He who has never hoped can never despair.
バーナードショーの格言である。
「希望を抱かぬ者は、失望する事も無い」―――。
まさしく、その通りである。希望無き者に失望の二文字は無い。無から有は作れない。そもそも持っていないものを失う事は、物理的にも概念的にも不可能だ。(時々、愛宕洋榎は自らの肉体を眺め、“母の遺伝子を失った”と言う事もあるが、それも間違いである。胸部の遺伝情報は妹が継いだだけで、一子相伝皆が皆同じ遺伝子を継ぐわけではないのだ。それと同じである)
現在、須賀京太郎の目には失望の二文字は無かった。
―――何をやっているんですか全くもう。いつもの事ですけど、俺がバイト中の時まで恥をかかせるの止めて下さいよ。
彼の言葉は若干の笑みすら浮かべながら放たれている。それが何を意味するのであろうか?彼は、―――眼前で女を全て捨てきった愛宕洋榎の姿を見て尚、失望なんぞしていないのだ。
希望なんぞ、ない。
故に失望すらない。
それを表す言葉は、ただ一つ。
希望は、途絶える。
故に、絶望。
※
こうして―――“愛宕家+αによるチキチキ洋榎女子力アップ計画”は、見るも無残な結末によって締め括られた。
何なのであろうか―――。愛宕雅枝はまるでジェノサイド後のルワンダを眺めるが如き光無き瞳で、自らの娘を眺めた。
「--------」
「--------」
「--------」
「--------?」
重苦しい沈黙を奏でる女三人、そして能天気そうにニヤつく女が一人。
休日を丸々潰して得た結果が、この間抜け面を拝む事だったのだろうか。
あまりにもやるせなくて、悲しくて、もしくは切なくて―――絹恵が、声を上げる。
「なあ、姉ちゃん」
「ん?何や、絹?」
「―――何でそんなわろてんねん?」
呆れ混じりの妹の言葉に―――何を当たり前の事を、と言わんばかりにカラッとした笑みを浮かべ、その問いに答えた。
「そら決まっとるやんけ。須賀のバイト先知ったんや。これからバシバシ攻めていくで~」
その言葉に―――顔を青ざめさせる女が、また一人。
愛宕雅枝であった。
その、まさしくあらゆる状況を無我の境地に放り出しているのであろう娘の首根っこを、掴む。
「アンタは、何を言っとるん?」
ギリギリギリギリ。後ろ首の根っこに指をめり込ませると、彼女は薄ら笑いを浮かべる。
そのまま、背後から、―――まるで蛇の如く愛宕洋榎の顔面を眺める。
その眼は、深い慟哭と諦念が入り混じった空虚であった。あらゆる負の感情を底に沈めた泥の沼。その眼を直視し、思わず愛宕洋榎は凍り付く。
「今のアンタなんてなぁ、大学で会うだけの関係やから成り立ってんねん。今のアンタがあの子のアルバイト先なんかに顔を出してちょっかいだしてみぃ。ただでさえウザさ百パーセントやのに、もう天元突破、宇宙創成の数え役満や。もうそうなればお終いや。本当に雀荘でくだを巻く駄目人間オブ駄目人間に成り下がるで」
「だ、駄目人間-----」
「アンタの駄目な部分じゃない所なんか、あったら教えてほしい位や」
「ほ、ほら---。かーちゃんが授けてくれた、この均整の取れた美少女ボディなんか----」
「--------」
「な、なんか-------」
「腹を痛めてその身体を授けた身からしてみればなぁ----まるで命懸けで海洋に出て釣った魚を、路上に放り出して腐らされている気分なんや。解るか、洋榎?」
「ヒィ-------」
「もうここまで来たんや。―――安心しぃ、洋榎。私はな、お前の母親や。アンタの幸せを、アンタの願いが叶う事を、心の底から願っとるで。ここで投げ出したりなんか、せえへん」
「--------」
