季節は巡って冬だ。
あっという間に過ぎた気がするし、1日が長かったような気もする。
不思議な気分だ。今までこんな事を考える暇は無かった。
冬といってもこの辺りは滅多に雪が降らない。それどころか真冬でも気温二桁は割とよくある。
だからと言って、冬に風通しの良く日陰になっているあの場所に行くか、と問われれば、答えは否である。
俺にとっては、一番話す回数や時間が多い相手とはいえ、いつでも一緒という訳でもなければ、無二の親友なんて間柄でもない。そういう存在を欲しているわけでもない。
そんな訳で、お互いに"あの場所"への足は遠のき、自然と顔を合わせることも減った。
今ではお互いに少ない移動教室の時に見かけるかどうかくらいだった。
お互い、その程度の相手だったということだろう。
中間テストが近いため、図書室はそこそこ込んでいた。
大体は真剣に勉強に取り組んでいるからか、人数の割には静まり返っている。
ただ、この人数の生徒がバラバラにペンでメモを取り、何かしらの紙を捲る音が重なると、静かなのに不思議と騒々しさを感じる。
俺は目的の辞書を棚から引き出すとさっさと出ようと思ったのだが、一冊の本のタイトルが目に付いた。
確か、金木が一時期読んでいたものだ。
背表紙にプリントされた奇抜な字体のタイトルを少しの間何となく見ていると、俺の耳にこの部屋に似つかわしくない声が聞こえた。
「あー、あいつ?やばいよなーあれ」
「仲良くとかちっとキツいわ」
「お前同じクラスだっけ、どんな感じ?轟」
…陰口か。くだらねぇな。
そう思って踵を返そうと思った俺の耳に、他でもない俺自身を示す名前が飛び込んだ。
名前が出て来て初めて、自分の事を話しているのだと気付いた。
いつもの事だ。気にする必要は無い。
頭ではそう思いつつも、体はなぜか動かない。
俺はその場で突っ立ったまま、見知らぬ奴らの話をただ黙って聞いていた。
「なんつーか……「俺はお前らとは別格です」みたいな感じでさ、こっちから話しかけても超素っ気ねぇの。向こうから俺ら下々の者に話しかけるなんてほぼゼロよ」
「下々て」
耐え切れなかったようにもう一人の奴が噴き出す。
会話の流れで何か面白い事があったのか。俺には良く分からなかった。
「マジだって。あいつの目、1回合わせてみれば分かるから。クソでも見るような目してっから」
「汚ねーよバカ」
声を潜めるのをすっかり忘れたのか、ゲラゲラと笑い声を上げる二人組。
俺が眉間に皺を寄せると、後ろからそっと肩を叩かれた。
「っ!」
バッと音が鳴りそうな勢いで振り返ると、いつの間にか眉を八の字に下げて唇の前に人差し指を立てた金木が居た。
金木はその指で出口のほうを指す。
特に反抗する理由も無く、大事な用事も無かったから、大人しく付いて行く事にした。
「……ごめんね、聞こえちゃって」
「いや、別に俺は」
いい。
そう言うと、金木はしゅんと肩を落とす。
何でこいつが落ち込むんだ。
「轟君には余計なお世話だったかな。ああいう……何ていうか…陰口、みたいなの、僕も時々あるんだ。ほら僕、とても明るいとは言えない性格だろ」
おどけたように肩を上げる金木。
気取ったような仕草は似合わねぇが、その様子がなんだかおかしかった。
「あ……」
「何だ」
何か物珍しいものでも見たような表情で俺の顔を凝視する金木に、居心地の悪い思いをする。
「さっきみたいに笑ったほうがいいよ。皆もきっと、もっと君の色んな所を知りたいと思うだろうし」
「そんな必要ねぇだろ。……笑った?」
笑っていただろうか?全く自覚は無かった。
「いやぁ……笑ったというか、微かに表情が綻んだというか」
「ほころぶ」
金木の言葉をオウム返しに口にする。
窓に映った顔は、やはりいつも通りの無表情だった。
むに、と頬を押してみる。無表情のまま僅かに潰れた顔は我ながらシュールだ。
そのまま指で口角を押し上げてみたりするが、手を離すとすぐに落ちてくる。
「クッ」
変な声が聞こえて、あまり背の変わらない金木を見る。
金木は緩く丸めた拳を口元にかざし、堪え切れなかった笑いを抑えようとしていた。
「どうした、何に笑ってんだ」
