学園黙示録×瀕死のライオン   作:oden50

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#1st day②

 校舎内に足を踏み入れた途端、フェイスマスク越しに濃密な死の臭いが鼻腔を刺激した。

 それは血肉と臓腑、屎尿の混じった悪臭だった。先程嗅いだものよりも濃密なそれは、鼻の粘膜を通して脳髄に絡みつくように思えた。

 改めて嗅ぐその臭いに胃が激しく身悶えし、胃の内容物が食道まで競りあがってくる。何とか堪えようとしたが、清田の胃袋は何度も暴れ馬のように跳ね回り、その都度彼は寸前のところで我慢していた。

 しかし、とうとう堪らず、フェイスマスクを口許からずらすとその場で身を二つに折って吐瀉物を盛大に撒き散らした。足元で飛び跳ねる、朝食べた白米と味噌汁の若布、焼き鮭がタクティカルブーツに付着した。自分で吐き出したドロドロの未消化物と胃液の酸っぱい味と臭いで、清田は更に吐き続けた。

 一頻り吐いて漸く気分が落ち着くと、清田は直ぐに立ち上がって小銃を構え直した。まだ口中には胃液の不快な苦味が残っている。出来れば口を水筒の水で漱ぎたかったが、今はそれどころではない。

 他の隊員は嘔吐していた清田の前に出て、入り口から直ぐにある階段の下に向かって狙いを定めていた。死臭を嗅いだぐらいで吐いてしまった自分が情けなかった。

 清田は気を取り直して列に加わり、隊伍(スタック)を組んで慎重に階段を降りていった。先頭を白石、その左右を須崎と沢村凌(さわむらりょう)二等陸曹が固め、バックアップを担当する清田が最後尾を進む。

 校舎内は不気味なほどにまで静まり返っていた。時折、何処からか哀れな犠牲者の声ならぬ断末魔が響いてくるぐらいだが、人間の本当に苦しみに喘ぐ声というものは、正常な神経の持ち主であるならば心を凍りつかせるような錯覚に陥る。

 清田もその声を聞き、思わず身が竦んだ。数時間前に初めての実戦を経験しているとはいえ、早々に慣れる訳ではない。

 過酷な訓練をこなしてきたとはいえ、所詮、それら訓練は訓練でしかない。実戦とは違うのだ。

 それは些細な違いかもしれないが、現に清田が五感で感じたものは彼に重大な影響を与え始めていた。

 何とか折れ掛けた心を奮い起こして一歩を踏み出したが、足元はまるで綿飴のようにふわふわと頼りなく、身体には気だるさにも似た停滞感が纏わり付き、動悸は早まり、ストレス性の手足の震えが現われ始めていた。

 防弾ベストの下の衣服はじっとりと湿り気を帯び、顔に被っている汗に濡れたフェイスマスクの着け心地の悪さは最悪だった。夢の中の出来事のように、今見ている光景は現実的ではなく、肉体から精神が遊離しそうだった。

 それを繋ぎ止めようと清田は躍起になった。現実逃避をするなこの野郎。目を開けて前を見ろ。これが現実だ。これが現実なんだ。もう諦めて受け入れろ―サイト越しに見る校舎内の様子は白石の言った通りだった。

 銃床を肩胛骨に押し当ててしっかりと固定し、ACOGサイトを首を傾けずに真正面から覗き、銃口は目線と水平に構え上半身を曲げて猫背の姿勢となりながら一歩一歩を踏み締めていく。

 覗き込んだサイトに映るのは、其処彼処に血飛沫や肉片がこびり付いた非日常的な校内だ。数時間前まで、此処で大勢の生徒達が平穏な学園生活を送っていたとは思えない。

 窓から差し込む穏やかな春の陽光を浴びて、てらてらと光る血糊はまだ真新しい。今や校内は、強く死を連想させる、地下納骨堂(カタコンベ)じみた不穏な空間に変貌していた。ただ違うのは、そこに葬られるべき死者が闊歩しているという事ぐらいだろうか。

