踏み出した一歩は粘り着くようで、腕に抱えるフルカスタムのHK416がとてつもなく重い代物に思えた。
実際、清田が使用するHK416は様々な装備を追加されている為に通常のものよりも重量がある。
だがそれは、日々の訓練と自己の絶え間無い錬成のお陰で、しっかりと保持する事が可能な筋力を身につけていたのでさほど苦にはならない筈なのに、今は腕に力が入らない気がした。
恐らく、原因は、五人の民間人を無事に守り切らなければいけないという精神的な重圧によるものだろう。
今まで様々な訓練を経験し、あらゆる事態に対応可能なように能力を身につけた筈だったが、このような状況は全く異質だった。
どんなに危険な訓練でも常に傍にいたのはエスの仲間達だ。
彼等の技量は高く、肉体的にも精神的にも自分より優れている隊員は大勢おり、たとえ死と隣り合わせとなっても全幅の信頼を寄せる事ができた。
それが今では、清田は孤立無援の状態で凶暴な人喰い死体が闊歩する中を横断しなければならないのだ。
勿論、様々な想定に基づいた訓練の中に、敵中に於ける単独での破壊工作活動や戦闘行動等があったが、民間人の護衛は未経験だ。
だが、やらねばならない。
泣き言など言っても仕方がないし、言うつもりも毛頭なかった。
先程、二体の<奴ら>を撃ち倒したきりで、何ら障害に遭遇せずに階段を下りて正面玄関まで到達できた。
清田を先頭に、生存者達はなるべく音を立てないようにして靴箱の陰に隠れた。
清田は重装備を纏っているので、敷いてある簀の子をうっかり踏んで音を立てないように気をつけた。
普段よりも重くなっている清田が踏めば、簀の子の板材が音を立てて軋んでしまうからだ。
正面玄関には、数えるのも嫌になる程の<奴ら>が犇めいていた。
無論、視界に収められる範囲ばかりにいるとは限らない。
目に見えない場所にも、もっと多くの<奴ら>がいると想定して行動するべきだろう。
一発撃てば、忽ち群がられて喰い殺されるのが目に見えていた。
交戦を避けて通り抜けなければならない。
それは不可能な事にも思えたが、そうしなければ生き残れないのであれば、そうするより他にないのだ。
「見えてないから、隠れる必要なんてないのに」
沙耶がぽつりとそう言ったが、自身も靴箱に隠れながらの発言を見る限りでは、彼女も己の推論に確証が持てないのだろう。
しかし、<奴ら>の群れの中を一切の音を立てずに突破した清田は、身を以ってそれが正しい事を知っていた。
<奴ら>に視覚が無いとはいえ、やはり身体を不必要に曝すのは心情的に抵抗があるし、必要以上に動けば物音を立てる可能性が高くなると考慮しての行動だった。
腰のユーティリティポーチから伸縮ロッド付きの鏡を取り出し、下駄箱の陰から様子を窺う。 正面に両開きのガラス戸が見えたが、その通路上には数体の<奴ら>がたむろしていた。
銃にせよ刃物にせよ素手にせよ、排除しようとすれば少なからず音を立ててしまう。
完全なるサイレントキリングは不可能である。
現状では正面玄関を通り抜けるのが最良の選択だ。
校舎内を移動し、別の出入口から外に出るという方法もあったが、それは清田だけならまだしも、生存者を連れているとなると厳しい。
空間の限られた建物内では<奴ら>に囲まれた際に退路を絶たれる可能性が高く、人数が多ければ尚更だ。
だからこそ機動の制限を受けにくい屋外ならば仮にそうなったとしても切り抜けられる可能性がある。
そして駐車場に停まっているマイクロバスを目指すとなると、やはり正面玄関を抜けた方が近いというのもあった。
「私が先に行きましょうか?」
冴子がそう申し出たが、それをあっさりと承諾する清田ではない。
確かに、元々大柄な身体が重装備によって更に動きが鈍っており、しなやかで身軽な冴子の方が機動力に優れているだろう。
だが、彼女が若くして剣に熟達していたとしても、〝非力〟な女子高生に一番危険な前衛(ポイントマン)をやらせる事など出来る筈が無かった。
こういう時だからこそ、自分が役に立たねばなるまい。その為の特殊作戦群なのだから。
でなければ諸々の手当が付いて、一般隊員よりも多く支払われている給料の意味がない。
「いや、自分が行きます。貴女はいざという時の為に控えていて下さい」
清田の言葉に冴子は無言で頷いた。
冴子は、決して自惚れではないが、剣術に関する腕には自信があった。しかし、〝戦闘〟に関しては、少なくともこの中の誰よりもプロフェッショナルである清田の言葉とあっては素直に従う他ない。
冴子は彼の事を、〝人を効率よく殺す方法〟を骨の髄まで叩き込まれている戦士と見做していた。
行動を起こす前に、清田は〝戦術的呼吸法〟を実施した。
人体は、体性神経系と自律神経系を通じて脳が動かしており、前者は腕を上げたり小石を蹴ったり、後者は人が意識的に動かす事の出来ない心拍数や発汗などを担当している。
しかし、呼吸と瞬きだけは何時でも体性神経系と自律神経系の制御を簡単に切り替える事が可能であり、それは人が眠る際に呼吸を意識的に行わなくても窒息せずに済む事で証明されている。
つまり、呼吸は体性神経系と自律神経系の懸け橋であり、呼吸の制御を身に付ければ完全とはいかないがある程度まで自律神経系の動きを自らの意志でコントロール可能となる。
そして自律神経系には交感神経系と副交感神経系の二つがあり、適切な呼吸法を行えば交感神経系による反応、いわゆる恐怖と怒りの手綱を握る事が出来る。
それはほんの少しの心構え程度のものかもしれないが、あるのとないのとでは雲泥の差がある。
清田はフォーカウント法を好んでいるのでそれを実施した。
まず、ゆっくり四つ数えながら鼻から息を吸い、腹を風船のように膨らませる。
そこで息を止めて四つ数え、またゆっくり四つ数える。
今度は口から息を吐き、空気の抜けた風船のように腹をへこませる。
息を吐ききったところで、息を止めてまた四つ数えたら、この手順をまた最初から繰り返す。 これを三度繰り返すと、緊張が解れ、精神状態が落ち着いてくるのが分かった。
古典的なオペラント条件付けにより、その効果はより高められていた。呼吸という一つの動作に集中する事で、無駄な雑念が消え失せるようだった。
そうだ。何事も先ずは落ち着け。そうすれば上手くやれる―重装備を身に纏い、決して身軽とはいえない状態でも〝流水の如く淀みのない〟動きで、清田は音もなく下駄箱の陰から進み出た。
通路上には数体の<奴ら>が、声にならぬ呻きを上げ、ゆらゆらと海草のように揺れながらぼんやりと佇んでいた。
どれもこれもが無惨な最期を遂げてもなお、安らかな死を迎えられなかった生徒だった。
心が今にも悲鳴を上げそうだった。彼らの事や、その家族の事などを思うと痛ましい想いで胸が張り裂けそうだった。
だが、今はそんな事を気にかける事すら許されない。感情を押し殺し、清田は<奴ら>の眼前をそよ風のように過ぎった。
