眼前に、にこやかな笑みを浮かべた原村和がいた。
ああ、なんと可愛らしい愛娘だろうか。
我が娘ながら、目に入れても痛くない程だ。
それでも、それでもだ。天使だと思って可愛がってばかりでは、この子の為にならない。そう信じて今までの間厳しく育てたつもりであった。
その、つもりだった。
だったのだ。
―――わ、私はこれ程までの冷徹さを凝縮したかのような目の子を育ててしまったのか。
我が肉親を-----まるで生体実験場へ送り込まれるモルモットを見るような目で。憐れみと、諦念が入り混じった様な目をさせてしまう程に。
眼前には、テープレコーダー。
そこから垂れ流される声は、無機質なものだった。全てを諦めたかのような、全てに憔悴しきったような、涙声。淡白ながら悲壮さを醸し出すその声は、何とも不思議な感覚を覚えた。恵、すまない。本当にすまない。俺は探偵としてやってはならぬことをした。本当にすまない。元学友の探偵の声は、台詞に反して本当に無機質で。けれども薄く張った氷海の上を歩くような絶望も携えていて。まるでサティのジムノペディが背後に携わっているかのようだ。無機質、淡白、されど絶望。我が友人が如何なる仕打ちを受け続けたのか----それを思うだけで背筋に走る氷のような冷たい感覚に、思わず一つ身震いする。
「―――ねえ、お父さん」
声が聞こえる。穏やかで、緩い風のような、そんな声。されど解る。この風のような声は、零下の温度を携えている事が。
「お父さんは、高校生の時に言っていましたね。離れ離れになった程度で解消される友人関係なんて、それは本当に友人と言えるのか―――と。私は覚えていますよ、その言葉」
声は、変わらず穏やかだ。
にこやかに、にこやかに―――はっきりと仮初の天使を憑依させ、彼女はそれでも悪魔の言葉を紡ぎ出す。
「ねえ、お父さん。むしろ私はこう思います。離れ離れになっても悲しくない、離れ離れになってもへっちゃらな友人関係―――そんなもの、友人と言えるのですか?一緒にいて楽しくて、辛い事も苦しい事も乗り越えてきた素晴らしい人達に引き裂かれて離れ離れになって―――心を平然に保つ事が出来ると?」
穏やかな声が穏やかなまま、されどその心理を抉っていく。
緩急付けたような波状攻撃。温かに見えて怜悧なその声に、原村恵の心はまるでズタズタに引き裂かれた人形の如き様相と化していた。
「友情を育む事と、友情を引き裂かれた心の痛みは、全くの別物です。育まれた友情が本物であるからこそ、それが引き裂かれた心が痛いんです。
―――ねえ、お父さん。信じて依頼した友達に裏切られる心の痛みはどうですか?彼は裏切った後も、ずっとお父さんに懺悔していましたよ。きっと心が痛かったんでしょうね。お父さんにそれが理解できるかどうかは解りませんが」
悪魔だ。
悪魔がここにいる。
―――人間が悪魔になる瞬間というものがある。
何かに抗う時。手段を択ばず何かを手に入れようとする時。
まさに、今がその時なのだ。
「ねえ、お父さん。だったら私達も―――たとえ離れ離れになったとしても、ずっとずっと私達は親子ですよね?たとえ二度と会えなくなったとしても、その程度で親子としての愛情が失われるなんてそんなオカルトあり得ませんよね?そうですよね?たとえ鳥籠から飛び立とうとも、ずっとずっと私達は親子ですから。―――そ・う・で・す・よ・ね?」
言葉尻が強くなる。
被っていた天使の皮が、剥がれていく。
「ほら、どうですかお父さん。このテープレコーダーを今度はお母さんに聞かせてあげましょうか?それもいいですね、今度は家族会議になるかもしれませんね。家族会議になったらおじいさんとおばあさんも呼んであげましょうか?そこで私は必死になって、何だったら涙ながらに声を殺して言うんです。“私は自由に人間関係を作る事も出来ないんですか。子供の時からそうだった。ずっと私はこうなってばっかり。大人になってからも同じ事を強要するんですか?こんなのが私のお父さんだなんて。お父さんなんて大嫌い―――”どうでしょう?きっとこれからお母さんもおじいさんもおばあさんも、お父さんが私に干渉しないようにしっかり見張ってくれるでしょう。そして私はお父さんに二度と会わないまま過ごすんです。死に目位は、まあ見てあげますか。―――どうですか?それでもお父さんは私のお父さんですからね。きっと耐えられるはずですよね。離れ離れになったとしても、私達は親子ですから。そうですよね?ね?」
