ホットスパーズ ~命知らずの騎士と二人の女神~ 作:公私混同侍
薄幸
一六三二年、神聖ローマ帝国は
ゲルマの白い肌は長く続く戦いからか、土埃を被ったように汚れており革の上着から見える肌着はくたびれている。薄茶色の長ズボンは膝から下にかけてボロボロになっている。
ヴァレンは鼻息を荒げ酷く憤っていた。
ヴァレン「生温い!このような勝ち戦が何故十年以上も続くのだ!いつまで俗物の顔色をうかがわねばならんのだ!」
俗物とはおそらく皇帝のことであろう。
ゲルマ「落ち着け。
ヴァレン「俺を誰だと思っている?この国に俺より優れた軍師なぞ存在せん!」
ゲルマ「ああ、そうだったな」
ヴァレン「おい!」
ゲルマ「なんだ?」
ヴァレン「あの話はどうなった?まさか破談に終わったと抜かすならここで首を掻っ切るぞ」
ヴァレンはゲルマの腰に納めているナイフに手をかけた。
ゲルマ「今からヤツの元に向かう。次の作戦までには間に合わせる」
ヴァレンは舌打ちをした。壁に立て掛けてある長剣を手に取り机の上に置く。
ゲルマはふてぶてしい態度で宮殿の外に出た。待機していた愛馬に股がり走り出す。ウィーンを後にしひたすら平原を駆けた。
ヨーロッパ大陸は戦火の真っ只中。そこかしこで火の手が上がり、銃声が鳴り、
馬は銃声に慣れているのか、それとも主人を信頼しているのか足を止めることはない。
ゲルマは傭兵稼業で生計を立てている。小さい時に母は
ヴァレンはそんな気の毒な少年を引き取り、立派な兵士に育て上げた。ゲルマにとって唯一の親であり、血の繋がりはなくともヴァレンの夢を叶える事が自身の幸せでもあった。利用されていることも重々承知している。たとえ命を落としたとしてもヴァレンの野望を叶える為ならば悔いはない。ゲルマはそう自分に言い聞かせていた。
馬を走らせてから一時間経ち、川が見えてきた。突然足を止める。
ゲルマ「なぜ止まる?」
馬は一点を見つめたまま微動だにしない。ゲルマは警戒した。近くに人の気配がしたからだ。
ゲルマ「余計な事を考えるな」
馬に語りかけているが反応している様子はない。すると、何かを見つけたように歩き出した。ゲルマは降りて辺りを見回す。
川沿いに佇む一つの影。しゃがみながら何かを描いている。黒く長い髪がそよ風に揺れた。透き通った瞳は光を受けた川が煌めいているようだ。馬はその人物の前で足を止めた。女性は神経を集中させているのか、こちらに気づいていない。
ゲルマ「おい」
ライナ「……」
馬「ふぅー!ふぅー!ブルルルル!」
ライナ「えっ!?なに!クマ!」
ゲルマ「馬だ」
ライナ「もうビックリしたじゃない!今大事なところなんだから邪魔しないで!」
ゲルマは理不尽な態度に思わずナイフに手をかけてしまった。すぐに自分を律するように馬を撫でる。
ライナ「名前はなんて言うの?」
ゲルマ「オレはゲルマだ」
ライナ「あなたの名前なんて聞いてないわよ」
ゲルマ「馬は馬だ。名前はない」
ライナ「じゃあワタシがつけてあげるわ」
ゲルマ「くだらない――行くぞ」
ゲルマは一瞬、ライナが大事そうに抱えているキャンパスに目を向けてしまった。
ライナ「え?ワタシの絵を見せてくれたら名前をつけてもいいって?そんなこと出来るわけないじゃなーい?」
ライナは口元をキャンパスで隠してる。
ゲルマ「絵ごときに興味はない。それに金にならない」
ライナ「ほら見ていいわよ」
ゲルマ「人の話を聞け」
ゲルマはぶつぶつと文句を言いつつキャンパスを奪い取る。キャンパスには川を中心に描かれており、上部分は鬱蒼と森が生い茂っているごく普通のデッサンだ。ただ一点を除いて。
ゲルマ「気持ち悪い女だ。存在しないものを描くのが絵というものなのか?」
ライナは目をギラギラさせている。良い質問だと言わんばかりだ。
ライナ「よく気づいたわ。あなた芸術の才能があるんじゃない?」
ゲルマ「オレを馬鹿にするな。どこに熊がいるんだ?森から出てきたのか?」
キャンパスには森から熊がひょっこり顔を出している姿がはっきりと描かれている。
ライナ「ウフフ、そんな恐い顔しないで。これはもし絵を描いてる時に熊に出会ったらっていう想像よ」
