他よりも若干短めです。
トリチウムサイトが捉えているのは、小さな女の子だった。
清田は咄嗟に拳銃を下ろし、安全装置を掛けるとサプレッサーを装着したままレッグホルスターに突っ込んだ。
「清田さん?」
冴子が訝しげに此方を見る。
清田は首を振り、クローゼットの中にいたものが脅威ではない事を伝えた。
「小さな女の子です。酷く消耗している…」
年の頃は小学校低学年程度だろうか。
女の子はタオルケットにくるまり、ぐったりとしていた。
清田はクローゼットに寄り、女の子をタオルケットごと抱きかかえた。
そして子猫のような軽さと、小枝のように華奢な身体に驚いた。
触れれば壊してしまいそうな脆さが、腕に感じる重みから伝わってくる。
弱々しい鼓動と、熱病に浮かされているような体温から、女の子が相当弱っているのが分かった。
額に浮かぶ珠のような汗に、子供特有の繊細な髪の毛がぺたりと張り付いている。
余りにも弱り果てたその姿に心を痛め、清田はタクティカルグローブを脱いだ無骨な右手でその汗を拭ってやった。
「鞠川校医を呼んできましょうか?」
状態の芳しくない女の子の様子を見て、冴子は深刻な面持ちで窺う。
「お願いします。熱を出しているみたいなので」
冴子は頷き、足早に部屋を出て静香を呼びに行った。
残された清田は、取り敢えず、女の子を抱き抱えたままその場に座り込んだ。
正直、小さな子供の扱いなど分かる筈もなかった。
自分よりも遙かに小さくて弱い存在に対する接し方の訓練なんてした事がない。
兎に角、この子を一人にする訳にもいかないというのは分かったが、どうすればいいのかが分からない。
冴子の手前、右往左往するのも大人としての示しがつかないというのが清田の本音だが、正直言ってこういうのは仮にも女性である彼女に任して、自分が静香を呼びに行けば良かったのではないかと思い始めていた。
清田が女の子を抱えたまま思考停止に陥っていると、やおら腕の中でむずがり、うっすらと目蓋を開けた。
寝起き直後の、そのぼんやりとした瞳と目が合い、清田は硬直した。
自分がもしもこの女の子の立場だったら、間違いなく泣くだろう。
目覚めてみると、両親ではなく、見ず知らずの、しかも厳つい姿の兵士に抱かれていたら恐慌状態に陥るのは目に見えている。
女の子が泣き出すのに備えて、清田はひしと身構えた。
しかし女の子は、泣き出す事も、むずがる事もなく、じっと清田の顔―とはいっても鉄帽とゴーグル、フェイスマスクで分からない―を、生気の抜けた虚ろな瞳で見上げるだけだった。
流石に状況が突拍子もなさすぎるから、理解できずに混乱しているのかもしれない。
ただ、泣かないでいてくれるのを祈り、清田もゴーグル越しに女の子を見詰めた。
両者は暫くの間、無言で見詰め合っていたが、やがて女の子がぺたぺたと小さな手で清田の顔に触れ、執拗にゴーグルをいじり始めた。
女の子は依然として生気の抜けた、具合の悪そうな顔をしている。触れる手の力も殊更に弱く感じた。
「んん」
小さくうなるように声を漏らし、女の子はゴーグルを弄る。
ゴーグルを取れという事なのだろうか?―清田は素直に従い、ゴーグルを鉄帽の上に跳ね上げた。
「おじちゃん…誰?」
女の子の弱々しい問い掛けに、清田は窮した。
自衛隊員と名乗ったところでこの子が理解してくれるとは思えない。
「えーとね。おじさんはね、君を助けにきたんだよ」
清田は精一杯の笑顔を作ったつもりだが、女の子は胡散臭そうな眼差し―というよりも全てに興味のない諦観を滲ませていた―を向けるだけだった。
「おじちゃんは、かなのこと食べない?」
女の子―佳奈は、蚊の鳴く声でそう訊ねた。
その言葉の意味に、清田は背筋に冷たいものが流れ落ちるのを感じた。