「ふっ、あははっ!轟君って時々ちょっと変で面白いよね」
「面白い?俺が、か?」
金木はしばらくクスクスと笑うと、ゆっくり息を整える。
変だと言ってきたり笑ったり、やってる事はさっきの奴らと変わらないような気がするが、こいつのはどういう訳か不愉快な気分にならなかった。
この差はなんだろうか。悪意の有無……だろうか。
「はぁー。うん。表情の事は言い始めた僕が言うのも変だけど、別に気にしなくてもいいと思うよ。作り笑いが悪いって訳でもないけど、自然に出る笑顔の方がいいに決まってる」
「そういうもんか」
「うん、そういうもんだ」
未だに笑いの形を保った金木の顔を見る。
確かに、こちらを気遣うような笑みよりは、いいのかもしれない。
「……そうだな」
その後、金木に言われて連絡先を交換した。
電話帳に増えた名前を眺めるのは、やっぱり不思議な気分だった。
―――
今日は土曜日。滅多に鳴らないが何となく義務で持ち歩いている携帯端末がポケットの中で震えた。
開いてみると、相手は金木だった。
件名は無し。見せたいものがあるから公園に来てほしいとのことだった。
公園と言っても、何処にある公園なのか分からない。
俺が返信しようと文字を打っていると、その間に金木からもう一通来た。
今度は金木のものと思われる位置情報だけだった。
……とりあえず、編集中のメールを破棄した俺は上着とマフラー、そして手袋をして部屋を出る。
玄関で靴を履いていると、エプロン姿の姉さんが俺に気付いて様子を見に来た。
「あれ、焦凍。どこか出掛けるの?」
「あぁ。呼び出された」
「あー!それってもしかして、噂の金木くん!?」
どの噂かは知らないが、少なくとも俺の知人に金木は一人しか居ないので頷いておく。
姉さんは何やらうんうんと唸ると、「ちょっと待ってて!」と言って台所へ引っ込む。かと思ったら、すぐに帰ってきた。
「こんな物しかなかったわ…これ、金木くんに渡しておいてくれる?和菓子、嫌いじゃないといいんだけど……」
「分かった」
とりあえず受け取るものの、戸惑いは隠せなかった。
金木と姉の間に食べ物の受け渡しがあるような関わりなどあったのかと思いつつも、聞くことはし無かった。
受け取った紙袋を持って横目に姿見を確認すると、玄関の引き戸を開けた。
「とっ、ととど、轟君!」
「…よう。どうした」
金木の噛み具合に驚いて思わず一歩引く。
金木は苦笑すると、「寒くて、」と指で鼻を擦った。この寒い中、俺を待っていたんだろうか。
遅いと思ったんなら帰ればいいのに。
そう思ったが、歯を鳴らす金木を見たら、何となく気が引けたので、そうかとだけ返した。
よく観察すると、金木は俺よりずっと軽装だった。
コートだけはちゃんと着ているようだが、他の防寒グッズは一切身に付けていない。
俺は一瞬左手を見たが、すぐにその行動を恥じた。これは右の解除の時だけだ。
……正直自業自得というか、この時期に防寒を怠るほうが悪いと思うが、待たせた負い目を感じた俺はマフラーを手渡した。
「え、いいの?」
「見てるこっちがさみぃ。なんで防寒しねえんだ」
「買出し頼まれたから、走ってすぐに帰るつもりだったんだ。けど、この公園から声が聞こえて」
「"声"?見せたいって言ってたやつと、なんか関係あんのか?」
「うん。ほら、あそこ」
金木の指差す方を見ると、少し離れた所にぼろ切れを下に敷いた猫が居た。…いや、
成猫は必死に寒さから小さな命を守ろうと身を丸め、何匹もいる仔猫たちを囲うようにしている。
仔猫の方はさすがに弱っているようで、くたりと身を横たえている。
「……生きてるのか」
「うん。今のところはね。…ただ、このままここに居たら、危ないかも」
今日は、三月になろうというのに一月並の気温だった。こんな小さいんだ。当たり前だと思った。
「おかあさん猫、よく中学に遊びに来てた子だよ。多分、この子が鳴いて救けを呼んでたんだと思う」
そう言われてみれば、全身灰色の毛の中、首元は白い毛が生えていて、額に雫形の模様のような白があるこの母猫は、何度かメシをたかりに来ていた。