平静を装っているが、清田とて恐怖は感じていた。しかし、それらは事前に行った戦術的呼吸法のお陰で抑制されていた。
<奴ら>は、鼻先にいた清田に気付く素振りさえ見せず、ただ呆然と虚空に視線を漂わすだけだった。
足元に落ちていた、誰かの脱ぎ捨てられた靴を手に取り、奥の壁際の傘立て目掛けて投げると、命中し、盛大に音を発した。
今まで無反応だった<奴ら>は、一斉にそちらを気怠げに振り返り、覚束ない足取りで歩み出した。
清田は隅に寄り、<奴ら>が通り過ぎるのを待った。
玄関内の<奴ら>が音を立てた傘立て周辺に集まったのを確認し、蝶番が軋まないように慎重にガラス戸を開いた。
そこからでも、外には遥かに多くの<奴ら>がいるのが確認されたが、今はそれについて考えるべきではない。
思考を分散させると集中力の低下に繋がる。
重要なのは、取り敢えず生存者を校舎の外へ連れ出す事だ。
清田は冴子に合図を送り、周辺の警戒に取り掛かった。
生存者達は極力音を立てないようにゆっくりと慎重に進み、清田の先導で正面玄関から外へ出た。
外にうごめく途方もない数の<奴ら>は壮観でさえあり、絶望するには充分過ぎた。
生存者達の反応は様々だったが、年相応以上の冷静さを身に付けているだろうと見做していた冴子でさえ、思わず息を呑むのを清田は見逃さなかった。
清田は手招きし、生存者達を自分の背後で固まらせてその場にしゃがみ込むように指示した。
「耕太君」
清田は小声で耕太を呼んだ。
耕太は中腰でその背後までやってきた。
「何でしょうか?」
「デイパックの背面にグレネードポーチが沢山括り付けられているだろう? 最上段のポーチから手榴弾を二個、取り出して俺に渡してくれ」
清田の指示通り、耕太はデイパックに括り付けられたグレネードポーチから二個の円筒形の手榴弾を取り出し、彼に手渡した。
耕太は缶コーヒー程もある、その特殊な形状の手榴弾がどのようなものであるのかを察した。
「これから大きな音を出して<奴ら>を誘導します。全員、その場にしゃがんだまま耳を抑え、爆発を見ないようにしてください」
生存者達は素直に清田の言葉に従い、手で耳を抑えてその時を待った。
全員が指示に従ったのを確認してから、清田は右手で保持している手榴弾の、何かに引っ掛けたりして抜けないようになっている安全ピンの割りを戻してから、左手の人差し指を安全ピンのリングに通し、引き抜いた。
映画のように手榴弾の安全ピンを口に咥えて引き抜こうとすれば、歯が何本か抜けるだろう。それ程までに手榴弾の安全ピンは固く抜け難くなっているのだ。
今、手榴弾は右手で弾殻ごと握り締めている安全レバーにより遅発信管が撃発されない状態でいた。
清田は渾身の力を込めて手榴弾を投擲した。
思わず雄叫びを上げそうになったが、それは学生の頃やっていた陸上競技で染み付いた習慣だからだろうか。
回転しながら放物線を描く手榴弾から安全レバーが弾け飛び、解放された撃針によって遅発信管が点火された。
手榴弾は清田の狙い通り、進行方向上にたむろする<奴ら>から離れた場所に落下した。
手榴弾の爆発に備え、距離があるとはいえ、清田もその閃光と音響から目と耳を庇った。
直後、昼間の最中にあっても網膜を焼く240万カンデラの超新星のような煌めきと、ジェットエンジンが間近で発する轟音よりも大きな180デシベルという爆音が轟いた。
特殊音響閃光手榴弾(スタングレネード)と呼ばれるこの手榴弾は、爆発時の凄まじい爆音と閃光により、付近の人間に一時的な失明、眩暈、難聴、耳鳴り等の症状と、それらに伴うパニックや見当識失調を発生させての無力化を狙って設計されている。
威力の逃げにくい閉鎖空間内で使用した場合、どんなに鍛え込んだタフガイでも思わず顔を覆ってうずくまる程の代物だ。
たとえ空間の開けた屋外で尚且つ距離があったとしても、その閃光と爆音は少しも減衰する訳ではない。
離れた場所で耳を覆っていたのに、痛む鼓膜に清田は思わず顔をしかめた。
その目論見通り、マイクロバスへと至る進路上にいた<奴ら>はスタングレネードの発した轟音に釣られて歩き出していた。
<奴ら>のどれもが、その威力に怯んだ様子はない。ただの大きな音としか捉えていないようだ。
進路上の<奴ら>の姿が疎らになり、且つ大音響に引き寄せられた新たな<奴ら>が集まるより前に、清田は生存者達に移動を促した。
「さぁ、行きましょう。今が一番、障害が少ない」
清田を先頭に一行は移動を開始した。
清田は予備のもう一つのスタングレネードをポケットに捩込み、<奴ら>の間隙を縫って生存者達を先導した。
途中、清田らの存在に気が付いた<奴ら>が数体いたが、近付いてこようとする<奴ら>にはその頭に灼熱の弾丸を撃ち込んで清田が尽く無力化していった。
清田はハリウッド映画のアクションヒーローのように曲芸じみた射撃は出来ないが、戦闘で生き残ったプロの兵士達が実践していた堅実な射撃術を身につけており、少しも撃ち漏らす事は無かった。
しっかりと左手で銃身下部に装備された擲弾発射器を支え、右手で小指から順に握把を握り締めながら肩付けを行い、右腋を引き締め、真正面からACOGサイトの上部に据え付けられたホログラフィックサイトを覗き込み、引き金は優しく真っ直ぐに引き、呼吸は静かに吐き出した。
少しでも身体のぶれを軽減する事が命中率を向上させるのだ。
自身が移動しながらで、尚且つ標的も緩慢とはいえ動いているとなれば近距離でも外す可能性は高い。
だから清田は、生存者達に被害が及ばないと思われる距離にまで接近してきた<奴ら>のみに的を絞り、最小の銃撃で迎え撃っていた。
冴子と耕太の出番は無かった。
勿論、清田は彼らを最初からあてになどしていなかった。
確かに、二人は<奴ら>に対する有効な武器を保有し、事実それを用いて今まで生存してきた。だが、民間人を救出に来た現役の特殊部隊の兵士が、専門的な訓練を受けていない彼らの戦力をあてにしろという事自体がありえなかった。
スペシャルフォースの男達は、同じ苦しみと困難を分かち合った仲間にしか背中を預けない。
むしろ、預けられないというべきだろう。
特に、咄嗟の判断力を要求される屋内近接戦闘に於いてはそれが顕著である。
部屋をクリアリングする際、チームの各人には役割が付与され、それは絶対に遂行しなければならない事とされている。
例えば、部屋の右隅の安全の確保という役割を与えられれば、ルームエントリーの際には絶対にその方向以外に銃口を向けてはならない。
重武装のテロリストが自分の左側にいたとしても振り向いてはならないのだ。
相手の銃口がこちらの無防備な脇腹に照準されていて、引き金を引けば確実に致命傷となる箇所に命中するのが明白だとしても、強烈な自己保存の本能に逆らってでも愚直に任務を全うしなければならない。