同時に、湧き上がった疑惑が間違いであってくれと祈らずにはいられなかった―子供特有の乳臭い体臭に混じって、微かに血の臭いを感じ取ったのを、気のせいだと思いたかった。
「…どうして、そんなことを聞くの?」
清田は努めて怖がらせないように、優しく言ったつもりだったが、言葉の震えを抑える事が出来なかった。
そう訊ねてから、佳奈の答えを聞くのが途轍もなく怖かったが、言ってしまった後で悔やんでも手遅れだ。
「かなね、隣のおじさんに食べられそうになったの」
佳奈は、ゆるゆるとタオルケットの中から右腕を持ち上げ、清田の眼前に翳した。
子供の細腕に巻かれた、血の滲んだ包帯が示すある一つの事実からはもはや逃れようがなかった。
この女の子は、噛まれている―座り込んだまま、深い闇の奥底に落下するような絶望が、清田の思考を支配する。
<奴ら>に噛まれたという事は、いずれこの女の子もそうなるという事に他ならない。
恐れていた事態が、こんなにも早く訪れるなんて―信じたくはなかったが、信じなくとも事実は変わらない。
「大丈夫だよ。おじさんはそんな事はしないよ」
清田は声の震えを抑える事が出来なかった。
落ち着け、落ち着けよ、落ち着けったら!―今の今まで堰止めていたものが決壊しそうで、声は半ば涙ぐんでいた。
どうしてなんだろう。
どうして、こんなに小さな子供がこんな目に遭わなければいけないのだろうか。
この子が一体何をしたというのだろうか。
この子は、こんなにも酷い仕打ちを受けなければいけないほどの罪を犯したというのだろうか。
だとすればそれは一体どんな罪だというのか。
誰か教えてくれ。
この子や、罪なき善良な全ての人々が、どうして理不尽な運命に翻弄されなければいけないのか。
せめて人間らしく死ぬことも許されないのか?
誰が決めたんだ。
死して尚、その尊厳を冒涜されなければいけないと誰が決めたんだ!!
清田の胸中では様々な想いが渦巻き、そして現状を変える事の出来ない己の無力さに、涙が零れそうになった。
泣くな。泣くんじゃない。泣いてどうなる? どうにもならないだろう―涙を流すのは無駄な感傷だ。
涙を流したところで、何の役にも立たない。
泣くぐらいなら、何かマシな事を考えろ。
この子は、いずれ<奴ら>になる―いつ、この女の子が噛まれたのかは分からないが、発症するまでに掛かる時間は個人差がある事が判明していた。
大抵の者が噛まれてから直ぐに高熱を発し、吐血と共にやがて死に至る。そして再び蘇り、生者の血肉を求める屍食鬼として活動を始めるのだが、中には前述した症状を数時間も繰り返してから死に至るケースも確認されていた。
それは稀であり、もしかしたらそのような個人には何らかの特別な免疫機構が備わっていて、殺人病に対する耐性を発揮するのではないかと考えられていたが、まだ治療方法や確証すらない状態なので万に一つの望みもない。
もしかしたら、この女の子は特別で、噛まれても発症しないのかもしれない―馬鹿げた妄想を抱いた清田だったが、映画やドラマのようにご都合的な展開などある筈もなく、すぐにその望みは打ち壊された。
「けほ、けほ」
弱々しく、苦しそうに佳奈が咳き込むと、少量だが吐血していた。
ひゅー、ひゅー、と喘息のように息苦しく呼吸を続ける幼子の姿を見て、何もしてやれない己に怒りすら抱いた。
「おじちゃん…とても、苦しいよう」
喘ぐように呼吸をする佳奈の手を握り、清田はどうにかして言葉を絞り出した。
「大丈夫だよ。すぐにお医者さんが来るからね。そしたら、すぐ良くなるよ」
静香が来たところで、弱り果てていく子供の命を救うどころか、楽にしてやる事も出来はしないだろう。
この子は死ぬ。
今すぐにでも死んでしまう。
