『まもなく京都です――』
新幹線の車内アナウンスが流れる。
九月の連休を利用して、俺たちは京都に向かっていた。
たち、というのは俺ともう一人いるわけなのだが……。
その人は、さっきから俺の左肩に寄り添うようにして眠りについている陽乃さんである。
静岡を過ぎたあたりで、
『眠くなってきたから、比企谷くん、肩貸して?』
と言ってから、今まで横でぐっすりと眠っている。
まぁ陽乃さんも普段から忙しい人だから、こんな日ぐらいゆっくりさせてあげようと思い、今まで起こさなかったのだけど…………。その……、陽乃さんの私服が胸元の空いたワンピースでして……。
チラチラと、さっきから俺の視界に彼女の豊満なあれがね? こんな綺麗な人が、数時間無防備で自分の横で眠ってるって、結構な拷問なわけで。耐えれるやついる? と聞きたい。俺は耐えるけど。
「……もう満足した?」
「へっ? な、ななななにがでしょうか?」
さすがにそろそろヤバイと思って視線を前に戻すと、陽乃さんがぼそっと尋ねてきた。
満足したってなにがですか? 八幡わかんない。や、マジでいつから起きてたのこの人。クッソ恥ずかしいなんてレベルじゃねえ!
「ぷっ、あはは、比企谷くんってば慌てすぎだよ」
俺の反応を見て肩を震わせながら笑う陽乃さん。ホントやばい死にたいこのまま新幹線の外にダイブしたい。
「女の子はここに向けられる視線に敏感なのだよ比企谷くん」
「わかりましたからもう許してくださいホントに」
陽乃さんがしたり顔で自分の胸元に手をやる。
つうか俺そんなに見てたの? ……見てたわ。ちょー見てたわ。全然耐えれてなかったわ。
「えー、どうしようかなー」
「や、ホントに……なんでもしますから」
「ん、今なんでもするって?」
「言ってません」
バリバリ言ってたけども。
この人になんでもしますからは危険だったわ。ホントになんでもさせられちゃうもん。撤回安定。
『ご乗車ありがとうございます――』
どうやら陽乃さんに問い詰められている間に新幹線が駅に着いたようだ。
「着きましたよ、雪ノ下さん。起きてください」
「さっきから起きてるんだけどね?」
「さ、いきましょうかー」
強引に会話をぶった斬り、俺たちは荷物を持って新幹線を降りた。
「う~ん、やっと着いたねー」
駅を出ると懐かしい京都が俺たちを向かいいれる。
京都といえば、高校時代に修学旅行で来た以来で、あまりいい思い出がないんだよな……。まぁ今思い返せばあの頃の俺たちは若かったというか、そういう経験があって今の俺があるというのもあるのだけど。
「比企谷くーん、はやく行こうよ」
「ちょっと待ってくださいよ……」
久しぶりの京都で感慨に耽っていると、陽乃さんから急かすように声をかけられる。
今回、京都には陽乃さんと二人で来ているわけなのだが……。別に二人きりで京都に旅行に来てるとかそんなんじゃない。や、形的に言えばそうなのかもしれないが、今回ここに来たのには理由があって――。
その理由というのは、十一月にある修学旅行の下見のためだ。
しかし、別に俺が自分でこの役を買って出たわけじゃない。そんなめんどくさそうなこと、俺が進んでするわけないですし。
単に、あれだ。この時期に暇な教師っていうのが俺くらいしかいなかったからだ。
ぶっちゃけ他にもいるだろうとは思ったが、そこは若手教師の俺にそんな発言権もなく……。
結局、トントン拍子に決められてしまったわけで……。
ホント若手って発言権ないのね。あのころの平塚先生の苦労がよくわかるわ。つうか、マジであの人最近なにしてるんだろうか。今度ラーメンでも誘ってみようか……。や、やっぱりなんか変な勘違いされても困るし、放っておいたほうがいいな、うん。グッバイ平塚先生。
「比企谷くん、遅い。時間は待ってくれないんだよ?」
「や、それはそうですけど……。つうかここには修学旅行の下見で来てるんですからね?」
「あ、あのお店、着物貸してくれるみたい」
陽乃さんは俺の言葉を流すように――というか無視すると、近くのお店を見て回り始めた。
自分から下見に同行するって言ったのに、この人、絶対仕事する気ないだろ……。
下見役が俺に決まると、それまで話に興味を示さなかった陽乃さんが急に乗り気になって、
『新人教師の比企谷先生一人では不安ですので、今回の下見には私も同行します』
などと周囲の教師に言い放った。
その結果、雪ノ下家の力なのかその辺はよくわからないが、陽乃さんも俺と一緒に京都の下見をすることになり、今に至るというわけだ。
それにしても自由すぎませんかね? さっきからひたすら店を回って、旅行を楽しんでるだけにしか見えないんですけど?
