学園黙示録×瀕死のライオン   作:oden50

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#1st day⑦

 ショーウィンドウのガラス越しに差し込む陽光は傾き、弱くなっていた。

 昼間は汗ばむ程の陽気だったが、今では少し涼しく感じるほどにまで落ち着いている。

 防弾ベストの下に着込んだ戦闘服は汗でじっとりと濡れ、不快指数は高かったが、コンディションは万全だ。それなりに疲労も蓄積しているが、問題となるほどではない

 清田は、洋品店の店内から油断なく、通りに視線を巡らしていた。

 裏通りに面している為か、都合がいい事に人気は全くなかった。

 視線を転じ、今度は店内を注意深く観察する。

 店内に荒らされた形跡はなく、商品は正しく陳列され、レジ周辺も売上金を持ち出されたという訳ではない。血痕や肉片、“動く死体”も無かった。

 どういった理由にせよ、店員がいないのは幸いだった。

 今は非常事態とはいえ、勝手に国民の財産を“徴用”するのは気が引ける。

 尤も、徴用した物品は清田が使うのではないが、結果的にそれの手伝いをしているのだから、言い逃れができる訳ではない。

 再度通りの様子を観察してから、店内の奥まった所にある更衣室の前まで移動する。

 無意識の内に足音を殺して移動する、ステルス・エントリーの技術を駆使していたのは身に付いた習性だからだろうか。

 カーテン越しに、中から衣擦れの音が聞こえた。

 するり、はらり、ぱさりと音がする度に、清田は何となく落ち着かず、そわそわと小銃を撫でた。

 今、この薄い布を隔てた空間の中で、静香と京子は服を着替えていた。

 とてもではないが平穏無事とは言えなかった道中で、二人の衣服は襤褸切れ寸前となり、特に静香に至ってはガソリンスタンドでの暴漢による陵辱劇で服の大部分を切り裂かれ、衣服は最早その体裁を成していなかった。

 この状態では行動するのもままならない。

 そこで、なるべく人通りの少ない、充分な道幅のある裏通りを選んで歩き、タイミングよく洋品店を見つけたのだ。

 悄然とした様子でとぼとぼと歩く二人の女性を見るのは辛かった。

 大勢の人間の凄絶な最後、命辛々と死地からの脱出、邪悪でおぞましい陵辱劇―彼女達の精神と肉体の両方は擦り減らされていた。

 そんな弱り果てた二人を見て、清田は何度も己の無力さを味わっていた。

 物理的に彼女達の命を守る事は出来ても、精神までもがそうという訳ではない。

 特殊部隊の兵士とはいえ、所詮は只の軍事労働者(グリーンカラー)にしか過ぎない。しかも、特別な訓練を多く受けているだけで、根本は公務員である。

 心の安寧の処方をする、精神科医とは違うのだ。

 俺に出来るのは、何かを吹っ飛ばしたりする事だけだ―汗と血と苦痛を伴う訓練の成果が、たったの二人の人間を安心させてやれない事実を目の当たりにして、積み重ねてきた苦難を否定されるような思いだった。

 そんな清田が一人で悶々と悩んでいると、中からカーテンが控え目に開けられた。

 カーテンの擦れる音に我に返り、清田は顔を上げた。

 着替え終えた京子が、其処には佇んでいた。

 襤褸切れ同然のベージュのブラウスとスカートは足元に畳まれ、今は動きやすいカジュアルな服装に着替えていた。

 シンプルなデザインのボディシャツ、スキニータイプの七分丈コーデュロイパンツといった出で立ちは、今までのオフィスカジュアルな服装からするとより軽快だろう。

 タイトなデザインの衣服によって、京子のしなやかで美しいボディラインが強調されていた。

 

「もう、大丈夫ですか?」

 

 清田は念を押すように訊ねた。

 

「はい。服も着替えられたし、大分落ち着きました」

 

 そう言って、京子は幾分和らいだ表情を見せた。

 京子の青痣(あおあざ)をうっすらと浮かべた右頬と、新しくまき直した額の包帯が余りにも痛ましくて、清田は思わず目を伏せてしまった。

 京子に続き、静香も着替え終えたようで、カーテンが開けられた。

 涼やかな薄地のノースリーブタートルネックセーター、すっきりとした膝丈のデニムパンツという格好で、こちらも動きやすさを重視していた。

 静香の子供の頭ほどもある巨乳は、セーターの縦縞によって陰影がより強く描き出され、誇らしげにその大きさを主張していた。ぴっちりとしたデニムも、彼女の充実した腰回りをさり気なく際立たせていて、控え目ながらセクシーさを演出している。

 静香も、先程の白昼の陵辱劇から幾らか立ち直っている様子だが、まだ表情は硬く強ばっている。

 清田が見張りに立っている間、二人は着替える前に店のバックヤードを兼ねる事務室で身体の汚れを拭っていた。まだ、ライフラインが機能しているのが幸いだった。

 お互いに協力して水で濡らしたタオルで身体を拭き清め、血や汗、埃、そして静香は未処理のままだったデリケートな部分の排泄物の残滓を取り、髪も簡単だが水で濯いだ。

 髪についてはドライヤーが無いのでタオルで水気を吸い取る事しか出来なかったが、身体を清潔にするだけでも気分は大分良くなった。

 二人は無断で借用しているのには心苦しさを感じたが、衣類も一通り新しいものへと替えられた。下着はもとより、静香は失禁の際に濡れた靴も歩きやすいパンプスに交換していた。

 当面の間の行動着としては充分だろう。清田の、戦闘を前提とした格好には到底及びもつかないが。

 清田は頭の先から爪先まで、二人を視線で改めると、納得したように頷いた。が、静香の身体のある部分に目を戻し、思わず注視してしまった。

 静香の人並み以上の巨乳に合う下着が、此処には無かったのだろう。

 今の彼女はブラジャーを着用していないので、肌にぴたりと吸い付くようなセーター生地に、乳首の陰影がうっすらと浮かび上がっていた。

 それを見て、思わず清田は顔を赤らめ、恥ずかしそうに拳を握り締めた。

 

「…大丈夫そうですね」

 

 清田は気取られないよう、平静を装って言った。

 だが、幾らか異性の反応に対して過敏になっている静香は、それを具に感じ取っており、慌てて胸元を手で隠した。

 

「やっぱり…気になります?」

 

 静香は、少し怯えた表情で窺うように言った。

 必要以上に男性の注目を集めてしまう自分の身体を、彼女はこの時ばかりは煩わしく思った。

 歩く人喰い死体が齎した、極度の社会的混乱によって秩序が崩壊しかけている今、道徳規範を失った野獣のような連中からすれば、静香のような美女は真っ先にそういう対象となるのが充分に証明された。

