―――かくして。戦いは終わった。
「試合終了。総得点一位、宮永咲」
大歓声の最中、無機質なその声が、会場に響き渡った。
大星淡は、総得点二位のまま、結局宮永咲を捲れず終えた。
―――それでも、彼女には惜しみない拍手が送られた。
何故ならば、プロである宮永咲に満貫の直撃を取ったという、目に見える快挙を成し遂げたから。
けれども、淡の中にはそれを喜ぶような感情は存在しなかった。
―――これが、今の私なんだ。
受け入れなければならない現実が、この歓声だ。この結果だ。
敗北した時に息を飲むようだった一年前と打って変わって、今や敗北は当たり前。一度直撃を奪っただけで歓声が上がる始末。今の自分は、そういう存在なんだ。
悔しい。悲しい。涙が思わず滲む程に。
解っていた事じゃないか。自分と宮永咲との実力の差なんて。負けて当たり前なんだ。まさか自分は勝って当たり前だとでも思っていたのか。何故に今、自分はあの時よりも純然たる感情が沸き起こっているのか。あの時は失望感で涙すら出なかったというのに。
沈んだ表情のまま会場を出たその時―――こちらを出迎える人影があった。
「お疲れ、淡」
そこにいたのは、須賀京太郎と弘世菫だった。
彼等もまた、こちらを労わる笑顔を浮かべながらも、それでも悔し気な表情を浮かべていた。
―――ああ、そうだ。
あの時とは明らかに違う事があったじゃないか。
―――私は、期待に応えさせられていたんじゃない。期待に応えたい、って思っていたんだ。
無茶だと解っていても、それでも、それでも―――勝ちたかった。期待に応えたかった。だから悔しいんだ。だから悲しいんだ。期待に応えられなかった自分の情けなさが、実力の無さが。
「------キョウタロー、スミレ」
「うん?」
「ごめんなさい-----期待に、応えられなかった。私、私------」
「謝るな馬鹿。―――お前は頑張ったよ。あの化物相手に」
「でも、でも、私------」
弘世菫は自然に彼女に近付くと、ふわりと抱きしめた。
「でもじゃない。お前は逃げなかったんだ。その過程を経て出た結果なら、でもはない。お前は―――本当によくやった」
その声は、聞き慣れない調子で紡がれている。いつもの厳しく、凛然とした声じゃない。羽毛の様に柔らかい声だ。柔らかい腕と柔らかい声に、淡は包まれていた。
そして、くしゃりと髪を掻き分ける力もやって来た。
これはいつもの感覚だった。優しくも力強い、ゴツゴツとした掌の感覚。
「カッコよかった。本当に凄いと思った。----ありがとう、淡。滅茶苦茶、興奮した」
彼が言えるのは、これだけだった。
頑張ったな、とは口が裂けても言えなかった。それは、彼女と同じ次元で戦い続けてきた弘世菫だから言える言葉であって、この場面において自分は言ってはならないと感じた。だから、感想だけを述べる事にしたのだ。カッコよかった、と。
色々な感覚、色々な言葉。その諸々に包まれ、彼女の感情もまた堰を切ったように溢れ出した。
―――悔しい。悔しくて悔しくて堪らない。かつての敗北の記憶、そして今直面した敗北の記憶。大学での研鑽の日々に新たな出会い。その全てがまるで全身を駆け巡るかの如く頭から溢れ出してきて、止まらなかった。
「う-----うああああああああああああああああああああああああああ!!」
負けた。負けてしまった。
積み上げてきたモノ全てを賭けて戦って尚勝てなかった、その事実をまた彼女の過去の足跡に刻んで、彼女の戦いは一先ず幕が下りる事となった。
それでも、かつての終幕と異なる事実がいくらでも見つけられた。
―――きっと、それが大事なのだ。そう彼女を包む二人は思う。
立ち止まるんじゃなく、歩み続けた。過去に囚われることなく、過去に立ち向かった。その過程を経て―――ようやく大星淡はその敗北に価値を見出せた。その敗北に涙を流すことが出来た。