「比企谷くん、こっちこっち!」
出だしから今回の下見に不安を覚えていると、陽乃さんが遠くの方でこっちに来るよう俺に呼びかける。
そんなに着物着たいのかこの人。や、確かに陽乃さんの着物姿とか見てみたい気もするが。って、なに言ってんだ俺……。
「つうか意外ですね、着物に興味あるんですか?」
「そりゃそれなりにはね? パーティーに出席するときとかはドレスだし。たまには着物も着てみたいわけ」
「そんなもんですかね」
「そういうもんだよ。比企谷くんは私の着物姿、見たくない?」
「うひゃ!? やめて、脇腹はやめてください」
陽乃さんがうりうりと俺の脇腹を突きながら楽しそうに絡んでくる。
「あははは! やっぱり面白いね比企谷くんは」
「だからからかわないでくださいよ……」
ていうか脇腹はマジやめて。変な声でちゃうから……。
「いいじゃない、減るもんじゃないし」
「俺の精神がすり減るんですがそれは……」
「こんなことで一々精神やられてたら身が持たないよ?」
「昔よりは耐性ついてきましたけどね……。つうか着物着ないんですか?」
あまり時間もないことだし、着替えるなら早めに済ませてもらって、あとは下見しないとなんだが……。
そう思って聞いてみたわけなんだが、陽乃さんはどうやら違う意味で受け取ったようで、
「なになに? やっぱり私の着物姿みたくなった? 仕方ないなぁ」
と、上機嫌。
ここで俺の考えをそのまま口に出して、機嫌を損ねられても困る。意図的でないにしろ、せっかく機嫌いいみたいだし。
となれば、ここは陽乃さんにのるとしますか。そっちの方がスムーズに下見もできるだろうしな。
「まぁ実際見てみたいのはありますからね」
「へぇ、そっかそっか……。可愛い後輩がそう言うなら、せっかくだし着てみようかな」
陽乃さんが鼻歌交じりで店内に入っていく。
俺も後に続いて中に入ると、初老の女性が出迎えてくれた。
それから陽乃さんが説明を聞いて着物を選ぶからと、邪魔だからと言われ、俺は外に追い出された。ホント、この扱い悲しくなるんだけど。
「比企谷くん、入っていーよー」
しばらく待っていると、店内から陽乃さんの声が聞こえ、中に入るように言われたので中に入ると――。
「ねぇ比企谷くん、どうかな?」
着物姿の陽乃さんがそこに立っていた。
薄紫色の着物にはところどころに花が咲き、濃い藍色の帯が着物にぴったり合っている。
陽乃さんのことだから着物も似合うのだろうとは思っていたが、ここまでその……綺麗というか……。
「ねぇねぇ比企谷くん?」
予想以上の破壊力に見惚れている俺に、陽乃さんが早く感想言いなさいよと言わんばかりに詰め寄ってくる。
ずいずいと距離を詰めてられて次第と二人の距離が近くなり、気恥ずかしくなって顔を背け、
「に、似合ってますよ……」
と、そのまま一言告げる。
や、これはひでえわ。もう少しまともな感想言えなかったの俺。
これが葉山とかイケメンリア充ならば、『雪ノ下さんのような素敵な女性にピッタリの着物で、とても似合ってますね』とか褒めるんだろうな。…………や、ねーわ。こんなこと俺が言ったらまじっべーわ。
ただ、さすがにさっきの感想じゃ陽乃さんの機嫌を損ねてしまっただろうと、背けていた顔を戻して向き直ると、
「そっかそっか。似合ってるか」
まんざらでもない様子でうんうんと頷いていた。
あれ? こんなんで良かったの?
「どうせ比企谷くんのことだから、照れちゃって言葉がでなかったんでしょ」
意外な反応に一安心している俺の肩をぽんぽんと叩きながら、陽乃さんは嬉しそうに言った。
あれれーおかしいぞー? なんで俺の思考まるっと全部筒抜けちゃってるのん? っべーわ、穴があったら入りたいわ。
「あはは、照れちゃって可愛いなぁー」
「照れるように雪ノ下さんが仕向けてるんでしょうが……」
「ごめんごめん、君といると楽しくてつい、ね?」
つい、ね? じゃないですからね?
陽乃さんの言い方だと、俺といるときはほとんど楽しいと思ってることになるんですけど? なんだそれ嬉しいな。
「はぁ、もう十分楽しんだでしょ。そろそろ下見行きませんか」
「あ、下見しに来てたんだっけ」
さっき言ったばかりじゃないですかーやだー。
この人完全に旅行モードだよ。や、着物の時点で察してたけどね?