 理性の箍(たが)が外れた人間ほど恐ろしいものはない。それは先刻の出来事で嫌というほど身に染みている。

 清田も同様に人間のおぞましい部分を肌で感じ取っていたが、非力な女性が屈強な男性によって一方的に肉体と精神を犯されそうになるという耐え難い屈辱は、男である彼には想像が難しい。

 清田が静香と同様の事態に陥るには、少なくとも二メートルを優に超す巨漢でなければ無理だろう。清田からして、二メートルとまではいかないが、かなりの長身である。

 おまけに彼は相当鍛え込んでいるから、並みの男が数人掛かりでも組み伏せるのは難しいだろう。

 静香は胸元を押さえたまま清田の脇をすり抜けると、新たに衣服を二、三ほど見繕って更衣室に戻り、カーテンを閉めた。

 壁で仕切られていたので、京子は今の二人のやり取りを知る術はなく、訝しげな視線を清田に投げかけた。

 清田はその視線が無言の抗議に思えて、心苦しかった。

 たとえ高い規範を備えた特殊部隊の兵士といえども、それ以前に健全な男子である。

 ついつい、目を向けてしまうのは仕方がない事だが、自分の何気ないちょっとした行動が静香に不必要な恐怖を与えたり、その心を傷付けたのであれば、なんと弁明して良いのか解らない。

 己の迂闊さや配慮の足りなさを悔いると同時に、呆れていた。

 そういったケアは、やはり同性である京子に頼むべきだろう。

 

「林先生、少しいいですか?」

 

 清田は、静香が着替えている更衣室から幾らか離れた所で京子を呼んだ。

 

「鞠川先生についてなんですが…」

 

 清田の深刻そうな声音から、彼が言わんとしている事を京子は察した。

 

「ええ。分かってます」

 

 彼女も声を潜めて応えた。

 その表情は以前にも増して硬い。

 

「今まで以上に面倒を見てあげて下さい。男の自分では、恐がらせてしまうばかりですから…」

 

 清田はフェイスマスクの下で歯噛みし、拳を握り締めた。

 こればかりはどうしようも出来ない。

 静香は、此処に到達するまで京子に手を引かれなければ歩けないほど憔悴しきっていた。

 見かねた清田が手を貸そうとすると、小さく悲鳴を漏らして京子の背に隠れてしまうという事もあった。

 救出当初は、安心からか清田に抱きついたりもしたが、落ち着いてくると徐々に先程の恐怖が神経を苛む様子で、次第に彼を避けるようになった。

 大柄な清田の物騒な外見が、先程の暴漢を思い出させるのだろう。

 此処に来るまでの道中は完全に怯えられていたが、京子と二人きりで身体を清潔に出来てからはある程度まで回復していた。その際に彼女が色々とフォローしてくれたのだろう。

 京子は、幾らか疲労を滲ませながらも、辛抱強い母親のように静香をあやした。

 その度に清田は、役に立たない所か恐怖を与える己に嫌気が差した。

 これでは、京子におんぶに抱っこではないか―彼女も、暴漢に襲われ、頬をしたたかに殴られているというのに。

 静香のように獣欲による暴行ではないが、それでも非力な女性が自分よりも圧倒的に体力に優れる男性から受ける暴力は、筆舌に尽くし難い恐怖を感じるだろう。

 こうして清田と二人きりでいると、京子も心中穏やかではなかったのだが、彼に非はないのだからと表情には出さないように気を付けていた。

 しかし清田は、自分と話す時だけ表情が硬い京子の反応を見て、彼女の男性に対する嫌悪感をひしひしと肌で感じていた。

 女性二人がよそよそしかったり、嫌悪感を露わにする反応を見ると、流石の清田も少し傷付いた。

 特殊部隊の隊員とはいえ、清田はまだ二十代前半の若者である。

 世間で例えるなら、大卒一年目の若輩者であり、人生経験も乏しい。

 だが、それは、己が犯した判断ミスにより、彼女らを無用な危険に晒した罰だ。

 肩身の狭い思いをするのは自らの失態からである。むしろ、二人がこうして生きているだけでも僥倖だ。

 針のむしろの気分なんて幾らでも味わってもいい。

 二人が無事なだけでも充分だった。

 そう思わなければ、強烈に押し寄せる自己否定の波に飲み込まれてしまいそうだった。

 

「……」

 

 二人の間に気まずい沈黙が訪れた。

 今の清田はタクティカルゴーグルを鉄帽まで押し上げており、彼の優しそうな目元が露出している。

 京子の発する、男性に対する嫌悪感を敏感に感じ取った清田が、酷く傷付いた感情を一瞬だけ目に浮かべていた。

 そうして彼女も知らぬ間に相手を傷付けていたのを知り、己の詰まらぬ感情を発露させた軽率さを嫌悪した。

 今の今まで、自分達を守ってくれている清田に悪感情を向けてしまったのは大人気ないが、既に事は起こり、終わってしまった。

 どちらも顔を伏せ、居たたまれない思いで佇んでいた。

 暫くすると、気まずい静寂を破るかのように更衣室のカーテンが開かれる音が聞こえ、二人はそちらに顔を向けた。

 静香は先程よりも肌の露出を抑える為に、薄手のカーディガンを羽織り、セーターの下にはキャミソールを着ていた。

 清田と目が合うと、静香は遠慮がちに視線を床に落とした。

 明確な意志を持って拒絶されている、という事実を目の当たりにして、純朴な青年の心は更に痛みを覚えた。

 なんともやるせなくて、悲しくて、どうしようも出来なくて。

 

「…取り敢えず、お二人は休んでいてください」

 

 清田はそう言って事務室から椅子を一脚持ってくると、ショーウィンドウに並ぶマネキンの陰に置き、それに腰を下ろして通りを監視した。

 その大きな背中からは哀愁と、独りにして欲しいという意思が伝わってきた。

 

†††

 