ゲルマ「いや、死ぬだろうな」
ライナ「細かいわね。その時はその時よ」
ゲルマは我にかえった。
ゲルマ「こんなとこで油を売ってる場合ではない」
ライナ「油絵は描けないわよ」
ゲルマ「チッ、面倒くさい女だ」
ゲルマは馬に股がる。視線の先には山がそびえ立つ。
ライナ「う~ん!こんなにお喋りしたの久々だわ!」
ゲルマは手綱を引こうと腕に力を込めた。
ライナ「ワタシ、ライナって言うの!忘れないでね!」
ゲルマは馬を走らせた。後ろを振り返る。ライナは小さくうずくまっていた。顔が見えなかったが構っている時間がもったいない。ゲルマは一心不乱に山を駆け抜けた。
平坦な道に戻り殺風景な景色が続く。さらに一時間ほど走ると目的地に到着した。大きな町ではないものの津々浦々から商人が行き交い、酒場や商店は多くの人々で賑わっている。
ゲルマは馬から降り教会に向かう。誰かが大きな扉の前に立っていた。ゲルマにはまだ気づいてはいないようだ。
ゲルマ「カイン、申し訳ない。予期せぬ足止めをくらってしまった」
カイン「足止め?跡をつけられたのか?」
ゲルマ「いや、熊に出くわした」
カイン「もっとましな嘘はつけないのか?」
ゲルマ「熊の皮を被った女だったかもしれない」
カイン「……それなら信じよう」
二人は教会の中に入っていった。太陽は既に沈んでいる。
この教会はカインが所有している。この町で知らないものはいない大貴族である。金の集まるところに目がなく、芸術家のパトロンもしている。
カインは以前ゲルマを身辺を警護してもらうため雇った経緯があり、その縁からか二人は意気投合し酒を飲み交わす中になった。
カインは木製の椅子に腰かけ聖書を開いた。
カイン「いつになったらこんな無益な争いが終わるんだろうか」
ゲルマ「この国からオレのような人間がいなくなるまでだ」
カイン「いかにもキミらしい答えだ」
ゲルマ「だが、この戦争はオレだけの問題ではない」
カイン「ボクは戦争屋なんて嫌いだ。でも戦争を否定することは人の歴史を否定することにもなる」
ゲルマ「難しい事は分からない。だが、オレは死ぬのが怖いと思ったことはない」
カイン「ボクには兵士の気持ちなんて理解出来ないが、キミの気持ちを否定しようとも思わないな」
ゲルマ「ずっと気になっていたんだが、どうしてオレを信じてくれるんだ?」
カイン「キミはヴァレンのような権利欲にまみれた男とは違うからだよ。逆に聞きたい。どうしてキミはあの男の言葉に耳を傾ける?貴族生まれの分際で傭兵稼業にまで手を出すなんて、どこまで手を汚せば気がすむんだ?」
ゲルマ「ヴァレンは常に高みを目指している。ヴァレンなくして帝国の繁栄はあり得ない」
カイン「そうか、それがキミの本音か」
ゲルマ「ち、違う!オレはこんなことを話したかったんじゃない!」
カインはゲルマの動揺する姿に高笑いした。
ゲルマは落ち着きを取り戻そうとステンドグラスに目を向けた。
キトンを纏った女性が両手を広げている。カインにはその表情が戦乱の世を憂いているように見えたに違いない。
カイン「キミはボクと違って金にも女にも興味がない」
ゲルマ「……」
カイン「だけど夢はある。そうだろ?」
ゲルマ「取引がしたい。皇帝軍は財源の確保に躍起になっている。カインの力を貸してほしい」
カイン「見返りは?」
ゲルマ「オレの……命だ」
カイン「断る」
ゲルマ「そうか」
カイン「だが、このまま手ぶら帰ってはキミの立場が危くなってしまう」
ゲルマ「カインはオレの大切な親友だ。望みとあらばこの命に代えても叶えてみせる」
カイン「ボクが望む見返りはただ一つ。この近くに小さな村がある。その村を戦火から守ってほしい」
ゲルマ「何故だ?」
カイン「ボクがパトロンをしている芸術家が住んでいるんだよ。まだ無名の絵師なんだけど、才能を見込んで援助しているんだ」
ゲルマ「了解した」
ゲルマは即答すると踵を返し外に出た。
カイン「今日はもう遅い。すぐ近くにボクの別荘がある。誰もいないから使ってもらって構わない」
ゲルマ「お心遣い、感謝する」
賑やかだった町は静寂に包まれていた。