人に壁を作る理由は至極単純である。
近付かれたくないからである。
この至極単純な方式の前に、須賀京太郎は何となく落ち込んでいた。
----何と言うか、うん。
清澄高校の中で、こうも如実に壁を作られる事は無かった。女子に囲まれながらもそれとなく受け入れられていた経験がある為か、その様子に少しだけショックを受けていた須賀京太郎であった。
―――まあ、けどこれが普通だよな。
同時に、聡い彼はこう思いもする。
女の子だし。しかも女子高出身だし。男に対して警戒心を持ってしまうのも致し方あるまい。福路美穂子という女性がどれだけ聖母のような人であろうとも、それは変わるまい。相性がいい人間もいれば悪い人間もいる。それはごくごく自然な事なのだと。
そのように彼は判断した。
けれども、―――彼女の優しさもまた、理解できている。
だから、手伝うと宣言した以上はそれを放棄したくもなかった。
故に、―――まあ、仕方ないと心中、呟く。
彼女ほどの聖人に距離を置かれているという事実に何だか打ちのめされそうになるが、それでも、そうなってしまったからには仕方がない。
彼女が距離を取るのならば、自分もそれに合わせなければいけないのだと思う。
そう、彼は結論付けた。
※
「あ、あの須賀君-----」
「は、はい。どうしました、福路さん」
「えっと、その----ううん、ごめんなさい。なんでもないです」
「そ、そうですか----」
「ごめんなさい-----」
ずっと、こんな感じである。
多分彼女も、このままでは駄目だと思っているのだろう。何とかコミュニケーションをとろうと思っているのだろう。
だから、どうにかして話しかけようとする者の、結局言葉を詰まらせてしまう。こういう事が、何度か続いてしまった。
かけようとする言葉は、恐らくは彼を気遣い、仕事をこちらに分担するように求める言葉なのだろう。
けれども、それでは本末転倒にも程がある。自分の負担を和らげるために、彼はこうして日々雑用をこなしてくれているというのに。
------自分はキャプテンなのだ。
その本懐はチームを勝たせる事だ。
それは、解っている。ならば、自分は他の事にかまけている時間なんてないのだと。その部分を担ってくれている須賀京太郎に、感謝こそすれ拒絶する理由なんてないのだと。
でも、それでも。
何故だか自分の心に不安があるのだ。
人に何かを背負わせる事への不安が。
―――だったら、頑張らなくちゃ。
自分は、頑張らなくちゃいけない。
こうやって、気遣われているのだから。
それに、応えなくちゃいけない。
そうに違いない。
そうじゃなければ、自分はキャプテンではない。甘えている分、頑張らなくちゃいけない。夏になれば、大会だって控えている。自分の実力をしっかりと堅持して、大会に臨まなければいけない。無駄にしている時間なんてない。
そう、彼女は結論付けた。
※
結論から言えば。
この二人の二つの結論は、両者を微妙な意識のすれ違いを生んだ。
須賀京太郎は自分が「避けられている」と思っているが故に、彼自身も彼女を徐々に避けるようになった。
福路美穂子は自分が「気遣われている」と思っているが故に、ひたすらに麻雀に打ち込んだ。
須賀京太郎は出来る限り迅速に雑用をこなしつつ、彼女の邪魔にならぬ様に、意識して距離をとるようになった。必要な時以外は美穂子に対しては挨拶だけで済まし、それ以外は出来る限り関わらない方がいいのだろうと。
福路美穂子はこうして出来た時間を必死に麻雀の研鑽の為に使った。そうしなければいけないのだと、ある種の執念を纏いながら。無論、周囲のフォローや後輩の世話、指導といった事に手を抜く事無く、そのようにしていた。
「-----キャプテン、大丈夫ですか?」
「ん?どうしたの、カナ?」
「いや、最近ちょっと元気が無いな、って」
池田華菜にそう言われ、福路美穂子は少しだけキョトンと首を傾げてしまう。そうなのだろうか。自覚は無かった。
「そうかしら?」
「何か-----無理してないですか?」
「無理なんて----」
している訳がない。
ああやって、後輩の男の子が頑張ってくれているのだから。その分、自分は負担が減っているに違いないのだから。
「その-----須賀も、心配していましたから」
「え?」
意外だった。
―――自分の負担を背負わせておいて、その上であんな態度をとっている自分を、それでもまだ心配してくれているのか、と。
