須賀京太郎は、末原恭子の隣に座る。
穏やかな表情を、していた。
シーズンの最中にいたころ、般若の如き形相で不発弾をつまみ上げるが如き様相で牌を掴んでいた姿とは見違えるようだ。
されど。
されど。
その穏やかな表情の中、その目は。目だけは。――異様な色をしていた。
穏やかだ。
本当に、穏やかなのだ。
ただ―ーその穏当さは澄み切った海や、広大な山に例えられるような純然たる穏やかさではない。
例えるならば、泥沼。
風も吹かぬ。鳥も鳴かぬ。あらゆる命を沼底に沈めつくした果てにある、泥。
底なしの泥が、その目に宿っていた。
焦点のあっていない目で虚空を見つめるその姿に、須賀は一瞬、松実館が療養所かと錯覚を覚えたほどであった。
「------」
沼底の目が、こちらを見据える。
そして―ー投げかけられた声も、とても穏やかなものだった。
「こん、にちわ」
少し言葉につっかえながらも、されど末原恭子は隣に座った男を認識し、そうご挨拶。
恐らくは、ここしばらく人と会話していないのだろうか。吐き出そうとする言葉が喉奥で詰まっていて、小さく、そして掠れた声をしていた。
「-----末原恭子さん、ですか?」
「-----ええ。はい----」
「偶然ですね。以前一度お会いしたのを覚えていますか?」
「------ああ。そういえば、見たことある気がするわ---確か」
須賀京太郎、と末原が口にした瞬間。
言葉が、止まる。
「------戦力外なった、雀士やったな」
「------はい」
戦力外。
その言葉を自身で吐き出した瞬間―ー穏やかだった表情に、暗雲が立ち込めていく。
「戦力外-------そっかぁ」
ふふ、と笑う。
笑う。
死にゆくような表情で、笑う。
「------ふふ」
須賀京太郎、悟る。
この人は――予想以上にやばい精神状態に置かれているのだと。
※
「------ど、どうしよう、お姉ちゃん---」
「どうしよう------」
その頃。松実館の女将二人は―ーその様子にいたく怯えていた。
「寒い------」
「お茶持ってきてください、って言ったって----」
あたふたと、――松実玄と松実宥は彼方からその姿を見つめていた。
「――あそこに足を踏み入れなければならないのぉ?」
「-----わ、私が行こうか?」
「ダメ!お姉ちゃんがあそこに近づいたら、凍え死んじゃう!――じゃあ、行ってきます!」
「-----うん。頑張って、玄ちゃん」
「これから取材もあるんだから、ここで二の足を踏むわけにはいかないのです。玄、行きます!」
そう。
もうじき、親友がレポーターとなり取材が入るのだ。
こんな所で怯えていれば、テレビの前でしっかりと受け答えすることなどできようか。
ふんす、と気合を入れると、松実玄はお盆の上にお茶を置き、そのまま歩いて行った。
------その後、繰り広げられる地獄などつゆとも知らず。
※
その後。
テレビ局一団が、松実館前に到着していた。
幾台ものカメラを率い、新子憧がマイクを片手に車から降りる。
「――それでは中継を繋いでみましょう。新子さーん?」
「はーい。こちら新子。私は、現在奈良にある、知る人ぞ知る老舗旅館、松実館におります」
中継が繋がれている最中。
新子憧は、精巧に象られた笑みを浮かべながら、元気にマイクを通し声を伝えていく。
「ここが松実館ですか。老舗らしい、趣のある佇まいですね。確か、一年前に改築を行ったのでしたよね?」
「その通りです。一年前、古くなっていた床面と庭先の改築を行い、旅館として更に過ごしやすくなったとお客さんからも好評をいただいているようです。――そして、長いマフラーがトレードマークのこの方が松実館を切り盛りする女将であり黒幕。松実宥さんです!こんにちわー」
カメラが動き、松実館の玄関口へ画面が移る。
そこには―ー変わらぬ姿ではにかむ親友の姿。
「こんにちわー。松実宥です。お久しぶりだね、アコちゃん」
「うん、久しぶりだね。あれ?」
玄は、と聞くと宥は後から旅館の中で会えるよ、と答える。
-----何やら、微妙な表情を浮かべているのは気のせいだろうか。