それは確定的に明らかで、誰にも変える事は出来ない。
この子の小さな命は、その灯火が尽きる最後の時まで、耐え難い苦痛に満たされているのだ。
何という命の終わり方だ。
せめてもの情けは欠片も存在しないのか。
楽に逝く事すらは出来ないのか―否、“逝く”のではない。
誰かが“逝かせて”やらねばならないのだ
その誰かとは―自分を於いて他にいる訳がないだろう。
まさか、静香や冴子に介錯をさせる訳にもいくまい。
これは、俺がやらねばいけない事なのだ―清田は今すぐにでも逃げ出したくなる気持ちを堪え、そう決断した。
幼子の未発達な体に対する銃火器類の使用は余りにも酷い損傷を与えるだろうから、手段は自然と素手か刃物に限定されるだろう。
それらの手段は同じ結果を齎すが、過剰な威力の銃弾で惨たらしく引き裂くのと、必要最小限の力で安らかにしてやるのとでは大きく異なるだろう。
素手と刃物で苦しむ間もなく命を奪う方法はいくらでもあるが、それには大きな抵抗があった。
銃で撃ち殺したとしても、感じるのは指先の引き金のみである。
素手やナイフは、温かな血が流れる相手の肉体を自らの手で傷つけ、その全てを感じ、やがて一切合切を奪い去るのだ。
頸を折れば若木を折る湿った感触を、ナイフで刺せば硬軟入り混じる肉の感触を手に覚えるだろう。
どれもこれもおぞましいものだが、清田は数ある殺害方法の中から、ナイフによる中枢神経の破壊を選択した。それが一番苦しみが少なく、かつ出血も少ない。
まさに眠るように死ねるだろう―こんなに小さな子供の首を絞め、喉を抉り潰すという真似は清田にはできそうになかった。
だが、銃剣やナイフ等といった刃物は、自然に使用者の身体の延長、つまり付属物になる。そうして身体の付属物で相手を刺し貫くのは、幾らか性的な意味合いを帯びた行為となるのである。
そんな方法で相手を殺す事に対して、人間は強烈な嫌悪感を覚える。それは清田とて例外ではない。
冷たく鋭い刃が、温かな血肉を切り裂いて自らに押し入る様子は、想像するだにおぞましい。それは強姦されるのと同等かそれ以上の嫌悪感を催すだろう。
腕の中の幼女は、段々と弱々しくなっていく。
清田を見上げるつぶらな瞳に宿る生命の光が、今にも消えそうだった。
俺はこれから、今にも死んでしまいそうな幼子を、強姦するようなものではないか―それらしい理由を付けても、これから実行しようという行為の真実は前述した通りである。
安らかにしてやるといっても、結局、行われるのは殺人である。
その行為に貴賤はない。
「かなね、ポカリが飲みたい」
腕の中で佳奈が、最後の望みにしては余りにも素朴な内容を口にする。
「おじさんが持ってきてあげるから。お医者さんからお薬をもらったら、飲んで良いからね」
掠れるような声で呟く佳奈に、清田は唇を戦慄かせて応じた。
出来るなら、今すぐにでもポカリスウェットを取りに行ってやりたい。
だが、そうしている間にこの子は間違いなく死ぬ―結局、その願いすら叶えてやれそうにない自分に腹が立った。
清田は抱え方を変え、右腕全体で佳奈の尻から背中を支え、抱っこするような形にした。
佳奈は、清田の左肩に顔を俯けるように埋めるような体勢となり、彼女の盆の窪が露出した―普段は頭蓋骨と頸椎に覆われているそこは、頭を俯けるようにする事で骨に覆われていない部分が生じ、延髄を守るものが軟組織のみとなる。
延髄は脳幹の一部であり、生命維持を司っている。ここに重大な損傷を受ければ重傷は確実であり、破壊されれば死は免れない。
清田は、佳奈の抱き方を変える際、左手で左太股のレッグパネルに固定してある鞘から音を立てないように、大振りなコンバットナイフを抜いていた。
「ほかに何か食べたいものはある?」
