全国での戦いを終え、清澄高校は一つの区切りを終えた。
三年生である竹井久は引退し、残された部員は今度は次の大会に向けて研鑽を重ねる事になる。
ただ、今度は、初心者である須賀京太郎の事も、しっかりと練習に加えながらである。
夏の大会の間、常に裏方として尽力してくれたのだ。今度はしっかりと鍛えてやらなければいけないだろう。
その教育係に、立候補したのは竹井久であった。
単純な理屈であった。他の四人はこの先に向けて鍛え続けなければならない。しかして須賀京太郎を今の役割に固定させてしまう訳にはいかない。ともなれば、引退し、推薦を貰い、絶賛暇人中の自分こそが基礎を叩きこむにあたってはいいであろう。そう実に自然な言い回しで周囲を納得させ、教育係に落ち着いた。
誰もがその理屈に納得した。
-----一人を、除いて。
「-----」
されど宮永咲はその理屈に反論する事は出来ない。
する理由もない。
―――今まさに、部長は本格的に京太郎を落とそうとしているのだろう。
ならばそれを邪魔する訳にはいかない。
―――いかない、はずなのだ。
「違うわよ。須賀君、これは違う。―――あーあ、やっぱり放銃したじゃない」
「す、すみません----」
「いい?今回この相手はもうイーピン切ってるんだから選択肢として、字牌は-----」
指導だって、部長はとても的確だ。ざっくばらんとしているようで、ちゃんと素人である京太郎の視点に寄り添いながらしっかり指導している。
そう。
本当に、色々なものを彼女は持っている。
―――自分に、ないものを。
何故今ここで自身と彼女を対比させてしまったのか―――咲には、解らない。
―――ねえ、京ちゃん。
少し、思う。
―――私は、今どんな風に京ちゃんを思っているんだろう?
しかして、何を思っているのかは、解らなかった。
解らないから―――深く、考えるのを止めた。
目の前にある麻雀に、集中する。
その時間だけは―――独り相撲な「文学少女ごっこ」を止めることが出来たから。
※
―――俺、このまま部活にいてもいいんでしょうか?
ある日の事。
何だか死にそうな顔で、須賀京太郎はそう言っていた。
慌てて何があったのかを聞いた。
その時に、聞いたのだ。
元々ハンドボールをやっていた事。その時に左肩を痛めて引退した事。麻雀部には、その逃避の為に入部した事。―――なのに、麻雀部は何処までも真剣な戦いをずっと続けていて、そんな気持ちで入部した自分の心持ちを恥じた事。
全てを、聞いた。
竹井久は―――その全てを聞いてしまった。
後悔した。
―――自分の思いだけで麻雀部を、きっと引っ張っていたのだと思う。
その思いに、周りはきっと応えようと頑張ってくれた。だからこそ、全国の切符まで手に入れることが出来たのだから。
ならば、彼はどうだろう?
その思いに応えようとしたのだと思う。必死に。それがきっと、裏方に徹していた彼の思いだったのだ。
けれども―――そう思えなかったのだろう。
自分はその思いに応えられていないのだと―――無意識のうちにそう思っていたに違いない。
だから―――決めた。
ごめんなさい、須賀君。
この夏が終わるまでは―――徹底して利用させてもらう、と。
それによって―――彼に部にいる理由を作った。
ここにいるべき理由を、作らなければいけない。このまま彼に部活を止めてもらう訳にはいかない。
勝手な理由だ。それでも竹井久はこの男の子を逃がす訳にはいかなかった。
それが、始まりだった。
彼という人間を、向き合う、始まり。
―――自分は、心の何処かで自分を「強い人間」だと思っていた。
名門校に行けなくたって、部員は誰もいなくたって、それでも自分の夢を諦めないだけの強さを持っている人間であると。
けれども。
―――夢が、どうしようもない運命に叩き潰された人間だって、存在するのだ。
目指すべき道が、途中で崩落した人間。諦めたくないのに、諦めざるを得なくなってしまった人間。
そんな人間が、今こうして戦い続けている人間とかつての自分を「重ねて」いるという事実。