 現在、清田達がいるのが管理棟だ。藤美学園の校舎は体育館やその他の施設を囲むL字型のような構造となっており、縦棒が生徒達の主な学び舎である教室棟、横棒が職員室や特別教室や学校機能の管理と維持を行う施設等のある管理棟であり、それぞれの棟は四階と二階が連絡橋で繋がっている。

 丁度、天文台のある出入り口はL字の縦棒と横棒を繋ぐ場所にあるので、階段を降りれば直ぐに連絡橋へと辿り着ける。

 此処は生徒の数が教室棟に比べて集中していないので犠牲者の数が少なく、そして感染者の数も少ない。恐らく、混乱発生当初は使われている教室がそれほど多くは無かったのだろう。故に生徒の数も少ないのだ。

 最上階には特に犠牲者の姿は見当たらなかった。混乱発生当初、生徒達は逃げようとして真っ先に階段を駆け下りたのだから当然だ。こうした非常事態を想定した訓練をしているのであれば、混乱を避ける為に統制して計画的な避難が行われる筈だが、今時は何処の学校も偏差値を上げるのに忙しく、本格的な防災訓練は御座なりになっているのが現状だ。

 廊下に転がる幾人かの犠牲者の死体の様子から察するに、殺人病感染者に食われて死んだのではなく、パニックを起こして我先にと逃げる生徒達によって踏み殺されたと見做すのが妥当だった。

 それらは無残に食い散らかされた形跡も無く、比較的綺麗な状態を保っていた。そうやって死ねた生徒はまだ幸運だろう。生きながら肉を貪り食われて絶命し、その後で別の生者を求めて彷徨う死者となるよりも。それは考えられる人生の幕切れの中では最悪の部類に属するだろう。清田達は、圧死した生徒の中に高城沙耶の姿を探したが見つからなかった。

 廊下に感染者の姿はなかった。ただ、その存在を知らしめる血痕や人体の一部、肉片等が其処彼処に点在しているだけだ。

 耳を澄ませば、長い廊下の突き当たりの曲がり角から感染者の微かな呻き声が聞こえ、ゆらゆらと夢遊病者の様に揺れる影法師が見える。

 前衛の白石を先頭に進む一行は、四階の連絡橋を渡り、教室棟の長い廊下を進んで一番端の階段を目指した。高城沙耶のクラスがあるのは教室棟の二階だ。彼女は既にそこにいないかもしれないが、まだその近辺にいる可能性は高い。若しくは、生ける亡者の一員となって徘徊しているかもしれない。

 それを発見したのならば、速やかに頭をぶち抜いてその死体の写真を撮影し、証拠として頬の粘膜を綿棒で削ぎ落としてDNAサンプルを回収する。そうすれば煩わしい任務から解放される。後は生存者を出来る限り救出して離脱するだけだ。

 元々、人気のない教室棟の四階という事もあり、廊下を通って下の階へ行くまで何の障害に遭遇する事なく到達できた。

 問題は此処からだ。しかも残された時間はそれほど多くはない。大型輸送ヘリのチヌークが、屋上でローターを回したまま直ぐにでも飛び立てる状態で待機しているから燃料はそれほど持ちはしない。加えて、生存者を乗せて脱出する為来た時よりも積載重量は増加するのだから、余計に燃料を消費するだろう。

 死角の多い階段を相互に援護しつつ、慎重にクリアリングしながら降りて行った。階段の踊り場にはパニックを起こした生徒達に踏まれて死んだ何人もの死体が折り重なるようにしてあった。

 二階の踊り場をさっと通過し、白石が壁際に身を寄せて腰のユーティリティーポーチから取り出した鏡付きアンテナで廊下の様子を探る。

 何人もの感染者が廊下のずっと向こうの突き当たりまでふらふらと覚束無い足取りで彷徨っていた。窓から差し込む春の陽光にぎらぎらと脂っこい光を反射する廊下の血溜まりや、壁にこびり付いた肉片と人脂の真新しい生々しさに清田は思わず顔を顰めた。