「とりあえずどっかに運んだりしたほうが良いんじゃねぇか?」
俺がそう言うと、金木は苦しそうに首を振った。
「動物の母親は、人が子供に触るのを嫌がるんだ。なつっこい子だったけど、弱ってるから尚更かもしれない。布とかも換えてあげたいんだけど、人の匂いが付いてるのも嫌がるだろうし……でも、このままじゃ親子共々、死んじゃうと思う」
「……」
プルプルと震える子猫を必死に舐める母猫を見つめる。
子猫が薄く目を開けると、アイスブルーと目が合った。
俺は少し離れた位置にしゃがむと、左手を猫達に向ける。
金木が止めてこようとしたが、かまわなかった。
加減して放たれた熱が、猫を包む。
じんわりと戻る体温に気が付いたのか、それとも俺を見定めようとしているのか、母猫と睨みあう。
害は無い、と判断されたのだろうか。猫はやがて目を逸らすと、弱々しくうごめく子猫たちに自分の乳を飲ませようと鼻面で背中を優しく押していた。
ちうちうと母の乳を吸う子猫を見て、俺たちは揃って息を吐いた。
「と、とりあえず、差し迫った危機は乗り越えたみたいだね」
「あぁ、そうだな」
「それにしても、とと、とどろっきくんの個性、凄いね」
「……。呼び辛いなら、焦凍でいい」
「ごめん、寒くて。じゃあ、ショート」
個性の事はあえて無視をして、いい加減名前を変な風に言われてこいつと言えど多少不快に思って提案する。
寒さからか"う"を伸ばされたが、別に気にしなかった。呼びやすいように呼べばいい。
途端に、暖かさが俺と、そして俺の隣から覗き込んでいた金木を包んだ。
「うわ、あったかい!ありがとう」
熱で体積が増えた空気が金木の前髪を揺らした。
見えにくかった顔が見えると、金木が緩く笑んでいた。
「……ああ」
ふと俺は、姉さんに渡された袋を思い出して、金木に受け取るように促す。
金木は驚いたように紙袋を見つめた。
「ショートの、お姉さんが?僕に?」
「渡せって言ってた。和菓子が嫌いじゃなければいいけど、って」
「いや、大丈夫だよ。あっ」
顎を触りつつ微笑んだ金木は中の箱に書かれた店の名前を見ると、短く驚きの声を上げた。
「これ、すごく有名な高級和菓子屋じゃないか!」
「そうなのか」
「うん。色々出してるけど、どら焼きが一番人気みたいだよ。……そうか。これはこれからも弟をよろしく的なあれか」
どら焼きが人気なのは分かったが、最後のあたりは金木の口の中だけで呟かれたので聞き取れなかった。
金木は俺の顔を見ると、なんでもないと言うように首を振った。
「そういえば、お昼時だよね。ショートはご飯食べた?」
「いや、まだだ」
「ごめんね、呼び出しちゃって」
「それは別にいい。お前は食ったのか」
「僕は大丈夫。あ、そうだ」
そう言うと金木は袋から箱を取り出した。
「これ、折角だから一緒に食べようよ」
「お前が貰ったんだろ」
「君も一緒に食べたら、多分お姉さんも喜ぶよ」
どうして姉さんが喜ぶのか良く分からなかったが、ありがたくどら焼きを受け取る。腹は空いてたし。
金木は自販機でコーヒーを二つ、微糖とブラックを買ってきて、微糖の方を俺に渡してどら焼きの封を切る。
腹は本当に減っていないようで、ちまちまと食べてはそのたびにブラックで流し込んでいた。これは付き合わせてしまった、ということだろうか。
好意に水を差しそうだったので、何も言わずに甘いあんこをかじった。
猫は一度金木の家にあずけられ、後日、親子離れることもなく無事に良識的な一家に引き取られたそうだ。
余談だが、金木とどら焼きを食べた事を伝えると、本当に姉さんは喜んでいた。
金木はエスパーとか、そんな感じの個性なのかもしれない。
てってーれれらりー(謎のBGM)
金木研の轟焦凍に対する印象が更新されました!
無言で隣に座ってきたちょっと怖い人→無口な男の子→なんだか放っておけない子→なんだかんだで優しい子 NEW!!
轟家の唯一の常識である冬美さんも、ナチュラルにお金持ちな価値観。謙遜も込められてはいるので、ヤオモモ程ではない。
不快な思いをされた方もいるかもしれませんが、活動報告にてちょっと補足的説明的な……。よかったらお目通しください。