だが、それは、諦観にも似た冷静さだけの御蔭ではなく、傍にいる仲間が自分の担当以外の方向にいる敵を絶対に制圧してくれるに違いないという信頼に裏打ちされているからこそである。
お互いに、それをやってのけれるだけの訓練をこなし、高度な技術を身につけているのを知っている。自分の役割が疎かになれば仲間は死に、それによって自分も死ぬという事も嫌というほど叩き込まれている。
どちらか一方が欠ければ生存率が大幅に低下し、そして任務が失敗する確率も跳ね上がる。つまり、一蓮托生の運命であるならば自ずと強く結び付くものであり、また、過酷な体験を共有しているからこそ肉親よりも深く強固な絆が育まれるのである。
それがいざ戦闘となれば、これほど強力な武器となりえるものは他にはなかった。
マイクロバスに辿り着くと、清田は銃口を擬しながら車体の周囲や下を素早く見回し、<奴ら>の危険が無い事を確認した。
「鞠川先生、鍵をお願いします」
静香からバスの鍵を受け取り、乗降扉を開けて車内をクリアリングしてから存者達を招き入れた。
「エンジンを何時でもかけれる状態にしておいて下さい」
静香に鍵を渡す際にそう指示し、ポケットに捩込んだ予備のスタングレネードを取り出す。
エンジンを始動させる前に<奴ら>を遠ざけなければ、エンジン音に引き寄せられて集まった<奴ら>に忽ち進路を塞がれる恐れがあった。
マイクロバスが普通の乗用車よりも車体と車輪が大きいとはいえ、何体もの<奴ら>を轢いて乗り上げれば横転する可能性がある。その為には再度、<奴ら>の注意を逸らして引き離す必要があった。
安全ピンを抜き、スタングレネードを校舎の方へと投擲した。
数秒の後に、あの大音響が響き渡り、マイクロバスへ向かってのろのろと歩いていた<奴ら>の進路が反転した。周囲に群がり始めていた<奴ら>もバスから離れていく。
生存者達は既に清田の意図を察していた。
物音を一切立てる事なく、じっと息を殺して<奴ら>の動向に目を懲らしている。
清田は、<奴ら>の一体と目が合ったが、幽鬼のごとく虚ろな表情で通り過ぎるだけだった。
視覚はなく、聴覚にのみ頼っているという事を頭で理解していても、薄い窓ガラス越しに遠ざかる先程のその一体が、今にも振り返るのではないかという不安に駆られ、清田もその動向から目を離す事が出来なかった。
マイクロバスの進路上と周囲から完全に<奴ら>の姿が消えた時点で、清田は極力音を立てないように乗降扉を閉めて助手席に移動し、背負っていたデイパックと散弾銃を助手席の足元に降ろして静香の傍に寄った。
「それではエンジンをかけて下さい」
「は、はい」
清田は静香にエンジンを始動させるように指示したが、上擦った声で応じた彼女の表情は固く強張り、ハンドルを握る手には力が入りすぎていて、白魚の如き指が尚更白かった。
その様子を見れば、静香が酷く緊張しているのが手に取るように解った。
「…鞠川先生、マイクロバスの運転は初めてですか?」
清田の問いに、静香は緊張した面持ちのままこくりと頷く事で答えた。
極度の緊張状態では事故を誘発する恐れがあるが、初めて運転する種車ともなれば尚更に危なっかしい。
それに加えて、ハンドルを握るという事は、同乗者達の命をも握るという事でもある。
今、この切迫した場面で、何人もの人間の命を一時的にとはいえ預からなければいけないという事実は、思った以上に静香にとって重荷だったようだ。
生存者の中では大人である静香に、己の専門とする戦闘以外で車両の運転程度ならば任せても問題はないと考えていた清田だったが、どうやらそうも言ってはいられなさそうだ。
事故を起こせばそれは即、乗っている全員の生命に直結してくる。
折角ここまで生き延びたのに、不慣れな静香に運転を任せたばかりに全員が死んでしまったら元も子もない。
少しばかり張り詰めた神経を休めたかったが、ここは自分が運転するしかなさそうだ。
「バスは自分が運転しますが、その代わり道案内をお願いしても宜しいですか?」
「は、はい」
清田は運転する際に邪魔になるのでスリングベルトで身体に括り付けている小銃を外し、安全装置をしっかりと掛けて助手席に置き、静香と交替して運転席に座った。
腰周りに付けている装具が邪魔で座席に座りづらい上に、重装備で着膨れした姿では思った以上に運転が難しそうだ。
半長靴を履いたままの運転を前提とした自衛隊車両と仕様が異なるので、タクティカルブーツを履いた足だとうっかりペダルを踏み間違えてしまうだろう。
だが、少なくとも、不慣れな静香よりはマシだ。
清田は視界を少しでも広く確保する為にタクティカルゴーグルを押し上げた。
キィを捻ると、咳き込むようなセルモーターの回転音の後にエンジンが始動する。
清田は全員が席に座っているのを確認してからクラッチを踏んでギアを換え、サイドブレーキを引いた。
「それでは発車します」
ゆっくりとアクセルを踏み、バスが発車する。
エンジン音に釣られて<奴ら>が再度こちらに向かってきたが、その鈍足ではもはや安全な移動手段を得た生存者達に追い付く事は叶わかった。
バスは混乱の最中に開け放たれた校門を抜け、高台に立てられた学園から降る道路を走る。
フロントウィンドウ越しに差し込む陽光に思わず清田は目を細めたが、視界に広がる、至る所で黒煙を吹き上げる市街地の惨たらしい惨状まで和らげる事は出来ず、暗澹たる想いが胸中を支配するばかりであった。
†
長閑な田園風景に囲まれた郊外の県道を、マイクロバスは生存者達を乗せて市街地を目指しひた走った。
車内では誰もが口をつぐんでおり、重苦しい雰囲気だった。
学園を脱出した当初は、全員が歩く人喰い死体の巣窟から生還したという事実に安堵しており、その喜びを噛み締めるように実感していたが、清田が少しでも現在の最新情報を得ようとスイッチを入れたカーラジオから流れる音声に、次第に生存者達の気力は奪われていった。
情報が錯綜するばかりで事実を伝える事は無く、ひたすらに混乱だけが広がっている。
そもそも、被害や犠牲者の正確な全容など誰も分かりはしない。ただ判明しているのは、歩く人喰い死体が生者を襲うという事だけである。
内容のない曖昧な情報だけが繰り返されるばかりで、縋り付く事さえ出来なかった。
ただ一つ、ラジオから得られた有益な情報は、現在、床主大橋・御別橋方面は対岸の床主市東部に避難する市民で大変混雑しており、これ以上の無用な混乱を避ける為に避難するのであればなるべく車両ではなく徒歩でいくようにという呼び掛けであった。
このままマイクロバスで進んでも、いずれ交通渋滞に巻き込まれて停滞を余儀なくされる。身動きが取れない状態でもしも<奴ら>に囲まれたらと想像するだけで恐ろしい。
小回りの利かない図体のでかいバスを何処かで放棄し、徒歩で当初の目的地である高城邸を目指す事を視野に入れるべきだろう。
そうなった場合、清田の負担はより重くなるだろうが。
あれこれと考えていると、前方の道路上を農家らしき格好をした男性がふらふらと覚束ない足取りで歩いていた。