 白石が鏡付きアンテナで廊下の様子を窺っている間、清田や他の隊員は周辺を警戒していた。踊り場には何人もの圧死した生徒の死体が無造作に転がっている。余りにも痛ましい光景に清田は憂鬱だった。

 今時の高校生は総じて大人びているものだが、やはり子供である事に変わりは無い。彼らがそんな目に遭って心を痛めない大人はいないだろう。

 ふと、清田はある女子生徒の死体に目を留めた。今時の大人びた女子高生にしては珍しく、化粧気も少なく、髪は脱色せずに綺麗に切り整えられていた。

 その女子生徒は、何処と無く少し歳の離れた、中学生の従妹に似ていた。だからだろう。この非常事態が始まって以来、なるべく考えないようにしていた家族や身内の事が思い起こされたのは。

 青森の両親や親戚の安否が今になって気になりだしたが、それらは任務の最中では邪念でしかない。古里への郷愁を振り払おうとしたが、一度芽生えた肉親への思いはそう簡単に収まるものではない。鋼鉄のような男であっても所詮は人の子に過ぎないのだ。生まれ育った故郷や家族を愛しているのは清田とて同じだ。

 状況が許すのであれば、その女子生徒とは言わず、犠牲者の遺体はなるべく回収して手厚く葬ってやりたい。だがそれは出来ない。優先すべきは、高城沙耶の捜索とその身柄の保護である。

 生死不明の、ただの一人の女子高生の命が今は何よりも優先すべき事項だった。

 それほど長い時間ではなかった。ほんの数瞬しか、清田はその女子生徒の遺体を観察していなかったのだが、それで充分だった。ぐったりとうつ伏せに倒れていた女子生徒の指先が動くのを清田は見逃さなかった。

 

「班長」

 

「何だ?」

 

 清田は須崎を小声で呼んだ。直ぐ傍にいた須崎は、音も無く傍までやってきた。

 

「今、あの女子生徒の死体が動きました。確認しますか?」

 

「…よし。確認しろ」

 

 清田は頷くと、取り回しにくい小銃の代わりに右太腿のレッグホルスターから9mm口径のUSPタクティカルを抜き、捩を切ってある銃口にサウンドサプレッサーを捩込み、油断無く構えたまま女子生徒に忍び寄り、そっと屈み込んで様子を窺った。

 右手で拳銃を握り、狙いを頭部に定めたまま、左手を伸ばして女子生徒の首筋に触れる。死者として蘇っても直ぐに頭部に銃弾を撃ち込めるようにと抜いた拳銃の出番は無かった。タクティカルグローブ越しの指先に人肌の温もりが感じられたのだ。

 死亡して間もないという訳ではない。それが証拠に、注意深く観察を続けると、確かに脈拍を感じ取る事が出来た。

 

「生きてます。班長。生きてます」

 

 清田は消音器を手早く外して拳銃を収めると、左手で後頭部を抱えるようにして女子生徒を慎重に抱き起こし、耳元で囁くようにして呼び掛けた。

 

「大丈夫ですか。しっかりして下さい。大丈夫ですか?」

 

 本来ならば大声で呼び掛けるのだが、周囲を感染者が徘徊しているとなれば大きな音を立てるのは自殺行為だろう。そもそも、声量を抑えているとはいえ、こうして声を出すのもなるべく避けるべきだ。今にでも感染者に気付かれるのではないかと焦燥感を募らせつつ、清田は辛抱強く呼びかけ続けた。

 

「ん…」

 

 意識を取り戻したのか、女子生徒は小さな呻きを漏らすと僅かに身動ぎし、やがて瞼をゆっくりと開いた。

 

「此処は…」

 

 朦朧としているのか、開かれた瞳の光は虚ろだったが、確かに意識はあり、頭から少し出血をしていたが様子から察するに感染者に噛まれている訳でもなさそうだった。

 