 取り返しのつかない事をしてしまった―のかもしれない。

 静香の傍にいてやりながら京子は、先程の清田とのやり取りを思い返していた。

 自分からすれば見上げるほど大きく強大な兵士が、打ちひしがれた子犬のように寂寥とした目をしていた。 寄る辺をなくした兵士は悲惨だ。

 辛く苦しい戦争を生き残り、帰国したというのに自国民から容赦なく浴びせられる罵声に精神を病んだベトナム帰還兵は多い。

 国家の為、家族の為、恋人の為―それぞれの想いを胸に異国のジャングルで血反吐に塗れ、戦友の遺骸を抱いて帰り着いた褒美としては余りにも残酷だろう。

 清田も、恐らく彼らと同じような気持ちを味わったに違いない。

 此処に至る道中、命を懸けて守っていたというのに、そのような冷たい反応をされれば誰だって傷付く筈だ。

 確かに、途中のあの暴漢による邪悪な行いが、静香と京子の肉体と精神に深い傷を負わせたのは事実である。

 それから二人は、あの暴漢と同じ男であるという理由だけで、清田を意識と無意識に関わらず避けていた。

 大柄で、見るからに物騒で粗暴そうな外見が、あの思い出したくもない記憶を掘り起こす。

 勿論、ガソリンスタンドでの出来事について、彼には感謝している。

 清田が助け出してくれなければ、今頃二人ともあの暴漢の慰み者になっていたに違いない。

 そうならずに済んだのは清田の勇敢な行動の御陰である。

 だが、頭で理解していても、一度心に芽生えたトラウマまで簡単に払拭できる訳ではない。

 そうして、時折、助け出してくれたというのに、心の中で彼に向かって酷い言葉を言ってしまう。

 どうして私達から目を離したの!―と、自分勝手な言い分を何度も彼に向かって胸中で浴びせていた。

 清田に、京子は行き場のない怒りを知らずの内に向けてしまっていたのだ。

 その都度、彼にこれといって非はないというのに、そんな身勝手過ぎる自分の妄想に対して嫌悪し、鬱ぎ込んでいく。

 実際、あの暴漢との遭遇は運がなかったとしか言い様がない。

 だが、もしもあの時、清田が自分達を連れて行ってくれれば、あんな怖い思いをしなかったのではないかと考えずにはいられない―あの場にあっては、清田の重荷になるという事実はさて置いて。

 仮定の話など幾らしたところで切りがないのだが、でも、もしかして、だったら、と想像が止まる事はない。

 京子は一人で悶々と思考の反芻を繰り返していた。

 ふと、京子は腰に硬い感触を覚え、服の上から手を触れてみた。

 それは清田から渡された、死亡した警察官が所持していた拳銃だった。

 それをウェストバンドから抜き取り、机の上に置いてみる。

 ごとり、と意外に重い音を立てた。手の小さな京子にも握り易いデザインだが、ずしりとくる。

 それは、非力な女性でも簡単に人間を殺す事を可能とする道具だった。

 引き金を引くだけで充分な殺傷力を持った銃弾が飛び出し、命中部位によっては即死させる。

 たったそれだけで人の命を奪ってしまう事が出来る恐ろしい代物だ。

 教壇に立つ聖職者としてはそのように物騒な物に触れるのは忌避すべき事だが、この非常事態にあっては簡単かつ強力に自分の身を守れる武器でもある。

 ふと、傍らの静香に目を遣った。

 彼女は机に突っ伏して、穏やかな寝息をたてていた。

 辛い出来事ばかりで、疲れ切っていたのだろう。京子はそっと頭を撫でてやり、まだ水気を含んだ彼女の髪を手櫛で梳いてやった。

 そして、目の前の拳銃に視線を戻す。

 自分の為にも、静香の為にも、今、学ばなければいけない。

 これ以上、理不尽な暴力に屈する訳にはいかなかった。

 京子は意を決すると、拳銃を手に事務室を後にした。

 

†††

 

 通りを監視しながら、清田は鬱屈とした思いに沈んでいた。

 何度も何度も、あの時の判断を下した己の不甲斐なさを責め立てていた。 あの時、二人を連れてスタンドの建物内をクリアリングすれば良かった。

 そうすれば暴漢に襲われる事もなく、二人を無用な恐怖に晒す事はなかった。

 ただ、それはあくまでも結果論に過ぎない。

 クリアリングに連れて行って、もしも建物内の何処かに<奴ら>が潜んでいたりでもしたら、不意を突かれる可能性も充分にあった。

 そうなれば三人のうちの誰かが犠牲になったかもしれないし、ならないかもしれない。

 だが、それはそれで彼女らを危険な目に遭わせてしまう事に変わりはない。

 過ぎ去った事をとやかく言っても仕方がないのは承知している。

 それでも、あの時ああすれば良かったと何度も同じ思考実験を繰り返し、深みにはまっていくばかりであった。

 そうすれば、此処まで拒絶される事も無かっただろう。

 正直、守るべき存在に目の前で否定されるのは、流石の清田といえども堪えた。

 彼女達も理解はしてくれているだろうが、人間の感情は物分かりが良い訳ではない。

 二人のあの反応は一時のヒステリックみたいなものだろうとは知りつつ、それでも尚、精神にダメージは受ける。

 なんと打たれ弱い男なんだ、お前という奴は!―清田は己を叱咤したが、心に生まれた痼りを消化できなくて、呻きを上げたかった。

 罵詈雑言を浴びせられながらの過酷なしごきなど何ら問題はない。

 清田は肉体的にも精神的にも頑健であり、どんなに困難な任務でもこなす能力は備えていた。

 だが、人から冷たくされるというのは思いの外、異質な苦しみであった。

 自衛隊に入隊し、狂気とも言える特殊作戦の世界に足を踏み入れるまで、清田は平凡な人生を送ってきていたに過ぎない。

 人並み以上の体格を備える以外はごく普通の少年であり、今時の若者にしては色恋に疎く、学生時代は勉強や部活に打ち込んでいた。

 むしろ彼は、恋にのめり込む周囲の同世代の感情が解らなかった。

 今のこの“青春”の日々は二度とやってこないというのに、どうして勉学とスポーツに打ち込まずに同世代の多くは横に逸れてしまうのだろうと。

 清田少年は今しかない“若さ”を徹底的に燃やし尽くし、老いてから後悔などしたくなかったのだ。

 あの時、ああしていれば良かった―そんな思いは絶対にしたくはなかった。

 そうして彼は考えた。

 一度しかない人生、一つしかないこの命を、もっともっと情熱的に燃やし尽くす事は出来ないのかと。

 サラリーマンとして働き、社会の一員として税金を納め、ごく普通の家庭を築き、子供を育て、やがて年老いて死んでいく―それも立派な生き方の一つに違いない。

 だけど俺は、もっと心臓を高鳴らせたいんだ!―そんな清田に自衛隊、特に特殊作戦群はうってつけだった。

 権力や金融による闘争ではなく、鉄と血による闘争の為に仕事をする事で給料が貰えるなんて、凄く単純で面白かった。それが尚且つ、国家の為であるならより一層だ。

 武器を片手に重装備で山野を駆けずり回ったり、高々度から落下傘で降下したり、映画のようにヘリで強襲するのは刺激的だった。

 小銃は勿論、拳銃、機関銃、散弾銃、狙撃銃、無反動砲、ロケットランチャー、グレネードランチャー、対戦車ミサイル、手榴弾、各種爆破薬を扱うのは楽しくて仕方がなかった。