こうして、彼女のリベンジは、ほろ苦い形で終わる事となった。
いくらでも悔しい思いはあるだろうが―――あの時の様な失望感は無い。何だか幾分爽やかな思いと共に、何もかもが劇的に変わった夏の日が、過ぎていった。
※
―――なんだかなぁ。
宮永咲は試合が終わるとすぐ報道陣に囲まれ、試合の感想を訥々と述べる事となった。歯切れのいい文句を並び立てる事に随分慣れてきた彼女は、十数分程質疑応答を行い、そのまま会場を後にする事となった。
感想を言えば、相当にやりにくかった。プロでの場数を踏み、自分の実力はあの時から格段に上がっていたと思う。それでも―――大星淡は手強かった。強力な手を作るそばからダブリーで流され、勝負所で直撃を奪われた。本当に、強くなっていた。
―――本当に、なんだかなぁ。
偶然、大会会場で涙する彼女と弘世菫―――そして、須賀京太郎を目にした彼女が抱いた感想は、これだった。なんだかなぁ、と。大星淡も無論勝った気なんてしてないだろうが、自分は勝者のはずなのになんだか負けた気分だ。
かつて、ああいう風に世話を焼かれていたのは自分で、―――そして月日を経るごとに何となくその関係は解消されていったという事実。
そう。あの人はそう言う人だ。一人ぼっちでいる人間を放っておけない人だ。だから、きっと大星淡にもそういう感情で近付いていったのだろう。
それはつまり―――世話する必要が無くなったら、それまた何となく関係から離れていく人だ。それが異性ならば、尚更。
自分もそうで、そして今現在そのありがたみを痛感している宮永咲なのであった。
―――なんだかなぁ。何でそうなるのかなぁ。
現状を認識し、とにかくそういう風にばかり思ってしまう。自分以外に誰にも責任は無いから誰にも責める事は出来ないけど、その行く当てのないどうしようもない感情が、そういう言葉で発露していた。
はぁ、と一つ溜息を吐いて、宮永咲は会場をとぼとぼと去っていく。それは勝者の姿にはとても見えなかった。
―――ばいばい、淡ちゃん。あの男は油断していると次第に消えていくから、ちゃんと注意するんだよ。
そう一つ、心の中でぼやいたのでした。
※
意識が、覚醒していく。
がばりと身体を起こし辺りを見る。そこには自分のお気に入りの人形が潰されたように両腕にくるまっていて、ピンクのシーツに包まれた自分の姿があった。
―――そっか。家に帰って、泣き疲れて寝ちゃってたんだ。
そうして、彼女は腫れぼったい目元をごしごしと擦って、時計を見る。時刻は9時を過ぎたあたり。起きるにも寝直すにも何とも中途半端な時間だなぁと考えながら、とにかく水でも飲もうかとキッチンへと向かった。
その瞬間、ぐぅ、という腹の音。
「-------」
あれだけ悔しい思いをしてもいつも通り腹が減る自分に、何とも言えない無情感を覚えながらも、何か取り敢えず食べようと思い、外へ出る。
そして、ドアノブの妙な重たさに気付く。
ノブには、袋がかかっていた。
中身を見ると、カレーのルーと白米がタッパーに詰められ、挟まれたメモ用紙が一つ。
“今日は好物食べて元気を出せよ”
「--------」
隣の部屋を見る。
まだ光が見えた。
「--------」
ならば、元気を出させて頂こう。
袋を手に持ちながら、彼女は遠慮なくチャイムを鳴らした。
※
芳醇なルーの匂いに白米の照りが実に香ばしい―――久方ぶりの幸福感に包まれながら、笑顔で彼女はもくもくとカレーを食らっていた。
こりゃあ心配する必要も無かったか、と安心感と徒労感ががっくりと両肩にかかりながら、ちょっと呆れたように須賀京太郎は彼女を見た。
まあいいじゃないか。これが大星淡だ。
「ねえ、キョウタロー」
ニコニコと笑みを張り付けながら、彼女は呼びかける。
「うん?」
「------何でさ、応援していたの私に黙っていたの?」