禍々しい凶器を握りながら、こんな事を幼子に訊ねる異常な状況に、清田は狂ってしまいたかった。
いっそ狂ってすべてを投げ出せたらどんなに楽だろうか―しかしそれは出来ない。
己を取り巻く全てを打ち捨てられるほど、清田は強い人間ではなかった。
「ママの、卵焼き」
佳奈はもはやぼんやりとした夢見心地で、清田の耳元で囁いた。
その言葉を聞いた瞬間、清田の時は止まった。
偶然にも、清田も母親が作る卵焼きが好きだった。
思わず、味蕾に懐かしい味が甦る―母親は元々卵焼きを作るのが得意ではなかったが、幼い清田の為に何度も失敗を重ね、遂には寿司屋の卵焼きにも勝るとも劣らない、美味しいものを作ってくれた。
甘く、しっとりとやわらかな優しい味は、まさに母親の味だった。
高校生の頃に、弁当に甘い卵焼きを入れないで欲しいと言った事が何故か思い起こされ、その時の母の顔も脳裏に蘇った。
違うんだ、お母さん。俺は、甘い卵焼きじゃおかずにならないだけで、お母さんの卵焼きが嫌いになった訳じゃないんだよ―自分のその何気ない一言で母親を傷つけてしまった事を、今になって酷く後悔していた。
「お、俺も、卵焼き、す、す、好きだよ…」
佳奈の一言が、清田武三等陸曹を、清田武という一個人に戻してしまった。
左手に握った白刃の切っ先は行き場を失い、今にも床に取り落としそうだった。
そもそも、介錯してやる必要はあるのだろうか?―今になってそのような疑念が、清田の胸中に生まれた。
それは単に、自分の身勝手な自己満足に過ぎないのではないか?
この幼子が、自らの死を望んでいる訳でもなく、苦しみに満ちていても最後まで生を全うしたいというのならば、それは甚だお節介な行為に他ならない。
だが、分別のある大人でも難しいその判断を、十年も生きていない子供が下せるというのか?―実際、このような思考のループは一種の逃避に過ぎないのは自覚していた。
事実、介錯をせず、このまま天命に任せて佳奈を死なせ、その後で<奴ら>と化すのを黙って見過ごすという選択肢も無いわけではない。
そうすれば、自らの手を汚さず、自分が傷つく事はない。
この幼子を死から救う事が出来ないのは確定しており、わざわざ“人間らしく”という尤もらしい自己満足を達成する為に、自らの手を血に染める必要もないだろう。
そうとも。この子を介錯しなければいけない必要性が何処にあるのだろう―いや、そんな事は考えなくてもわかっている。
選択肢はたった一つしかあり得ない。
それは最初から決まっていたのだ。
俺に逃避という選択肢はない―仮にこのまま死なせ、この部屋に閉じこめたとしても、<奴ら>となって蘇った小さな女の子の死体が、何時までも生命の法則に反してまで存在するのを許せるのだろうか。
喜びも怒りも哀しみも楽しみもなく、飢餓感に突き動かされるままに徘徊するその姿は、果たして苦痛に満ちた生命を全うした代価に見合うのだろうか。
この子を安らかに逝かせてやる事と、苦痛のままに死なせて徘徊させるのとでは、どちらが為になるのだろうか。
死という結果を変えられないのであれば、その結末の後に待ち受ける運命を考えれば、自ずと答えは初めから用意されていると知るべきだ。
清田は再びナイフを握り直し、静かに呼吸した。
「かなね、ママとパパに会いたいの」
幼子の眠たげな響きの声が、脳にするりと入り込む。
「ママとパパに、早く、会いたいの」
弱々しい力で、ぎゅう、と清田の首に抱きつく。
「おじちゃん…早く、会いたいよぅ」
懇願するようなその声から、清田は全てを察した。
この子は自身の逃れられない死も、両親の死も、全て知っているのだ。
ただ、上手く伝えられるほど成長していないだけであって、己の最後の身の振り方なぞとうの昔に覚悟していたのだ。
