亭午の記
これは、ある時の記憶。
私の、記憶だ。
そこには奇跡もオカルトも無い。
ただ――純然たる現実だけが存在していた。
一つの出会いと別れ。
風が運んだ花弁が肩の上に乗っかり、また飛んで行った――そんな、今思うとたった一時に満たない瞬時の邂逅。
でも。それで十分だった。
それだけで、私は。私の奥にある心の内を見つけられたのだから――。
※
いつからだろう。
私が皆からお姉さんと呼ばれるようになったのは。
そう振る舞うようになったのは。
神社の娘に生まれて、その直轄の学校に入って。自分はこの先にある人生がはっきりと見えていた。
神職について、霧島で生きて行くのだろう。
別にその道を強制されていた訳ではない。
ただ、そこには見知った人々と、素敵な友達と、何処までも舗装された道があって。周りを見渡せば、藪だらけの見知らぬ道だけが存在していた。
だから、自然と用意された道にひょい、と乗っかった。
他の道を選ぶだけの情熱が、そこに存在しなかったから。
――霞お姉さんは、本当に余裕があって、包容力があって、-----とにかく、凄いんです!尊敬しているんです!
妹分がそう自慢している姿を偶然、見た事がある。
何だかこっぱずかしい言葉だけど、でも心の底では解っていたのかもしれない。
心に余裕があるのは、何処か悟っているから。
どういう道が自分の前に広がっているのか。その中に今自分はどこにあるのか。
それが解っているから。
だから余裕なのだ。自分は他の可能性なんてものを見る事すらしなかったから。
自分の居場所をしっかりと理解している。反転して、それ以外の道なんて目もくれていない。
それが故に持っている「余裕」は、本当に頬れるモノなのか。
私は、解らなかった。
「――あら」
ある日の事。
私は、ちょっとだけ幸福な光景を見る事となった。
「あらあら」
しゃがみ込んだその先には、一匹の猫がいた。
白色の身体に黒縁の模様がある、痩せた子猫。
「----ふふ。逃げないのね」
ちょいちょい、と手をやると子猫はゆっくりと近付き、にゃあにゃあと心地よさそうに鳴きながらその指先を舐め、頬ずりをした。
本日は土曜日。
学校も休みで、お仕事も特になかった。持て余した休日をさあ何に使おうか、と軽く頭を捻った瞬間――思い浮かんだのは散歩であった。
雨上がりの春の木漏れ日はとても清々しく、運ばれてくる風も涼やかだった。
だから外に出た。
きっと小蒔ちゃんは縁側でお昼寝でもしているんだろうなぁ、なんて思いながら、私は道路の端で子猫と戯れていた。
そんな、穏やかな時間の中。子猫はにゃあ、と一鳴きすると反対側の道へ視線を向けた。
そこには、同じ模様、顔立ちの猫がいた。
ああ、きっと親猫なのだろうなぁ。
子猫は視線の方向へ身体を向け、後ろ足を跳ねて走り出した。
その瞬間だ。
同時に聞こえたのだ。
重低音が。
「――え」
その重低音は、日常の中に溶け込んでいて、普段ならば気にも留めていなかっただろう。
その、タイミングでなければ。
道路を走る軽トラックが、通り過ぎようとしていた。
子猫が走る、その道を。
「あ」
最早本能だった。
その猫の動きを止めようと手を伸ばして、身体を動かしたのは。
それはつまり――自分の腕もトラックの前に差し出しているも同然であり。
「----っ!!」
その事実に気付いた瞬間には遅かった。
もうトラックは眼前に迫って、自分の腕ごと子猫を跳ね飛ばさんと――。
その瞬間。
雨上がりの快晴が、いきなり背中の衝撃と一緒に見えた。
「-----え?」
見知らぬ激痛を想像してきゅ、と眼を閉じた彼女は――軽い背中の衝撃だけで済んだ自分の感覚に戸惑っていた。
目を開くと、空がある。
どういう事だろうか――。
「大丈夫ですか!」
そんな声が聞こえて来て、それと同時に上着の襟が掴まれている事を知った。
