時刻は午前9時を回ったところ、私と貴音さんはイベント会場である警察署内に設置された簡易控え室で呼び出しが来るのを待っていた。
「武内殿、準備は宜しいでしょうか?」
「はい。大丈夫です」
本当は昨日の夜、何故かペンライトと団扇を持ったハッピ姿の城ヶ崎さんに追いかけ回される夢を見てぐっすり眠れなかったがそこは私の体調管理の不備が招いた責任だ。貴音さんに迷惑はかけられない。
既に貴音さんは別室で警察官の制服に着替えており私も同様だった。
「それにしてもよくお似合いですね」
「はぁ⋯⋯恐縮です」
貴音さんは制服姿の私を上から下までまじまじと見つめてきた。控えめに言っても絶世の美少女である彼女に至近距離から観察された私は気恥ずかしくなり制帽を深く被り直す。
私の制服姿は、控え室を訪れてくださった担当の警察官ばかりか警察署長からも絶賛された。彼ら曰く私は明日にでも機動隊でやっていけるとのことだったがどう返答していいのか戸惑ってしまう。
「それにしても警官の方々は前にお会いした時よりとても丁寧に対応して頂き少々戸惑いました。何かあったのでしょうか?」
「それは、恐らく⋯⋯」
かつてこの警察署で起こったパパラッチ撃退事件。その件で貴音さんの人気は更に高まることとなったのだが、その割りを食う形で現場となった警察署は酷く批判に晒された。
パパラッチは警察の警備をくぐり抜け貴音さんを前に立ちはだかるばかりか襲いかかったのだ。ひょっとしたら最悪のケースも考えられた事件を警察の警備はお世辞にも適切に機能していたとは言えなかった。本来最も安全を確保すべき一日警察署長の手によってパパラッチを逮捕すると言う最初から最後まで後手後手に回る失態を全国に知らしめ、当時の報道は貴音さんの勇気が称賛される一方で警察署の落ち度が批判の的となり、任を問う声が官民で大きくなった。
一時は担当者の処分も取り沙汰されたがその窮地を救ったのもまた貴音さんだった。
「非があったのはパパラッチの方です。私は警察署の方々に何ら責任を問いません。むしろ、1日警察署長と言う貴重な経験をさせていただいて感謝しております」
このコメントによって世間の怒りはある程度沈静化された。最終的には警察署の署長が御詫びの記者会見で頭を下げ、765プロの高木社長がその謝罪を快く受け入れると発表したことで事態は一応の終息をみたのだ。
つまりこの警察署の上層部は四条貴音によって救われた大きな借りがある。だからと言って良いのか、音無さん曰く今回のイベントも警察署の方から是非とも765プロの四条貴音をとのご指名だと聞く。
つまり警察署としてはこれで禊を済ませたいようだった。
「それより貴音さん、イベントの時間はだいたい二時間ほどですがその後は幾つか写真撮影とインタビューを受けてもらい警察署で用意して頂いたお弁当が昼食になります。事務所には私から報告をして直帰とな──?」
私がスケジュール帳を開き今日の予定を説明していると、貴音さんが私の口元に人差し指を近づけ続く言葉を止めた。
「ふふっ、武内殿はもうアイドルですよ? 私の世話をする必要はありません」
「も、申し訳ありません。どうにも昔の癖が抜けなくて⋯⋯」
貴音さん含め765プロの皆さんは私よりも遥かに現場慣れをしている。346と違い私以外は全員がほぼセルフプロデュースをしておりマネージャーすら帯同していない安定感だ。765プロの人員不足も背景にあるのだろうが現在のこの状況では元プロデューサーの私の方が面倒を掛けてしまいかねない立場だ。
「肩の力を抜いてください。それでは今日ここに訪れてくれる子供たちも怖がってしまいますよ?」
「⋯⋯はい」
どうやらまた私の顔は強張ってしまっているようだ。昨夜と朝方念入りに鏡の前で笑顔の練習をしたがその成果は乏しい。
「貴音さんの言う通りですね。少し外の空気を吸ってきます。直ぐに戻ります」
「その方が宜しいと思います」
控え室を出ると正面ロビーがすぐ目の前に見えた。廊下にはイベントに向けて忙しなく動いている警官の皆さんで溢れていた。正面玄関に向かおうとした私だったが一人の婦警に呼び止められる。
「ちょっとキミ!」
その婦警は小柄な体格からでもありありと伝わる不機嫌なオーラを放っていた。
「私でしょうか?」
