとてもそっくりで。
けれど、生放送番組という事は。
私は…

「…本当に、すまなかった」

頭をさげるプロデューサーさん。
そんな彼は、涙を流していました。
そう、ですよね。
でも大丈夫です、貴方の優しさは伝わっていましたから。

彼の意図は、何となくですが分かります。
あの夜の、私の心を聞いていたのだとしたら。
いけない事だと分かっていても、誰の為にもならないと分かっていても。
少しでも、目の前の女の子に幸せを、なんて…

「あの夜、お前の話を聞いてな…どうしても、何とかしてやりたくなって…」

道行く人から間違われるくらい、私は宮尾美也に似ています。
有名人に、とても似ている。
それは決して、いい事ではありませんでした。
私の心が、限界まで擦り減るくらいには。

宮尾美也に似ていると言う印象しか抱いてもらえず。
宮尾美也に似てるね、なんて事しか言われず。
本当の自分を見てもらえる事なんて、滅多に無くて。
街で話しかけられた人に違うと伝えると、とてもガッカリした顔をされて。

宮尾美也と間違われてストーキングされた時、とても悲しかったんです。
怖いと言う感情ももちろんありましたけど。
やっぱり私は、宮尾美也として見られているのに。
それなのに、その恩恵は一切ありません。

見た目がそっくりで、趣味まで同じ宮尾美也をテレビで見るたびに。
なんで私じゃないんだろう、って悔しさと怒りすら覚えて。
ライブの映像がテレビで流れて、そのステージの中心に宮尾美也が立っているのを見るたびに。
彼女のせいで、私はこんな目に、なんて…

いい事なんて一つもない。
彼女はあんなに輝いているのに、私はこんなに辛い思いをして。
宮尾美也の偽者としての人生しかなくて。
けれどそんな理由で髪を切ったり整形するのは、悔し過ぎて出来なくて。

結局、恐怖と寂しさと悔しさと。
憧れと哀しさと羨ましさと辛さと。
その全てがごちゃごちゃになって、全部を放棄したんです。
もう私に、自分だけ幸せな道なんてないんだろう、と。

そうして全てを諦めて、全てを叫んで。
意識と記憶を失うとほぼ同時に。
プロデューサーさんに、出会ったんです。

「宮尾美也と似ていて自分のものにしたかったから、って気持ちが全くないと言ったら嘘になる…でも、どうしても…目の前の女の子を、少しでも…」

宮尾美也で、いさせてあげたかったから。

それを聞いて、安心しました。
その言葉はきっと、本物で。
ならきっと、この狭い世界だけなら、私は本物の宮尾美也で。
それで、充分でした。

「…貴方を恨んでなんていませんよ。私は、幸せでしたから」

あれほど、憎んでいたのに。
あれほど、辛い思いをしたからこそ。
私は、きっと。
宮尾美也に、なりたかったんです。

それに、彼の優しさは本物で。
そんな事に関係なく、私は彼と居る時間が大好きで。
彼と一緒に幸せを積み重ねたい、と言う想いは。
紛れもなく、本物ですから。

だから…

「明日からも、私を…宮尾美也でいさせてくれませんか?」

「…あぁ。お前が、それでいいのなら」



それからの日々は、とても楽しいものでした。
きちんと変装すると言う条件で、彼とデートしたり。
もういいだろうという事で、一緒に家でテレビを見たり。
二人でふらふらと、私が散歩していた道を歩いたり。

気付かないふりをやめたからこそ、気付ける幸せがあって。
二人でいる時だけですけど、私は本物の宮尾美也で。
彼女に憧れていたからこそ、私は完璧な宮尾美也として振るまえて。
そして、その上で。

きっと彼は、宮尾美也が大好きなんだ、って。
そう、感じました。
もちろん彼は口にはしませんでしたけれど。
見ていれば、分かりやすいものでしたから。

アイドルとプロデューサーの恋愛なんて、許されない。
だから彼は、宮尾美也に想いを打ち明ける事は出来ない。
で、あるなら。
アイドルでない宮尾美也である私なら…

でも、分かっていました。
この幸せは、今だけのものだと。
私が本当に本物の、彼だけのではない宮尾美也だとしても。
きっと、彼の事を…




予期していた通り、その日は訪れました。
帰宅した彼は、どこかよそよそしく。
きちんと目を合わせてくれる事が、少なくて。
話しかけても、どこか上の空。

おそらく、いえ、間違いなく。
宮尾美也が、プロデューサーさんに告白したんだと、そう感じました。
もちろんプロデューサーさんは嬉しかったでしょう。
きっとずっと大好きだった宮尾美也と、結ばれる可能性が出たのですから。

けれど、すぐには頷けなかったんだと思います。
だって今は、私と暮らしているんですから。
家にはまた別の、宮尾美也がいるんですから。
だから…

「プロデューサーさん〜、少しだけいいですか〜?」

私は、最後の最後まで宮尾美也で。
当然本物の宮尾美也には及ばないでしょうけど。
それでも、一つだけ勝てるとしたら。
今、この瞬間に。

「どうし…?!」

ちゅっ、と。
頬っぺたに、触れるだけのキスをしました。
それだけでもう、我慢しようとした涙は堪えきれなくて。
それでも、想いだけは伝えました。

「今まで幸せでした…これからは、彼女の隣で笑っていてあげて下さい」

私の小さな願いを告げて。
私は家を飛び出しました。




電車を乗り継いで、私は海へとたどり着きました。
その間思い返していたのは、彼との幸せな日々。
彼にとっては偽者だったかもしれませんけど。
私にとっては本物の幸せでした。

でも、もう。
本人に、宮尾美也としての位置と名前をお返ししないといけませんでしたから。
これから彼の隣に立つのは彼女であるべきで。
これから彼の隣で幸せになるのは、彼女であるべきで。

涙は、もうありません。
彼女に対する恨みは、もうありません。
むしろ、感謝しているくらいです。
そのおかげで、私はこの辛い人生で幸せな一瞬を積み重ねられたのですから。

それに、きっと本物の宮尾美也よりも先に。
彼とキスする事が出来ましたから。
私は、それで充分です。
唇と唇では、彼に名前を呼んで貰えませんから。

崖の下で打ち上がる水飛沫が視界を黒から白に染めます。
きっと、私も。
公園でみた蝶の様に、自由に。
遠くまで、飛んでいける筈です。

「…さようなら…結局、呼んで貰えませんでしたね…」

でも、願わくばせめて。
一度でいいから、彼に。

私の名前を、呼んで欲しかったですーー










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