生存者かと思って一旦アクセルを緩めた清田だったが、距離が近付くにつれてその容貌が明らかとなる。体中を獣に貪られたようにして血塗れとなっている時点で、彼が既に<奴ら>の仲間入りを果たしていると見做して間違いなかった。
清田は再びアクセルを踏み込んだ。
接近するマイクロバスの存在に気が付いたその一体の<奴ら>は、瞳なき目を向けたが、既に大きな車体は猛然とその脇を擦り抜けていった。清田がわざわざぶつけて車体を破損させてまで無力化する必要性もないと判断しての事だった。
今のさまよい歩く<奴ら>の一体を見て、清田は改めて危機感を募らせていた。
人口がそれほど密集していない郊外とあって、田園風景が広がる景色ばかりで学園を脱出してからというもの、あの一体を見るまでは遭遇してこなかった。しかし、市街地に近付くという事は、<奴ら>が蠢き仲間を増やし続けているその渦中へ飛び込む事と同義であり、風景に建物が増えていくにつれて事故を起こして放棄されている車両なども見られるようになってきた。
「!」
清田は慌ててブレーキを床に接するほどまで深く踏み込み、車体に急制動を掛けた。
前方に事故を起こしてフロントバンパーのひしゃげたダンプカーと、逆さまにひっくり返っている乗用車を認めたので予め徐行してはいたが、ダンプカーの大きな車体の影から新たな乗用車が猛スピードで現れた為だった。
ダンプカーの影から現れた黒塗りのセダンも急ブレーキを掛けて止まった。
あわや正面衝突するところであった。
「何してんだっ、殺すぞこらぁっ!」
全面スモークガラスのセダンに乗っていたのは、やはりガラの悪そうな男だった。
男はホーンを鳴らしながら運転席から身を乗り出して怒鳴り付けてきた。が、清田は全く相手にする事なく、車体をバックさせてセダンに道を譲った。
暫く男は何かしら喚いていたが、やがて気が済んだのかそれともこれ以上喚くのは貴重な時間を浪費するばかりであるという事実に気が付いたのか、郊外へ向けて走り去っていた。
運転席に座るのが普通の運転手ではなく、厳つい重装備の兵士であるのに気付いた様子はなかったが、それは恐らくバスのフロントに書かれた『私立藤美学園高校』の文字と、運転手まで観察する余裕が男にはなかった為だろう。
バスのフロントの文字だけを見て男は、運転席に座るのも学校職員のオヤジだろうという先入観を持って決め付けていた。しかし仮に、清田の存在に気が付いたとしても保護を求めるといった発想に到る事は無かっただろう。
まさか、自衛隊員が部活遠征用のマイクロバスを運転してこの場にいるとは思うまい。戦闘服姿の清田を一目見た所で、頭のいかれた軍事オタクと見做し、わざわざ関わりを持とうとはしないだろう。
再びバスを走らせながら、清田は暫し物思いに耽った。
先程の、自分達以外の<生きている>人間に出会ったからこそ思い起こされた。
何も障害となるのは<奴ら>ばかりではないという可能性だ。
<奴ら>の危険性については既に嫌というほど思い知らされている。だが、死の危機に瀕して自暴自棄になった人間や、生き残る為であれば躊躇なく犯罪に手を染める人間もまた危険である。
政府機能が麻痺するほどの混乱ともなれば警察の治安維持能力を許容量をあっという間に超えてしまい、どさくさに紛れての暴動や掠奪が横行するかもしれない。
幾度となく大災害に見舞われた経験のある日本では、表立って大規模な暴動が発生したと報じられた事例は少ない。
その理由が、日本人という全体の和を優先する島国民族の特有の精神的社会主義によるものだとか言われるが、最も重要なのは昔から天災に慣れ親しんできたからこその高い災害対策能力があるからだ。
一般的な先進国の、普通の市民とて自ら進んで積極的に法を犯そうとは思わないだろう。そうせざるをえないのは、安定した食料と水の配給がなされず、生きていくにはやむを得ないと判断するからだ。
中には火事場泥棒目的の不心得者もいるだろうが、大多数の善良な市民はこうだ。
自分達の命が政府によって保証されているのであれば、犯罪を犯す必要などある筈がない。全国的にほぼ同時に発生した殺人病の蔓延は、日本の災害対策能力や治安維持能力の上限を一気に超えてしまっているから、ここまでの騒動に発展しているのだ。
もしも初期段階で押さえ込まれていれば、自衛隊が出動する必要性など絶対に無かっただろう。
市街地に行けばまだ逃げる事の叶わない大勢の市民がいる。彼等の誰もが生き残る為に必死の筈だ。
その彼等と出会い、清田の存在と身分に気がつけば、善悪に関わらずその意志の矛先が向けられるだろう。
その時、一体どうすればいいのか。
任務は高城沙耶の安全が第一だ。
しかし、果たしてそういった状況に直面すれば任務どころの話ではなくなるかもしれない。
清田はそっとレッグホルスターに収めてある拳銃に触れた。
守るべき国民に対して銃を向けざるを得ない状況が生起するかもしれない可能性は充分にあるだろう。
だが、その時、自分は非情に徹する事が出来るのだろうか。
今、この場で答えを出すのは躊躇われた。
物思いに耽りながら運転していた為か、いつの間にか頭上より降り注ぐ爆音に気が付いたのは、視界の隅を低空で掠め飛ぶヘリコプターの機影を認識してからだった。
残念ながら自衛隊のものではなく、民間の報道ヘリだった。もしも自衛隊機であれば、携行しているTACBE戦術ビーコン発信機兼無線機で連絡する事が出来ただろう。
TACBEは、上空なら付近まで飛んできた捜索機や救助ヘリと、地上ならごく近距離であれば無線通信で会話もできる。
その報道ヘリは不安定な飛行を行っていた。理由は直ぐに分かった。
ヘリのスキッドに、数体の<奴ら>が鈴なりになってぶら下がっていた。恐らく、取材する最中、押し寄せる<奴ら>の群れに飲み込まれる直前になんとか離陸したのだろう。
相当焦っていたらしく、レポーターらしき女性はキャビンに乗り込めなかったようで、乗降扉に懸命にしがみつく事で堪えていた。
「………!!」
その瞬間を目撃したのは、フロントウィンドウ越しに広い視界を得られる、運転席と助手席に座る清田と静香のみであった。
<奴ら>の一体が、女性の足に食らい付いた。
それからはあっという間の出来事であった。
相当の激痛に、思わず扉を掴む手が緩んでしまったのだろう。女性は、<奴ら>と共にヘリから落下した。
低空を飛んでいるとはいえ、あの高さから落下すればまず助からないだろう。仮に助かったとしても重傷は免れず、また、その状態で僅かばかり生き長らえてもそれは地獄でしかない。
静香はその衝撃的な光景に、反射的に手で顔を覆って遮ったが、一部始終は網膜を通して深く脳裏に刻み込まれていた。
遠目だからこそ細部は不鮮明だが、それを補うかのように女性の恐怖と絶望に歪んでいたであろう表情を想像してしまい、ただただ細い肩を震わせて戦慄するばかりであった。