「大丈夫ですか? 何処か痛みますか?」

 

 清田は相手を驚かさないように穏やかな声音で訊ねた。

 

「ひっ…」

 

 しかし、目覚めて直ぐ、目の前にヘルメットとタクティカルゴーグル、フェイスマスクという出で立ちの男がいて、驚かない女子高生はいないだろう。

 女子生徒は小さく悲鳴を漏らすと、暫く清田に抱きかかえられたまま身を竦ませていた。清田の腕の中で、臆病な小動物のように固まっている。

 

「自衛隊です。救助に来ました。どうか落ち着いて下さい」

 

 暫く女子生徒は今の状況を飲み込もうと、清田に抱きかかえられたまま、首だけを巡らせて周囲の様子を窺っていた。自分を抱きかかえている男と同様に、人間らしさの欠片もない重武装の男達が周辺におり、踏み倒され圧死した何人もの生徒の死体が転がっている。時折、貪り食われる憐れな犠牲者の悲鳴や、人ならざる者と化した感染者の声ならぬ声が聞こえる度に、女子生徒は小さく悲鳴を漏らすと清田の腕の中で震えた。

 清田は、気の毒なぐらい怯えている女子生徒が可哀相でいたたまれなかった。

「大丈夫ですか?」

 

「…はい。何とか」

 

 漸くある程度の状況が飲み込めたのだろう。女子生徒は弱々しいが、落ち着いた声で答えた。

 

「班長。これからどうしますか?」

 

「一度引くぞ。救助者を連れたまま捜索は出来ない」

 

 須崎は廊下の様子を窺っていた白石と、沢村に同様の旨を伝え、来た道を戻るべく階段を登りつつクリアリングした。

 

「立てますか?」

 

 取り敢えず、移動しなければならない。清田は女子生徒に手を差し出した。

 

「多分…やってみます」

 

 女子生徒は清田の手を借りて立ち上がろうとした。

 

「……!? 痛いっ!?」

 

 しかし、唐突に足に走る激痛に女子生徒は大きな悲鳴を上げ、バランスを崩してその場に尻餅を付きそうになったが、寸でのところで清田が支えた。

 

「何処が痛みますか?」

 

「足が…足がもの凄く……痛いです……」

 

 そう震える声で応える女子生徒の顔面は蒼白で額には珠のような汗が滲んでいた。見れば、女子生徒の右膝の辺りが紫色に変色し、大きく腫れ上がっていたしていた。

 怪我の軽重をこの場で判断するのは難しいが、取り敢えず、これでは自力で歩く事など不可能だろう。

 異変に気付いた沢村が戻ってきて、女子生徒を軽やかに抱きかかえた。沢村が引き返して女子生徒を抱えたのは、強靭な足腰を備える清田でも、大量の予備弾薬を背負っている状態では、小柄とはいえ女の子を抱えて階段を登るのは相当堪えるだろうという配慮からであった。

 

「さあ行くぞ。今の悲鳴で感染者に気付かれた」

 

 背後から白石に促され、清田が警戒しながら階段を登ろうとしたその時だった。

 

「キャアアアアアア!!!!」

 

 階下から布を裂く様な悲鳴が響き、反響した。清田は思わず、先頭を進む須崎の表情を窺った。

 その素顔は少しも窺えないが、恐らくうんざりしているに違いない。これでは何時まで経っても目標の高城沙耶の捜索すら出来そうにない。そもそも、このような状況下では無理もないのだろうが。

 

「白石、清田は階下の様子を見てこい。可能であれば生存者を救出しろ。俺と沢村は先行する」

 

 しかし須崎は逡巡する素振りすら見せず、命令を下した。須崎とて、この命令に少なからぬ疑問を抱いているのだろう。

 なるべく生存者を救出したいのは彼も同じの様だ。清田は内心ではそう命令を下してくれた須崎にほっとしていた。

 

「了解。清田、行くぞ」

 