「その----アイツは、馬鹿なんですけど、ちゃんと見るべき時はちゃんと周りを見てます。巻き込んだ私が言うのもあれなんですけど、アイツが手伝うのを決めたのだって、キャプテンが無理をしないようにする為でした。だから、その、無理はしないで下さいね?」
そう池田華菜は申し訳なさげに言った。
------一つ、心中で溜息を吐いた。後輩に気を遣われるなんて、何処まで駄目なのだろうと。
ちゃんと、しなきゃ。
もっとちゃんとしなきゃいけないんだ。
元気に振る舞わなくちゃ。自分が空気を悪くする訳にはいかないのだから。今は、大事な時期なんだから。
------そう、思った。
自分は無茶などしていない。ただただ、やるべき事をやっているだけだ。
やるべき事をやっているだけで無茶をしているように思われるのならば―――それは、自分が悪い事に他ならない。
※
それから、暫くの時間が経った。
夏の暑さが少しだけ垣間見えるようになった五月のはじめ。しかしその日は雷雨混じりの激しい大雨で、気温もそれに応じて一気に下がっていた。
「雨かー。梅雨にはまだ早いのにねー」
部員の一人がそう言うと、苛立たし気に池田華菜が答える。
「不覚だったし------何で朝に講義がある日に限って、昼から雨が降るし。おかげで傘が無くて帰れないし」
「ふふ。カナもあわてん坊さんね。天気予報見なかったの?」
「ふふん。この池田華菜、天気予報なんて見ないし!」
「-----大方、講義ギリギリの時間まで寝て慌てて飛び出しているから天気予報なんて見てないんでしょう?」
「あ?」
「図星だからって睨まないで下さいよ-----」
なにおー!と叫び出す池田をどうどうと止めながら、美穂子は一つ提案をする。
「そうだ。以前、東京のお友達からお菓子を貰ったから、温かい紅茶と一緒に食べましょう」
雨が降る日にも関わらず頑張っている部員に、せめて身体だけでも温めてもらおうとお茶を入れる事にしたのだった。
ティーポットに茶葉を入れ、湯を注ぐ。
「流石に人数分のカップは無いから、紙コップになるけど、ごめんね?」
「そんな贅沢はいいません!キャプテンありがとうございまーす」
人数分の紙コップを須賀京太郎がテーブルに配置していき、ポットを美穂子が持って行こうとする。
「福路さん、俺が持っていきましょうか?」
そう京太郎が声をかけると、いつものようにニコリと笑いかける。
「大丈夫よ。須賀君も座って。お茶、入れてあげるから」
そう言って、彼女はポットを手にする。
その瞬間―――雷鳴が、響いた。
付近の山に落ちたのだろう。弾丸が鳴り響いたような、凄まじい轟音であった。
その瞬間―――思わず、ポットを手にしたまま、身体を硬直させてしまう。
不幸にも―――歩き出そうとしたその足が、眩暈と共に、膝元から力が抜けていった。
その結果として―――彼女は、ポットを抱えながら、前に倒れ込んでしまった。
多分、床に転げて熱いお茶をひっかぶる事になるのだろうな、と予測できた彼女は―――それを覚悟してぎゅっと、両目を閉じた。
けれども、―――覚悟していた熱と痛みは、いつまでたっても来なかった。
恐る恐る―――
「須賀君!?」
そこには―――自分の身体を下敷きにした須賀京太郎の姿と、遠くで割られていたティーポットがあった。
恐らく、茶がかからぬようにポットを払いながら、転ぼうとする美穂子の身体を急いで受け止めたのだろう。
「大丈夫ですか、福路さん」
「わ、私は大丈夫。それより、須賀君-----!」
「お、俺も大丈夫----です----から」
その瞬間、彼の目から少しだけ困惑の色が見えた。
気付いた。
今、自分が両目を開いている事に。
「―――あ」
その瞬間に、思考が止まった。
眼前の後輩にかけるべき言葉も、するべき事も。何もかもが―――。
見られた。
見られてしまった。
試合の時の様に、自分が意図して―――つまりは覚悟を以て見せるのではなく、不意なタイミングで。
その不意に訪れた現状は、過去の記憶をぐるぐると想起させていった。
「あ---ああ---」
その瞬間に、もう彼女は走り出していた。
全てを放りだして。
部室からみっともなく、体裁も何もなく、逃げ出していった。
何故だかは、解らない。
けれども―――そうするしかなかった。
悲しくて、辛くて、―――その他の感情が溢れ出してしまって。
彼女は―――雨の中、傘もささずに逃げていった。