刺し過ぎて尚、今度は血と脂に塗れた刃で肉を裂いていく。そんな冷酷な言葉が、ズタズタの心理をより深く、深く、深く、差し込んでいく。
「ねえ、お父さん。何で下を俯いて黙り込んでいるんですか?いつものように反論して見てくださいよ。涙なんか浮かべて。いつもの毅然とした姿は何処に行ったんですか?」
「頼む----和----。頼む-----それだけは、それだけは-----」
「―――ねえお父さん。お父さんはかつて私の“頼み”を条件付きで聞き入れてくれましたね?だったら私もそうさせて頂きます。私が出す条件を満たせば、頼みを聞きましょう」
子は、親が行いし行動を反復していく。
ならば、和もそのようにした。
実に明確な「やり返し」である。
「さあ―――では、話し合いを始めましょうか」
※
ある日のこと。
須賀京太郎は仕事を終え、帰路に着いていた。
その日の仕事は様々あった。データの編纂作業が、PCのクラッシュにより一気に溜め込んでしまいその処理に奔走する事六時間。夜の九時まで立て込んだ業務をようやく終え、彼は帰宅の路についていた。
夕飯を作る時間も気力も無く、彼は近場の居酒屋で夕食をとる事となった。
カウンター席でちびちびとビールを飲みながら焼き鳥とサラダをつまんでいく。
その隣の席が、引かれる。
特に気にすることなく淡々と食事を続けていると、声をかけられる。
「―――須賀京太郎君かね」
そこには白髪のスーツ姿の中年がいた。
協会のお偉方かな、と訝しみつつはい、と答える。
「突然すまない。私はこういう者だ」
そういうと、彼は名刺を差し出した。
受け取り、それを読む。
「原村恵さん-----ってまさか」
「そのまさかだ。私は、原村和の父だ」
そう彼は―――何故だか、妙に生気のない顔でそう自己紹介した。
「娘が世話になっていると聞いた。一つ、挨拶でもしておこうかと思ってな」
それだけを、言った。
※
―――いいですか、お父さん。私がお父さんに出す条件はただ一つ。私が、無事彼と交際に至る事。ただそれだけです。
そう、彼女は条件を出した。
―――なので、別に邪魔立てしなければいいのですが、彼は高校時代にお父さんに私が言われた事を知っています。多分“厳格で冷たい”イメージが彼の印象としてあると思います。私との交際においても、お父さんの存在がネックになる事も、きっとあるのだと思います。
だから、それを解消しろ―――そう彼女は言っているのだろう。
邪魔立てしなければそれでいい。けれども何も動かず娘の交際が失敗に終われば、あのレコーダーが家族会議でレクイエムの様に鳴り響く事になる。
―――お父さんは、高校時代に私に“全国優勝”という結果を求めました。なので私も、過程ではなく結果を求めます。私が求める未来を掴むために、自分で考えて身の程を弁えつつ、行動してください。
そう、冷たく言い放った。
------まさか、まさかこんな風になるとは。
そう彼は涙を浮かべながら思った。
何故こうなったのか。
―――いや、こんな思いを、もしかすれば彼女とて子供の時から味わわされていたのかもしれぬ。
そのしっぺ返しなのか。
ならば、甘んじて受けるべきなのか。この地獄も。この現実も。
原村恵は心中で、深い慟哭をあげていた。
立ち位置が転がされ、頭上には天使の羽根を持つ死神が舞う。
たった、それだけの話なのだ。
何度も思うけど、何で恵さんあんな嫁さん貰えたんだろ。なれそめ知りたいなぁ。