 白石の先導に従って清田は階段を駆け下り、声の方へと急いだ。悲鳴の主は階段を降りて直ぐの場所にいた。

 男子生徒が三人、女子生徒が二人、感染者達に囲まれていた。

 男子生徒達は刺又や金属バットなどを手に携え、目前に迫った感染者の群れの前に立ちはだかって女子生徒達を守ろうとしている。一刻の猶予もない状況だった。

 

「清田! お前は左をやれ! 俺は右のをやる!」

 

 清田と白石は、二階と一階の間の踊り場にいた。そこからならば射線は確保し易く、撃ち下ろす形となるので射撃は容易だった。

 清田は左側面から迫る感染者の頭部にホロサイトの照準点に素早く重ね、引き金を絞った。空気の漏れ出る微かな音、遊底の作動音とほぼ同時にサイト内に捕捉していた感染者の頭部が爆ぜる。

 左側面からは三体の感染者が迫っていたが、三体とも全てが頭部を撃ち抜かれ、その場に次々と頽れた。右側面から迫る感染者はコンクリートの手摺が遮蔽物となって上手く射線が確保できないので、白石は階段を飛び降りるようにして駆け下りると、生存者達と感染者の間に割って入り、猛然とした射撃を行って一挙に周辺を制圧した。

 清田も直ぐに階段を駆け下り、生存者達の周りを固めた。

 

「クリア!」

 

「クリア!」

 

 お互いに異常がない事を報告しあい、周囲に油断なく銃口を巡らす。

 疾風迅雷の如き早業に生存者達は呆気に取られていた。が、清田と白石は彼らに構わず、据銃したまま警戒する。

 今の一連の行動でかなりの物音を立ててしまった。獲物の気配を感じた感染者の群れに退路を塞がれる前に移動をしなければならない。距離はまだ離れているとはいえ廊下には何体もの感染者が犇いており、清田達の方へ向きを変えてふらふらと歩みだしていた。

 

「あ、あの…」

 

 生存者の一人が若干躊躇いがちに話しかけようとした。

 

「この中で噛まれた方はいませんか!?」

 

 が、白石はそれを強く遮り、感染者による負傷者がいないかどうかを問うた。

 

「え……いません、いません!」

 

 女子生徒の一人が答え、直ぐに清田がそれを確かめる。ざっと見た感じでは誰も噛まれたりなどされていなそうだった。どちらにせよ発症すれば直ぐに分かる。その場合は鉛玉を頭に一発ぶち込むしかないが、そうするより他に手段はない。

 兎に角、今は何よりも時間が惜しかった。

 

「大丈夫のようです!」

 

「よし! 清田、さっさと移動するぞ!」

 

 白石は迫り来る何体かの感染者を撃ち斃すとクリアリングしつつ階段を駆け登った。

 

「我々の指示に従って行動して下さい。屋上にヘリが待機していますので、そこまで先導します。落ち着いて行動して下さい。そうすれば全員、無事に脱出できますから」

 

 清田は生存者達にそう念を押すと移動するように促した。

 その落ち着き払った態度に幾らか安心したのか、生存者達は指示に従って慌てる事無く白石の後に続いた。男子生徒は体力に劣る女子生徒を気遣っていたり、重武装の自衛隊員に守られているからといって油断する事無く手にした得物を構えていたりと、自分に出来る事を冷静にやろうとしているのが非常に有り難かった。

 早くも階段には感染者達が集まりだしていた。前衛を務める白石は、感染者を掃討しながら確実に進路を切り拓いていた。飛び散る脳漿、銃弾が肉を打つ湿り気を帯びた重い音、火薬の燃える酸っぱい匂い―立ち塞がる障害は何であろうと容赦はしなかった。

 足を食われた為に這いずって迫る感染者には、鋼板を仕込んだ強烈な爪先で蹴り込み、首の骨を容易く折った。格闘徽章を持つ白石の肉体はそれ自体が凶器であり、やろうと思えば素手でも動きの鈍い感染者を葬る事など朝飯前だった。