「キミ以外に誰がいるのよ。今日は交通安全のイベントで町内の園児や小学生やアイドルやらがやって来るから大変なの分かるでしょ! ほら、ここにある三角コーン外に運んどいて」
婦警は私が制服を着ている為に警官と思っているようだ。あのネット動画の件もあってそれなりに知名度があると思っていた私だったが、どうやら少し調子に乗りすぎていたようだ。
「いえ、私はその⋯⋯」
「なによその態度、貴方見ない顔だけど新人? とにかくせっかく良い身体してるんだからちゃっちゃとする!」
その証拠に目の前の婦警には全く気づいてもらっていない。むしろ完全にここの警察官と思われている。
「だから、つまり私は」
「⋯⋯早くやんないとシメるわよ?」
「どの辺に運べば宜しいでしょうか」
有無を言わさず、と言う言葉がある。
この時の彼女は正にそれだった。首を縦に振ることこそ唯一残された選択肢、私の変わり身の早さに彼女は気を悪くするどころか上機嫌に笑った。
「さっすが男の子~♪ 他にも沢山コーンが置いてあるからそこに纏めて置いといてね~。お礼に今度の交通課の合コン誘ってあげるからー♪」
婦警はその場にある三角コーンを全て私に任せこちらに向けて手を振りながら去っていった。そもそも私にはこの目の前に山積みされている三角コーンを運ぶ義務などないが一度引き受けた以上はやり遂げなければならない。それに会場ではもうイベント参加者であろう幼稚園児たちが保育士さんに引率され子供っぽい大きな声ではしゃいでいる。早く仕事を済ませて仕事に行かなければ。
「お、終わった⋯⋯」
あれから大量のコーンを外の駐車場に運び、控え室に帰ろうとするとまた別の警察官に仕事を頼まれ更に別の警察官に、繰り返すループに入り込んでしまい気づけばイベント開始時間だった。慌てて控え室に帰る私と呼び出しにやって来た担当の警察官が控え室に入るのはほとんど同時になってしまい貴音さんに笑われてしまった。
「無事に戻られましたか。武内殿、いよいよ仕事の時間です」
「お待たせしました。行きましょう」
誘導の指示に従い外に出ると会場には既に多くの人だかりができている。そして遠くからでも聴こえる子供たちの甲高い声に私の胃はかつてないほど締め付けられた。
「それでは皆さん拍手でお迎えしましょう。765プロの四条 貴音さんに武内さんです」
アナウンスが行われると同時に私は四条さんの後について警察署エントランスに立った。有名アイドルだけあって報道陣の数やカメラのフラッシュの量が凄い。昼間なのにチカチカ光って前が見えない。
小学生や園児たちの声援も全て四条さんコールだ。降郷村で衆人の眼には慣れたがマスコミや小さな子供の眼にはそれぞれ別種の異なる威圧感がある。
「武内殿、無理に笑う必要はありませぬが顔がひきつっていますよ?」
そっと耳打ちしてくれた四条さんの指摘は私も分かってはいた。不格好な笑顔をするくらいならいつも通りの顔で、しかし果たしてそれがプロのアイドルとして相応しい対応なのか、そんな感情のせめぎ合いが私の顔を更に強張らせる。
「ねぇあっちの男の人ちょっと怖いよね、ありすちゃん」
「だから橘です。あの人は武内さんです。最近ネットで話題のアイドルらしいですがたしかに強面の方ですね」
「ありさ先生ぼく知ってるよ、ああいう人をフシンシャって言うんだよね」
「違うよ誘拐犯だよ。ね、ありさ先生」
「ばーか、あれは野獣だってぜったい!」
「こ、こーらっ! みんなそんな失礼なこと言っちゃダメだぞー⋯⋯でもちょっぴりクマさんに似てるかも⋯⋯」
「ぐぅっ!」
幼い子供の言葉とは時として刃のように心を切り裂く。私の気にしていることを数秒でものの見事に言い当てられステージの上だと言うのに足元がぐらつく。何度も打合せした段取りが頭から吹き飛んでしまった。
そんな時に一人の婦警がアナウンスの警官に詰め寄ってきた。
「ちょっとあのアイドル可哀想じゃない。マイク貸して、私が進めるわ!」
「あっ、ちょっと困りますよ先輩! 不味いですっ──」
「はーいみんな良い子は静かにお話聴きましょうね! 悪い子は逮捕しちゃうぞ♪ それじゃあお二人から良い子のみんなに交通安全で大切なことを説明してもらいます! うるさくしちゃう困った子はシメちゃうぞ♪」