こんなに小さな子供が、その辛過ぎる決断を受け入れているという―その事実に、清田は、己の弱さを再認識した。
左手のナイフの握りを確かめ、ゆるゆると持ち上げる。切っ先は、佳奈の盆の窪に向けていた。
呼吸が荒くなりそうになるが、失敗する訳にはいかない。悲しみと苦しみで暴れる動悸も抑え、表面上の平静は保った。
「おじちゃん…ありがとう」
佳奈の安らいだ響きの言葉に、清田は、絶叫したかった。
俺は感謝されるような人間じゃない―反射的に下された命令が、神経を伝って、腕の筋肉の収縮と伸縮を実行させていた。
もはや後戻りは出来なかった。
研ぎ澄まされた白刃は、幼子の軟組織に一切の抵抗を覚えることなく、まるでバターのように滑らかに刀身を埋めた。
握り締めた柄から伝わるのはおぞましい感触だった。ゴリゴリと未発達の組織を切り裂く感覚が、佳奈と接する肉体から伝わってきた。
それは自身のペニスを、彼女の脳に挿入するかのごとく、冒涜的で穢らわしい行為であり、思わず嘔吐感がこみ上げてきた。
だが、此処で中途半端にしてしまっては、無用な苦しみを与えるだけだ―胃を身悶えさせながら、清田は白刃を幼子の脳へと突き進めていった。
ナイフの切っ先は、延髄ごと脳幹を正確に刺し貫き、苦しみを欠片も与えることなく、佳奈に安らかな最後を与えた。
肉体に異物が挿入される感覚から反射的に、最後の時を迎えた佳奈が、清田の襟をぎゅっと握り締める。
その肉体にもはや魂は宿っておらず、物理的な反射行為に過ぎないのだが、清田にはそれが、本当は生きる事を望んでいた佳奈のささやかな抵抗のように思えた。
小さな体が強張り、やがて、筋肉の弛緩と同時に脱力し、息を吐き出すというよりも、その肺が萎んで空気が抜けていった。
ぐったりと生気の抜けた幼子の肉体は軽く感じた―清田は放心状態のまま、佳奈の後頭部からナイフを引き抜き、取り落とした。
僅かに血と体組織の付着したナイフが、フローリングの床に突き刺さる。
刀身から伝い落ちる幼子の無垢な血が、清田から永遠に魂の純真を奪い去った瞬間だった。
泣くことも叫ぶことも、何もする気も起きなかった。
必要に迫られたとはいえ、子供を殺害してしまったという事実が、清田に心身喪失を齎すには充分すぎた。
敵を殺す為の訓練を施されているとはいえ、彼は子供を殺す為の訓練は欠片も施されていなかった。
その真実の前には、長く積み重ねてきた殺人を合理化するプロセスも、何ら作用しなかった。
†††
冴子は焦っていた。
早くあの場にいかなければ、何か取り返しのつかないことが起きるのではないかと―何故か学園での“喪失”が思い起こされ、胸に鉛のような重みを感じた。
「鞠川校医、こっちだ」
冴子は早足で歩き、静香を先導した。
「ちょっと毒島さん。慌てないで」
その後ろに続く静香は、妙に焦っている冴子を窘めた。
二人は土足で上がり込み、階段を上がって幼子を発見した部屋に足を踏み入れた。
冴子は、異質な雰囲気に既視感を覚えていた。
つい先ほどまで部屋の明かりがついていたのに、今は消されている。
加えて、ベランダから差し込む町の灯りに浮かび上がる、彫像が床の上に出現していたからだ。
彫像はゴテゴテとした物々しいもので、床に座り込んでいる―それが誰であるのかは、考えなくても分かった。
「清田さん…?」
明かりの消えた部屋の中、微動だにしない清田の姿に、冴子は背筋に薄ら寒いものを感じた。
それは静香も同様であり、彼女の背後でどうしていいのか分からずに固まっていた。
取り敢えず、灯りをつけねば―事態の把握に努める為、冴子は照明のスイッチを入れた。
ぱっと照らし出されるその光景に、二人は絶句した。
床に座り込んでいる清田は、タオルケットに包まれた物を抱き締めたまま、呆然と虚空を見つめていた。