「だからさっさと済ませちゃいましょうよ……。そしたらあとは自由なんですし」
「そうだねー。サクッと片付けちゃおっか。そうすれば比企谷くんでたくさん遊べるし」
「俺でなにして遊ぶつもりなんですかね……」
「それは秘密かな? さ、いこっか」
俺の問いに陽乃さんは妖艶な笑みを浮かべると、俺の手を取って店をあとにした。
* * *
それからの陽乃さんの行動力は凄まじかった。
当初は今日と明日の二日間をかけて予定の観光地をまわるつもりだったが、陽乃さんが最善のルートを探し、効率よく進めたため、たった半日で全てまわることができた。
「ふー……」
お茶を買って戻ると、陽乃さんがベンチに座って両手を上げながら軽く背伸びをしていて。
後ろから眺めると、見慣れない着物姿ということもあってか、一瞬その姿が普段俺を翻弄している陽乃さんとは全くの別人に見えた。
アップにまとめた黒髪と着物の間からのぞく磁器のように白い首筋、そのうなじに思わず視線が吸い寄せられ、規則正しく弾んでいたはずの心臓が俄かに早くなった気がして……
「ん、どうしたの?」
「あ、い、いえ。お茶買ってきました」
俺の気配に気づいたのか、陽乃さんが振り向く。
あっぶねぇ……。大丈夫だったよね今。結構ガン見してしまってたが。つうか、うなじエロすぎませんかね。
目を閉じると、さっきまで見ていた陽乃さんのうなじが鮮明に浮かび上がる。あ、ヤバイ。これただの変態だわ。自重しようそうしよう。
「ありがとう、比企谷くん」
「いえ……」
「どうかした? 顔真っ赤だけど」
「な、なんでもないれす……」
俺の顔を覗き込む陽乃さん。つうか顔真っ赤ってマジか。通りでさっきから顔が熱いなぁなんて……じゃなくてね? どんだけ陽乃さんのこと見てたんだよ俺……。
「ふーん? ……ホントに?」
「や、ホントになんでもないです」
「そう? てっきりまた私の着物姿に見惚れてたのかと思ったんだけど」
「今日一日散々見てたんですから、今更それはないですよ」
もうホント陽乃さん怖い。
その通りですよ、散々見たのにうなじに見入ってましたよ。絶対言えないけど。ホントすみません。
「そっかー、違うのかぁ」
「そうですよ、違いますよ……日も暮れてきましたし、そろそろホテルに行きませんか?」
「そうだねぇ。着物も返さなくちゃだし、戻ろっか」
言うと、陽乃さんは立ち上がって俺の前を歩き始める。
はぁ……なんとかこの場は誤魔化せた――と思いきや、陽乃さんがふと立ち止まり、クルっと振り向くと、
「あ、そうだ、比企谷くん」
なにか思い出したかのように口を開いた。
「なんでしょうか?」
「もう着物返しちゃうし、その前に着物でしてみたいことある?」
「あの、仰っている意味がわからないんですが」
急になに言っちゃってるのこの人? 着物でしてみたいこと?
陽乃さんの顔を見ると、楽しげに微笑みながらこちらの様子を伺ってるようで。
ねえねえ、この人、俺が後ろから眺めてたの絶対気づいてたよね? だからこうやって俺からかって遊んでるんだよね? 見てあの嬉しそうな顔。ホント鬼畜ですわ……。
「もう勘弁してくださいよ……」
「ごめんごめん。あんまり比企谷くんが着物に釘付けだったから嬉しくなっちゃってさ」
満足したのか、陽乃さんが歩きだして。
俺もそれに続くように並んで歩いていく。
「そんなに見てましたかね俺……」
「後ろから視線を感じるくらいにはね?」
「その言い方だと俺がストーカーっぽくないですか」
「あれ、違うの?」
「違いますからね?」
まったく……この人の中で俺はどういう扱いなの? 陽乃さんのこと好きすぎる危ないやつなの? ……そりゃ実際あれだが。……ストーカー的なことはしないですからね? 今はこうして二人でいるだけで満足してるのもあるし……。
「なーんだ、残念」
「なにが残念なんですかね……」
「比企谷くんが私のストーカーだったら、ちょっと嬉しいじゃない?」
「じゃない? って言われてもですね。大体、俺がそういうことできるようなやつに見えます?」
「まぁそうだよね。比企谷くんにストーカーなんて似合わないし」
口元を手で隠しながらくすりと笑う。
少しの間の後、再び陽乃さんが口を開く。
「それにしても、今日はホント楽しかったなぁ」
「それはなによりですよ」
今日のことを思い返しているんだろう。陽乃さんは微笑みながら呟いた。
下見というなのほとんど観光だったしな。まぁ実際俺も楽しめたし、今回下見役でここに来れたのは良かったのかもしれない。
「また、来ようね」
「まぁ来月には来ますしね――痛っ!?」
陽乃さんの言葉に答えると、こつんと頭を小突かれた。
急になにを? と思い陽乃さんを見ると、楽しげな微笑みから一転、緩く腕を組んで眉をひそめられてしまった。おまけにこれ見よがしにため息もつかれてしまう。
「……本当に君は捻くれてるね。そういうことじゃないでしょ?」
本当は陽乃さんの言葉の意味もわかってる。でもそれに答える勇気がなくて――。
それを見透かされたから怒られたんだろう。まったくもって情けない男だな俺。
……たまには少し頑張ってみようか。
「テイク2行ってもいいですか……?」
「仕方ないなー。いいよ?」
「じゃ、俺からで……」
俺の言葉に陽乃さんがコクリと頷く。
それを見てゆっくりと口を開く。
「また一緒に、ここに来ましょうね」
「比企谷くんがどうしてもっていうならね?」
陽乃さんはくすりと笑いながら答えてくれて、俺は一言「お願いします」と告げる。
すると、「仕方ないなぁ」と嬉しそうにする陽乃さんを見て、自然と笑みがこぼれた。