壇上の男性アナウンスからマイクをひったくったのは先ほどわたしに仕事を頼んできた婦警だった。彼女は私の窮状を知ってか警察官としてどうかと思う言動で参加者の園児たちを落ち着かせすぐさまイベントを進行させてくれた。
「はーいアイドルさんたち説明ありがとうございまーす♪ それじゃあこれから実際にこの場所でよい子のみんなに安全な交通ルールをやってもらいまーす。私たちお巡りさんの言うことをよく聞いてね~!」
説明を終えてみればとても長い時間に感じられたがそれでも四条さんは終始そのミステリアスな佇まいを崩さずにいた。彼女はアイドルとしてのキャラではなく本質が貴いのだろう。
対する私は何度かアナウンスの婦警さんに手助けをされる場面があり羞恥心と疲労感とで制服の下は汗でダラダラだ。
ひとしきりの説明を終えれば後は本職の警官たちが交通指導を行うことになっている。終了後は貴音さんのライブが特設ステージで行われるが既にマスコミが集まり撮影会の様態だった。
「はいアイドル君。取り敢えずお疲れ様」
ただポツンと放っておかれ額に浮かんだ汗を手で拭っていた私にタオルを渡してきたのはあの婦警さんだった。
「しっかしマスコミも酷いわよねぇもう一人の方ばっかり夢中になって。あなた、それなりに流行ってるんでしょ?」
片桐 早苗と名乗ったその女性、署内で出会った際は制帽と身長差で見辛かったがよくよく彼女を見ればかなりの美貌だ。貴音さんがミステリアスでエレガントならばこの婦警はチャーミングでグラマラス、年は恐らく20代前半⋯⋯いや、まさかな。
「私なんか仕事始めた理由なんてもうどうでもよくなっちゃった。安定した就職先に入って家族に安心してもらいたかったから警察になったけど今じゃ結構やりがい感じてるのよね!」
私がアイドルを続ける理由、アイドルとは何かを知るための道。だが確かに私はアイドルの活動に上手く表現できない喜びや達成感のような感情を抱いている。しかし、まだそれは道半ばだ。アイドルと言う存在の可能性に魅せられた私は答えを得るためにこの歩みを止められない。止めるわけにはいかない。
「そ・れ・にぃ~私だって休日に街中を歩いてれば346とか961プロのスカウトにアイドルに興味ありませんか? って声もかかるんだからね♪」
「それは当然でしょう。皆正しい仕事をしてますね」
片桐早苗は稀有な存在だ。その魅力的なvisualもさることながら出会って半日も経っていないながらも彼女の明るく元気に溢れた明瞭な人柄に強く惹き付けられている。彼女に声をかけないスカウトなどいない。かけなければこのアイドル戦国時代で生きてはいない。
初入社の際にベテランの先輩たちからスカウトとして女性に声を掛けられない奴は死ねと言われたことは今でも覚えている。キツい言い方だったがそれもある種の答えだと後で気づいた。
「な、なんか真顔でそう言われちゃうと恥ずかしいわねっ! でもアイドルに褒められるなんてやっぱりあたし警官クビになったらアイドルに転職しちゃおっかなぁ~」
「765プロと346プロなら今からでもご紹介できます。名刺だけでもどうぞ」
346プロの名刺は流石にもう使えないが名刺を渡す癖は中々抜けない。新人の頃はとにかく素養のある人に声をかけて名刺を渡す日々だった。
「ありゃ? マジに受け取っちゃった? 公務員は副業禁止なんだけどな~」
「無理にとは言いません。ご検討だけでも」
差し出した名刺と私の顔を交互に見続ける片桐さんの笑顔はひきつっていた。
「え~と、気分悪くしたらごめんね。ぶっちゃけ君、正気?」
「戸惑うお気持ちも分かります。ですがどうか、ご検討だけでも」
「⋯⋯あたし、これでもかなり頑張って公務員になったんだけど、キミはそれを捨てろって言うんだ。公務員は副業禁止なのよ。き・ん・し! もし、仮に、万が一あたしがアイドルになるとしたら警察辞めないといけないのよ?」
「はい。ですが、片桐さんなら素晴らしいアイドルになると思います。どうか名刺だけでも」
「ぐっ⋯⋯ま、まぶしい。アルコールと犯罪に荒んだあたしの目にはまぶしすぎる純粋な瞳っ!」
「あなたにはアイドルのキラメキを感じます。どうか名刺だけでも」
「そ、そんなこと言ったってぇ⋯⋯」
「どうか名刺だけでも」
「お母さんとかにも相談しないと~」
「どうか名刺だけでも」
「名刺名刺ってあなた本当にアイドル──?」
「名刺だけでも」