タオルケットに包まれた、血を滲ませた幼児ぐらいの人型のそれが何であるのかを、二人は直接目で確かめなくても理解できた。
遅かったか―冴子は苦渋に満ちた表情で、彼の選択した行動に胸を痛めた。
静香はただ口元を手で抑え、衝撃的な結末を傍観するしかなかった。
「清田さん」
冴子は座り込む清田に歩み寄り、その直ぐ傍に膝を折り敷いた。
清田は傍らの冴子に構わず、微動だにしない―と思われていたが、音もなく、彼女の方を振り向いた。
冴子は息を呑んだ。
まるで先程とは別人のように変わり果てたその瞳は、深く沈んでおり、焦点が定まっていなかった。
「きよ…」
冴子が言葉を発しようとすると、清田が片手を上げて制止した。
その手は麻薬の切れた中毒患者のように病的に震えていたが、抑えきれない感情の発露が身体に現れているが故だった。
「何も、言わないで…」
震える声は、まるで何かに怯える子供のようで、それが痛々しくて冴子は思わず目を伏せた。
あんなにも強く、逞しく、全てを薙ぎ倒して進む重戦車のような男が、今は完全に小さく萎れている。
冴子にはそんな清田の姿が衝撃的であると同時に、彼の選択した判断はこの場にあっては限りなく人間的で、自らが傷つくのを厭わない献身的な行為だと思った。
清田武という男は、本当ならば兵士には向いていないほど優しい男なのかもしれない―何となくだが、冴子にはその精神性が垣間見えたような気がした。
「この事は…」
清田は震えを抑えきれない手で、ゴーグルを目許に戻した。
「もうケリがつきました…ただ」
そして一拍置いてから、清田は亡骸を抱えて立ち上がった。
「俺には、悲しみを感じる資格はないという事です」
その声は抑揚に欠け、感情を無理矢理押さえつけているのが感じ取れた。
清田は幼子の亡骸を抱えたまま、その場を後にした。
出て行くその背中に向かって、静香と冴子は掛ける言葉が見つからなかった。
†††
腕に抱えた亡骸は殊更に軽く感じた。
佳奈という幼子の魂は消失し、その抜け殻である肉体だけが遺された。
同時に、清田の魂の純潔も失われ、彼は子供殺しという事実を一生背負っていかなければならなかった。
俺は理由は何であれ、子供を殺した―その事実が、彼の心に重くのし掛かる。
頭では、この行いが必要だったのは理解している。
自らが汚れるのを恐れて、幼子の死すら冒涜する結末を看過していたとしても、同様な思いに駆られていただろう。
どっちに転んでも、精神の十字架を背負う事は確定していたのだ。
だが、必要な事だったと自らに言い聞かせたところで、子供殺しの事実は変わらない。
無抵抗な子供を、ただの弱り果てた子供を、最後にポカリと母親の卵焼きが食べたいと望んだ子供を、ナイフで脳をかき混ぜて殺した。
何をしても許されるものではないだろう。甘んじて全てを受け入れる準備はできていた。
清田は亡骸を抱えたまま、庭に出た。
外気は纏わりつくように重く、橋の方からは止む事のない喧騒が聞こえてきた―風に乗って、人ならざる犠牲者の呻きも。
今、こうしている間にも、罪なき善良な人々が死に、佳奈と同じような子供がいるのだろう。
それらに対して何もしてやれるものでもないというのは承知している。だが、歯痒い気持ちは変わらなかった。
おいおい。お前はまだ正義漢ぶっているのか?―皮肉たっぷりに己を嘲笑う。
歯痒い気持ちになっているつもりだろう?止めろよ、そうやって善人の振りして、本当は違うくせに―何が違うというのだと、清田は自らに問い掛ける。
今日一日で殺した連中に対して、欠片も罪悪を感じない所か、心の片隅では習い覚えた技術を正確に駆動させる事が出来たのを、喜んでいたというのに―それはその子も例外ではないだろう?