 それらの技術は、一般社会にでれば何ら役に立たないだろう。銃の撃ち方よりもパソコンでパワーポイントを使える方がずっと役に立つのは間違いない。

 視点を変えれば全く役に立たないどころか、使う機会すらない技術だろう。

 そんなものに対して心血を注ぎ、時には命を危険に晒すのは全くの無駄なのかもしれない。

 だが、それでも、清田にとっては充分だった。

 兵器の扱いに習熟する事や、人間を効率よく殺す術が、高額納税者以上が納める税金以上の価値があるのならば、それで満足だ。

 金では買えないし、作り出すのも難しい、自分の命を真摯に燃やす愛国心を持った人間こそが、特殊作戦群には必要なのだ。

 しかし、そうしてある意味で浮き世離れした生活が長く続いた弊害故に、清田は他人の悪感情に慣れていなかった。

 守るべき“民間人”から向けられた生々しい拒絶は流石にショックが大きかった。

 そうなったのは全て自分の過失故なのだが―また、清田の思考は振り出しに戻る。

 そうして延々と続く、苦々しい一人AAR―After Action Review(事後検討会)―をしていた為だろう。

 

「田中さん?」

 

「?!」

 

 背後からの声に、清田は思わず身体をびくりと震わせた。

 傍目に見ても、その巨体が情けなく驚く姿が確認できた。

 

「……何でしょうか?」

 

 取り繕うように、京子を振り返らずに声帯は冷静に震わせる。

 膝の上に置いた小銃を取り落とさないだけマシだったかもしれもない。

 

「お話したい事があって…」

 

 京子の声が、心なしか申し訳無さそうだった。

 一体、これ以上何の話をするというのだろうか。俺は、二人から拒絶されているというのに―清田は内心ではびくびくしていた。

 もしかして、面と向かって辛い言葉を言われるのではないかと。

 しかし、もしそうであるならば京子がどうして申し訳なさそうなのだろうか。

 ええい。もうどうでもいい。何とでも言ってくれ―清田は半ば自暴自棄だった。

 緩慢な動作で立ち上がり、京子に向き直る。

 やはり、巨壁のような清田と相対すると、京子は表情をこわばらせた。

 慣れようと思っても、改めてそのような顔をされると心が痛む。

 ゴーグルによって表情が一切消えた、ロボット然な清田を前にして、より一層彼女は怖がっているような気もしたが、落ち込んだ情けない顔を見せる訳にもいかない。

 最早清田に縋り付けるのはちっぽけなプライド程度しかなかった。

 

「あの…」

 

 京子がおずおずと口を開いた。が、言葉が後に続かない。

 暫く、目を右往左往させてから、意を決したのか、真正面から清田を見つめた。

 

「私に銃の扱い方を教えてください」

 

 頭を下げ、京子は懇願した。

 暫く、きょとんと佇んでいた清田だったが、そこで初めて彼女が警官から入手した拳銃を手にしているのに気がついた。

 本来ならばガソリンスタンドでの休憩時に操作方法を彼女に教える筈だったが、あの暴漢によってそれは叶わなかった。

 それを京子の方から申し出てきたという事は、早急に銃の取り扱いを身につけなければいけないという焦燥感があの一件で醸成されたと見做して間違いないだろう。

 それは何時までも清田にばかり頼り切っていてはいけないという危機感を持ってこれからの道中に望むという、前向きな意思表示に他ならない。

 清田からすれば、生存者達が受動的から能動的な姿勢を保持し、行動力を身に付けようとするのは大変好ましかった。

 そうすれば清田の負担もある程度は軽減されるだろうから。

 ただし、銃の操作を覚えたが故に自己を過信し、出過ぎた真似をさせないように指導しなければならない。

 所詮は素人である事に変わりはないのだから。

 

「分かりました。それでは、事務室でその練習をしましょう」

 

 事務室には静香がいる。

 顔を合わせれば、また怯えた顔をされるのはショックだが、この際相手の心情に拘っている場合などではない。

 大事なのは、生き残る事なのだから。

 

 

†††

 

 

 ぎしり、と事務机が鳴った。

 清田が背負っていたデイパックを机の上に置くと、重みで脚が悲鳴を上げた。

 デイパックそれ自体もかなり容積があるのだが至る所にMOLLEによる装備の追加が可能で、清田はそれらを可能な限り活用しており、様々なポーチを装着していた。

 パックの背面は破片手榴弾、特殊音響閃光手榴弾、煙幕手榴弾を収納したグレネードポーチが鈴なりに括り付けられていた。

 バックアップを担当する清田は他の隊員の予備の装備を携行する役目も担っており、それらは直ぐに使えるようにデイパックの中ではなく外の取り出しやすい場所に入れていた。 側面には二つの長大なポーチが追加されており、右のポーチにはそれぞれ種類の異なる紐が二束、ダクトテープでぐるぐる巻にされたクッキーの菓子箱ほどの長方形の塊が幾つか、頑丈な鉄製の小さな箱と握りの付いた小さな装置が入れてあった。

 左のポーチには、二本の長大な筒を入れてある。恐らく、これが清田が携行する装備の中での最大火力だ。

 デイパックの他に、小銃と散弾銃も身体から外して置く。

 タクティカルベストのフロントジッパーを摘み、一瞬迷ったが、意を決して脱いだ。更に防弾ベストも脱ぎ、ポーチを鈴なりに括り付けている弾帯を外し、それらを机に置く。

 身に付けているのは、鉄帽とフェイスマスク、両手足の防具、両太腿のレッグホルスターとレッグパネルだけだ。手足や太腿の装備は外すのが面倒なのでそのままにする。

 事務机の上には装備が山盛りに積まれていた。その殆どが武器弾薬と爆薬であり、まさに清田は歩く火薬庫といった状態で今の今まで任務を遂行していた。

 キャスター付の椅子に腰を下ろす。身軽になったとはいえ、巨漢の清田が座ると椅子が抗議の声を上げた。

 ただでさえ上背があり、肩幅も広く、それに加えて体重の殆どが筋肉である。小柄な女性二人分程もあるだろう。

 背もたれに体重を預け、背伸びをしながら天井を仰ぎ見る。一気に拘束が解けて、身体を軽く感じた。

 ことり、と何かが置かれる小さな音が耳殻に滑り込んできた。

 視線を天井から机の上に転じると、装備が積まれたその片隅に紙製のカップが置かれていた。

 

「よろしければどうぞ、お飲みになってください」

 

 京子が、トレーを持って傍に佇んでいた。カップからはコーヒーの香りが湯気と共に立ち上っている。

 