「ただ―――麻雀と同じや。勝つために、血反吐を垂れ流す覚悟で徹底的にやらなあかん。だからな、洋榎―――」
ニコリと笑み、彼女は―――事もなげに、宣言した。
「一度死んでもらう」
※
それから。
―――そうです。彼とは、いつの間にか別れてしまいました。ずっとずっと、すれ違っていた日々だったので。
―――雀士の世界はとても厳しいものでした。彼とはプロ入り前から付き合っていて、そのままお互いに同棲しながら生活していました。けど、雀士にとって土日は遠征の為の移動日であったり、他のイベントで潰される事も珍しくはありませんでした。一緒にいる、というのは形だけのものでしかなかった。ずっとずっと、忙しさの中で心が離れてしまったんだと思うんです―――。
―――お嫁さんになる、というのが一つの夢だったなぁ。でも、アイドルになるのも雀士になるのも、また一つの別の夢だった。だったら仕方がない。そう思う他ないんです。何かを得る為に何かを切り捨てなければならないのは、珍しい事じゃないんですから。だ----だ、だか----ら。う----うう-----。
―――アンタ、解ってる?こうやってアタシが飯を作ってあげられるのもメロンを剥いてあげられるのも、アタシが生きている間だけだって。そりゃあ、アンタは十分な位稼いでくれてるし、ここにいる事に何の文句も無いわよ。でもねえ。いくら金があってもいつまでもアタシが元気でいられる訳じゃないんだよ?アタシが死んだらアンタどうするのよ?
見せた。
末路を。
女雀士というものはよくよく特集されるモノだ。華やかな世界であると同時に、厳しく惨い世界の最中で家庭を得る事無く年を経てしまった人間だって存在する。そういった雀士たちは、メディアを通してその姿を見せつける。
愛宕雅枝は、我が娘を椅子に座らせ、その背後でこれらの映像を流し続けた。
最初はゲラゲラと笑い転げていた洋榎であったが―――口を一文字に閉じ切った母の冷たい目線と、後半にかけて生々しさを増していく慟哭と現実に、徐々に苦笑いへと転化させていき―――次第に、自らの未来を重ね合わせ、直視できずに視線を逸らしはじめ―――。
「逸らすな」
冷たい声音が、彼女の脳裏に刺さる。
まるで看守だ。
「そうや。これがアンタが目を逸らしてきた現実や。蓋然性の高い未来―――アンタという人間が抱く理想と現実の狭間に揺蕩う、ゆらり揺れる“可能性”や」
―――そうよ。どうせ、どうせアタシなんか―――。
―――どうしてこうなっちゃのかなぁ―――。
―――へ?いいから今度は桃を剥いて来てよお母さん―――。
怜悧な刃で斬り裂かれるような痛みが、心の中に走って行く。
「ご、ごめんなさい------ごめんなさい母ちゃん-----もう、もうアカン-----堪忍、堪忍してぇや」
「―――お前は、ウチの言葉に堪忍した事があったか----?今まで一つだって耳を傾けた事があったか----?絹の、他の連中の------声を、聞いていたか----?」
ヒィ、と愛宕洋榎は珍しく可愛らしい声を上げる。
その声が。その姿が。哀憐という哀憐をふんだんに詰め込んだ、母として持ちうる哀しみを一身に引き受けたかの如きその姿を直視して。恐ろしくもあり悲しくもあり、これ程の怒りを内蔵させてしまったという事実への困惑という意味でもあり―――何もかもがとにもかくにも目を逸らしたくとも逸らせない力があった。
ふふふふふふふふふふふふふふふふふ。
笑う。
彼女は笑う。
そして、叫んだ。
「堪忍して欲しいのは―――いつだって、うちやったんやアアアアアアアアアアアア!!」
地獄が始まり、戦いが始まる。
戦いの鬨の音は、いつだって何かの犠牲の上に始まってしまうのだ。
続く。