清田も、流石に心地好いものではなかった。
ちらり、と清田は横目で助手席に座る静香を見遣った。
傍から見ても気の毒と思えるほど彼女は怯え、憔悴しきっていた。車を何処かに停め、少しでもいいから休ませるべきだろう。
でなければいずれ、積み重なった心労で床主市からの脱出を待たずに彼女は駄目になってしまう。
前方に、新たに衝突事故を起こしてそのまま放棄されている二台の乗用車が見えた。丁度、右側車線の路肩部にも砂利敷きの駐車場が確認できた。
清田はそこへバスを乗り入れ、エンジンを切って停車させた。
エンジンを切ったのは、音を少しでも抑えて<奴ら>に捕捉されないようにという創意であった。
「ここで暫く休憩します。何かあれば、遠慮なく自分に言ってください」
そう言ってから席を立ち、傍らの静香に寄る。
彼女は俯いており、その表情は垂れる下がる長い髪に隠れてしまって見えない。
「大丈夫ですか?」
なるべく優しく、穏やかな声で伺うが、静香は反応を示さなかった。
暫し、根気強く反応を待っていると、彼女は顔を上げ、今にも泣き出しそうな潤んだ瞳で清田を見た。
「…辛いのは解りますが、今は耐えてください」
気の利いた優しい言葉を掛けてやれない自分に腹が立った。
辛いのは全員同じだ。
そんな簡単な事ぐらい、静香は百も承知だろう。
しかし、だからといって、折り合いをつけて向き合えるかどうかは別だ。
心の強度には個人差がある。
それを無視する訳にはいかないだろう。
「自分が、全力で皆さんをお守りしますから、どうか信じてください」
静香は弱々しく、こくり、と頷いた。
その様子があまりにも痛ましくて、清田は胸を締め付けられるような想いに駆られた。
同時に己の無力さを思い知らされた。
重装備で固めた自分の厳つい姿が、少しも安心感を齎さない事に。
「トイレは大丈夫ですか? 我慢しないでくださいね」
「………少し」
沈黙の後に静香はぽつりと答えた。
気分が酷く落ち込んでいても、人体の生理的欲求に変化はない様子だ。
「解りました。少し、待っていて下さい」
清田はデイパックを背負い、散弾銃を身に付け、小銃を掴むと、他の生存者達に用を足したい者がいるかどうかを念入りに尋ねて回った。
「田中さん。少し、宜しいですか?」
京子の席へ行くと、彼女は顔を寄せ小声で囁いた。
その表情は何故か、心配そうな様子だ。
「何でしょうか?」
ふわり、と香る大人の女の薫りに少しくらりとしながら、清田もつられて声量を抑えて応じる。
「田中さんは男性ですから、女性の…その、デリケートな面倒を見るのは大変ではないですか? もし、宜しければ、私もご一緒しましょうか?」
京子のその控え目な申し出に、清田は心の底から救われるような思いだった。
今の彼女は、発見当初からすれば別人のように落ち着いている。
生存者の中では最年長であり、親元から離れた生徒を預かる教育者を纏める責任者としての誇りと自覚が、京子に冷静な思考と行動力を齎しているのだろう。バスの運転中、清田に代わって甲斐甲斐しく生存者達の面倒を見てくれており、それも密かに有り難かった。
「ありがとうございます。そうですね……お願いします」
清田は逡巡してから、その申し出を承諾した。
車外に出る事が危険なのは、京子は百も承知だろう。それを踏まえて、彼女は清田の手助けがしたいと申し出てくれた。
清田としてはその好意は素直に嬉しく、助かるものだが、護衛対象が増えればそれだけ負担も大きくなり、彼を含めた全員の命が危険に晒される可能性が高まる。
少しでもその可能性を低減させるには、やはり多少のプライバシーを侵害するべきだろう。一時の恥辱で命が助かるものなら安いものだ。
しかし、今回の事態は回避可能な致命的リスクとは言い過ぎかもしれない。これから行動を共にするのであれば、相手の私的な部分を場合によっては優先してやる事も必要だろう。
それが後の重大的場面で決定的な要素となり得るかもしれない。
つまりは、良い関係を築きたければ、労を惜しまず、泣き言など言っていられないという事だ。
自分が、二人に危害が及ばないよう、最大限の努力を払えばいいだけの話だ。正論的なリスクコントロールやリスクマネジメントばかりでは人心までをも掌握する事は出来ないだろう―清田はそう結論を下した。
清田は静香に、京子も同伴する旨を伝えた。女性のデリケートな問題を扱うのであれば、やはり同性が一緒にいる方がいいだろうと。
静香はこれを素直に了承した。
「先ず自分が外に出て安全を確認しますので、合図があるまで車内で待機していて下さい」
静香はハンドバックから取り出したポケットティッシュを手に、清田の言葉に頷いた。
そうして清田は慎重に乗降扉を開け、先に車外に降り立った。
少なからぬ安全が確保されていた車内と違い、外は<奴ら>の蠢く世界である事を意識せざるを得ず、否応なく緊張が高まった。
油断なく周囲に視線を巡らせ、警戒しながら県道まで進む。フェイスマスクの下ではじわりと汗が吹き出た。
近辺に<奴ら>の姿がない事を充分に確認してから、次に放棄されたままの二台の事故車両の傍まで歩いていく。
二台とも車内に人影はなく、周辺の道路に血痕があるだけだ。
<奴ら>の姿は完全に見当たらないと判断し、車内から様子を窺っていた二人に合図を送った。
静香は恐る恐る車外に降り立つと、おっかなびっくりしながら小走りで清田の傍まで駆け寄り、その大きな背に隠れるようにしてぴたりと寄り添った。京子は、必要以上に怯える静香を気遣うように、その後ろに付き従った。
抗弾ベストの背中には、焼結加工された分厚い積層セラミックの装甲と、装備で膨らんだデイパックを背負っていたが、清田には身体を寄せる静香の鼓動と体温を感じ取れるような気がした。
今の彼女は、大人の女の魅力をたっぷり漂わせる保健の先生というよりも、父親の力強い庇護を求めるか弱い少女のようであった。
自然と清田の胸中には、この小鳥のように小さく弱々しい鼓動を絶対に守らねばなるまい、という気概を沸き起こらせた。
ふと、背後を振り返ると、京子と視線がかち合った。
彼女は己の不安を清田に感じさせまいと、自然に微笑んだつもりなのだろうが、少し表情がぎこちなかった。やはり、ああ言ったものの、<奴ら>が跋扈する外の世界に出るのは怖かったのだろう。
だが、精一杯の勇気を振り絞って、同伴を申し出てくれた京子には感謝の念で胸が詰まりそうだった。
絶対にこの二人は守らねばなるまい。でなければ俺に生きている価値はない―かつてないほどの強い使命感に、清田は燃えていた。
「鞠川先生。自分は少し離れた場所で周囲を見張っていますので、その間に奥の乗用車の陰で用を足して頂けませんか?」
殆ど周囲から遮蔽されていないから用を足す静香にとっては恥ずかしい事この上ないだろうが、周辺の見晴らしを確保するには殆ど道路のど真ん中でする以外に方法はない。