――ああ、そうか。馬鹿な自分がトラックに轢かれる前に、親切な誰かが服を引っ張って助けてくれたのだろう。
なら、あの猫は。
――にゃあ。
背後から、また声が聞こえて来た。
「お前も、いきなり道路に飛び出すなよ」
そんな、溜息交じりの声がまたまた聞こえて来た。
振り返る。
そこには――子猫と、金髪の少年が一人いた。
何もかも助かったというあり得ない事実に――情けない事に、私は腰を抜かしてしまった。
※
「――本当にごめんなさい」
「いえ。大丈夫です」
結局。
安心の為か、腰を抜かしてしまった私は少年に背負われる事となった。
助けてもらって、更に助けてもらう。
何とも情けない。皆のお姉さんが聞いて呆れる。
――でも。
ちょっとだけ嬉しかったりも、した。
子猫は少年の頬にキスする様にペロペロと舐め、そのまま親猫と一緒にその場を去った。そのまま残された私は、少年に背負われる事となったのであった。
後ろから見えるその少年は耳を真っ赤にしながらこちらを振り返る事も無く私を運んでいた。----やっぱり、重いのかなぁ、私。胸の成長に合わせて増えていく体重に少々憂鬱になっていたが、この見た感じスポーツマンな男の子も、顔を真っ赤にさせるくらいの重さになってしまったのか。何となく、哀しくなってしまう。
「この先に公園があるから、そこまで運んでもらえれば」
「りょ、了解です」
彼はそう素早く返答すると、歩くスピードを速めていった。
先にあった児童公園まで辿り着くと、彼は砂場の前にあるベンチに私を降ろしてくれた。
ベンチに腰掛け、一つ息を吐いた。
「その-----大丈夫ですか?タクシーがいるなら、呼びますよ?」
「ううん。流石にそこまでは頼めないわ。大丈夫。ちょっと休めば歩けるようになると思うから。-----あ、そうだ。自己紹介していなかったわね。私は石戸霞っていうの」
「あ。俺は須賀京太郎といいます」
「須賀君というのね。------その、今日はごめんなさい」
ひとまず、謝る。
もう何度目かも解らぬ謝意を示す。仕方があるまい。今日の私はあまりにも情けなかった。
「あ、いえ、大丈夫ですから---」
それと、
もう一つ伝えるべき事がある。
「そして――ありがとう」
いつも、謝ってばかりのあの子にずっと言い続けてきた事。
――謝らなくていいわ、小蒔ちゃん。それよりもね、私は”ありがとう”が聞きたい。
そう言い続けてきた私だから、言わなくちゃいけない気がした。
彼は顔を真っ赤にして、「い、いえ-----」と下を俯いていた。
案外シャイなのだなぁ、なんて思って-----ちょっとだけ、顔が綻んだ気がした。
※
「――へぇ。須賀君は、はんどぼーる、をやっていらっしゃるんですね」
「は、はい」
はんどぼーる。
聞いた事のない競技だ。
自覚はしている。私はいくらお姉さんぶっても五重箱位のぶ厚い箱入り娘だと言う事くらい。
「その試合が明日あるからここに来ていて----で、近くに神社があるから行ってみようと思って」
彼は以前にも鹿児島に来ていたらしく、その時神社に祈った時に大活躍をしたらしい。
だから今回も神様にあやかってやろうと参拝先を求め、この辺りをうろついていた時、偶然にも、トラックに轢かれそうになっていた私と猫を見つけたと言う。
「-----ふんふむ」
この辺りの神社と言えば、一つしかあるまい。
「ねえ、須賀君――実は私、その神社、知っているの」
「え、そうなんですか!?」
「当然。だって私は――」
ふふん、とちょっとだけ胸を張って、私は言った。
「その神社の、巫女ですから」
彼はそれを聞くと、一つ首を傾げていた。
その反応すら面白くて――私は自然と、くすくすとした笑みを浮かべていた。
これが私と、須賀京太郎君との初めての出会い。
まず少しだけ、ここに記そうと思う。
大谷のニュース。そして今永。
今日は本当に素晴らしい日だった。