正確な角度と力加減で瞬時に絶命させた事に対して安堵すると同時に、微かな達成感と喜びを覚えていた筈だ―それは確かに一理あると、清田は素直に認めた。
もし失敗して、無用に苦しめてしまったらどうしようという恐れはあった。
失敗して、自分の所為でもがき苦しみながら死ぬ子供を目の当たりにしたら、恐らく二度と武器を持とうという気概は沸き起こらなかっただろう。
今の清田は、充分にそうする必要―彼が武器を手に血路を開くのを望む人―があると認識している上で、再び自信を持って戦う気力がある事を、喜んでいた。
それが贖罪の為なのか、自己満足の為なのかはさておき―彼は、まだ逃げるつもりはなかった。
ひとまず、清田は随分と軽くなった小さな亡骸をそっと地面に横たえ、庭の片隅に置かれていた物置へと足を向けた。
物置の引き戸を開け、目当ての物を探し出し、再び亡骸の傍へと戻った。
手にしたシャベルを地面に突き立て、足で押し込み、土を掬い上げる。
銃火器と戦闘装備を身に付けたままなので、酷く動き辛く、途端に汗も吹き出てきたが、清田は構わず地面の掘削を続けた。
直ぐに子供一人を埋めるには充分な広さと深さの穴を掘り終わったが、清田は思い直し、再び掘り続けた。
身に着けている衣服という衣服が、汗を吸って途轍もなく重く感じる。
流石にこのままでは作業効率が悪いと気がつき、清田は上着と戦闘装備の全てを脱ぎ去り、一心不乱に土を掻き出し続けた。
滴となって鼻先からぽたぽたと汗が伝い落ちる。
春先とはいえ夜は冷え込むというのに、清田の広い背中からは湯気が出ていた。
滝のように流れ落ちる汗を拭う為、清田は作業の手を一旦休め、難燃繊維のシャツの袖で顔を擦った。
だが、拭っても拭っても、汗は止まらない―いつの間にか、目から零れ落ちる涙もそれに加わった。
顔面の穴という穴から液体を垂れ流し、嗚咽を漏らしながら、清田は半狂乱になって穴を掘り続けた。
無理にでも体を動かし続けなければ、今すぐにでも潰れてしまいそうだった。
立ち止まっていると、考えたくもない事を考えてしまうのが、堪らなく怖かった。
†††
冴子の目には、狂ったように墓穴を掘り続ける清田の姿が痛ましく映った。
だが、それは、方法は違えど、冴子も身に覚えがあるものだった。
彼女の場合は、木剣を振るい続け、ただの剣鬼へと変貌する事である事実から逃避していた。
それはこの場にあっては、唯一、静香が知るのみだが―今は、それから逃避する為に、敢えて彼と同じ事をするのも良いだろう。
冴子は踵を返し、ベランダを後にしようとした。
「毒島さん。何処へ行くの?」
だが、その背に静香からの問いが投げかけられる。
「決まっているだろう」
振り返る事なく冴子は答えた。
「男の誇り(プライド)を守ってやる事こそが、女たるの矜持(スタイル)なのだ」
冴子は木剣を置くと、ベッドからシーツを剥ぎ取り、階段を下りて廊下に出て、手近な死体―彼女よりも小柄な女性―にそれを被せた。
「んん…!」
そして死体の血に汚れるのも構わず、ぐったりと重いそれを渾身の力を込めて抱き上げ、ふらふらと覚束無い足取りで庭へと向かった。
幾ら冴子が平均的な高校生女子よりも背が高く、常日頃から心身を鍛えていようとも、生気の抜けた死体を抱え運ぶのは大変な重労働だった。
だが、直ぐにその重みが半分となった―見れば、静香が死体を抱え運ぶのを手伝ってくれた。
「私だって大人なのよ? 頼ってくれてもいいんじゃないかしら?」
そして、せーのと息を合わせ、二人は庭へ出た。
†††
絶対此処にある筈だ…!