駐車場の直ぐ傍は雑木林となっており、用を足すのであれば生い茂る草木で充分なプライバシーを保てるが、それと引き換えに視界を犠牲にしてしまうので接近する脅威の発見が遅れてしまう。
しかし、開けた道路上であればその心配はない。
今更、恥ずかしいだの何だの言ってはいられない。
一時の羞恥を我慢するのと、ほんの僅かとはいえ命の危険を高めるのとではどちらがマシか。
改めて尋ねるまでもないだろう。
清田とて心苦しさを感じているが、今は個人のプライバシー保護よりも優先すべき事があるというのを理解してもらわねばなるまい。しかし、その中でも、最低限の配慮として同性の京子にきて貰ったのだ。
一瞬、躊躇った静香だが、即座に清田の言わんとする事を察し、そそくさと乗用車の陰に隠れた。
「…あの、すみません」
しかし隠れたと思った静香は用を足さず、直ぐに小声で清田を呼んだ。
「どうしました?」
静香に呼ばれた清田は、若干怪訝に思いながら傍までやってきた。
まさか、流石に恥ずかしいので用を足すのは躊躇われた、という訳ではあるまい。
たとえそうだとしても、一切の譲歩をするつもりは清田には無かった。
静香はばつが悪そうに、というよりも、親の顔色を伺う子供のようにはにかんだ表情を浮かべていた。
何かを伝えたいが、言いづらいといったところだろうか。
しかし、何時までもそうして躊躇っている事は叶わず、静香は太股をぴっちりと擦り合わせるようにもじもじとさせ、迫り来る尿意に堪えながら言った。
「自分の目の届く所にいてくれませんか?」
気恥ずかしそうに、か細く搾り出された静香の言葉を、清田はきょとんとした様子で受け止めていた。
何故、という疑問が彼の瞳に浮かんでいるので、静香はぽそぽそと呟いた。
「一人でいると…不安で堪らなくて………その……」
最後の方は聞き取れなかった。
静香は、用を足す僅かな間でも、視界内に清田の姿を収めていないと不安で仕方がないというのだ。
大の大人が何を言っているんだ、と清田は思わなかった。いや、思える筈が無かった。
静香は女性で、自分のように体格と体力にも恵まれてもいなければ、特別な訓練など何も受けていない素人なのだ。
立て続けに起こる惨劇が齎す恐怖で、その精神の自律性が退行を起こすのも仕方がない事だろう。
「それについては安心して下さい。林先生が傍にいてくれますので…流石に男の自分では、女性の用足しを妨げてしまうかもしれませんので、離れた場所にいます」
「鞠川先生。私が近くで見張ってるから安心して。何かあれば田中さんを直ぐ呼んであげるから」
二人の献身的な心遣いに、静香は安堵したように頷いた。
清田は周囲一体を隈なく見渡し、市街地方面へ伸びる道路上に<奴ら>の姿がない事を確認し、静香の視界から外れた場所でバスを今まで走らせてきた道路の方角を向いた。
流石に、静香にそう頼まれたからといって彼女が用を足す場面を直視する訳にもいかないし、その視界内に入っているのも心苦しい。
清田は静香から大分離れた位置で、道路の一方を監視しながらその行為が済むのを待つ事にした。
静香からほんの数メートル離れた場所では、同性の京子が背を向けて佇んでいる。
視界内に他人を収める事で孤独感を紛らわせた為か、それで漸く安心感を得られたからだろうか。
今まで堪えてきた尿意が一気に噴出するように押し寄せてきたので、静香は慌てた。
お気に入りだった、プラダの膝丈の黒いタイトスカートは下着が露出する程まで冴子によって引き裂かれており、捲り上げるのに大した苦労はいらなかった。
これが普段であれば、スカートが腰のくびれからふっくらと突き出た円やかなヒップに支えてしまうのだが、今は腰に纏わり付くだけの布切れとなっているのですんなりといった。
ふくよかなくびれに食い込んでいる、パンティのウェスト・バンドに指を滑り込ませ、豊かな曲線に沿って下ろすと、今まで薄布によって隠されていた秘めやかな場所が外気に晒される。
そうしてその場にしゃがんでから、静香は今更になって自分がとてつもなく恥ずかしい行為をしているという事実に気が付き、顔を赤らめた。
視線の先には、京子が背を向けて静かに佇んでいる。表情は窺えないが、緊張した様子で周囲を不安げに見張っていた。
非常勤の養護教諭である静香は、他の教師と仕事を一緒にする事が少ない。
大学病院で研修医として勤務する傍ら、産休で不在している元々の養護教諭に替わって、今は臨時に藤美学園に派遣されているのだ。
時々、保健体育の授業を受け持つ以外は、保健室を訪れる生徒の心と体のケアが主な仕事である為、他の一般科目を担当する教師達とは接点も少ない。
唯一あるとすれば、女性教諭を纏める立場にある京子ぐらいなものだろう。直属の上司という訳ではないが、何かと面倒を見てくれる。
もしも京子がこちらを振り向いたりでもしたら、惜し気もなく晒されている自分の秘所を真正面から見る形となる。
同性とはいえ、そうなったらたとえようのない羞恥に苛まれるかもしれないが、今更その程度の事を恥と感じたからなんだというのだ。
今は生き死にが掛かっている状況だ。
だからこそ、用を足す無防備な瞬間が堪らなく怖くて、恥を忍んで清田や京子に頼みを聞いて貰っていた。
しかし、やはりそれとこれとは別問題であり、恥ずかしい事に変わりはないのだが、もしも京子に今の恰好を見られたとしても、静香は大した嫌悪感を抱かないつもりだった。
何かと世話を焼いてくれる京子を、一回り年上の姉のように思っていた。
自分が、年齢の割にぽややんとしている性格だというのは自覚している。その為か、京子からは度々注意された。
職場では口うるさいお局様とされている京子だが、彼女はヒステリックに後輩に当たり散らすという事は無かった。生徒に対する指導と同様に後輩の事も細やかに見ており、その内容は相手を思いやったものであり、理不尽な事は決して言わない。
時には厳しい事も言うが、それを含めての指導だ。でなければ人間的な成長は望めないだろう。
重武装している清田はともかくとして、丸腰の京子はいつ<奴ら>に襲われるか不安で堪らない筈だ。出来るのならば、一緒についてきたくはなかっただろう。
だが、彼女は優しく献身的で、勇敢な女性である。護衛は清田一人で充分かもしれないが、後輩に心細い思いをさせるのも偲びなく、こうして耐え難い恐怖を押し殺して同伴してくれた。
それについては言葉に表せないほどの感謝があった。
清田は関してもそれは同様だ。
彼は全てにおいて自分達を優先してくれている。
幾らそういった訓練を受けているからといって、このような状況下で他者を気遣って行動するのは大変だろう。それを少しも雰囲気に出さない清田の強さには頭が下がるばかりだ。感謝こそすれ、彼の存在を疎ましく思える筈が無かった。
あれやこれやと思索に耽っていた静香であったが、ほんの束の間、忘却していた生理的欲求によって直ぐにそれまでの全てが吹き飛んでしまった。