笑顔ながら、何処か詰問じみた口調で彼女はそう問いかけた。うん、ばれていたのですね。そりゃあ、最終日はばれるつもりでいたけれど、ここまで全試合見ている事もばれているっぽいなぁ、この口調だと。
「-----うーん、何ていうかさ」
「うん」
「そこまでやると、逆に迷惑じゃないかな、って思ったんだよ」
「何で?」
「だって、淡は今まで余計な期待をかけられる事に重圧を感じてきた訳じゃないか。こういう日常の中で頑張れ、っていうのと実際に試合を見に行くのじゃあ、期待の種類が違うだろ?」
試合を見に行く、という事は―――それすなわち「現地で応援してやっているんだから絶対に勝てよ」というメッセージがその中に含まれているように、京太郎は感じていたのだ。そうは思って欲しくない。けれども彼女の試合は見たい。そういう訳で、試合を見に行っている事を黙る事にしたのだ。
その言葉を聞くと、彼女はジッと彼を見た。見ながら、言う。
「-----いいんだよ?」
「え?」
「私は、キョウタローにずっと期待してもらいたい。ずっと、ずっと、期待してもらいたい」
「えっと、淡------?」
「キョウタローは私をずっと見てくれて、変えてくれたもん。だから、キョウタローは変わった私に、ずっと期待してほしい」
「------」
「これから、もっともっと期待を裏切る事になっちゃうかもしれない。それでも、いつかは絶対に応えるから。―――キョウタローは、どれだけ裏切られても失望しない人だって解っているから、だから」
だから、のその先は続かなかった。
彼女は今身体に起きた異変を認識するには少し時間が必要だった。だから、黙った。
そして―――今彼女は、須賀京太郎に片膝立ちで抱きしめられている事を知った。眼前に、彼の横顔がある。
「キョウタロー------?」
困惑する淡をよそに、須賀京太郎は囁く。
「淡、ちょっとだけ聞いてくれ」
今まで聞いた事の無いような真面目なトーンで、彼はそう言った。
思わず、うん、とだけ言った。
「俺はさ、最初は―――放っておけない、て思ってたんだよ。お前の事」
「-------」
「凄い雀士だけど、大きな出来事で挫折して、それでも歯を食いしばって立ち向かっていく姿に、勝手に共感したんだ。俺は、挫折から立ち上がれなかった人間だから」
「----うん」
「だから、応援したかった。だから、支えてあげたかった。けどさ、―――お前に黙って応援しに行くのは、ただの俺のエゴなんだ。お前が試合をやっている姿を見たい、っていうのは、そういうものとは別なんだ」
「------」
「淡。―――俺は、お前の事が好きなんだと思う」
え、と思わず声に出してしまった。
その言葉と共に、彼はゆっくりと淡から離れた。
「その―――お前の強い所も、脆い所も、全部見て来て----ずっと、一緒にいたいと思ったんだ。これが、俺の気持ち。俺は、こういう男だ」
きょとん、と―――まるで夢遊病患者の如く口を半開きにしたままその告白を聞いていた。
返事までの間、たっぷりと十数秒。勢いに任せ放った台詞が、一生拭えぬ黒歴史に刻まれるかはたまた人生最良の日を彩る言葉となるか。天国か地獄かの瀬戸際の中、彼の思考は無と化していた。
彼女の口が、開く。
「うん―――うん!」
その口は、笑みの形を象りながら―――。
「私も、大好き!」
そう、ひたすらに幸せそうな笑顔で、ひたすらに単純な言葉を紡いだのでした。
一先ずこれであわあわ編はおーしまい。書きやすいお話がこうして一つ逝ってしまわれた。あーあ。このお話は何処かでアフターを書こうかなぁ、とも思っています(書きやすいですし)。無論、アフターは無粋という意見が目立つようなら書きませんが。
とにかく結構長く続いたこのお話もここでおしまいでーす。ありがとうございましたー。