「わざわざすいません」

 

 慌てて清田は襟を正し、背筋を伸ばして礼を述べた。休息するとはいっても、少しだらしない。余りに不抜けた姿は晒すべきではないだろう。

 京子が煎れてくれたコーヒーが注がれたカップを手に、ちらりと机に突っ伏す静香に目を遣った。

 やはり、面と向かって顔を合わせるのは気が引けたので、起きる気配がないほど眠りが深いのが幸いだった。

 糞、何を安心していやがるんだ―己の些末で矮小な心の動きに辟易としながら、カップに口を付けたが、清田は自分がまだフェイスマスクを被ったままなのを忘れていた。

 

「田中さん、目だし帽を被ったままですよ」

 

 京子に指摘され、清田は恥ずかしかった。

 こんな事も忘れるほど、俺は疲れているのだろうか。糞、不甲斐ないぞ、清田武―自らを叱咤し、カップを置き、鉄帽を固定する三点顎紐を緩めた。

 鉄帽を脱ぎ、装備の山の上に置く。フェイスマスクに手をかけた所で、その手が止まった。

 京子は、椅子を傍に持ってきて座っており、興味深げに清田をしげしげと眺めていた。その視線に気付き、急に居たたまれなくなった。

 残念ながら、自分は美男子ではない。映画やドラマでは、絶体絶命のピンチに駆け付けるヒーローはイケメンと相場が決まっているが、生憎と期待には添えそうにもない。

 

「林先生。残念ながら、自分はイケメンじゃありませんよ」

 

 脱ぐ前に、一応、清田は釘を刺しておく。下手な期待を持たれて失望されては堪ったものではない。

 

「いえ、そんな事は決して…思ってませんよ?」

 

 図星なのだろうか。京子は、頬を赤らめて否定した。

 こういった遣り取りが出来るようになっただけ、京子の状態は良くなっていると受け止めるべきだろう。

 彼女の中に生まれた、生存への意志がそうさせているのなら好ましい事だ―清田はそう判断し、フェイスマスクをするりと脱いだ。

 露わになった清田の素顔は、マスクから僅かに露出していた目元通りのものだった。

 短く端正に刈り込まれた頭髪は爽やかな印象を与え、輝きに満ちた瞳には強い意志が溢れている。頬は高く肉が削げ落ち、首は太く鍛え込まれている。どんな困難をも乗り越えようとする不敵な面魂は若く、精悍な顔立ちだった。

 今時のイケメンとは全く異なる、逞しい面構えの青年だった。

 

「ほら、言った通りでしょう?」

 

 清田は頭を掻きながら照れ臭そうに言った。

 京子は、漸くお目にかかれた清田の素顔をとっくり眺め、やおら口を開いた。

 

「意外と、肌が白いんですね」

 

 清田の生まれは東北であり、白皙は母親譲りであった。日に焼けても赤くなるばかりで、小麦色に焼ける肌には憧れていた。

 

「色白なのは母親譲りなんです。これで女の子に生まれてれば良かったのでしょうけど、怪獣みたいに育っちゃいました」

 

 馬鹿でかい大男なのに色白、というのがアンバランスなのは自覚していた。それが清田にとっての密かなコンプレックスだった。

 

「おまけに…汗臭くてすみません」

 

 そして今更のように装備の下では大汗をかいていた事実を思い出し、濡れて重くなった戦闘服の臭いが気になった。

 清田は腋臭や体臭がきつい、という訳ではないが、やはり汗の臭いは誰にとっても不快だろう。以前に数日間の野営訓練で、先輩隊員に“洗っていない柴犬の臭いがする”と言われた時は、流石の清田もショックだった。

 

「いえ、そんにお気になさらなくても。私、こう見えて卓球部の顧問なんです。汗の臭いなんて気になりませんよ」

 

 ちょっと誇らしげに胸を反らす京子を、清田は意外そうな目で見た。

 成る程、三十路を過ぎてもプロポーションを維持できているのは、運動部の顧問をしているからか―などと、清田は邪推してしまった。

 

「それに…男の方の汗の臭いって、嫌いじゃないんです」

 

 はにかみながら、さらりと自身の性癖について暴露した京子を、清田はまじまじと見詰めた。

 年上の美人が己の性癖を打ち明けるという事態を、一体どう受け止めれば良いのだろうか―少なくとも、ある程度心を許してくれていると考えるべきだろう。

 またか、またなのか清田武。お前という男は直ぐこれだ―邪な方向に逸れる自分の思考回路を戒めるよう、清田は丁度良い温度まで下がったコーヒーを一口で飲み干した。

 

「それでは早速始めましょう。林先生、拳銃を自分に渡してください」

 

 京子から拳銃を受け取り、清田は慣れた手付きで銃把を握り、親指でサムピースを前進させて回転弾倉をスイングアウトさせ、装填されていた五発の三八スペシャル弾を抜き取った。

 実弾が装填されたまま練習する訳にはいかない。

 

「先ず、握り方から教えます。それでは、どうぞ」

 

 京子は返された拳銃を握り、次の指示を待つ。

 清田は立ち上がると、レッグホルスターからUSPタクティカルを抜き、弾倉交換ボタンを押して、十五発の9mmパラベラム弾が詰め込まれた複列弾倉(ダブルカラムマガジン)を抜き取り、更にスライドを引いて薬室に収まっていた一発も弾き出した。

 その一連の動作は淀みなく流れる水のように滑らかで、銃の扱いの素人である京子にも、清田がかなりの熟練者であるのは一目瞭然である事が解った。

 

「拳銃を真上から、素直に握ります。丁度、親指と人差し指の根本にあるこの窪みに、銃把を真っ直ぐ当てるようなイメージで」

 清田が、自分の拳銃を握る様子を分かり易く見せてくれる。京子もそれにならい、同じ動きをした。

 

「次に、中指、薬指、小指の順に握ります。包み込むようにしっかり握り、かつ、力を入れすぎないように」

 

 言われた通りに握り込むと、拳銃が手の中で固定された。

 

「親指はサムピース…本体左側に付いてる、三角形をした突起の事です。そこに、添えるように置いて」

 

 しかし、緊張しているからか、添えたつもりの親指がサムピースを前進させてしまった。蓮根のような弾倉が横にスイングアウトされる。

 

「そこのボタンは新しい弾を込める際に使用するので、射撃中は間違って前進させないようにして下さい」

 

 清田の手が伸ばされ、弾倉を本体に押し込む。回転子と固定子が弾倉を噛むかっちりとした感触が指先に伝わった。

 

「あと、人差し指は、射撃以外の時は引き金に指を掛けないで下さい。暴発の恐れがありますので」

 