耕太は、頑丈なロッカーの扉にバールを差し込み、渾身の力を込めてこじ開けようと奮闘していた。
静香の友人宅で休息を取る為の準備を終え、清田と冴子が戻ってくる間、耕太は色々と物色していた。
自衛隊仕様のメガクルーザー、つまりは高機動車を所有している人物がただ者である筈もなく、何か役に立つものがあるのではないかと二階の寝室を焦っていると、無数の実弾が保管されているロッカーを発見したのだ。
そしてロッカーはもう一つあり、それには鍵が掛かっていた―耕太からすれば宝箱のようなそのロッカーは、何としても開けて中身を確かめる価値があった。
「あ、あがああ…!!!」
だが、悲しいかな、日頃の運動不足が祟ってか、はたまた今日という一日で体力を使い果たしたのか、耕太は背中の筋肉を釣らせて床の上で悶え苦しんだ。
筋肉が限界以上に突っ張るそのなんとも形容し難い激痛に喘ぎながら、やはり一人では無謀で、清田の力を借りれば良かったと後悔していた。
そうして彼がのたうち回っていると、外から物音が聞こえてきた。
規則的なそれは、ざく、ざく、と土を掘るような音であり、耕太は何事かとベランダの外に出て確かめた。
庭では、見慣れぬ大柄な青年が地面に穴を掘っていた。
耕太は暫くしてその人物が清田である事に気がついた。今の彼は素顔を晒しており、戦闘装備も外した身軽な格好をしていた。
戦闘服の上着も脱いでおり、汗を吸い込んだシャツが鍛え抜かれた上半身に纏わりつき、隆起した筋肉の陰影を浮かび上がらせていた。
清田は黙々と、何処からか見つけてきたシャベルで穴を掘っていた。
一体何をしているのだろうか―耕太のその疑問はすぐに解決した。
見れば、白いシーツに包まれたものが、清田の直ぐ傍に並べられていた。それは人型をしており、中身が何であるかの察しがついた。
数は全部で十―内ひとつは、明らかに他よりも小さい―あり、清田はそれら全てを埋める為の穴を掘っていた。
こんな状況下で、彼は死者を埋葬しようというのだろうか―見れば清田だけではなく、耕太を除いた全員が死者を弔う為に働いていた。
耕太は皆と合流するべく、慌てて外に出た。
†††
「す、すみませーん!」
耕太が息を切らしながら作業に合流する。
「遅いわよデブチン! ほら、さっさと掘る!」
清田と共に何時の間にかシャベルを振るっていた沙耶が、耕太に別のシャベルを突き出すように渡した。
シャベルを受け取った耕太は、清田の横で掘削に従事した。
既に全員が泥や血にまみれていたので、耕太は身綺麗な自分が恥ずかしくて、がむしゃらに動き回った。
ざくざくと土を掘る音、声ならぬ亡者の呻き、大橋からの喧騒が聞こえ、奇妙な雰囲気の中で全員が同じ作業に没頭していた。
恐らく、全員がある種の連帯感を覚えただろう―やがて人を埋めるには充分な広さと深さの穴を掘り終わり、二人一組となって死者を一人ずつ安置していった。
最後に一際小さな亡骸は、清田自らが抱え上げ、そっと置いた。
そして全員で土を掛けていったが、土を一掬いごと掛ける度に清田は顔を辛そうに歪めているのを冴子は見逃さなかった。
埋葬し終わり、最後に京子が見つけてきた線香を焚き、全員で手を合わせ、死者の冥福を祈った。
それは自己満足に過ぎない行為かもしれないが、まるで当然のように死が我が物顔で闊歩する世界の中にあっては、人間が人間らしくある為の必要な儀式だった。
清田は、いまだ安らかな眠りにつく事の出来ない、哀れな死者達に向けても厚く手を合わせ、祈りを捧げた。