 

「もう直ぐだ!頑張れ!」

 

 最後尾を追従する清田が生徒達を鼓舞する。重装備で階段を駆け上ってはいるが、清田の鍛え抜かれた心肺機能は少しも堪えてはいない。対して、標準的な高校生の体力しか備えていない五名の生存者達は早くも息を切らし始めていた。生き残る為には少々の肉体的な辛さは我慢してもらわねばならない。

 

「ああ!?」

 

 女子生徒の一人が階段に蹴躓いた。が、清田は素早くその腕を掴み、乱暴に引き起こした。女子生徒は、強過ぎる清田の握力に顔を強張らせた。しかし、そんな些細な事を気にする清田ではなかった。

 しの遅れが今は命取りとなる。急がなければ全員の命が危険に晒されるのだ。女子生徒は躓いた拍子に膝を強かに打ったようだが、そんなのは後で唾でも塗っておけばいい。後ろから急かして先を急がせる。

 その矢先だった。女子生徒を急がせ、自分も後に続こうとした清田は、ふと、靴底を通して踵に硬質な感触を覚えた。

 その正体が何であるのかを確かめる前に、清田の視界が急変する。妙な浮遊間を感じ、身体から重力が唐突に喪失した。まるで見えない手によって後方に引っ張られるようだった。

 そして、踊り場の窓から差し込む陽光を背に受けて、影のように立ち竦む女子生徒と目が合った。まるで信じられない、とでも言いたげにその目は驚愕に大きく見開かれていた。

 次いで、僅かに潰れた空薬夾が目の前を、蠅が止まれるほどの速度で通過していく。薬夾の底部に打刻された記号と数字が一つ一つ具に見て取れた。

 自分を取り巻く全てが重く、気怠く感じられた。時間はどろりとした重い粘質性の液体のようにゆっくりと流れ、蜷局を巻いて堆く積み上がっていく。全てが遅く感じられた。

 全てが遅延した世界の中で、清田は、辛うじてだが左手を後頭部に添える事が出来た。その僅かな動きが、いずれやってくるであろう加速した時間の中ではその後の行動を決定付けるものとなった。

 鈍い衝撃を感じると同時に、全てが元通りとなった。階段を昇っていた筈の清田は、いつの間にか床に仰向けになっていた。少し遅れて、顔の直ぐ横に先程の空薬夾が硬質な金属音を響かせて転がった。

 頭に被っている鉄帽と背負っているデイパック、そして後頭部に添えた左手のお陰で身体に大した痛みは感じなかった。清田は、顔の直ぐ傍に転がる薬夾を見て、事の経緯を直ぐに察した。

 自分は、不覚にも、白石が発砲した際に生じた空薬夾を踏み、階下まで転落したのだ。手を添えて行った頭部の保護は訓練で培った防御反応だった。

 

「俺に構うな!先に行くんだ!」

 

 清田は硬直したまま踊り場に立ち竦む女子生徒を叱咤した。俺は、エスの一員なんだ。女子高生に心配されるような野郎じゃない―しかし、現に空薬夾を踏んで階段を転がり落ちるという無様な失態を犯していた。思わず焦燥感が募る。

 焦るな、落ち着け――呪文のようにその言葉を心の中で繰り返す。だが、清田のその平常心を取り戻す為に行うささやかな儀式は中断された。

 何者かの気配を感じた時には黒い影が覆い被さってきた。それは体中の至る所を無惨に食い散らかされた感染者だった。

 口を大きくだらしなく開け、清田の柔らかい首筋に今にもむしゃぶりつこうとしていた。

 彼らは、生命活動を維持する上で必要不可欠な栄養分を摂取しようとする為でも、耐え難い飢餓感によって衝き動かされているという訳でもなく、ただ何かに命じられているかのように機械的に生者の血肉を貪ろうとしているのだ。