 弾倉を押し込むついでに、清田の指が、引き金に掛かっていた京子の指をやんわりと外した。

 

「射撃寸前まで、人差し指は伸ばしたまま弾倉の下辺につけて下さい」

 

 言われた通りに人差し指をピンと伸ばすと、手が釣りそうになった。人差し指と親指以外は銃把をしっかりと握り込まねばならず、なかなか疲れる。

 

「これが拳銃の握り方です。さて、次は構え方の練習をしましょう。準備をしますので、その間は握り方の練習をして下さい」

 

 清田は椅子から立ち上がり、机の上にあった鉛筆立てからマジックを手にして壁際まで歩く。

 そこに、小さな人型を書いた。

 

「立って、あの標的の前に移動して下さい」

 

 京子は席を立ち、清田が書いた標的の前まで移動する。頭と肩を書いただけの簡単な人型だ。大きさとしては、十メートルほど離れた場所から見る標準的な身長の成人男性ぐらいだろうか。

 清田は、標的の前に立った京子の背後に移動した。

 

「標的の正面に立ったなら、先ず、左足を真横に出し、両足を肩幅程度まで開いてください。んー…そうですね。身体の軸が、両足の間に落ちるようなイメージをして下さい」

 

 

 清田は、両足の間に金玉を落とせ、と教わったが、それを女性である京子に言う訳にもいかない。

 

「そうしたら拳銃を持った右手を挙げて。左手は右手を包み込むように添えて…そうそう。上手ですね。両肘を伸ばし、この際、気持ち右腕をやや突き出すようにして。銃を握る右腕が反動に負けない為ですね。それを、左手で引き戻して銃を安定させるように」

 

 清田は拳銃をホルスターに戻し、銃を構える慣れない姿勢を取る京子の身体に背後から触れ、間違っている箇所を矯正していく。

 

 ふわり、と濃厚な男の匂いが京子を包み込む。それは優しくて力強く、まるで父親に抱き締められているかのような安心感をもたらした。

 それだけで一時でも、あの忌々しい暴漢と同じ男であるというだけで忌避して彼を傷つけてしまった事を後悔した。

 彼はあの男とは全く違う。

 その事実だけで胸に生まれた、言葉で表せないわだかまりが溶けて消え去った。

 清田は背後から、拳銃を握る京子の手を、自分の手で包み込むように保持していた。タクティカルグローブに包まれた彼の指先は、思いの外、繊細な動きを可能としていた。

 丁度、あすなろ抱きの形となっており、京子の頭の後ろには、清田の分厚い筋肉に覆われた胸板がぴたりと押しつけられていた。

 汗に濡れた彼の迷彩柄の戦闘服からは、脳髄を痺れさせるような濃密な牡の香りがする。加えて、ゆっくりと力強く刻む鼓動は、獅子の心臓のように雄々しい。 今になって京子は、自分の心臓が早鐘のように鳴っているのを思い知った。

 十歳ほど年下の、それも精悍な若者にときめいているとでもいうのだろうか。

 決して、京子は年下の男性が趣味ではなかった。異性への興味は専ら同世代である。職場で気になる男性教師だって何人かいた。

 ただ、清田が彼らと決定的に異なるのは、まるで男の見本が服を着て歩いているのかというほどの逞しさを備えていた事だ。こればかりは、同僚の教師や早熟な教え子にも無い要素だった。

 当初は、戦争映画でしか見た事がない重装備の大男を、ロボットのように無機質な存在としか見れなかった。しかし、何度も命を救われ、更に精悍だが純朴そうな雰囲気を持つ素顔を目の当たりにして、漸く一人の人間としてその輪郭を認識した。

 途端に、何故だか胸に甘い疼きを覚えた。それが恋だなんて思えない。映画やドラマでもよくある、吊り橋効果だとでも言うのだろうか。

 いや、解っている。女を三十年と少しもやっていれば、これが子宮からくる感情だというのを。生命の危機に瀕する機会が多いからか、男だけでなく女も子孫を残そうとする欲求が働くのだろうか。

 そして、手近で、かつ“牡”としてこれ以上ないくらいの条件を満たしている清田に、一時的とはいえ、欲情しているのは確かだ。

 

―やだ、私、もしかして?―

 

 思考は靄が掛かったように霞み、なんだか身体が火照ってきた。

 清田を強く意識した途端、京子の女の中心が妖しく蠢動しているかの様だった。

 

「…林先生?」

 

「わうっ!?」

 

 突然、清田の吐息が耳に拭き掛かり、京子は思わず素っ頓狂な声を漏らした。感覚が、知らず知らずの内に鋭敏になっていた。

 彼は矯正していた手を離し、少し怪訝な表情で京子を見た。

 

「何処か具合が悪いのですか?」

 

 清田は、劣情を催して火照った京子の様子を見て、具合が悪いのではないかと勘違いしていた。

 

「あ、いえ、すいません…銃に触れるのなんて初めてなもので、緊張してしまいました」

 

 慌てて取り繕うように、京子は嘘を言った。が、清田は納得した様子で頷いた。

 

「ああ、それは解りますよ。自分も、入隊して初めて銃をこの手に持った時は…凄く重く感じました。たかだか三キロとちょっとの筈なのに、やけに重いんですよ」

 

 清田は、昔を懐かしむように目を細めた。

 

「班長から言われました。お前らが持つ銃の重みは、ただの重みじゃないって。それは国を守る重みなんだって…今となっては、あの時の重みを少しでも理解できたような気がします」

 

 しみじみと語る清田の顔を、京子は直視できなかった。

 志の高い、この純粋な青年を、邪な目で見てしまった自分が恥ずかしかったのだ。

 

「おっと、話が逸れましたね。それでは続きをやりますか」

 

 それから暫し、京子は清田の指導の下、銃姿勢の練習に励んだ。

 清田の分かり易い指導の御陰か、直ぐに練度が向上し、彼ほどとは言わないが、銃を構えるその姿はなかなか様になってきた。

 その様子に満足した清田は、次の段階に移行する事にした。

 

「次は照準と撃発を練習しましょう。しっかり姿勢が取れてても、照準がとれてなかったり、引き金を引く際に銃がぶれては意味がありませんから」

 

 清田は改めてホルスターから拳銃を抜き、構えて見せた。

 

「照準の仕方ですが、先ず、照門と照星の上端を一直線に揃えます。照門というのは手前の凹部で、照星は銃身先端の凸部の事です」

 京子も、見様見真似で標的に照準を合わせてみる。

 清田に言われた通り、照門と照星を一直線に揃えてみるが、腕がゆらゆらと動いてしまい、照準が定まらない。

 