気付いた時には既に始まっていた。
まさに防波堤が決壊するが如くの勢いであった。
ちょろちょろと綺麗な弧を描いて放射されるその透き通った淡黄色の飛沫は、医学用語ではハルンと呼ばれており、その成分は殆どが水分で、タンパク質の代謝で生じた尿素を僅かに含み、その他には微量の塩素、ナトリウム、カリウム、マグネシウム、リン酸などのイオン、クレアチニン、尿酸、アンモニア、ホルモンを含有している。
<奴ら>から逃れる為に学園内を走り回るという激しい運動を行った為に蛋白質を普段よりも多く含んでいるから、目の前のアスファルトを小さなせせらぎとなって流れていくその液体の色は普段よりも黄色味が強く、臭いも少しきつい。
勢いよく放出される為にアスファルトに打ち付けられる水音がやけに大きく聞こえ、恐らく、それは少し離れた場所で見張りに立っている京子の耳にもしっかりと届いているだろう。
静香は顔を俯かせて耳を真っ赤に染め、なんとかして勢いを制御しようと下腹部に力を込めたが、弱める事は出来なかった。
膀胱を制御する二つの括約筋はそれぞれが随意筋と不随意筋であり、ある程度までなら我慢が可能だが、膀胱の内圧が許容値を超えているのであれば最早人の意志ではどうやっても抗う事は不可能である。
人によっては女性でも男性と同様に膀胱の制御が可能であるが、残念ながら静香はそうではない。
黄褐色の小さなせせらぎは、彼女の努力も虚しく、その目の前を緩やかに流れていった。
止まらぬ自身の小水の流れを茫然と見詰める静香は、羞恥の余り頭の中が真っ白になっていくのが分かった。
しかし、その一方で、心の片隅では邪な妄想が鎌首を擡げ始めていた。
もし、今のこの恥ずかしくあられもない姿を京子が振り向いて見たら、一体彼女はどのような反応を示すのだろうか。
普段のように厳格な教育者然とした表情を見せるのか、それとも時折見せる、少女のようにはにかむのか。
もしそうなったら、後者のような反応であればいいのに、と静香は密かに願った。
いつもは抜け目のない京子の、慌てふためく姿を見てみたいと思った。
その姿を見たらきっと、彼女も何かしら弱みを持った人間であると思え、今まで以上にもっとその存在を身近に感じられるだろう。
出来の良い完璧な姉を困らせてやりたい、悪戯好きの妹のような心情とでも言えばいいのだろうか。
だからだろうか、物思いに捕われていた静香は、依然として自身から流れ出ている液体の存在をすっかりと忘れていた。
静香が用を足している場所は若干傾斜しており、それは警戒を行っている京子に向かって低くなっていた。
液体は、高所から低所へと流れていくものである。
その事象はこの宇宙に於ける永久不変の物理法則であり、それは此処、日本国は床主市でも同様である。
静香がそれに気付いた時には既に手遅れであり、京子の背後に迫っていた。
京子は京子で警戒に集中しようとしていたが、数メートルも離れていない場所で静香が用を足している水音がやはり気になってしまい、そわそわしながら見張っていた。
集中しなさい、と自らに言い聞かせても意識が散ってしまう。
後輩の静香が、自分を信じて用を足しているのだ。
ならば先輩として、可愛い後輩の力にならねばなるまい。
止むに止まれぬ状況が生起しない限り、何があっても絶対に静香が用を足し終えるまで振り向いてはならないと心に固く誓った。
同性同士とはいえ、用足しを見られるのは気分が良いものではない。
そう決意してから何気なく足元に一瞬だけ目を落とすと、いつの間にか地面には何処からか液体が流れてきており、靴底を濡らしていた。
一体何の液体かしら、と脳裏に疑問を浮かべた直後、それから立ち上る微かな刺激臭が鼻腔を衝いた。
その瞬間、京子は全てを察した。
恐らく、背後の静香は、気の毒なほど羞恥に身を焦がしているだろう。
ならば先輩として取る行動はただ一つだけだ。
何も見なかった、何も感じなかったかのように振る舞うのみだ。
そう京子が心に決めて顔を上げた直後だった。
猛スピードで走る一台の大型バスが目に飛び込んできた。
その大型バスは、県道を遡ってこちらに向かって来る。難を逃れた生存者かと思ったが、それにしてもどうも様子がおかしい。
バスは蛇行を繰り返し、危なっかしい走行で唸りを上げて道路を遡上して来る。
「田中さん!」
これはただ事ではないと思い、京子は慌てて、清田を呼んだ。
清田は車を挟んで反対側で見張っていたが、京子の切迫した声を耳にするや否や、身を翻し、すぐさま車のボンネットに飛び乗った。
重装備を纏った巨体が着地すると、ボンネットは大きく凹んだ。それに構わず、一気に車体後部までドカドカと走り、勢いそのまま再び跳躍した。
その途中で、京子が自分を呼んだ原因を確認した。
丁度、静香は車の直ぐ傍で用を足していたので、清田は彼女の頭上を飛び越えて道路に降り立つ形となった。
静香からすれば、突然、目の前に巨壁が出現したように見えたが、清田はそれに構わず、小銃に据え付けられている低倍率のACOGサイトをバスに向けた。
既にバスの中は地獄絵図だった。
<奴ら>に噛まれた者が乗り込んでいたのだろう。
瞬く間に発症し、<奴ら>となって他の乗客に襲い掛かったのだ。
逃げ場のない狭いバスの車内が凄惨な殺戮場へと変貌するのにそう時間は掛からなかっただろう。
とうとう、運転席に辿り着いた<奴ら>の一体が、懸命にハンドルを操作する運転手の柔らかい首筋にむしゃぶりつくと同時に、清田は行動していた。
振り返れば静香と目がばったり合った。
清田が振り返るのと静香が用は足し終えるのはほぼ同時であり、彼女はまだしゃがんだ体勢のままだった。
一拍遅れて、静香が驚きと羞恥の余り、咄嗟に清田に自身の恥ずかしい場所を見られまいと手で隠していた。
しかし清田は大股で駆け寄り、静香のその手を少し乱暴に掴んで強引に立ち上がらせた。
「な、何を…」
驚愕と羞恥と、そして突然の清田の行動に混乱と少しばかりの恐怖を感じていた静香は辛うじて口を開いたが、今の彼には彼女の相手をする余裕が無かった。
静香の手を強引に掴んで立ち上がらせると、清田は駆け出した。
しかし、彼女はもたつくばかりで遅々として前に進まなかった。
それは仕方が無い事だった。
有無を言わさず、清田に腕を掴まれて立ち上がらされた静香には、滑り下ろしたパンティを穿き直す余裕など無かったのだから。
用を足す際に膝まで滑り下ろしたパンティは、今となっては足首近くまでずり落ちて枷になっている。これでは走るのは元より、歩くのもままならない。
最早、清田はなりふり構っていられなかった。
静香を強引に抱き寄せると素早く肩に抱え上げ、脱兎の如く駆け出した。
既に猛然と走るバスが迫っていた。
「きゃあっ!?」
京子も静香と同様に、走りながら掠めとるように肩に担ぎ上げた。