 死後から数時間も経過していないと思われるのに、その瞳は早くもどんよりと曇り始めていた。清田は考えるよりも早く、覆い被さってきた感染者の襟首を掴み、腿の付け根に右足を押し当て、そのままの勢いに乗せて押し上げるようにして頭越しに投げ飛ばした。

 巴投げの要領で投げ飛ばされた感染者は、ろくに受け身を取る事が出来ず、壁に叩き付けられた後に頭から落下して頸骨を折って果てた。

 最悪な状況だった。

 清田は直ぐに起き上がって先行する白石に追いつこうとしたが、見上げると、三階と二階の間の踊り場には既に感染者達がたむろしており、危うげな足取りで階段を下ろうとしていた。

 背後を振り返れば、二階と一階の踊り場にも、一階から上ってきた感染者が何体かいた。白目を剥いた、生気の無い目が清田を見上げていた。

 完全に前後を挟まれていた。一刻の猶予も無い。強引に進むべきか、迂回して別の道を探すべきか。迷っている暇など無いのだが、清田は逡巡していた。

 前から感染者達が階段を転がり落ちて来て、後からも感染者達が二階に辿り着いた瞬間、その間を擦り抜けるようにして清田は二階の通路に飛び出していた。

 引く事も進む事も出来ない、というよりもあった筈の選択肢はもう無くなってしまっただけだ。故にそうするより他に無かったのだ。それが最良か最悪かは分からないが。

 二階は、何体もの感染者が廊下のずっと向こうの突き当たりまで彷徨っていた。感染者の何人かは手に腕や脚、内臓といった人体の部品を持ち、熱心というよりも単に機械的に貪り食っていた。

 教室棟の二階は犠牲者の数が集中しているようで、廊下にいる感染者だけでも確認するだけでざっと十体はいるだろう。耳を澄ませば、幾つもの教室から人ならざる者達の食事の気配が感じられる。

 

 ―下手な発砲は命取りだ―

 

 清田は本能でそう直感していた。感染者は如何いう訳か、音に反応するらしい。らしい、というのはあくまでまだ確証がないからだ。あくまでも直感でしかない。

 ひょっとしたら聴覚ではなく、嗅覚やその他の五感に頼っているのかもしれない。しかし、今は迷っている時間すら惜しかった。

 清田は小銃は水平に据銃したまま、しかしまるで生気の抜けた屍のように廊下を緩やかに進む。

 ブーツの靴底を覆う特殊ゴムに清田は感謝していた。それによって足音は一切立たなかったが、ステルスエントリーの基本技術であるストーキングを駆使し、踏み出した足とは反対の足に体重をかけ、下ろすと爪先から踵にゆっくりと体重を移動して泳ぐように前に進む。

 身に付けた武器弾薬類や装備品の全てはガチャガチャと音を立てない様にしっかりと固定してあり、金具類にはガムテープを巻いて擦れて音が出ないように工夫していた。気を付けるのは足の運びと自らの呼吸だけだ。

 廊下で屯する感染者の眼前を通過する時、その容貌の惨たらしさに思わず息を呑んだ。特に酷かったのは、眼球の抉り取られた空っぽの眼窩で虚空を見つめる感染者だった。声にならない呻き声を食い破られた咽喉から漏らしていた。

 出来る限り距離を取り、清田は感染者達の傍を通過した。なるべく前方を見るように努めた。校舎内に踏み込んだ際に嘔吐しておいて良かったと思えた。

 今の清田の胃袋には何も入っていなかったから、吐き気に襲われる事も無かった。どの教室も数十体以上の感染者が屯している。そんな教室が廊下の突き当りまでずらっと並んでいるのだ。たとえサイレンサーを装着しているとはいえ、これだけ静寂だとその押し殺された銃声すらよく響くだろう。もしも一度でも引き金を引けば、蟻に集られるようにして忽ち食い殺されてしまう。

 

 ―何も考えるな。じっくりと沈むんだ―

 