「――確か、新子アナと松実さんは、高校時代の親友とのことでしたね」
「はい。そうなんです。同じ麻雀部に所属していて、全国にまで行ったんですよー」
「ほうほう。――では、松実さん。松実館の魅力を、今一度お伝えしていただいてもよろしいでしょうか?」
「はい」
そうして、松実宥は用意していた松実館の紹介文を読み上げていく。
その頃。
地獄が庭先に実在しているとも知らず。
※
「ふふ-----なぁ、須賀君。どうやった、昨年とか一昨年とか」
「ど、どうとは----?」
「------その時の立場やったら、必死になって勝ちに行くやん?」
「はい-----」
「必死に策を用意して、対策も打って、いざ試合に行くやん?でも通用せんやん?------どう、やった?」
「-----辛かったですよ」
「辛いよなぁ-----。本当、もうやってられんわ。ほんま」
なんやねん、と。
そう言葉を吐き出した瞬間。
―ー堰を切った。
それはダムが決壊したような勢いであった。
「思い出すんや------あの魔王とか。その姉とか。またあのけったいな元部長とか。もう、いやや。なんやねん」
メゲた。
「うふふ-----この調子やったら、ウチも再来年はないかもなぁ。今年は対局運の悪さで籍を置かせてもらっているけど、もう誰にも勝てんくなっとる。クビ-----クビかぁ。戦力外やなぁ。-----うふふ-----」
クビ。戦力外。
その辺りの言葉が出てきた瞬間――目の濁りが、濃くなる気がした。
沼底をかき混ぜる棒切れが、この辺りの言葉なのかもしれない。
さあ。
どうするべきだろうか。
一人の男として――つまるところ、
どんな言葉を投げかけるべきだろうか。
いや。まだあんた戦力外になってないじゃん。
正直心の底からそう思っているのだが、今正直な内心はいったん脇に置いておこう。図星を突く正論とは基本的に心に行使される正拳に等しい。何も末原の心をこれ以上に痛めつけるためにここに居る訳ではない。
可及的速やかに、この女性の心を慰撫し精神状態を引き戻す方法は、何なのか。
須賀京太郎、悩む。
そして、それとなく二人分のお茶を置いた松実玄もまた、どうするべきか解らぬ迷いの森の中にいた。
――どうしよーう!お姉ちゃーん!
もう心の中で涙していた。
外から聞こえてくる、憧と姉の声。
今―ー生放送のカメラがここにきているわけだ。
今回松実館は旅館内の紹介を行う手はずである。そして、事前に改修した部分について重点的に放送してほしいと松実館側から申し出を行っていた。そして、現在須賀と末原の眼前にある庭先は、つい一年前改修した場所であった。
この二人を、カメラに収めるのか。
戦力外通告された須賀と、昨年の出来事で精神的に追い詰められている末原の二人組。
------ダメだ。
須賀はまだしも、この末原だけは映してはダメだ。
今テレビの前で体裁を整えられるだけの精神的余裕もないだろう。
まさか――この場で放送事故を起こすわけにもいくまい。
どうしよう。
本当にどうしよう。
お茶を置き、そそくさと逃げ出そうとしていた松実玄。されど、末原の姿を見て五寸釘で縫い付けられたかのようにその場を動けなくなった。
「-----」
どうしよう。
本当にどうしよう。
「-----お姉ちゃん」
妹、動く。
インカム越しに、――紹介文を読み上げ、今玄関から旅館内を案内しようとしている姉に話しかける。
「どうしたの、玄ちゃん」
「------私が、あの二人を別の所に行かせるから。出来れば庭の紹介を後回しにしてもらってもいい?」
「----了解」
お互い、小声で指示を出し合う。
インカムを切る。
「あの、お客様」
松実玄は少し潤んだ目を浮かべながら、言葉を紡ぐ。
「――待合室をお貸ししますので、そこで一緒にお話をしませんか?」
松実館の為。
――松実玄。動くのですのだ。
肉料理が好きで、自分で肉料理の店を出したいと大学を中退し調理師学校に転学した私の後輩。
調理師学校の研修で鶏を絞めて解体したショックで、今では立派なベジタリアンになました。
どうでもいい話をすみません。