重装備と女性二人は、かなり大柄な清田にとっても流石に軽いわけではない。しかし、今は不思議と軽々と持ち運べた。
火事場の糞力、とでもいうのだろうか。
本能が、ここで踏ん張らなければ死ぬというのを察知しているのだろう。
二人を抱え上げて数メートル程走ると、直後、バスは停まっていた二台の乗用車を乗り上げるようにして木の葉の如く蹴散らし、盛大に横転した。
それとほぼ同時に、清田は二人に覆い被さって地面に臥せていた。
巨大な鉄の塊同士が衝突する、金属の大絶叫の最中を蹴散らされた乗用車の一台が勢いよく宙を舞い、臥せる直前まで清田の上半身があった空間を通過していく。
もしも清田が臥せるのがあと少し遅ければ、飛来する乗用車が三人を直撃して物言わぬ肉塊にしていただろう。
そのまま乗用車は吹っ飛び、着地しても尚転がっていった。そうして止めとばかりに、横転したバスのエンジンから一気に炎が吹き上がり、瞬く間にガソリンに引火して大爆発を起こした。
爆風と熱風が、二人に覆い被さる清田の背を掠めるようにして広がる。
間近で起こった爆発により、清田の頭の中ではまるで鐘が鳴り響いているようだった。
三半器官が上手く機能していない。
耳もよく聞こえなかったが、なんとか手足を踏ん張って起き上がろうとしたが、産まれたばかりの子馬のように力が入らなくて、何度か失敗しながら漸く上半身を起こし、二人の上から退いた。
彼女らは気を失っているのか、目を閉じていた。
「大丈夫ですか?!」
そう確かに叫んだ筈だが、自分の声がまるで聞こえなかった。
それは彼女らも同様なのだろう。
二人の肩を掴み、何度も呼び掛けを続けていると自分の声が戻ってきた。聴覚が回復してきたのだ。
「う…」
か細い呻きを漏らして、まず静香が瞼をゆっくりと開いた。
焦点の定まらぬぼんやりとした目で清田の顔を暫し見詰める。
一体何が起こったのか全く理解していない様子だ。
「バスが事故を起こしたんです。あのまま逃げるのが遅れていれば、今頃我々はあそこで丸焦げでした」
抱き起こした静香に、先程まで乗用車が停まっていた場所を見せる。
そこは既に黒煙を吹き上げながら燃え盛る紅蓮の業火に包まれていた。
「大丈夫ですか? 何処か怪我はしていませんか?」
静香の肩を抱きながら一緒に立ち上がる。
まだ足元が覚束ないらしく、清田にしがみついていないと立てない様子だが、ざっと確認した所、彼女は細かい擦り傷程度しか負っていなかった。
不幸中の幸いといえばいいのか。
とにかく、静香が無事な事に清田は胸を撫で下ろした。
「んんん…」
続いて、京子も目を覚ました様子だ。
清田は静香から身体を離すと慌てて屈み込み、京子の肩をかき抱いて、その半身を抱き起こした。
「林先生! しっかりしてください!」
京子の視線は暫し中空を彷徨していたが、やがて清田に気がつくと、腕が伸ばされ、その太い首を絡め取った。
「大丈夫。大丈夫ですから…」
清田は京子の背中に手を回してさすってやり、抱き止めながら一緒に立ち上がった。
胸に顔を埋める京子の肩は震えていた。
そしていつの間にか、空いている片方の手は、静香がぎゅっと握っていた。
まるで、二人のか弱い少女に頼られる心境だった。
「でも…これじゃ……」
目の前で赤黒く燃える炎を見て、清田の手を握る静香が力無くぽつりと呟いた。
暴走したバスは、丁度、三人とマイクロバスに残った生徒達を分断するように横転して爆発し、広範囲に渡って火の手を上げていた。
これでは合流するのは難しいだろう。
「田中さん! 林先生! 鞠川校医! 大事ありませんか!?」
今まで様子を窺っていた冴子が、状況が落ち着いたと判断するや否やマイクロバスを降り、炎から垣間見える三人に向かって声を張り上げた。
「自分達は無事です! 何も心配はありません!」
呼び掛けに答えた清田の声に冴子は安堵した。が、それも束の間の事であった。
紅蓮の炎の中で人影が揺らめいたかと思えば、バスの残骸の中から元々は乗客だった<奴ら>が、その身を灼熱に焼かれながらも貪欲に生者の血肉を求めて這い擦り出て来た。
それはさながら、地獄の業火からこの世に出でる亡者そのものであった。
初めて間近で嗅ぐ、人肉の焼ける臭いに流石の冴子も気圧された。それはポリエルテルなどの化学繊維と一緒に焼かれる豚肉のような臭いだった。
しかし一流の武術者としての鍛練の賜物ゆえか、直ぐに冴子は立ち直ると、火達磨になりながら迫ってきた<奴ら>の一体の胸を木刀で突き、体勢を崩してから一旦退いた。
状況に最早予断は許されない。
早急にこの場から離脱しなければならなかった。
目の前の、火達磨になった<奴ら>だけではなく、爆発音によって他の<奴ら>もいずれ招き寄せられて来るだろう。
「……床主城付近で落ち合いましょう!」
清田は咄嗟に床主城の名を口に声を張り上げた。
床主市の地理に疎い清田ではあったが、バスを走らせる道の途中に床主城の看板を見付けており、それならば著名な地形地物(ランドマーク)であるから、目印にしやすいと見越しての事だった。
もっと他に、集合場所を消防署や警察署を指定するべきだったかもしれないが、どちらも助けを求める市民が殺到しているだろうから、その混乱の渦中に飛び込むのは危険と判断したからだ。
「時間は!?」
了解の言葉の代わりに、冴子はそう応えた。
「今日の午後五時に! 今日が駄目ならまた明日の同じ時間に!」
それ以上の会話を続けるのは不可能であった。
飛び散った火が、蹴散らした乗用車の燃料タンクを燃え上がらせ、再度大きな爆発を生じさせたからだ。
火勢が増し、熱波に思わず顔を背けた。
「林先生! 鞠川先生! もう駄目だ! 移動します!」
茫然自失としていた静香と京子の腕を掴み、清田は駆け出した。
清田に腕を引かれる静香はもう足をもつらせる事は無かった。
辛うじて足首に引っ掛かっていたパンティは、この混乱の中でいつの間にか脱げ落ち、何処かにいってしまったからだ。だが今は、そんな事にも気が付かず、静香は夢中になって走った。 最早スカートの体を成していない布切れを充実した腰周りに纏わり付かせて走る彼女の姿は煽情的ですらあった。
両脚を忙しく交互に動かす度に、クリーム色のむっちりとした太股の肉が跳ねる。
ボタンの幾つか外れたブラウスが、胸元の見事な膨らみにぴったりと張り付いて踊り、それと競争するかのように、腰のくびれからふっくらと突き出た白いヒップの丸みが、破れたスカートから時折あらわになりながら悩ましく揺れ動いた。
熟れた肉体を持て余す京子も、静香と同じくらい魅力的だ。
三十路を超えてなお張りのある肌に珠の汗を浮かべ、雌鹿のような健脚で清田に追いすがる。
大きく開いたブラウスからは今にも乳房が零れ落ちそうで、汗の混じった濃密な女の芳香が立ち上っていた。
上気させた肌も艶めかしくすらある。 彼女達の乱れた姿はとても素晴らしい眺めだったかもしれないが、その手を引く清田はこれからの事で頭が一杯だった。