重ねてしまったが故に、今辞めようとしている事実。
涙が、出そうになった。
そんな男の子がいる事に。
そして―――そんな誠実さを体よく利用していた自分自身に。
だから、これは贖罪なのだ。
大会が終われば、今度は自分を利用させねばならない。そうでないと、フェアではない。
そう。
利用させる。
「-------」
指導が終わってすやすやと寝入る彼の顔を、眺めた。
―――利用---させる。
そうじゃない。
きっと―――自分を、利用して「もらいたかった」。
その無防備な顔を見て、すぐに理解できた。
ありがとう。
ごめんなさい。
そう、思った。
※
そうして、日々が過ぎ、季節が巡っていく。
久の指導によって、京太郎は一定の水準まで麻雀の能力を付ける事には成功した。久曰く、「運は悪いけど筋はいい」らしい。教えた事を吸収するスピードはかなりのものだが、それでもツモ手が中々集まらないという不思議な現象が起こっているものの―――それでも、彼は部員たちとやって早々にトぶ事は少なくなってきた。
季節は、秋を巡り冬へと向かって行く。
休日。冬季大会を目指し部員達が集中して練習する最中、久と京太郎はずっと付きっ切りで彼の自宅で練習していた。
「お-------おー、やるじゃない!」
いつもの通りネト麻での実戦。そこで京太郎ははじめて二連続での一位勝ち抜けを果たした。
久は喜びの余り椅子に座る京太郎の頭を掻き抱く。
「うわ、ちょっと竹井先輩」
「なによー。嫌がらなくていいじゃない。師匠冥利に尽きるわよ~。このこの~」
ニコニコと笑顔を湛えながら、彼女はよしよしと京太郎の頭を撫でていく。何だか子供のようだったが、―――まあ、自分はこの人にとって見れば子供なのだろうなぁ、と思う。
そうしてなすがままにされている中で―――彼女は、ふとその動きを止めた。
「ねえ、須賀君」
そうして―――頭を撫でていた腕を、そのまま彼の首元から身体の前で交差し、こつんと彼の頭に自分の顎先を乗せる。
「ど、どうしました?」
「ありがとう」
自然に、彼女はその言葉を口にした。
「色々、ありがとう。部活に入ってくれてありがとう。裏方仕事を何も文句も言わずにやってくれてありがとう。―――で、こうやって私の指導に付き合ってくれて、ありがとう」
「え-----?」
前者二つは、まだ解る。
けれども―――この指導は、感謝するのは自分のはずだ。何故に、指導する側が感謝するのだろう?
「私は、やっぱり思った以上に〝弱い″女だったの。―――多分、貴女の指導なんて真っ平御免だ、って言われたら、私は耐えられなかったと思う」
「------」
「ごめんなさい、じゃ須賀君に失礼でしょ?だから―――ありがとう」
彼女はぐりぐりと、彼の頭に顎をこすりつける。
「------ねえ、須賀君?今でも、中学時代の事は悲しい?」
「-----」
「そりゃあ、悲しいわよね。悲しくない訳がないもの。―――でもね、その悲しいはずの貴方が、誰よりも人を思いやってくれた事も、また一つの事実なの。悲しくて、どん底にいる時に―――それでも優しくいられる人は、きっと心の底から素敵な子だわ。-----貴方は、ずっと私を拒絶しなかったもの」
ぎゅ、っと彼女は交差した腕に力を籠める。
「私は―――須賀君に会えて、とても嬉しかったわ。貴方は、どうかしら?」
「えっと-----」
そりゃあ、嬉しいに決まっている。
そう言葉を返そうとするその瞬間に―――彼女は、告げた。
「私、須賀君の事が好きよ」
時が、止まったように見えた。
顎先に乗せられた久の表情は、京太郎には見えない。
ただ―――交差した手の、微かな震えだけが如実にその言葉の真剣さを物語っていた。
―――ごめんなさい。
彼女は、グッと奥歯を噛みしめる。
―――あの時、眠る貴方にキスしたのは―――
それは、何も―――封じていた乙女心の発露なぞではない。
それよりも、ずっとずっと打算が入り混じった、不純な代物だ。
―――咲が、そこにいたからなの。
そう、竹井久は述懐した。