「いい? ちょっとだけ考えるだけだからね。転職なんてしないからねあたし。ましてアイドルなんて絶対ノーサンキューだからね! アンタがどうしてもって言うから名刺を受け取っただけだからね!!」
「ありがとうございます」
片桐さんに名刺を渡すと丁度同じタイミングで貴音さんのステージが始まった。ミステリアスで印象深い歌詞の特徴的な歌はよく彼女を表している。
思えば、四条貴音というアイドルがデビューした際はそのあまりに突飛なキャラクターに業界も世間も困惑した。キャラにしては余りに堂々と、素にしては余りに芝居がかっておりまるで何処かの国のお姫様がそのままアイドルをしているような錯覚を抱いた。
こんな癖の強いアイドルが大衆にウケるはずがないと346プロの会議でも一笑に伏されたがその後の経緯を考えれば間違いだったと言わざるを得ない。
かつては所謂、王道を行くスタイルだった346プロのアイドル部門が昨今は多様性を重視しているのも四条貴音の成功があったからこそなのかもしれない。
「⋯⋯あれは?」
私の出番は既に終わり手持ち無沙汰になっていた。そんな中、一人の少女が目に入った。
興奮の渦にあるイベント会場から少し離れた駐車場の隅で小学生と思われる少女が一人タブレットを操作しており、他の観覧者が貴音さんのライブに酔いしれる中で異質な空気を放っていた。
「すみません。あの⋯⋯ライブ、ご覧にならないんでしょうか?」
「あなたは⋯⋯た、武内さんですか!?」
突然話しかけた私に少女は驚き、タブレットを落としそうになる。胸元には小学生にはよくある名札がクリップされておりそれによると彼女の名は『橘ありす』だと分かる。
「⋯⋯ライブに興味がない訳じゃありません。けど、嫌なんですよ。あの子たちと一緒じゃ私まで子供に見られてしまいます」
橘さんが指差した方向には彼女と同じ子供たちが一様にライブを楽しんでいた。手を上げ跳び跳ね全身で興奮を表しておりとても微笑ましい。
だが、今ここにいる彼女はとても寂しそうだ。
「橘さん。今、貴方は楽しいですか?」
「へ?」
「私は、見ての通り人を笑顔に出来るような見てくれではありません。今日も、先輩である四条貴音さんにサポートしていただいて何とか成立したようなものです。
正直に言えば、足が震えてしまうほど緊張もしましたが⋯⋯見に来て頂いた沢山の方々の笑顔を見ると、楽しさも感じました」
「楽しくなんか⋯⋯ありません。子供みたいなことなんかしません。私は大人しく、クールに過ごすんです」
「その映像、ライブですね?」
「ひゃい!?」
橘さんのタブレットにはYouTubeで765プロアリーナライブの映像が写っていた。何度観ても美しい光景だ。
「わ、私は何もアイドルとか音楽が嫌いとは言ってませんよっ。ただ馬鹿みたいに騒がしく取り乱すのが嫌なんです!」
「つまり、アイドルに興味があると言うことですね?」
「興味と言うか⋯⋯その、将来は音楽関係の仕事に就きたいと考えていますので」
不思議な光景だ。夢を語っている筈の彼女の顔は、靄がかかったように暗かった。恐らく本心からの願いの筈なのに、暗黒の宇宙で、今にも闇に飲み込まれる幼い星のようだ。
「だからどうかほっといて下さい。私は──」
「橘さん!」
「ひゃい!?」
「どうか、10分で構いません。ステージを観に来ては頂けませんか?」
私が戻ると交通安全教室は予定通り終了し、特設ステージでのライブがもうすぐ行われるようだった。急いで貴音さんを探すと、既にビヨンドザノーブルスの衣装を身に纏いその出で立ちはまさにcute&sexy 。美の女神もかくやと言わんばかりだ。
「おや、武内殿。どうか致しましたか?」
「すみません貴音さん。どうか一曲だけ、私に頂けないでしょうか?」
私のライブは元々の予定にはない。当日、それもこんな直前での変更など普通ならばあり得ないし貴音さんにも非常に失礼な話だ。だが貴音さんは静かに私を見つめる。
「失礼ながらそれは誰が為ですか。ご自分の為ですか?」
「違います。どうしても、私の歌を届けたい方がいるんです」
私は子供だ。
そんな風に悲観し始めたのはいつだったでしょうか。
もちろん、大人らしく振る舞うことも努力した。
子供っぽい服は着ません。
子供っぽい話し方もしません。
子供っぽい笑い方もしません。