「構えてみてわかると思いますが、銃口は微かに円を描くように動いてしまいます。この時、無理にブレを抑えつけようとしないでください。意識するのは正しい姿勢と見いだし。姿勢は先程やった通りに。照門と照星を真っ直ぐ揃え、焦点は照星に合わせて…狙いたい所に銃口がきたら引き金を引きます」

 

 教わった通りに姿勢を取り、意識を照星に向ける。すると、照星の向こうに見える標的はぼやけ、輪郭が曖昧になった。

 

「一般に標的は縦に長いので、左右を正確にあわせてください。そうすれば、身体の何処かに当たります…よし、それでは、引き金を引いてみましょう。コツとしては、引き金は真っ直ぐ引きます。また、最初はゆっくり引いて遊びを殺し、あと少しで落ちるという所で、無意識的に引き切ります。でないと、がく引きという状態になりますので」

 

 じわり、と引き金に掛けた指に力を込める。引き金の遊びがなくなり、あと少しで撃鉄が落ちるのが分かった。

 弾倉が空とはいえ、生まれて初めて実銃の引き金を完全に引き落とすのは、多少の躊躇いと恐怖があった。

 今、握っているのは、人間の殺傷のみを目的として設計された、純粋なる殺人機械である。映画やドラマでしか見たことのない代物を、手にしているのだ。

 ただの道具といってしまえばそれまでだが、京子のこれまでの人生はそんなものとは全くの無縁だった。教育者として物騒な鉄の塊を握り締めるのは気が引けるし、慣れるものではない。

 だが、今はこの道具の扱いを少しでも身につけなければいけない。そうしなければ生き残れないのであれば、他に選択肢はないのだ。

 右の人差し指に感じていた抵抗がふっと消え、刹那、撃鉄が落ちた。

 かちり、と思った以上に軽い金属音に拍子抜けしたが、撃発する際に京子は思わず目を瞑っていた。

 恐る恐る目を開け、手の中の拳銃を見る。勿論、弾が装填されていないので、発砲音も反動もない。だが、そうと分かっていても緊張してしまった。

 取り敢えず、京子はほっと胸をなで下ろし、拳銃を下げた。

 

「筋はいいですね。姿勢もとれているし、撃発も問題ないでしょう。でも、目を瞑っては駄目です。しっかりと着弾点を確認し、次の発砲に備えないといけません」

 

 清田が簡潔に講評を述べ、更に付け加える。

 

「それでは、次は呼吸も意識してみましょう。呼吸をすれば勿論、身体は動きます。射撃に於いては、その僅かな動きが弾着を狂わせます。引き金を引く際、呼吸は止めます。でも、長時間止めると血中の酸素濃度が低下し、判断と運動能力を低下させます。なので、長くても五秒程度でしょうか」

 

 再度、構え直し、照準し、呼吸を止めてみる。

 成る程、先程と比べて、銃口が描く円の大きさが小さくなり、ぶれもそれほど酷くはない。

 しかし、息苦しさで少し集中力が削がれてしまう。これが命中と失中を分けるのだろう。

 今度は、引き金を完全に引き切っても目を瞑る事は無かった。

 しっかりと手の中の拳銃を握り締め、撃鉄が落ちる瞬間も標的に重ねた照星を見つめていた。

 京子は、先程よりも大きく息を吐き出し、銃を下げた。

 

「…いや、とてもお上手ですね」

 

 見守っていた清田が、素直な感想を述べた。

 

「短時間でこれだけ身に付ければ上出来ですよ。後は反復演練ですね」

 

 それからは、清田の指導で姿勢、照準、撃発の一連の動作を練習した。

 京子が意外に思ったのは、銃を撃つには様々なコツや注意点がある事だった。

 ただ引き金を引くだけでは、この小さな鉄の塊は性能を発揮してくれないらしい。そして結構疲労も溜まるというのも意外だった。

†††

 

「これぐらいでいいでしょう。後は、実弾を撃つ時も今覚えた事を忘れないでください」

 

 京子の細腕の筋肉が悲鳴を上げ始めたところで、清田はもう充分だと判断した。

 

「それでは弾を込めて下さい」

 

 京子は五発の三八スペシャル弾を受け取り、慣れた手付きでサムピースを親指で前進させ、弾倉をスイングアウトさせて弾を一発ずつ押し込んでいった。

 先程、初めて銃を握ったとは思えないほど、手付きに淀みがない。

 

「しかし、林先生は筋がいいですね。様になっています」

 

 清田は感心したように頷き、京子を褒めた。

 

「そう言って下さると助かりますわ」

 

 惜しみない賛辞に、京子は少し照れた。

 実際、京子の飲み込みは早く、清田が教えた通りの事を完璧にこなしていた。後は、発砲の必要が迫られた場面で、訓練通りに滑らか動作で確実に命中させられるかどうかである。

 こればかりはやってみなければわからないが、練習を全くしないのとするとでは大違いだ。百発百中といかなくとも、京子の生存を助ける術としては役立つだろう。

 訓練の成果に満足した清田は、身体から外した装具を身に付け始めた。

 フェイスマスクと鉄帽を被り、顎紐をしっかりと締める。簡易サスペンダー付きの弾帯を腰に巻き、防弾ベストに袖を通し、タクティカルベストを着込む。そうして最後に、散弾銃のスリングをたすき掛けにし、デイパックを背負い、小銃を手にする。

 スモークレンズのゴーグルを下ろすと、清田からは一切の表情が消え、纏っている雰囲気すら一変した。

 流麗な動作で拳銃の遊底を引き、薬室に直接9mm弾を装填し、弾倉を叩き込んで安全装置を掛ける。レッグホルスターのアクセサリーポーチから、駄菓子のチョコ棒程のサウンドサプレッサーを取り出し、銃口にねじ込んだ。

 休憩間に店内に<奴ら>やその他の生存者が侵入したとは思えないが、一人でクリアリングしなければならないので、扉を開ける際に片手で構えられる拳銃を選択した。

 

「それでは、鞠川先生を起こしてあげてください」

 

 ゴーグルで表情の隠れた清田に見つめられると、京子は言い知れぬ恐怖を感じた。

 まるで人間ではなく、無機質な戦闘ロボットの様で。

 

「ええ、分かりました」

 

 京子は表情に出さないようにして、寝息を立てる静香の肩を優しく揺すって起こしてやった。

 

「ん…」

 

 静香は小さく呻くと、突っ伏していた上半身を起こし、微睡んだ目で周囲を見回した。

 

「鞠川先生。もうそろそろ移動するわよ」

 