 清田は過酷な水路潜入の訓練を思い出していた。

 人間という生物は陸上で生き、活動する為に適した身体の構造を持ち、外部の環境条件が変化しても活動が阻害されないように自動的及び意図的に調整する優れた能力を備えている。

 しかし、高圧下の潜水では地上の何倍もの高い圧力に遭遇し、そうなると人間のシステムは余りにも脆弱だ。しかも単に圧力の直接的な作用ばかりでなく、間接的な様々な医学的作用を受け、人体に対する負担は大きく、それだけに常に生命の危機と隣り合わせであり、致命的な高圧障害を起こす危険性も高い。

 そうなった場合、陸上ではターミネーターのようにタフな野郎でも、水中ではまさに藁を掴むように溺れて死ぬ。だから此処で重要となってくるのは、どんな状況に遭遇しても先ずは慌てない糞度胸と、ゆっくりと壊死するかのように自己を客観的に観察する冷静さだ。

 これがなければ水路潜入が必要となる特殊作戦では使い物にならない。

 清田は何度も水路潜入訓練で溺れ死ぬ直前まで追い込まれた。手足を縛られた状態でプールに投げ込まれた事もある。もがいても決して水面に浮かび上がる事は無い。

 水は口や鼻から容赦なく浸入してくる。肺は酸素の供給がままならないというのに二酸化炭素を交換しようと躍起になって焼け付く。やがてもがく気力と体力を失い、身体は水底に沈んでいく。徐々に意識が闇に閉ざされていく中、明るい水面がやけに網膜にこびり付いた。

 生命の危機に瀕したとしても、取り乱さない精神力を養うという目的のある訓練だが、自己保存の法則に従って人間は生きている限り、死に直面すればその精神状態は普通ではなくなるのが当然だ。だが、己を殺して生き延びる、という矛盾を達成できなければ、とてもではないが狂気に満たされた特殊作戦の世界では生きていけない。

 清田は、特殊作戦群の正式な一員となれるレベルにまで己を殺す方法を身に付けている。今が、それを発揮する時だった。

 まるで水が流れるが如く淀みのない動きで、感染者の合間を縫う様にして進んだ。熱し過ぎず、冷め過ぎず、そして心は限りなく無に近く、だが、いざとなればダイナミックなアクションを起こせる精神状態に保つ。

 屋内戦闘では、敵と不意に遭遇した際に怯む事無く、相手に弾丸を叩きこめる状態でなければならない。精神と連動した肉体は、爆発的なエネルギーを秘めつつも、しんと静まり返っていた。無駄な動きは一切しない。必要な時、最低限の力を発揮すればいい。それが一番、効率が良くて効果的なのだ。

 長い廊下の突き当たりに差し掛かり、ふと、清田は今来た道を振り返った。十体以上、教室にいるのも含めれば数えるのも嫌になるほどの感染者の群れの中を突っ切ったという事実に、清田は少しだけ腰が砕けそうになった。今思えば、なんと無謀な事をしたのだろう。失敗する確立の方が圧倒的に高かった筈だ。

 もっと良い方法は他にもあった筈だ―しかし、事後評価は、此処から無事に脱出してからだ。

 今は後で思いつく最善策よりも、現状で咄嗟に思いつく危なっかしい最善策の方が大事だ。

 改めて小銃を据銃し、突き当たりを左に曲がって連絡橋に差し掛かったその時だった。何名かが背後の階段を駆け上る足音が聞こえた。

 生存者だろうか。しかし、あんなに音を立てては犇く感染者を徒に引き寄せるだけだ。

 清田は咄嗟に傍にあった柱の陰に隠れ、身を低くした。其処からならば階段を上って現われる生存者を監視し易く、且つ生存者からは自分の姿は発見され難い。それにまだ生存者と確定した訳ではないのだ。ひょっとしたら感染者かもしれない。

 サイトを覗き込み、引き金にそっと指を掛ける。不意に現われた複数の目標の頭部に何時でも銃弾を叩き込める用意を終え、清田はじっと待った。


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