子供っぽい考え方もしません。
私は子供じゃない。少なくとも、中身は。
「ありさ先生の言葉をよく聴いてくださいね~。これからお巡りさんとアイドルさんがみんなに交通安全の大切なお話をしますからお行儀よくして聴きましょうね、ありさ先生との約束ですよ~」
「「「はーい! ありさ先生!」」」
幼稚園児たちは私たちの直ぐ横に陣取っている。保護者の指示を聞く分、彼女たちよりまだマシかもしれない。
「ねぇねぇありすちゃん! 今日はアイドルが来るんだって! 誰かなぁ♪」
この目の前ではしゃいでいる私のクラスメイトは子供だ。他のクラスメイトもそうだ。
「お前ら静かにしろよー。あんまりうるさいと幼稚園児に笑われるぞー」
けだるげな先生の注意は子供のクラスメイトの耳には届いていない。そもそも届いたところでくだらない理由で小突き合ったり卑猥な言葉をどれだけ連呼できるか競う男子たちやそんな男子たちの中で誰がカッコいいかカッコ悪いかを話し合っている女子たちには馬の耳に念仏だろう。
「興味ありません。今日は交通安全指導の日です。それに、私は橘です。何度も言っていますよね」
「ありすちゃんは相変わらずだねー。あ、婦警さんだ、可愛い!」
このように私の注意を長年無視しているクラスメイトたちだ。これでは中学に進学したところで彼ら彼女らに品性を求めるなんて絶望的です。はぁ⋯⋯。
そしてなにより周囲の大人たちから私までも子供扱いされている現実に酷く辟易しています。ですがいくら嘆いても時間は速く進みません。私にできることは体が大人に成長するまで1日1日を理性と知性を持って過ごす⋯⋯それだけです。
そう、思っていたけど⋯⋯なんなんですかこの人は?
765プロの新人アイドルと言う武内さん。行きなり現れて無理矢理ステージまで連れられました。
でも四条貴音のライブならテレビやYouTubeで今まで沢山見てきました。この人はいったい何を見せたいんでしょうか?
「さぁ良い子のみんな♪ これからいよいよ四条貴音さんのライブが始まるわよー! それじゃあ早速みんなで呼んで⋯⋯え? 変更? 最初の一曲だけあの厳ついでっかい男が? あれじゃ無理でしょ~⋯⋯うわっマイク入ってるし!?」
なんだか司会進行の小さくて明るい婦警さんが他のスタッフさんと焦りながらこそこそ話しています。トラブルでしょうか? 私を連れてきた武内さんはいつの間にやらいなくなっていますしもう帰って良いでしょうか⋯⋯。
「えぇいっ もう自棄よ! さぁ皆さん予定を一部変更しトップバッターは765プロ所属の期待の新人、武内さんよ♪」
武内? ま、まさかあの人ですか⋯⋯!?
「初めまして。ご紹介に預かりました武内です」
周囲がざわついていました。多分、良い意味ではないでしょう。ここにいる人たちは皆さん四条貴音のライブを観に来たのです。多少ネットで有名になっただけの新人アイドルなんて、お呼びじゃない筈です。
「⋯⋯多くの方々から、貴重なお時間を頂きました。一曲だけ、どうかお聴きください『エージェント夜を往く』」
一瞬で、周囲のざわめきが消えた。
曲自体は765プロの看板曲の一つ。それこそ多くの人が口ずさめるほどメジャーだ。
だが違う。
女性アイドルが歌うこの曲は妖しくミステリアス。菊地真や876の秋月涼ではまた違った凛々しさも加わるが武内さんの歌はどれも違う。
エージェント夜を往く、まるでこの歌の新たなる可能性を見せられているかのように⋯⋯武内さんと言うアイドルの個性が、歌声を通して伝わってくる。
なんて⋯⋯なんて⋯⋯温かいんでしょうか。理性を吹き飛ばす熱狂じゃない。
これは⋯⋯安らぎです。誰もが安らげる夢の国のような⋯⋯お姫様と王子様の甘く蕩けるようなお伽噺。私が、いつの間にか下らないものと切り捨てた物が沢山涌いて出てきます。
──橘さん。
思えば、生まれて初めて⋯⋯私をさんづけで呼んでくれた大人でした。
あの声が、耳から離れない。ステージの上で沢山の人を虜にしているあの人の声が、私を呼ぶ。
橘さん
橘さん
橘さん
橘さん
橘さん
橘さん
橘さん
ああ⋯⋯どうして、私だけを見てくれないんでしょうか。どうして、私だけにその歌声を聴かせてくれないんでしょうか。
「私も、あの人の隣に⋯⋯立ちたいな」
そうすればあの声で、また私を呼んでもらえます。