 暫く静香は眠気の覚めやらぬ頭でぼうっとしていたが、京子の言葉にこくりと頷くと、目を擦りながら席から立ち上がり、彼女に付き添われた。

 途中、清田を視界に収めるとギョッとした様子だったが、直ぐに京子の背後に隠れてしまった。

 清田は特に反応しなかったが胸中は少しばかりざわついていた。

 ゴーグルに隠された瞳で京子に目配せし、彼女もウエストバンドに挟んである、装填したエアウェイトの位置を確かめ、頷いた。

 

「それでは行きましょう」

 

 清田は小銃をスリングで身体の前に吊り下げ、扉の鍵を開けて慎重に一歩を踏み出した。

 店内の様子は先程と変わらなかったが、慎重に越したことはない。

 陳列された衣服の列の合間や床上に脅威がない事を確認し、出入り口のガラス戸の鍵を開け、押し開いた。

 通りの左右に人影はない。

 拳銃からサプレッサーを取り外し、レッグホルスターに収め、小銃に持ち替えて外に出た。

 一度深く、呼吸をした。

 外の空気は思いの外、新鮮で爽やかだったが、身が引き締まるというよりも暗澹とした。

 動く死体も同じ空気にいると思うと、空気にすら嫌悪感が沸きそうだった。

 清田の先導に従い、京子と静香は彼によって安全化された道に続いた。

 

 

†††

 

 

 久々に運が向いてきたのかもしれない。 清田は一行の先頭を歩きながらそう考えていた。

 今、歩いている通りは表通りに比べれば道幅は狭く、錯雑としている。

 <奴ら>や敵意を持った生存者と遭遇すれば逃走は難しいだろうが、裏通りという事もあって元々の行き交う人間も少ないからか、脅威らしい脅威には洋品店を出てから遭遇していない。

 この調子で取り敢えずの目的地まで行ければいいが、流石にそこまで事が上手く運ぶとは思えない。

 <奴ら>は兎も角として、生存者と遭遇した場合を清田は危惧していた。

 あの暴漢の一件のような事態となるかもしれないし、そうでないかもしれない。

 先ずは相手がどのような人物で、どんな状態にあるのかを見極める必要があるだろう。

 助けを求めるか弱い女子供なら脅威はないものと見做しても問題ないだろうが、極度の興奮状態にある成人男性となれば冷静な対応をしなければいけないだろう。

 本当に今の自分に冷静な対応ができるのだろうか?―清田は今の自己に対して懐疑的だった。

 あの一件以来、他の生存者を恐れているのは静香と京子に限った話ではない。

 清田も同様に恐れていた。

 ただし、それは単純に危険だからという訳ではなく、自分が生存者に対して発砲しなければいけないという最悪の事態に恐怖していた。

 あの暴漢のような邪悪な人間ならば少しの同情の余地もないが、それ以外の人間に対して銃口を向けなければいけない事態が生起したのならば、果たして寸分の狂いのない判断の末にそうする事が出来るのだろうか。

 冷静でいられる自信が清田にはなかった。

 また、あの己の無力さを思い知るような事態を、心の底から恐れていた。

 守るべき者を守れなかった。

 ただそれだけで充分すぎるほど、自己を否定された。

 辛く苦しい訓練の全てが水泡に帰したかのような衝撃だった。

 心に誓った思いも、流した血と汗も、全てがあの暴漢の邪悪な行いで粉砕されたかのようだった。

 鍛え抜いていても、決定的な瞬間にあって発揮されなければ、意味をなさない。

 再び、強烈な自己否定の場面になど遭遇したくはなかった。

 そうなるくらいならば、そのような可能性を孕んだ状況が生起した瞬間に引き金を引いた方がずっと楽だろう。 糞、俺はなんていう大馬鹿野郎なんだ!―清田はあまりにも身勝手すぎる自分に絶望した。

 “自分の心が傷つくのが嫌だから引き金を引く”だなんて、エスとしてはあるまじき行為だ。

 剣崎が知れば、苦労の末に手にした徽章を手放さなければいけない。

 だがそれでもいい。

 こんな生半可な自分がいつまでもいては駄目だろう。

 此処はもっと立派な男たちの居場所なんだ。

 今の俺にはエスでいる資格なんてものはない―清田は自己を振り返った末に、そう結論を下した。

 

「…二人とも、止まってください」

 

 清田は片手を上げ、制止した。

 二人は素直に従い、清田から少し離れた位置で止まった。

 通りは交差点に差し掛かっていた。

 合流している道路は、進んできた道路よりも幾らか道幅が広い。

 清田は不用意に道路上に出る事はなく、壁際に伝っていき、端まで進んだ所でポーチから伸縮ロッド付きの鏡を取り出し、通りを観察した。

 通りに脅威はない。

 放棄された乗用車と、複数の死体が倒れているだけだ。

 それから暫く丹念に観察を続けたが、動くものはやはり何も無かった。

 

「自分が先に進んで確認します。何もなければ合図しますので、合図するまでは其処で待機していてください」

 

 二人だけで残される、という状況に京子は不安げな顔を見せたが、おもむろに拳銃を取り出し、頷いて見せた。

 次はあのような目には遭わない―そのように強い意思表示を見て取り、清田は少しばかり安心した。 小銃を構え、音もなく足を運んで通りに出る。

 左右に銃口を擬し、周囲を警戒するが驚異は確認できなかった。

 倒れている死体に低倍率のACOGサイトを向け、詳細を確認してみる。

 鏡では、死体がどのような状況下までは解らなかった。

 死体にこれといって変わった所はない。

 首筋付近に噛まれた痕跡があったが、上顎から上が綺麗に吹き飛んでいるので完全に無力化されている。起き上がってくる心配もないだろう。

 その他に転がっている死体も同様で、全てが尽く頭部を吹っ飛ばされている。

 “全て頭を吹っ飛ばされている”だって?―清田は小銃を下ろすと、肌が泡立つほどの恐怖を感じた。 これは何かがおかしい。何か異常事態が発生している。

 それが何であるのかは分からないが、正面に佇む、西日に陰る安アパートに視線を走らせた。

 本能が警告していた。此処で起きていたのは、限りなくまずい何かであると。

 それが何であるかを特定できないが、清田は咄嗟に小銃を構えようとした。

 アパートから誰かの視線を感じた。それはまるで解剖台の標本に向けられる、無機質なものだった。

 刹那、右胸に衝撃を感じ、足腰から力が抜ける。

 それはまるで目に見えない強大な角獣が、明確な殺意を持って突進してきたかのようだった。

 考えたくもないが、どうやら最悪の事態が発生したらしい。 厳しい銃規制国家である日本国内で、まさか“狙撃”されるなんて!―妙に間延びした時間の中で、清田は驚愕していた。

 


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